1988年5月。エンテベからロンドンへと向かう航空機内に、一人の年若い魔法使いの姿がある。
彼はウガンダで古い友人であるナツァイ・オナイと会っていた。100年前と変わらぬ少年の姿である彼に対して、彼女は痩せ細り、年老いていた。けれども、その目や声に宿る芯の強さは昔と変わらない。
彼はおそらく最後になるであろう、ナツァイとの会話を思い返す。
——君の探してた人がもうすぐ見つかる。君にとって懐かしい家の子だよ。今はまだ微かだけど、いつか暗闇を照らす強い光になるかもしれない。その光が消えてしまわないように、守ってあげて——
昔を懐かしむ会話の最後に告げられた、予言のような言葉。
懐かしい家、と言われて彼が真っ先に思い浮かべたのは、自分と同じ緑のローブを纏った二人の友人だった。——久しぶりにその子供達の様子を見にいくのも良いかもしれない。
彼はイギリスへ戻った後の予定を思い描きながら、目を閉じる。
ハンプシャー州ビューリーの外れに佇む赤レンガ造りの一軒家。
温かい午後の日差しが差し込む一室で、少年は借り物の杖を握っていた。不安げな表情を浮かべる少年とは対照的に、柔らかな笑みを浮かべて少年の母は杖を構える。
「サム、リラックスして。大丈夫よ、杖の軌道も呪文もばっちりなんだから、きっと上手くいくわ」
「私に続いて」そう言って彼女は目の前に置かれた小さな羽に向かい、歌うようにレヴィオーソと唱える。少年——サミュエルに見せるためにゆっくりと振られた杖が美しい弧を描き終えると同時に、卓上の羽はふわりと浮き上がった。
母の視線がサミュエルへ向けられる。目が合うと彼は逃げるように、机に置かれたもう一枚の羽へ視線を落とした。
次は俺の番だ——サミュエルはいつの間にか強く握りしめていた杖をそっと握り直して、深呼吸する。そして母に教わった通りの軌道で杖を振るい、澱みなく呪文を紡ぐ。
もしかしたら今回こそ上手くいくんじゃないか。サミュエルは心の片隅でそんな希望を抱いた。杖の動きも、呪文の発音も完璧だと、そう思ったのだ。
しかし、羽はぴたりと動きを止めたまま、浮き上がることはない。
失敗したと分かった瞬間、サミュエルは無性に叫びだしたい欲求に駆られた。泣いて、喚いて、何もかもをめちゃくちゃにしてしまいたい——そんな想いで胸が詰まって、結局何も吐き出せないまま、静かに杖を置いた。
俯いたままのサミュエルに、母は努めて明るく声をかける。
「……今日はこれくらいにしてお茶にしましょう?ホグワーツ入学までまだ一年もあるんだから、きっと——」
「悪いけど」
サミュエルは繰り返し聞かされた根拠のない「大丈夫」を聞きたくなくて、母の言葉を遮った。
「もう、放っておいてくれないかな」
喉から絞り出すようにそう吐き捨てる。サミュエルはようやく顔を上げて母を見た。
違う、傷つけるつもりじゃなかった——それを素直に口にできたならどれだけ良かっただろう。サミュエルは彼女に背を向けて部屋を出ると、そのまま階段を駆け上がる。
名前を呼ばれた気がしたが、振り返ることはできなかった。
二階の自室に戻りベッドへ身を沈めると、主人の帰りを待ち侘びていた黒い蛇が、サミュエルの元へ寄ってくる。
「おにいちゃん おかえりー」
「……ただいま、ベリー」
シュー、と蛇語で名前を呼んでやれば、彼女は嬉しそうに腕にじゃれついてくる。それを見てサミュエルの顔に少しだけ笑みが浮かんだ。
ベリーは数年前にサミュエルが拾った真っ黒な蛇だ。庭にあるブラックベリーの木の下から這い出てきた彼女はまだ小さく、鉢合わせたサミュエルをじっと見つめてきた。
生きてる蛇なんて初めて見た——恐れ知らずだった当時のサミュエルは、好奇心のまま蛇へ手を伸ばす。そして、蛇がどこか幼い声色でシューシューと話すのを聞いた。
「いじめるの?」
驚いたサミュエルは思わず手を引っ込めて、辺りを見渡した。少し離れた場所には母がいたが、彼女がこうした悪戯を好む人ではないことは分かっていた。視線を蛇に戻すと、また同じ声が聞こえる。
「いじめない?」
「ごめん、いじめるつもりじゃなかったんだ」
反射的に謝ったサミュエルは、自分が蛇と同じ言葉を話したことに気がついて唖然とした。どうして蛇と話せるのか——どれだけ思考を巡らせてもそれらしい理由が思い浮かばなかった彼は、もう一度蛇に話しかけた。
「どうして俺と話せるの?」
蛇は人間のような仕草で首を傾げる。
「どうしてー? わかんない」
「えっと、君は魔法が使える蛇……だったりする?」
蛇は反対側に首を傾げた。
「むずかしいこと わかんない」
幼い蛇だからなのか、どうにも要領を得ない返答だった。サミュエルは困ってしまって、大人の助けを借りることに決めた。
「俺について来てくれる?」
きちんと伝わっただろうかと心配するサミュエルをよそに、蛇はあっけらかんとして「いいよー」と答える。足元へやってきた蛇はサミュエルが両手を差し出すと、警戒する様子も見せずにその中に収まった。
サミュエルは母の元へ急ぐと、彼女に伝えた。
——蛇と会話ができる、と。
母は思いの外驚かなかった。というのも、サロウ家は稀に蛇と会話できる人間——パーセルマウスが産まれる血筋だと知っていたらしい。曾祖父や大叔父も同じだったとか。
結局、両親や祖父に蛇と話すところを見せるために連れてきてしまったその蛇にあまりにも警戒心がないものだから——庭に放したら数日後にはそこらの猫に襲われて死んでいるんじゃないか、と心配になったのだ——サミュエルは家族に頼んでそのまま飼うことにした。ブラックベリーの木の下にいたからベリー、と名付けて。
パーセルタングは闇の魔術と結びつけられることが多い。だからパーセルマウスであることを外で知られてはいけない——そう両親は忠告してきたものの、家の中でサミュエルとベリーが親しげに過ごすことは咎めなかった。
サミュエルはベリーに本で読んだ話をあれこれと聞かせてやったり、庭で捕まえてきた蛙を手ずから食べさせてやったりした。そのうちにベリーはサミュエルのことを「おにいちゃん」と呼ぶようになり、サミュエルはそれを喜んだ。両親もそんな二人を温かい目で見てくれていた。
その時はまだ、家族とも普通に話せていたのだ。
サミュエルが8歳になった頃から、皆の様子が変わった。ある日の夜、偶然目が覚めてしまったサミュエルは何か飲もうとキッチンへ向かっていた。彼はその道中でリビングに灯りがついていることに気がつく。最初は消し忘れだと思ったが、近づくと中からは話し声が聞こえてきた。両親と祖父の声だった。
もう8歳になるのに——そう聞こえて心臓が嫌に跳ねた。自分のことを話している、そう思ったサミュエルは、見つかる前に部屋に戻った方が良いという気持ちとは裏腹に扉の前から動けなくなっていた。
「あの子、まだ魔法が使えないなんて……。どこか良くないところがあるのかしら……」
「お前から見てどうなんだ。聖マンゴの癒者が息子の不調も見抜けないなどとは言うまい」
「父さん、そんなこと言わないでくれよ。正直専門外なんだ……。けど、あの歳になってもまだのようなら……もしかしたらあの子は魔法が使えないのかもしれない」
父がそう言った瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。スクイブ、と呼ばれる魔女と魔法使いの間に生まれながら魔法が使えない人々がいることはサミュエルも知っていた。けれど、自分がそうだとは可能性すら考えていなかったのだ。魔法を使える兆しがなくとも、そのうち使えるようになるものだとサミュエルは本気で思っていた。
「他の癒者にも見せてみたらどうなんだ?」
「……そうだね、詳しい人がいないか明日にでも聞いてみるよ」
「どうしましょう、あの子がスクイブなんて……お父様たちになんて言ったら……」
母の啜り泣く声がした。これ以上聞きたくない——サミュエルはふらつく足取りで、逃げるようにその場を離れた。
自室に戻ったサミュエルは、自分の呼吸が浅くなっていたことに気がつく。ベッドで体を休める気にもなれず、扉の前で膝を抱えるとぎゅっと目を瞑った。
聞きたくないと思ったはずなのに、階下でどんな話をされているのか気になって仕方がなかった。スクイブなどいらないと明日にでも家を追い出されたらどうしよう——サミュエルの心は不安で押し潰されそうになっていた。
「だいじょうぶ?」
暗闇の中からベリーが顔を出す。手を差し出してやれば、器用に腕を伝ってあっという間に首元まで登ってきた。
「あめだよー」
ベリーにそう言われてサミュエルは自分が泣いていたことに気づく。彼女はサミュエルが泣いている理由を推し量るどころか、泣いていることすら理解出来ていないらしい。それが可笑しくて彼は思わず笑ってしまった。
「……うん、そうだね。きっとすぐに止むよ」
「あめ いなくなったら またカエルたべれるねー」
それを聞いてサミュエルはまたくすくすと笑う。雨上がりの庭にカエルが沢山出てくることは覚えたようだ。ベリーの変わらない無邪気さに、サミュエルは少しだけ救われた。
次の日の朝は、皆が普段通り過ごしていた。けれど、それが表面的なものであるとサミュエルには分かっていた。そうして、夕方には父が同僚を連れて帰ってきた。父の同僚の男はサミュエルにあれこれと質問をしたり、杖を振ったりしては何かを悩むような顔をする。そして「お父さん、お母さんと話してくるから待っていてね」とサミュエルを一人残して両親の元へ行ってしまった。
サミュエルは扉に近づいて、両親と癒者の会話に聞き耳を立てる。
「どこかが悪いわけでもなし、呪いの痕跡もなし、本人の話を聞くに心理的なものでもなし。悪いけれどお手上げだよ。子供特有の感情に誘発される魔法すら使えた試しがないとなると……言いにくいが、スクイブの可能性が高い」
「そう、か……。わざわざ来てもらってすまないな、信頼できる同僚の意見を聞けてよかったよ」
「いや、どうすることもできなくて悪いね」
スクイブの可能性が高い——直接告げられた訳でなくとも、癒者のその言葉はサミュエルの心に暗い影を落とした。
しばらくして、サミュエルにはマグルの家庭教師がつけられた。父は「何かあった時のため」と言っていたが、むしろこのまま何も起こらなかった時、マグルの学校に行けるようにそうしたのではないかとサミュエルは思っていた。
マグルの勉強をさせ始めた父とは対照的に、母はサミュエルに呪文を練習させ始めた。祖父から杖を借りて、古い教科書に載っている呪文を片っ端から試すのだ。歴史ある純血の家で生まれ育った母にとって、息子がスクイブであるなど、到底認められないのだろう。サミュエルだって本当は魔法を使えるようになりたいと思っている。けれど、その気持ち以上に、呪文を失敗するたびに曇る母の顔を見ることが辛かった。
マグルの世界で生きるという選択肢をくれる父と、魔法を使う手立てを探し続けてくれる母。どちらも優しさ故と頭では分かっていたが、サミュエルは暖かな家が突然針の筵に変わってしまったような感覚がした。
何があっても私たちはサミュエルの味方だと言う両親の言葉が苦しく、魔法を使えない自分のことが憎らしい——。
気がつくと、締め切ったカーテンの隙間からオレンジの空が見えた。少しだけ眠っていたようだ。体を起こそうとした時、ベリーも腹の上に頭を置いて眠っていることに気がついた。サミュエルは仕方なく上体を戻して、ぼんやりと天井を見つめる。
「……俺はスクイブなんかじゃない」
嫌なことばかりを思い出していた気がして、ついそんな独り言が溢れる。眠ってる間くらい温かい夢が見たかった。動くに動けない彼は、現実から目を背けるようにもう一度目を閉じた。
それからしばらくして、10歳の誕生日を数日後に控えたある日。サミュエルはリビングで「子供の魔法力を目覚めさせる方法」というタイトルの本を見つける。母が買ってきたらしい本のうちの一冊だった。
胡散臭い本だ。確かにそう思ったはずなのに、気づけばサミュエルはその本を手に取っていた。
まだ何かできることがあるかもしれない——心の底で抱いていたそんな淡い期待は、本を開いて数秒で打ち砕かれる。本に書かれていたのは、子供を危険な目に遭わせ、追い詰めることで魔法を使わせようといった内容ばかりだったからだ。
一歩間違えば死ぬ可能性すらあるその内容からは、著者の「スクイブであれば死んでも構わない」という思想が透けて見えていた。
母がこれを実行に移そうとしているとは考えられない——否、考えたくない。きっとタイトルだけを見て、自分と同じように藁にもすがる思いで買ってきただけなのだと、そう思いたい。けれども、サミュエルの脳裏には暗い考えばかりが浮かんで消えなかった。
——母さんは俺が魔法使いじゃないって薄々気づいてるんだ。きっと俺が危険な目に遭って死んでも仕方ないって思ってる。スクイブは家の恥だから、消えた方が良いって。
生まれてこなければ良かった。そう思った時、本のとある記述に目が止まる。——スクイブは出生記録が残らない。
途端にサミュエルは肩の荷が降りたような気持ちになった。死にたくない、なんておかしな話だったのだ。サミュエルは初めから生まれたことになっていないのだから。今こうして息をしていることの方が間違っている。
それなら、するべきことは決まっていた。
サミュエルの部屋には、数年ぶりに光が差し込んでいた。明るい場所を嫌った彼はいつもカーテンを閉め切っていたからだ。それがこの日はカーテンどころか窓まで開け放たれている。
「ベリー、君だけが心残りだ。でも、父さんも母さんもきっと君に優しくしてくれる。ここにいて二人に見つけてもらうんだよ」
サミュエルはケージの中で丸まっているベリーに優しく語りかける。
「うん わかったー」
きっと「ここにいて」くらいしか分かっていないのだろう。無邪気な返事に彼は「いい子」と返してカエルを与えようとした。けれど彼女はすぐに食いつかず、じっとサミュエルを見つめてくる。
「いつ かえってくる?」
一瞬どきりとした。どれくらいで帰ってくるのか、それ自体は珍しい質問ではなかった。けれど、サミュエルがこれからしようとしていることを咎められたように感じたのは、彼女に対する後ろめたさのせいか。
「……そのうち、かな」
ベリーはその答えに納得していないのか、依然としてそのビーズのような黒い瞳でサミュエルを見つめる。しばらくそうして見つめあってから、ようやく彼女は視線を外した。
「まってるね」
そう言ってサミュエルの手にすり、と頭を擦り付けてからカエルを受け取り、のんびりと食べ始める。決めたはずの心が揺らぎそうになり、好物に夢中な彼女から目を逸らした。
サミュエルは開け放たれた窓の前に立つ。スクイブでないことを証明するために飛ぶのか、全て終わりにしたいから飛ぶのか、彼自身もよく分からなくなっていた。——どちらにせよ、やることは同じなのだ。深く考える必要はない。
彼は窓から身を乗り出すと、躊躇うことなくその体を前へ傾ける。青い空が遠ざかり、激しい風が頬を撫でた。このまま眠ってしまえば温かい夢を見られるのだろうか。
サミュエルが目を瞑ろうとしたその時、視界の端に自分を見上げている誰かの姿が映る。
——少年と目が合った。
「アレスト・モメンタム」
サミュエルの体は地面と衝突する直前でその速度を急激に落とし、そのまま地面へそっと横たえられた。自分の力でないことは容易に分かった。あの少年に助けられたのだ。落胆と同時に、どこか安堵している自分に動揺しながら、サミュエルは体を起こした。
自分よりも少し年上くらいに見える少年は、穏やかな笑顔を浮かべて声をかけてくる。
「やあ、怪我はない?」
その声はサミュエルの様子など気にしていないのか、転んだ人にでも声をかけるような調子だ。それが無性に腹立たしく思えた。
「どうして俺を助けたの」
「落ちてくるのが見えて危ないなと思ったからね。とりあえず怪我は無さそうで良かった——」
「良いわけない!」
思わず大きな声が出てしまう。少年は目を丸くしていて、玄関の方からは異変に気付いたのか、母が駆けて来ているのが見えた。
「自分の力で助からないと意味ないんだ! 蛇と話せるから何になる? 魔法が使えなきゃスクイブと同じじゃないか!」
見ず知らずの少年に言っても仕方がないことだ。けれど、隠そうとしていた心の内を晒すことも、溢れ出る涙を止めることもできない。
「スクイブとして生きるくらいなら死んだ方がずっといい……」
項垂れるサミュエルに母が駆け寄ってきて、そっと抱きしめる。全て聞いていたのだろう。その手は小さく震えていて、彼女もまた涙を流していることが分かった。
両親が自分の存在を消したがっているだなんて、そんなわけがなかったのだ。サミュエルのことを憎んでいたのも、消えて欲しいと願っていたのも自分自身で、二人を理由にしようとしただけにすぎなかった。
目の前の少年が膝をついた気配がする。彼はまだ自分を放っておいてはくれないらしい。
「君は自分のことをスクイブだと思っているんだね」
サミュエルは思わず顔を上げて少年を睨みつける。しかし、少年の顔には喜色が浮かんでいた。まるでサミュエルに何かを期待しているような、そんな気がして毒気を抜かれてしまう。
「まだ、諦めるのは早いんじゃないかな」
少年が杖を振るう。その瞬間、サミュエルは大地から次々と湧き上がる美しい光の奔流を見た。それらは徐々に寄り集まって、白銀に輝く水のような形へ変わっていく。
そして、音が聞こえた。囁き声にも似たそれは、聞いていると落ち着くような、不安になるような不思議な響きがした。
「何、これ……。何か聞こえる……?」
「サミュエル、どうしたの……?何も聞こえないわ」
サミュエルを抱きしめる母の手に力が籠る。母にはこれが見えも聞こえもしないのだ——そのことに不気味さと少しの高揚感を覚えて息をのむ。そんなサミュエル達の様子を見て、少年は満足げに笑った。
「大丈夫、君はスクイブじゃないよ」
出会ったばかりの彼が、何故そう言い切れるのか。普段であれば「無責任な奴だ」と切って捨てていたに違いない。けれど、全てを見通すようなその眼差しが、彼の言葉に偽りがないことを物語っている。
「僕が君に魔法を教えてあげる」
今、サミュエルの心に微かな希望の光が灯った。