僕はゆっくりと、日記の表紙を開いた。
少し古びたページを一枚ずつめくっていく。
日記には色々なことが書かれていた。
……とはいっても、最初の頃はかなり適当だ。
一日書いたと思えば、次に書いているのは数日後。
一週間近く何も書かれていないところもある。
内容も、
『今日は依頼。疲れた』
『リンと映画を見に行った。面白かった』
そんな短いものばかりだった。
「……どうやら記憶を失う前の僕は、そんなにまめな性格じゃなかったみたいだな」
少しだけ笑う。
その辺は、今の僕とあまり変わらないらしい。
そんなことを考えながらページをめくっていく。
「……ん?」
あるところで手が止まった。
それまで何日も間が空いていた日記が、ある日を境にほとんど毎日のように書かれている。
「ここから急に……?」
その少し前に書かれていた出来事へ目を向ける。
「ブリンガー事件……!」
ポート・エルビスで起きた事件。
治安局副総監だったジャスティン・ブリンガーが化け物となり、雅さんたちによって討伐された事件らしい。
僕には、その時の記憶はない。
だけど、日記を見る限り――。
「このあたりから、記憶がおかしくなってるみたいだ」
僕は次のページをめくった。
〇月〇日
最近、記憶がおかしい時がある。
昨日やったことを思い出すのに時間がかかったり、買った覚えのない物が部屋に置いてあったりする。
まあ、疲れてるだけかもしれない。
この日記帳をちゃんと使う時が来るとは思わなかった。
買った時は三日坊主になると思ってたから、少し嬉しい。
「……この頃は、まだ軽く考えてたのか」
書き方からしても、そこまで深刻には考えていなかったみたいだ。
僕はそのまま読み進める。
〇月〇日
リンと買い物に行った。
俺の記憶にない話題や、覚えのない約束が何度か出てきた。
何とか話を合わせてごまかしたけど、正直かなり怖い。
忘れたのが昨日のことなのか、それより前なのかも分からない。
一時的なものなのか。
それとも、このまま続くのか。
原因も全然分からない。
リンにはまだ言わない。
余計な心配をかけたくない。
「……ごまかしてたんだ」
胸のあたりが少し重くなる。
そういえば僕も、リンに覚えていない話をされた時、似たようなことをした。
「……僕も同じことしてるじゃん」
なんとなく嫌な感じがして、次のページをめくった。
〇月〇日
始まりの主の事件がひと段落した。
リンたちと適当観に来てから起きたことを、忘れる前に書いておく。
まだ名前は覚えてる。
リンも、アキラも、瞬光も、師匠も分かる。
誰が誰なのかも分かる。
でも、何をしたのか思い出せないところがある。
日記を読めば「そういうことがあった」と理解はできる。
でも、自分が本当に経験したことなのか変な感じがする。
昔の記憶も思い出せない。
俺はこれからどうなるんだろう。
「…………」
僕は少しだけ手を止めた。
自分が経験したことのはずなのに、日記を読んで初めて知る。
それは今の僕も同じだった。
ここに書かれていることは、僕自身が経験したことのはずだ。
でも僕には、その時の記憶がない。
「……変な感じだな」
自分のことなのに、自分じゃない誰かの話を読んでいるみたいだった。
僕はまたページをめくる。
〇月〇日
瞬光が虚狩りになった。
代償のことは心配だけど、あいつなら大丈夫だと思う。
強いし、何かあれば師匠たちもいる。
……人の心配してる場合じゃない気もするけど。
最近、この日記を書く回数が増えた。
忘れないために書いてるはずなのに、日記を書くことに慣れていくのが少し怖い。
「……人のこと言えないじゃん」
思わず小さく呟く。
そこからさらにページを進める。
〇月〇日
瞬光たちとラマニアンホロウに入った。
最近、無理をすると胸が痛い。
今まではこんなことなかった。
息苦しいわけじゃない。
心臓を強く掴まれてるみたいに痛くなる時がある。
記憶がおかしくなるのも、疲れてる時やホロウに入った後が多い気がする。
もしかして、身体への負荷が関係してる?
街の医者にも軽く診てもらった。
でも異常はないらしい。
じゃあ、この胸の痛みは何なんだ。
「胸の痛み……」
僕は自分の胸に手を当てる。
今は何ともない。
いつも通り、心臓が動いているだけだ。
だけど記憶を失う前の僕も、身体に何か異常を感じていたらしい。
「やっぱり……何か関係あるのかな」
〇月〇日
瞬光と師匠に記憶のことを話した。
やっぱり心配させた。
能力の反動なんじゃないかとも言われた。
確かに能力を使えば身体には負担がかかる。
でも、それが直接記憶に関係してるのかは分からない。
そもそもブリンガー事件から始まったと思ってるだけで、それより前から忘れてた可能性もある。
考えれば考えるほど分からなくなる。
そこから先は、日記というより走り書きに近かった。
日付も書かれていない。
記憶のことで、もう一度あの町に向かう。
何か分かるといいな。
次のページ。
あの町でも、これといった原因は掴めなかった。
あいつらには心配だけかけてしまった。
言わなければ良かったのかもしれない。
でも、一人で抱えるのももうきつい。
さらにページをめくる。
今日はリンとの約束を忘れかけた。
日記を見て気づいた。
思い出したっていうのとは少し違う。
日記に書いてあったから知っただけだ。
リンには笑ってごまかした。
たぶん、バレてない。
「…………」
僕は何も言えず、そのまま次を読む。
今のところ、人の名前は覚えている。
顔も分かる。
どういう人なのかも分かる。
でも、それがいつまで続くのか分からない。
だから、忘れる前に書けることは全部書いておく。
未来の俺が困らないように。
僕は次のページをめくった。
「……なんだ、これ」
そこには文章ではなく、人の名前がたくさん並んでいた。
リン。
アキラ。
雅さん。
瞬光。
儀玄。
その横には誕生日や好きな物。
苦手なもの。
よくする話。
一緒にしたこと。
交わした約束。
色んな情報が細かくまとめられている。
『リン――映画が好き。甘いものも好き。約束を忘れると怒る。でも本気で怒ってるというより寂しそうにする』
『アキラ――困った時は頼っていい。俺より俺の予定を把握してる気がする』
『瞬光――強いけど無茶する。無茶してたらちゃんと止める』
『雅――剣のことになると少し変。でも真面目でいい人』
「……こんなことまで書いてたのか」
ページをめくっていく。
そこには僕の知らない人の名前まであった。
どういう人なのか。
何をしてもらったのか。
何を話したのか。
どんな約束をしたのか。
忘れてしまっても、その人が誰なのか分かるように。
未来の自分が困らないように。
細かいことまで書き残してある。
「……未来の自分用か」
自分で言って、少し胸が苦しくなった。
そしてページの下の方に、小さな文字が書かれていることに気づく。
他の文字よりも少し乱れていた。
震えたような筆跡で、二行だけ。
『忘れたくない』
『忘れるのが怖い』
「…………」
僕はしばらくその文字を見ていた。
今まで日記を読んでいても、記憶を失う前の自分はどこか別人みたいに感じていた。
僕の知らない出来事を経験して。
僕の知らない人たちと過ごして。
僕の知らない思い出を持っていた人。
それが、記憶を失う前の俺だった。
「お前……一人で苦しんでたんだな……」
そう口にしてから、少しだけ違和感を覚える。
「……お前?」
自分に向かって何を言ってるんだろう。
この日記を書いたのも僕のはずなのに。
でも、やっぱり自分のことだという実感がない。
日記に書いてあることを読んで、初めて昔の僕がどんなことをしていたのか知っている。
それなら――。
「……もしかしたら僕もこうなるのかな」
そう思った瞬間、急に怖くなった。
今は覚えている。
リンのことも。
アキラのことも。
雅さんのことも。
瞬光たちのことも。
でも、それがずっと続く保証なんてない。
いつか僕も、こうやってみんなのことを書かなければ分からなくなるのだろうか。
いつかリンに会っても。
誰なのか分からなくなる日が来るのだろうか。
「…………」
考えるだけで嫌だった。
「……嫌だな、それ」
静かな部屋に僕の声だけが残る。
僕はもう一度日記に目を戻した。
すると、最後のページにまだ文章が残っていることに気づく。
それまでの走り書きとは違い、比較的しっかりとした文字だった。
今日は調子が良い。
久しぶりに頭もはっきりしてる。
珍しく依頼が入った。
受けたことのない相手だけど、報酬がかなり良い。
もうすぐあいつらの誕生日だし、ここで稼がせてもらおう。
最近心配ばかりかけてるから、何かプレゼントでも買おうかな。
依頼人の名前は『妖怪』。
変な名前だ。
でも、この名前はどこかで聞いた気がする。
どこだった?
思い出せない。
そこで日記は終わっていた。
「……妖怪?」
僕はその名前を小さく口にする。
何かが引っかかる。
初めて見たはずなのに、まったく知らない言葉には思えない。
「妖怪……」
もう一度呟く。
何か思い出せそうな気がする。
あと少し。
あと少しで何か出てきそうなのに――。
「っ……!」
突然、頭に痛みが走った。
「いっ……!」
僕は思わず頭を押さえる。
「僕も……どこかで聞いたことあるような……?」
思い出せない。
何かが引っかかっているのに、その先がどうしても出てこない。
「……なんなんだよ、これ」
もう一度、『妖怪』という文字を見る。
理由は分からない。
ただ――。
その名前を見ていると、妙に嫌な予感がした。
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