※名前付きのオリキャラが登場します。主人公というほどではないです。
リンは峠道を走っていた。跨るのは愛車ヤマハ・ビーノ。
キャンプにツーリング、リンのアウトドアライフに革命をもたらしてくれたこの相棒は、今日もキャンプ道具を積んで、峠を勇ましく登ってくれている。
今日も今日とてソロキャンに励むリンは、いつもよりちょっと足を延ばして、山梨県の山奥のキャンプ場へと向かっていた。
繰り返される急勾配に、折り重なるようなヘアピンカーブをいくつも抜けて、目的地のキャンプ場はこの峠を越えてすぐそこの所だ。
「ほら、もう少しだ。頑張れよー、相棒」
愛車を激励するようにアクセルを捻ると、ビーノのエンジンが「ガンバルゼ」とばかりに甲高く唸りを上げる。
ふと、リンの耳が、後方から迫るエンジン音を捉えた。甲高く軽快な音からして、バイクだろう。この道のロケーションはツーリングには打ってつけ。ここに来るまでも何台かすれ違っている。
リンの乗っているビーノは50ccクラスの原付。非力なエンジンでえっちらおっちらと走っていては、後ろから来るバイクの迷惑になってしまうかもしれない。
いつものようにリンは路肩すれすれに寄って、追い抜かせるためのスペースを確保した。
それと同時に、後方のカーブから一台のバイクが姿を現す。サーキットから飛び出してきたかのような、赤を基調としたスポーティな見た目。大型バイクではないだろうが、甲高いエンジン音は得も言われぬ迫力があった。
赤い車体が、ビーノの真横を駆け抜けていく。追い抜きざま、そのバイクに乗っているバイカーが、リンに軽く左手を挙げてくれた。さらに追い抜いてからハザードランプも焚いてくれる。
時間にしてほんの一瞬。そのバイクはすぐにカーブの向こうに消えて見えなくなった。
リンは少し気分がよくなった。バイクに乗っている時は基本的に一人だ。その孤独はとても愛おしいものであるが、公道において交わされる刹那のやり取りは、赤の他人と奇妙な繋がりを感じられる。その瞬間が、リンはとても好きだった。
あのバイカーはフルフェイスヘルメットを被っていたので顔は見えなかったが、きっと良い人なのだろうと、リンは思った。
(かっこよかったなぁ)
リンはバイクの種類には詳しくないが、ああいうスポーツタイプのバイクで峠をひらひらと走るのは気持ちがいいだろうなと思う。
積載とかはどうなのだろう、リンのツーリングは基本的にキャンプとセットだから、キャンプ道具の積載はマストだ。
(帰ったら少し調べてみようかな)
そんなことを思ってから、はたとリンは愛車のハンドルを軽く撫でる。
「安心しろって、私はお前一筋だから」
——今のところは。
心の中でそう付け加えると、リンは再びビーノのアクセルを捻った。
◆◆◆
ここまでの移動中、数え切れないほどのカーブを曲がってきた。この急勾配のワインディングにもすっかり慣れてきた。
そんな中、事故は起こった。
今日走ってきた道の中では比較的緩やかなカーブ。リンがわずかに車体を傾けた瞬間。ビーノの前輪がずるりと滑った。
「——っ!?」
タイヤが地面を掴む感触が失われ、ありえない角度で傾きながら横滑りを始める。
リンはもう反射で動いていた。
シートを思い切り蹴って、転倒する車体から離脱。身体をぎゅっと丸めた瞬間、リンは背中から路面に叩きつけられる。リンの小さな身体はそのままごろごろと地面を二、三度転がったところで止まった。
突然の出来事に頭はぼうっとしていたが、幸いリンの体は冷静だったらしい。
むくりと起き上がったリンは、手早くビーノのエンジンを切る。何とか車体を引き起こし、カーブを抜けた所まで押していく。
「重てぇ〜……」
独りごちつつ、比較的安全そうな路肩にビーノを止める。
「あとは、ハザード点けて……っと」
一息ついたところで、体が震えてきた。
おっかなびっくり、手足を曲げ伸ばししたり、腰を回してみたり。幸いにしてどこにも痛みはない。
転倒の瞬間、上手いこと地面を転がって衝撃を逃がせたことに加えて、厚着をしていたことも手伝ったのだろう、怪我らしいものは一切なかった。
「死ぬかと思ったぁ……」
己の無事をバイクの神様とキャンプの神様に感謝する。
ビーノの方も多少の傷はできてしまったものの、エンジンは問題なくかかるし、操作系統にも異常はない。
とにかく一安心だ。
(それにしても、何でコケたんだ?)
バイクに転倒は付き物ではあるものの、リンはあんな転び方をしたことはなかった。
かなり緩やかなカーブだったし、スピードもほとんど出していない。路面にひび割れや凍結もなかったはずだが……。
どうにも気になり、リンは来た道を転んだ所まで引き返す。
(ぱっと見変なところはないけど……)
しばし路面を観察したところで、リンは小さく「あっ」と声を上げた。
路面の黒色が一部わずかに違う。濡れているのだ。それも雨の濡れ方ではない。
しゃがんで軽く撫でてみると、明らかに水とは違うベタついた感触。顔に近付けて臭いを嗅いでみる。
「オイル?」
エンジンオイルか、あるいはブレーキフルードか。よく分からない液体が道路を汚している。
「お前のせいかぁ〜!」
バァーン、と道路の染みを指差してみるが、返事はない。
面倒だが、警察を呼んだ方がいいだろう。このままにしておくと、他の車やバイクも危険だ。
ため息をついて、ポケットからスマホを取り出したところで、リンの視線は道路のある一点に釘付けになる。
道路に薄っすらと引かれた黒い線が二本。状況からして間違いなくバイクのブレーキ痕だ。リンが視線でそれを追う。ブレーキ痕は、真っ直ぐ路肩まで伸び、その先に設置されているのは古ぼけたガードレール。端のあたりがひしゃげて千切れている。その傷は明らかにそれは最近のもの。
ガードレールを越えた先は——崖。
リンの顔からさっと血の気が引く。
破断したガードレールに駆け寄り、下を覗き込んで、リンは息を呑んだ。二、三メートルほどの高さの崖の下、バイクが一台とその下敷きになった人影が一つ。ついさっき、リンを追い抜いていったあの人だ!
「うおい、マジか……!」
震える手でスマホを操作し119をタップ。
山奥だったが、幸いにもギリギリ電波は届いている。
コール音はすぐに途切れた。
『119番消防です。火事ですか、救急ですか?』
「き、救急です!」
『救急車が向かう住所を教えてください』
「場所はええと、山梨県の——」
現在位置と状況を伝え、通話はすぐに終わった。
人生で初めて通報というものをした。リンの心臓はバクバク暴れている。
山奥ということもあって、救急車の到着には時間を要するらしい。
間に合うのだろうか……。
声も出せず、リンは崖下に転がっている人を凝視することしかできない。ふと、人影の腕がそろそろと動いているのに気が付いた。
「大丈夫ですかぁー!!」
声を張り上げるも、それらしい反応は返ってこない。
救急車はまだ来ないのか? 通報から何分経った?
「ええい、くそっ」
居ても立っても居られず、リンはビーノに向かって駆け出す。
積載している荷物に手を突っ込み、お目当てのものを引っ張り出す。リンの手に握りしめられているのは、ガイロープ。テントやタープを固定するのに使う頑丈なロープだ。様々な場面で活躍するため、リンはいつも十メートルくらい余分に持つようにしている。
事故現場まで戻ってきたリンは、ガイロープの束を解いてガードレールの支柱に縛り付ける。ガイロープ一本でリンの体重の五倍は余裕で支えられるが、念のため二つ折りにした。崖下まで二、三メートルなので、それでも長さに余裕はある。
(まさかコイツをこんな風に使うなんて思ってなかったけど……)
こんなことをしたなんて、母の咲に知られたらとんでもなく叱られるだろうが、まあバレなきゃいいだろう。今は緊急事態だし。
ガードレールに縛りつけたガイロープを思い切り引っ張って、強度を確かめたリンは、即席の命綱と崖の斜面を伝って、そろりそろりと降りて行った。
「大丈夫ですかっ」
何とか崖下にたどり着いたリンは、声をかけながらバイカーに駆け寄る。
体型と着衣から初めてこのバイカーが女性だと気付く。倒れたバイクに左脚が完全に挟まれてしまっている。
「大丈夫ですか、聞こえますかっ」
「…………」
身じろぎはしているものの、リンの声に返事はない。
(まずは、このバイクどかさないと)
知らないバイクの操作系統に戸惑いながらも、何とかエンジンを切ったリンは、倒れている車体に手をかける。
「くっ、……こんのぉ……っ!」
愛車のビーノに比べれば格段に重いし大きい。リンは自分の小柄な体格が恨めしくなった。
格闘すること数十秒、自分の体のどこにそんな力があったのだろう、リンは何とか車体を立たせることができた。
「よっし、何とか持ち上が……うわぁっ」
勢い余って反対側に倒してしまった。しかし今はバイクよりも人命の方だ。
バイクと地面に挟まれていた女性の左脚は、あり得ない方向に捻じ曲がっている。リンの背筋に薄寒いものが走ったが、そちらの方はなるべく見ないようにして、リンは再び声をかける。
「大丈夫ですか、分かりますか!」
「うぅん……」
ヘルメットの中から、くぐもったうめき声が聞こえた。
顔を確認したかったが、いつだったか動画で、事故時のヘルメットは他人が外してはいけないと言っていた記憶がある。
リンはヘルメットを外すのはやめて、シールド部分だけを上げた。
シールドを上げると、きつく閉じられていたまぶたがゆっくりと開いた。涙のにじんだ双眸がリンを捉える。
おもむろに、バイカーの女性は右手を挙げて、リンの頬にそっと触れた。
「…………天使?」
「違いますけど」
◆◆◆
「それで、どうして第一声が『天使』だったんですか?」
リンがじっとりとした目を向けると、ヘルメットを脱いだ女はカラカラと笑った。
「だってさぁ、『あーこれ死ぬな』って思ってたところにこーんな可愛い子が来たんだもん。天使だって思うじゃん、誰だって」
「は、はぁ……」
意識を取り戻した女性バイカーは、リンの手を借りつつ崖の斜面まで移動できる程度には軽傷だった。
今は二人で崖にもたれかかり、救急車を待っているところだ。
女性バイカーはミナと名乗った。山梨県で大学生をやっているそうだ。
ヘルメットを外したミナは、女性のリンでも思わず見惚れてしまうような美人だった。ほどよく日焼けした肌に、金色のショートヘアがよく映えている。なでしこの姉、桜をクール系美人とすれば、ミナはサバサバ系美人といったところか。バレンタインで女子から大量にチョコをもらっていそうなタイプだ。
「あの、ミナさん、脚の方は大丈夫ですか?」
ミナのすらりと長い左脚は、あらぬ方向へと捻じ曲がってしまっている。直視するのが躊躇われ、リンは無意識のうちに目を逸らしていた。
リンの心配に、ミナはからからと笑って応じた。
「それがさ、見た目ほど痛くないんだよね。多分、アドレナリンドバドバで感覚麻痺してるんだと思う」
「そ、そうですか……。後が怖いですね」
「本当にねー、救急車まだかなー」
これだけの負傷をしながらも、ミナの態度はあっけらかんとしたものだ。これが大人の余裕というやつなのだろうか?
「リンちゃん、高校生でしょ? こんな山奥まで原付で何しに来たの?」
「キャンプです」
「キャンプって言うと、この峠超えたところのキャンプ場か」
「そうです」
「へぇ! すごいなあ、高校生の女の子が一人でねぇ。たくましいね」
ミナからの尊敬の眼差しにこそばゆくなって、リンは少しだけ話題を逸らした。
「ミナさんもすごいですよ。あんな速そうなバイクで、峠攻めてるじゃないですか」
「別に大したことないよ。油断して事故ってるし、私は下手くそだ」
路面があんな状態だなんて予測できるわけもないし、あの事故は不可抗力と言って差し支えないだろう。
ミナの運転に落ち度があったとは思えない、そう言おうとして、ミナの顔を見たリンは閉口するしかなかった。少し離れた所に転がっている愛車を見つめるミナの目が、どうしようもないほど哀しげに揺れていたからだ。
ミナのバイクは、これもまた酷い有様だった。風防や灯火類が粉々に砕け、カウルはひびだらけ、前後のタイヤはどちらも形が歪んでしまっている。
「廃車」という残酷な二文字がリンの脳内に浮かび上がった。
「……きっと、直りますよ」
思わず口をついで出た言葉の、なんと空虚なことか。
この場にいるのが自分でなくて、なでしこだったら、もっと心強くて前向きな言葉を出せるだろうに。
リンが悔しくて俯いていると、ミナは優しくリンの頭を撫でた。
「ありがと。リンちゃんは優しいね」
「そんなことは……」
ミナは寂しげに微笑みを浮かべた。
「あのバイク、カワサキのGPZ250Rっていうんだ。1985年のめちゃ古いバイクなんだよ」
「そんなに……」
リンの倍以上も歳上のバイクだったとは。
続くミナの口調は、ほとんど独り言のようだった。
「買った時にバイク屋から言われたんだよね。壊れた時は廃車にする覚悟で乗れって。とうの昔に絶版になってるし、何よりあんまり人気がなかったから、球数も少ない」
「そう……なんですか……」
「高校生の時、近所のバイク屋で見かけて一目惚れしちゃってさ。必死にバイトして親も説得して、買った時は嬉しかったなあ」
「乗り始めてからどのくらいになるんですか?」
「今年で五年目かな。本当に色んな所に連れてってもらったよ。去年は半月かけて北海道一周してきた」
北海道。言わずと知れたライダーの聖地であることはリンも知っている。祖父からもいろいろと聞かされたものだった。
ミナはポケットからスマホを取り出すと、写真を見せてくれた。
広い空と広い草原をバックに、真っ赤なGPZ250Rが佇んでいる。何だかとっても誇らしそうだ。
画面をスワイプして次に表示されたのは、ミナとGPZ250Rのツーショットだった。写真の中のミナは、見ているリンが思わずドキリとするほど、輝くような笑みを浮かべている。
「いい写真でしょ?」
「はい。本当に」
ミナは長年連れ添った恋人を見るような目で、ズタボロになったGPZ250Rを眺めている。
その眼差しを見て、リンは直感した。ミナにとってあのバイクは、ただの移動手段ではない、もっと彼女の深い部分を形作っているものなのだと。
「ま、形あるものはいつか壊れるんだし。四十年も前の旧車が、こんな小娘に五年も付き合ってくれたんだ。そろそろ乗り換えろってことなのかもね」
リンの目に映るミナの静かな笑みは、あまりにも痛々しかった。
「あのっ!」
リンの大声に、ミナは少し驚いたように目を見開いた。自分の口から出た声の大きさに、リン自身も驚いていた。
「私、キャンプ道具はおじいちゃんのお下がりを使ってるんです。古いやつだから、やっぱりあちこちガタが来たりしてて。でも、直したり部品を交換したりして、今日まで何とか使ってこれてます。
だから、ミナさんのバイクもきっと直ります。私のおじいちゃんが言ってました。バイク乗りは一匹狼が多いけど、同じバイク乗りが困っているとどこからともなく助けに来る習性があるって。だから、きっと、ミナさんのバイクだって——」
リンが言い終わる前に、ミナがリンに抱きついてきた。
「うぇっ!? ちょ、え、えっ」
「ありがと。リンちゃん」
耳元で囁かれたお礼の言葉がくすぐったくて、リンは身を捩った。
「と、とりあえず、ミナさん。離れてください」
「…………」
「ミナさん……?」
ミナはリンに抱きついたまま震えている。
再びリンの耳元で声がする。
「リンちゃん……アドレナリン切れたっぽい。ひ、左脚がバカクソ痛いかも……ど、どうしよ」
「ええっ!? あーもう、急に動くから!」
話し込んですっかり忘れていたが、この女子大生は絶賛大怪我真っ只中なのである。
歯をガチガチ言わせ、脂汗をだらだら垂らすミナ。
今この場でリンができることは、ミナを宥めすかしながら、救急車を待つことだけだった。
「早く来てくれ救急車〜っ!」
リンの叫びは、山間に虚しく溶けていった。
—————————
(もう一年前か。ミナさん、どうしてるかな)
あの日の記憶は、そこそこの印象として、リンの脳内に残っている。
結局あの後、すぐに救急車と警察が到着し、あれよあれよという間にミナは搬送されていった。残されたリンは警察から簡単な事情聴取を受けて解放された。
予定より少し遅れてキャンプ場に到着したリンは、そのままソロキャンをしたわけだが、どうにもミナのことが気になって身が入らなかったのを覚えている。
それからリンは日常生活を送っていたわけだが、ミナとGPZ250Rがどうなったのかは、分からず仕舞いだった。
同じ山梨だしどこかで行き合うかも、なんて淡い期待はとうに崩れ去っている。
あの真っ赤なバイクは今も峠を駆けているのだろうか。そうであったらいいなと思う。
「——っと、次で曲がらなきゃな」
物思いに耽っていて、曲がる道を逃すところだった。
リンはふっと息を吐いて、目の前の道に集中する。
相変わらず、リンはソロキャンに励んでいる。今日のキャンプ地は本栖湖湖畔のキャンプ場。これまでに何度も通った場所だから、慣れたものである。
見慣れた山道をリンはいつもの調子で登っていく。
そして何とはなしに手元のメーターに目をやって、リンは目を見開いた。燃料警告灯が点灯している。
「えっ、なんで!?」
前回の給油タイミングから考えて、今回のキャンプの帰りに入れれば十分間に合うはずなのに。
そう思った直後、リンの脳内に一つの記憶が蘇る。それは昨日の父とのやり取り。
「リン、少し原付使ってもいいかな」
「うん、いいよ」
「給油は帰り道でやって来るから——」
「いいよいいよ。明日キャンプ行く時に行きの道でやっちゃうから」
「そう? でも——」
「大丈夫だって。お父さん心配しすぎ」
想起される会話。慢心の極みでしかない己の発言。記憶の彼方にすっ飛んでいた給油。
——やっちまった。
「うわぁ〜っ! もってくれガソリン〜!」
◆◆◆
希望は潰えた。
キャンプ場へ向かう山道で、ついにリンのビーノは沈黙した。
そこそこの勾配の上り坂。フル積載の原付を押していくのはかなりの重労働である。
道中の小さな展望スペースまで何とか辿り着いたリンは、備え付けられたベンチに寝転がった。疲労と絶望感で体が重い。
「どうしよう……」
このまま押して向かうには体力がもつ気がしないし、着く頃には受付が終了している。両親とも今日は出かけていて夜まで帰らない。なでしこ経由で桜に頼ることも頭をよぎったが、人様にそんな迷惑はかけられない。
いつも行っている場所だからと油断しているからこうなるのだ。リンは己を呪った。
(いっそのこと引き返すか……?)
来た道を戻ればずっと下り坂だ。重力に任せてのんびりと麓まで下っていけばガソスタに行けるかも……。
「仕方ない。これも気が緩んでいた自分への罰ってことで」
動力なしに山道を下るのは正直かなり心許ないが、他に良い手段は思いつかなかった。
ビーノを来た道へと向けて、またがる。
いざ進もうとしたその時、展望スペースに一台のバイクが入ってきた。真っ赤なカラーリングに、つるりと丸み帯びた車体。
「ん……?」
リンが心の内に浮かんだ既視感に気付くより早く、乗っていたバイカーがヘルメットを脱いだ。
浅黒く日焼けした肌、爽やかな金髪。
一年前の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
「み、ミナさん!?」
思わず上がったリンの声に、バイカーが振り向いた。一年前と比べて、少し髪が伸びているが、間違いない。ミナだ。
「あれ、リンちゃん? わぁ、久しぶり!」
満面の笑みを浮かべて、ミナが駆け寄ってくる。
「リンちゃん、まだキャンプやってるんだね。元気そうでよかった」
「ミナさんこそ。脚はもう大丈夫なんですか?」
「一ヶ月で退院だったよ。私より大変だったのはこっちね」
手のかかる弟妹を紹介するような調子で、ミナはGPZ250Rを指差した。
事故当時、ほとんど廃車確実だったGPZ250Rは、西陽を浴びてきらきらと光っている。
「直ったんですね」
「退院してから全国のバイクショップとバイクのオーナーさん駆けずり回って、何とかパーツ揃えて、ようやく直ったのが先月だよ。おかげで財布もすっからかん」
困ったもんだわ、と肩をすくめる割にミナは楽しそうだ。
「よかったです、本当に。あれからずっと気になってたから」
「ありがとね、リンちゃん。あの時のリンちゃんの言葉がなかったら、私は多分諦めてたから」
「そんな、私は本当に何もしてないですよ」
ミナは軽く首を横に振ってから、改めてリンを見た。
「リンちゃんはこれから帰るところ? もし良かったらちょっとだけ一緒に走らない?」
ミナの言葉に、リンは一瞬で現実に引き戻された。
「実は——」
リンの話を聞き終え、ミナはからからと笑った。
「ガス欠かぁ。私も何度かやらかしたなぁ。街頭もない田舎道を十キロ押して帰ったこともあるよ」
「はは……」
リンは乾いた笑いを返すことしかできない。現在、リンはほとんど同じことをやろうとしているのだから。
表情をこわばらせるリンに、ミナは優しく笑いかけた。
「そんな顔しないで。これからガソスタ行って、ガソリン持ってくるよ」
「えっ」
「安心して。この道下った先に馴染みの店があるの。私が言えば携行缶も貸してくれると思うから」
「いいんですか!?」
「もちろん。リンちゃんは私の恩人だもん、このくらいさせてもらわなきゃね」
言うが早いか、ミナはヘルメットを被り、颯爽と愛車にまたがった。
(女神……!)
ミナの駆るGPZ250Rは、威勢のいいエンジン音と共に飛び出していった。
◆◆◆
ガソリンの携行缶を携えたミナは、三十分と少しで戻ってきた。
「本当にありがとうございます……!」
「お礼ならもう死ぬほど聞いたよ」
給油を済ませたリンのビーノは、すっかり元気を取り戻し、威勢よくエンジンを震わせている。
「リンちゃんはこれから本栖湖でキャンプだっけ?」
「はい。ミナさんのおかげで暗くなる前にテント設営もできそうです」
「そりゃよかった。——じゃあ、もしよかったら本栖湖まで一緒に行かない?」
「いいんですか、ミナさん行く所とかあるんじゃ」
ガソリンを運んできてくれた上に、ツーリングにまで付き合わせてしまうのは申し訳ないと、リンが恐縮するも、ミナはひらひらと手を振った。
「大丈夫だよ。これから山中湖回って、あとは都留に帰るだけだから」
「そうですか。……じゃあ、是非お願いします」
リンは自分の鼓動が少しだけ速くなるのを自覚した。
一年振りに劇的な再開を果たした人と、短距離とはいえツーリング。何だかとてもドラマっぽい。
それぞれ互いの愛車にまたがり、軽くエンジンを吹かす。ビーノもGPZ250Rも走り始めるのを今か今かと待っている。
リンは手振りで「行きます」と合図をし、右手を捻る。ビーノがゆっくりと動き出す。それを追ってGPZ250Rもするりと道に滑り出た。
リンはミラー越しに、ミナが後ろを走っているのを確認しながら走る。
リンもミナもインカムは着けていないので会話はできない。しかし、二台のバイクは奇妙な連帯感をもって峠道を行く。
ミナと一緒に走るのは初めてのはずなのに、リンに緊張はなかった。それどころか、確固たる安心感すら感じられた。
本栖湖までそう遠くなかったこともあり、二人のツーリングはすぐに終わった。
キャンプ場前の駐車場にビーノを停めたリンは、ヘルメットを脱いでミナに向き直る。
隣に停車しているミナは、ヘルメットを脱がず、アイドリング状態ですぐにでも走り出せる体勢だ。
「ミナさん、本当に助かりました。ありがとうございました」
リンがぺこりと頭を下げると、ミナも頷く。
「私もありがとね。楽しかったよ」
ミナはリンに軽く手を挙げると、「じゃ、また」と残して走り去っていく。
GPZ250Rのテールランプが見えなくなるまで、リンはその場から動かなかった。
(よし、行くか)
受付に向かおうとしたところで、リンははたと気付く。
「連絡先、交換するの忘れた……」
一瞬、後悔のような感情に襲われるが、リンはすぐにそれを捨て去った。
道は繋がっている。
リンもミナも狭い山梨住み。
きっとどこかで、また逢えるに違いなかった。