ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
ロバートの訪問を受け入れるという返事が届いてから数日後、ルーカスはアメリカへ向かった。
アンガーフェルトを出発する直前まで、角部屋にある書斎で資料を見返していた。
一九六二年の遠征記録。
ISO-I-2の図面。
95.1mph、約153km/hの公式区間平均。
Normal-8フィルム。
そして、大学時代に見た記憶の中にある、ボンネビルの小さな外国車。
持参したのは複写資料と手帳だけだった。
まずは、ロバート自身が何を覚えているかを聞く。
写真や記録は、その後だった。
一九六二年のボンネビルで使われた米国側エントリー名はイセッタターボスペシャルである。
一方、アンガーフェルトに残る資料では同じ車をISO-I-2と呼んでいる。
ルーカスは移動中、その違いを何度も考えた。
ロバートが車を覚えていたとしても、ISO-I-2という内部名称を知らなくても不自然ではない。
逆に、イセッタターボスペシャルという名前を聞いたことがあっても、それが研究チーム内部でISO-I-2と呼ばれていたことまでは知らないだろう。
その区別を曖昧にしてはいけなかった。
ユタ州へ到着したのは夕方だった。
ヘイズ家は落ち着いた住宅地の中にあった。
庭は手入れされ、家の脇には長年使われてきたらしい作業場がある。
派手ではない。
だが、人と機械が長く共にあった場所という印象だった。
出迎えたのはマイケルだった。
「久しぶりだな」
「本当に久しぶりだ」
二人は握手を交わした。
学生時代から年月は過ぎていたが、会話は自然に始まった。
「父は楽しみにしている」
「僕は少し緊張している」
「昔話を聞くだけだろう?」
「昔話ほど難しい」
マイケルは笑った。
「それはそうだ」
居間へ案内されると、一人の老人が立ち上がった。
ロバートだった。
年齢を重ねてはいたが、視線はしっかりしている。
「君がルーカスか」
「そうです」
「マイケルから話は聞いている」
握手を交わし、席へ着く。
最初は雑談だった。
ユタ大学の話。
ドイツの話。
気候の違い。
最近の自動車。
そしてボンネビル。
ルーカスは急がなかった。
まずは記憶そのものを聞く。
やがてロバートの方から口を開いた。
「小さな外国車について聞きたいんだろう」
ルーカスは手帳を開いた。
「まず、何を覚えているかを聞きたい」
「車名ではなく?」
「車名は後です」
ロバートは頷いた。
「それなら答えやすい」
しばらく考えてから話し始めた。
「まず覚えているのは、小さかったことだ」
ルーカスは書き留めた。
「ほかの車より?」
「ずっと小さい」
「色は?」
「銀色だったと思う」
思う。
断定ではない。
ルーカスはそのまま記録した。
「国は覚えていますか」
「ドイツだった気がする」
ロバートはそこで言葉を止めた。
「いや、誰かから聞いたのかもしれないな」
ルーカスは修正も含めて記録した。
その様子を見て、ロバートは少し笑った。
「ちゃんと分けるんだな」
「分けないと危険なんです」
「記憶も資料と同じか」
「むしろ難しいことがあります」
会話が進むにつれ、ルーカスは一つの傾向に気づいた。
ロバートは速度をほとんど覚えていない。
何マイルだったか。
どんな記録だったか。
そうした数字は出てこない。
代わりに語られるのは人だった。
「周りに何人もいた」
「どんな人たちでした?」
「技術者みたいだった」
「なぜそう思うんです?」
「観光客には見えなかった」
それは印象だった。
証明ではない。
ルーカスには、遠征資料の中に現れる私設研究チームの姿を思わせた。
もっとも、それは資料との比較から生じた印象に過ぎず、その場にいた人々の職業や役割を証明するものではなかった。
「一人だけ目立つ人はいましたか」
「覚えていない」
ロバートは首を振った。
しばらくして付け加える。
「でも子供はいた気がする」
ルーカスはそこで止まった。
「子供?」
「たぶん」
「男の子?」
「そうだったと思うが、自信はない」
ハンスの存在が頭に浮かんだ。
しかし書かなかった。
十歳のハンスが同行していた事実と、ロバートの記憶の中の子供は、今の段階では結び付けられない。
証拠はまだ足りなかった。
しばらくして、ルーカスは静止画を取り出した。
Normal-8映像から切り出した一枚だった。
走行場面ではなく、比較的車体が見やすいものを選んでいる。
「これを見たことはありますか」
ロバートは眼鏡を掛けた。
写真を見つめる。
しばらく沈黙が続いた。
やがて頷く。
「似ている」
ルーカスはそれ以上押さなかった。
同じですか、とは聞かない。
似ていることと同じであることは違う。
ロバートは写真を見たまま続けた。
「少なくとも、私が見た車はこういう印象だった」
それは車両の同一性を示す証言ではない。
ロバート自身の記憶と写真の印象が近い、という意味だった。
それでもルーカスには十分だった。
断定していないという点で、むしろ信頼できる答えだった。
夕方近くになると、マイケルが古い木箱を持ってきた。
「父が昔から持っている箱だ」
箱の中には写真や新聞の切り抜きが混ざっていた。
ボンネビル専用の記録箱ではない。
長年の蓄積だった。
ルーカスは一枚ずつ確認した。
その中に、白い塩原と小さな銀色の車が写った写真があった。
構図はNormal-8とは違う。
同じ場所かもしれないし、違うかもしれない。
だが少なくとも、ロバートがその時代のボンネビルを実際に見ていたことは分かる。
証言だけでは足りない。
写真だけでも足りない。
だが両方が同じ方向を向いていた。
帰り際、ロバートが言った。
「君は車の名前を探しているようだな」
ルーカスは少し考えた。
「名前だけではない」
「じゃあ何だ」
「誰が何を見ていたかです」
ロバートは静かに頷いた。
その夜、宿の机でルーカスは手帳を整理した。
確定したこと。
未確認のこと。
新たな疑問。
ページの最後へ、一行を書き加えた。
ロバートは車よりも、その周囲の人々を覚えている。
そして気づいた。
Normal-8映像の中にも、人々がいた。
作業する者。
記録する者。
見守る者。
その場にいた人間を追えば、イセッタターボスペシャルとISO-I-2を結ぶ、まだ見えていない部分へ近づけるかもしれない。
翌日、ルーカスはもう一度ロバートを訪ねることにした。
今度は車ではなく、一九六二年の塩原にいた人々について聞くためだった。