サミュエルが十歳の誕生日を迎えた次の日。待ち侘びた来客があった。
「やあ、サミュエル! また会えて嬉しいよ」
「フィグさん……!」
サミュエルが教えを乞いたいと返事を出してから数日が経過していた。家族からの誕生日祝いも嬉しくはあったが、心の片隅にはいつもフィグからの返事を待つ自分がいたのだ。また梟が来るものと思い込んでいたため、突然の来訪には驚いたが嬉しいサプライズだった。
「返事が遅くなってしまったから直接会いに来たんだ。もし予定があるなら日を改めるけど——」
「大丈夫です。今日は一日中空いてます」
即答するサミュエルに、フィグは楽しそうに笑う。
「やる気も十分みたいだね。それなら早速——講義を始めようか」
「お願いします、フィグ……先生?」
一瞬、彼が何とも言えない表情を浮かべた気がした。嬉しそうにも悲しそうにも見える表情だった。まじまじと彼の顔を見た時にはいつもの笑顔を浮かべていたから、本当にそんな顔をしていたのかは分からない。
「どうかした?」と問われたが、踏み込むことができるほどの仲でもない。そう判断したサミュエルは言葉を飲み込んで「なんでも」とだけ返した。
「よし、まずは外に出ようか! 体を動かしながら覚えるのが一番だからね」
「それなら杖を借りてきます。先に庭に出ていてください」
そう言うや否や、サミュエルは祖父の元へ駆け出した。
祖父の部屋は一階の奥まった場所にある。彼が車椅子で生活するようになってから作られたらしい、庭がよく見える日当たりのいい部屋だ。三回のノックの後に「爺ちゃん、杖を借りてもいい?」と声をかければドアは勝手に開いた。
祖父は窓の方を向いていて、視線の先にはフィグがいた。
「あの人が気になる? 連れてこようか?」
「……彼は祖父の友人で、お前の師だ。私の知人ではない」
からからと小さく音を立てて、押し手のいない車椅子が祖父をサミュエルの前へと運ぶ。
「彼は見た目こそ少年だが、とうに成人した魔法使いだ。故に心配は無用と思うが、お前も十分気をつけるように」
呪文を練習する時に借りるのはいつも祖父の杖だった。家に居るだけだから好きに使え、と。杖を借りるようになってしばらく経つが、そういった忠告を祖父の口から聞いたのは初めて杖を借りた時以来だ。
今回こそ、サミュエルが魔法を使えるようになると思ってくれたからこその忠告だろうか。
「楽しんでこい」
そう言って杖を差し出される。いつも表情の変わらない祖父だけど、その時の目はいつもより優しい気がした。
「——はい!」
杖を借りて高揚した気持ちのまま庭に出ると、フィグはぼんやりと家を眺めて佇んでいた。けれど、サミュエルが出てきたことに気づくとゆっくりと歩み寄ってくる。
「良い家だね。庭も丁寧に手入れされてる」
「ああ、ありがとうございます。庭はほとんど母が手入れしてるので、伝えたら喜ぶと思います」
「そうだね、後でお礼を言いに行こうかな」
フィグが母にお礼を?とサミュエルは訝しんだが、その思考も彼の言葉ですぐにかき消えた。
「綺麗な庭をめちゃくちゃにもできないし、少し離れようか。マグル避けはもっと広くかけてあるでしょ?」
彼はすたすたと敷地の外へ向かってしまった。どの辺りまでマグル避けがかけてあるかなんてサミュエルも知らないというのに大丈夫だろうか。そんな不安を微かに抱きながら彼の背を追いかけた。
彼は、家からほど近い小川の脇で足を止める。特別距離をとったわけではないが、物が飛んでも家や庭に被害が出ないような位置だ。
「この川が境になってるはずだよ」
「どうして分かるんですか?」
「あの家を建てた時、僕も手伝ったからね」
何でもないことのようにフィグはそう言った。彼にとってはそれも友人との思い出の一つに過ぎないのだろうか。
「気になるなら昔の話もしてあげる。でも今じゃない。違う?」
昔の話に興味があることも事実だったが、フィグの言う通り今は魔法を使えるようになることの方がずっと大事だった。サミュエルは杖を握り締めて頷いた。
「さて、君はまだ魔法を使えたことがないんだよね」
「……はい。でも、スクイブじゃないって先生が」
「言ったね。珍しいことみたいだけど、君は遅咲きなだけだと思う——僕もそうだったからね」
思わずえっ、と声を出すとフィグは「意外?」と笑う。
「僕に限ったことじゃないけど、古代魔術を扱える人間は魔法を扱えるようになるのが遅いみたいなんだ。みんなホグワーツに五年目から転入してる」
「五年生から……」
たったの六年、とは思わなかった。ここ数年ですら辛い日々が続いたのに、その倍以上の時間を耐える自信はない。
「……けど、それだと俺が魔法を使うには待つしか方法がないんじゃないですか?」
「それについては少し考えがある。ただ、それを試す前にちょっとだけ今の力を見せてもらおうかな」
フィグはそう言って杖を振ると、川辺の岩の一つを木製の樽へ変えてみせた。
「魔法を使うためには何が大事だと思う?」
「えっ、呪文の発音……杖の動かし方、とか?」
突然の質問にうまく答えられた自信がない。そもそも、そんなことを考えながら練習したことが今までにあっただろうか。
「そうだね、それも正解。無言呪文も、杖なしで魔法を使う文化圏もあるけれど、呪文と杖は魔法をより確実に強力に使うために欠かせない」
「それも、ということはフィグ先生は違うことが大事だと思ってるんですね」
「相変わらず察しがいいね。その通りだよ——僕は魔法を使う時に一番大事なものは気持ちだと思ってる」
その言葉を聞いて眉を顰めた。気持ちで魔法が使えるならばとっくに使えるようになっているはずだ。フィグはサミュエルがどれだけ切実に魔法を使いたいと思っているのか全く理解していない。そんなサミュエルの内心を彼は読み取ったのだろう。
「もちろん、それが全てではないよ。でも、古代魔術は他の魔法よりずっと才能と心がものを言う。そのことを、少しだけ覚えておいてもらえると嬉しいな」
「才能も必要なんじゃないですか」
「君にはあるでしょ?」
才能がある、と言われて気を悪くする人間がいるだろうか。けれど、それで機嫌を直してしまうのはフィグに言いくるめられたようで癪だった。
「古代魔術を使う時は特別な呪文も無いし、杖の振り方も何となくでいい。ただ強く魔法を成功させるイメージが必要なんだ」
「こうやってね」と彼が杖を振ると、それに合わせて木の樽が宙に浮き、近くの木に向かってヒュンと飛んでいった。木にぶつかった樽が音を立ててバラバラに壊れたものだから、思わず「うわ!」と叫んでしまった。
「あはは、驚かせちゃったね。ごめん」
「……次からは一声かけてください」
今のも古代魔術なのだろうか。樽はアクシオやデパルソを使った時のような動きをしていたように思えた。
「僕が知ってる中で一番扱いやすい古代魔術だよ。まずはこれをできるようになってもらおうかな。古代魔術の練習を通して魔法を使う感覚を覚えれば、他の魔法を使うコツも掴めると思う」
フィグは手頃な岩をまた樽に変えると「それじゃあ、さっそくやってみよう」などと言っている。やってみろ、と言われても困る——とは思ったが、ひとまず見よう見まねで杖を構えてみた。杖の動きは重要じゃない。大切なのは気持ちらしい。
サミュエルはフィグが投げた樽の軌跡を思い出しながら、杖を思い切り振り上げて木の方を示してみた——樽は微塵も動かない。二度、三度と同じように杖を振るが結果は変わらなかった。
杖を握る手に力が籠る。先生がスクイブじゃないと言ったから期待したのに。上手くいかない焦りと、苛立ちの矛先がフィグへと向きそうになった時、肩に優しく手を置かれた。
「大丈夫、落ち込むのはできることを全部やってからね」
宥められてしまったことは悔しかった。けれど、フィグの言う通りだとサミュエルにも理解できていた。彼は初めに考えがある、と言っていたのだから。ささくれ立ちそうな心を落ち着けるために深いため息をつく。
「分かってますよ。まだ何かあるんですよね?」
「うん、次は古代魔術の集中地点に連れて行こうと思ってる」
「……どうして初めから全部教えてくれないんですか」
つい思っていたことが口に出てしまった。フィグのことは嫌いではないが、情報を小出しにされる感じが気に食わないと、この数時間で何度も考えたこともまた事実だ。
サミュエルはフィグの顔を見る。どうせへらへらと誤魔化すように笑っているか、いかにも困ってますというように眉を下げているのだろうと高を括っていた。けれど、彼が真剣な顔でこちらを見ていたものだから、サミュエルの方が驚いてしまった。
「ごめん、君のことを信じていないわけじゃないんだ」
フィグは片膝をつくと、サミュエルを真っ直ぐに見上げてきた。
「実は、古代魔術についてあまり確実なことは言えないんだ。研究はしているんだけど、僕一人にできることは限られていて……それを人に教えるなんて、初めてで……」
一瞬だけ視線を落とした彼の目に仄暗いものが見えたのは、きっと気のせいじゃない。どれだけ一人で古代魔術と向き合ってきたのだろう。少しだけ哀れみを覚えると同時に、先生自身の過去にも興味が湧いた。
「でも、これだけは覚えておいてほしい。僕は君を信じている。サミュエル・サロウは立派な魔法使いになれるって」
暖かな風がサミュエル達の間を通り過ぎていく。気持ちが落ち着いたのはきっとその風のせいだ。フィグの言葉に心を動かされた訳じゃない。
「……別に、そんなに言われなくても疑ってません」
何となく視線を逸らした先には、フィグが変身術をかけてから微塵も動いていない樽がある。もう一度杖を振ってみるが、やはり動くことはない。ため息が出たが、先程とは違い苛立ちは湧かなかった。
「古代魔術の集中地点でしたっけ? 早く行きましょう、俺は日が暮れるまでに成果が欲しいんですよ」
「……そうだね、君のためにも移動しようか」
ところで——と彼は少し間を空けると、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「付き添い姿現しはしたことある?」
姿現し。失敗すれば出現場所がズレるだけならまだしも、体の一部を置いて行ってしまう『ばらけ』の可能性すらある魔法だ。その上、移動時はすごく不快な感覚がして絶対に使いたくないと母が言っていた。移動自体は早いのだろうが、あまり良いイメージはない。
「いえ……煙突飛行なら何度か……」
「あー、あれより酔うかも。ちょっと気合い入れてね」
フィグは手を差し出してくるが、正直かなり抵抗がある。彼は酔うかもと心配していたが、ばらけの方が恐ろしい。ただ、まあ——
「……仕方ないですね。俺をバラバラにしないって信じてあげますよ」
そうして、彼の手を取った。
なるほど、確かに母が嫌がるのも分かる。サミュエルは地面に足がついてすぐ、ふらついてその場に膝をついた。
「大丈夫? 水でよければあるけど」
「……すみません、もらいます」
どこから出したのか、フィグが渡してくれた瓶の中身を一気に呷ってようやく一息つくことができた。落ち着いて見渡せば、辺りには木々が生い茂っている。
「どこですか、ここ」
「君の家からそう遠くはないよ。どこ、と聞かれるとニューフォレストにある森の一つとしか言えないけど」
「ここに古代魔術に関わる何かがあるんですね」
立ち上がって改めて周りを見るが、一見それらしいものは見当たらない。
「姿現しがしやすい場所に飛んだから、少し歩いたところにね」
「こっち」と歩き出したフィグについて行くと、しばらく歩いた場所に年季の入った廃墟が現れる。しかし、サミュエルの目は別のものに向いていた。
「古代魔術……」
青白く光る水のようなものが地面から湧き上がっていた。足元からはサミュエル達を導くような光が、湧き上がる古代魔術に向かっていくつも軌跡を残して飛んでいく。
「これが古代魔術の集中地点。触れてみて」
フィグに促されて近づくと、前に古代魔術を見せてもらった時と同じ囁き声が聞こえてくる。相変わらず何と言っているのか分からないその声に、少しだけ恐れを抱きながら歩みを進めると、古代魔術は大きく飛沫を上げて一層輝き始めた。
サミュエルはしゃがみ込み、その中心へそっと触れる。すると、光がふわりと広がってどこかへ飛んでいってしまった。
「先生、今のは……?」
「いくつか軌跡が残ってない? それを辿って痕跡を集めるんだよ」
言われてみると、光が散っていった方へ伸びる白い光の筋がいくつか残っていた。煙のようなそれをひとつ辿っていくと、その先には白く輝く古代魔術の痕跡がある。サミュエルが触れれば弾けるように消えていった。
「まずはひとつ。残りもその調子で集めよう」
崩れかけた階段や、足場には心許ない板の上を慎重に歩いていく。先生は後ろをついて来ているが、サミュエルよりずっと危険な道を歩き慣れていそうだった。
これにどんな意味があるのかは分からなかったが、やらなければ魔法が使えるようになる可能性は万に一つもない。そう自分に言い聞かせながら光を辿り、やっとの思いで二つ目の痕跡に触れた。
歩いてきた道を来た時と同じだけ時間をかけて戻ると、辺りを漂う光の筋は残りひとつになっていた。
「次で最後だね」
「そうみたいですね。でも、あれは……」
二人は既に最後の痕跡を見つけていた。分厚い蔦の向こうに。見たところ回り込めそうな場所はなく、蔦をどうにかしなければ辿り着けそうになかった。刃物があればサミュエルでも蔦を除くことはできただろうが、素手では難しそうだ。
「最初だから手伝うよ。ひとりで冒険に出るためにも、まずは魔法がないとね」
フィグの「インセンディオ」という声と共に杖からは炎が吹き出し、丈夫そうだった蔦を燃やし尽くした。
「ありがとうございます、先生」
「どういたしまして。さあ、取っておいで」
サミュエルが最後の痕跡に触れた瞬間、力強い風を感じた。一瞬のことで、本当に風が吹いていたのか自分だけが感じたものだったのか定かではない。ただ、これで散っていった痕跡は全て集まったのだろうということだけは分かった。
「お疲れ様。これでここの集中地点にあった古代魔術の力は君のものになる」
「そうなんですか? あまり実感はないですけど……」
「普通は何箇所か回る必要があるからね。でも、ゼロとイチでは大きな違いだよ。早速試してみようか!」
フィグは廃墟に転がっていた木箱を近くに寄せると、サミュエルに杖を構えるよう言った。
「古代魔術を使う時に大切なのは?」
「強く思うこと」
「正解。次は実践だね」
フィグが木箱から数歩離れたのを見て、杖を構える。すると今まで感じたことの無い、内から何かが湧き上がってくるような感覚がした。
それが先程手に入れた古代魔術の力なのだと知覚した瞬間、曖昧だった魔法を使うイメージが、霧が晴れたようにはっきりした。
「いける……」
杖を振る。
サミュエルのイメージと現実がぴたりと重なり、木箱は狙っていた通りの木に勢いよく飛んで行った。
不思議な気分だった。身近なのに遠かった魔法が今、自分の手の中にある。
「先生、もう一回試してもいい?」
「もちろん。気の済むまで付き合うよ」
二度、三度と杖を振る。その度に思い描いた通りに木箱が宙を舞った。
「あはは、すごい……」
何度か古代魔術を使うと、これ以上は続けて使えないだろうということが感覚的に分かった。けれど、力が完全に失われた訳ではないことも不思議と理解できていた。時間が経てば、あるいは古代魔術の痕跡に触れればまた力を使えるようになるだろう、と。
この力があれば誰も自分をスクイブなどとは呼べない。他の人と並び立つどころか、より優れた力が自分にはある。
「きっと僕達は時間をかけて少しずつこの力を蓄えるんだ。けど、こうして集めに行けばその時間を縮められるんじゃないかと思ってね。上手くいってよかったよ」
「先生、本当にありがとうございます。先生が見つけてくれたから、俺は俺自身の才能に気づけた」
いつの間にか、すぐ隣に立っていたフィグは柔らかく微笑んだ。
「おめでとう、サミュエル。ここからが本当の始まりだよ」
それからもフィグはサミュエルを訪ねてきた。古代魔術の集中地点に連れて行ってくれたり、覚えておいた方が便利だと言ってホグワーツで習う呪文のいくつかを教えてくれた。
初めて古代魔術を使って以来、枷が外れたようにサミュエルは魔法を扱えるようになっていた。
フィグは古代魔術の痕跡に触れたからではないかと言っていたが、それが本当なのかは分かっていない。あまり興味もなかった。
両親はサミュエルが魔法を使えるようになったことをそれは喜んでくれた。母はすぐにでも杖を買いに行こうと言ってくれて、そのおかげでサミュエルは自分の杖を手に入れることができた。
アルダー材にドラゴンの心臓の琴線を芯とした真っ直ぐな杖だ。
十インチとやや短めで、曲がらず、店主のオリバンダー老人曰く「所有者に忠実で、その硬さに反して優しい人を好む杖」ということだった。
遠回しに優しいと言われたサミュエルは、オリバンダー老人の言うことに懐疑的だった。生まれてこの方、自分のことを優しい人間だと思ったことはない。杖が人を選ぶ、という言葉すら怪しく聞こえていた。
けれど、確かにその杖は手によく馴染み、祖父から杖を借りていた時とは比べ物にならないほど魔法が扱いやすくなった。杖作りと、杖選びのセンスは間違いなく超一流だと後々評価を改めさせられた。
そして、フィグとの出会いから一年以上が経った1989年7月の半ば。
梟がサミュエルへ宛てられた一通の手紙を運んで来た。
サミュエル・サロウ様
サーペンツ・レスト
ブルック・レーン
ビューリー
ハンプシャー州
このたびホグワーツ魔法魔術学校に入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます——