朝。
雨だった。
窓を叩く雨粒を眺めながら、トウジは制服の袖を通す。
昨日から続く胸の奥のざわつきは、まだ消えていない。
左腕を軽く回す。
痛みは薄い。
だが、肘から先だけ妙に冷えていた。
『今日は静かだ。』
バルディエルが呟く。
「静かやから嫌なんや。」
『どうして?』
「何か起きる前って、大体こんな感じやろ。」
バルディエルは少し考えた。
『……人間らしい考えだ。』
「褒め言葉として受け取っとくわ。」
居間。
サクラが傘を二本並べていた。
「兄ちゃん。」
「ん?」
「今日はこれ。」
黒い傘を差し出される。
「昨日のは?」
「骨曲がってた。」
「知らんかった。」
「だから新しいの。」
サクラは少し笑う。
「返してね。」
「当たり前や。」
「無くさないで。」
「子ども扱いするな。」
「する。」
即答だった。
二人とも笑う。
玄関を出る。
雨音が街を包む。
その時だった。
ぽつり、と。
雨粒とは違う音が耳に触れた。
――コン。
トウジは足を止める。
「今。」
『聞こえた。』
バルディエルも反応した。
振り返る。
誰もいない。
サクラは家の中へ戻っている。
電柱。
雨。
それだけ。
『昨日の金属音とは違う。』
「せやな。」
追わない。
今日は音だけ覚えておくことにした。
学校。
雨の日の教室は少し暗い。
窓際に座るレイが外を見ていた。
シンジが席へ来る。
「おはよう。」
「おう。」
「昨日。」
「街でまた見た。」
シンジは少し驚く。
「黒い線?」
「うん。」
「僕は見てない。」
「それでええ。」
シンジが首を傾げる。
「え?」
「見えへん方がええもんもある。」
シンジは苦笑した。
「それもそうか。」
そこへアスカが入ってくる。
「朝から湿っぽい顔してる。」
「雨やからな。」
「顔の話。」
「失礼な。」
アスカは机に鞄を置く。
「で?」
「今日は何見たの?」
「音。」
「音?」
「コン、って。」
アスカは腕を組んだ。
「線じゃなくなったの。」
「変わった。」
「ふーん。」
少しだけ真面目な顔になる。
「増えてるわね。」
その一言に、教室の空気が少し止まった。
三時間目。
国語。
先生の声が遠く聞こえる。
窓を流れる雨。
トウジはノートへ視線を落とした。
その瞬間。
文字が揺れた。
教科書ではない。
ノートの余白。
そこへ、一瞬だけ。
黒い輪が映る。
一つ。
すぐ消える。
「!」
鉛筆が止まる。
隣のシンジが小声で聞く。
「どうした?」
「何でもない。」
ノートを見る。
何もない。
『今のは。』
「見えた。」
『輪が減った。』
トウジは息を整える。
昨日は六つ。
今日は一つ。
現象が変わっている。
そこへ気づいたことだけを書き留めることにした。
放課後。
珍しく呼び出しはミサトだった。
NERV本部。
司令室ではなく作戦会議室。
ミサト。
リツコ。
マヤ。
三人が揃っていた。
「来たわね。」
「何かあったんか。」
リツコがモニターを開く。
昨日の地図。
学校。
商店街。
そして新しい点。
「今朝。」
「住宅街。」
トウジが地図を見る。
「俺ん家の近く。」
「ええ。」
マヤが補足する。
「未知波形が発生しています。」
「俺が家を出る前?」
「その直後。」
トウジは黙った。
「つまり。」
ミサトが言う。
「あなたを追ってるのか。」
「違うかもしれへん。」
全員がトウジを見る。
「何で?」
「昨日。」
「街でも学校でも見えた。」
「せやけど。」
トウジは地図を見る。
「俺がおらん場所でも出とる。」
リツコが静かに頷いた。
「そこは一致する。」
「なら。」
トウジは考える。
「俺を追っとるんやなくて。」
少し間を置く。
「境界が動いとる。」
会議室が静かになる。
リツコが画面を閉じた。
「仮説としては、有力ね。」
「でも証拠は。」
「まだない。」
トウジは少し笑った。
「またそこや。」
「ええ。」
リツコも小さく笑う。
「だから観測を続ける。」
帰り道。
雨は止んでいた。
雲の切れ間から夕日が差す。
濡れた道路が赤く光る。
トウジは商店街を歩いていた。
『静かだ。』
「また言うな。」
『さっきとは違う。』
「分かっとる。」
その時。
視界の端。
人影。
白い制服。
昨日の少年だった。
今度は逃げない。
向こうも立ち止まる。
二人の間は十メートルほど。
トウジが口を開く。
「お前。」
少年が頷く。
「また会った。」
「待っとったんか。」
「違う。」
「ほんなら。」
「同じ場所へ来た。」
その答えは妙に自然だった。
「昨日。」
少年が続ける。
「帰ったね。」
トウジは少し驚く。
夢の会話。
「見とったんか。」
少年は首を横に振る。
「違う。」
「じゃあ。」
「分かった。」
「何が。」
少年は胸に手を当てる。
「君が帰れたこと。」
トウジは目を細めた。
「お前。」
「何者や。」
少年は少しだけ困ったように笑う。
「まだ。」
「言えない。」
「理由は。」
「君が選んでない。」
その言葉だけ残して。
少年は振り返る。
歩き出す。
追おうとした。
でも。
足が止まる。
昨日、自分で決めた。
追わない。
見失わない。
その違いを。
今日は守った。
『追わなかった。』
バルディエルが言う。
「ああ。」
『成長した。』
「大げさや。」
『本当だ。』
トウジは少しだけ照れた。
夜。
自室。
ノートを開く。
今日の記録。
『黒い輪が一つだけ見えた。』
『未知波形は家の近くでも発生。』
『白い少年と再会。』
最後に一行。
『追わない選択をした。』
ペンを置く。
その時。
左腕が一瞬だけ熱を持った。
ズク。
痛みではない。
鼓動みたいだった。
『トウジ。』
「分かっとる。」
左腕を見る。
何もない。
だが。
手の甲へ一滴だけ。
黒い雫が落ちたように見えた。
瞬きをする。
消えている。
『幻か。』
「……分からん。」
でも。
今日は。
その言葉が少し違って聞こえた。
「分からん。」
「せやけど。」
「次に見る時は。」
ノートを閉じる。
「ちゃんと覚えとく。」
同じ頃。
NERV地下。
マヤが端末を見つめる。
「リツコさん。」
「何?」
「例の波形。」
「また?」
「今回は。」
画面を拡大する。
波形が六つに分かれる。
そのうち。
一つだけ。
他とは違う周期で脈打っていた。
リツコの表情が変わる。
「これ。」
「昨日までは全部同じでした。」
「ええ。」
リツコは静かに息を吐く。
「変化した。」
マヤが尋ねる。
「何がですか。」
リツコは画面を見つめたまま答えた。
「観測対象じゃない。」
一拍。
「観測そのものが。」
その瞬間。
司令室の照明が、一度だけ明滅した。
誰も気づかなかった。
ただ一台だけ。
電源を切っていたはずのモニターに。
赤い海が、一瞬だけ映っていた。
そして画面は、何事もなかったように黒へ戻った。
――第十四話へ続く。