ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
翌朝、ルーカスはユタ大学へは向かわなかった。
前夜、宿へ戻った直後にマイケルから連絡が入っていたからである。
話したいことがある。
午前中に工場へ来てほしい。
理由はそれ以上説明されなかった。
ユタ大学での調査はまだ終わっていない。しかし、ロバートの証言を聞いた今、現代側の資料も同じくらい重要だった。
ルーカスは朝早く車を走らせ、Iron Hammer Racingへ向かった。
工場へ入ると、マイケルはすでに作業着姿だった。
「大学はどうだった」
「決定的なものはなかった」
ルーカスは答えた。
「でも無駄でもなかった」
「父の話は?」
「それも同じだ」
ロバートは小さな外国車を覚えていた。
しかし名前は覚えていない。
速度も覚えていない。
ただ、そこにいた人々と車の印象だけが残っていた。
マイケルは頷いた。
「昔の話ってのはそんなものだ」
そして工場の奥を指差した。
「今日は別のものを見せたい」
ルーカスはその後を歩いた。
作業場の一角には長い車体が置かれていた。
低い。
細い。
そして巨大だった。
その中に収まる機関は、アンガーフェルトの資料で見てきたどの車とも比較にならない規模だった。
「これか」
「ああ」
マイケルは満足そうに言った。
「今の主力だ」
ルーカスはしばらく黙って車を見た。
配管が走る。
燃料系統が並ぶ。
冷却設備が付く。
補機が並ぶ。
機関だけでも巨大だが、それ以上に目立つのは周囲だった。
一つの数字を成立させるために、大量の部品が必要になっている。
「何馬力ある」
ルーカスは尋ねた。
マイケルは答えた。
「二千馬力前後だ」
ルーカスはもう一度車体を見た。
二千馬力。
数字だけなら異常だった。
ISO-I-2。
BMW 700。
02-3。
どれとも比較にならない。
しかし彼は興奮しなかった。
数字の大きさより、その数字を成立させるための仕組みが気になった。
「維持するのは大変だろう」
「当然だ」
マイケルは即答した。
「出力を出すだけなら難しくない」
そう言って機関を指差した。
「問題はそこから先だ」
ルーカスは少し笑った。
「どこかで聞いた話だな」
「本当か」
「祖父の日記で」
出力。
冷却。
潤滑。
安全。
資料の中に何度も出てくる言葉だった。
マイケルは興味を持ったらしい。
「お前の祖父は何を作っていたんだ」
「小さな車だ」
「どれくらい小さい」
「イセッタを基礎にした車」
マイケルは笑った。
「それと二千馬力を比べるのか」
「規模は違う」
「全然違うな」
「でも問題は同じだ」
ルーカスは車体を見ながら言った。
「出力だけでは終わらない」
マイケルは黙って聞いていた。
「出力を上げる」
ルーカスは続ける。
「冷却が必要になる」
「そうだ」
「潤滑も必要になる」
「そうだ」
「駆動系も必要になる」
「その通りだ」
「安全も必要になる」
マイケルは笑った。
「結局そこへ戻る」
ルーカスは頷いた。
アンガーフェルトに残る資料も同じだった。
Nr.1 Type1では冷却と潤滑が足りなかった。
ISO-I-1では安全が問題になった。
ISO-I-2では後輪空転が現れた。
出力そのものより、車全体が課題になっていく。
「二千馬力っていう数字は立派だ」
ルーカスは言った。
「でも、それだけでは車は走らない」
「まったくだ」
マイケルは即座に同意した。
「多くの人間は数字だけを見る」
そう言って工具箱へ腰を掛ける。
「雑誌もそうだ」
ルーカスは苦笑した。
否定できない。
何馬力。
何キロ毎時。
数字は見出しになる。
だが、その数字の裏にある失敗や修理は見えにくい。
マイケルは工場の壁を指差した。
そこには写真が並んでいる。
成功した車ばかりではない。
分解された機関。
壊れた部品。
試験中の車体。
修理中の写真。
失敗も同じ量だけ残っていた。
「どうして残している」
ルーカスは尋ねた。
「失敗した写真をか?」
「そうだ」
マイケルは少し考えた。
「成功だけ残すと嘘になる」
短い答えだった。
だが説得力があった。
アンガーフェルトの資料も同じである。
アドルフは失敗を消していない。
空転による無効表示も残した。
横転事故も残した。
機関破損も残した。
ルーカスは工場を見回した。
祖父たちとIron Hammer Racingの間には半世紀近い時間がある。
国も違う。
規模も違う。
それでも、技術者が問題を見る目は驚くほど似ていた。
昼になると作業はいったん止まった。
マイケルはコーヒーを持ってきた。
「父の話を聞いて思ったことがある」
ルーカスは言った。
「何だ」
「ロバートは車の名前を覚えていなかった」
「ああ」
「でも車そのものは覚えていた」
マイケルは頷く。
「よくある話だ」
「技術者は違う」
「どう違う」
「名前より仕組みを覚える」
マイケルは笑った。
「確かに」
二人はしばらく黙った。
工場の奥では誰かが作業を続けている。
工具の音が聞こえた。
ルーカスは、その音を聞きながら考えた。
イセッタターボスペシャル。
ISO-I-2。
ロバートの記憶。
ユタ大学の資料。
二千馬力の車。
一見すると無関係だった。
だが、
数字だけではない。
仕組みだけでもない。
記録だけでもない。
その全てを残そうとした人々がいる。
そこに共通点があった。
午後が近づく頃、マイケルが言った。
「もう一度来てくれ」
ルーカスは顔を上げた。
「今日の午後か?」
「ああ」
「何を見る」
マイケルは少しだけ笑った。
「父より古い記録だ」
それ以上は説明しなかった。
ルーカスも聞かなかった。
今はその方がよかった。
手帳を開き、次のページへ短く書く。
午後にもう一度。
そして、その下に続けた。
二千馬力は結果ではない。過程を大きくしただけだ。
アンガーフェルトでも。
ボンネビルでも。
この工場でも。
数字の裏側に、本当に見なければならないものが残っていた。