ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
角部屋にある書斎で、ルーカスは一枚の古い写真を机の中央へ置いた。
撮影されたのは1943年。
小さな紙面には傷みがあり、過給試験に関わった若い男たちが写っていた。
アドルフ。
オットー。
ヨーゼフ。
ルートヴィヒ。
写真に姿を残しているのは四人だった。
ゲオルグは撮影者であり、画面には入っていない。
フランツも、この写真の参加者や被写体には含まれていなかった。彼が加わった私設研究チームが本格的に動き始めるのは、戦後の1955年である。
エリーザベトの姿もない。
当時の彼女はまだ子供で、アドルフと出会うのは1947年だった。
それでも2004年、02-3のダッシュボードには、写真の四人だけでなく、フランツとエリーザベトを加えた六人の名前が記された。
ルーカスは写真と署名の複写を並べた。
1943年の四人。
2004年の六人。
その間には六十一年の時間があった。
ルーカスは写真の人物を一人ずつ確認した。
最初に目が向くのはアドルフだった。
この時の彼は、後年の02-3で耐久性や燃費を記録する技術者ではない。遠心式過給によって、小さな機関から大きな出力を得ようとしていた若い技術者だった。
試験の後、アドルフは一つの文章を残している。
実験は成功した。私は敗北した。
機構としての実験は成立した。
しかし、その成功が置かれていた状況を、アドルフは自分の勝利とは書かなかった。
成功したのは実験だった。
敗北したのは「私」だった。
2004年の宣言では、その言葉が変わっている。
実験は成功し、我々は勝利した。
「私」が「我々」になった。
敗北が勝利へ置き換わった。
だが、その変化は一度に起きたのではない。
1943年の写真へフランツとエリーザベトを加えれば、後の研究チームを早く成立させ過ぎることになる。
反対に、この写真の四人だけを研究の全員だと考えれば、戦後に加わった二人の仕事を失う。
ルーカスは手帳へ書いた。
1943年の写真は、後の六人を写したものではない。
「我々」が形を得る前の記録。
昼食の席で、ルーカスは写真をエリーザベトへ見せた。
「この写真は見たことがある?」
「ええ」
「誰が誰か分かる?」
エリーザベトは写真へ顔を近づけた。
「これはお祖父さん。こっちがオットーで、ヨーゼフとルートヴィヒ」
「ゲオルグは写っていない」
「撮った人でしょう」
「フランツもいない」
「まだ一緒に研究していなかったもの」
「お祖母さんもいない」
「私がいるはずがないでしょう」
もっともだった。
ルーカスは六人の署名を追ううちに、その六人が最初から一つの集団だったように考え始めていた。
しかし、研究チームには成立の過程があった。
1943年の試験に関わった者。
戦後に研究を再開した者。
1955年から本格化した私設研究へ加わった者。
技術とは異なる側から、長期運用を支えた者。
全員が同じ時期に、同じ理由で参加したわけではない。
「この頃のお祖父さんについて、何か聞いていた?」
「詳しいことは、あまり話さなかったわ」
「試験についても?」
「技術の話はしたけれど、当時の事情とは分けていたと思う」
「『私は敗北した』という文章は?」
エリーザベトは少し考えた。
「その文章は知っているわ。でも、本人がどこまで説明したかは覚えていない」
「後悔していたのかな」
「それを私が決めることではないでしょう」
ルーカスは頷いた。
一枚の写真から、写っている者の感情までは読み取れない。
顔つきだけを根拠に、誇りや恐怖や後悔を割り当てることもできなかった。
写真が確実に示すのは、その時そこに四人がいたことと、ゲオルグが撮影者として関わったことだった。
それ以上は、別の記録と照合する必要がある。
「2004年のパーティーで、この写真の話は出た?」
「出たと思うわ」
「写真の四人のうち、三人が集まったんだね」
2004年の小さなパーティーに出席したのは、アドルフ、オットー、ヨーゼフ、エリーザベトだった。
1943年の写真に写る四人のうち、そこへ集まれたのはアドルフ、オットー、ヨーゼフの三人である。
ルートヴィヒは1988年に亡くなっていた。
写真にはいないエリーザベトが加わり、同じく写真にはいないフランツも2002年に亡くなっていたため、その場にはいなかった。
それでも、ルートヴィヒとフランツの名前は02-3へ残された。
「写真を見ながら署名したの?」
「そこまでは覚えていないわ」
「でも、ルートヴィヒの名前は残した」
「ええ」
「フランツの名前も」
「二人とも外せなかったでしょうね」
ルーカスは1943年の写真へ目を戻した。
ルートヴィヒは写真に写っている。
図面を加工可能な現物へ変え、加工と溶接を担った人物だった。
その名前は2004年、アドルフによって代筆された。
一方、フランツは写真にいない。
だからといって、後の研究における役割が小さかったわけではない。
測定。
校正。
誤差管理。
記録。
解析。
実験を数値として残し、後から検証できる形へ変えた。
1943年の一度の試験から、1955年以後の継続的な研究へ進むには、フランツの仕事が必要だった。
エリーザベトも写真にはいない。
彼女は機関を設計せず、部品を加工したわけでもなかった。
しかし、費用、書類、交渉、手配、実用評価を担った。
公道用のBMW 700系と02-3を実際に運転し、車を生活の側から評価した。
写真にいない二人は、後から名前だけを付け加えられた存在ではない。
二人が加わったことで、研究は一度の試験から、測定と生活を伴う長期運用へ広がった。
ルーカスは手帳に三つの時点を書いた。
1943年。遠心式過給試験。
1955年。私設研究チームの本格始動。
2004年。六人の名前を02-3へ残す。
同じ集団が六十一年間、そのまま続いたわけではない。
人が加わった。
役割が変わった。
亡くなった者もいた。
それでも、仕事と記録は残る者へ引き継がれた。
午後、ルーカスは写真を持って私設工場へ入った。
中央には02-3がある。
1943年の試験と、目の前の完成車を直接結びつけることはできない。
機関も異なる。
燃料供給も異なる。
過給方式も制御方法も違う。
1943年の装置を改良し続けた結果が、そのまま02-3になったわけではなかった。
途中にはType1系があり、ISO系があり、BMW 700系がある。
失敗した機関。
横転した車体。
記録されなかった速度。
損傷したタイヤ。
出力を下げた実用車。
破断したプロペラシャフト。
事故で失われた02-2。
それらを経て、02-3へ至っている。
技術の系譜は、同じ部品が受け継がれたことだけではつながらない。
失敗を記録し、次に何を変えるかを判断したことでつながっていた。
ルーカスは02-3の窓からダッシュボードを見た。
六人の名前のうち、1943年の写真に姿があるのは四人。
そのうち、2004年に自ら署名できたのは三人だった。
写真にいない二人のうち、エリーザベトは自分で署名し、フランツの名前はアドルフが代筆した。
最初から六人だったのではない。
長い時間の中で六人になったのである。
エリーザベトが工場へ入ってきた。
「写真をここまで持ってきたの?」
「始まりと、残った車を比べたかったんだ」
エリーザベトは写真と02-3を交互に見た。
「ずいぶん離れているわね」
「六十一年」
「年数だけではないでしょう」
「うん。最初は『私』だった」
ルーカスはダッシュボードへ目を向けた。
「最後は『我々』になっている」
エリーザベトはすぐには答えなかった。
「お祖父さん一人では、ここまで続かなかったでしょうね」
「1943年にも一人ではなかった」
「そうね」
「それでも、あの時は『私は敗北した』と書いた」
「自分が始めた実験だと思っていたからかもしれないわ」
「2004年には違った?」
「少なくとも、六人の名前を残したわ」
エリーザベトの答えは、それ以上でも以下でもなかった。
ルーカスはアドルフの内心を断定しなかった。
ただ、二つの文章と六人の署名から、変化を読み取ることはできた。
若いアドルフは、実験の成功と自分の敗北を分けて書いた。
晩年のアドルフは、成功を語る文章の下へ仲間の名前を並べた。
「我々」は、最初から存在した集団の名称ではない。
失敗と検証を重ねる中で形作られたものだった。
ルーカスは手帳へ書いた。
1943年の写真に、六人全員はいない。
だからこそ、2004年の六人の署名には意味がある。
写真にいない者が、後から研究へ加わった。
写真を撮ったゲオルグは、六人の署名には含まれていない。
すでに亡くなっていた者の名前は、残ったアドルフによって書かれた。
研究の歴史と、一枚の写真の範囲は同じではなかった。
夕方、ルーカスは写真を書斎へ戻した。
保存袋へ収める前に、裏面と記録番号をもう一度確認する。
この写真は、後の六人を一度に示す資料ではない。
むしろ、後から誰が加わったのかを考えるための資料だった。
そして、研究の歴史を残す時には、写真に写っている者だけを数えてはいけないことも示していた。
次にルーカスが向き合うのは、過去の写真ではない。
私設工場に残された02-3だった。
2004年の姿をどこまで残すのか。
2008年の道路へ安全に戻すため、何を交換するのか。
保存と再使用の境界を、一つずつ決めなければならなかった。