ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き
一九五五年に受け入れられた十基の排気タービンのうち、第五号機の管理欄には、後から車両名が書き加えられていた。
Nr.1 Type1
角部屋にある書斎でその文字を見つけたルーカスは、アドルフの日記とタービン管理表を並べた。
第一号機は分解研究に使われ、第二号機は試験台へ据えられた。第三号機と第四号機には、後年の用途を示す記載がある。第五号機から先は、車両へ搭載して使われた履歴が続いていた。
Nr.1 Type1は、その最初の一台だった。
ルーカスには、名称の意味より気になることがあった。なぜ試験台で使った第二号機を、そのまま車へ載せなかったのか。
管理表だけでは分からない。
彼は第二号機の試験記録を読み返した。分解はされていないが、配管や接続部は何度も変更されていた。回転試験を繰り返し、潤滑状態を調べ、測定の基準を作る役割を担っている。
その状態を保存しなければ、後の結果と比較できない。
第一号機は内部構造を知るための基準。第二号機は試験台上での基準。第五号機は、実車へ搭載したとき何が変わるかを確かめるための個体だった。
十基は予備として並べられていたのではない。それぞれに、失ってよい条件と、残すべき条件が割り振られていた。
Nr.1 Type1の図面は、最初から整った一組ではなかった。
排気管だけを描いた紙、潤滑配管の経路、固定金具の寸法、車体側の加工位置。それらを日付順に並べて、ようやく一台の構成が見えてきた。
ベースになったのは銀色のビートルだった。
外観を大きく変える計画はない。目的は展示でも競技でもなく、排気タービンを実際の機関へ組み合わせ、その働きを確かめることだった。
後年の車両を知るルーカスには、欠けているものが見えた。
インタークーラーはない。
追加オイルクーラーもない。
遮熱は部分的なものにとどまり、過給を積極的に制御する装置も図面には示されていなかった。
ただし、それを設計上の怠慢と判定することはできない。
彼らが確かめようとしていたのは、まだ実車で経験していない現象だった。どこへ熱が集まり、どの配管に負担が掛かり、機関がどのような状態になるか。実際に組み合わせなければ分からないことが残っていた。
アドルフの日記には、試験台と実車の違いが繰り返し書かれていた。
試験台では、装置の周囲へ手が届く。配管の状態も確認でき、異常があればすぐに調整できる。
車体へ載せれば、条件は変わる。
部品は狭い空間へ収められ、振動を受ける。走行によって機関の負荷は変化し、周囲の空気の流れも一定ではない。運転者は試験台のように装置だけを見ていることもできなかった。
試験台で回ったという事実は、車として使えることを意味しなかった。
ルーカスはヨーゼフの計算用紙を開いた。
追加する部品の重量と支持位置が検討されている。排気タービンだけではなく、配管、金具、潤滑系統を含めた荷重が記されていた。
その横には、ルートヴィヒの加工メモがあった。
図面で指定された金具は、そのままでは工具が入らない。排気管との間隔が足りず、組み立てる順序によっては後から締められなくなる。
修正案では、金具の形と固定位置が変えられていた。
設計を現物へ移す段階で、線は何度も引き直されている。
アドルフが配置を考え、ヨーゼフが荷重を調べ、ルートヴィヒが加工可能な形へ直す。フランツは測定箇所を選び、オットーは第五号機と必要部品の移動、保管、交換の記録を整えていた。
エリーザベトの管理表には、購入品と加工費が分けて記されていた。
同じ部品を作り直した場合も、最初の金額を消さず、追加の支出として残している。採用された部品だけを数えれば、試作に実際いくら掛かったのか分からなくなるからだった。
ルーカスは夕食のとき、その表をエリーザベトへ見せた。
「作り直した金具まで、別に記録してある」
「支払ったものは、使わなくても消えないでしょう」
「研究には必要な損失だった、とまとめることもできる」
「そう書けば、金額が減るの?」
ルーカスは首を振った。
「減らない」
「なら、分けておく方がいいわね。次に同じ形を作るなら、どこで余計な費用が出たか分かるもの」
彼女は管理表の一つの欄を指した。
「ここは輸送費。部品代と一緒にしては駄目よ」
「オットーの仕事?」
「手配はオットー。支払いの整理は私。何をどこから運んだかは、あの人の記録を見た方が正確ね」
誰か一人の日記だけでは、一台の車がどう作られたのか説明できなかった。
アドルフの日記は実験の目的を伝える。
ヨーゼフの紙は構造上の制約を示す。
ルートヴィヒの図面には、現物へ置き換えるための修正が残る。
フランツの表は、何を測り、どの値を比較するつもりだったかを示している。
オットーとエリーザベトの記録からは、部品がどのように届き、試作を継続するために何が必要だったかが見えた。
ルーカスは翌日、私設工場の二階へ上がった。
部品庫の棚に、Nr.1 Type1の札を付けた箱があった。中には排気配管、固定金具、接続部品が収められている。どれも完成車の姿を伝えるものではない。
それでも、図面との違いは確認できた。
金具の角度は途中の図面より浅くなり、配管との間隔を確保している。溶接部には加工の跡が残り、表面を削って調整した箇所もあった。
図面にない変更を、製作者の独断と決めることはできない。別紙の加工記録には、変更理由と確認者が記されていた。
ルートヴィヒが現物上の問題を指摘し、ヨーゼフが支持位置を確認し、アドルフが配管との関係を検討している。
万能の設計者が完成図を渡し、ほかの者がそのとおり作ったのではなかった。
金属を切り、仮に組み、干渉を見つけ、もう一度図面へ戻る。その往復によって、Nr.1 Type1は形になっていた。
書斎へ戻ったルーカスは、完成時の写真を見つけた。
銀色のビートルは、外見だけなら特別な車には見えなかった。車体に大きな文字も競技番号もない。写真の裏には車名と撮影順を示す記号があるだけだった。
機関部を写した別の写真では、第五号機の排気タービンと配管を確認できた。番号札は管理表と一致している。
しかし写真からは、それがどの程度の出力を生むのか分からない。
作動したかどうかさえ、静止した写真だけでは決められなかった。
ルーカスは試験計画を開いた。
確認項目には、過給の作動、温度、潤滑、異音、接続部の状態が並んでいる。未記入の結果欄が、これから行われる実験の性格を示していた。
成功を証明するための走行ではない。
何が起きるかを記録するための実車試験だった。
資料には試験場所を特定できる記述がなかった。ルーカスは場所を推測せず、手帳にも「実車試験」とだけ書いた。
日記の次のページには、試験前点検の記録があった。
固定部確認。
配管確認。
潤滑確認。
計器確認。
アドルフは最後に、短い一文を残している。
試験台で得た結果を、実車で検証する。
ルーカスはページをめくる前に手を止めた。
この時点では、誰も結末を知らない。
第五号機のタービンはまだ回転しておらず、冷却と潤滑がどこまで耐えるかも分かっていない。銀色のビートルは、成功車でも失敗車でもなかった。
それはただ、最初の試験車だった。
ルーカスは次のページを開いた。
見出しには、こう記されていた。
第一次実験。