ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
翌朝、ルーカスは再びヘイズ家を訪れた。
前日と違い、鞄から写真を出すつもりはなかった。
聞きたいのは車ではない。
一九六二年の塩原にいた人々についてだった。
ロバートは昨日と同じ椅子に座り、コーヒーを飲んでいた。
「今日も昔話か」
「今日は人の話です」
ロバートは少し笑った。
「車の方が簡単だと思ったがな」
「僕は逆かもしれません」
ルーカスは手帳を開いた。
一九六二年のボンネビルについて、数字の記録は残っている。
米国側の公式区間平均95.1mph、約153km/h。
その値は動かない。
しかし、数字の周囲にいた人々は違った。
彼らは資料の中では断片的にしか現れない。
だからこそ、ロバートの記憶を聞きたかった。
「昨日、技術者みたいだったと言いましたね」
「ああ」
「覚えていることを順番でなくてもいいので話してほしい」
ロバートは窓の外を見た。
しばらく考えてから口を開く。
「まず忙しかった」
ルーカスは書き留めた。
忙しかった。
それは感情ではなく観察だった。
「見物人とは違った」
「どう違ったんです?」
「車の周りを動いていた」
「作業ですか」
「たぶんな」
ロバートはすぐ付け加えた。
「いや、何をしていたかまでは分からない」
ルーカスはその訂正も一緒に記録した。
分からないことを削らない。
祖父の資料を読む時も、自分の取材でも、同じだった。
「何人ぐらいいました?」
「五人か六人」
「もっと多い?」
「いや、それくらいだと思う」
人数も曖昧だった。
四十年以上前の一日について語っているのだから当然だった。
それでも、記憶の中には車より人が残っているらしかった。
「誰か一人が中心にいたように見えました?」
「覚えていない」
ロバートは首を振る。
「でも、一人だけ偉そうな人がいたような印象もない」
ルーカスは黙って記録した。
その言葉は、遠征資料に残る私設研究チームを思わせた。
だが、それは彼自身の連想でしかない。
ロバートの証言から、現場の役割分担や組織を証明することはできなかった。
昼近くになって、ロバートは昨日と同じ話題へ戻った。
「子供がいた気がする」
「昨日の話ですね」
「ああ」
「何をしていました?」
「見ていた」
「手伝っていた?」
「そうは見えなかったな」
年齢も分からない。
服装も分からない。
顔も思い出せない。
それでもロバートの記憶には、子供の存在だけが残っていた。
ルーカスの頭にはハンスの名が浮かんだ。
一九六二年当時十歳。
遠征へ同行していた少年。
しかし、その名を手帳へは書かなかった。
今の段階では、
現場に子供がいた可能性がある
以上のことは言えない。
午後になると、話題は車そのものへ戻った。
「その小さな車は、妙だった」
ロバートが言った。
「どういう意味で?」
「速さじゃない」
老人は笑った。
「私は大きな車ばかり見ていたからな」
ルーカスはその答えが気に入った。
人は過去の出来事を、必ずしも重要な数字で覚えているわけではない。
ロバートにとって印象的だったのは、95.1mphという公式記録ではない。
巨大な車が並ぶ場所に現れた、小さな外国車だった。
「ドイツ車だということは覚えている?」
「そう聞いた気がする」
「イセッタターボスペシャルという名前は?」
ロバートは首を振った。
「覚えていない」
その答えも、そのまま書いた。
覚えていないことも記録の一部だった。
夕方近くになると、マイケルも会話へ加わった。
「父は昔から、この話を何度かしていた」
「車名も?」
ルーカスが尋ねる。
マイケルは少し考えた。
「いや」
「イセッタという名前も?」
「聞いたかもしれないし、聞いていないかもしれない」
そこで彼は笑った。
「役に立たない答えだな」
「いえ」
ルーカスは首を振る。
「むしろ役に立ちます」
曖昧なものを曖昧なまま残してくれるからだった。
詳しく覚えていないのに、覚えているふりをしない。
それは取材相手として信頼できる態度だった。
帰る前に、ロバートがふと尋ねた。
「君は何を探しているんだ?」
ルーカスはすぐに答えなかった。
速度ではない。
車名だけでもない。
まして英雄譚でもない。
「たぶん、同じ出来事を見た別々の記録です」
ロバートは黙って聞いていた。
「アンガーフェルトには資料がある。ボンネビルには記憶がある。大学時代には映像を見た覚えがある」
「それをつなげたいのか」
「はい」
ロバートは少し考え、それから言った。
「なら、私だけでは足りないな」
「僕もそう思います」
「別の人を探せ」
昨日も聞いた言葉だった。
だが今日は重みが違った。
ルーカス自身も、その結論へ達していたからだ。
一人の証言だけでは足りない。
現場を見た別の人間。
別の記録。
別の視点。
必要なのはそれだった。
その夜、宿へ戻ったルーカスは取材ノートを整理した。
確定したこと。
未確認のこと。
今後確認すること。
ページの最後に短く書く。
記憶は一人では完結しない。
ロバートの証言だけでは足りない。
だが、次に進む方向は見えてきた。
大学時代に見た資料。
その出所。
そして、イセッタターボスペシャルという名称が、どこでどのように記録されていたのか。
ルーカスは手帳を閉じた。
次に調べる場所は、もう決まっていた。
彼自身が学んだ場所だった。