ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
ユタ州の宿へ戻ったルーカスは、Donnervogelの資料を机へ広げた。
何度も読んだはずの頁だった。
ニュルブルクリンク北コース。
最大性能の八割程度でのシェイクダウン。
後輪タイヤの接地面と側壁に著しい損傷。
全開走行と正式計時の中止。
その中で、今まで以上に気になる言葉があった。
側壁。
接地面なら理解できる。
摩耗する。
発熱する。
負荷を受ける。
だが、なぜ側壁なのか。
ルーカスは資料を閉じ、もう一度最初から読み直した。
明確な答えは書かれていない。
あるのは観察記録だけだった。
タイヤ側壁に著しい損傷。
その結果として全開走行を中止。
それだけである。
つまり、この問題は後から推測してはいけない。
アドルフたちが何を見て、何を恐れたのかを、残された資料から確かめなければならなかった。
翌朝、ルーカスは再びIron Hammer Racingを訪れた。
工場へ入ると、マイケルは分解したタイヤを前にしていた。
偶然とは思えない光景だった。
「今日はタイヤか」
ルーカスが言う。
マイケルは頷いた。
「昨日の話の続きだ」
机の上には使用済みタイヤが置かれていた。
接地面ではない。
側面だった。
ルーカスは近づいて観察した。
そこには摩耗というより変形の痕跡があった。
熱を受けた跡。
応力を受けた跡。
ただし、それ以上のことは分からない。
彼は勝手な解釈を避けた。
「Donnervogelの資料を読んでいた」
そう言うと、マイケルが顔を上げた。
「側壁の話か」
「そうだ」
ルーカスは資料を見せた。
マイケルは該当箇所を読んだ。
「いい判断だ」
「中止したことが?」
「そうだ」
即答だった。
ルーカスは理由を待った。
「タイヤの問題は機関の問題より厄介なことがある」
マイケルは言った。
「機関は壊れる前に兆候が出る場合も多い」
「タイヤは違う?」
「限界を越えると一気に来ることがある」
ルーカスはその言葉を手帳へ書き留めた。
限界。
一気に来る。
それはDonnervogelの資料から受ける印象とも一致した。
記録の中心は速度ではない。
危険の発見だった。
工場の奥から作業音が響く。
誰かが車体の下に潜り込んでいる。
別の者は工具を整理している。
ルーカスはふと考えた。
ボンネビルでも。
ニュルブルクリンクでも。
結局は同じだったのではないか。
人々は速度だけを追っていたわけではない。
車を成立させる条件を確認していた。
ルーカスはアドルフの日記を思い出した。
若い頃の記録には出力や速度が目立つ。
しかし失敗の後には別の記述が増える。
冷却。
潤滑。
構造。
安全。
そしてタイヤ。
問題が発見されるたびに、研究対象が広がっている。
Donnervogelの側壁損傷も、その流れの中にあるように思えた。
昼前、マイケルが古い写真を持ってきた。
そこには競技車の足回りが写っていた。
車体全体ではない。
タイヤ周辺だけである。
「父が残した写真だ」
ルーカスは見つめた。
何を撮るべきかを知っている人間の写真だった。
車全体ではなく、問題が現れた場所を撮っている。
それはアンガーフェルトの資料にも似ていた。
アドルフもまた、問題そのものを残している。
成功した姿だけではない。
失敗した場所。
壊れた部品。
損傷した箇所。
それらを保存している。
ルーカスは少し考えた。
歴史を調べる時、人はつい完成した姿を追う。
記録。
速度。
出力。
車名。
しかし技術者が本当に注目するのは、問題が現れた場所なのかもしれない。
タイヤ側壁。
後輪空転。
潤滑不足。
横転。
どれも「失敗」として片付けられる。
だが、その失敗こそが次の車を生む。
ルーカスは手帳へ新しい一文を書いた。
車は成功によって残る。技術は失敗によって進む。
ルーカスは手帳へ書いた一文を見つめた。
車は成功によって残る。技術は失敗によって進む。
少し大げさにも思えた。
だが、アンガーフェルトの資料を振り返ると、その考えは間違っていないように思えた。
Nr.1 Type1の機関破損。
ISO-I-1の横転。
イセッタターボスペシャル、すなわちISO-I-2での後輪空転。
そしてDonnervogelのタイヤ損傷。
どの車も問題を経験している。
にもかかわらず、その記録は失敗例として終わっていない。
次の車を作るための資料になっている。
工場の奥から聞こえる作業音を聞きながら、ルーカスはDonnervogelの資料を読み返した。
後輪タイヤ。
接地面。
側壁。
その言葉が何度も現れる。
だが資料は原因を断定していない。
損傷を確認した。
だから中止した。
そこまでである。
ルーカスはその書き方に見覚えがあった。
フランツの記録も同じだった。
測定値を書く。
観察を書く。
結論を急がない。
不足する部分を想像で埋めない。
それは記録としては地味だった。
しかし、後から読む人間にはありがたい。
勝手な結論が混ざっていないからだった。
「何を考えている」
マイケルが尋ねた。
「祖父たちの記録の仕方だ」
「技術者らしいか?」
「異常がある」
ルーカスは資料を指差した。
「原因は不明」
「うん」
「だから止める」
「うん」
「その順番なんだ」
マイケルは少し考えた。
「普通じゃないのか」
「普通じゃない人も多い」
ルーカスは笑った。
「原因も分からないのに続ける」
「確かにな」
「あるいは都合のいい理由を後から作る」
マイケルは頷いた。
「父が嫌いそうだ」
「祖父もだ」
二人はしばらく黙った。
その静けさの中で、ルーカスはもう一つの共通点に気づいた。
アンガーフェルトの私設工場二階に残されている部品。
Iron Hammer Racingに残されている部品。
どちらも同じような目的で保管されている。
完成品ではない。
壊れたもの。
摩耗したもの。
交換されたもの。
普通なら捨てられるものだった。
しかし技術者は残す。
なぜ壊れたかを忘れないために。
ルーカスはふと思った。
もしDonnervogelが問題なく全開走行を終えていたらどうなっただろう。
より大きな話題になったかもしれない。
記録も残ったかもしれない。
だが、今より多くのことが分かったとは限らない。
問題が現れたからこそ、そこを調べる。
調べたからこそ、次の車へ活かせる。
それが技術史の進み方なのかもしれなかった。
午後の終わり頃、マイケルは古い写真の束を片付けながら言った。
「お前の祖父の記録を読んでいると、面白いな」
「何がだ」
「答えを探しているというより、問題を集めている」
ルーカスは少し笑った。
言われてみれば、その通りだった。
アドルフの資料には成功談より問題が多い。
冷却不足。
潤滑不足。
横転。
空転。
タイヤ損傷。
それらを何十年も記録し続けている。
だが、その結果として残った車を見れば、決して悲観的な歴史ではない。
最後に残るのは02-3である。
長く使われ。
保存され。
そして二〇〇八年になって孫が発見する。
もし失敗しかなかったなら、その車は存在していない。
ルーカスは手帳へ線を引いた。
Type1。
ISO系。
Donnervogel。
BMW 700系。
02系。
それぞれの間を結ぶ。
速度を追う。
安全を学ぶ。
限界を知る。
効率を考える。
実用へ戻る。
そう読むこともできた。
もちろん、今はまだ仮説である。
だが以前より論理は通っていた。
宿へ戻る頃には日が落ちていた。
ルーカスは机の上へ資料を並べる。
Donnervogelの頁。
BMW 700系の頁。
熱効率についてのメモ。
そしてエリーザベトの記録。
若い頃のアドルフは速度を追った。
エリーザベトは燃費や信頼性を見ていた。
長い年月の中で、その二つが少しずつ近づいていく。
そこに興味を引かれた。
高速化を追った技術者が、なぜ最終的に効率や実用性を重視するようになったのか。
その変化を最もよく示しているのがBMW 700系なのかもしれない。
ルーカスは最後に一行だけ書いた。
側壁はタイヤの問題を示した。だが本当に見えてきたのは、技術者の考え方だった。
ページをめくる。
次に読む資料は決まっている。
BMW 700の後。
その思想がさらに進んだ先。
そこにあるのは、一台の競技車ではない。
日常へ戻った車だった。