第十三の主従   作:知人

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第十三話 脈動

 

朝。

 

雨だった。

 

窓を叩く雨粒を眺めながら、トウジは制服の袖を通す。

 

昨日から続く胸の奥のざわつきは、まだ消えていない。

 

左腕を軽く回す。

 

痛みは薄い。

 

だが、肘から先だけ妙に冷えていた。

 

『今日は静かだ。』

 

バルディエルが呟く。

 

「静かやから嫌なんや。」

 

『どうして?』

 

「何か起きる前って、大体こんな感じやろ。」

 

バルディエルは少し考えた。

 

『……人間らしい考えだ。』

 

「褒め言葉として受け取っとくわ。」

 

居間。

 

サクラが傘を二本並べていた。

 

「兄ちゃん。」

 

「ん?」

 

「今日はこれ。」

 

黒い傘を差し出される。

 

「昨日のは?」

 

「骨曲がってた。」

 

「知らんかった。」

 

「だから新しいの。」

 

サクラは少し笑う。

 

「返してね。」

 

「当たり前や。」

 

「無くさないで。」

 

「子ども扱いするな。」

 

「する。」

 

即答だった。

 

二人とも笑う。

 

玄関を出る。

 

雨音が街を包む。

 

その時だった。

 

ぽつり、と。

 

雨粒とは違う音が耳に触れた。

 

――コン。

 

トウジは足を止める。

 

「今。」

 

『聞こえた。』

 

バルディエルも反応した。

 

振り返る。

 

誰もいない。

 

サクラは家の中へ戻っている。

 

電柱。

 

雨。

 

それだけ。

 

『昨日の金属音とは違う。』

 

「せやな。」

 

追わない。

 

今日は音だけ覚えておくことにした。

 

学校。

 

雨の日の教室は少し暗い。

 

窓際に座るレイが外を見ていた。

 

シンジが席へ来る。

 

「おはよう。」

 

「おう。」

 

「昨日。」

 

「街でまた見た。」

 

シンジは少し驚く。

 

「黒い線?」

 

「うん。」

 

「僕は見てない。」

 

「それでええ。」

 

シンジが首を傾げる。

 

「え?」

 

「見えへん方がええもんもある。」

 

シンジは苦笑した。

 

「それもそうか。」

 

そこへアスカが入ってくる。

 

「朝から湿っぽい顔してる。」

 

「雨やからな。」

 

「顔の話。」

 

「失礼な。」

 

アスカは机に鞄を置く。

 

「で?」

 

「今日は何見たの?」

 

「音。」

 

「音?」

 

「コン、って。」

 

アスカは腕を組んだ。

 

「線じゃなくなったの。」

 

「変わった。」

 

「ふーん。」

 

少しだけ真面目な顔になる。

 

「増えてるわね。」

 

その一言に、教室の空気が少し止まった。

 

三時間目。

 

国語。

 

先生の声が遠く聞こえる。

 

窓を流れる雨。

 

トウジはノートへ視線を落とした。

 

その瞬間。

 

文字が揺れた。

 

教科書ではない。

 

ノートの余白。

 

そこへ、一瞬だけ。

 

黒い輪が映る。

 

一つ。

 

すぐ消える。

 

「!」

 

鉛筆が止まる。

 

隣のシンジが小声で聞く。

 

「どうした?」

 

「何でもない。」

 

ノートを見る。

 

何もない。

 

『今のは。』

 

「見えた。」

 

『輪が減った。』

 

トウジは息を整える。

 

昨日は六つ。

 

今日は一つ。

 

現象が変わっている。

 

そこへ気づいたことだけを書き留めることにした。

 

放課後。

 

珍しく呼び出しはミサトだった。

 

NERV本部。

 

司令室ではなく作戦会議室。

 

ミサト。

 

リツコ。

 

マヤ。

 

三人が揃っていた。

 

「来たわね。」

 

「何かあったんか。」

 

リツコがモニターを開く。

 

昨日の地図。

 

学校。

 

商店街。

 

そして新しい点。

 

「今朝。」

 

「住宅街。」

 

トウジが地図を見る。

 

「俺ん家の近く。」

 

「ええ。」

 

マヤが補足する。

 

「未知波形が発生しています。」

 

「俺が家を出る前?」

 

「その直後。」

 

トウジは黙った。

 

「つまり。」

 

ミサトが言う。

 

「あなたを追ってるのか。」

 

「違うかもしれへん。」

 

全員がトウジを見る。

 

「何で?」

 

「昨日。」

 

「街でも学校でも見えた。」

 

「せやけど。」

 

トウジは地図を見る。

 

「俺がおらん場所でも出とる。」

 

リツコが静かに頷いた。

 

「そこは一致する。」

 

「なら。」

 

トウジは考える。

 

「俺を追っとるんやなくて。」

 

少し間を置く。

 

「境界が動いとる。」

 

会議室が静かになる。

 

リツコが画面を閉じた。

 

「仮説としては、有力ね。」

 

「でも証拠は。」

 

「まだない。」

 

トウジは少し笑った。

 

「またそこや。」

 

「ええ。」

 

リツコも小さく笑う。

 

「だから観測を続ける。」

 

帰り道。

 

雨は止んでいた。

 

雲の切れ間から夕日が差す。

 

濡れた道路が赤く光る。

 

トウジは商店街を歩いていた。

 

『静かだ。』

 

「また言うな。」

 

『さっきとは違う。』

 

「分かっとる。」

 

その時。

 

視界の端。

 

人影。

 

白い制服。

 

昨日の少年だった。

 

今度は逃げない。

 

向こうも立ち止まる。

 

二人の間は十メートルほど。

 

トウジが口を開く。

 

「お前。」

 

少年が頷く。

 

「また会った。」

 

「待っとったんか。」

 

「違う。」

 

「ほんなら。」

 

「同じ場所へ来た。」

 

その答えは妙に自然だった。

 

「昨日。」

 

少年が続ける。

 

「帰ったね。」

 

トウジは少し驚く。

 

夢の会話。

 

「見とったんか。」

 

少年は首を横に振る。

 

「違う。」

 

「じゃあ。」

 

「分かった。」

 

「何が。」

 

少年は胸に手を当てる。

 

「君が帰れたこと。」

 

トウジは目を細めた。

 

「お前。」

 

「何者や。」

 

少年は少しだけ困ったように笑う。

 

「まだ。」

 

「言えない。」

 

「理由は。」

 

「君が選んでない。」

 

その言葉だけ残して。

 

少年は振り返る。

 

歩き出す。

 

追おうとした。

 

でも。

 

足が止まる。

 

昨日、自分で決めた。

 

追わない。

 

見失わない。

 

その違いを。

 

今日は守った。

 

『追わなかった。』

 

バルディエルが言う。

 

「ああ。」

 

『成長した。』

 

「大げさや。」

 

『本当だ。』

 

トウジは少しだけ照れた。

 

夜。

 

自室。

 

ノートを開く。

 

今日の記録。

 

『黒い輪が一つだけ見えた。』

 

『未知波形は家の近くでも発生。』

 

『白い少年と再会。』

 

最後に一行。

 

『追わない選択をした。』

 

ペンを置く。

 

その時。

 

左腕が一瞬だけ熱を持った。

 

ズク。

 

痛みではない。

 

鼓動みたいだった。

 

『トウジ。』

 

「分かっとる。」

 

左腕を見る。

 

何もない。

 

だが。

 

手の甲へ一滴だけ。

 

黒い雫が落ちたように見えた。

 

瞬きをする。

 

消えている。

 

『幻か。』

 

「……分からん。」

 

でも。

 

今日は。

 

その言葉が少し違って聞こえた。

 

「分からん。」

 

「せやけど。」

 

「次に見る時は。」

 

ノートを閉じる。

 

「ちゃんと覚えとく。」

 

同じ頃。

 

NERV地下。

 

マヤが端末を見つめる。

 

「リツコさん。」

 

「何?」

 

「例の波形。」

 

「また?」

 

「今回は。」

 

画面を拡大する。

 

波形が六つに分かれる。

 

そのうち。

 

一つだけ。

 

他とは違う周期で脈打っていた。

 

リツコの表情が変わる。

 

「これ。」

 

「昨日までは全部同じでした。」

 

「ええ。」

 

リツコは静かに息を吐く。

 

「変化した。」

 

マヤが尋ねる。

 

「何がですか。」

 

リツコは画面を見つめたまま答えた。

 

「観測対象じゃない。」

 

一拍。

 

「観測そのものが。」

 

その瞬間。

 

司令室の照明が、一度だけ明滅した。

 

誰も気づかなかった。

 

ただ一台だけ。

 

電源を切っていたはずのモニターに。

 

赤い海が、一瞬だけ映っていた。

 

そして画面は、何事もなかったように黒へ戻った。

 

――第十四話へ続く。

 

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