ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢   作:自動車好き/飛行機も好き

30 / 41
二十四万km

ルーカスは、角部屋にある書斎で02-3の走行記録を開いた。

 

 2004年に保存された時点で、積算走行距離は240,850kmに達していた。

 

 最高速度ではない。

 

 最大出力でもない。

 

 二十四万kmを超える距離だった。

 

 約140馬力という数字は、一行で書ける。

 

 機械式燃料噴射の完成形という説明も、短い文章で済む。

 

 しかし、240,850kmという数字には、一行では表せない時間が含まれていた。

 

 始動する。

 

 走る。

 

 停止する。

 

 点検する。

 

 必要な整備を行う。

 

 そして、再び走る。

 

 その繰り返しだった。

 

 02-1は短期間で退役した。

 

 プロペラシャフトが破断し、車体トンネル部とフロアを損傷したため、長期運用試験へ進めなかった。

 

 02-2も長くは使えなかった。

 

 信号待ちで停止中、左折に失敗した車から正面衝突を受け、機関と車体前部を失った。キャビンは変形したものの生存空間は残り、アドルフは頸椎捻挫を負いながらも歩くことができた。

 

 事故後、次の車両はすぐに手配された。

 

 そうして作られた三台目が、02-3だった。

 

 前の二台には、長期運用試験を続ける時間がなかった。

 

 02-3はその続きを引き受けた。

 

 ルーカスは走行記録を年代順に並べた。

 

 同じ書式が最後まで続いているわけではない。

 

 初期にはフランツによる測定と解析が多い。

 

 アドルフは過給、冷却、効率、耐久性を記録している。

 

 オットーの記録には、保守と交換に関する記述が目立つ。

 

 エリーザベトは費用や燃料、日常で使った際の不便を残していた。

 

 同じ車を見ていても、記録する内容は違った。

 

 それらが重なることで、一台の長期運用記録になっていた。

 

 ルーカスは走行距離だけを抜き出すことをやめた。

 

 二十四万kmという合計値だけでは、途中で何が起きたのか分からない。

 

 重要なのは、距離と距離の間に挟まれた記録だった。

 

 点検。

 

 調整。

 

 交換。

 

 再測定。

 

 不具合が見つかった時には、原因を調べる。

 

 部品を交換した時には、交換前の状態を記録する。

 

 仕様を変更した時には、その前後を比較する。

 

 走行距離は、それらの変化を並べるための軸だった。

 

 昼食の席で、ルーカスはエリーザベトへ尋ねた。

 

「二十四万kmも走ったという感覚はあった?」

 

「少しずつ増えたのだから、特別な感じはなかったわね」

 

「途中で、もう十分だと思わなかった?」

 

「何について十分なの?」

 

「試験として」

 

 エリーザベトは少し考えた。

 

「お祖父さんにとっては、使い続けることも試験だったのでしょうね」

 

「終わりは決めていなかった?」

 

「そこまでは覚えていないわ。ただ、二十四万kmを目標にしていたわけではないでしょう」

 

「どうして分かるの?」

 

「そんな切りの悪い数字を目標にすると思う?」

 

 ルーカスは笑った。

 

「思わない」

 

「使い続けた結果として、そこまで走ったのよ」

 

 240,850kmは、記録達成のために設定された数字ではなかった。

 

 日常使用と試験を積み重ねた結果として残った距離だった。

 

「買い物にも使った?」

 

「もちろん」

 

「旅行にも?」

 

「使ったわ」

 

「試験車であることを意識していた?」

 

「いつもではないわね」

 

 エリーザベトは水を飲んでから続けた。

 

「荷物を積んで出かける時に、過給圧や燃料制御のことばかり考える人はいないでしょう」

 

「お祖父さんなら考えたかもしれない」

 

「運転中は計器を見ていたでしょうね。でも私は、目的地へ無事に着けるかを見ていたわ」

 

 技術者と利用者の視点の違いだった。

 

 アドルフは機関や計器を見る。

 

 エリーザベトは目的地へ着けるかを見る。

 

 しかし、長期運用の中では、その二つを分けることはできない。

 

 効率が悪ければ燃料代が増える。

 

 始動性が悪ければ出発できない。

 

 冷却に余裕がなければ、暑い日や混雑した道路で使いにくい。

 

 整備の頻度が高過ぎれば、日常の車として扱うことが難しくなる。

 

 技術上の課題は、そのまま生活上の不便になる。

 

 反対に、生活の中で現れた不便は、新しい技術課題になった。

 

 ルーカスは書斎へ戻り、燃料関係の記録を探した。

 

 02-3には、100km/h巡航で区間実測約20km/Lという記録があった。

 

 約140馬力の機械式燃料噴射車でありながら、効率も評価対象に含まれていた。

 

 ただし、この数値をあらゆる走行条件へ当てはめることはできない。

 

 100km/h巡航という条件がある。

 

 区間実測である。

 

 市街地。

 

 短距離。

 

 寒冷時。

 

 積載時。

 

 そうした条件でも同じ燃費だったとは言えない。

 

 ルーカスは手帳へ、数値だけではなく条件も書いた。

 

 100km/h巡航。

 

 区間実測。

 

 約20km/L。

 

 数字だけを切り離さない。

 

 条件を失えば、測定記録は宣伝文句へ変わってしまう。

 

 二十四万kmも同じだった。

 

 その距離だけを見れば、故障なく走り続けた車のように思える。

 

 しかし、無整備で二十四万kmを走ったわけではない。

 

 点検を受けている。

 

 部品も交換されている。

 

 調整も行われている。

 

 長く使うとは、何もせず最初の状態を保つことではなかった。

 

 摩耗や不具合を観察し、必要な時に手を入れ、再び使える状態へ戻すことだった。

 

 ルーカスは交換記録を追った。

 

 すべての部品が製作時から保存時まで使われ続けたわけではない。

 

 だが、交換を失敗と考える必要もなかった。

 

 摩耗する部品は交換する。

 

 寿命を迎えた部品は取り外す。

 

 交換後の状態を確認する。

 

 次の点検時期を考える。

 

 それもまた、運用の一部だった。

 

 私設工場二階の部品庫には、交換部品や損傷部品、試作品、タービン部品、冷却器、計器、配管、治具が保管されていた。700-Dを解体精密検査した際の保存部品も残されている。

 

 その中に、02-3から取り外された部品が含まれている可能性はあった。

 

 ただし、可能性だけで02-3の部品と決めることはできない。

 

 午後、ルーカスは部品庫へ上がった。

 

 棚の整理札を読み、形状を確認し、角部屋にある書斎の交換記録と照らし合わせた。

 

 対応する可能性のある部品はいくつか見つかった。

 

 しかし、02-3から取り外されたものだと確定できる部品ばかりではなかった。

 

 整理札の文字が薄いものもある。

 

 取り外した時期や理由が分からないものもあった。

 

 ルーカスは推測で分類せず、記録と対応を確認できるものだけを手帳へ記した。

 

 書斎へ戻ると、エリーザベトが窓際に立っていた。

 

「何を探していたの?」

 

「交換された部品」

 

「見つかった?」

 

「記録と対応するものはいくつか。でも、02-3の部品か分からないものも多い」

 

「全部残しているわけではないでしょうね」

 

「うん。でも、交換した事実は記録に残っている」

 

「二十四万kmも走れば、何も替えずに済むわけがないでしょう」

 

「そこが大事なんだと思う」

 

「何が?」

 

「長く使えたという話をすると、まったく壊れなかった車みたいに聞こえる。でも実際には、直しながら使えた車だったんだ」

 

 エリーザベトは少し考えた。

 

「壊れないことと、直せることは違うわね」

 

「どちらが大切?」

 

「両方でしょう」

 

「どちらか一つなら?」

 

「そんな選び方をする必要があるの?」

 

 ルーカスは答えられなかった。

 

「壊れにくくして、それでも不具合が出た時には直せるようにする。それでいいでしょう」

 

 アドルフの日記より簡潔だった。

 

 しかし、02-3の長期運用を説明する言葉としては適切だった。

 

 二十四万kmは、不壊の証明ではない。

 

 保守し、交換し、調整しながら使い続けられた結果だった。

 

 夕方、ルーカスは私設工場へ入った。

 

 中央には、2004年に240,850kmで保存された02-3が置かれている。

 

 保存後は継続車検を取得していない。

 

 2005年の車検書類も存在しなかった。

 

 再び公道へ戻すには、車体と機関の状態を確認し、新しい車検を取得する必要がある。

 

 今はまだ、走らせる段階ではない。

 

 過去に二十四万kmを超えて走った実績は、四年間保存された車が現在も安全に走れることを保証しない。

 

 過去の耐久性と、現在の状態は別の問題だった。

 

 ルーカスは運転席側の窓から車内を見た。

 

 幼い頃、この車が試験車だとは知らなかった。

 

 祖父母の車だった。

 

 乗せてもらい、目的地へ着き、また家へ戻る。

 

 その記憶があるだけだった。

 

 だが、それこそが02-3の成果だったのかもしれない。

 

 実験車であることを利用者へ意識させず、生活の中で役割を果たす。

 

 最高速度を出す必要はない。

 

 毎回、最大出力を使う必要もない。

 

 必要な時に始動し、人と荷物を運び、目的地へ着き、整備を受けながら使われ続ける。

 

 Type1から始まった研究は、そこまで来ていた。

 

 ルーカスは手帳を開いた。

 

 二十四万kmは、壊れなかった距離ではない。

 

 直しながら、使い続けられた距離である。

 

 その下へ、もう一行を書いた。

 

 機械式燃料噴射の試験車が、家族の車として生きた距離。

 

 窓から差し込む夕方の光が、銀色の車体へ落ちていた。

 

 02-3は記録挑戦車ではない。

 

 博物館の展示物として作られた車でもない。

 

 使われるために作られ、使われ続けた。

 

 二十四万kmという数字は、その結果だった。

 

 ルーカスは工場を出る前に、もう一度車体を振り返った。

 

 次に調べるべきことは、走行距離そのものではない。

 

 この車が使われた長い時間の中で、外の世界がどのように変わったのか。

 

 アドルフたちが私設工場で続けてきた実験へ、自動車産業がいつ近づいたのか。

 

 その答えは、1973年の記録から始まっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。