ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
1943年の写真を保存袋へ戻した翌朝、ルーカスは02-3を再び公道へ戻すための資料を机に並べた。
過去を調べる作業とは性質が違う。
写真や日記は、残された内容を変えずに読み取ればよい。しかし、車は眺めているだけでは走らない。
02-3は2004年に240,850kmで保存された。その後は継続車検を取得しておらず、2005年の車検書類も存在しなかった。2008年の道路へ戻すには、現在の状態を確認し、新たな車検を取得しなければならない。
ルーカスは手帳の中央に線を引いた。
左側へ、残すものと書く。
右側へ、交換するものと書いた。
すぐには、どちらにも何も加えなかった。
古い車を動かす時、すべてを新品へ替えればよいわけではない。交換によって安全性や信頼性を取り戻せる部品もあれば、交換することで車の来歴が分からなくなる部分もある。
反対に、保存状態を守るという理由で劣化した部品を残せば、乗員と周囲を危険にさらす。
保存と再使用は同じ作業ではなかった。
ルーカスは私設工場へ向かった。
中央に置かれた02-3の周囲を歩き、初めは車体に触れずに観察した。
銀色の塗装。
長期使用の痕跡。
運転席の固定式フルバケットシート。
助手席の可倒式セミバケットシート。
ダッシュボードの銀文字と六人の名前。
これらは、古いという理由だけで取り替えるものではない。
02-3がどのような車だったのかを示す構成そのものだった。
一方、外から見ただけでは判断できない部分も多い。
保存前に正常だった部品でも、四年間動かしていなければ状態は変化する。
シール材。
ベルト類。
油脂。
配管と接続部。
電気接点。
制動系。
燃料系。
外形が残っていることと、機能が保たれていることは同じではなかった。
ルーカスはボンネットを開けた。
機関室に収まっているのは、約140馬力を発生した機械式燃料噴射の完成形だった。
ただし、1971年の完成時とまったく同じではない。
1970年代後半には三元触媒とO2センサーが追加され、電気機械式アクチュエーターと補正可能な燃料制御カムによる制御が組み込まれている。
燃料供給の基本は機械式のままだった。電子燃料噴射へ変更されたわけではない。
ルーカスは手帳の左側へ書いた。
機械式燃料噴射。
燃料制御カム。
電気機械式アクチュエーター。
三元触媒とO2センサー。
その下へ、
構成を維持したまま、現在の状態を確認する。
と加えた。
現代的な機関管理装置へ置き換える選択は取らない。
それでは02-3を再び走らせるのではなく、別の仕組みを載せた車へ作り替えることになる。
昼食の席で、ルーカスはエリーザベトへ手帳を見せた。
「残すものと、交換するものを分けてる」
「もう決めたの?」
「まだ。決める前に調べる」
「それがいいでしょうね」
「できるだけ元のまま残したい」
「元のままというのは、いつの状態?」
ルーカスは答えに詰まった。
「2004年の保存時かな」
「1971年の完成時ではなく?」
「完成時のままではないから。後から触媒も制御装置も加わってる」
「それなら、どこか一年を選んで元に戻す必要はないのでしょう」
エリーザベトの指摘は正しかった。
02-3は製作時の姿を固定した展示車ではない。
走りながら変化した車だった。
燃料制御を調整した。
排出ガス対策を加えた。
部品を交換した。
不具合を直した。
240,850kmを走った時点の姿は、製作直後の状態ではなく、長期運用によって積み重ねられた結果だった。
「新しい部品を使うことには反対?」
「必要なら使えばいいでしょう」
「古い部品が残らなくなる」
「機能しない部品で走るの?」
「走らない」
「では、一つずつ必要性を確かめればいいわ」
エリーザベトは手帳を返した。
「お祖父さんも、長く使うために部品を交換していたでしょう。交換しないことが保存だとは考えていなかったと思うわ」
二十四万kmは、壊れなかった距離ではない。
直しながら使い続けられた距離だった。
再公道化にも同じ考え方が必要になる。
交換することは、必ずしも過去を消すことではない。ただし、交換前の状態と理由を記録し、取り外した部品を残すかどうかも判断しなければならない。
午後、ルーカスは角部屋にある書斎で、保存前の点検記録を読み直した。
探しているのは部品番号だけではない。
どの部分が定期交換されていたか。
どの部分に独自の加工があるか。
どの調整が、機械式燃料噴射と触媒を協調させるために必要だったか。
交換後に、何を確認していたか。
過去の整備を懐かしむための記録ではない。
現在の車体を不用意に壊さず、同じ考え方で整備するための資料だった。
ルーカスは新しい一覧を作った。
外観だけでは判断しない。
始動前に燃料、潤滑、冷却、制動、電装を確認する。
安全へ直接関わる劣化部品を優先する。
独自部品は交換前に記録する。
取り外した部品の保存可否を決める。
機械式燃料噴射を電子燃料噴射へ変更しない。
最後の項目は、単なる整備方針ではない。
02-3の技術的な連続性を守るための条件だった。
夕方、私設工場へ入ると、エリーザベトが助手席側に立っていた。
「何から始めるの?」
「まだ始動はしない」
「そう」
「エンジンが回るかどうかだけなら、早く試せるかもしれない。でも、それで壊したら意味がない」
「音を聞きたいのではなかった?」
「聞きたいよ」
ルーカスは正直に答えた。
「でも、始動したという事実だけが欲しいわけじゃない。もう一度使える状態にしたい」
「使うというのは、どのくらい?」
「まだ分からない」
「ベルリンへ持って帰るの?」
「そのつもりはない」
「ここへ住み続けるの?」
「それも違うよ」
ルーカスの生活拠点はベルリン郊外にある。アンガーフェルトへ移住したわけではない。
再公道化しても、02-3を自分の日常車として使い続けると決めたわけではなかった。
「では、なぜ走らせるの?」
「止まった状態だけでは分からないことがあるから」
「研究のため?」
「それもある。でも、それだけじゃないと思う」
ルーカスは車内を覗いた。
幼い頃、この車に乗せてもらった。
当時は機械式燃料噴射も、排気タービンも、長期運用試験も知らなかった。
祖父母の車として覚えている。
その記憶を性能試験で確かめることはできない。
だが、車が再び道路へ戻り、人を乗せ、目的地へ着くことができれば、02-3が何のために残されたのかを別の側から理解できるかもしれなかった。
「研究車を動態保存するため、では足りない?」
「間違いではない。でも、この車には少し硬過ぎる」
「家族の車に戻すため?」
「それだけでもない」
「難しいのね」
「技術の記録でもあり、家族の記憶でもあるから」
エリーザベトは小さく頷いた。
「だから、どちらも壊さないようにしなければならないのね」
その言葉が、ルーカスの考えていたことをまとめていた。
技術の記録だけを優先すれば、走らせずに保存する方がよい。
使用だけを優先すれば、車の構成を大きく変えることになるかもしれない。
しかし、02-3はそのどちらか一方ではなかった。
ルーカスは手帳の最初の頁へ戻った。
左側の残すものの下へ、
02-3であるための構成。
と書いた。
右側の交換するものの下には、
安全に使うため、機能を失った部品。
と書いた。
具体的な整備指示ではない。
それでも、判断の基準にはなる。
保存された部品という理由だけで残さない。
新しい部品という理由だけで選ばない。
役割と状態を一つずつ確認し、交換した場合は理由と結果を記録する。
アドルフたちが長期運用で続けてきたことと、基本は同じだった。
ルーカスはボンネットを閉じた。
今日はまだ機関を始動していない。
車輪も回していない。
積算走行距離も増えていなかった。
それでも、02-3を再び動かす作業は始まっていた。
最初に必要だったのは工具ではない。
どこまで残し、何を替えるのかを決めるための基準だった。
ルーカスはグローブボックスを開いた。
中には、改造1600-2としての公的車検証が入っている。
それだけで再び公道へ出られるわけではない。
だが、この車が公的な手続きを経て道路を走っていたことを確認する出発点にはなる。
ルーカスは車検証を元の場所へ戻した。
次に確認するべきものは、母屋に保管された、再公道化と排出ガス審査に備えるための資料だった。
02-3を動かすには、機械だけでなく、書類も再び整えなければならなかった。