ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き
ルーカスは、工場右側の車へ向き直った。
中央に置かれた02-3より低く、カバーの輪郭は後方へ向かって厚みを増していた。紙札には試験番号ではなく、ひとつの名前だけがタイプライターで打たれている。
Donnervogel 700
雷鳥。
幼い頃、ルーカスは工場の右側へ近づかないよう言われていた。厳しく叱られた記憶はない。エリーザベトから「あれは乗る車ではない」と教えられ、それで納得していた。
02-3は祖父母の車だった。助手席を倒して後席へ乗り、買い物や近隣への外出に連れていってもらった。これに対して、カバーの下の車には乗った記憶がない。工場の薄暗い場所にいつも置かれている、用途の分からない機械だった。
ルーカスはカバーを留めた紐を解いた。
前端から布を持ち上げると、銀色の車体が現れた。低い前部、小さなフロントガラス、乗員を収めるための狭いコクピット。その後ろには、機関と補機を包む大きな後部車体が続いていた。
すべての布を取り除き、ルーカスは数歩離れた。
市販車とのつながりを残してはいる。しかし、その形は日常の使用を前提としていなかった。屋根は低く、乗降口は小さい。後席も、荷物を積むための空間もない。冷却用の開口部と車体後部の膨らみが、この車の目的を示していた。
銀色であることだけが、02-3との明確な共通点だった。
運転席側の小さな扉を開くと、コクピットを囲む骨格が見えた。
補強材は、太い鋼管を無秩序に追加したものではなかった。乗員の周囲に一定の空間を確保しながら、前後左右から加わる荷重を受けるよう組まれている。溶接箇所には手作業の跡があり、場所によって仕上げも異なった。
材料や板厚、荷重に対する設計値は、外観だけでは判断できない。それでも、機関を強化しただけの車でないことは分かった。車体構造から作り直されている。
ルーカスは開口部から上半身を入れた。
コクピットには二つの座席が並んでいた。どちらも乗降や荷物のために倒す構造ではない。02-3の助手席にあった生活上の都合は、ここには必要とされていなかった。
「無理に座らない方がいいわよ」
背後からエリーザベトの声がした。
ルーカスは体を起こした。
「壊れるから?」
「降りられなくなるからよ。あなたは昔より大きくなったでしょう」
エリーザベトは工場へ入り、床に下ろされたカバーを畳み始めた。Donnervogelのコクピットには近づかなかった。
「お祖母さんも乗ったことがある?」
「ないわ」
彼女は即座に答えた。
「一度も?」
「一度もよ。これは私が運転する車ではなかったし、同乗する理由もなかったもの」
ルーカスは二つ目の座席を見た。
「二人乗りなのに?」
「二人乗れることと、私が乗ることは別でしょう」
エリーザベトは畳んだカバーを作業台へ置いた。
「私は公道用の700には乗ったわ。始動の具合や、扱いやすさや、燃料をどれだけ使うかも確かめた。でも、これは競技用よ。私が買い物に使って評価する車ではないわ」
公道用のBMW 700系と、Donnervogel 700。
同じ数字を名に持ちながら、用途は完全に異なっていた。前者は生活の中で使うことによって問題点を確かめられる。後者は特定の目的のために作られ、閉鎖された場所で走らせる車だった。
「どこで走ったの?」
「ニュルブルクリンクよ。北コースで、一度だけ」
ルーカスは手帳を開いた。
「一度しか走っていない?」
「ええ。最初で最後だったわ」
「お祖母さんも現地へ?」
「行っていないわ」
エリーザベトは作業台の上を布で拭き始めた。
「家に残っていた。だから、その走行について私が直接見たようには話せないわ」
「祖父から聞いたことは?」
「帰ってから説明は受けたわ。でも、それはあの人の説明よ。詳しく知りたいなら、当時の記録を確かめなさい」
ルーカスは手帳に、一度のみ、エリーザベトは不参加、と記した。
「ラップタイムは?」
「正式なものはないわ」
「計時しなかった?」
「正式な記録として残せる走行をしなかったのよ。最初から最大性能を出したわけでもないし、続けるはずだった試験も中止したから」
「映像は残っている?」
「フィルムがあったはずよ。角部屋にある書斎にね」
「それを見れば、ある程度は分かる」
「走っていたことは分かるでしょうね」
エリーザベトは手を止めた。
「でも、映像だけで速度や時間を決めてはいけないわ。撮影した位置も距離も、フィルムの送り方も確かめないまま数字を出せば、それは測定ではないでしょう」
ルーカスは頷いた。
Normal-8の映像が残っていても、それだけで走行性能を確定することはできない。資料は出来事の一部を保存するが、保存されなかった条件までは教えてくれない。
「試験を中止した理由は?」
「タイヤよ」
エリーザベトは工場の壁際を示した。
低い保管台に、一組の古いタイヤが載せられていた。それぞれに紙札が結ばれ、薄れた文字でDonnervogel 700と記されている。
ルーカスはしゃがみ込んだ。
ゴムは年月を経て硬化していた。現在の状態から当時の強度を推定することはできない。だが、接地面には一様でない荒れがあり、側壁にも明らかな損傷の痕跡が残っていた。
通常の保管による劣化とは場所も形も違う。
「後輪に使われていたもの?」
「そう聞いているわ」
「これが一度の走行で?」
「ニュルブルクリンクから戻ったときには、交換して持ち帰っていたわ」
エリーザベトは走行に立ち会っていない。したがって、タイヤを発見した瞬間や、現地で交わされた会話を知ることはできなかった。
彼女が語れるのは、車が戻ってきた後に見聞きしたことだけだった。
「パンクしたの?」
「いいえ。そうなる前に止めたと聞いたわ」
「誰が中止を決めた?」
「それは記録を読んで。私がその場にいなかったことを、見ていたように話すわけにはいかないもの」
ルーカスは損傷箇所を手帳へ写した。
接地面の一部だけでなく、側壁にも負担が現れている。単に新品へ交換すれば済んだのか、車重や荷重移動、空気圧、懸架装置まで見直す必要があったのかは分からない。
「機関には、まだ余裕があったのかな」
「帰ってきたお祖父さんは、出力の話をほとんどしなかったわ」
「何を話した?」
「タイヤと車体。それから、次に同じことをするなら何を調べ直すべきか」
エリーザベトは古いタイヤを見た。
「速く走れることと、速く走り続けられることは違う。あの人がそう考えるようになったのは、この車だけが理由ではないでしょうけれど」
Donnervogelは、走れなかった車ではない。
北コースを一度走り、その性能の一部を示した。しかし最大性能を試す前に、継続すべきでない兆候が見つかった。正式な計時は行われず、二度目の走行もなかった。
それを成功と呼ぶべきか、失敗と呼ぶべきか。ルーカスには判断できなかった。
「直して、もう一度走ることは考えなかった?」
「考えたでしょうね」
「記録にある?」
「当時の日記にあるはずよ。部品の一覧や図面も残っているかもしれない」
「でも、実行しなかった」
「ええ」
「なぜ?」
「費用も掛かったし、直すならタイヤだけで済むのかという問題もあった。それに、同じ目的へ戻ることが、本当に必要なのかも考えたのでしょう」
エリーザベトは02-3へ目を向けた。
「公道用の700では、出力を下げるたびに使いやすくなったわ。冷却にも余裕ができた。故障したときに何を交換すればよいのかも、分かりやすくなった」
「競技用のこれは、その反対だった?」
「これは最初から、暮らしのためには作られていないもの」
Donnervogelは約束された性能へ近づくための車だった。
狭いコクピット、乗員を囲む骨格、後部に集中した機関と補機。そこには、最高性能を引き出そうとした者たちの仕事が残っている。
しかし、機関だけが耐えればよいのではなかった。
タイヤが警告を発すれば走行を中止しなければならない。車体、駆動系、制動、操縦性、そして乗員の生存空間まで、一つの系として成立する必要がある。
ルーカスは立ち上がり、車全体を見渡した。
「どうして処分しなかったんだろう」
「お祖父さんに聞いたことはあるわ」
「何て答えた?」
「まだ結論が出ていない、と」
「二〇〇四年に02-3へ宣言を描いた後も?」
「それでも、この車についての結論とは別だったのでしょうね」
エリーザベトは銀色の車体を見つめた。
「壊れて動かなかったのなら、部品に戻すこともできた。目的を果たしたのなら、記録を整理して終わらせることもできた。でも、この車は走れたのに、最後まで試さなかった。だから、捨てる理由も、完成したと言う理由もなかったのだと思うわ」
それは、02-3とは正反対の存在だった。
02-3は二十四万キロを超えて走り、公道用の車検証を持ち、祖父母の生活に使われた。最後には、ダッシュボードへ成功と勝利が筆で描かれた。
Donnervogelには、公式なラップタイムも宣言もない。
残されたのは車体と、損傷した後輪タイヤと、一度だけ走ったという記録だった。
「捨てられなかった夢、か」
ルーカスが言うと、エリーザベトは返事をしなかった。
訂正もしなかった。
「詳しく調べるなら、どこから始めればいい?」
「角部屋にある書斎よ」
「ニュルブルクリンクの記録から?」
「それでは遅すぎるわ」
エリーザベトは工場の出口へ向かった。
「この車は、突然できたのではないもの。どうしてこんな車を造ろうとしたのか知りたいなら、最初から読まなくてはいけないでしょう」
「最初というと?」
「お祖父さんの日記よ。一年に一冊ずつあるわ」
彼女は工場を出ていった。
ルーカスは、二台の銀色の車の間に立った。
一方は番号を与えられ、生活の中で答えを示した。
もう一方は名を与えられ、たった一度の走行の後、未完成のまま保存された。
Donnervogelの速度は分からない。北コースでどの区間をどの程度の速さで走ったのかも、目の前の車体からは判断できない。ただし、最大性能を試す前に中止されたことだけは、残されたタイヤが示していた。
ルーカスは車へカバーを戻さず、工場の窓を閉めた。
母屋へ戻り、角部屋にある書斎の扉を開いた。
壁際の書棚には、同じ寸法のノートが年代順に並んでいた。背表紙に書かれているのは題名ではない。一冊につき、一つの年だけだった。
Donnervogelの名が現れる巻を探すことはできる。
だが、それでは祖父たちがそこへ至った理由を見落とす。
ルーカスは書棚の最初に近い一冊を引き出した。
祖父の記録は、車名ではなく、年によって整理されていた。