ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き
翌朝、ルーカスは朝食を終えると、廊下の棚から個人工場の鍵を取った。
台所ではエリーザベトが食器を洗っていた。彼女は振り返らずに言った。
「先に窓を開けてね」
「カバーを外すだけだよ」
「四年分の埃を甘く見ない方がいいわ」
ルーカスは鍵をポケットへ入れた。祖母は彼が何をしようとしているのか理解していた。それでも、説明を加えることも、後をついてくることもしなかった。
個人工場の中には、前日と同じ静けさが残っていた。
ルーカスは左右の窓を開けた。冷たい朝の空気が流れ込み、油と革と古い金属の匂いをわずかに動かした。
中央には、カバーを掛けられた車があった。
紙札には、タイプライターで打たれた文字が並んでいる。
Effizienzversuch Nr.9 02-3
効率実験、第九号。
昨日から、その番号が頭に残っていた。
ルーカスは車体の周囲を一周した。カバーは数か所で紐留めされ、塗装と接触する部分には当て布が挟まれていた。タイヤの下には板が置かれ、床には油や冷却液が漏れた跡もない。
紐を解き、前端から布を持ち上げた。
乾いた埃が朝の光へ舞い上がった。
丸い前照灯が現れ、黒いグリルと銀色のボンネットが続いた。その瞬間、ルーカスは手を止めた。
見覚えがあった。
雑誌や資料で知っているBMW 02シリーズだからではない。もっと近く、もっと古い記憶にある形だった。
幼い頃、祖父母の家を訪れると、家の前にこの車が停まっていることがあった。エリーザベトが運転席に座り、アドルフが助手席で地図を見ていたこともある。ルーカス自身も後席へ乗せてもらった。扉を閉めたときの重い音や、古い革の匂い、走り始めると床から伝わってきた細かな振動まで、断片的に覚えていた。
「これだったのか」
声に出すと、工場の壁から小さく返った。
祖父母の古いBMW。
子供の頃のルーカスには、ほかの古い車との違いなど分からなかった。祖父が手入れしている車であり、祖母が買い物や用事に使う車だった。銀色だったことは覚えている。後席が今の車ほど広くなかったことも、加速すると独特の機械音が前方から聞こえたことも覚えていた。
しかし、Effizienzversuch Nr.9という名で呼ばれていたことは知らなかった。
ルーカスは慎重にカバーを後方へ送った。
フロントガラス、屋根、後部が順に現れ、最後に布が床へ落ちた。銀色の車体には補修の跡があり、見る角度によって塗装の濃淡がわずかに違っていた。保存目的で磨き上げられた展示車ではない。長く使われ、傷み、直されてきた車だった。
記憶の中の姿と同じでありながら、その細部はルーカスの知る市販車とは異なっていた。
前部下側には追加の開口部があり、奥に冷却器が見えた。配管は市販時の配置から変更されている。派手な外装部品や競技番号はなかった。追加されたものは目立たせるためではなく、必要な働きをさせるために置かれていた。
幼い頃のルーカスは、それらを見ても疑問を抱かなかった。
祖父の車とは、こういうものなのだと思っていた。
運転席側へ回り、ドアハンドルを引いた。扉は固着することなく開き、記憶にある音を立てた。
古い革と内装材の匂いが流れ出した。
その匂いも覚えていた。
運転席には革張りの固定式フルバケットシートが据えられていた。表皮には深い皺があり、乗降側が擦れている。助手席は鉄製フレームを持つ革張りのセミバケットで、背もたれを前へ倒すことができた。
ルーカスは、自分が後席へ乗り込んだときのことを思い出した。エリーザベトが助手席を倒し、屋根へ頭をぶつけないよう注意しながら彼を乗せていた。競技車に似た運転席と、家族が乗り降りするための助手席。その違いは、幼い頃には単なる形の差にしか見えなかった。
今なら設計の意図が分かった。
車を速く走らせる装備と、日常で使い続けるための機能が同じ室内に共存していた。
ルーカスは開いた扉から車内を覗き込んだ。
そこで、ダッシュボードの銀文字を発見した。
助手席側へ続く黒い面に、一文が描かれていた。
それは筆記具で走り書きされた言葉ではなかった。銀色の塗料を含ませた筆で、一文字ずつ形を整えたレタリングだった。文字にはわずかな太さの変化があり、筆を置いた部分と離した部分には銀色の濃淡が残っていた。印刷された標語ほど均一ではない。しかし、即興の書き込みとも違った。
書いた者は、言葉を残すだけでなく、読まれる形にしようとしていた。
実験は成功し、我々は勝利した。
ルーカスは上半身を車内へ入れ、文字へ顔を近づけた。
銀色の塗料は黒いダッシュボードの上で静かに光っていた。勝利を宣言する文言でありながら、競技車に記す記録や優勝者の署名とは印象が違った。筆の運びは慎重で、文字の位置も計算されている。長い作業を終えた者が、その結論を確かめながら描いたように見えた。
宣言の下には六名の署名が並んでいた。
アドルフ・ミュラー。
エリーザベト・ミュラー。
オットー・ヴァイス。
ヨーゼフ・クラウス。
ルートヴィヒ・ベルガー。
フランツ・ヴェーバー。
祖父と祖母の名はすぐに分かった。オットーの名も、幼い頃に聞いた覚えがあった。ほかの三名には、かすかな記憶しかない。
六つの署名には筆跡の違いがあった。しかし、ルートヴィヒとフランツの名は、アドルフの文字によく似ていた。本人の署名を模倣したものではない。祖父が二人の名前を代わりに書いたように見えた。
ルーカスは手帳を取り出し、宣言と六名の名前を書き写した。続けて、宣言が銀色の塗料による筆描きであること、二名分の署名が祖父の筆跡に似ていることを記した。
車体の製造時からあった文字とは考えにくい。だが、いつ描かれたのかは見ただけでは分からなかった。
工場の入口で足音がした。
「思い出した?」
エリーザベトが立っていた。
「この車だったんだね」
「何が?」
「僕が子供の頃に乗っていた車だよ。お祖母さんが助手席を倒して、後ろへ乗せてくれた」
「乗っていたというほど頻繁ではないわ。遊びに来たときだけでしょう」
「それでも覚えているよ」
ルーカスは運転席から体を起こした。
「ただの古いBMWだと思っていた」
「古いBMWには違いないわね」
「ただの、ではなかった」
エリーザベトは否定しなかった。
ルーカスはダッシュボードを示した。
「この宣言は誰が描いたの?」
「お祖父さんよ。細い筆を使っていたわ」
「いつ?」
「二〇〇四年。この車を保存すると決めたときよ」
「お祖父さんが文章を考えた?」
「言葉そのものは、もっと前から日記にあったわ。ここへ描くと決めたのは、あの人よ」
ルーカスは二〇〇四年と手帳へ書き加えた。
「六人全員が、その場にいたわけではないんだね」
「ええ」
「ルートヴィヒとフランツの署名は、お祖父さんが代わりに書いた?」
「二人とも、そのときには亡くなっていたから」
エリーザベトは車内を覗かなかった。銀文字の位置も、署名の並びも、すでに知っていた。
「残りの四人は?」
「自分で署名したわ。私も、オットーも、ヨーゼフも」
「六人でこの車を造ったの?」
「六人だけで造ったわけではない。でも、その六人がいなければ、この車にはならなかった」
ルーカスは再び宣言を見た。
「我々」という言葉は、単なる複数形ではなかった。祖父一人の成功を示すものでもない。機関、車体、製作、計測、保守、生活のそれぞれを担った者たちが、同じ結論へ名前を残したように見えた。
ただし、まだ推測にすぎなかった。
運転席の前には、標準の速度計や回転計に加え、複数の計器が整然と配置されていた。配線も配管も、仮設の試験装置のようには見えない。使い続けることを前提に作り直されていた。
距離計は二十四万キロを超えていた。
子供の頃に乗った車が、それ以前にも、それ以後にも、長い距離を走っていた。試験場で短期間使用しただけでは積み上がらない数字だった。
「これで買い物にも行っていたんだよね」
「もちろん」
「効率実験車で?」
「その呼び方をしていたのは、お祖父さんたちだけよ。役所に買い物へ行くときまで、実験車と呼ぶ必要はないでしょう」
ルーカスは助手席の背もたれを倒した。少し抵抗はあったが、機構は正常に動いた。
「ここから後ろへ乗ったのを覚えている」
「あなたは靴の泥を落とさずに乗るから、いつも新聞紙を敷いていたわ」
そのことまでは覚えていなかった。
ルーカスは助手席を元へ戻し、グローブボックスを開けた。
中にあったのは設計図や研究日記ではなく、薄い書類ケース、予備電球、布に包まれた小工具だった。書類ケースを開くと、公的な車検証が現れた。
記載された車名はEffizienzversuch Nr.9でも、02-3でもない。
BMW 1600-2
改造内容に関する追記と承認印があった。この車は私設工場の中だけで動かされた試験車ではない。改造された1600-2として検査を受け、公道を走っていた。
ルーカスは書類の日付を確認した。長年にわたって車検が更新されていたが、二〇〇四年以後の継続を示すものはない。二〇〇五年の車検書類も存在しなかった。
「保存してからは走らせていない?」
「公道ではね。もう使わないつもりだったから、車検も継続しなかったわ」
「今は道路へ出せない」
「今のままでは、ね」
エリーザベトの答えに、ルーカスは顔を上げた。
「また走らせるつもりがあるの?」
「それを決めるのは、私ではないわ」
彼女は銀文字へ目を向けた。
「残すことと、動かすことは別の問題でしょう」
ルーカスは車検証をケースへ戻した。グローブボックスに入っているのは、この車を公道で使うために必要だった書類である。設計図や実験記録まで、ここへ保管する理由はなかった。
「ほかの資料は、角部屋にある書斎?」
「日記も図面も、そちらよ」
「この六人についても分かる?」
「名前は出てくるでしょう。でも、一冊読んだだけで全部分かったと思わないことね」
「自動車雑誌の書き手に、資料の読み方を教えるの?」
「間違った記事を書く人も、自動車雑誌の書き手でしょう」
ルーカスは苦笑した。
銀文字の宣言は、結論だけを示していた。
何の実験が成功したのか。誰に、あるいは何に勝ったのか。祖父がなぜその言葉を筆で描き、故人二人の名まで残したのか。それを確かめるには、実車だけでも、日記だけでも足りない。
部品、図面、公的書類、記録、そして生きている者の証言を照合する必要があった。
「最初に読むなら、どの日記がいい?」
ルーカスが尋ねると、エリーザベトは工場の右側を示した。
そこには、もう一台の銀色の車がカバーを掛けられていた。
「日記の前に、そちらを見た方がいいわ」
「Donnervogel 700」
「最後の答えを知りたいなら、捨てられなかった夢も知らなくてはいけないでしょう」
エリーザベトはそれだけ言い、工場を出ていった。
ルーカスは02-3の扉を閉めた。
重い音が工場内に響いた。それもまた、幼い頃から知っている音だった。
目の前にあるのは、見知らぬ実験車ではない。祖父母が使い、自分も後席へ乗った家族の車だった。だが、その身近な記憶の内側に、Effizienzversuch Nr.9という名と、六名の署名と、銀色の宣言が隠されていた。
ルーカスは右側の車へ歩み寄った。
紙札には、番号ではなく名前が記されている。
Donnervogel 700
最後まで生活の中を走った車を理解するには、生活へ戻らなかった車から確かめなければならなかった。