ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
母屋に保管されていた再公道化の資料は、一冊にまとまっているわけではなかった。
ルーカスは角部屋にある書斎の机へ、過去の車検記録、排出ガス対策の図面、部品交換記録、燃料制御の調整記録を年代順に並べた。
グローブボックスに入っていた公的車検証だけでは、2008年現在の02-3の状態を説明できない。
その車検証が示しているのは、この車が改造1600-2として公的な手続きを経て、公道を走っていた事実だった。
一方、母屋に残された資料には、長期運用中に加えられた変更の経緯が記されている。
機械式燃料噴射。
排気タービン。
冷却と潤滑の追加系統。
三元触媒。
O2センサー。
電気機械式アクチュエーター。
補正可能な燃料制御カム。
これらを個別に説明するだけでは足りない。
機関、燃料供給、排気、制動、車体を、一台の車として示す必要があった。
ルーカスは新しい紙に三つの見出しを書いた。
車両の同一性。
現在の安全性。
排出ガス対策。
最初に確認するのは、目の前の車が過去の書類に記された02-3と同じ車であることだった。
ただし、同じ車であることは、すべての部品が1971年のままであることを意味しない。
02-3は長期運用の中で整備され、部品を交換され、排出ガス対策を追加されてきた。
その変化も含めて、一台の車だった。
次に必要なのは、2008年現在の安全性である。
2004年の保存時に正常だったことは、四年後の正常を保証しない。
制動系や燃料系に不具合があれば、過去の記録がどれほど詳しくても公道へは出せなかった。
最後が排出ガス対策だった。
02-3には1970年代後半に三元触媒とO2センサーが追加されている。しかし、装置が取り付けられていることと、現在も機能していることは別の問題だった。
ルーカスは燃料制御の図面を開いた。
燃料供給の基本は機械式である。
O2センサーの信号を受けた電気機械式アクチュエーターが燃料制御カムの動作を補正し、機械式燃料噴射と三元触媒を協調させる。
電子燃料噴射ではない。
この独自の構成を説明するには、現車だけを見せるのでも、古い図面だけを提出するのでも足りなかった。
どの装置が追加されたのか。
どのような目的で補正が行われるのか。
現在の車体が記録と一致しているか。
資料と現物の両方で示す必要があった。
昼食の席で、ルーカスはエリーザベトへ書類の束を見せた。
「これを全部持っていくの?」
「全部ではないよ」
「どれを使うの?」
「今、それを分けてる」
「多ければ安心というものでもないでしょう」
「うん。関係のない記録まで混ぜると、かえって説明しにくくなる」
ルーカスは机の上へ三つの束を作った。
検査時に示す資料。
必要な場合に参照する補足資料。
今回の手続きには直接使わない研究記録。
書類を減らすことは、過去を捨てることではない。
目的に応じて区別することだった。
「お祖父さんは、こういう手続きを嫌がらなかった?」
「面倒だとは言っていたわ」
「やっぱり」
「でも、必要な書類は作ったでしょう」
「無許可で走らせようとはしなかった?」
「私が許さないわ」
エリーザベトは即答した。
「事故を起こした時に説明できない車では困るでしょう。保険もあるし、同じ道路を使う人を巻き込むかもしれないもの」
「実験が成功していればいい、という話ではないんだね」
「道路は実験室ではないわ」
ルーカスはその言葉を手帳へ書いた。
道路は実験室ではない。
公道を走る試験車には、運転者だけでなく、同じ道路を使う者に対する責任がある。
排気も同じだった。
機関が壊れず、車が速く走れるだけでは足りない。周囲へ何を排出するかも、実用車の評価に含まれる。
午後、ルーカスは私設工場で始動前の確認を続けた。
状態を確認した部品。
交換が必要と判断された部品。
清掃と調整によって使用を続ける部品。
独自の加工があるため、取り外す前に記録した部品。
それぞれを区別し、判断の理由と作業後の状態を新しい整備記録へ残した。
新しい部品を取り付けたというだけでは、安全性を説明したことにはならない。
何を確認したのか。
どの状態を不適切と判断したのか。
交換後に何を再確認したのか。
その連続が必要だった。
始動を試せる状態になると、ルーカスは工具の位置を確認した。
私設工場では、以前から加工や溶接が行われている。そのため消火器は常設されており、今回の作業に先立って使用期限と状態を確認し、更新されていた。
始動試験のためだけに置かれたものではない。
火気を扱う工場として、初めから必要な設備だった。
ルーカスは更新済みの消火器が所定の位置にあることを確かめ、燃料系と潤滑系をもう一度点検した。
エリーザベトには機関室から離れた場所に立ってもらった。
「そこまで確認するの?」
「何も起きないように準備するんだ」
「何か起きると思っているの?」
「起きないと決めつけないためだよ」
ルーカスは車両左側の運転席へ座った。
革張りの固定式フルバケットシートに身体を収める。
銀文字の宣言は、右側の助手席前にあった。
実験は成功し、我々は勝利した。
その下には六人の名前が並んでいる。
運転席からは少し離れた位置だが、視線を右へ向ければ読むことができた。
ルーカスは文字に触れず、キーへ手を伸ばした。
最初の操作ですぐに始動したわけではない。
計器を確認し、燃料漏れや異常な音がないかを見ながら、一つずつ手順を進めた。
やがて、機関が回り始めた。
四年間止まっていた車が、何事もなかったように目覚めたわけではない。
回転が安定するまで確認が必要だった。
始動したという事実だけで成功とはしなかった。
油圧。
漏れ。
異音。
冷却系の変化。
排気の状態。
異常があれば、すぐに停止させるつもりだった。
機関音が私設工場に広がった。
エリーザベトは少し離れた場所で、久しぶりに聞く音を確かめるように02-3を見ていた。
ルーカスは短い確認を終えると、機関を停止した。
工場が再び静かになった。
「もう止めるの?」
「今日はここまで」
「走らせないの?」
「まだ車検がない」
敷地内で機関を始動できたことと、公道を走れることは別だった。
「音はどうだった?」
「動いた、というだけだよ」
「それでは駄目なの?」
「駄目じゃない。でも、合格でもない」
始動は一つの確認を終えたにすぎない。
審査されるのは過去の02-3ではなく、2008年現在の02-3だった。
必要な整備を終えた車両は、公道を自走させずに検査場所まで運ばれた。
その段階では、02-3に新しい車検はない。公道での走行確認は、車検を取得した後に行うことになった。
検査では、車両の安全性と排出ガス対策が確認された。
独自の機械式制御については、現車と保存資料の両方で構成を示した。
検査は研究成果を称賛する場ではない。
歴史的価値を決める場でもない。
道路を走らせてよい状態かを確認する場だった。
02-3は、無許可のまま公道試験を繰り返してきた車ではない。必要な車検を取得し、その範囲で日常の道路を走ってきた。
今回も同じだった。
過去の資料が車両の来歴を説明する。
新しい整備記録が現在の状態を説明する。
その二つが揃ったうえで、02-3は新しい車検を取得した。
排出ガス対策についても審査を終え、必要な環境ゾーンへ進入する資格が認められた。
古い車が例外として許されたのではない。
02-3に追加され、維持されてきた排出ガス対策が、2008年現在も機能することを確認された結果だった。
新しい車検を取得した後、ルーカスは関係書類を角部屋にある書斎へ持ち帰った。
再公道化と排出ガス審査に関する資料一式も、母屋で保管する。
図面や調整記録を私設工場二階へ移すことはしない。
工場二階に置かれるのは部品類であり、公的書類や図面を保管する場所ではなかった。
エリーザベトが新しい書類を見た。
「これで走れるの?」
「走れる」
「環境ゾーンにも?」
「必要な資格は認められたよ」
「では、買い物へ行けるわね」
ルーカスは返事をする前に、02-3のことを考えた。
長い研究。
三台目の試験車。
二十四万kmを超える日常使用。
2004年の保存。
2008年の再公道化。
その結果を、エリーザベトは買い物へ使えるかどうかで確かめようとしていた。
それは研究を軽く扱う言葉ではない。
むしろ、02-3が目指してきた場所に最も近い評価だった。
「その前に、走行確認をする」
「慎重なのね」
「お祖父さんの記録を読んだから」
「終わったら教えて」
「どこへ行くの?」
「まだ決めていないわ」
「買うものは?」
「走れるようになってから考える」
ルーカスは新しい車検の書類を整理した。
2004年以前へ戻ったわけではない。
過去を再現したのでもない。
02-3は、2008年の道路を走る車として再び認められた。
次に確かめるのは、この車の走行だけではなかった。
私設研究の記録を知った今、BMWの社史は以前と違って見えるのか。
ルーカスは、二度目のBMW博物館訪問を考え始めていた。