ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き
角部屋にある書斎は、母屋のほかの部屋より温度が低かった。
北と東に窓があり、午後になっても強い日差しが入りにくい。壁際には天井近くまで書棚が並び、中央には大きな机が置かれていた。机の端には定規の擦れた跡があり、天板の一部だけ色が薄い。長年、紙を広げ、線を引き、書類を重ねてきた場所だった。
ルーカスは入口に立ち、まず室内全体を見渡した。
日記だけではなかった。図面を収めた平たい箱、公的書類のファイル、技術メモ、部品カタログ、写真の封筒、Normal-8フィルムの缶。それぞれが棚を分けられ、背表紙には年代や車両名、資料の種類が記されていた。
私設工場の二階に残されているのは、交換部品や試作品、冷却器、計器、配管、治具といった物だった。
こちらにあるのは、それらがなぜ作られ、なぜ交換されたかを記した紙だった。
ルーカスは書棚から一冊のノートを抜き取った。
黒い表紙には題名がなく、白いインクで年だけが書かれている。隣のノートも、その隣も同じだった。厚さには多少の違いがあるが、いずれも一冊につき一年分である。
最初の数ページをめくった。
祖父の日記と聞いて、ルーカスは個人的な回想を想像していた。しかし、実際の内容はそれとは少し違った。
日付の下に、天候、気温、移動先、作業時間、購入した部品、支払額が記されている。さらに、機関の状態、始動に要した時間、油温、冷却の問題、異音の発生箇所が続く。家族の用事が数行書かれた次のページで、突然、軸受や配管の話へ移ることもあった。
感想がないわけではない。
ただし、祖父は感情を直接書く代わりに、その日に何を見て、何を試し、何を中止したかを残していた。
ルーカスは机の椅子へ座った。
ノートの内容を最初から自分の手帳へ写していたら、何週間あっても足りない。目的を定める必要があった。
まず、02-3のダッシュボードに署名した六名。
次に、Donnervogel 700。
そして、祖母が言った「最初」だった。
ルーカスは六名の名前を手帳の見開きに並べた。
アドルフ・ミュラー。
エリーザベト・ミュラー。
オットー・ヴァイス。
ヨーゼフ・クラウス。
ルートヴィヒ・ベルガー。
フランツ・ヴェーバー。
祖父以外の五人が、いつ、どのような役割で記録へ現れるのか。それを追えば、銀文字の「我々」が誰だったのか見えてくるかもしれない。
だが、最初に開いたノートだけでも、オットーの名は部品の受け取り、ヨーゼフの名は車体の補強、ルートヴィヒの名は加工の相談に現れた。三人の仕事は重なることもあったが、同じではなかった。
アドルフが指示し、ほかの者が従うという書き方でもない。
ある箇所では、ヨーゼフが補強方法を退けていた。別の箇所では、ルートヴィヒが図面どおりの加工は困難だと指摘している。オットーは交換部品の入手に掛かる日数を書き込み、試験日程の変更を求めていた。
祖父の日記であるにもかかわらず、祖父の判断だけで進んでいなかった。
「もう始めていたのね」
扉のところにエリーザベトが立っていた。盆にコーヒーと薄く切ったケーキを載せている。
「読んでいるというより、迷っている」
「それが普通よ」
エリーザベトは机の空いている場所へ盆を置いた。
「お祖父さんは、後から読む人のために書いていたわけではないもの」
「でも、かなり整理されている」
「整理しなければ、前に何を試したか分からなくなるでしょう」
ルーカスは書棚を振り返った。
「本当に全部、一年に一冊?」
「一年の途中で足りなくなったときは二冊あるわ。表紙に前半と後半が書いてあるでしょう」
「いつから続けていたの?」
「私と出会う前からよ」
「欠けている年は?」
「あるかもしれないわ。お祖父さんがここへ持ってこなかったものもあったし、戦争中のものは特にね」
エリーザベトは断定しなかった。
欠けている記録があるなら、棚に並ぶ冊数をそのまま研究期間と考えてはいけない。日記がないことは、何も起きなかった証拠にはならない。
ルーカスはコーヒーへ手を伸ばした。
「この日記だけで、研究の流れを再構成できると思う?」
「無理でしょうね」
あっさりした答えだった。
「日記には、あの人が見たことしか書かれていないもの。ヨーゼフが計算した荷重はヨーゼフの紙を見なければ分からないし、ルートヴィヒが現物に加えた変更は、図面に残っていないこともある。フランツの測定値は、あの人自身の記録を見た方が正確よ」
「それらも、ここに?」
「残っているものはね」
「工場二階ではなく?」
「紙はこの部屋。部品は工場よ」
エリーザベトは当然のことを確認するように答えた。
ルーカスは、日記の横に新しい紙を置いた。そこへ資料の種類を書き始めた。
日記。図面。測定記録。写真。フィルム。部品一覧。公的書類。カタログ。そして、現在も話を聞ける人物。
「オットー・ヴァイスは、まだ存命なんだね」
「ええ」
「会える?」
「先に手紙を書きなさい。昔の人だから、突然電話を掛けるより確実よ」
「電話の方が早いと思うけど」
「早く返事をもらうことと、きちんと答えてもらうことは同じではないわ」
ルーカスは名前の横に「本人へ確認」と書き加えた。
「フランツとルートヴィヒには聞けない」
「ええ」
「ヨーゼフにも?」
「もう無理よ」
祖父もいない。
二〇〇四年に四人が自ら署名し、二人の名を祖父が代筆した。その四人のうち、二〇〇八年に話を聞けるのはエリーザベトとオットーだけだった。
残りは記録から確かめるしかない。
ルーカスはノートへ視線を戻した。
「お祖母さんの名前が日記に出てくるのは、作業以外のことばかりじゃないね」
「何と書かれているの?」
「費用の整理、宿の予約、書類の翻訳。あと、始動性が悪いという苦情」
「苦情ではなく評価よ」
エリーザベトは即座に訂正した。
「朝、必要なときに動かない車は、理由が何であれ使えないでしょう」
「祖父は『気温低下時の始動手順を再検討』と書いている」
「なら、役に立ったわね」
彼女はケーキを一切れ取り、椅子には座らず、机の端にもたれた。
「研究する人は、動いたときのことばかり話したがるのよ。私は動かなかった朝を覚えていた。それだけ」
ルーカスはその言葉も手帳へ記した。
日記の中で、エリーザベトの評価には数値が少なかった。代わりに、始動できるか、操作が重くないか、燃料補給の回数が多すぎないか、荷物を積めるかといった項目が繰り返されている。
それは機関の設計値とは異なるが、車を使う上では無視できない測定だった。
「Donnervogelには乗っていない」
「ええ」
「だから、その車については評価していない?」
「走らせた結果について、直接の評価はしていないわ。費用や手配には関わったけれど、運転も同乗もしていない」
ルーカスは役割を混同しないよう、その違いを記録した。
誰が何を見たのか。
誰が何を測ったのか。
誰が何を聞いただけなのか。
資料を照合する前に、証言の位置を確かめなければならない。
エリーザベトが部屋を出た後、ルーカスは日記の背表紙を順に見ていった。
Donnervogelが造られた時期を探し、そこから遡る方法は簡単だった。しかし祖母は、それでは遅すぎると言った。
書棚には、研究車の名が現れるより前の年が並んでいる。
ルーカスは古い一冊を抜いた。
表紙は後年のものより傷み、角が丸くなっていた。何ページかは鉛筆で書かれ、文字が薄れている。そこには後の車名も、整った試験番号もなかった。過給、温度、回転、滑りという語が断片的に現れ、計算の途中で線を引かれた数字が並んでいる。
祖父は最初から完成した方法を持っていたのではない。
記録の形式そのものが、年を追うごとに変わっていた。初期の日記では原因と結果の書き分けが曖昧だった。後のものでは、使用した部品、条件、測定値、判断が欄を分けて書かれている。失敗が増えるたびに、残すべき情報も増えたのだろう。
あるページには、短い文章が書かれていた。
前後の記録より大きな文字だったが、ルーカスはその場で意味を決めなかった。銀文字の宣言と似た言葉が含まれている。ただし、主語が違っていた。
彼はページ番号だけを手帳へ控えた。
一つの文を見つけたからといって、それを六十年後の結論へ直接結びつけることはできない。前後の実験が何だったのか、誰が参加していたのか、別の記録にも同じ出来事が残っているのかを確かめる必要がある。
さらにノートを追うと、やがて記述の中に「排気」という語が増え始めた。
機関が捨てる熱と圧力を、別の仕事へ使えないか。
その考えは、最初から一台の車を造る計画として書かれてはいなかった。疑問、計算、反対意見、入手できない材料、工作上の制約が、別々の日付に現れている。
そして、一九五五年のノートで記録の調子が変わった。
ある日のページに、オットーの名と、輸送に関する短い記載があった。続く行には、荷の受け取り、梱包の状態、保管場所が書かれている。
数量は十。
品名には、BBC製試作排気タービンとあった。
ルーカスはページをめくる手を止めた。
十基すべてが同じ目的で使われたわけではないらしい。欄外には番号を付けるための下書きがあり、分解、試験台、改造、車両という語が書き分けられている。
それまでの日記にあったのは、可能性の検討だった。
ここから先は、実物を用いた研究になる。
ルーカスはノートの表紙を確認し、机の中央へ置いた。その横に、同じ年の部品受入記録と、BBCの名が記された薄いファイルを並べる。
一冊の日記だけでは足りない。
しかし複数の資料が同じ十基を示しているなら、祖父たちが何を始めようとしたのか追うことができる。
窓の外では、午後の光が弱くなっていた。
ルーカスは手帳の新しいページに、ひとつだけ見出しを書いた。
十基。
Effizienzversuch Nr.9へ至る番号の起点は、そこにあるように思われた。