ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢   作:自動車好き/飛行機も好き

40 / 41
祖母の買い物車

 翌朝、ルーカスが私設工場の扉を開けると、02-3は中央の定位置にあった。

 

 新しい車検を取得した後、必要な走行確認は段階的に行われていた。

 

 短い区間から始め、機関が暖まった状態での油圧、冷却水温、燃料制御、制動、操舵を確かめた。走行後には配管と接続部を点検し、漏れや緩みがないことを確認した。

 

 一度に長い距離を走らせたわけではない。

 

 走行と点検を繰り返し、異常がないことを確かめながら距離を延ばしていた。

 

 ルーカスは運転席側から車内を確認した。

 

 車両左側の運転席には、革張りの固定式フルバケットシートがある。

 

 右側の助手席には、鉄製フレームの革張り可倒式セミバケットシートが取り付けられている。

 

 その前のダッシュボードには、銀文字の宣言と六人の名前が残されていた。

 

 実験は成功し、我々は勝利した。

 

 文字は保存時のまま、助手席前に残されている。

 

 ルーカスは始動前の確認を済ませた。

 

 燃料。

 

 潤滑。

 

 冷却。

 

 制動。

 

 計器。

 

 再公道化の最初の日ほど時間はかからなかったが、手順は省かなかった。

 

 母屋の扉が開き、エリーザベトが布製の買い物袋を持って出てきた。

 

「準備はできた?」

 

「車の方は」

 

「あなたは?」

 

「できてるよ」

 

「ずいぶん大げさね。買い物へ行くだけでしょう」

 

「この車で行くのは久しぶりだから」

 

「私は何度も乗っているわ」

 

「四年ぶりだよ」

 

「四年なら、二十四万kmに比べれば短いわね」

 

 エリーザベトは車両右側へ回り、助手席の扉を開けた。

 

 可倒式セミバケットシートの座面を確かめ、ゆっくりと腰を下ろす。

 

 競技車のように身体を強く固定する座席ではない。

 

 乗り降りと日常使用を考えた、革張りの助手席だった。

 

 エリーザベトは買い物袋を足元へ置き、目の前の銀文字を見た。

 

「まだ残っているわね」

 

「消す理由がない」

 

「整備の邪魔にはならなかった?」

 

「ならなかったよ」

 

「それならいいわ」

 

 ルーカスは運転席へ座り、扉を閉めた。

 

 エリーザベトは銀文字の下に並ぶ六人の名前へ目を移した。

 

 アドルフ。

 

 オットー。

 

 ヨーゼフ。

 

 ルートヴィヒ。

 

 フランツ。

 

 エリーザベト。

 

 2004年の小さなパーティーで、存命だった四人が自ら署名した。

 

 故人だったルートヴィヒとフランツの名前は、アドルフが代筆した。

 

「自分の名前がある車に乗るのは、どんな感じ?」

 

 ルーカスが尋ねた。

 

「名前がなかった頃にも乗っていたわ」

 

「それはそうだけど」

 

「書いたから私の車になったわけではないでしょう」

 

 エリーザベトはシートベルトを確認した。

 

「それより、きちんと走るの?」

 

「確認した」

 

「途中で止まらない?」

 

「止まらないとは約束できない」

 

「正直ね」

 

「故障しない車はないよ」

 

「では、故障したら?」

 

「安全な場所へ止めて、原因を調べる」

 

「お祖父さんと同じね」

 

「記録を読んだから」

 

 ルーカスはキーを回した。

 

 機関は始動し、少し高かった回転が落ち着いていく。

 

 計器を確認する。

 

 異音はない。

 

 警告も出ていない。

 

 ルーカスは急がず、暖機に必要な時間を待った。

 

「昔も、こんなに待った?」

 

「お祖父さんはもっと計器を見ていたわ」

 

「運転する時も?」

 

「いつもではないわ。パンを買う時まで試験官のようにしていたら、生活できないでしょう」

 

 機関が安定すると、ルーカスは02-3を私設工場から出した。

 

 銀色の車体が朝の光へ移る。

 

 工場内に残ったDonnervogel 700は動かなかった。

 

 最大性能を追いながら、タイヤ損傷によって全開走行を中止した競技専用車だった。

 

 捨てられなかった夢は、私設工場に残った。

 

 生活へ戻った回答は、道路へ出た。

 

 ルーカスは慎重にクラッチをつなぎ、アンガーフェルトの道へ進んだ。

 

 低い速度では、排気タービンの存在を強く意識させるものはなかった。

 

 機関は、アクセル操作に応じて必要な力を出した。

 

 過給圧を見せつけるような走り方をする必要はない。

 

 交差点で止まる。

 

 歩行者を待つ。

 

 流れに速度を合わせる。

 

 狭い場所では減速する。

 

 後続車との距離を確かめる。

 

 どれも、記録には残りにくい運転だった。

 

「どう?」

 

 エリーザベトが尋ねた。

 

「思っていたより普通だ」

 

「失礼ね」

 

「褒めてるんだよ」

 

「普通に走るために作った車でしょう」

 

「最初から?」

 

「最初からではなかったわね」

 

 アドルフたちの研究は、初めから日常を目指していたわけではない。

 

 若い頃のアドルフは速度を求めた。

 

 小さな機関から大きな出力を得ることに価値を見いだした。

 

 その結果、冷却、潤滑、燃料供給、駆動系、車体、タイヤ、制動の問題に直面した。

 

 事故もあった。

 

 壊れた車もある。

 

 確定できなかった記録も残った。

 

 やがて出力を下げ、冷却余裕と耐久性を増やし、燃費と整備性を評価するようになった。

 

 02-3では機械式燃料噴射を維持しながら、三元触媒、O2センサー、電気機械式アクチュエーター、補正可能な燃料制御カムが加えられた。

 

 それは過給技術を捨てた結果ではない。

 

 過給機関を生活の中で使うため、評価する対象を広げた結果だった。

 

 道が開けても、ルーカスは強く加速しなかった。

 

「もっと速く走れるでしょう」

 

 エリーザベトが言った。

 

「走れるよ」

 

「試さないの?」

 

「今日は買い物だから」

 

「ようやく分かったのね」

 

「何が?」

 

「目的に必要なだけ使えばいいのよ」

 

 ルーカスは前を見たまま頷いた。

 

 試験では、測定条件を揃える必要がある。

 

 限界を確認する試験なら、性能を段階的に引き出す必要もある。

 

 しかし、日常の道路には別の目的がある。

 

 目的地へ着く。

 

 人と荷物を運ぶ。

 

 安全に戻る。

 

 必要な燃料と整備の範囲で、それを繰り返す。

 

 02-3が二十四万kmを超えて示したのは、一度の最大値ではなかった。

 

 繰り返せることだった。

 

 目的地の店に着くと、ルーカスは駐車場所へ02-3を収めた。

 

 機関を止める。

 

 エリーザベトは助手席の扉を開け、買い物袋を持って降りた。

 

「待っている?」

 

「一緒に行くよ」

 

「荷物を運ぶため?」

 

「そのつもり」

 

「では、役に立つわね」

 

 買い物は特別なものではなかった。

 

 食料品と日用品。

 

 車の再公道化を祝う記念品はない。

 

 研究の完成を示す飾りも選ばなかった。

 

 必要なものを購入し、袋へ入れ、駐車場へ戻った。

 

 ルーカスは荷物を積んだ。

 

 その時、02-3が研究車であることを示す必要はなかった。

 

 ボンネットを開ける理由もない。

 

 約140馬力であることを説明する相手もいない。

 

 銀色の古い車が、二人と買い物袋を運ぶために駐車しているだけだった。

 

 帰り道では、エリーザベトが若い頃の運転について話した。

 

「この車で買い物へ行くと、お祖父さんは燃費を聞いたわ」

 

「毎回?」

 

「毎回ではないけれど、給油した後はよく聞いたわね」

 

「運転の仕方も?」

 

「加速が多かったか、渋滞したか、荷物は重かったか」

 

「試験みたいだ」

 

「生活の記録よ」

 

「違いは?」

 

「同じ道を、同じ条件では走れないこと」

 

 気温が違う。

 

 交通量が違う。

 

 積む荷物も違う。

 

 運転者の操作も完全には揃わない。

 

 買い物一回の燃費だけで結論を出すことはできない。

 

 それでも、長い期間にわたって記録すれば、車が生活の条件にどう反応するかが分かる。

 

 実験室の測定とは異なる。

 

 しかし、価値の低い記録ではなかった。

 

 アンガーフェルトへ戻ると、ルーカスは02-3を母屋の前に止めた。

 

 エリーザベトが助手席から降りる。

 

 ルーカスは荷物を運び出した。

 

 それから車内へ戻り、計器と積算距離計を確認した。

 

 積算距離計は241,934kmを示していた。

 

 2004年に240,850kmで保存されてから増えた距離には、再公道化に伴う確認走行と、その後の使用が含まれていた。

 

 計器に異常を示すものはなかった。

 

 走行後の点検は必要だが、今日の目的は果たされている。

 

 二人を乗せた。

 

 店へ着いた。

 

 荷物を積んだ。

 

 家へ戻った。

 

「どうだった?」

 

 ルーカスが尋ねた。

 

「何が?」

 

「車」

 

「普通に使えたわ」

 

「それだけ?」

 

「ほかに何が必要なの?」

 

 エリーザベトは買い物袋を持ち直した。

 

「速かったとか、珍しかったとか、そういう感想が欲しいの?」

 

「いや」

 

「では、十分でしょう」

 

 十分だった。

 

 1943年、アドルフは書いた。

 

 実験は成功した。私は敗北した。

 

 1973年には、別の言葉を残した。

 

 実験は成功し、我々は勝利した。

 

 2004年、同じ言葉が02-3の助手席前へ記され、その下に六人の名前が並んだ。

 

 そして2008年、その車は新しい車検を取得し、環境ゾーンへ進入する資格を得て、再び買い物に使われた。

 

 勝利とは、誰かを打ち負かすことではなかった。

 

 最大出力の数字でもない。

 

 公式史に名前を残すことでもなかった。

 

 小さな機関へ過給器を組み合わせた車が、修理と改良を重ね、公的な手続きを経て、人と荷物を運び、再び家へ戻る。

 

 それを繰り返せることだった。

 

 ルーカスは02-3を私設工場へ戻した。

 

 中央の定位置へ収め、機関を止めた。

 

 右にはDonnervogel 700がある。

 

 捨てられなかった夢と、生活へ戻った回答。

 

 二台の銀色の車は、再び同じ屋根の下に並んだ。

 

 ルーカスは車両右側へ回り、助手席の窓越しに銀文字を見た。

 

 実験は成功し、我々は勝利した。

 

 その文章の意味を、すべて理解したとは思わなかった。

 

 アドルフ本人にしか説明できない部分も残っている。

 

 失われた記録もある。

 

 これから調べ直すべき資料もある。

 

 それでも、一つだけは確かだった。

 

 02-3は、保存された過去ではなかった。

 

 道路へ戻り、祖母を店へ連れて行き、買い物袋を家へ運んだ。

 

 ルーカスは工場の扉を閉める前に、走行後の点検項目を手帳へ書いた。

 

 アドルフたちの長い実験は終わった。

 

 それでも、整備は終わらない。

 

 それでよかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。