ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢   作:自動車好き/飛行機も好き

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最後の署名

2004年の記録は、整備日誌というより、02-3を保存するための作業記録に近かった。

 

 ルーカスは角部屋にある書斎の机へ資料を広げた。

 

 積算走行距離は240,850km。

 

 機関と車体の状態が確認され、長期運用で蓄積された記録が整理されている。

 

 02-3は解体されなかった。

 

 部品取りにもされなかった。

 

 日常使用を終えた後も、一台の完成車として残された。

 

 その保存に際して、ダッシュボードに一つの文章と六人の名前が記された。

 

 実験は成功し、我々は勝利した。

 

 ルーカスは私設工場で、その文字を初めて見つけた時のことを思い出した。

 

 車体のカバーを外し、車内を覗いた時、銀色の文字が目に入った。

 

 最初に疑問を持ったのは文章の意味だった。

 

 1973年の記録を読んだことで、その出所は分かった。

 

 BMW 2002 Turboの登場を知ったアドルフが、日記へ記した言葉だった。

 

 次に疑問となったのは、その下に並ぶ六人の名前だった。

 

 アドルフ。

 

 オットー。

 

 ヨーゼフ。

 

 ルートヴィヒ。

 

 フランツ。

 

 エリーザベト。

 

 私設研究を、それぞれ異なる仕事で支えた六人だった。

 

 しかし、2004年に六人全員が存命だったわけではない。

 

 ルートヴィヒは1988年に亡くなっている。

 

 フランツも2002年に亡くなっていた。

 

 自ら署名できたのは、アドルフ、オットー、ヨーゼフ、エリーザベトの四人だった。

 

 ルーカスが署名日の記録を読み進めると、その四人がアンガーフェルトへ集まっていたことが分かった。

 

 偶然、別々の機会に名前を書いたのではない。

 

 02-3を保存する節目として顔を合わせ、小さなパーティーを開いていた。

 

 会社の行事ではない。

 

 大勢を招いた記念式典でもない。

 

 長く研究を続けてきた者たちだけの、私的な集まりだった。

 

 ルーカスは手帳へ書いた。

 

 2004年。

 

 02-3、240,850km。

 

 存命の関係者四人がアンガーフェルトに集合。

 

 保存を区切りとする小さなパーティー。

 

 昼食の席で、ルーカスはエリーザベトへ尋ねた。

 

「この日のことを覚えてる?」

 

「覚えているわ」

 

「オットーとヨーゼフも来たんだね」

 

「ええ。四人で集まったわ」

 

「何を祝ったの?」

 

 エリーザベトは少し考えた。

 

「何を、と一つに決めていたかしら」

 

「02-3が二十四万kmを走ったこと?」

 

「それもあったでしょうね」

 

「研究が終わったこと?」

 

「終わったというより、車を残すことを決めた日ね」

 

「成功を祝った?」

 

「成功だけではなかったと思うわ」

 

 エリーザベトは言葉を選んだ。

 

「失敗も故障もあったけれど、ここまで続いた。それを皆で確かめる日だったのでしょうね」

 

 ルーカスは、その言葉を手帳へ記した。

 

 ただし、当日に同じ表現が使われたとは限らない。

 

 これは四年後に振り返ったエリーザベトの説明だった。

 

「署名は、その集まりの時に?」

 

「ええ」

 

「最初に誰が書いた?」

 

「そこまでは覚えていないわね」

 

「お祖母さんは自分で書いた?」

 

「もちろんよ」

 

 アドルフ、オットー、ヨーゼフ、エリーザベト。

 

 四人は同じ場所に集まり、それぞれ自分の名前を書いた。

 

 だが、ダッシュボードに残されている名前は六人分ある。

 

「ルートヴィヒとフランツの名前は?」

 

「お祖父さんが書いたわ」

 

「同じ時に?」

 

「ええ」

 

「みんなの前で?」

 

「そうだったわ」

 

 ルートヴィヒとフランツの名前は、本人の直筆ではなかった。

 

 2004年の小さなパーティーで、アドルフが二人の名前を代筆したのである。

 

 それは公的書類の署名ではない。

 

 契約への同意でもなく、法的責任を代行するためのものでもない。

 

 02-3へ誰が関わったのかを、完成車の中に残すための名前だった。

 

 ルーカスは署名の構成を手帳へ整理した。

 

 本人による署名。

 

 アドルフ、オットー、ヨーゼフ、エリーザベト。

 

 続けて別の枠へ書いた。

 

 アドルフによる代筆。

 

 ルートヴィヒ、フランツ。

 

 六人の名前は同じ機会に記された。

 

 ただし、その場にいたのは四人だけだった。

 

 出席できなかった二人は、研究の記録からも外されなかった。

 

「どうして二人の名前も書いたの?」

 

「外せなかったからでしょう」

 

「本人が署名できないのに?」

 

「本人が書けないからといって、関わらなかったことにはならないわ」

 

 エリーザベトの答えは静かだった。

 

「この車を作ったのは、お祖父さん一人ではないもの」

 

 アドルフは機関と実験の方向を決め、試験運転を行った。

 

 オットーは輸送、保守、部品調達を支えた。

 

 ヨーゼフは構造、荷重、剛性、変形、安全を考えた。

 

 ルートヴィヒは図面を現物へ変え、加工と溶接を担った。

 

 フランツは測定、校正、誤差管理、記録、解析を行った。

 

 エリーザベトは費用と書類を管理し、手配と実用評価を受け持ち、02-3を日常でも運転した。

 

 六人が同じ仕事をしたわけではない。

 

 六人全員が機関技術者だったわけでもない。

 

 異なる役割が重なることで、一台の実験車を長く使うことができた。

 

「お祖母さんも、自分を研究の関係者だと思っていた?」

 

 ルーカスが尋ねると、エリーザベトは眉を上げた。

 

「今さら何を言っているの?」

 

「機関を設計したわけではないでしょう」

 

「機関を設計した人だけで車を作れるの?」

 

「作れない」

 

「費用を記録した。部品や旅行の手配をした。書類を整理した。車を運転して、使いにくいところも燃料代も伝えたわ」

 

「うん」

 

「それで関係者でないなら、私は何をすればよかったのかしら」

 

 ルーカスは答えられなかった。

 

 研究を機関だけで考えれば、アドルフが中心になる。

 

 しかし、車を作り、公道へ出し、二十四万kmを超えて使うには、それだけでは足りない。

 

 六人の署名は、一人の天才と五人の助手を示すものではなかった。

 

 異なる仕事を担った者たちの名前だった。

 

 午後、ルーカスは私設工場へ入った。

 

 02-3の運転席側の扉を開ける。

 

 保存された車内には、長く使われた革と金属の匂いが残っていた。

 

 ダッシュボードの宣言は銀色だった。

 

 印刷された銘板ではない。

 

 彫刻でもない。

 

 筆で描かれたレタリングだった。

 

 線にはわずかな揺れがあり、均一な機械文字とは違っている。

 

 その下には六人の名前が並ぶ。

 

 同じ場所へ集まった四人の直筆。

 

 その場にはいなかった二人の、アドルフによる代筆。

 

 ルートヴィヒとフランツが亡くなった後も、二人の仕事は02-3の中に残っていた。

 

 加工された部品。

 

 測定された数値。

 

 調整の根拠となった記録。

 

 二人を除いて、02-3の長期運用だけを語ることはできなかった。

 

 宣言の主語は「私」ではない。

 

 我々。

 

 1943年、最初の過給実験の後にアドルフが残した言葉は、

 

 実験は成功した。私は敗北した。

 

 だった。

 

 1973年には、それが変わった。

 

 実験は成功し、我々は勝利した。

 

 2004年、その同じ文章の下へ六人の名前が並べられた。

 

 名前の配置だけを見れば、「我々」が誰を指すのかを署名が示しているように思える。

 

 2004年に集まった四人。

 

 そして、すでに亡くなっていたルートヴィヒとフランツ。

 

 ルーカスは、六人の名前とエリーザベトの記憶が同じ方向を示していると考えた。

 

 手帳へ書いた。

 

 「我々」には、2004年に集まった四人だけでなく、ルートヴィヒとフランツも含まれていた。

 

 そのように読むのが最も自然だった。

 

 ただし、アドルフ自身が「我々」の範囲を詳しく説明した記録までは確認できていない。

 

 ルーカスは文章の末尾に、小さく「有力な解釈」と付け加えた。

 

 夕方、エリーザベトが工場へ入ってきた。

 

「中に乗ったの?」

 

「文字を近くで見ていた」

 

「消さないでね」

 

「触ってないよ」

 

 ルーカスは運転席から降りた。

 

「パーティーの日、もう走らせないつもりだった?」

 

「日常で使うのは終わりにすると決めていたわ」

 

「なぜ完成車で残したの?」

 

「残したかったからよ」

 

「研究車だから?」

 

 エリーザベトは首を横に振った。

 

「私たちの車だったから」

 

 02-3は実験車だった。

 

 約140馬力を得た機械式燃料噴射の完成形だった。

 

 耐久性、燃費、整備性、実用性を長期にわたって検証した車でもある。

 

 同時に、アドルフとエリーザベトが日常で使った家族の車だった。

 

 研究記録と家族の記憶を完全に分けることはできない。

 

「署名した時、寂しかった?」

 

「少しはね」

 

「それでもパーティーを開いた」

 

「捨てる日ではなかったもの」

 

 エリーザベトは02-3を見た。

 

「残すことを決めた日よ」

 

 2004年の集まりは、廃車を見送るためのものではなかった。

 

 完成車を保存し、長い運用へ区切りを付け、そこに関わった者たちの名前を残すための小さな祝いだった。

 

 その後、02-3は継続車検を取得していない。

 

 2005年の車検書類も存在しなかった。

 

 日常で使う車としての時間は、いったん終わった。

 

 しかし、車そのものは残された。

 

 ルーカスは運転席の扉を静かに閉じた。

 

 ダッシュボードの宣言は、車体外側からは見えない。

 

 他人へ誇示するための文字ではなかった。

 

 運転席と助手席に座る者が見る場所へ残されている。

 

 2004年に集まった者たちと、後にこの車を受け継ぐ者へ向けた言葉のように見えた。

 

 ルーカスは手帳へ結論を書いた。

 

 最後の署名は、四人が集まった小さなパーティーで記された。

 

 四人は自ら署名し、故人二人の名前はアドルフが代筆した。

 

 さらに一行を加えた。

 

 六人の名前を残すことで、02-3を一人の成果にはしなかった。

 

 2004年、02-3は240,850kmで保存された。

 

 2006年、アドルフは亡くなった。

 

 2008年、ルーカスは銀文字と六人の名前を発見した。

 

 誰が署名したのかは分かった。

 

 だが、研究がいつから「私」ではなく「我々」の仕事になったのかは、まだ確かめなければならない。

 

 角部屋にある書斎へ戻ると、ルーカスは古い写真を机へ置いた。

 

 撮影されたのは1943年。

 

 そこには若いアドルフと、後に研究を支える者たちが写っていた。

 

 ただし、2004年に02-3へ名前を残した六人全員ではなかった。

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