目が覚めてから、三日目。
鈴原トウジは、自分の左手をじっと見つめていた。
包帯は外されている。
見た目だけなら、普通の手だった。
五本の指。
爪。
手のひらに残った薄い傷。
医者が「大きな損傷はない」と言ったのも理解できる。
けれど。
「……普通やないな」
指を握る。
ぎゅっ、と。
問題なく動く。
もう一度、開く。
やはり動く。
その動作だけなら、何も変わっていない。
だが。
意識をほんの少しだけ集中させると――
皮膚の下で、何かが応えた。
ぞわり。
左腕の奥を、冷たい感覚が走る。
トウジは反射的に手を開いた。
「……っ」
心臓が一度、大きく鳴った。
――どうした。
頭の奥から声がする。
低く、静かな声。
バルディエル。
「なんでもない」
――嘘だ。
「……うるさいわ」
――お前は、恐れている。
「当たり前やろ」
窓の外を見る。
第三新東京市。
いつもと変わらない街。
遠くに見える建物。
道路を走る車。
朝の光。
人間が暮らすために作られた、当たり前の景色。
その中に、自分もいる。
それなのに。
トウジには、その景色が以前とは違って見えた。
音が増えている。
空気の流れが分かる。
自分の身体の奥にあるものが、周囲の気配を拾っている。
そして何より。
目を閉じれば――
あの声がいる。
「……お前、ずっとそこにおるんか」
――いる。
「俺が寝てても?」
――いる。
「俺が死んでも?」
そこで。
声が止まった。
トウジは眉を寄せる。
「……なんや」
――その問いには、まだ答えられない。
「なんでや」
――分からない。
初めて聞いた答えだった。
バルディエルは、何でも知っているわけではない。
その事実に気づいた瞬間。
トウジの胸に、妙な安堵が生まれた。
「……そっか」
――何がだ。
「いや」
トウジは笑った。
ほんの少しだけ。
「お前も知らんことあるんやなって思ってな」
返事はなかった。
それが、少しだけ可笑しかった。
***
病室のドアが開く。
「起きてたのね」
ミサトだった。
手には紙袋。
いつもの彼女なら、もっと明るく声を掛ける。
しかし今日は違った。
「調子は?」
「ぼちぼちです」
「食欲は?」
「あります」
「吐き気は?」
「ないです」
「幻聴は?」
トウジの手が止まった。
ミサトも止まる。
数秒。
「……あります」
正直に答えた。
ミサトは驚かなかった。
「どのくらい?」
「常に」
「内容は?」
「普通に会話してます」
ミサトの表情が硬くなる。
「誰と?」
トウジは答えなかった。
ミサトも追及しない。
代わりに、紙袋をテーブルへ置いた。
「朝ご飯。病院食だけじゃ足りないでしょ」
「何入ってます?」
「おにぎり」
「……具は?」
「鮭」
「当たりや」
少しだけ空気が緩む。
だが。
ミサトは椅子へ座ると、真っ直ぐトウジを見た。
「トウジ君」
「はい」
「昨日、リツコから報告を受けたわ」
「何を?」
「あなたの脳波について」
トウジは黙った。
「通常の人間と完全に一致している」
「……それ、ええことなんですか?」
「普通ならね」
「普通なら?」
「一部だけ、説明のつかない波形が混ざってる」
ミサトは資料を一枚取り出した。
「あなたが眠っている間、何度か同じ反応が出てる」
「どんな?」
「誰かと会話しているような反応」
トウジは資料を見る。
波形が並んでいる。
規則的な脳波。
その中に、奇妙な周期。
二つの波が重なっている。
まるで――
二人分の意識が、一つの脳の中に存在しているようだった。
「……バルディエル」
思わず口にした。
ミサトの目が細くなる。
「その名前、あなたが言ったの?」
「え?」
「さっき」
「……あ」
トウジは口を閉じた。
自分が無意識に名前を呼んだことに気づく。
ミサトはしばらく黙っていた。
「ねえ、トウジ君」
「はい」
「あなたは、その存在をどう思ってる?」
難しい質問だった。
敵。
使徒。
自分を侵食した存在。
かつてなら、それだけで十分だった。
でも今は違う。
「……分かりません」
「怖くない?」
「怖いです」
即答だった。
「殺したいと思わない?」
トウジは窓の外を見る。
「最初は思いました」
「今は?」
「……話してみたら、ちょっと違った」
「違った?」
「俺を殺したかったわけやない」
ミサトは黙っている。
「命令されてただけやった」
その言葉を聞いた瞬間。
ミサトの表情がわずかに変わった。
「命令?」
「はい」
「誰から?」
「それは……」
トウジは答えられなかった。
バルディエルにも、分からない。
少なくとも今は。
ミサトはそれ以上聞かなかった。
ただ。
「分かった」
そう言って資料を閉じた。
***
同じ頃。
NERV本部、第二実験棟。
赤木リツコはモニターを見つめていた。
そこに映っているのは、四号機のデータだった。
起動実験。
接続実験。
そして――
異常値。
「やっぱり……」
画面を切り替える。
四号機のコア周辺で検出された、未知の反応。
既存の使徒パターンとは一致しない。
しかし完全な人間由来でもない。
「欠片……」
リツコが呟く。
その言葉に、背後から声が返った。
「それが何なのか、分かったの?」
ミサトだった。
「まだ」
「まだ、ね」
「分かっているのは、それが四号機の実験記録に残っていることだけ」
「サンプルは?」
「ない」
「ない?」
「正確には、残っていない」
リツコは別のデータを表示する。
記録の一部が欠落している。
削除されたわけではない。
もっと奇妙だった。
そこだけ、記録そのものが存在しない。
「誰かが消した?」
「それなら復元できる」
「じゃあ?」
「最初から記録されなかったようになっている」
ミサトは眉を寄せた。
「そんなことできるの?」
「普通ならできない」
「普通なら?」
リツコは答えなかった。
モニターの端。
時刻表示。
三時十七分。
その数字を見て、リツコの指が止まる。
「……また」
「どうしたの?」
「何でもないわ」
ミサトはその表情を見た。
しかし、追及しなかった。
まだ。
***
病室。
トウジはおにぎりを食べながら、窓の外を見ていた。
「……そういや」
ふと思い出す。
「シンジは?」
「碇君?」
「はい」
ミサトが少し笑った。
「毎日来てるわよ」
「毎日?」
「あなたが寝ててもね」
トウジは苦笑する。
「アイツ、律儀やなぁ」
「友達だからじゃない?」
「……友達」
その言葉が、胸に引っ掛かった。
自分が転校してきて。
一緒に飯を食って。
喧嘩して。
エヴァに乗って。
そして――
一度、殺されかけた。
それでも来てくれる。
「……変な奴や」
「そうね」
ミサトが笑う。
その時。
ドアがノックされた。
「入っていい?」
聞き覚えのある声。
「シンジ?」
ドアが開く。
碇シンジが立っていた。
手には小さな紙袋。
「これ……」
「なんや?」
「お見舞い」
「何やそれ」
「……プリン」
「子供扱いすんなや」
「嫌だった?」
「いや」
トウジは紙袋を受け取る。
「ありがとな」
「うん」
シンジは椅子に座った。
しばらく二人とも喋らない。
以前なら、沈黙が気まずかった。
今は違う。
沈黙の中に、言葉がある。
シンジが口を開いた。
「……怖い?」
トウジはプリンを見る。
「何が?」
「その……」
シンジは自分の手を見る。
「バルディエル」
トウジは少し驚いた。
「知ってるんか」
「ミサトさんから少しだけ」
「そっか」
「僕なら……」
シンジは言葉を探す。
「僕なら、怖くて仕方ないと思う」
トウジは笑った。
「俺もや」
「……え?」
「怖いで」
「そうなの?」
「そらそうやろ」
トウジは左腕を見る。
「俺の中に、俺やない奴がおるんや」
「……うん」
「せやけど」
トウジは少しだけ笑った。
「俺の中におるからって、俺が俺やなくなるわけやない」
シンジは顔を上げた。
「……そうかな」
「そうや」
「どうして分かるの?」
「分からん」
「え?」
「分からんけど」
トウジは自分の胸を叩いた。
「俺が俺やと思っとるうちは、俺やろ」
シンジは何も言わなかった。
やがて。
「……僕も、そう思えたらいいな」
小さな声だった。
トウジは、その言葉の意味を深く考えなかった。
まだ。
***
夕方。
病室を出たシンジは、廊下を歩いていた。
曲がり角の向こう。
惣流・アスカ・ラングレーが壁にもたれている。
「遅い」
「アスカ?」
「何話してたの?」
「別に」
「別にじゃないでしょ」
アスカはシンジの顔を見る。
「鈴原、普通だった?」
「うん」
「……そう」
短い返事。
だが、その声には安心が混じっていた。
アスカは病室の方を見る。
「本当に?」
「何が?」
「普通だった?」
「……うん」
シンジは少し迷ってから言った。
「でも」
「でも?」
「鈴原は、前より強くなった気がする」
アスカは鼻で笑った。
「強くなった?」
「うん」
「使徒と契約して?」
シンジは答えない。
アスカもそれ以上言わない。
二人の間に、冷たい沈黙が落ちた。
やがてアスカが呟く。
「……強くなるって、そんな簡単なことじゃないわよ」
その目は、病室の向こうを見ていた。
***
夜。
第三新東京市。
雨が降っていた。
病室の灯りが落ちる。
トウジはベッドに横たわっていた。
眠れない。
目を閉じる。
――起きているか。
「……寝ようとしてたんや」
――すまない。
「珍しいな」
――何が。
「お前が謝るん」
沈黙。
「なあ」
――何だ。
「今日、ミサトさんが言うてた」
――何を。
「脳波が二つあるみたいになっとるって」
――知っている。
「……知っとったんか」
――お前の感覚を通して、私にも見える。
トウジは天井を見る。
「じゃあ」
少し間を置く。
「俺が見てるもんも、お前は見とるんか?」
――全てではない。
「俺の記憶は?」
――全てではない。
「じゃあ、俺の昔のことは?」
――断片的だ。
「……妹のことも?」
その瞬間。
バルディエルの声が消えた。
トウジは眉を寄せる。
「おい」
返事がない。
「バルディエル?」
――知らない。
「何を?」
――お前の妹のことは、知らない。
「……そうか」
少し安心した。
それと同時に。
別の疑問が浮かぶ。
「じゃあ、なんで俺の記憶に入れる?」
――契約したからだ。
「契約って、そんなもんなんか?」
――違う。
「え?」
――本来なら、契約とは一方的に記憶を共有するものではない。
トウジは身体を起こした。
「じゃあ何や」
――境界を作るものだ。
「境界?」
――お前と私。
その言葉が、妙に重かった。
――敵と味方。
――人間と使徒。
――生と死。
――その間に線を引く。
トウジは黙った。
「……ほんなら」
――何だ。
「俺らは今、どっち側や?」
長い沈黙。
そして。
――分からない。
トウジは苦笑した。
「またそれか」
――だが。
声が続く。
――一つだけ分かる。
「何や」
――私は、お前を支配していない。
トウジは目を閉じた。
――そして、お前も私を支配していない。
「……主従やない、ってことか」
――そうだ。
その言葉が。
胸の奥に残った。
***
午前三時十七分。
NERV本部。
誰もいないはずの観測室。
モニターが一つだけ点灯した。
表示されたのは、四号機。
次に。
参号機。
そして。
鈴原トウジの生体データ。
心拍。
脳波。
血中酸素濃度。
すべて正常。
しかし。
画面の中央に、一つの波形が現れた。
既存のどのデータとも一致しない。
その波形は。
一度。
二度。
三度。
脈打った。
モニターに文字が表示される。
《接続を確認》
次の瞬間。
画面が切り替わる。
《契約者:不明》
《使徒:第十三》
《欠片:六》
そして。
最後の一行。
《観測者:在席》
観測室の暗闇。
誰もいないはずの椅子に。
白い少年が座っていた。
少年はモニターを見つめる。
表情は穏やかだった。
「……まだ、気づかないんだね」
誰に向けた言葉なのか。
答える者はいない。
少年は立ち上がった。
そして。
画面に映る六枚の光輪を見た。
「六枚目は、力じゃない」
静かな声。
「選んだんだ」
その瞬間。
病室のトウジが目を開いた。
「……誰や?」
頭の奥。
バルディエルの声が響く。
――私ではない。
トウジはベッドから起き上がった。
「じゃあ……誰や?」
窓の外。
雨が降り続いている。
街は眠っている。
けれど。
トウジには分かった。
今。
誰かが。
自分を見ている。
そして。
その視線は――
バルディエルのものではなかった。
トウジは左腕を握った。
皮膚の下で、何かが応える。
六枚の光輪。
そのさらに奥。
まだ開かれていない、何か。
「……来るんか」
――分からない。
「ほんま、お前はそればっかりやな」
――だが。
「ん?」
――今度は、私にも分かる。
バルディエルの声が低くなる。
――あれは、私たちを見ている。
トウジは窓の外を見た。
暗闇の向こう。
一瞬だけ。
白い何かが見えた気がした。
次の瞬間には、もう消えていた。
「……そうか」
トウジは小さく呟く。
「見られとるんやな」
六枚の光輪が。
誰にも見えない場所で。
静かに揺れた。
その夜。
鈴原トウジは初めて知った。
使徒と契約した自分を見ているのは――
NERVだけではない。
そして。
自分自身もまだ知らない「何か」が。
すでに、こちら側へ手を伸ばし始めていることを。