第十三の主従   作:知人

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第十話 境界線

 

「……見えているのか?」

その声が誰のものなのか、一瞬分からなかった。

自分の声。

いや。

俺の口から出たはずなのに、俺の声じゃない。

医務室の天井が歪んでいる。

白い。

それだけだったはずの天井に、細い亀裂のような光が走っていた。

一本。

二本。

三本。

光はやがて円を描き、俺の頭上でゆっくり回転を始めた。

五つ。

今の俺には、それが何なのか分かる。

光輪。

契約の証。

力の証。

そして――代償の証。

「……トウジ?」

ヒカリの声が聞こえた。

俺は視線だけを動かした。

ベッドの横に、ヒカリが立っている。

その顔には、隠しきれない心配が浮かんでいた。

「大丈夫?」

「……ああ」

返事をした。

けれど、自分でも分かった。

少し遅い。

一拍。

ほんの一拍だけ、俺の声が遅れて聞こえた。

『大丈夫ではない』

頭の中で声がした。

俺は眉をひそめる。

「……黙れ」

ヒカリが驚いた顔をする。

「え?」

「いや……なんでもない」

違う。

今のは俺じゃない。

バルディエルだ。

そして、その直後。

もう一つの声が重なった。

『警戒してください』

サハクィエル。

俺は目を閉じた。

二つの意識。

二つの記憶。

二つの存在。

それらが、俺の中にいる。

以前なら「頭の中に声がする」で済ませられた。

だが、今は違う。

俺には分かる。

バルディエルが何を感じているのか。

サハクィエルが何を恐れているのか。

そして――二体が俺をどう見ているのか。

『主』

バルディエルが呼ぶ。

『契約者』

サハクィエルが続ける。

俺は拳を握った。

「その呼び方、やめろ」

返事はない。

ただ、頭の奥に二つの感情が残った。

困惑。

そして、悲しみ。

「……なんでお前らが悲しむんだよ」

俺は小さく呟いた。

ヒカリがこちらを見る。

「トウジ?」

「なんでもない」

俺は笑った。

笑えているつもりだった。

けれど、ヒカリの表情は晴れなかった。

「……最近、変だよ」

「何が?」

「トウジが」

言葉が止まった。

「前より……一人で話してることが増えた」

「……」

「それに、時々すごく遠いところを見てる」

ヒカリは少しだけ視線を落とした。

「私には言えないこと?」

答えられなかった。

言えるわけがない。

俺の左腕が、もう普通の人間の腕じゃない。

俺の中には使徒がいる。

そして、俺はその使徒と契約している。

そんな話をしたところで、誰が信じる。

「……悪い」

「謝ってほしいんじゃない」

ヒカリは顔を上げた。

「ただ……無理してるなら、言って」

「……」

「私、何もできないかもしれないけど」

その言葉が胸に刺さった。

何もできない。

違う。

ヒカリは、何もできないんじゃない。

俺が何もさせていない。

巻き込まないように。

危険から遠ざけるように。

そう思っていた。

でも。

本当にそれでいいのか。

『人間は、一人では生きられない』

サハクィエルの声。

『ならば、なぜ我らを拒む?』

バルディエルの声。

俺は目を伏せた。

「……俺は」

そこまで言って、言葉が止まった。

その瞬間。

――警報が鳴った。

けたたましいサイレン。

赤い照明。

医務室の空気が一瞬で変わる。

ヒカリが振り返った。

「使徒……?」

俺も起き上がった。

胸の奥が熱い。

左腕が疼く。

「違う」

「え?」

「まだ、来てない」

俺には分かる。

それは、これまでとは違う感覚だった。

敵の気配ではない。

もっと遠い。

地下。

深い場所。

NERVのさらに下。

そこから何かがこちらを見ている。

「……誰だ」

俺は呟いた。

返事はなかった。

代わりに、視界が白く染まった。

――見えた。

巨大な空間。

壁。

拘束具。

その中央に、何かがある。

いや。

「……人?」

人間に見えた。

だが、人間ではない。

白い身体。

赤い瞳。

巨大な十字架。

そして、その向こう側。

何かがこちらを見ている。

俺は息を呑んだ。

「……リリス?」

その瞬間。

頭の中で、バルディエルが初めて明確な恐怖を示した。

『見るな』

サハクィエルも同じだった。

『契約者。そこから離れてください』

「なんでだよ」

『あれは――』

二体の声が重なった。

『母ではない』

俺の背筋が凍った。

視界が途切れる。

「……っ!」

俺はベッドに手をついた。

呼吸が荒くなる。

ヒカリが駆け寄った。

「トウジ!」

「……大丈夫」

「大丈夫じゃない!」

「大丈夫だ!」

思わず怒鳴った。

ヒカリが固まる。

俺自身も驚いた。

「……ごめん」

「……ううん」

ヒカリは何も言わなかった。

ただ、少し離れた。

その距離が痛かった。

その頃。

NERV本部、司令室。

葛城ミサトはモニターを睨んでいた。

「MAGI、今の異常は何?」

「確認中です」

青葉の声。

モニターには複数の波形が表示されている。

赤木リツコは腕を組んでいた。

「……やっぱり」

「リツコ?」

「第3居住区の生命反応じゃない」

「じゃあ何?」

リツコは答えなかった。

波形の発生地点。

そこは――医務室。

そしてもう一つ。

地下深部。

二つの反応が、同時に記録されていた。

「トウジ君と、地下施設で何かが共鳴している」

ミサトの顔が険しくなる。

「地下施設って……」

「例の区画よ」

「……あの封印区画?」

リツコが頷く。

「そう」

ミサトは黙った。

あの区画は、通常の職員には存在そのものが知らされていない。

記録上は存在しない。

だが、確かにある。

そして。

そこには、四号機事故以降に回収された――あるものが保管されている。

「欠片……」

ミサトが呟いた。

リツコは否定しなかった。

「回収された欠片は、これまで一度も自発的な反応を示さなかった」

「でも今は?」

「違う」

リツコは画面を指した。

「トウジ君が反応した瞬間、欠片の側も反応した」

「まるで……」

「呼び合っているみたいね」

司令室の空気が重くなる。

その頃。

医務室。

俺は一人になっていた。

ヒカリは出ていった。

面会制限がかかったらしい。

俺は左腕を見る。

皮膚の下で、何かが動いた。

「……お前ら」

『はい』

『ここにいる』

「さっき見えたもの」

沈黙。

「リリスを見て、お前らは『母じゃない』って言ったよな」

『……』

「どういう意味だ」

しばらくして。

バルディエルが答えた。

『我らにとって、母とは生まれた場所ではない』

「……?」

『帰る場所だ』

サハクィエルが続ける。

『だが、あれは我らを帰すものではない』

俺は眉をひそめた。

「じゃあ、あれは何なんだ」

『器』

「器?」

『そう』

その言葉を聞いた瞬間。

頭の中に、別の映像が流れ込んだ。

白い巨人。

巨大な月。

赤い海。

そして。

七つの光。

俺は息を呑んだ。

「……七つ?」

五つの光輪。

その外側に、二つ。

まだ存在していない光。

そのうちの一つが、俺の胸元へ伸びてくる。

「……何だ、これ」

『まだ早い』

バルディエルが言った。

『五つで十分』

サハクィエルも続ける。

『六つ目も、まだ遠い』

俺は眉を寄せる。

「六つ目?」

返事はない。

「おい」

沈黙。

「六つ目って何だよ」

その時。

医務室のドアが開いた。

「鈴原」

葛城ミサトだった。

俺は反射的に姿勢を正した。

「葛城さん?」

「少し話がある」

ミサトの後ろには、リツコがいた。

二人とも笑っていない。

俺は直感した。

「……俺、何かした?」

ミサトは答えなかった。

代わりにリツコが口を開く。

「鈴原君」

「はい」

「あなたは今日、地下深部を見た?」

心臓が止まりそうになった。

「……何のことですか」

「質問に答えて」

「見てません」

嘘だった。

リツコは俺をじっと見つめる。

「本当に?」

「……」

「あなたが何を見たのか、こちらには記録がある」

モニターが起動する。

そこに映し出されたのは、波形だった。

俺の脳波。

そして、地下施設の反応。

完全に一致している。

「……」

「偶然ではない」

リツコが言った。

「あなたと、地下の『何か』は接続した」

ミサトが一歩近づく。

「鈴原。聞かせて」

「何を?」

「何を見たの?」

俺は答えられなかった。

リリス。

そう答えれば、何かが変わる。

今までとは違う何かが。

だから。

俺は黙った。

その沈黙を破ったのは――

『答えるな』

バルディエルだった。

『まだ早い』

サハクィエルも同じだった。

『彼らは知るべきではありません』

俺は二体の言葉を聞きながら、初めて理解した。

使徒たちは俺を守っている。

それは分かった。

だが。

同時に。

俺から何かを隠している。

「……葛城さん」

「何?」

「俺からも聞きたいことがあります」

ミサトが黙る。

俺はリツコを見る。

「俺の左腕。

これ、いつから『こうなる』ことが分かってたんですか?」

リツコの表情が変わった。

ほんの一瞬。

だが、確かに変わった。

俺は見逃さなかった。

「……どういう意味?」

「俺が目を覚ます前から、知ってたんじゃないですか」

沈黙。

「四号機の事故のことも」

さらに沈黙。

「欠片のことも」

ミサトが息を呑む。

リツコは目を細めた。

「……誰から聞いたの?」

「誰からも」

俺は答えた。

「ただ、俺の中にいる奴らが教えてくれた」

その瞬間。

医務室の照明が落ちた。

暗闇。

そして。

俺の頭上に、五つの光輪が浮かび上がった。

ミサトが息を呑む。

リツコが後退する。

五つの輪がゆっくり回転する。

だが。

その中心に。

一瞬だけ。

存在しないはずの――

六つ目の光が灯った。

「……え?」

俺自身が呟いた。

光はすぐに消えた。

だが、その瞬間。

地下深部で。

封印されていた「欠片」が、初めて動いた。

そして。

NERVの誰も知らない場所で。

誰かが静かに目を開いた。

『――やっと、見つけた』

その声は。

使徒のものではなかった。

人間のものでもなかった。

そして、その声を聞いた瞬間。

俺の中の二体が、初めて同時に叫んだ。

『逃げろ、主』

『契約者――あれは敵です』

俺は拳を握った。

五つの光輪が消える。

けれど。

胸の奥には、消えない違和感が残った。

六つ目。

まだ存在しないはずの光。

そして。

俺を「見つけた」と言った存在。

俺は知らなかった。

この日を境に。

俺の戦いは、使徒と戦うことではなくなる。

誰が敵なのか。

誰が味方なのか。

そして。

俺自身が何者なのか。

その境界線を――

一つずつ、越えていくことになる。

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