ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢   作:自動車好き

2 / 6
銀文字の1600-2

 翌朝、ルーカスは朝食を終えると、廊下の棚から個人工場の鍵を取った。

 台所ではエリーザベトが食器を洗っていた。彼女は振り返らずに言った。

「先に窓を開けてね」

「カバーを外すだけだよ」

「四年分の埃を甘く見ない方がいいわ」

 ルーカスは鍵をポケットへ入れた。祖母は彼が何をしようとしているのか理解していた。それでも、説明を加えることも、後をついてくることもしなかった。

 個人工場の中には、前日と同じ静けさが残っていた。

 ルーカスは左右の窓を開けた。冷たい朝の空気が流れ込み、油と革と古い金属の匂いをわずかに動かした。

 中央には、カバーを掛けられた車があった。

 紙札には、タイプライターで打たれた文字が並んでいる。

 Effizienzversuch Nr.9 02-3

 効率実験、第九号。

 昨日から、その番号が頭に残っていた。

 ルーカスは車体の周囲を一周した。カバーは数か所で紐留めされ、塗装と接触する部分には当て布が挟まれていた。タイヤの下には板が置かれ、床には油や冷却液が漏れた跡もない。

 紐を解き、前端から布を持ち上げた。

 乾いた埃が朝の光へ舞い上がった。

 丸い前照灯が現れ、黒いグリルと銀色のボンネットが続いた。その瞬間、ルーカスは手を止めた。

 見覚えがあった。

 雑誌や資料で知っているBMW 02シリーズだからではない。もっと近く、もっと古い記憶にある形だった。

 幼い頃、祖父母の家を訪れると、家の前にこの車が停まっていることがあった。エリーザベトが運転席に座り、アドルフが助手席で地図を見ていたこともある。ルーカス自身も後席へ乗せてもらった。扉を閉めたときの重い音や、古い革の匂い、走り始めると床から伝わってきた細かな振動まで、断片的に覚えていた。

「これだったのか」

 声に出すと、工場の壁から小さく返った。

 祖父母の古いBMW。

 子供の頃のルーカスには、ほかの古い車との違いなど分からなかった。祖父が手入れしている車であり、祖母が買い物や用事に使う車だった。銀色だったことは覚えている。後席が今の車ほど広くなかったことも、加速すると独特の機械音が前方から聞こえたことも覚えていた。

 しかし、Effizienzversuch Nr.9という名で呼ばれていたことは知らなかった。

 ルーカスは慎重にカバーを後方へ送った。

 フロントガラス、屋根、後部が順に現れ、最後に布が床へ落ちた。銀色の車体には補修の跡があり、見る角度によって塗装の濃淡がわずかに違っていた。保存目的で磨き上げられた展示車ではない。長く使われ、傷み、直されてきた車だった。

 記憶の中の姿と同じでありながら、その細部はルーカスの知る市販車とは異なっていた。

 前部下側には追加の開口部があり、奥に冷却器が見えた。配管は市販時の配置から変更されている。派手な外装部品や競技番号はなかった。追加されたものは目立たせるためではなく、必要な働きをさせるために置かれていた。

 幼い頃のルーカスは、それらを見ても疑問を抱かなかった。

 祖父の車とは、こういうものなのだと思っていた。

 運転席側へ回り、ドアハンドルを引いた。扉は固着することなく開き、記憶にある音を立てた。

 古い革と内装材の匂いが流れ出した。

 その匂いも覚えていた。

 運転席には革張りの固定式フルバケットシートが据えられていた。表皮には深い皺があり、乗降側が擦れている。助手席は鉄製フレームを持つ革張りのセミバケットで、背もたれを前へ倒すことができた。

 ルーカスは、自分が後席へ乗り込んだときのことを思い出した。エリーザベトが助手席を倒し、屋根へ頭をぶつけないよう注意しながら彼を乗せていた。競技車に似た運転席と、家族が乗り降りするための助手席。その違いは、幼い頃には単なる形の差にしか見えなかった。

 今なら設計の意図が分かった。

 車を速く走らせる装備と、日常で使い続けるための機能が同じ室内に共存していた。

 ルーカスは開いた扉から車内を覗き込んだ。

 そこで、ダッシュボードの銀文字を発見した。

 助手席側へ続く黒い面に、一文が描かれていた。

 それは筆記具で走り書きされた言葉ではなかった。銀色の塗料を含ませた筆で、一文字ずつ形を整えたレタリングだった。文字にはわずかな太さの変化があり、筆を置いた部分と離した部分には銀色の濃淡が残っていた。印刷された標語ほど均一ではない。しかし、即興の書き込みとも違った。

 書いた者は、言葉を残すだけでなく、読まれる形にしようとしていた。

 実験は成功し、我々は勝利した。

 ルーカスは上半身を車内へ入れ、文字へ顔を近づけた。

 銀色の塗料は黒いダッシュボードの上で静かに光っていた。勝利を宣言する文言でありながら、競技車に記す記録や優勝者の署名とは印象が違った。筆の運びは慎重で、文字の位置も計算されている。長い作業を終えた者が、その結論を確かめながら描いたように見えた。

 宣言の下には六名の署名が並んでいた。

 アドルフ・ミュラー。

 エリーザベト・ミュラー。

 オットー・ヴァイス。

 ヨーゼフ・クラウス。

 ルートヴィヒ・ベルガー。

 フランツ・ヴェーバー。

 祖父と祖母の名はすぐに分かった。オットーの名も、幼い頃に聞いた覚えがあった。ほかの三名には、かすかな記憶しかない。

 六つの署名には筆跡の違いがあった。しかし、ルートヴィヒとフランツの名は、アドルフの文字によく似ていた。本人の署名を模倣したものではない。祖父が二人の名前を代わりに書いたように見えた。

 ルーカスは手帳を取り出し、宣言と六名の名前を書き写した。続けて、宣言が銀色の塗料による筆描きであること、二名分の署名が祖父の筆跡に似ていることを記した。

 車体の製造時からあった文字とは考えにくい。だが、いつ描かれたのかは見ただけでは分からなかった。

 工場の入口で足音がした。

「思い出した?」

 エリーザベトが立っていた。

「この車だったんだね」

「何が?」

「僕が子供の頃に乗っていた車だよ。お祖母さんが助手席を倒して、後ろへ乗せてくれた」

「乗っていたというほど頻繁ではないわ。遊びに来たときだけでしょう」

「それでも覚えているよ」

 ルーカスは運転席から体を起こした。

「ただの古いBMWだと思っていた」

「古いBMWには違いないわね」

「ただの、ではなかった」

 エリーザベトは否定しなかった。

 ルーカスはダッシュボードを示した。

「この宣言は誰が描いたの?」

「お祖父さんよ。細い筆を使っていたわ」

「いつ?」

「二〇〇四年。この車を保存すると決めたときよ」

「お祖父さんが文章を考えた?」

「言葉そのものは、もっと前から日記にあったわ。ここへ描くと決めたのは、あの人よ」

 ルーカスは二〇〇四年と手帳へ書き加えた。

「六人全員が、その場にいたわけではないんだね」

「ええ」

「ルートヴィヒとフランツの署名は、お祖父さんが代わりに書いた?」

「二人とも、そのときには亡くなっていたから」

 エリーザベトは車内を覗かなかった。銀文字の位置も、署名の並びも、すでに知っていた。

「残りの四人は?」

「自分で署名したわ。私も、オットーも、ヨーゼフも」

「六人でこの車を造ったの?」

「六人だけで造ったわけではない。でも、その六人がいなければ、この車にはならなかった」

 ルーカスは再び宣言を見た。

「我々」という言葉は、単なる複数形ではなかった。祖父一人の成功を示すものでもない。機関、車体、製作、計測、保守、生活のそれぞれを担った者たちが、同じ結論へ名前を残したように見えた。

 ただし、まだ推測にすぎなかった。

 運転席の前には、標準の速度計や回転計に加え、複数の計器が整然と配置されていた。配線も配管も、仮設の試験装置のようには見えない。使い続けることを前提に作り直されていた。

 距離計は二十四万キロを超えていた。

 子供の頃に乗った車が、それ以前にも、それ以後にも、長い距離を走っていた。試験場で短期間使用しただけでは積み上がらない数字だった。

「これで買い物にも行っていたんだよね」

「もちろん」

「効率実験車で?」

「その呼び方をしていたのは、お祖父さんたちだけよ。役所に買い物へ行くときまで、実験車と呼ぶ必要はないでしょう」

 ルーカスは助手席の背もたれを倒した。少し抵抗はあったが、機構は正常に動いた。

「ここから後ろへ乗ったのを覚えている」

「あなたは靴の泥を落とさずに乗るから、いつも新聞紙を敷いていたわ」

 そのことまでは覚えていなかった。

 ルーカスは助手席を元へ戻し、グローブボックスを開けた。

 中にあったのは設計図や研究日記ではなく、薄い書類ケース、予備電球、布に包まれた小工具だった。書類ケースを開くと、公的な車検証が現れた。

 記載された車名はEffizienzversuch Nr.9でも、02-3でもない。

 BMW 1600-2

 改造内容に関する追記と承認印があった。この車は私設工場の中だけで動かされた試験車ではない。改造された1600-2として検査を受け、公道を走っていた。

 ルーカスは書類の日付を確認した。長年にわたって車検が更新されていたが、二〇〇四年以後の継続を示すものはない。二〇〇五年の車検書類も存在しなかった。

「保存してからは走らせていない?」

「公道ではね。もう使わないつもりだったから、車検も継続しなかったわ」

「今は道路へ出せない」

「今のままでは、ね」

 エリーザベトの答えに、ルーカスは顔を上げた。

「また走らせるつもりがあるの?」

「それを決めるのは、私ではないわ」

 彼女は銀文字へ目を向けた。

「残すことと、動かすことは別の問題でしょう」

 ルーカスは車検証をケースへ戻した。グローブボックスに入っているのは、この車を公道で使うために必要だった書類である。設計図や実験記録まで、ここへ保管する理由はなかった。

「ほかの資料は、角部屋にある書斎?」

「日記も図面も、そちらよ」

「この六人についても分かる?」

「名前は出てくるでしょう。でも、一冊読んだだけで全部分かったと思わないことね」

「自動車雑誌の書き手に、資料の読み方を教えるの?」

「間違った記事を書く人も、自動車雑誌の書き手でしょう」

 ルーカスは苦笑した。

 銀文字の宣言は、結論だけを示していた。

 何の実験が成功したのか。誰に、あるいは何に勝ったのか。祖父がなぜその言葉を筆で描き、故人二人の名まで残したのか。それを確かめるには、実車だけでも、日記だけでも足りない。

 部品、図面、公的書類、記録、そして生きている者の証言を照合する必要があった。

「最初に読むなら、どの日記がいい?」

 ルーカスが尋ねると、エリーザベトは工場の右側を示した。

 そこには、もう一台の銀色の車がカバーを掛けられていた。

「日記の前に、そちらを見た方がいいわ」

「Donnervogel 700」

「最後の答えを知りたいなら、捨てられなかった夢も知らなくてはいけないでしょう」

 エリーザベトはそれだけ言い、工場を出ていった。

 ルーカスは02-3の扉を閉めた。

 重い音が工場内に響いた。それもまた、幼い頃から知っている音だった。

 目の前にあるのは、見知らぬ実験車ではない。祖父母が使い、自分も後席へ乗った家族の車だった。だが、その身近な記憶の内側に、Effizienzversuch Nr.9という名と、六名の署名と、銀色の宣言が隠されていた。

 ルーカスは右側の車へ歩み寄った。

 紙札には、番号ではなく名前が記されている。

 Donnervogel 700

 最後まで生活の中を走った車を理解するには、生活へ戻らなかった車から確かめなければならなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。