サミュエルは少年を案内する母に続いて客間へ入った。彼は元々サミュエルに用があって来たらしい。
ローテーブルをはさんだ対面の椅子に少年が腰かけ、隣には母が座った。ふかふかとした座り心地の良いソファが、今日ばかりはどうにも落ち着かない。それは少年が見せたあの美しい魔法の正体が気になるからでもあり、身を投げようとした瞬間を見られた上、止められてしまった気恥ずかしさのせいでもあった。
隣に座った母が杖を振ると、一瞬でテーブルの上にティーセットとお茶菓子が並ぶ。ティーセットが勝手に動いてお茶を淹れ始める様子を何となく眺めていると、ふとそれらが母の一番のお気に入りで、普段なら客人にだって使わせないものだと気づいた。
「ありがとうございます、マダム・サロウ。なんとお呼びすれば?」
「ラヴィニアと。こちらは息子のサミュエルです。先ほどは息子を助けていただいて本当にありがとうございました」
「いえ、当然のことをしたまでです」
サミュエルは気まずくなって軽く会釈だけを返した。母には「サミュエル!」と窘められたが、少年はにこやかな表情を崩さない。容姿だけならいくつか年上程度に見えるが、ふとした時に見せる表情や話し方が彼を成熟した大人のように感じさせる。事実、外見通りの年齢ではないのだろう。
「あなたのことはなんて呼べば……?」
尋ねれば彼は「そうだな……」と呟く。そして、やや間を置いてから答えた。
「……僕のことはフィグと呼んでほしい」
フィグ——聞いたことがない家名だ。それは魔法族の家系に詳しい母も同じようで、彼の名前に特別な反応は示さなかった。
「フィグさんはどうして俺に会いに来たんですか? 失礼ですけど、面識はないですよね?」
「うん、僕と君は完全に初対面だよ。一応、君のお祖父さんとは昔何度か顔を合わせていたけれど……覚えているかは分からないな。それから、お父さんと叔母さんにも一度だけ会ったことがある」
「これからよろしく」と笑う彼は祖父の知り合いだったらしい。父と双子の妹についても言及したことから、家のことをそれなりに知ってはいるようだ。確認すればすぐにわかるような嘘を吐くとは考えにくい。想像以上に年上かもしれない、という点を除けば怪しい人物には思えなかった。
「今日、君に会いにきたのはね。君も僕と同じものが見えるんじゃないかって」
「あの白い光のこと?」
食い気味に答えたサミュエルに、彼は頷く。
「そう。察しがいいね」
フィグは紅茶に口をつけて一息つくと、言葉を続けた。
「ずっと僕と同じ素質を持つ人を探していたんだ。生きているうちに出会えて本当に良かったよ」
「……そんなに見つからないものなんですね」
「僕が知っている範囲では、二百年以上前に二人だけ」
サミュエルの中では、自分に特別な才能があることへの期待感が大きく膨らんでいた。
「その魔法、どうやったら使えるようになりますか」
逸る気持ちをそれ以上は抑えきれなかった。サミュエルの問いかけに対して、それまでずっと笑顔を浮かべていたフィグは目を伏せる。
「……あの力は古代魔術と言うんだ。もうほとんどの人が信じていない、強大な力」
何かを思い出し、噛み締めているような静かな声だった。窘められたと思ったサミュエルはバツが悪くなり、目線を彷徨わせるとソファに深く座り直す。
「使い方には気をつけないといけない。だから、この力についてどこまで教えられるかは君の今後次第だ」
フィグは視線を上げると真っ直ぐにサミュエルを見つめてくる。目を逸らすことは許さない、とでも言うようなそれに、思わず背筋が伸びる。
「君が古代魔術を扱うに相応しい人間であること。そして、いつか僕の想いを継いでくれることを期待してるよ」
口調こそ穏やかだが、その言葉には不思議な迫力があった。この人の期待に応えたい——けれども、両親の期待にずっと応えられずにいた自分にできるだろうかという不安がサミュエルを襲う。
そんな不安を拭うように、フィグはパッと表情を明るくした。
「なんて脅かすようなことは言ったけど、力の使い方も心構えもちゃんと教えるから安心して」
「もし、俺になんの力もなかったら?」
彼はそんなこと考えもしなかった、とでも言うように驚いた顔をした。それからわざとらしく「そうだなぁ」と視線を宙に彷徨わせる。
「その時は、君がやりたいことを見つける手伝いでもしようかな」
意外だった。彼は自分と同じ力を持つ者を探しているというのに、仮に力がなかったとしてもサミュエルの面倒を見るつもりらしい。とんだお人好しだ。けれど、その言葉に安心する自分がいた。
「……そうですね、その時はお願いします」
「憂いを除けたみたいでよかったよ」
そうしてフィグは、サミュエルから視線を外すと母の方に向き直る。横目に見た母の表情は真剣なものだった。けれどその目は不安で揺れているようにも思えた。
「ラヴィニアさん、僕はサミュエルに僕が知る限りの知識を与えたい。彼には他の子達にはない特別な才能があります。本人の意思は貴女も聞いた通り……僕が彼の先生として会いに来ることを認めてくれませんか?」
「……危険はないのですか?」
「彼がよりスリリングな冒険を望まない限り」
その答えを聞いて、母の視線がサミュエルに注がれる。不安げな彼女に向かって静かに首を横に振った。——危ないことに首を突っ込む予定はない。今のところは。
「夫とも相談させていただきます」
「ええ、もちろん」
初めから拒否されなかったことにいくらか手応えを感じたのだろう。フィグは柔らかく笑って「今日はこれくらいでお暇します」と立ち上がった。
「話が決まったら梟を送って。君にまた会えることを願ってるよ」
彼はそう言ってサミュエルに手を差し出す。その手を取れば思いのほか力強く握り返された。細かい傷跡がいくつも残る、魔法使いらしくない手だった。
「宛名は? フィグは他にもいますよね」
彼は少しだけ何かを考えると、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「守護者のフィグへ。それならちゃんと僕に届く」
「——守護者?」
「じゃあ、待ってるよ」
サミュエルの不思議そうな声には答えず、フィグは手を離すと姿くらましで消えてしまった。母と二人きりとなった客間に沈黙が落ちる。
「母さん、俺……」
「分かってるわ、サム……。続きはお父さんが帰ってきてからにしましょう」
サミュエルはその言葉に頷いた。
その日の夜、サミュエルは数年ぶりに自分から両親と祖父に声をかけた。
「あのさ、話したいことがあるんだけど……」
それだけで母はフィグの話をすると分かったようで、どこか心配そうな視線を向けられる。父と祖父はサミュエルから声をかけられたことに驚いているようだったが、静かにこちらが話し出すのを待ってくれた。
「今日、俺にお客さんが来たんだ。フィグって名前の俺より少し年上くらいに見える魔法使いで、爺ちゃんと父さん、あとフリック叔母さんにも会ったことがあるみたいだった」
「知ってる?」と尋ねても二人は思い当たる節がないようだった。まさか怪しい人間だったのでは——そんな不安がサミュエルの胸中をよぎる。
慌てて他の外見的特徴を付け加えると、しばらく考える素振りを見せていた祖父が難しい顔で口を開いた。
「まさか、彼はまだあの時のままなのか……」
「どういう意味?」
何かを知っているような口ぶりに思わず聞き返していた。サミュエルの問いに対していい答えが浮かばなかったのか、祖父は父へ目を向ける。
「……フィー、確かにお前も会ったことがある。私の祖父の葬式でな」
「ひい爺さんの葬式? ホグワーツに入る前のことじゃないか! そんなの覚えて……いや、そういえば歳が近そうな子が一人だけいたような……」
まさか、という顔をした父に祖父はゆっくりと頷く。サミュエルにも何となく話が読めてきた。同時に、そんなことがあり得るのだろうかという気持ちが湧き上がる。
「おそらくサムに会いに来たのは彼だろう。私は何十年も同じ姿でいる魔法使いを他には知らん」
「……闇の魔術、ではないのですよね?」
おずおずと母が尋ねる。彼と相対したからこそ、サミュエルにはその懸念が分かるような気がした。底が知れないのだ、あのフィグという魔法使いは。
「彼は祖父の友人だった……闇の魔術を嫌ったあの人が親しくしていたのだから、それは無いだろう」
少なからず祖父はフィグのことを信頼しているようだった。もしかすると、フィグではなく祖父のそのまた祖父を信頼していたのかもしれない。どちらであれ、怪しい人間ではなさそうだとサミュエルは一人安堵した。
「とりあえず、そのフィグって魔法使いのことは分かった。それで、ひい爺さんが死んでからそれっきりだったのに、どうしてサムを訪ねてきたんだい?」
当然の疑問だ。父の声は穏やかだったが、不信感が滲んでいた。
「自分と同じ力が使える人を探してるって言ってた。俺に古代魔術の才能があるかもしれないから会いに来たんだ」
「古代魔術……?」
父は母の顔を見るが首を横に振られ、祖父の反応も期待できそうなものではなかった。フィグは古代魔術のことをほとんどの人が信じていないと言っていたが、信じていないどころか誰も知らないらしい。焦りを感じたサミュエルは立ち上がっていた。
「本当にあるんだ! 母さんには見えてなかったみたいだけど、白く光る魔法が俺には見えた! 練習すればあの人みたいに使えるようになるって……俺は、スクイブじゃないって……」
威勢が良かったのは初めだけで、信じられないと否定されるかもしれないという恐怖によって声は尻すぼみになっていく。視界がぼやけて咄嗟に下を向けば、テーブルにぽたぽたと雫が落ちる。
話そうとすれば声が震えた。けれど、ちゃんと自分で家族に伝えたかった。
「俺、あの人に魔法を教えてほしい……ちゃんと、魔法を使えるようになりたい」
母が席を立ってサミュエルの傍に寄り添う。優しく頭を撫でられると余計に涙が溢れてきた。思えば抱きしめられることも、こうして頭を撫でてもらうことも随分と久しぶりだった。それは決して両親だけの所為ではなく、サミュエルが家族を避けていたからでもあった。
「私達、マグルの勉強も呪文の練習もやりなさいと言うばかりだった。それがサムを追い詰めているなんて考えたこともなかったわ……」
母は屈むと手を取って顔を覗き込んでくる。
「あの人に教えてもらいたいって、無理に言ってないのよね?」
小さく頷けば母は優しく笑った。そして、サミュエルの涙を拭って額にキスをする。
「フィー、この子が初めて自分でやりたいって言ったことなの。応援してあげましょう?」
父はすぐには答えなかった。けれどそれは母の言葉に反対するというより、ただ何と言えば良いか迷っているだけのようだった。
「少しでもお前が生きやすいようにって思ってたはずなのにな……悪かった、サム。俺もできる限りのことをするよ。お前のやりたいことが見つかって本当に良かった」
その答えを聞いて思わず笑みが零れる。いまだ涙は引かないが、父にも認めてもらえたことが嬉しくて、心の底からあの時死ななくて良かったと思った。
「お義父様も、よろしいですか?」
「もとより私は止めるような立場にはない」
祖父はそう言うが、道理に合わないと思ったのなら絶対に止めるだろう。そうでないということは、祖父もサミュエルのやろうとしていることを認めてくれたのだ。
「ありがとう」
「よかったわね、サム……」
もう一度母に強く抱きしめられる。そこに父もやってきて母ごとサミュエルを抱きしめた。ずっと与えられてきた両親からの愛情を、ようやく素直に受け取ることができた気がした。
サミュエルは部屋へ戻った後も心が浮き立って、なかなかベッドに入る気になれなかった。こんなにも明日が来ることを待ち遠しいと思ったことはない。その気持ちをどうしても誰かと共有したくて、すでに夢の世界へ旅立っているベリーに小さく話しかけた。
「今日はいい一日だったよ。出だしは最悪だったけど、いろんな問題が一気に解決した気がする」
魔法が使えるようになるかもしれない。母には見えず、自分とフィグだけにその魔法が見えたという事実がサミュエルに自信をつけた。まだ何もしていないのに、自分のことながら単純だとは思う。それでも、代わり映えのしないぬるい絶望だけが延々と続く日々に、ようやく変化が訪れたのだ。期待せずにはいられなかった。
「俺には特別な力がある。きっとホグワーツでも上手くやっていける……」
その時、ケージの中でじっとしていた彼女が首をもたげた。どうしたのだろうと思って見ていれば、ちろちろと舌を出してサミュエルを見つめてくる。
「おやすみー」
それだけ言って、ぷいとそっぽを向くとまた動かなくなった。暗にうるさいと言われてしまった気がする。サミュエルは苦笑いを浮かべて、パーセルタングで「おやすみ」と伝えるとようやくベッドへもぐりこんだ。
起きたらフィグに返事を書こう。すぐにでも古代魔術の使い方を教えてほしいって。
古代魔術を覚えて立派な魔法使いになれば、きっと父さんと母さんも褒めてくれる。
サミュエルはずっと感じていなかった満ち足りた気持ちで眠りについた。