みんなは自然にそれを受け入れてるし、彼女が存在しないことに気づいてるのはどうやら自分だけ。
諦めて莉里を受け入れているうちに、違和感に気づく。
俺と家族は何かを忘れている、大事な何かを。
これは偽妹と喪失を巡る、俺だけが覚えている話。
1
俺たちは同じ世界で生きている。
こんなことを言ったら何を言ってるんだと思われるかもしれないけれど、これは大事な前提だ。
今の西暦は何年?という問いに正答が複数存在しないように、不変の設定を下敷きに各々が勝手に生きている。
ある事実に対して載せる感情が違かったとしても、それは個々人の自由でしか無いからなんらおかしいことはない。
例えば、俺には歳の離れた姉がいる。
これはみんなが共通して認識する設定の一つだ。
俺からしてみればこの姉はあまり好きではないけれども、側から見れば体裁のいい姉のように見られてるのかもしれない。
所詮は断面をいろんな方面から見ているのだから、どっちが正しいとか議論をしても無駄なことではあるのだけれども。
とにかく、俺たちは同じストーリーの中を生きている。
違う場所にいたとしても同じ設定を共有して、新しく設定を構築しながら、そういうふうに世界を回しているのだ。
もちろん俺も、その例から外れることはない。
どこにでもある家庭の長男として生まれて、ありふれた人生を送って大学を卒業して、社会人になって社会の歯車として毎日ヒーヒー言いながら頑張っている。
でも、他人と違って、俺は少しだけ特別な体験をしたことがあった。
その違和感に気づいたのは俺だけだったし、そのことを覚えていたのも俺だけだから、変な夢を見たと言われても否定は出来ない。
俺の家族は四人。
父に母に家を出た姉にそして俺、それが住民票に記された歴とした事実。
でも、確かに俺に妹がいた時期があったのだ。
俺が中学生の頃、ほんの短い期間ではあったけれども、俺に妹がいてそれを両親も自然に受け入れていた時期が確かにあった。
これはその頃の、今となっては懐かしい思い出の忘備録。
2
もうすっかり体に染みついた感覚で、アラームが鳴るより先に俺は目覚めていた。
目覚まし時計が煩く喚き始めるより先に、アラームをOFFに切り替えて被ってた毛布を口元まで引き上げる。
この後に起きることは容易に想像出来ていた。
それを裏付けるかのようにドタバタと騒がしい足音がこちらに近づいてくる。やはり寝ても覚めても、今日も変わらずにこの夢のような現実は続いていくらしい。
「起きて和真お兄ちゃん、輝かしい朝だよ!」
「黙れ、とっくに起きてる」
勢いよく部屋に突入してきた彼女を素っ気なく突き放せば、オヨヨと演技くさい泣き真似を始めた。
ベッドから起き上がらないまま、なんとなくそれを眺めていれば、小賢しいことに手の隙間からこちらを伺っている。
こちらに泣き落としが通じないと見れば、打って変わって力づくで毛布を剥ぎ取りに掛かった。
抵抗もあえなく、俺から剥ぎ取った毛布を体に巻き付けて、彼女はニシシと子供らしい笑みを浮かべた。
「でもお兄ちゃん、今日は莉里のことをお前みたいな妹はいないと言わないんだね!」
「……もう俺は諦めたよ」
莉里の隣を通り過ぎ、階下のリビングへ降りていく。
俺がここ最近抱えた悩みの種が、すっかり家族に馴染んでいる莉里という少女だった。
ほんの数日前に現れて、今日と同じように彼女が叩き起こしてきた時の衝撃ときたら筆舌にし難いものがあった。
考えても見てほしい、全く見知らぬ子供がある朝現れて、俺のことをお兄ちゃんと呼んでくるのだ。
ドッキリか、もしくは俺の親戚か。
けれどもいくら頭を探ったところで親戚筋にも、従姉妹にも彼女みたいな少女は見覚えがなかった。
大体、そいつらはみんな俺よりずっと年上なのだから、年始の集まりでも少しだけ肩身の狭い思いをしていた。
代わりに一番年下ということで可愛に可愛がられ、お年玉ももらえていたのだけれども。
とにかく、彼女に見覚えはなかった。
三つ編みにまとめた髪に、幼い容姿。きっと小学生ぐらい。
そんな本当の本当に見知らぬ赤の他人が、いきなり部屋に突っ込んできたのだから、俺が腰を抜かしたのも無理のないことだろう。
しかも、小学生ぐらいに見える彼女が俺のことをお兄ちゃん呼ばわりしてくるのだ、理解が追いつくはずがない、ひたすら情報を叩きつけられて脳みそが処理し切れるはずがなかった。
慌てて部屋を飛び出して、いつものように朝飯を食べる両親を問い詰めた。誰だよこいつ、と。
それを聞いて父さんも母さんも全く同じ表情を浮かべた。
お前は何を言ってるんだという怪訝な表情、二人を代表して、父さんはこう言った。
「誰って、莉里だろ。お前の可愛い妹じゃないか」
「はぁ!?」
あわてて振り返れば莉里と言われた彼女は、あっかんべーと舌を出していた。
⚫︎
数日経っても夢は覚めることはなかった。
寝ても覚めても莉里と呼ばれる彼女は俺のことを起こしにくるし、いくら頬を抓ろうとも無駄に痛みを感じるだけで現実は変わらない。
少なくとも両親の中では、莉里という彼女はずっと前から俺の妹としてずっと過ごしていたらしい。
姉に意見を伺いたいところだけれども、その彼女は今となっては海外に出てしまっていたから話を聞くこともできない。
でも、きっと姉も両親と同じようにいうに違いない。
「誰って何? 莉里はあんたの妹で、私の可愛い妹じゃない」と。
馬鹿げた質問するんじゃないと、俺に踵固めをする大人気ない姉が今この家にいないのは少しの幸運だったか不幸だったか。
莉里と名乗る彼女は、その姉が使っていた部屋を自分の部屋として使っていた。
2階の俺の対面の部屋。
俺の記憶では、姉が今年の春までそこを使っていたけれど、春に家から出るにあたって空っぽになっていたはずだった。
もう何が何だかわからなかったけれども、少なくともこの世界でおかしいのは、みんなではなく俺らしいというのは確かな事実だった。
中学校で友人に「俺に妹が居るって言ったっけ」と軽く話をふれば、大丈夫だ、お前がシスコンだってことはみんなも知ってるよと軽く肩を叩いてくるんだから、全くどうしようもなかった。
妹と、俺に対するみんなの認識が少し変わっているのを除けば、世界はなんら変わってないように見えた。
もしかしたら見えないところでは何かが変わっているのかもしれないけれども、少なくとも俺が見える範囲では何も変わらない。
いつものように授業を終えて家に帰ってくれば、莉里が上り框に腰掛けて、俺が帰ってくるのを今か今かと待ち構えていた。
「和真お兄ちゃん遊びに行こ!公園公園!」
片手にはフリスビーを携え、三つ編みをブンブン揺らして、まるで断られることを想定してないかのようだった。
ため息はつけど、彼女の期待を裏切る気にはなれなかった。
不思議なことに、俺は莉里のことを全く知らないというのに、一切恐怖心は湧かないのだ。
本来ならもっと驚いてもおかしくないのだろう。もっと未知の存在に恐怖し遠ざけるのが普通だと、俺ですらそう思っているというのに、莉里を素っ気なく扱うということがどうしてもできなかった。
通学鞄を玄関に置いて、代わりに莉里が差し出してくるフリスビーを受け取って、彼女を連れて公園に向かう。
何故か、こんなことをずっと昔から繰り返していたような気がするのだ。
間違いなく莉里という少女はいなかったはずなのに、それでもこの現状がなんとなくしっくりくるのも本心だった。
フリスビーに目を落とせば、それは傷だらけだった。
きっと昔から使っていたような、そんな年季を伺える。
それを軽くなぞれば、覚えてない記憶が確かに脳裏を掠めたような気がするけれども、それを掴もうとしても何も思い出せないまま。
何かが思い出せそうになっても、決まってこれだった。
ありもしない現実をあると思い込んで、ない記憶を覗き込もうとしてるのであれば、ハズレを掴もうと悪戦苦闘しているに過ぎないのだろう。
だから、俺は何も思い出せないのかもしれない。
「こういう時、姉がいればなぁ」
「莉里、お姉ちゃんは嫌い」
姉なら彼女のことを可愛がっていたに違いないと思ってそんな呟きを漏らせば、莉里はむくれた顔でそう言った。
だって私と遊んでくれないから、そう理由を付け加えるのも見て笑いを噛み殺すのにほんの少し努力を要した。
間違いなく、莉里に害意はなかった。
俺だけがその違和感を我慢していれば、きっと全部上手く回るのだろうと言えるぐらい、彼女はみんなとうまくやっていた。
異常と言えば異常だ、俺が頭がおかしくなったわけじゃないと断言できる。
俺と彼女のどっちが異物かと言われたら、間違いなく莉里だと俺は主張するだろう。
でも、みんなはそうは思わない。
俺の知人全員におかしいのはどっちというアンケートを取れば、俺がおかしくなったんじゃない?と言われるに決まっていた。
だから、俺は諦めることにした。
明らかな異常があったとしても俺が諦めて仕舞えばよかった。
飲み込んで仕舞えば、確かに俺たちはこんな家族だったような気がする。
気が付けば、俺には莉里なんて妹がいないと突っぱねることができなくなっていた。
⚫︎
晩御飯を食べ終わって、ソファーに腰掛けてバラエティ番組を眺めていた。
俺の膝の上には、何故か莉里が腰掛けている。
暑苦しいし、重いし、なにより視界の邪魔でしかない。無言で脇を抱えて隣に移しても、逆に俺がソファーの位置を変えたとしても、彼女はトコトコと付いてきて、厚かましく膝の上に腰掛けてきた。
「……なんでついてくるんだよ」
「ここが莉里の定位置なんですけど!」
まるで俺がおかしいかのように人差し指を突きつけてくる。
テレビが見たい俺とどうしても膝に乗りたい彼女の争い。きっと、俺がテレビを見るのを諦めて部屋に引き篭もればいいのだけれども、そうしたら俺の負けのような気がした。
逆に言えば、莉里からしてみれば定位置を諦めるというのが敗北条件なのだろう。
「よーし分かった、なんでお前が俺の膝の上に乗ろうとするのか説明してみろ」
「なんでって、和真お兄ちゃんを莉里が守ってあげてるんですけど」
何を言ってるんだと莉里は首を傾げているけれど、全く何を言ってるのかわからない。
そもそも俺が年下に守られる理由がないのだから。それを言うなら、むしろ俺が体を張らなければいけない側だろう。
「守らなくていいって言ったらどうする?」
「本当に、守らなくていいんですか?」
「そう、なんだけど……はぁ」
言い切った直後に、莉里が効果音が出そうなほど凹んでるのを見て、慌てて俺は言葉を継いだ。
「邪魔にならないようにしろ、ほら」
「全く、しょうがないですねぇ!」
ぽんぽんと膝を叩けば、莉里は頭だけを乗せてくる。それが妥協案、けれども彼女が俺を守ると言うお題目はどこへやら。
俺たちが膝枕をしてるのを見て、母さんは言った。
「まあ、でも、和真も明るくなったねぇ」
「明るくなった? 俺が?」
それ以上言葉はいらないとばかりに、母さんは皿を洗いにキッチンへと引っ込んでいった。
全く明るくなったと言う自負はなかった、本当にそうなのだろうか?
膝の上で機嫌良く鼻歌を歌っている莉里の三つ編みを弄びながら、少し前の俺のことを思い返す。
果たして、莉里のことを戸惑っていた時の俺のことを指しているのか、それともそれより前の馴染んでいた頃の俺を言ってるのか、答えはわからないまま。
⚫︎
躊躇いがちに扉を叩く音に気づいたのは、偶然だった。
寝ぼけ眼を擦りながらベッドから起き上がり、扉を開けば三つ編みを解いたパジャマ姿の莉里が落ち着かなそうに立っていた。
「……こんな時間に、なんだよ」
「一緒に寝てほしくて……」
「……」
返答に窮して気まずい沈黙。
時間はわからないけれども、すっかり静まり返った夜。莉里が現れてからこんなことがあったのは、これが初めてのことだった。
距離を詰めすぎたのだろうか?
膝枕を許したことで、ここまではいいと彼女を付け上がらせてしまったのかもしれない。
けれども、ここは毅然と対応するべきだろう。ある程度のラインを決めなければ、ずるずると撤退線を繰り広げることにしかならない。
寂しさを紛らわしたいのであれば豆電球でもつけて寝ればいいだろ、そう口を開こうとして、ふと莉里の目が潤んでいるのに気づいた。
気づかなければよかったのに、何も知らなければよかったのに。
そう知った時点で、言いかけた言葉を踏みとどまってしまったところで勝負はついていた。
ため息を吐く、返す言葉はもうなかった。
そのままベッドに戻っていく、行きとは帰りに部屋の扉は開けっぱなしの状態で。
なるべくベッドの端の方。壁際の方に寄れば、莉里は躊躇なく空いたスペースに自分の体を捩じ込んできた。
ベッドの半分を領土に、いやむしろ取れるだけ取れと言わんばかりに俺に体を密着させてくる。
半分壁に嵌められている状況。
こんな状態で寝れるかと文句を言おうと思ったけれども、莉里の身体が震えてるのを見て何も俺は言えなかった。
そんなに怖がるものがあったのだろうか?
これまでも、何かを怖がっていたのだろうか?
もしかしたら、俺は気づいていないだけで莉里は毎日やってきていたのかもしれない。だからと言って、俺が悪いとは認めたくはなかったけれども。
少なくとも、彼女が抱える恐怖を和らげたいと願ったのだ。
背中をポンポンと軽くさすれば、すぐに震えも収まって安らかな寝息を立て始めた。
残されたのは壁と莉里に挟まれて身動きが取れない状況の俺だけ。そんな眠るのに不適合な状況であっても、眠気はすぐ間近に迫っていた。
なんとなく、懐かしい香りがしたような気がした。
こんなに落ち着いて寝られるのは久しぶりのように思ったけれども、それが押しかけてきた莉里のおかげだとはなんとなく認めたくなかった。
⚫︎
俺は一人で夕暮れの道を歩いていた。
今、自分が夢を見ていることはすぐに分かった。今よりちょっと前、俺がまだ小学校に行ってた頃の追憶。
家に辿り着けば、玄関には両親の靴に混じってピンクのエアマックスが置いてあった。
酷く懐かしかった、これをなるべく汚さないように普段使いしてた姉のことを思い出す。
靴の種類を見れば大体の家族構成が分かる。
普段使いする靴にそれに革靴、今自分が脱いだ靴を合わせてちょうど五足並んでいることを考えると、やっぱり莉里の靴は見当たらない。
「足、ちゃんと洗っておいてよー!」
「分かってるって!」
リビングの方から母さんの声が飛んできて、俺は靴箱の上の置かれたウェットティッシュを手に取った。
けれども、そのウェットティッシュで何の足を洗えというのだろうか?
別にサンダルで出かけたわけでもなく、靴下がひどく汚れてるわけでもなく、母さんの言葉の意味が今となってはよくわからなかった。
釈然としないままリビングに向かえば、今より少しだけ若く見える母さんと父さん、それに姉が並んでテレビを眺めていた。
俺がやって来て、これで家族が勢揃い。
やっぱり、莉里はいない。
俺の記憶の通りに、ここに居るはずのない存在だった。
けれども、俺のざわざわとした胸騒ぎは収まらない。むしろ、無性に何かが欠けていると危機感が警鐘を鳴らしていた。
俺がもう、莉里がいないことに違和感を覚えるようになっているからだろうか。それぐらい、こっち側の生活に馴染んでしまったからだろうか?
違う、そうじゃない。
昔の俺が何かを母さんと父さんに対して話しているけれども、その内容は聞き取れなかった。
姉は俺の膝を覗き込むと、慌ててどこかへ行って、救急箱を片手に戻って来た。
見下ろした膝は血だらけだった。
痛みは感じないけれども、きっと外で遊んでいるときに転んだに違いない。
確かに記憶の片隅に引っかかるものがあった。かすかにそんなことがあったような気がする。派手に転んで、膝を血だらけにして帰って来たことがあったはずだ。
こんなに慌てる姉を見たのは、確かこの時が初めてのようだった気がする。
そう、姉が血をひどく苦手にしていることをこの時、俺は初めて知った。
でも、その時不意にちくっと脳裏に刺激が走ったような気がした。
確か、この光景に何か欠けているものがあるんじゃないか?
きっと、この夢は俺の記憶を元に再現されたはずなのだ。その記憶が不完全であるが故に、何かが欠落して再生してしまっているような気がする。
俺は、大事な何かを忘れてしまった。
それを思い出そうと手を伸ばして。
気づけば、あのフリスビーを抱えていた。
3
「おはよう、和真お兄ちゃん」
「……先に起きたのなら起こしてくれよ」
目が覚めると、目の前に莉里の眩しい笑顔があった。
寝る前に俺がアラームをつけ忘れたのか、それとも俺を貶めるために莉里が仕組んだのか、いつもならとっくに起きている時間なのに、目覚まし時計はうんともすんとも言わないまま、いつもの時間を通り過ぎていた。
朝の9時過ぎ、どうすんだよこれと呆然とする俺をおいて莉里はベッドから抜け出して、またいつものように俺から毛布を剥ぎ取った。
掛けるものも何もないベッドの上、けれども俺は全く起きる気力が湧かなかった。
目が覚めてからも、何か靄がかかったような気持ちは晴れないまま。
きっと、この世界は何かが違うのだ。
そんな確信があった。俺たち家族は、大事な何かを忘れてしまっているのではないだろうか?
きっと、莉里がいる事がおかしいんじゃない。
何かを忘れて平然と暮らしている事こそが異常なのだ。
そこまで考えを纏めて、思考を中断。
ベッドから起き上がらないことに痺れを切らした莉里が、俺の方を掴んでものすごい勢いで揺らしていた。
「……お前、学校は?」
「もー、何言ってんの和真お兄ちゃんは」
ようやく俺の肩から手を外して、呆れた顔で彼女は言った。
「ほら、今日は土曜だから学校も休みに決まってるじゃん」
⚫︎
押し入れから写真アルバムを引き出してくるのは大した手間ではなかった。そもそも数日前に引っ張り出して来たばかりで、ちゃんと場所を把握していたからこそ。
ちょっと早い昼食に焼きそばを食んでいる莉里を尻目に、アルバムを開いて違和感の正体を見つけ出そうと必死に目を凝らしていた。
「ちょっと前に莉里が映ってることはちゃんと確認したじゃんねー」
「確認したい事があるんだよ」
和真お兄ちゃん変なのーと呟いて、彼女はやる気なさそうにフォークを使って焼きそばを啜っていた。
両親は二人っきりで買い物に出て、今家の中には俺と莉里だけ。
外は雨が降っているからいつものように公園に遊びに行くことも出来ず、彼女は不満そうな表情を浮かべていた。
「で、お兄ちゃんは何を探してるの?」
「わからん」
「わからんって何さ、何よー」
「俺が何を忘れたのかを確認したいんだよ」
今開いてる写真アルバムは、俺が生まれた時から小学校卒業までを写した物だ。
莉里が生まれてからは俺と彼女が揃って映し出されたり、俺もしくは莉里が単体で写っている。
両親と莉里曰く、俺個人の写真アルバムではなく年の近い俺と莉里二人の写真アルバムということだった。
それが彼らと俺の記憶とは相違点。
中身の俺を写した写真には心当たりがあったけれども、莉里を写した写真に引っ掛かるものは無かった。
莉里が緑色のフリスビーを抱えてピースをしている写真と睨めっこ、確かに違和感はあるけれども何がおかしいのか指摘しようがなかった。
アルバムに収められたほとんどの写真に、俺は軽い違和感を感じていた。
本当の写真はこんなものではなかったような、もちろん俺の記憶にある写真と違うからというのはある。
でも、それだけじゃない何ががやっぱりある。
「わー、やっぱりこの頃の和真お兄ちゃん可愛いーね」
「大して覚えてないだろうよ」
「いやいや、ちゃーんと覚えてるよ? あと今の場面ならちゃんと莉里の方が可愛いって褒めるところだから」
床にしゃがみ込んでアルバムを開く俺の肩に、こてんと小さな顔を乗せて一緒に写真を覗き込んでくる。
緩くだるい距離、重いなと思いつつ、なんとなくこんなこともあったような気がするという感じないはずの既視感を感じていた。
「莉里はこの写真を見て、何が足りないと思う?」
「えー? 莉里からしてみれば何もおかしくないように見えるけどなー」
興味なさそうにそう言って、莉里は俺の背中に体重を預けてくる。それを軽く振り払って、写真を軽く指でなぞった。
何を俺は忘れてる?
何を見落としてる?
ちゃんと全部写ってる筈なのだ。
見れば見るほど欠落を感じるのに、それを違和感なく通り過ぎてるのが気持ち悪い。
「ねえ和真お兄ちゃん、そんなに真面目になる必要ある?」
「……わからん」
どうして俺はここまで本気になっているのだろうか?
莉里の存在をとっくに受け入れているのに、どうして何かを忘れたことを必死になって思い出そうとしているのだろうか?
そもそも、何かを忘れてしまったからと言って本当にそれは大事なことなのだろうか?
「でもな莉里。もし莉里が俺のことを忘れたら、どう思う?」
「莉里は忘れないもん!」
「仮定だよ仮定、とりあえず考えてみろ」
少し顎に手を当てて考え込んでる様子を見せたかと思えば、うーんとひとつ唸って莉里は口を開いた。
「……とっても悲しい、かな」
「だろ? でもな莉里、本当に忘れてしまったら、忘れたことすら忘れちゃうんだ。悲しいという気持ちすら忘れちゃったら、本当にどうしようもなくなっちゃうんだよ」
思いつくままに言葉にしてみれば、なんとなくすっきりとした気分だった。
もしかしたら、本当に大したことないものを忘れてしまっているのかもしれない、記憶を取り戻したところで鼻で笑って、またすぐに忘れてしまうのかもしれない。
それでも、そうだとしても。
俺の答えを聞いて、黙りこくる莉里を他所に再度アルバムを一番近い過去から遠い過去へと遡っていく。
俺がいて、莉里がいて、両親がいる。
仏頂面を浮かべている俺とパンダのモニュメントを並べた写真、庭でみんなで花火をしている写真。
たまに映り込む姉は、碌なことをしていなかった。花火を俺に向けて追いかけ回している姉の後ろからさらに莉里が追いかけている躍動感あふれる写真。
そうして遡っていって、また一番初めの赤子である俺が映し出された写真に戻って来た。病院ではなく、家に帰って来た頃の写真だった。
もう一度、一番最初に戻ろうとして手の動きが止まった。
もしかして、俺は何かを見落としているのではなく、この写真達には何か抜け落ちている物があるのではないか?
一際違和感を感じる写真。赤子の俺がベッドに横たわる姿を写しているが、俺が画面の中央から、明らかに離されて撮られていた。
ブレもなく、片手を使って無理に取ったわけでもないのにそんな構図を使って写真を撮る理由がわからなかった。
あくまで推測に過ぎない。
けれども、そこにちょうどぴったり当てはまるような物があれば、その写真を撮った理由にもなるような気がするのだ。
相変わらず何が足りないかは思い出せない、しかし他に似たような写真がないか慌ててページを捲り始める。
似たような写真は何枚もあった。
中途半端に俺が空中に手を伸ばしてる写真、明らかに構図がおかしい写真、違和感の正体に気づけば、いくらでも見つけ出す事ができた。
きっとそれまで気づけなかったのは、俺が写っているものを探していたからだろう。まさか写真から消え失せていると想像していなかったからこその見落としだった。
しかし、はっきりとした違和感がある写真はちょうど俺が2歳に上がる頃にはなくなっていた。
それ以降はいくら探してもはっきりとおかしいと指摘できる写真は見当たらない。
それはつまり、おかしい写真は莉里が生まれてから無くなっているという事で。
多分、俺が忘れてしまったのはその空白にあったものなのだろう。そして莉里が生まれてからそれが消えた理由はなんだ?
もしかして、俺にはもう一人姉がいたとでもいうのだろうか?
その空白に赤子が入り込むじゃないかという推測は確かにぴったりなような気がする。
莉里がそこに入り込んでしまったからみんな忘れて、俺すら莉里は本当は存在しない妹であると気付くことしかできないとでもいうのだろうか?
いや、慌てて首を振って否定する。
俺にもう一人姉がいるということはない筈だ。
そうだとするのなら、部屋割りがおかしいのだ。この家には二階に2部屋あって、俺と姉に割り振られていた。
俺が忘れているのが姉だというのなら、俺より優先して部屋を割り振られるか、もしくは俺と部屋を分け合う形になっていたに違いない。
けれども莉里が現れる前後において、俺は部屋を一人で使っていたという自覚がある。そして莉里は姉が出ていったことを契機にようやく自室を手にいる事ができたという。
過去の全部に辻褄を合わせるというのなら、俺と莉里は部屋を一緒で良かった筈だ。
これも全部、都合が良い憶測だ。
自分の記憶と写真が信用できない以上、もう一人の姉の存在を否定できない。
けれども、その憶測を俺は無理やり信じようとしていた。
俺は莉里を信じたかったのだ。
彼女が罪のない存在であると信じたかった。
どうしてここまで肩入れしようとしているのか俺ですらわからない。
莉里のことを何ひとつ知らないというのに、それでも俺は彼女のことを受け入れようとしていた。
とにかく、両親に確認しなければいけない。
この空白のスペースに何があったのかを確認しよう、莉里のことを違和感なくすっかり受け入れてしまってるから望み薄ではあるけれども、いくら頭を捻っても自分だけで思い出せていないのだから、他人を頼らなければどうしようもない。
「と、いうかあいつはどこ行ったんだ?」
リビングをぐるっと見渡しても、莉里の姿は見当たらなかった。
いつもなら鬱陶しいぐらいに俺の周りにまとわりついてくるというのに、久しぶりに外の雨音が聞こえるぐらい静まり返っていた。
なんとなく不安に駆られて、廊下に出る。莉里は扉のすぐ外でじっと膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
「まったく、そんなとこで何してるんだよ」
「……ああ、お兄ちゃん? ちょっと気分が悪くてね」
彼女はそう言って、なんでもない様子で立ち上がったけれども、足元が覚束ずよろけそうになるのを見て、慌てて駆け寄った。
慌てて掴んだ彼女の手は酷く暑く、慌てて額に手を当てる。
「おい、体温計で一度測ったか?」
「体温、計?」
何を言ってるかわからないと可愛く惚けてるのをみて、俺は莉里をすぐさま布団に叩き込むことに決めたのだ。
⚫︎
38度ぴったり、それが彼女の現状だった。
それがわかるや否や、俺は莉里を無理やり彼女の部屋へと連れ戻した。
「まったく、和真お兄ちゃんったら心配性なんだから」
「早く治さないとしばらく遊べねーぞ」
「ちぇっ、仕方ないなぁ」
口を尖らせて、被った毛布を引き上げるのを見て思わずため息をつく。とりあえず莉里に風邪薬を飲ませて、ついで熱冷まシートを額に貼り付け、俺にできることは全部やったつもりだった。
親には帰って来てから伝えれば良いだろう。病院に行くか否かは、そこで両親が決めれば良い。
腰を上げて部屋から出て行こうとすれば、ぐいっと服を引っ張る感触があった。
わざわざ視線を下ろしてその正体を確認するまでもない、振り返れば彼女が無言で潤んだ目で俺のことをじーっと見つめていた。
それを振り切れるほど俺は薄情ではなかった。
ベッドの横にしゃがみ込めば、俺の目の前に手が差し出される。それを握れば、莉里は嬉しそうに微笑んでみせた。
「これで十分」
「十分ではないだろ、父さん達が帰って来たら病院に連れてってもらってさっさと元気になれよ」
「ううん。多分、無駄だと思うんだ」
その言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。
行っても行かなかったとしても、治るスピードは変わらないという意味だろうか?
そうとは言えない、何か不穏な匂いがして、俺は言葉を続けられなかった。
「莉里、知ってるんだよ。前も同じような事があったから」
「……俺は覚えてないけどな」
「そう、和真お兄ちゃんのいう通り。覚えてないだけなんだよ。こうやって、不安だった莉里の手を握ってくれたのは今日だけじゃないんだよ」
暗に、莉里は俺が何かを忘れてしまったと告げていた。それこそ、俺が思い出そうとしていることだと言わんばかりに。
「……やっぱり、お前は覚えてるんだな?」
「うん、和真お兄ちゃんは思い出せる?」
首を横に振れば、それもそうだよねと微笑みを漏らした。
「それじゃあ、莉里から和真お兄ちゃんに特大のヒントをあげる。ほら、あそこにある机の引き出しを引いてみて?」
莉里の指を指した先には確かに机が置いてあった。適当に一番上の引き出しを引けば、酷く軽く簡単に動いた。
それも当然だった、中身はほとんど空っぽ。
そこには、たったひとつだけ道具が納められていた。鈴がついた赤い首輪、ボロボロのそれは些かここの空間には似つかわしくないような気がして、俺はそれを手に取った。
そして、リンと鈴の音がして。
次の瞬間、頭に氷を突っ込まれたような激しい痛みを感じていた。今にもかち割れてしまいそうな、そんな激しい苦痛。
確かに、この赤い首輪を俺は知っている。
知っているのに、忘れていた。
そして今も、大事なことを忘れている。
忘れちゃいけないことを俺は忘れてしまったのだ、今すぐに思い出せ、そうでもしないと取り返しのつかないことになると、本能が必死に警鐘を鳴らしている。
足元がぐらついて、机に手をついて倒れるのを堪えようとしたけれども、それでも堪えきれずに床に倒れ込みそうになる。
それでもギリギリで踏みとどまったのは、莉里が俺のことを支えてくれたから。
小さい体で俺の腕を肩に支え、そのままよろよろとベッドまでなんとか辿り着いて倒れ込む。
酷い頭痛は、先ほどより随分と薄れていた。
青息吐息で隣でベッドに倒れ込む莉里の頭を軽く撫でて、すぐに起き上がる。
「なあ莉里、お前はやっぱり……」
「うん、私は和真お兄ちゃんの妹じゃないよ」
口篭った俺の言葉を継いで、彼女はあっさりと自白をした。
やっぱり、そうなのだ。俺の記憶は正しく、みんながみんな少しズレた認識を植え付けられただけだった。
「でもね、だからといって赤の他人って訳じゃないんだ。だって莉里は、和真お兄ちゃんとずっと一緒にいたんだから」
そう言って、彼女はベッドに腰掛ける俺の膝に頭を乗せた。
振り払う気は、さらさら無かった。彼女が妹では無いにしても、正体不明だとわかっていたとしてもそれでも素っ気なく扱えるはずがなかった。
確かに、その仕草には既視感があった。
こんな事が、昔にも確かにあったはずなのだ。
「まだ思い出せない? 和真お兄ちゃん」
彼女は悪戯っぽく微笑んで、こう言った。
「まあでも、正確に言えば、私がお姉ちゃんなんだけどね」
俺が忘れてしまった物。
空白、写真から消え失せてしまった存在。
そして俺が今、片手に固く握りしめた首輪。
チリンと音がして、階下で犬の鳴く声が聞こえたよう気がした。きっとそれは、俺を呼ぶ声なのだろう。
不思議と俺は理解できてしまった。
「……お前は、リリーか」
せいかいだよ、か細い声で莉里はそう呟いた。
欠片を一つ思い出すだけで十分だった。
その綻びをきっかけに、虚飾で覆われた偽りのかけらがボロボロと剥がれ落ちて、元の記憶がドミノ倒しのように次から次へと蘇る。
気づけば、俺は再びベッドに倒れ込んでいた。
身を起こそうとしても、体はうんともすんともいわないし、仕舞いにはパチンとスイッチが切ったかのように世界が暗転する始末。
4
物心ついた頃からずっと、俺の周りにそいつは居た。正確に言えば、俺が生まれる前には家にやって来ていた。
犬種はオーストラリアラブラドール。
母親にリリーと名付けられた白い犬は、大きな茶色い染みみたいな斑らがくっついていたから、姉にはちくわと呼ばれていた。
確かに言われてみればちくわにそっくりだったけれども、そんな呼び方をするのは家族の中で姉一人。
そんな姉とリリーの仲は、はっきり言って最悪だった。
原因として思いつくのは二つ。
まず一つは姉が頑なにリリーのことをちくわと呼んでいたことだろう。全く本当の名前で呼んでくれない姉に懐こうとしないリリー、それに自画自賛したあだ名を頑なに使い続けて歩み寄ろうとしない姉。
もう一つはそんな姉は散歩に行く役目を俺に押し付けていたこと。
子供の頃、リリーを買い始めたのは俺が生まれるからそれに合わせてとかではなく、姉がどうしても犬を飼いたかったという単純な理由だった。
姉は両親に約束したのだ、俺が生まれたら姉らしくちゃんと振る舞うと。
それは失敗だった。
両親はもう一つ約束するべきだったのだ、姉にちゃんと犬の世話をすることを。
確かに俺がまだ散歩に行けない頃は、渋々姉が散歩していたけれども、やはりその頃から彼女達は折り合いが悪かった。
それはいつまで経っても改善されることはなく、俺が小学生に上がったことを確認して姉は俺に指示を下したのだ。
これからはお前がリリーの散歩をしろ、と。
全く、なんて酷いやつだろう。
そもそもの話、お前が飼いたいと願ったんじゃなかったか?
けれども、俺は姉のその指示に感謝しかなかった。
もう生まれてからずっとリリーと一緒に遊び呆けていたのだ、散歩をのぞいてそれ以外の殆どの時間をずっと一緒に過ごしていたのだから、散歩さえコンプリートしてしまえばリリーは俺が独占している状態にできてしまう。
一緒に過ごした時間は誰が一番長い?と聞かれたらきっと両親でもなく姉でもなく、リリーになるだろう。
小学校の授業を終えれば急いで家に帰り、玄関先にランドセルを放って、代わりにフリスビーとリードを手繰って俺たちは公園に向かった。
俺がリリーのせいで痛い目を見たのはほんとに一度だけ。
散歩にはしゃぎすぎたリリーが喜びのあまり俺の周囲をぐるぐると駆け回り、リードに足を絡め取られて派手に転んだ時ぐらいだろう。
打ちどころが悪く、膝から派手に出血をしていたけれども、心配そうに俺の顔をつぶらな瞳で覗き込んで、お詫びとばかりに必死に膝を舐めるのを見れば俺はリリーを許すことしかできなかった。
俺が生まれてから、あいつはずっと隣にいた。
俺のちょっと前に生まれて子犬の時にやって来たリリーは、俺が中学校に上がった時にはもう老犬の域に達していた。
犬の寿命は人ほど長くはない、誰もが知る当然の事実だ。だから、あんな幸せが一生続くことはないなんて、俺もちゃんとわかっていた。
リリーとしては、幸せな犬生を最後まで走り切って満足して大往生なのかもしれないけれど、
取り残される俺がそれを素直に受け入れられるかと言ったら、答えはNOだった。
小学校6年に上がる頃には、リリーはあんなに楽しみにしていた散歩をそれほど嬉しそうにしなくなった。
公園で遊ぶことはなくなった。ルートも神社まで行って、そして帰るだけの往復の短縮ルートに変更した。
リリーは、明らかに耳が遠くなり始めていた。
声をかけてもぼんやりとしている事が増える、目の前で手を振ればすぐに気がつくけれども、少しずつ世界から遠ざかっていった。
リリーは家の中を昔のようにフラフラと彷徨っている、けれども着実に体力は無くなっていた。
わかりやすいところで言えば、二階の俺の部屋まで一人で上がれなくなってしまった。
昔ならば一人で階段を駆け上がって、扉を開けてくれと前足で扉を叩いていたけれども、そんなこともなくなった。
代わりに、じーっと階段下で待っていた。
昔から滅多に人に対して吠えることはなかったけれども、代わりに悲しい声で鳴くようになった。
その声に気が付けば、俺は慌てて下に降りてリリーを抱えて二階の自室へ運んでやった。
リリーは俺と一緒にいることを明らかに好んでいた、昔からずっと世話をする比率が高かったのだから当然ではあるけれども。
リリーの寿命が、次第に迫っていた。
もう散歩する気力もなく、玄関の前でじっと俺の帰りを待つばかりになっていた。
ご飯を食べて、寝て、たまに目が覚めてじっとしているだけの生活。
俺は布団を二階の部屋から下ろして、リリーと一緒に夜を過ごすようになった。
残り少ない余生、それぐらいはしてやるべきだと俺は思ったのだ。
呼吸は浅く、夜も眠れずにずっと震えているリリーの背中を撫で続ける日もあった。
病気なら、治してやれるのに。寿命を分け与えられるのであれば、リリーに半分分けてあげたいのに。
でも一日だけ、奇跡が起きたかのように元気を取り戻した日があった。
朝からいつもと違って食欲も旺盛、学校から帰ってくればおれに散歩をせがんでまた昔のように神社までの散歩をして、帰ればまたおれの膝の上に乗って一緒にテレビを見て。
その日も、俺はリリーと一緒に寝たのだ。
また明日、この奇跡が続きますようにと神様に祈りながら。もう少しだけ、もう少しだけでもいいから、リリーと一緒に居させてくださいとお願いをして。
次の日の朝、リリーはもう息をしていなかった。
それが、もう少しで春がやってくる2月の末のこと。
5
優しく頭を撫でる感覚で、目が覚めた。
ぎこちない拙い手つきで壊れものを触るかのようにゆっくりと頭に触れてられていた。
どうやら、今俺は誰かに膝枕をされているらしい。
横倒しの視界の中、ようやく思い出せた記憶に浸って、けれども慌てて体を起こした。
「あ、起きた」
莉里は、確かにそこに居た。
俺が全部思い出したことを悟って、少しだけ罰の悪い表情をしていたけれど、そんな事どうだってよかった。
衝動に身を任せて、莉里をぎゅっと抱きしめる。
そんなに泣き虫じゃなかったと自負していたのに、言いたいことも言えず、ただ嗚咽が漏れるばかりで。
「ああもう、そんなに泣いちゃってどうすんの」
そう言いながらも莉里は俺のことを引き剥がそうとせずに、俺の優しく背中を摩っていた。
嗚咽が鼻水を啜る音に変わって、そうしてようやく俺は莉里と向き合った。
「久しぶり、元気にしてた?」
「……元気も何も、俺はずっと寂しいよ」
リリーが亡くなったのは、今年の二月末。
もう5月になるというのに、俺はまだリリーがいなくなったことをずっと引き摺っていた。
それまでの人生を一緒に暮らしていた半身のようなもの、それが消えてしまえば自分を構築するものがごっそりと削られるのは、当然と言えば当然のことだった。
俺は、前に進めていない。
なんとなく生きてはいるけれども、ただそれだけだった。
母さんが言った俺が明るくなったというのは、きっと半身であったリリーが戻って来て、昔のような調子を取り戻せたからなのだろう。
喪失したことすら忘れて、莉里でそれを補ったのだから、表面上は元通りに見えるに決まっていた。
「っていうか、そもそもの話でリリーはなんで俺の妹になってるんだよ」
俺の全てをさておいて、彼女に尋ねるべきこと。
記憶を取り戻して何から何まで気づいてしまえば、何から何まであり得ないことだらけだった。
俺がリリーの死を忘れてしまったことも。
リリーが莉里として妹になっていることも。
その自覚をどうやら彼女だけは、ちゃんと持っているらしいということも。
それら全ての答えを、俺は知りたかった。
極めて真剣な問いに対して、彼女はふっと微笑んで軽く言った。
「それはね、莉里が神様にお願いをしたから!」
「…………はぁ? 神様に、お願い?」
「そ! 最後に神社に行った時、和真もお願いをしていたでしょ! 私が元気になりますようにって――だからあの時、それを見ていた神様にお願いをしたんだ!」
「『また和真と一緒に暮らせますように』ってね」
神様なんて俺は都合のいい時しか信じていなかった、ほぼほぼ無神教だと言っても構わないだろう。
リリーがお願いしたタイミングはいつかは予測ができる。ほぼ間違いなく、俺と一緒に最後の散歩をした日のことを指しているだろう。
でもあの時、俺の周りには誰もいなかったはずなのだ。あの神社はだいたいいつも人気がないし、子供すら遊び場所に選ばない場所であったから。
でも、莉里の言葉を疑う気はなかった。
彼女がそういうのならば、きっとそうなのだろう。頭を撫でれば、さっきとは反対に莉里が俺の膝を枕にしてきた。
「……そっか、そうなんだな」
「うん! だからさ、和真も何かあったら神様にお願いしてみて! きっと叶えてもらえるからさ」
「いや、もう俺のお願いは叶ってるよ」
莉里として帰って来てくれたのであれば、俺はそれだけで十分だった。胡散臭い神様なんていう存在も、その事実さえあれば十分信仰に値すると思ったのだ。
そんな自称神様が俺の目の前に現れて、私の足を舐めると言われればすぐさま舐めるだろうし、これからお前の生涯の財産を半分よこせと言われれば、半分は厳しいけれども四分の一ぐらいなら譲歩しなくもないぐらいには信じてやってもよかった。
「ね、和真。寂しいから手を握ってちょうだい」
「お安い御用だよ」
そう言って彼女の手を取ったけれども、それはすっかり冷え切っていて、俺は言葉を失った。
莉里は高熱を出していたはずなのに。さっき体温を測った時は燃えるように熱を持っていたはずのに、今ではいくら握りしめたとて生気を感じられなかった。
そうやって握っていれば、少しは温くなるけれども、所詮は自分の体温で温めているだけ。少し離れればまたすぐに熱も消えてしまうのだろうと予想がついた。
まるで急速に終わりが近づいてくるかのように、さっきの熱も、もしかしたら蝋燭の燃え尽き際に一際眩しく蝋燭が輝くようなものだったのかもしれない。
「……大丈夫なんだよな、お前は元気になるんだよな?」
「……」
莉里は目を逸らすばかりで。
それだけで十分。俺は胸が張り裂けそうな気分に駆られていた。
「ねえ、和真」
「……なんだよ」
「莉里はね、ずーっと幸せだったよ」
精一杯取り繕った笑顔を、俺はもう見てられなかった。
耳を塞いで聞かなければ、その場面をポーズすることができたのかも。そんな馬鹿な考えが浮かんですぐに消えた。
「一番初めはさ、こんな私より小さい奴がいるなら莉里が守ってあげなきゃいけないって思ってたんだ。それなのに、気が付けばもうこんなに大きくなっちゃって」
きっとまだまだ大きくなるんだろーね、彼女がそう呟くのが聞こえた。
「それなら、それなら俺が大きくなるまで見届けてくれればいいじゃん」
「それは無理だよ。それに莉里は、もう十分幸せを分けてもらったから」
ポロポロと俺の頬に溢れる涙を、莉里は優しく指で拭った。
「ほら、笑って! 莉里はね、和真が笑ってるのを見るだけでぎゅーっと胸が潰れるぐらい幸せなんだから!」
指で無理やり俺の頰を吊り上げて、彼女は言った。
「ね、お願い。莉里は和真の笑顔を見るだけで十分なんだから」
必死に笑顔を作ろうけれども、どうしたって無理だった。彼女に報いてあげたいのに、俺にはそんな簡単なことすらできなかった。
「勝手に、満足するなよ……」
代わりに、どうしようもない言葉だけが胸をついて出る。
「なんで……っ、なんでだよ! なんで俺を、俺を二回も一人で置いてくんだよ……っ」
「……ごめんね」
「お前が謝ることじゃないだろ!」
そう叫び、莉里の方を見てすぐに我に返った。
彼女も俺に気取られないように静かに泣いていることに、今更気づいてしまった。
冷水を浴びせられたかのように、一気に怒りが萎んで、また悲しみがぶり返す。
考えるまでもない。
俺だけが苦しいわけじゃない。
さらに言えば、これからまだレールが続いてる俺と、終わりを見据えている莉里とでどっちが悲惨なのか、考えるまでもないことだった。
「でもね、莉里がお願いをしたから」
「違う、違うんだよ!」
いても立ってもいられず莉里の体をかき抱けば、緊張の糸が切れたように莉里も声をあげて泣き始めた。
どうしようもなかった。
莉里を理不尽に責めたところで、お願いを叶えてくれた神様を恨んだところで、全部逆恨みでしかないことぐらい、ちゃんと俺にもわかっていた。
「父さんたちが返って来たら、病院に行こう。そしたらまだなんとか」
「無理だよ、それぐらい莉里にだってわかるんだから。ほら、だって経験者なんだから」
とっておきの自虐ネタ。
笑うところだよ、これと莉里は泣き笑いをしていたけれども、どうしたって笑えなかった。
どれだけ莉里が望んだところで、やっぱり俺は笑えない。
「ね、和真。莉里の手を握って」
抱きしめるのも終わって、さっきと同じようにベッド脇で今も手を握っているのに、彼女はそう言った。
「どこにも行かないように、ちゃんと手を握っておいてよね」
「……ああ」
両手を使って、ぎゅっと手を握りしめる。
痛みを感じないように、それでも決して離れないように固く固く手を繋いだ。
「ずっとここにいてくれ、明日も明後日もずっとこの先も、ずーっと」
ベッドで横たわったまま、彼女は軽く頷いてみせた。
「頑張るよ、私」
「だから、信じてね」
そう言って、莉里は目を閉じた。
6
目覚まし時計が、どこか遠くで鳴っていた。
感じるのは床の冷たさばかり。無理やり腕を使って体を引き上げて、俺は周りを見渡した。
段ボールばかりが残された空っぽの部屋、申し訳程度にベッドだけが隅っこに置いてあった。
そこにはもう、誰も居ない。
この部屋には俺しか居ない。
とりあえず姉の部屋から出ようと歩き始めて、すぐに足を止めた。足先に何かが触れた感触があった。
視線の先に、あの懐かしい首輪が落ちていた。
もう、俺は堪えきれなかった。
慌てて首輪を拾って、目覚ましを止めずに階下のリビングへと飛び込んだ。
慌ただしく扉を開け放った俺を見て、父さんと母さんは目を丸くしていたけれども、言い訳するよりも先に聞かなければいけない事があった。
「ねえ、莉里は?」
案の定、クエスチョンマークが頭の上に浮かんでいるようなぼんやりとした表情をするばかりで、俺は質問を切り上げて押し入れへと向かった。
両親の答えは分かり切っていた。
莉里がいたはずの部屋がああなっている時点で、俺も薄々察していたのだから。
押し入れの中の写真アルバムを必死に奥から掘り起こす。つい最近探し出して手前に置いておいたはずなのに、それは押し入れのずっと奥底に眠っていた。
一ページ目を見た時から、とっくに期待は削がれていた。
莉里の姿はそこには写し出されずに、代わりにあの懐かしいリリーが記憶の通りに正しく写っていた。
いくら捲ったところで、違和感なんてもう何一つ感じなかった。
そうなればもう、頼みの綱は一つだけだった。
自室に戻って目覚まし時計を止めて、代わりに財布と首輪をポケットに入れて、呼び止める両親すら振り切って俺は家を飛び出した。
息を切らして駆けていく。
通い慣れた道だった、けれどもあの懐かしい日々と違って今はもう一人きり。
目的地は、莉里が語っていた神社。
そう、俺がお願いをすればいい。
リリーがお願いしたように、俺もまた神様にお願いを叶えて貰えばいい。
朝の神社はいつものように人気がなく、木の葉が風で騒めく音がするぐらい。
どうしたって彼女が言った神様は俺には見えないようだった。
財布にはお札は含まれていなかったけれども、小銭でパンパンに膨れていた。
それを惜しみなく賽銭箱に放り込んで、俺は目を閉じて一心不乱に祈っていた。
正しい祈り方なんて、俺にはさっぱりわからないけれども。それでも遮二無二と必死に願うことしか俺には出来ないのだから。
もう一度、リリーに合わせてください。
贅沢は言わないから、もう一度だけでもいいから会いたかった。俺はまだ、ちゃんとお別れの言葉も言えていないのだから。
死に目にも会うことすらできず、俺は眠りこけていた。気が付けば全部終わった後だったのが、唯一の心残りだった。
お願いします、一言だけ感謝を伝えられればそれだけでいいんです。
その時、リンと懐かしい鈴の音がしたような気がした。
思わず閉じていた目を開く。幻聴だろうか、いや確かに俺はその音を耳にした。
もうその音は聞こえない、けれども代わりにあの犬が駆け寄ってくるチャッチャッチャッという懐かしいあの音が近づいてくるのを感じていた。
慌てて振り返って、思わず腰が抜けた。
リリーに似ても似つかないブッサイクな犬が俺に向けて駆け寄って来ていた。
リードをずるずると地面に引きずって一目散にこっちに向かっている。
遥か遠くからは「その子を止めて〜」と姿の見えない女性の声がしてくる。きっとこいつは散歩中に飼い主の制御を振り切って、ここまで脱走して来たのだろう。
脱走犯だというのに、そいつは俺の足元で律儀にお座りをしていた。
念のためリードを掴んで、両手を使ってわしゃわしゃと全身をもみくちゃにしてやれば、上機嫌にここも撫でろと無防備に腹を出して寝転び始めた。
「お前、リリーか?」
「?」
何言ってんだ、お前。そんな事はいいから早く腹を撫でろよ。
そう言わんばかりにこちらのことをじっと見つめているのを見て、俺は諦めて脂肪が詰まった腹をゆさゆさとゆすり始めた。
どう考えても、こいつはリリーの生まれ変わりではない。そう諦めがつけば無性に笑いが込み上げて来た。
そんなふうに時間を潰していれば、ようやく見知らぬ女性が息を切らしてやって来た。
「本当にごめんなさい! いつもはこんなことないんですけど」
「大丈夫ですよ」
リードを彼女に手渡して、ふと世間話のつもりで俺は口を開いた。
「俺も、つい最近まで犬を」
それ以上は、言葉にならなかった。もう居ないことを口に出して仕舞えば、堪えしれるはずがなかった。
感情が堰を切って視界が滲み始める。不意に言葉を切った俺を見て、ブサイク犬を連れた彼女は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
やっぱり、もうあいつはここには居ない。
結局、お願いは叶うはずなかった。
所詮、今まで起こったこと全部が胡蝶の夢なのだから。
7
それでも、どうしたって世界は回っていく。
いつも通りの日常が帰って来る、俺は変わらずに中学校に通ってきた。
それから少しして、我が家に一員が追加されることになった。
新しい犬がやって来たのだ。
今度は父さんのチョイスで豆柴が選ばれていた。
俺としては新しく飼うことには反対だったけれども、両親二人に強く主張されれば勝てるはずもなかった。
もしかしたら、もしかしたら新しくペットを飼うことで、俺の悲しみを薄れさせる目的もあったのかもしれないけれど、直接両親に問いただす事はなかった。
そしてやって来たそいつは、豆太郎と酷く冴えない名前を付けられていた。
まあ、その名前のダサさに本犬が気づく事はないのだから、別にどうでもいい事なのかもしれなけれど。
姉がたまに帰って来て、豆太郎のことを大豆と呼ぶことはあったけれど、それに対してはちゃんと牙を出して唸り敵意を示していた。
それを見てちぇっと残念そうに舌打ちするのを見て、家族3人で笑ったものだった。
どうにも姉は、リリーに限らず他の動物と相性が悪いらしい。
散歩は相変わらず、俺の役目だった。
中学校から高校に上がっても変わる事はなく、決まって朝に散歩を欠かさず行っていた。
そうして豆太郎と触れ合ううちに、次第にリリーの記憶は薄れていった。
それでも、定期的にあいつを思い出すためには写真アルバムを引っ張り出して豆太郎と並んでそれを眺めていた。
「豆太郎も写真アルバムを残してほしいか?」
そう尋ねてみても、キョトンと舌を出して首を傾げるばかりで。写真を撮る代わりにわしゃわしゃと豆太郎の頭を乱暴に撫で回したのだ。
また時間が経って高校を卒業して、大学に上がって俺は一人暮らしを始めることになった。
引っ越し当日も豆太郎が悲しそうにクゥーンと鳴きながら、俺のことを見送っていた。
それでも、俺は休みの度に頻繁に帰って来たからずっと離れ離れというわけではなかった。
玄関の扉を開ければすぐさま俺の方へ飛びついて来て、早く散歩をしてくれと豆太郎は尻尾を激しく振っていた。
きっと、父さんの散歩量だと物足りないのだろう。溜まったフラストレーションを解消するのも俺の役目だった。
大学をすんなりと卒業して、俺はまた家に戻って来た。
就職先の都合的に、新しく引っ越し先を決めるぐらいなら家に戻ったほうがコスパがいいという理由。
もう一つの家に戻る大きな理由は、豆太郎の存在だった。
⚫︎
朝、上を見上げれば雲ひとつない青空が広がっている。まだ夏の朝の早い時間、豆太郎の散歩をする役目はまた俺へと戻って来ていた。
もう豆太郎も随分な年のはずなのに、不思議と老いは鈍く、元気にリードを引いて俺を引き摺り回していた。
散歩ルートは変わらない。
公園を通り過ぎて遠回りして神社へ行って、三角を描いて家に帰っていく。
町並みは少しずつ変わっていたけれども、公園と神社は昔のまま何も変わっちゃいなかった。
神社に辿り着けばちょうど半分の道程を済ませたぐらい、リードを必死に抑えながら顔の汗を拭う。
境内には蝉時雨が鳴り響いている、今日もまた相変わらず人気はなかった。
ほんの気まぐれに背中を押されて、引き返そうとする豆太郎のリードを引いて賽銭箱の方へと向かった。
前は確か、お小遣い全部を注ぎ込んで後悔をしたんだっけ。今となっては端金に過ぎないけれども、あの時の俺にとっては十分な大金だった。
まあ結局、いくらお布施を入れたところで願いは叶わなかったのだけれども。
ポケットから財布を出して5円玉をひとつまみ、そのまま賽銭箱へと放り込んだ。
そうして手を合わせて、目を瞑り俺は祈った。
あの日、あの時、俺のお願いは叶えられなかったけれども。
でもそれを悪いと思ってるのであれば、一度だけでいいから簡単なお願いを叶えてください。
もし天国なんてものが存在するというのなら、きっとそこで待っているだろうあいつにメッセージを残してほしい。
「……俺は今も元気にやってるよ」
その声は蝉時雨に掻き消されたけれども、豆太郎の他に聞くものは誰もいなかった。
祈ったところで届いたどうかもわからない、けれども何かひとつ踏ん切りがついたような気がした。
こうして時間が空いて、ようやく欠落の穴を塞ぎ切ったような気がしたのだ。
リリーと一緒に過ごした思い出は薄れているけれども、俺にとって大切な存在がいたということをちゃんと覚えているのならば、それだけで十分だった。
不意にリードを強く引っ張られて、思わずリードを振り切られる。
ぽかんと呆気にとられたのも束の間、俺は慌てて豆太郎を追って走り始めた。
運動神経はそこまで悪くない。けれども社会人生活に浸かった身体は、老いた豆太郎のことすら追いつけないぐらいには鈍っていた。
歩道へ飛び出して、思わず感嘆してしまうほどのコーナリングを経て一層豆太郎は加速する。
もう俺はぜいぜいと息を切らしているというのに、豆太郎は体力を尽きる様子も見せずに、次第に距離が開き始めている。
それでも足を止める事はできなかった。
落ちかけた顔を無理やり引っ張り上げれば、豆太郎のいく先にランニング中らしい体操着をきた子供の姿が見えた。
思わぬ幸運。
慌てて手を振って、喉を振り絞って声を上げた。
「そいつを止めてくれ!」
彼女はそれを聞いてすぐに足を止めて、豆太郎はそこへ向けて一目散に走り込む。
そして目的地はここだと言わんばかりに、そいつは急ブレーキを掛けた。
「おーよしよし、いい子だねえ」
わしゃわしゃと機嫌良く撫でるのを遠目に見て、俺は走るのをやめて歩き始めた。
髪を三つ編みに編み込んだ彼女は、どうやら犬の扱いに心得があるようだった。
「ごめん、助かったよ」
彼女の目の前につくなり素直に頭を下げる。けれども、彼女は一向に口を開こうとしなかった。
無愛想だなと思いつつもリードを受け取ろうと手を出せば、彼女は素直にそれを手渡して来た。
ようやく豆太郎から顔を上げて、彼女は俺の方を見た。視線がかち合って、思わず俺は「あっ」と声を上げた。
不思議と彼女の顔には既視感があった。
ずっと前、もう10年以上前のこと。
リードを俺に手渡して、そのまま彼女は俺をビシッと指差してこう言ったのだ。
「浮気者」と。