ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
角部屋にある書斎の机には、二台分の図面が並んでいた。
左がISO-I-1、右がISO-I-2だった。
外観写真だけを見れば、両者の差は大きくなかった。いずれも銀色の小さな車体を持ち、前方へ開く扉を備えていた。撮影方向や光の具合によっては、同じ車を修理しながら使ったようにも見える。
しかし、図面を重ねると別の車であることが分かった。
外形線はおおむね重なる。その内側では、機関と補機の配置、配管の経路、支持構造が一致しなかった。似た車体へ異なる部品を積んだという程度ではない。設計の前提そのものが違っていた。
ISO-I-1は、Type1系で得られた技術を極小車体へ移すための試験車だった。その横転によって、Vogelkäfig、固定式座席、五点式拘束具の有効性が確認されている。
ISO-I-2の目的は、はるかに特殊だった。
一九六二年、アメリカ合衆国ユタ州のボンネビル・ソルトフラッツで走行する。
その目的から逆算して、一台の車が新たに設計されていた。
ルーカスは車両管理表を確認した。二台には別々の車体記録があり、割り当てられた排気タービンも異なっていた。ISO-I-2は、横転したISO-I-1を修理して作られた次仕様ではない。
外観上の特異性に大きな差がなくても、図面で見れば完全な別車だった。
ルーカスは手帳へ、その結論を書いた。
ISO-I-1とISO-I-2を混同しない。
写真だけで判断していれば、一方の事故記録をもう一方の走行記録へ結びつけていたかもしれない。実車が残っていない以上、車体番号、図面、部品管理記録を照合する必要があった。
遠征関係のファイルを開くと、車両図面とは異なる種類の問題が現れた。
輸送する車体。
予備部品。
工具。
測定器。
渡航する人員。
そして費用。
ISO-I-2を完成させても、それだけではボンネビルを走れなかった。車をアメリカまで運び、現地で整備し、測定し、故障した場合には修理しなければならない。人間も移動し、滞在し、食事を取る必要があった。
オットーの輸送一覧では、持参品が用途ごとに分けられていた。故障時の交換部品を増やせば、その分だけ輸送量が増える。現地で買えば荷物は減るが、適合する物が手に入る保証はなく、ドルも必要になる。
輸送、保守、交換、現地調達。
同じ品物でも、どの観点から見るかによって価値が変わった。
ルートヴィヒは修理に必要な工具と材料を選んでいた。交換部品があっても、それを取り付ける工具がなければ意味がない。しかし、私設工場の設備をすべて持っていくこともできなかった。
フランツの測定器材も同じだった。
計器を増やせば記録できる現象は増える。一方で、重量、配線、管理する品目も増えた。最高速度を求める遠征であっても、必要なのは速度だけではない。機関、過給、温度、潤滑の状態を確認できなければ、数値が残っても検証できなかった。
アドルフが必要と考えた物を、すべて積むことはできなかった。
遠征計画は、技術的に理想的な品目を並べる作業ではない。輸送可能な重量、現地で必要となる可能性、交換に要する時間、調達できる外貨を照合し、持っていく物を決める作業だった。
その資料の間に、エリーザベトの費用表があった。
ドイツで支払う費用と、アメリカでドルを必要とする費用が分けられている。国内で用意できる部品や消耗品は出発前に手配し、限られたドルは現地でしか支払えない項目へ残すという方針が読み取れた。
当時、必要な額のドルを自由に用意することは難しかった。
そこで、遠征参加者のうち正規に外貨を持ち出せる者が、それぞれに認められた枠を使ってドルを準備した。一人分では不足しても、人数分を合わせれば、チームとして現地へ持ち込める額を増やすことができた。
それは、持出枠を得るためだけに参加者を増やす方法ではなかった。
アドルフには設計と試験運転の役割がある。オットーは輸送と保守、ヨーゼフは構造、ルートヴィヒは加工、フランツは計測を担当する。エリーザベトは会計、通訳、交渉、遠征手配を引き受けていた。
それぞれが必要な仕事を持って渡航し、そのうえで各人の外貨持出枠を共同の資金へ加えたのである。
少年のハンスには、外貨持出枠がなかった。
一九六二年には十歳だった。遠征へ同行する家族ではあっても、ドルを確保するための一員ではない。それでも、彼の移動、食事、宿泊には費用が必要だった。大人たちの作業だけを見せ続けるわけにもいかず、現地での観光や少年としての時間にも支出が生じた。
それらも共同資金から支払われた。
車両関係の費用と、同行した家族の費用を混同したわけではない。エリーザベトは支出を項目ごとに管理し、帰国後に精算できる形で残していた。
ルーカスは昼食の席で、費用表をエリーザベトへ見せた。
「会費を集めたようなものだったの?」
「使うときは、そう考えてもよかったわね」
「誰のドルかを気にせず使った?」
「必要な支払いをするたびに、誰の札かを選んでいたら仕事にならないでしょう」
「でも、後で返した」
「ええ。支出を整理して、残った分は返したわ」
「全員に?」
「お祖父さんと私の分を除いてね。ほかの人が出した分の余りは、それぞれに返した」
エリーザベトは表の一部を指で押さえた。
「みんなの資金を合わせることと、誰がいくら負担したかを曖昧にすることは別よ」
「ハンスの観光費も、そこから?」
「もちろん。あの子に払わせるわけにはいかないでしょう」
「それで精算が複雑になった」
「複雑でも、必要なものは必要よ」
ルーカスは、エリーザベトが02-3を評価するとき、燃費や始動性だけでなく家族への負担を見ていた理由を少し理解した。
車両試験は、車だけで完結しない。
遠征に参加した人間が暮らし、働き、帰国するところまで含めて成立するものだった。
参加者一覧には、七人の名があった。
アドルフ、オットー、ヨーゼフ、ルートヴィヒ、フランツ、エリーザベト、そしてハンス。
そのうち、オットーだけは国鉄の職員だった。
彼の渡米は業務出張ではない。職場では休暇旅行、つまりバカンスとして扱われていた。彼は自分の休暇を使い、アメリカへ向かった。
「職場には、ボンネビルのことを説明しなかったの?」
「休暇を取ってアメリカ旅行へ行く。それで十分だったでしょう」
「実際には試験車の輸送と保守を担当する」
「それは国鉄の仕事ではないもの。自分の休暇中に何を手伝うかは、オットーの問題よ」
ほかの参加者については、ゲオルグ・ライナーが動いていた。
彼はボンネビル計画を会社の事業として承認しなかった。ISO-I-2はBMWの公式開発車ではなく、遠征も社命ではない。事故、費用、成果の責任を会社に負わせることはできなかった。
しかし、ゲオルグは計画を妨害したのでもなかった。
オットーを除く遠征参加者が、帰国後も職場に残り、それまでと同じように本来の仕事と私設活動を続けられるよう、社内で調整した。
ルーカスが確認した資料には、その交渉の具体的な言葉までは残っていなかった。だが、ゲオルグとの面談記録と、遠征後も参加者の勤務や活動が続いた記録はあった。
承認しない。
だが、帰国した者を排除させない。
ゲオルグは、その二つを同時に成立させようとしていた。
アドルフの日記には、会社の責任と私設研究の境界について何度も書かれている。そこに敵意はなかった。ゲオルグが守ろうとしたのは、会社と参加者の双方だった。
それでも、ミュラー家の資料だけでは会社側の事情をすべて確定できない。
ルーカスはISO-I-1とISO-I-2の図面を別々のファイルへ戻した。
二台は似ていたが、同じ車ではなかった。
会社としての承認と、個人への支援も同じものではなかった。
一九六二年の遠征は、車両、輸送、測定、ドル、休暇、職場という異なる条件を一つずつ整えることで、初めて実行可能になったのである。
翌朝、ルーカスはミュンヘンへ向かう支度をした。
ゲオルグが守った境界と、会社の記録に残された範囲を確かめるため、最初のBMW博物館訪問へ向かうことにした。