ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
ルーカスは、二度目のBMW博物館で取ったメモと、二台の比較表を机の上に並べた。
場所は、角部屋にある書斎だった。
片方の紙には、こう書かれている。
公式史にない記録を、欠落と同じ意味で扱ってはならない。
もう片方には、二つの整理がある。
Donnervogel 700は、捨てられなかった夢。
02-3は、生活へ戻った完成した回答。
どちらもアドルフの言葉ではない。
残された車両と資料を調べたルーカスが、2008年の時点で加えた解釈だった。
それを、どこへ置くべきなのか。
BMWの公式開発史へ加えることはできない。
アドルフたちの実験車は、会社が命じて製作した車ではなかった。BMWの正式な試験計画にも含まれていない。私設研究の成果が市販車へ直接取り入れられたことを示す資料も見つかっていなかった。
だからといって、存在しなかったことにもできない。
02-3とDonnervogel 700は、完成車として残っている。
BMW 700-Dのように解体された車両についても、保存された部品と分解検査記録がある。
日記、図面、測定記録、公的書類、写真、Normal-8の映像も残されていた。米国側には、ボンネビルの記録と証言があった。
すべてが完全に揃っているわけではない。
失われた資料もある。
数値を確定できない試験もある。
しかし、確認できる記録を照合すれば、何が行われ、どこで中止され、次に何が変更されたのかをたどることができた。
ルーカスは新しい頁の上に、まだ見出しを書かなかった。
まず、記録の範囲を整理した。
BMWの公式開発。
アドルフたちの私設研究。
二つの間に線を引く。
その線は壁ではない。
だが、消してもいけなかった。
アドルフはBMWの機関技術者だった。
ゲオルグは上司として、会社の責任と安全を考えなければならなかった。
私設研究では、BMWの量産車を基礎とした公道試験車や、BMW 700を基礎に製作された競技専用車も用いられた。
しかし、それらの事実だけで、私設研究全体をBMWの事業にすることはできない。
反対に、会社の外で行われたからといって、BMWと対立する秘密の計画だったと考える根拠もなかった。
両者は接している。
だが、同一ではない。
昼食の席で、ルーカスはエリーザベトに草稿を見せた。
「これは、お祖父さんの研究をBMWの歴史へ加える文章ではないのね」
「加えられないよ。公式開発だったという資料がない」
「では、BMWとは関係がなかったと書くの?」
「それも違う。お祖父さんはBMWで働いていたし、BMWを基礎にした車も使っている。でも、会社の仕事と私設研究は分けなければならない」
「難しい書き方になるわね」
「簡単にすると、どちらかが間違う」
会社の研究だったと書けば、確認できない関係を作る。
会社に隠された研究だったと書けば、根拠のない対立を作る。
BMWとは無関係だったと書けば、人物と車両の背景を失う。
「お祖父さんは、会社に認めてもらいたかったと思う?」
ルーカスが尋ねると、エリーザベトは少し考えた。
「若い頃には、そういう気持ちもあったかもしれないわね」
「晩年は?」
「本人に聞かなければ分からないわ」
「博物館に車を置いてほしいとは言わなかった?」
「私は聞いていないわ」
ルーカスは草稿の欄外へ書いた。
エリーザベトは、博物館への収蔵希望を聞いていない。関連する記録も現段階では未確認。
アドルフの望みを、残された車から勝手に作ることはできない。
02-3が完成車として保存されたからといって、企業博物館へ展示することを望んでいたとは限らなかった。
2004年、アドルフたちは02-3のダッシュボードへ宣言と六人の名前を残した。
それは、車両右側の助手席前にある。
車体の外へ掲げた標語ではない。
運転席や助手席に座る者が、車内で目にする文字だった。
実験は成功し、我々は勝利した。
その文章も、BMWへの要求ではなかった。
認定を求める申請でもない。
私設研究を支えた者たちが、自分たちの節目として残した言葉だった。
「では、誰に向けて記録するの?」
エリーザベトが尋ねた。
「後から確かめる人に」
「あなたのような?」
「そう。車を見つけても、それだけで物語を作らない人に」
「そんな面倒な人が、また現れるかしら」
「現れなくても、記録は残せる」
ルーカスは書斎へ戻り、資料の分類を続けた。
最初の区分は、確認できる事実だった。
車両の仕様。
試験の年代。
参加者。
測定された数値。
損傷の記録。
変更された部品。
公的承認。
次が、証言によって補われる内容だった。
現場で交わされた言葉。
判断の理由。
日常での使われ方。
記録に残りにくい手配や費用の事情。
最後が、後から加えられた解釈である。
「記録されなかった速度」。
「捨てられなかった夢」。
「生活へ戻った完成した回答」。
解釈は、確認された事実と同じ欄へ書かない。
誰が、いつ、どの資料を根拠に整理したのかを明記する。そうすれば、後から別の資料が見つかった時に修正できる。
記録を残すことは、結論を永久に固定することではなかった。
検証できる形にして、次の者へ渡すことだった。
午後、ルーカスは私設工場へ入った。
左の工作・整備区画には工具が整えられている。
中央には02-3。
右にはDonnervogel 700。
二階には、交換部品、損傷部品、試作品、タービン部品、計器、配管、治具が残されていた。
物として残った試行錯誤である。
一方、図面や日記、公的書類は母屋にある。
部品だけでは、なぜ交換されたのか分からない。
書類だけでは、加工や摩耗の状態を直接見ることができない。
私設工場に残る物と、角部屋にある書斎の記録。その両方が揃って、初めて私設研究の経緯をたどることができた。
ルーカスはDonnervogel 700の前に立った。
この車には公式ラップタイムがない。
映像から都合のよい時間を計算して与えるべきではない。
確かに言えるのは、北コースで最大性能の八割程度のシェイクダウンを行い、後輪タイヤの接地面と側壁に著しい損傷を確認し、全開走行と正式計時を中止したことだった。
不足している数字を埋めなくても、停止を選んだ判断の価値は残る。
次に02-3を見た。
こちらには二十四万kmを超える運用記録がある。
約140馬力。
機械式燃料噴射。
100km/h巡航時の区間実測約20km/L。
三元触媒とO2センサー。
電気機械式アクチュエーターによる燃料制御カムの補正。
だが、02-3の意味も数値だけでは説明できない。
部品を交換し、調整し、検査を受け、生活の中で使い続けられたことにある。
ルーカスは二台の間に立った。
企業の公式史に載っていないことは、失敗ではない。
載っていないものを、会社の歴史へ無理に押し込む必要もない。
会社の記録とは区別し、その外側へ、根拠と出典を明らかにして残す。
そこで初めて、探していた言葉が定まった。
角部屋にある書斎へ戻ると、ルーカスは新しい頁を開いた。
上部へ、ゆっくりと見出しを書いた。
社史の余白。
空白ではない。
空白という言葉には、本来あるべき記述が欠けているという含みがある。
しかし、アドルフたちの研究は、BMWの公式史から消された部分ではなかった。
最初から、会社の本文とは別の場所で続けられた研究だった。
だから、余白に記す。
本文を書き換えない。
確認できない関係を加えない。
それでも、本文の隣に存在した人、車、試験、失敗、判断を残す。
余白は、無価値な空所ではない。
本文に含まれないものを、区別したまま読み取るための場所だった。
ルーカスは見出しの下へ四つの原則を書いた。
公式開発と私設研究を混同しない。
記録された事実と、後からの解釈を区別する。
確認できない成功を与えず、確認できた失敗を消さない。
記録がないことを、隠蔽の証拠にしない。
それでようやく、最初のBMW博物館訪問から続いていた疑問に答えることができた。
博物館に祖父の車がなかったのは、歴史から排除されたからではない。
BMWの公式な企業、ブランド、製品の歴史と、私設研究が別の来歴を持つからだった。
その違いを守ったまま記録することが、ルーカスの仕事だった。
夕方、エリーザベトが書斎へ入ってきた。
「見出しは決まったの?」
「決まったよ」
ルーカスは頁を見せた。
「余白なのね」
「うん。空白ではない」
「何が違うの?」
「空白なら、誰かが書き忘れたことになる。余白なら、別の人が別の記録を書ける」
エリーザベトは、見出しの下に並ぶ原則を読んだ。
「では、あなたが書くのね」
「まず、残っているものを整理する」
「それから?」
「確認できる範囲で書く」
「お祖父さんを有名にするためではなく?」
「違うよ」
「BMWが間違っていたと証明するためでもなく?」
「それも違う」
エリーザベトは頷いた。
「それなら、続けられるでしょうね」
ルーカスは資料を閉じた。
私設研究の記録をまとめる作業は、まだ始まったばかりだった。
すべてを調べ終えたわけでもない。
それでも、何を書くべきかと同じくらい、何を書いてはいけないかは分かった。
窓の外には私設工場が見えた。
中央には、再び道路へ戻る資格を得た02-3がある。
次に必要なのは、研究史上の位置づけを考えることではなかった。
実際に走らせ、人を乗せ、日常の用事を済ませることだった。
エリーザベトは書斎を出る前に振り返った。
「明日、時間はある?」
「あるよ」
「では、買い物に付き合って」
ルーカスは机の上の見出しを見た。
社史の余白についての記録は、そこでいったん閉じることができた。
02-3に残された最後の答えは、書斎ではなく、道路の上で確かめることになる。