ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢   作:自動車好き/飛行機も好き

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熱効率

 その夜、ルーカスは宿の机に向かっていた。

 昼間に見た二千馬力の競技車と、アンガーフェルトの角部屋にある書斎の資料とを、頭の中で何度も並べていた。

 二千馬力。

 95.1mph。

 約153km/h。

 数字だけを書き出せば、互いに何の関係もないように見える。

 しかしアドルフの日記を年代順に追い続けてきたルーカスには、そこに一つの流れがあるように思えた。

 出力の追求。

 失敗。

 改良。

 そして別の価値への移行。

 その変化だった。

 机の上には、アンガーフェルトから持参した複写資料が広げられている。

 ルーカスはBMW 700系の記録を取り出した。

 最初のBMW 700は百馬力を超えていた。

 その後の700-Bは約九十馬力。

 700-Cは約八十馬力。

 700-Dは約七十馬力。

 数字だけを見るなら性能の低下だった。

 だが説明文を読むと違う。

 700-Bでは冷却余裕、操作性、耐久性。

 700-Cでは燃費と保守性。

 700-Dでは実用性重視。

 出力を削りながら、別のものを得ている。

 ルーカスは手帳へ書いた。

 高出力 → 実用性

 そして少し考えてから線を引き、

 高出力 → 効率

 と書き直した。

 実用性という結果の手前に、もっと技術的な理由があるはずだった。

 その時、エリーザベトの言葉を思い出した。

 彼女は若い頃から一貫して燃費、始動性、操作性、信頼性を重視している。車の評価基準がアドルフとは違うのである。

 アドルフは速度や出力から出発した。

 エリーザベトは日常から出発した。

 方向は違う。

 それなのに後年の記録を読むと、二人の評価が近づいている。

 なぜだろう。

 ルーカスは資料をめくる。

 02-3の記録に目が止まった。

 約140馬力。

 100km/h巡航で区間実測約20km/L。

 ここで重要なのは140馬力ではない。

 巡航燃費だった。

 若い頃のアドルフなら、まず馬力へ目が行ったはずである。

 だが後年の資料では、燃費も同じ重さで扱われている。

 ルーカスは思った。

 祖父は速度を追うことをやめたのではない。

 速度以外も見るようになったのだ。

 数字の大きさだけを競う段階を過ぎたとも言える。

 翌朝、ルーカスは再びIron Hammer Racingを訪れた。

 前日に話した内容を整理したかった。

 工場へ入ると、マイケルはエンジンスタンドの前で何かを確認していた。

「また来たな」

「確認したいことがある」

「熱効率か」

 ルーカスは頷いた。

 マイケルは工具を置いた。

「何が気になる」

「祖父の記録だ」

「二千馬力じゃなくて?」

「むしろ二千馬力のせいだ」

 ルーカスはバインダーを開いた。

「出力を上げれば熱も増える」

「当然だ」

「その熱を処理するために冷却が必要になる」

「そうだ」

「燃料も増える」

「そうだな」

「なら、出力だけを追い続けるのは限界がある」

 マイケルは少し考えた。

 そして椅子へ座った。

「お前の祖父はそこへ気付いたんじゃないか」

 ルーカスは黙った。

 それは仮説としては魅力的だった。

 しかし、まだ証明にならない。

 アドルフ本人が何を考えていたかは、資料から確認しなければならない。

 ロバートの証言を扱った時と同じだった。

 魅力的な結論ほど急いではいけない。

「資料を読み返している」

 ルーカスは言った。

「速度や馬力より、燃費とか耐久性の記述が増えていく」

「自然な流れだ」

 マイケルは答えた。

「どうして?」

「速くする方法を覚えた後に残るのは、どう維持するかだからだ」

 ルーカスはその言葉を繰り返した。

 どう維持するか。

 それは二千馬力の工場にも。

 アンガーフェルトの私設工場にも。

 共通する課題だった。

 機関を動かすことはできる。

 問題は、その状態を続けられるかどうかだった。

 機関を動かすことはできる。

 問題は、その状態を続けられるかどうかだった。

 ルーカスはその言葉を頭の中で繰り返した。

 若い頃のアドルフなら、出力を生み出す方法そのものへ強く関心を持っただろう。

 実際、初期の記録には過給、冷却、潤滑、回転数という言葉が何度も現れる。

 しかし後年の資料を読むと、同じ項目は残りながらも扱い方が変わる。

 最高値より継続性。

 瞬間的な性能より日常使用。

 それはBMW 700系から02系へ至る記録の流れにも見えていた。

 マイケルは作業台の上の部品を手に取った。

 小さな金属部品だった。

「これを見て何を考える?」

 ルーカスは少し眺めた。

「摩耗」

「それだけか?」

「交換時期」

「悪くない」

 マイケルは頷いた。

「でも俺たちが最初に考えるのは別だ」

「何だ」

「なぜ摩耗したか」

 ルーカスは返事をしなかった。

 その答えが理解できたからだった。

 摩耗は結果である。

 原因ではない。

 熱。

 潤滑不足。

 振動。

 荷重。

 回転数。

 そのどれかが背景にある。

 アドルフたちの記録も同じだった。

 フランツの測定記録は、失敗した現象だけを書いてはいない。

 誤差。

 校正。

 測定条件。

 必ず背景を残している。

 ルーカスは工場の中を見回した。

 誰も「二千馬力」とは叫んでいない。

 誰も最高出力の話をしていない。

 確認しているのは配管だった。

 温度だった。

 油だった。

 ボルトだった。

 数字を成立させる条件ばかりだった。

「熱効率って、結局は何なんだろうな」

 ルーカスが言うと、マイケルは笑った。

「急に学生みたいな質問だな」

「今日は学生の気分なんだ」

「なら簡単だ」

 マイケルは机に指で線を引いた。

「燃料がある」

「うん」

「燃やす」

「うん」

「その一部が仕事になる」

「残りは?」

「捨てるしかない」

 捨てる。

 その表現は、ルーカスの中へ強く残った。

 実際には排気として出る。

 冷却系へ流れる。

 周囲の空気へ逃げる。

 いろいろな形がある。

 だが本質的には、使えなかったエネルギーだった。

「だから効率を上げるというのは」

 ルーカスが言う。

「捨てる量を減らすことか」

「そうだ」

 マイケルは頷いた。

「出力を上げるのとは違う」

 その瞬間、ルーカスの頭の中で複数の資料が繋がった。

 BMW 700-B。

 700-C。

 700-D。

 数字だけを見ると出力は下がっている。

 しかし冷却余裕、耐久性、保守性、実用性は向上している。

 若い頃のルーカスなら、それを性能低下と見たかもしれない。

 今は違う。

 投入した燃料と、得られる仕事と、その継続時間。

 その全体を評価しているように見えた。

 アンガーフェルトへ残された02-3も思い出す。

 約140馬力。

 そして100km/h巡航で区間実測約20km/L。

 若いアドルフなら燃費を成果として残しただろうか。

 ルーカスは首を振った。

 おそらく残さない。

 だが晩年のアドルフは残している。

 そこに変化があった。

「祖父は出力を諦めたんじゃない」

 ルーカスは独り言のように言った。

 マイケルが見る。

「何だって?」

「出力を諦めたんじゃない」

 ルーカスはもう一度言った。

「同じ問題を別の方向から見るようになったんだ」

 出力を増やす。

 熱が増える。

 損失が増える。

 燃料消費も増える。

 なら、燃やしたものをもっと有効に使えないか。

 その発想は、速度の追求と対立しない。

 むしろ、その延長線上にある。

 マイケルは少し考えてから頷いた。

「それなら技術者らしい」

 午後の作業が終わる頃、ルーカスは再び手帳を開いた。

 新しい発見はない。

 新しい数字もない。

 だが、新しい見方があった。

 若い頃のアドルフ。

 晩年のアドルフ。

 その間にある変化を説明できるかもしれない視点だった。

 宿へ戻ると、彼はアンガーフェルトから持参した複写資料を机へ並べた。

 イセッタターボスペシャル。

 ISO-I-2。

 BMW 700。

 02-3。

 それぞれ別の車だ。

 だが、資料を年代順に並べると、一つの問いが続いているように見えた。

 どうやって出力を得るか。

 どうやって壊さないか。

 どうやって無駄を減らすか。

 その変化の先に、02-3がある。

 ルーカスは最後に手帳へ一文を書いた。

 効率は出力の反対側にあるのではない。出力を追った先にある。

 それが正しいかどうかは、まだ分からない。

 だが、確かめる価値はあった。

 次に読むべき資料も見えている。

 BMW 700系の記録だった。

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