フローラ派です!!(ココ大事)
戦いに勝敗があるように、恋愛にも勝敗は存在する。
惚れた相手と、愛した相手と、必ず結ばれる。世界はそれほど美しくできてなどいない。幸せとは、常に誰かの不幸せの上に成り立つものであり、誰もが望むハッピーエンドなんて、幻想でしかないのだから。
それでも人は求めてしまう。愛することを。愛されることを。例えその先に不幸が待っていると分かっていながらも、求めずにはいられない。
だって……それはとても美しいから。
誰もが、その気持ちに魅了された。誰もが、その気持ちに狂わされた。〝恋〟という過程に。〝愛〟という結末に。
酷い話だろう。〝愛〟という輝きに魅了される者が増えれば増えるほど、犠牲の数は山のように積み重なっていく。誰かが幸せになる度に、別の誰かが傷つくことが避けられない。
まさに……愛に満ちた残酷な世界。
この物語は、そんな残酷な世界で夢と憧れを胸に戦った一人の乙女のお話。
それは、勇者の父であり、一国の王でもある伝説に語られる魔物使いの物語ではない。
それは、天空の民の血を引き、勇敢なる青年と結ばれ、勇者の母となった女性の物語ではない。
それは……ただ選ばれなかった。たったそれだけの〝差〟で、愛の敗北者と成り果てた彼女の……〝失恋〟までの物語だ。
*****
彼女にとっての[さいしょ]。それはとある港からだった。
[ビスタ港]。そう呼ばれる田舎の小さな港。まだ女性と呼ぶには若く、幼い彼女はそこにいた。
「おや、フローラ、デボラ。船が見えたよ」
田舎にはあまりにも場違い感のある豪勢な衣装を身に纏ったふくよかな男性が、港に近づく一隻の大きな船を見つけ、穏やかな様子で呟く。
男の名はルドマン。[サラボナ]という町で大富豪として名を知られる男である。そしてそんな彼の足元には二つの小さな人影。青と黒。髪色こそ異なるが、そっくりな容姿の少女達がいた。
「遅過ぎ! 足がもうクタクタよ!」
不機嫌さを一切隠すことなく、声を荒げる黒髪の少女の名はデボラ。キッチリと整えられた艶のある黒髪と、派手な赤色のワンピースを着たその姿はまるで人形のよう。だがそんな可愛らしい外見とは裏腹に、傲慢そのものを体現した強気な性格を併せ持つ少女だ。
デボラは文句を吐き捨てながらルドマンの腹の肉を力強く摘まむ。子供の力であるから痛みこそないが、ルドマンは娘の八つ当たりに疲れたようにため息を吐く。我儘な子ほど可愛いとはよく聞くが、それにも限度があるだろう。彼はここまでの旅でそれを深く、とても深く実感させられていた。
そして、デボラに続く形で、〝彼女〟も声を漏らす。
「……わあ、大きな船」
海のような青い髪を持つ少女――フローラが迫る巨大な船に瞳を輝かせる。
姉のデボラとは対照的に落ち着いた雰囲気を持つ彼女だが、まだ幼い子供だ。純粋な好奇心で迫る豪華で巨大な船から目を離せずにいた。
しかし彼女はまだ知らない。この後、自らの人生を大きく揺るがす運命と出会うことを。
フローラは、父と姉の二人と共に続けていた長い旅を終え、故郷の[サラボナ]へ帰るため、この[ビスタ港]を訪れていたのだ。驚くべきはルドマンの財力。まさに今見えた巨大な船。それが船員まで含めての〝私物〟。流石は大富豪といったところだろう。
実際、その財力のおかげでこの魔物蔓延る世界にも関わらず、フローラ達の旅は呆れるほどに平和であった。豊富な食事。豪華な宿。安全な馬車。雑用を任せられる現地の案内人。危険がまるでない旅路。彼女達の旅は、もはや旅行に近い。
それから、そう時間もかかることなく船は三人の待つ港で止まり、船員から板が渡される。真っ先に動いたのは、やはりデボラだ。
「邪魔よ、どいて」
「こ、こら……デボラ!」
前にいたルドマンとフローラを横に退けてズカズカ進んでいくデボラは、そのままの勢いで船に乗り込んでいく。海が近いことによる危険や父親の忠告など一切考えない悪い意味で豪快な娘に、ルドマンは再び頭を抱えるしかない。
ルドマンとしては、デボラもフローラと同様におしとやかな女性に育てるつもりであったのだが、一体どこで教育を間違えてしまったのか。
お転婆な姉と子育てに悩む父。見慣れた光景にフローラはクスリと笑みを浮かべた。そんなフローラを見て、ルドマンの方も穏やかに頬を緩ませ、手を差し出す。
「さあ、行こうか」
フローラはルドマンに手を引かれ、先に船に乗り込んでしまったデボラを追って歩いていく。だがいざ船に乗ろうとしたところで、一つの問題が発生した。
「う……うぅ……」
「おや? フローラには、この入口は高すぎたかな?」
渡された板と船との段差が意外にも高く、小柄なフローラでは乗り越えられなかったのである。普段は大人しか乗らないのだから、船員達もうっかりしていたのだろう。
「どれ、私が手を貸しましょう」
そんな時だった。船に乗り合わせていた筋肉質の髭を生やした男性がフローラを抱え、船の上へと乗せてくれたのは。
突然のことによる驚きと、父以外の男性に初めて抱っこされたという事実に、フローラは一瞬戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
「あ、ありがとう……」
「これは、旅のお方。ありがとうございました」
ルドマンと共に頭を下げ、視線が下に向かったからだろう。フローラは筋肉質の男性に隠れるように立っていた一人の少年とちょうど目が合う。
それは、とても不思議な感覚だった。
紫色のターバンとマントを纏う少年。彼とは初対面であるというのに、フローラはその瞳にどこか引き込まれるような、見ているだけで心が安らいでいくかのような感覚を覚えていた。不思議と、目が離せない。
フローラが少年のことをジッと見つめていると、当然少年の方もフローラを見つめ返す。そして一秒にも満たない静寂のあと、彼はまるで独り言のように小さく呟いた。
「……綺麗な名前」
「……? っ……!?」
それが自分へ向けられた言葉であると気づくのに、フローラは多少の時間を必要とした。そして気付くと同時に顔を真っ赤にして、恥ずかしがってルドマンの後ろに隠れてしまった。
微笑ましい子供達のやりとりに、大人達は揃って笑い出した。
「ははは、私の娘を口説くとは、なかなか見る目のあるお子さんですな!」
「わはは、そうでしょう! 我が息子ながら手が早い!」
大人達から向けられる温かい視線に、今度は少年の方が父親の背後へと羞恥に顔を赤く染めて隠れだした。子供とはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
『綺麗』。フローラにとって、それはこれまで何度もかけられてきた言葉だった。両親に溺愛され、故郷の人達にも甘やかされてきた彼女からしてみればそれこそ聞き飽きるほど、耳にしてきた単語のはず。
しかし同じ年頃の、それも異性に言われたのはこれが初めての経験だったのだ。
少年の顔が見れないほど視線がぶれ、顔が熱くなっていく。そして同時に、彼女は自身の胸の内に小さな〝熱〟が生まれたのを感じた。
その〝熱〟が一体なんなのか。幼いフローラにはまだ分からない。でも嫌な気持ちはしなかった。
自分自身に起きた異常に、フローラは困惑する。しかし、そうこうしている内に、あっさりと別れの時はやってきた。
「じゃあ、船長! 随分世話になった……身体に気を付けてな!」
少年が父親に手を引かれ、船を降りていく。
「あの、また……」
咄嗟にフローラは声を絞り出した。しかし、既に少年との距離は遠く離れている。大人にとっては数歩の距離でしかないが、幼いフローラにとってはそれはとても遠いものだった。
それでも、きっとフローラの声が届いたに違いない。船を降りた少年は父に手を引かれながらも、振り向く。そして遠ざかっていくフローラへ向けて、少年は小さく、だが確かに手を振った。
「……ぁ」
フローラの胸が締め付けられたかのように痛む。心臓の鼓動は激しく高鳴った。分からない。理解できない。でもその感情は嫌じゃない。複雑な気持ちのまま、フローラもその小さな手を振って返す。
そしてフローラ達を乗せた船は出航する。しかし、彼女の手は少年の姿が見えなくなるまで降ろされることはなかった。
こうして、彼女は彼と出会った。それは、フローラという少女の人生が、確かに動き始めた瞬間でもあるのだった。
*****
運命に導かれたような出会いから月日は流れ、フローラは美しい女性へと成長した。
有名な占い師からの予言を受け、表向きには『花嫁修業』という名目で修道院に預けられた彼女は、長い年月を経て、これまで以上に清く、そして美しい心を手に入れた。それは、本職のシスターですら、彼女に尊敬の念を抱くほどに。
しかし彼女も人間。どれだけ時が経とうとも色褪せない〝欲〟は持ち合わせていた。
毎夜、何度も星空を見上げては、彼女はつい願ってしまう。
『父の船で、一度だけ会った男の子に、また会えますように』と。
その感情が一体どのようなものなのか、彼女はついぞ理解できなかった。しかしその想いは、どれだけ時が経とうとも収まることなく、むしろ増していくばかり。たった一度の出会い。しかし彼の存在は彼女の胸に強く刻まれていたのだ。
そして厳しい修道院での修行を終え、サラボナへ帰って来たフローラのことを誰もが歓迎した。父も母も、幼馴染のアンディやその両親。大勢の住民達。デボラだけは本当に一言しか挨拶しなかったが、皆がフローラの帰りを喜んでいた。
しかし良いことづくしでもない。花嫁修業から帰ってきたフローラはあまりに美しく、大富豪の娘という肩書は大き過ぎた。美しい妻と一生遊んで暮らせる資金。そのどちらも手に入るのだ。若い男達によるフローラへの求婚は収まることがなかった。
他の誰でもないフローラ自身が結婚を拒んでいたことと、ルドマンによる門前払いで彼女に辿り着く者こそいなかったが、それでも増え続ける求婚者達にルドマンが痺れを切らすのは時間の問題だったのだろう。
やがて、ルドマンは町中にフローラの結婚相手を募集することを発表した。……
それはいい年頃のフローラに対する彼なりの思いやりだったのだろう。だが『親の心子知らず』とはまさにこのこと。これまで父の言う通り生きて来たフローラが初めて父への反発を決意した日だった。
ちょうどそんなタイミングだった。彼女が、運命との再会を果たしたのは。
「待って、リリアン! 誰か! お願いです! その犬を捕まえて下さい!」
フローラは日課として愛犬のリリアンと共に散歩を行っている。しかし、何故かその日はリリアンが突然、興奮した様子で走り出したのだ。咄嗟に追いかけるフローラだが、彼女のドレスにも似た服では全速力の犬には到底追いつけない。
このままでは町の外に出てしまう。フローラが焦ったタイミングだった。リリアンはギリギリのところでタイミングよくサラボナを訪れた青年に捕まえられた。というより、リリアンの方から青年に擦り寄っていったのだ。
「はあ、はあ……。ごめんなさい。この子が、突然、走り出して……」
青年のおかげでやっと追いついたフローラだったが、飼い主である彼女よりも初めて会ったはずの青年に懐くリリアンに思わず口に手を当てて驚愕する。リリアンは繊細なのか、デボラは勿論、父や母にだって素直に言う事を聞かない。
そんなリリアンが何故? そう思ったフローラは顔を上げ、目の前の青年を視界に入れた瞬間、言葉を失った。
(……この、お方は)
その瞳を見ると、どこか引き込まれるような、そして心が安らいでいくかのような錯覚を覚える。彼女は
(あの時の……まさか、本当に?)
ずっと願い続けていたことが現実になった。それは嬉しい。とても嬉しいことだ。少なくとも、フローラにとってはそうだったのだろう。しかしフローラは気付いてしまった。彼の瞳が、以前のようにただ純粋なものではなくなっていたことを。
以前と同じ、優しい瞳をしている。しかしそこには確かな、苦しみや絶望という、負の感情が見て取れた。
(貴方に一体、何があったというのですか?)
本音を言えば、フローラは今の気持ちを彼に伝えたかった。『お久しぶりですね』と、例え覚えられていなくとも言葉にして言いたかった。
だが彼の僅かに濁った瞳に、喉まで出かかった言葉が止まる。
「……あら、嫌だわ。私ったら、ボーッとして。本当にごめんなさい」
だからこそ、彼女は自分の感情を押し殺した。彼に何があったのか、フローラが知るはずもない。しかしそれは間違いなく、酷く辛いことであったはずだ。
そんな相手に、「昔、お会いしたことを覚えてますか?」などと自分本位な言葉をかけられるほど、彼女は図太くはない。
フローラは自分が持つ過去の想い出を彼に押し付けることを避けるべく、初対面のフリをすることにしたのだ。
「またお会いできたら、きっとお礼をしますわ」
フローラはそれから特に深い話をすることもなく、別れの言葉を告げるとリリアンと共に屋敷へ戻っていく。本心を言えば、もっと話したかっただろうが、フローラにもやらねばならないことがある。
一人名残惜しさを感じながらも、一方的な運命の再会を終えたフローラが屋敷へ戻ると、声をかけてくれた父をも無視し、自室へ戻った。
「……」
フローラが無言でベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。そして、
「~~~ッ!?!?」
声にならない叫びを上げ、淑女らしくもなく脚をバタバタと動かして悶えだした。
先程は抑えていた感情が膨れ上がる。フローラの胸の内側で心臓が激しく脈動を繰り返す。実のところ、青年と再会できた時点で彼女はもう跳ねて喜びたいくらいには歓喜していた。先程は外であるというのと、青年の瞳を見た影響で耐えられていただけで、自室というプライベートな空間に来たことでその感情が爆発したのだ。
ずっと、ずっと願い続けてきた夢が叶った。嬉しくて堪らないに決まっている。
「……え、なにしてんのよ、フローラの奴」
まあ、偶然フローラの部屋の前を通りかかったデボラがその光景を目撃し、普通にドン引きしていたが。
化粧も気にせず、真っ赤になった顔を枕に擦り付けていたフローラは確信する。きっとこの出会いは運命なのだと。自分と彼はそういう運命で繋がっていたのだと。
「……」
そこで、悶えていたフローラの動きがピタリと止まる。
「そうですわ。もう一度、お父様と話をしませんと」
脳裏に過ったのは、ルドマンが進めていたフローラの結婚話。きっと今頃、一階の応接間では集まった結婚希望者達にその条件が説明されている頃だろう。この大陸のどこかにあると言われる[炎のリング]と[水のリング]。二つの指輪を手に入れろという、とても危険な条件を。
フローラにはまだ結婚はしたくないという気持ちは確かにある。だがそれ以上に、自分のために誰かが傷つくことが耐えられなかったのだ。だから、なんとしてもこの結婚の話を自分が止めなければならない。彼女はそんな使命感に突き動かされていた。
「ふう……行きましょう」
フローラは覚悟を決め、自室を出て階段を下り、婚約者候補達と父の話に割り込んでいく。
「待ってください!」
その強気な言葉に、父であるルドマンと婚約者候補である四人の男性の視線が彼女に集まった。
「フローラ! 部屋で待っているように言っただろう」
ルドマンは言い聞かせるように言うが、フローラも一切引くつもりはない。
「お父さま。私は、今までずっとお父さまのおっしゃる通りにしてきました。でも、夫となる人だけは自分で決めたいんです」
これまで父に反抗することが一切なかったフローラが強く、硬い意志を持ってルドマンに言い返す。これだけは譲れないと。そして婚約者候補達にも納得してもらおうと、声をかけた。
右から、道具屋の主人。サラボナで暮らす青年。そして幼馴染のアンディ。
(アンディ……やっぱり……)
アンディはフローラに笑みを向けると、フローラは強い罪悪感に襲われたような困った顔を見せる。彼女は他人の好意に気付けないほど鈍い女ではない。だからこそ幼馴染のアンディがこの場にいることに驚きはない。だが自分の為に彼が危険な目に遭うことは許せない。
そして……最後に先程出会った青年。
「…… ……」
フローラの思考が真っ白に染まる。
(……えっ?)
言おうと思っていた言葉が全て吹き飛び、フローラは考えの纏まらない頭でなんとか言葉を口にする。
「……あなたも私の、結婚相手に?」
青年が静かに頷く。
「まあ……」
つい先程まで強い覚悟を持っているのを感じ取れたフローラの顔がみるみるうちに赤く染まっていき、決意も少しずつ薄れていく。もし父親がこのまま無理矢理結婚の話を続けるのなら、逃げたって構わない。本気でそう思っていたというのに、『彼が相手であれば……』なんて都合の良い考えが頭の片隅に浮かんでしまう。
理由はどうあれ、覚悟が一度でも揺らいでしまえば、フローラはもうルドマンに押し切れなかった。ルドマンは婚約者達との話を強制的に終わらせ、フローラと二人きりになると、自分がどれだけ娘のことを想っているのかを力説し始める。
しかし、フローラの方は内心はそれどころじゃない。
(え? ……えええ!? あ、あのお方が私の……私のことを!? ど、どうしましょう。お父さまを説得しないといけないのに……。ああもう! 私の優柔不断っ!?)
結局、フローラによる父の説得は失敗に終わった。
*****
フローラの結婚相手に求める条件をルドマンが発表してから、数日が経過したある日。心配するフローラを他所に、例の青年はなんと[炎のリング]と[水のリング]。その両方を持ち帰ってきた。
これには提案したルドマン本人でさえ驚愕しただろう。
[炎のリング]は溶岩の流れる危険な洞窟にあり、[水のリング]に関しては居場所すら不明。それをほんの数日で集めて来るなどとてもじゃないが信じられない。実際、フローラの幼馴染であるアンディも挑戦こそしたが[炎のリング]が眠る洞窟の一番浅い層で酷い怪我を負い、断念する他なかった。
そんな彼をルドマンは酷く気に入り、例え[水のリング]が手に入らなくとも、フローラの結婚相手として認める気でいたし、正直フローラの方も満更ではなかった。
――[水のリング]を手に入れてきた彼と一緒にいた女性の顔を、目にするまでは。
「……そちらの、女性は?」
震える声でフローラは問いかけた。
「え? 私? 私はビアンカ。ただの幼馴染で……さあてと! 用も済んだことだし、私はこのへんで……」
まるで逃げるように早口でそう喋る女性の顔に、フローラは既視感があった。いいや、実際に何度も鏡越しに見たことがある。
一度出会った少年との再会をただ望んでいた己の顔。鏡越しに見ていたあの顔と、ビアンカという女性の表情が重なったのだ。
(……ああ、彼女はきっと、あの方のことが好きなんだわ)
フローラはなんの疑いもなく、そう確信した。そして同時に、自分がこれまで彼へ向けていた感情もまた〝恋〟なのであると、ようやく実感する。
ならばこのまま流れに身を任せていればいい。そうすれば、自分の恋は成就する。誰にも邪魔されることなく。望んでいた幸せが手に入る。それを、フローラは分かっていた。……分かっていたというのに。
「お待ちください!」
――
フローラだって分かっている。自分がどれだけ無益なことをしているのかを。その勇気は蛮勇ですらない愚かな行為だということも。それでも彼女は見て見ぬふりなんて出来なかった。
だって知ってしまったから。何も知らなければ、それこそ確実に幸せになれただろうに。フローラは誰かの幸せよりも自分の幸せを望むには、あまりに不器用過ぎた。
「もしや、ビアンカさんは彼をお好きなのでは……? それに貴方もビアンカさんのことを……。そのことに気づかず、私と結婚しては後悔することに……」
「あのね、フローラさん。そんなことは……」
まるで確信しているかのように語るフローラにビアンカは否定の言葉を告げようとする。だがそこでフローラは『やっぱり』と確信を強める。
他の誰もを騙せても、修道院でたくさんの人を見てきたフローラの目は誤魔化せない。一瞬、ビアンカがとても辛そうな顔を見せたことを、彼女は見逃さなかった。
とはいえそんな話がその場で纏まるはずがない。ルドマンは青年にフローラとビアンカ。どちらと結婚するのか。翌日の朝までに決めてもらうよう提案し、結果は先送りにされるのだった。
*****
深夜、ふとフローラは目を覚ます。
寝つきの良い彼女にしてみれば珍しいことだが、それも仕方ない。結婚とは人生を大きく左右するもの。そんな人生の転換期が、もうすぐ傍まで近づいているのだから。あと数時間後には、あの青年がこの屋敷を訪れ、答えを告げる。
……フローラに出来ることは、待つことのみ。
「ああ、私は……ずっと貴方に、恋をしていたのですね」
いつものようにフローラはベランダから夜空を見上げ、一人呟く。
ただ今日はいつものように祈ったりはしない。だって、もう夢は叶ったのだから。『あの男の子にもう一度会いたい』その願いは叶えられた。それ以上を望むのは、欲張りだろう。
そう、祈りはしない……が、恋を自覚したフローラには新たな願いが生まれていた。ただそれを星空に祈るのは違う。彼女はそれをよく理解していた。あくまで選ぶのは彼。奇跡でも、星でも、神でもない。
だから今は、この星空を見て心を落ち着かせていたい。理由なんて、そんなものだった。
「あら……」
その時だった。もう夜遅い時間だというのに、屋敷に近づく人影をフローラが見つけたのは。そして目を凝らすまでもなくその見覚えのある姿から彼女は誰であるかを瞬時に把握する。
「へっ? ど、どうしてあのお方が?」
反射的にフローラはベランダから部屋に戻って身を隠した。彼女の視界に映ったのは、もしかしたら未来の夫となるかもしれない青年の姿。何故こんな時間に、そもそも何をしに。そんな疑問が頭の中をグルグルと回る。
だが同時に、彼も自分と同じで眠れなかったのだと思うと、自然と口元が綻んだ。恋心とは、単純なものである。
驚いたかと思えば笑みを浮かべ、フローラがコロコロと表情を変えていると、突如『ガチャ』という家の扉を開く音が確かに響いた。
「……え?」
なんで勝手に入って来たのか? という困惑など当然ない。この世界において、家族でもない他人が勝手に家へ入ってくるなど珍しくもなんともない。ただ彼女の中には、何故? という疑問だけが渦巻いていた。
彼は何故、この屋敷に訪れたのか。
フローラは静かに自室の壁に耳を当て、聞き耳を立てる。当然、一階の声など微かにしか聞こえてこないが、少ししてから階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「っ……」
息を呑むフローラだが、彼がフローラの部屋に入ることはなく、そのまま別の部屋の扉を開ける音だけが彼女の耳に届いた。
フローラが恐る恐る扉を開ける。すると廊下の奥、父の部屋の扉から僅かに光が漏れていることに気が付いた。顔だけ廊下に出して左右を見渡し、人がいないことを確認すると彼女は自室から足を踏み出す。そして青年が向かったであろう父の部屋を半開きになった扉の隙間から覗き込んだ。
「しかし、本当に二つのリングを手に入れるとは大した男だ。私はキミが気に入ったよ! 例え娘を選ばなくても、結婚式は私に任せなさい」
部屋の中では、青年が父と話していた。
満足気な様子で話すルドマンとは対照的に彼は少し照れたような。しかしどこか複雑そうな笑みを見せている。ただ話を盗み聞いていたフローラは父の『例え娘を選ばなくても』という発言に、ちくりと胸の奥が痛むような感覚を覚えた。
(お父様……)
フローラだってよく分かっている。父はああいう性格だ。だからこそ、ここまでの地位と信用を築けてきた。しかし今は、そう言って欲しくなかった。フローラがビアンカを止めてしまったからこのような状況になってしまったわけだが、父には自分が選ばれることを望んで欲しかった。
あまりに自分勝手な我儘。だがそんな祈りが届くはずもない。やがて話が終わろうとした時、ルドマンはふと思い出したかのように青年へ告げた。
「そうだ。せっかくだからフローラにも声をかけていくといい。あの子もきっと明日を待ち遠しく思っているはずだろう」
「……!」
瞬間、フローラの背筋に悪寒が走る。覗き見しているところがバレたとしても、ここはフローラの家であるのだからなんの問題もないのだが、今の状況で彼と顔を合わせる勇気が今のフローラにはなかった。
咄嗟に父の部屋から早足で離れて自室に戻ると、彼女はベッドに潜り込み、寝ているふりを始める。
数十秒後、『ガチャ』と扉を開く音が静寂を裂くように響く。
「すー、すー……」
眠ったフリを継続するフローラに青年の足音が近づいてくる。その音が大きくなるたびに、彼女の胸は激しく高鳴り、冷や汗がダラダラと流れ出す。
「……」
彼は何も言わない。その無言の時間が、フローラの心を更に掻き回す。今さら、実は起きてたなんて言えるはずもない。心臓の音が外に漏れだすのではないかと思うほど鼓動を早める中、彼はようやく口を開いた。
「フローラさん……」
それだけ言って、青年はその後何かを言うこともなく。フローラの部屋を去っていった。
「……」
しばらくして、一人残された自室でフローラは静かに上半身を起こす。
彼女は敏い娘だ。分かったのだ。分かってしまったのだ。あの一言に込められた彼の本当の気持ちに。ただ何も言わず、フローラは呆然と虚空を見つめる。
「っ……」
その頬には、一滴の雫が流れ落ちていた。
******
「フローラとビアンカさんの、どちらか本当に好きな方にプロポーズするのだ」
翌朝、ルドマンの低い声が屋敷中に響く。ついに、その時が来てしまった。
唐突過ぎるデボラの乱入やノータイムでルドマンが告白されるというハプニングこそ起きたものの、フローラはその時を待ち続けていた。結果を、分かっていながら。
やがてそう間もなく、フローラの前に彼は立った。
「えっ……?」
一瞬、ほんの僅かに喜色を浮かべて顔を上げたフローラだったが、それはすぐに淡い希望なのだと悟る。
「……ごめん」
それが、彼の答えだった。
……
……
……
花嫁に選ばれたのは、ビアンカだった。
結婚式はすぐ。その日の内に行われることから、青年は山奥の村へ[シルクのヴェール]を受け取りに向かい、フローラはビアンカを花嫁衣装に着替えさせる手伝いを自ら名乗り出た。
花嫁の名に相応しい純白のウエディングドレス。それは美しい黄金の髪を持つビアンカとは非常に相性が良く、まるで絵画のような美しさすら感じられる。同性のフローラですら、見惚れてしまう。そんな絶対的な美しさが今の彼女にはあった。
「え、えっと……こういうのに慣れてなくて、似合ってる……かしら?」
「はい! とても似合ってますわ。ビアンカさん」
クルリと回り、頬を赤らめながらビアンカがドレスのスカートを翻す。それにフローラは満足気な笑顔で賞賛した。しかし、ビアンカはそんなフローラの笑顔を見るとほんの僅かに表情を曇らせる。
「……ねぇ、本当にいいの? フローラさんだって本当は――」
「それ以上はいけませんわ」
フローラがビアンカの想いに気付いたように、ビアンカの方もフローラが誰を好きなのか、出会った時には分かっていた。ビアンカもまた、前日の夜に本心を隠してまで彼に『フローラさんと結婚した方がいいに決まってる』と口にしたお人好。嬉しいことではあるが、彼女には選ばれてしまった罪悪感もあった。
しかしフローラはそんなビアンカの口に人差し指を当て、言葉を止める。
「貴女は彼を愛していて、彼も貴女を愛していた。それだけですわ。私が入り込む余地なんて、最初からありませんでした」
少し寂しそうに、悔やむように、フローラは語る。それでも彼女は笑顔で告げた。
「……だから、笑ってください」
フローラがビアンカの両頬を優しく摘まみ、左右に引っ張る。
「自分は今、この世界で一番幸せなんだって心から思える最高の笑顔で、私が羨むくらいの結婚式にしてください。……そして、どうか私の分までお幸せに」
フローラの言葉にビアンカは唖然とする。しかし、すぐにその言葉を胸に刻み、彼女は自分の両頬を軽く叩く。そしてビアンカはフローラに見せるのだった。
「ええ、ありがとう。フローラさん」
太陽にも思える輝かしい笑顔を。
*****
結婚式は[サラボナ]の教会で行われた。二人は本当に心の底から幸せそうに愛を誓い、指輪を交換し、口づけをかわした。見ている側もつい微笑んでしまう。そんな幸せいっぱいの結婚式。まさにそう言えただろう。
フローラもそんな二人の姿を見て、嬉しそうな笑顔を見せていた。
……仮初の、上っ面だけの笑顔を。
それに気付けた者はきっといない。誰もが、フローラは心の底から純粋な気持ちで二人の幸せを望んでいるのだと、本気で思い込んでいた。彼女が自分の気持ちを必死に押し殺し、二人に祝福の言葉を贈っていることなど、思いもしなかっただろう。
そう、フローラは必死に、自分の感情を押し殺して無理矢理笑顔を作っていたのだ。二人に祝福の言葉を贈る時でさえ、その笑みを崩すことなく。
しかし、そんな誤魔化しが永遠に続くはずもない。
夜まで続く結婚の祝いの最中、自室に戻ったフローラはベッドに腰を下ろす。
「……っ。……ぐっ…ぐすっ……」
そこでついに、これまで堪え続けてきたものが溢れだした。
「ひっ、ひぐっ……ぐすっ……」
フローラの瞳からとめどなく涙が零れ落ちる。堪えようとしても止まらない。一度流れ出したそれは、フローラの意思でも止められなかった。
静寂に満ちた屋敷の中でフローラが涙を流す音だけが静かに響いた。
そんな時だった。一つの声がフローラに届いた。
「なにコソコソ泣いてるのよ。みっともない。あんたそれでも私の妹なの?」
「え……デボ、ラ…姉さん?」
「はあ……他に誰がいんのよ」
涙でぼやけた視線を上げると、そこにはデボラがいた。開いた扉に背を預け、呆れたような目線をフローラへ向ける彼女は、そのままフローラの座るベッドに近づいてからズカッと豪快に腰を下ろす。
涙を拭うことも忘れ、フローラが唖然としていると、デボラは意外な行動を取った。
「まったく、世話が焼けるわね」
彼女はスカートのポケットから派手なハンカチを取り出すと、それでフローラの涙を優しく拭き取った。黄金の刺繍が入った真っ赤なハンカチ。いかにもデボラが好みそうなそれで、フローラの涙が拭かれていく。
その姿は、まさに妹を慰める姉の姿。
「……馬鹿ね。自分からチャンスを捨てたくせに、泣くほど悔しがるなんて」
「それ、は……」
デボラの言葉にフローラは言葉が詰まる。
事実だ。[炎のリング]と[水のリング]が届けられた時、フローラがビアンカを止めてさえいなければ、余計なことを口にしていなければ、きっと今頃、花嫁として祝福されていたのは彼女の方だったはず。その機会を自身の手で手放したのだ。馬鹿と言われても反論のしようがない。
「……そう、かもしれません」
しかし……
「でも間違ってたとは、思いませんわ」
フローラは顔を上げ、確信をもって断言する。
フローラの判断は確かに最良のものではなかったかもしれない。事実、今傷ついているのは彼女の方なのだから。
それでも『好きな人同士が結婚するべき』というフローラの理想そのものが間違いであるはずがない。例えそれが綺麗事だとしても、そんな綺麗事が彼女にとって何より大事なのだから。
それ故に、彼女は後悔しない。泣くほど悔しくても、後悔だけはしなかった。そしてそのフローラの気持ちを、デボラは聞くまでもなく分かっていた。
デボラはこれまで、フローラに対して姉らしいことはほとんどしてこなかった。それどころか、関わりすら薄かったと言ってもいいだろう。しかしそれでも、彼女以上にフローラを側で見てきた者もいない。我儘で自分勝手なデボラだが、彼女は世界の誰よりもフローラを理解している姉なのだから。
「あっそ、あんたがそれで納得してるならいいわ。じゃあいい加減メソメソしないでちょうだい。私の部屋まで聞こえてきて耳障りなのよ」
「え? でもデボラ姉さんの部屋は三階でここは二階――」
「耳障りな・の・よ!」
「は、はい!」
デボラの圧にフローラの声が裏返る。反論は許さない。彼女はそういう女性だ。
「ほんっとうに鬱陶しいから。これは仕方なく…そう、特別にこのデボラお姉様がありがたい言葉をあげるわ。二度は言わないからよーく聞きなさい?」
ハンカチで涙を拭き終えたフローラは自然と背筋を伸ばす。そんな彼女にデボラは言った。
「いい、フローラ。あんた以上の女なんてこの世にはこの私以外にいないわ」
「……はい?」
フローラが思わず首を傾げる。
何故いきなりそんなことを言い出したのか? という疑問と、もしかして今自分は褒められたのか? という困惑が瞬時に頭を過る。
デボラが他人を称賛、もしくは認めることなどまずありえない。彼女は傲慢という概念が服を着て歩いているような存在だ。他人を見下し、友を見下し、親ですら下に見る。そんな彼女が誰かを褒めるなど、パルプンテで天変地異が起こるよりもありえない。父であるルドマンですら、そう断言することだろう。
そんな彼女が妹とはいえ、他人を女としての器で認めた。それがフローラには信じられなかったのだ。まあ、自分よりは下みたいだが。
「何よ、ボケッとして。当たり前じゃない。あんたは私の妹よ。そこらの女に負けるはずないわ。あんな田舎娘が相手なら尚更ね」
彼女の言う田舎娘とはビアンカのことだろう。確かに大富豪の娘である二人からしてみれば山奥の村で暮らす彼女は田舎娘かもしれないが、あまりの言い方にフローラは苦笑いを避けられない。
「だからいい。あの田舎娘が選ばれて、あんたが選ばれなかった理由なんて一個しかないわ」
「はい。分かってます」
ビアンカが選ばれ、フローラが選ばれなかった理由。そんなのフローラが誰よりも分かっていた。あの二人には、そう簡単には切れない絆が、愛があった。ただそれだけ。しかしデボラの答えは、フローラの想定を斜め上に行くものだった。
つまり、
「あの男に見る目がなかっただけよ!」
「…………は?」
デボラらしいといえばらしいが,あまりの暴論にフローラは思わず目を丸くした。
「幼馴染? 一緒に旅してた? ハッ、下らないわね。そんなちっぽけな理由であんたを選ばない男の方に問題があるのよ。そもそも何? 婚約者に指輪を届けるのに女を同伴させるって……普通に浮気じゃない」
呆然とするフローラを置いて、デボラの口からは不満がベギラマのように溢れ出す。それこそ、自分の内側に不満をしまい込んでしまうフローラの内心を代弁するかのように。
「というか私を選ばない時点で女を見る目がないのよあの男は。フローラを選ぶならまだしも、あんな貧乏臭い女を選ぶとか。顔だけじゃなくて目も小魚なのかしら」
酷い言い草だが、それはデボラなりの優しさだった。自分の気持ちを抑えがちなフローラの代わりに,彼女は怒っていたのだ。正反対な性格な姉にしかできない不器用な優しさ。その優しさをフローラが気付けないはずもない。
デボラのバギクロスのように苛烈な言葉の嵐は続く。
「何が気に入らないってあの男、結局家宝目当てじゃない。どこに誠実さがあんのよ。あんなの気に入ったパパは馬鹿じゃないの?」
「ビアンカって女も同じよ。幼馴染だからって男が婚約者に会いに行くのに着いて来るって……気まずくなるのが分からないのかしら?」
「ああもう、思い出してたらイライラしてきたわね……フローラ。あんたもあっさり引きすぎ。泣くほどお悔しいならもう少し粘れなかったの? 奪ってやるくらいの覚悟見せなさいよ」
次々と放たれる言葉の節々からは、強い怒りが感じられた。姉として、妹を泣かせた相手を許したくない。そんな優しい怒りの感情をフローラは感じ取っていた。
だからこそ、それがどうしようもなく嬉しくて、ありがたくて、耐えきれなかったフローラはデボラの胸に飛び込むように抱きついた。
「ちょっ!? あんたいきなり何をっ――」
「っ……デボラ姉さん。ありがとう…ありがとう、ございます。少しだけ……このままで、いさせてください……」
「…… ……」
涙を流しながら抱きついてきた妹を、流石のデボラも押し返せなかった。呆れたように、だがどこか嬉しそうに、デボラは大きいため息を吐く。そしてデボラは優しげな手つきでフローラの頭を撫でる。
「今回だけよ」
「……は、い」
それからフローラはデボラに全てを吐き出した。以前、船の上で出会った一人の男の子にずっと恋をしていたこと。修道院にいる間もずっと再会を望んでいたことを。そして、それがあの青年であったことを。
その話を、デボラはただ聞いていた。
「ぐすっ……ずっと、ずっと好きだったんです」
「……そう」
堪え続けてきた本音が漏れ出していく。
「悔しい、です。私も……私の方が、好きだったのに」
「……そうね」
仕方がないと塞いでいた感情が姉の優しさによって開かれていく。
「なんで…なんで……私じゃないのですか。……うっ…ううっ……」
「ええ、本当にそうね」
そしてついに、フローラが押さえ込んでいたものが決壊する。
「ひぐっ……ぐす……わ、たし…は……!」
「今は……好きなだけ泣きなさい」
フローラはデボラの胸に顔を押し付け、涙を流した。そしてそんな妹をデボラは優しく抱きしめる。
彼女の鮮やかな装飾で飾られた洋服がフローラの涙で汚れていくが、デボラが気にした様子はない。ただ暖かい瞳で、泣き続ける妹を慰め続けていた。
その声は、未だ外で行われている結婚の祝いの音に掻き消され、他の誰かに届くことはなかった。父や母、今日の主役である二人も含めて。
この瞬間は紛れもなく、フローラとデボラ。姉妹だけの時間だった。
*****
あの日から、あっという間に五年の月日が経過した。
「フローラ、こんな夜遅くに風邪を引くよ?」
ルドマンが所有する別荘のベランダで星空を見上げていたフローラに一人の青年が声をかけた。小さく微笑み、フローラは彼の方へと振り返る。
「……ええ、ごめんなさい。
彼の名はアンディ。フローラの幼馴染であり……今は
運命に選ばれなかったあの日からも、フローラへの求婚者が絶えることはなかった。いいや、むしろ増えたと言ってもいいだろう。ただ彼女はその全てを断っていた。
失恋したばかりでまだ結婚する気分になれなかったこともあるだろうが、何より彼女の心の中には未だ〝彼〟がいた。そんな気持ちでは夫となる男性に迷惑がかかると、彼女は考えていたからだ。
ルドマンもそんなフローラの気持ちを尊重し、無理に結婚相手を選別することもなく、デボラも睨みを利かせて気に入らない男を追い返していた。
しかし、アンディだけは諦めなかった。
何度も何度もフローラへアタックし、やがてフローラの方が折れ、彼を受け入れたのだ。決め手となったのはあの言葉だろう。
『君の心に誰がいようと構わない。いつか必ず僕に振り向かせてみせる』
彼は、自分以外の誰かを想うフローラを肯定したのだ。
それから二人は結婚式を挙げ、ルドマンの別荘で共に暮らしはじめた。……まあ、最初はフローラが元々暮らしていた家でアンディと共に暮らしていたのだが、何があったかは黙っておくとして、デボラのせいで別荘で暮らすことになったわけだ。
しかし、結婚してからもフローラは稀にこうして星空を見上げては思い出す。彼に恋していたあの甘い一時を。
「…… ……」
屋内に戻る前に、フローラはもう一度星空を見上げる。しかし、以前のように願うことはない。ただジッと見つめ、寂しげな顔で視線を下げた。
「……戻りましょう」
そして彼女は屋内へと戻るのだった。頬を流れる一滴の雫の存在に、自分ですら気付かずに。
こうして、彼女の物語は終わる。
世界の平和も、人類の幸福も関係ない。花のように美しい彼女の恋は、失恋という形で幕を閉じたのだった。
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