ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き
「第一次実験」と記されたページには、実施日と参加者、試験前点検の結果が並んでいた。
ルーカスは前日の記録と続けて読み、机の左側へアドルフの日記、右側へフランツの測定表を置いた。
日記によれば、銀色のNr.1 Type1は試験前に固定部、配管、潤滑系統、計器の点検を受けている。不具合を承知したまま動かした形跡はなかった。
しかし、点検に合格したことと、負荷を掛けても耐えられることは同じではない。
試験が始まると、第五号機の排気タービンは作動した。
アドルフの日記には、機関の反応が過給前と明らかに異なったことが記されていた。具体的な出力値はない。ルーカスは後世の知識から数字を補わず、「出力上昇を確認」とだけ手帳へ写した。
続く記述には、温度上昇と潤滑状態の変化があった。
ここから先は日記だけでは追えなかった。
ルーカスはフランツの測定表へ移った。
冒頭には、使用した計器と校正結果が記載されている。測定箇所ごとに欄が分かれ、一定の間隔で数字が並んでいた。途中から、その間隔が狭くなっている。
温度の欄には二重の確認印があった。潤滑に関する数値の横には、計器を点検したことを示す注記がある。
フランツは異常値を見つけても、すぐに機関の異常だとは判定していない。まず測定器の誤差を疑い、確認後も同じ傾向が続くことを記録していた。
最後の欄で、数値の列は途切れていた。
終了理由として書かれているのは、機関停止だった。
ルーカスは手帳を左右に区切った。
左側には、確認できる事実を書いた。
排気タービンが作動した。
機関の出力が上昇した。
温度が上昇した。
潤滑状態が悪化した。
機関が停止した。
右側には、まだ分からないことを記した。
最初に異常が生じた箇所。
停止に至るまでの正確な順序。
運転を中止した時点で、内部にどの程度の損傷が生じていたか。
アドルフの日記とフランツの測定表は、試験中に観察できた現象を伝えている。しかし、機関の内部までは見ていない。
その答えは、数日後の分解検査記録にあった。
記録には取り外した部品の番号、洗浄前後の状態、再使用の可否が整理されていた。写真も添付され、それぞれの番号札が管理票と一致している。
表面の変色。
摩擦の痕跡。
潤滑不足。
熱による影響。
再使用不可。
複数の項目を確認した末に、結論欄には「機関破損」と記されていた。
ルーカスは試験記録へ戻った。
最初のページだけを読めば、異常を発見して無事に試験を終えたようにも解釈できる。分解記録だけを見れば、何らかの理由で壊れた機関の写真にすぎない。
測定表、日記、分解記録、写真を重ねることで、初めて一つの経過が見えてきた。
排気タービンは働いた。
過給によって機関の出力は増した。
その一方で熱負荷が増え、潤滑状態も悪化した。
Nr.1 Type1の機関は、それらに耐えることができなかった。
ルーカスは「タービンの故障」と書きかけた文字を消した。
どの資料にも、第五号機そのものが故障したとは書かれていない。壊れたのは、それを受け入れた機関だった。
図面を開くと、後から見れば不足が分かる。
インタークーラーはない。
追加オイルクーラーもない。
遮熱は限定され、過給を制御する仕組みも備えていなかった。
だが、後年の解決策を知っているからといって、当時の判断を単純な誤りとは決められない。これらの不足は、実車試験によって初めて具体的な現象として現れたものだった。
夕食前、ルーカスは分解写真をエリーザベトへ見せた。
「この試験のことを覚えている?」
エリーザベトは眼鏡を掛け、写真と裏書きを確かめた。
「機関を降ろした後のことなら覚えているわ。工場の作業台が何日も部品で埋まっていたから」
「走行には立ち会った?」
「いいえ。だから走っていたときのことは、私より記録を信用しなさい」
「お祖父さんは、失敗したと言っていた?」
エリーザベトは写真を机へ置いた。
「機関を壊したことなら、予定どおりではなかったわ」
「それを失敗とは呼ばなかった?」
「呼び方を決める前に、壊れた理由を調べていたわね」
「ずいぶん冷静だったんだ」
「冷静だったかどうかは知らないわ。請求書を見たときは機嫌が悪かったもの」
ルーカスは笑いかけたが、エリーザベトは真面目な顔を保っていた。
「壊れた部品は戻らないし、支払った費用も戻らない。でも、何も記録せず同じことを繰り返したら、本当に全部が無駄になるでしょう」
彼女の基準では、機関破損を成果と言い換えることも、失敗の一語で片づけることもできなかった。
損失は損失として残す。
そこから得た知識も、別に残す。
「オットーは何をしていた?」
「交換部品を探していたわ。故障した物と再使用できる物も分けていた」
「ヨーゼフとルートヴィヒは?」
「ヨーゼフは、次に追加する物の荷重を気にしていた。ルートヴィヒは、冷却器をどこへ収めるのか聞いていたわ」
「フランツは測定表か」
「何度も見直していたわね。数字が正しければ、それだけ問題が大きいということだから」
ルーカスは、その日の会議記録を探した。
角部屋にある書斎の別のファイルから、試験後の検討事項をまとめた紙が見つかった。六人の役割は、破損後になるといっそう明確になっていた。
アドルフは過給によって増えた熱と、機関側の余裕を検討している。
フランツは測定結果を解析し、次の試験で追加すべき測定箇所を書き出していた。
ヨーゼフは冷却器や補強材を加えた場合の荷重と剛性を確認している。
ルートヴィヒは冷却器、配管、遮熱板を加工し、整備可能な状態で収める方法を検討していた。
オットーは交換品と予備品を分け、調達と保管の手順を整理している。
エリーザベトは破損による損失と、次の車両を製作するための費用を別々に記録していた。
研究を続けるという決定は、一人の勢いで下されたものではなかった。
冷却と潤滑を改善できるか。
追加部品を車体へ搭載できるか。
必要な材料を入手できるか。
費用を負担できるか。
測定によって改善を確かめられるか。
それぞれの条件が検討された後、三つの方針が記されていた。
破損した機関は再使用しない。
Nr.1 Type1の車体は標準仕様へ復元する。
改善策は次の試験車へ移す。
Nr.1 Type1は修理され、改良型として走り続けたのではなかった。銀色のビートルは実験装置を外され、本来の姿へ戻された。
残されたのは完成車ではない。
取り外された配管や金具と、図面、写真、測定記録だった。
翌日、ルーカスは私設工場二階の部品庫で、管理番号の一致する箱を確認した。そこには熱の影響を受けた配管、固定金具、再使用されなかった接続部品が収められていた。
彼は現物の状態を手帳へ書き、角部屋にある書斎へ戻った。
手帳には、機関破損という結果だけを書かなかった。
無制御過給によって出力は得られた。しかし、その出力を維持するための冷却と潤滑が不足していた。
それが複数の資料から確認できる、第一次実験の結論だった。
次の図面には、Nr.1 Type1になかった装置が描かれていた。
インタークーラー。
追加オイルクーラー。
遮熱。
そして、乗員を囲む初代Vogelkäfig。
図面の表題は、Nr.2 Type1だった。
第一次実験の結果は、成功や失敗という一語ではなく、次の車両へ追加された構造として残されていた。