「……見えているのか?」
その声が誰のものなのか、一瞬分からなかった。
自分の声。
いや。
俺の口から出たはずなのに、俺の声じゃない。
医務室の天井が歪んでいる。
白い。
それだけだったはずの天井に、細い亀裂のような光が走っていた。
一本。
二本。
三本。
光はやがて円を描き、俺の頭上でゆっくり回転を始めた。
五つ。
今の俺には、それが何なのか分かる。
光輪。
契約の証。
力の証。
そして――代償の証。
「……トウジ?」
ヒカリの声が聞こえた。
俺は視線だけを動かした。
ベッドの横に、ヒカリが立っている。
その顔には、隠しきれない心配が浮かんでいた。
「大丈夫?」
「……ああ」
返事をした。
けれど、自分でも分かった。
少し遅い。
一拍。
ほんの一拍だけ、俺の声が遅れて聞こえた。
『大丈夫ではない』
頭の中で声がした。
俺は眉をひそめる。
「……黙れ」
ヒカリが驚いた顔をする。
「え?」
「いや……なんでもない」
違う。
今のは俺じゃない。
バルディエルだ。
そして、その直後。
もう一つの声が重なった。
『警戒してください』
サハクィエル。
俺は目を閉じた。
二つの意識。
二つの記憶。
二つの存在。
それらが、俺の中にいる。
以前なら「頭の中に声がする」で済ませられた。
だが、今は違う。
俺には分かる。
バルディエルが何を感じているのか。
サハクィエルが何を恐れているのか。
そして――二体が俺をどう見ているのか。
『主』
バルディエルが呼ぶ。
『契約者』
サハクィエルが続ける。
俺は拳を握った。
「その呼び方、やめろ」
返事はない。
ただ、頭の奥に二つの感情が残った。
困惑。
そして、悲しみ。
「……なんでお前らが悲しむんだよ」
俺は小さく呟いた。
ヒカリがこちらを見る。
「トウジ?」
「なんでもない」
俺は笑った。
笑えているつもりだった。
けれど、ヒカリの表情は晴れなかった。
「……最近、変だよ」
「何が?」
「トウジが」
言葉が止まった。
「前より……一人で話してることが増えた」
「……」
「それに、時々すごく遠いところを見てる」
ヒカリは少しだけ視線を落とした。
「私には言えないこと?」
答えられなかった。
言えるわけがない。
俺の左腕が、もう普通の人間の腕じゃない。
俺の中には使徒がいる。
そして、俺はその使徒と契約している。
そんな話をしたところで、誰が信じる。
「……悪い」
「謝ってほしいんじゃない」
ヒカリは顔を上げた。
「ただ……無理してるなら、言って」
「……」
「私、何もできないかもしれないけど」
その言葉が胸に刺さった。
何もできない。
違う。
ヒカリは、何もできないんじゃない。
俺が何もさせていない。
巻き込まないように。
危険から遠ざけるように。
そう思っていた。
でも。
本当にそれでいいのか。
『人間は、一人では生きられない』
サハクィエルの声。
『ならば、なぜ我らを拒む?』
バルディエルの声。
俺は目を伏せた。
「……俺は」
そこまで言って、言葉が止まった。
その瞬間。
――警報が鳴った。
けたたましいサイレン。
赤い照明。
医務室の空気が一瞬で変わる。
ヒカリが振り返った。
「使徒……?」
俺も起き上がった。
胸の奥が熱い。
左腕が疼く。
「違う」
「え?」
「まだ、来てない」
俺には分かる。
それは、これまでとは違う感覚だった。
敵の気配ではない。
もっと遠い。
地下。
深い場所。
NERVのさらに下。
そこから何かがこちらを見ている。
「……誰だ」
俺は呟いた。
返事はなかった。
代わりに、視界が白く染まった。
――見えた。
巨大な空間。
壁。
拘束具。
その中央に、何かがある。
いや。
「……人?」
人間に見えた。
だが、人間ではない。
白い身体。
赤い瞳。
巨大な十字架。
そして、その向こう側。
何かがこちらを見ている。
俺は息を呑んだ。
「……リリス?」
その瞬間。
頭の中で、バルディエルが初めて明確な恐怖を示した。
『見るな』
サハクィエルも同じだった。
『契約者。そこから離れてください』
「なんでだよ」
『あれは――』
二体の声が重なった。
『母ではない』
俺の背筋が凍った。
視界が途切れる。
「……っ!」
俺はベッドに手をついた。
呼吸が荒くなる。
ヒカリが駆け寄った。
「トウジ!」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「大丈夫だ!」
思わず怒鳴った。
ヒカリが固まる。
俺自身も驚いた。
「……ごめん」
「……ううん」
ヒカリは何も言わなかった。
ただ、少し離れた。
その距離が痛かった。
その頃。
NERV本部、司令室。
葛城ミサトはモニターを睨んでいた。
「MAGI、今の異常は何?」
「確認中です」
青葉の声。
モニターには複数の波形が表示されている。
赤木リツコは腕を組んでいた。
「……やっぱり」
「リツコ?」
「第3居住区の生命反応じゃない」
「じゃあ何?」
リツコは答えなかった。
波形の発生地点。
そこは――医務室。
そしてもう一つ。
地下深部。
二つの反応が、同時に記録されていた。
「トウジ君と、地下施設で何かが共鳴している」
ミサトの顔が険しくなる。
「地下施設って……」
「例の区画よ」
「……あの封印区画?」
リツコが頷く。
「そう」
ミサトは黙った。
あの区画は、通常の職員には存在そのものが知らされていない。
記録上は存在しない。
だが、確かにある。
そして。
そこには、四号機事故以降に回収された――あるものが保管されている。
「欠片……」
ミサトが呟いた。
リツコは否定しなかった。
「回収された欠片は、これまで一度も自発的な反応を示さなかった」
「でも今は?」
「違う」
リツコは画面を指した。
「トウジ君が反応した瞬間、欠片の側も反応した」
「まるで……」
「呼び合っているみたいね」
司令室の空気が重くなる。
その頃。
医務室。
俺は一人になっていた。
ヒカリは出ていった。
面会制限がかかったらしい。
俺は左腕を見る。
皮膚の下で、何かが動いた。
「……お前ら」
『はい』
『ここにいる』
「さっき見えたもの」
沈黙。
「リリスを見て、お前らは『母じゃない』って言ったよな」
『……』
「どういう意味だ」
しばらくして。
バルディエルが答えた。
『我らにとって、母とは生まれた場所ではない』
「……?」
『帰る場所だ』
サハクィエルが続ける。
『だが、あれは我らを帰すものではない』
俺は眉をひそめた。
「じゃあ、あれは何なんだ」
『器』
「器?」
『そう』
その言葉を聞いた瞬間。
頭の中に、別の映像が流れ込んだ。
白い巨人。
巨大な月。
赤い海。
そして。
七つの光。
俺は息を呑んだ。
「……七つ?」
五つの光輪。
その外側に、二つ。
まだ存在していない光。
そのうちの一つが、俺の胸元へ伸びてくる。
「……何だ、これ」
『まだ早い』
バルディエルが言った。
『五つで十分』
サハクィエルも続ける。
『六つ目も、まだ遠い』
俺は眉を寄せる。
「六つ目?」
返事はない。
「おい」
沈黙。
「六つ目って何だよ」
その時。
医務室のドアが開いた。
「鈴原」
葛城ミサトだった。
俺は反射的に姿勢を正した。
「葛城さん?」
「少し話がある」
ミサトの後ろには、リツコがいた。
二人とも笑っていない。
俺は直感した。
「……俺、何かした?」
ミサトは答えなかった。
代わりにリツコが口を開く。
「鈴原君」
「はい」
「あなたは今日、地下深部を見た?」
心臓が止まりそうになった。
「……何のことですか」
「質問に答えて」
「見てません」
嘘だった。
リツコは俺をじっと見つめる。
「本当に?」
「……」
「あなたが何を見たのか、こちらには記録がある」
モニターが起動する。
そこに映し出されたのは、波形だった。
俺の脳波。
そして、地下施設の反応。
完全に一致している。
「……」
「偶然ではない」
リツコが言った。
「あなたと、地下の『何か』は接続した」
ミサトが一歩近づく。
「鈴原。聞かせて」
「何を?」
「何を見たの?」
俺は答えられなかった。
リリス。
そう答えれば、何かが変わる。
今までとは違う何かが。
だから。
俺は黙った。
その沈黙を破ったのは――
『答えるな』
バルディエルだった。
『まだ早い』
サハクィエルも同じだった。
『彼らは知るべきではありません』
俺は二体の言葉を聞きながら、初めて理解した。
使徒たちは俺を守っている。
それは分かった。
だが。
同時に。
俺から何かを隠している。
「……葛城さん」
「何?」
「俺からも聞きたいことがあります」
ミサトが黙る。
俺はリツコを見る。
「俺の左腕。
これ、いつから『こうなる』ことが分かってたんですか?」
リツコの表情が変わった。
ほんの一瞬。
だが、確かに変わった。
俺は見逃さなかった。
「……どういう意味?」
「俺が目を覚ます前から、知ってたんじゃないですか」
沈黙。
「四号機の事故のことも」
さらに沈黙。
「欠片のことも」
ミサトが息を呑む。
リツコは目を細めた。
「……誰から聞いたの?」
「誰からも」
俺は答えた。
「ただ、俺の中にいる奴らが教えてくれた」
その瞬間。
医務室の照明が落ちた。
暗闇。
そして。
俺の頭上に、五つの光輪が浮かび上がった。
ミサトが息を呑む。
リツコが後退する。
五つの輪がゆっくり回転する。
だが。
その中心に。
一瞬だけ。
存在しないはずの――
六つ目の光が灯った。
「……え?」
俺自身が呟いた。
光はすぐに消えた。
だが、その瞬間。
地下深部で。
封印されていた「欠片」が、初めて動いた。
そして。
NERVの誰も知らない場所で。
誰かが静かに目を開いた。
『――やっと、見つけた』
その声は。
使徒のものではなかった。
人間のものでもなかった。
そして、その声を聞いた瞬間。
俺の中の二体が、初めて同時に叫んだ。
『逃げろ、主』
『契約者――あれは敵です』
俺は拳を握った。
五つの光輪が消える。
けれど。
胸の奥には、消えない違和感が残った。
六つ目。
まだ存在しないはずの光。
そして。
俺を「見つけた」と言った存在。
俺は知らなかった。
この日を境に。
俺の戦いは、使徒と戦うことではなくなる。
誰が敵なのか。
誰が味方なのか。
そして。
俺自身が何者なのか。
その境界線を――
一つずつ、越えていくことになる。