ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢 作:自動車好き/飛行機も好き
Type1-Bの資料束の末尾には、車両の完成を示す総括ではなく、次の試験車についての検討書が挟まれていた。
ルーカスは角部屋にある書斎の机へ紙を広げた。
表題には、ISO-I-1とある。
添付された車体図は、Type1系に使われたビートルとは大きく異なっていた。全長は短く、車幅も狭い。人と機関と必要な装置を収めれば、それだけで内部の余裕を使い切ってしまいそうな車体だった。
アドルフがその車体を選んだ理由は、日記の一文から読み取れた。
小排気量の機関へ過給を加え、軽い車体と組み合わせる。
Type1系で得た技術を、さらに小さな車へ移す計画だった。
しかし、軽い車体なら容易に性能を得られるという考えだけで進められたわけではない。計画書の余白には、ヨーゼフの筆跡で幾つもの注意が書き加えられていた。
荷重の集中。
支持点の不足。
変形する範囲。
乗員のために残す空間。
小さな車体には、重量が少ないという利点がある。その一方で、部品の配置を逃がす余地がほとんどない。機関の位置を少し動かせば、配管の経路が変わる。冷却器を置けば、車体構造か乗員空間へ近づく。
車体が小さいことは、設計が単純になることを意味しなかった。
ルーカスはType1-BとISO-I-1の配置図を並べた。
Type1-Bで成立していた部品配置は、そのままでは収まらない。排気タービン、吸排気管、潤滑系統、冷却装置の位置が一つずつ変更されている。
ただし、何がISO-I-1へ移されたかを、図面の線だけで早急に決めることはできなかった。
資料には複数の案が含まれている。検討されただけのもの、試作されたもの、最終的に採用されたものを分ける必要があった。
ルーカスは各図面の番号と改訂記号を手帳へ写した。
初期案では、機関と補機を収めることが優先されていた。次の案では、乗員の周囲を横切っていた配管が移されている。さらに後の図面では、座席と車体構造が先に描かれ、その外側へ機械を配置する形へ変わっていた。
設計の中心が移動していた。
最初は機関だった。
最後には乗員が中心に置かれている。
ヨーゼフが設計したVogelkäfigも、極小車体に合わせて描き直されていた。
Nr.2 Type1で導入された構造を、寸法だけ縮めたものではない。部材を固定できる場所が少なく、接合部同士の距離も短い。どこで荷重を受け、どの方向へ伝えるかが改めて検討されている。
図面には、車体外側の形だけでなく、変形した場合にも残すべき内側の範囲が示されていた。
ルーカスはその線を指で追った。
強い部材を増やすことだけが目的ではない。外側が損傷したときにも、乗員の周囲をすべて押し潰させない。そのための骨格だった。
座席についても、市販時の構成をそのまま使う案は採用されていなかった。
ISO-I-1には固定式座席が用意され、乗員を保持するために五点式拘束具が組み合わされている。座席が車体に対して動かず、拘束具の固定点も荷重を受けられる場所へ置かれる必要があった。
骨格、座席、拘束具。
三つは別々の部品だが、乗員を守るためには一つの系として働かなければならない。
ルートヴィヒの加工記録には、図面を現物へ変える難しさが残されていた。
Vogelkäfigを先に組むと、座席を入れられない。
座席を先に固定すると、接合部へ工具が届かない。
配管を通してからでは、溶接時の熱から保護できない。
作業順序を変えるたび、部品の形にも修正が必要になった。
ある加工図では接合部の位置が改められ、別の図面では配管側が迂回している。機関の都合だけでVogelkäfigを動かすのではなく、保護すべき空間を残したまま、ほかの部品を作り直していた。
ルーカスは午後になると、私設工場の二階へ上がった。
ISO-I-1の札を付けた箱には、試作部品が残されていた。短く切断された部材、使われなかった接合金具、取り付け穴を開け直した支持部品。湾曲した配管の一部には、別の金属へ接触した痕跡があった。
管理票には、不採用となった理由が短く記されている。
干渉。
強度不足。
加工困難。
整備時に取り外せない。
図面上で成立することと、組み立てられることは違う。組み立てられることと、後から点検できることも違った。
ルーカスは箱の中身を動かさず、管理番号を記録した。図面と番号が一致した部品だけを、ISO-I-1のために試作されたものとして扱った。
階下へ降りると、エリーザベトが工場の入口で郵便物を整理していた。
「一番小さい車を調べているのね」
「小さいのに、図面はType1-Bより複雑だ」
「場所がなければ、簡単にはならないでしょう」
「軽ければ速くなる。それが最初の狙いだったみたいだ」
「速くなるかどうかは、私には分からないわ。でも、何かを直すたびに別の物を外していたのは覚えている」
「乗ったことは?」
「ないわ」
エリーザベトは封筒を重ねながら答えた。
「私は何でも運転したわけではないし、あの車は暮らしの中で使うものでもなかったもの」
「費用の資料には名前が多い」
「小さい部品でも、作り直せば費用は掛かるわ。材料が少ないから安いとは限らないのよ」
「後で整備できることも気にしていた?」
「オットーは気にしていたわね。交換できない部品は、故障したらそこで終わりだから」
ルーカスは手帳へ書き加えた。
アドルフは機関と過給を見ていた。
ヨーゼフは荷重、剛性、変形と生存空間を守った。
ルートヴィヒは材料を加工可能な現物へ変えた。
オットーは保守と交換を考えた。
エリーザベトは費用と計画の継続性を見ていた。
フランツは、適切に測定できる項目と方法を整理した。
ただし、Type1-Bで用いたすべての計器がISO-I-1へ移されたとは、確認できなかった。計測案の図面はあるが、最終的な搭載記録と一致しないものもあった。
ルーカスは、その部分を未確認として残した。
夕方、角部屋にある書斎へ戻ると、彼は完成時の写真を見つけた。
銀色のISO-I-1が、工場の前に置かれている。
写真から読み取れるのは外観だけだった。小さな車体と前方へ開く扉、そして窓越しに見える骨格。機関の出力や操縦性は、写真では分からない。
裏面には車名と写真番号が記されていた。
別の封筒には、完成検査の記録があった。
Vogelkäfigの接合部。
固定式座席の支持部。
五点式拘束具の固定点。
配管との干渉。
操作装置の範囲。
重大な未確認項目を残したまま試験へ進んだ形跡はなかった。それでも、検査によって確かめられるのは静止した状態だけだった。
車体が動けば、荷重は変化する。
旋回や制動によって姿勢も変わる。
固定部には振動が伝わり、乗員にも力が加わる。
ルーカスは試験前の記録を閉じた。
ISO-I-1は、Type1系を小さくしただけの車ではなかった。過給機関を極小車体へ移し、機関、車体、座席、拘束具、整備性を限られた空間で成立させようとした試験車だった。
次の封筒には、試験後の写真が収められていた。
ルーカスは一枚目を取り出した。
銀色の車体は、車輪を地面へ向けていなかった。
ISO-I-1は横転していた。