着替えるために自室に戻ると、暗がりの中、わたしを出迎える者がいた。
ダンクというこのトイプードルのぬいぐるみはくりくりの瞳を煌めかせてわたしを迎えたが、わたしがボロボロなのに気付くと心配そうな色を瞳に宿す。
「ただいま、ダンク」
いつも通り挨拶をしたその時、わたしはふと思った。
もしかしたら……もう二度とダンクに会えなかったのかも……
そう思うとなんだか恐ろしくなってきて、愛犬をギュッと抱きしめた。小さな体に対し大きな頭に鼻先を埋め、その存在を確かめている内、恐怖が再び胸に起こった。
着替えを終え、ホールに下りて来ると、温かく仄かな酸味を纏った良い匂いがした。
「あ、トマト煮だ!」
「あら、わかっちゃった?」
厨房でトマトソースを煮込んでいたお母さんが言う。
「今日はヴァールさんたちもいらしているからね。特別よ?」
「やったあ!」
歓喜した途端、彼女の腹がぐううう……と鳴った。すると配膳を進めていたお父さんが大きな声で笑う。
「ははは! 喜ぶのも程々にしとかねえと、ぶっ倒れちまうぞ?」
「うう……そ、それより! おじさんたちまだ帰って来てないのに、出しちゃって大丈夫なの?」
「ん? ああ、俺の勘だとそろそろ帰って来る頃合いだな――ほら、ウワサをすれば」
「え?」
わたしが振り返ったその時、ドアに
「ただいまー!」
重低音が店内に木霊し、わたしはまるで太鼓の中にいるように感じた。
「おかえりなさい。今日はトマト煮だって」
「なに⁉ こりゃツイてるぜ!」
ジュルリと舌なめずりする彼の脇をすり抜け、フェアさんとフロイデさんがやって来る。
「ただいま戻りました」
「…………た、ただいま?」
「おかえりなさい。もう手続きは終わったんですか?」
「今日はもう遅いので、詳細な報告は明日に見送られました」
フェアさんは柔和に笑むが、直後、心配そうに目尻を落とした。
「先程は聞きそびれてしまいましたが、お怪我はありませんでしたか?」
「あ、はい。わたしは大丈夫です」
「それは良かった」
彼が安堵の息をつく傍ら、わたしは命の恩人に尋ねる。
「フロイデさんこそ、大丈夫でしたか?」
「う、うん。かすり傷だけ、だった」
フロイデさんは坂から転げ落ちて、捻挫とかをしているんじゃないかと心配していたが、それはまったく杞憂だった。ホッと胸を撫で下ろしていると、厨房の方からお父さんの声がする。
「リーベ、お前も手伝ってくれ」
今日は6人もいて、品数も多いのだ。1人では配膳に苦労するだろう。そう思ったわたしは応援に急いで向かおうとする。
「あ、はーい。――それじゃ、席に着いて待っててください」
そう言うと、フロイデさんが1歩、歩み出る。
「ぼ、ぼくも手伝う……よ?」
「ありがとうございます。でも、フロイデさんはお客さんなので」
そう答えると、彼は残念そうに、そして恥ずかしそう俯いた。その様子にわたしは悪いことをした気分になったが、メリハリは大事だ。
「それじゃ、失礼します」
つい接客時の口調になってしまった。
職業病かな?
食卓の上にはトマト煮を筆頭にエーアステ自慢の品々が並んでいて、昼食の時と同様におじさんとフロイデさんがものすごい勢いで飛びつく。
「がつがつ……!」
「もっもっ……!」
2人が一心不乱に掻き込むのを横目に、わたしはフェアさんに尋ねる。
「あの、なんで魔物が街に出たんですか?」
わたしの問い掛けを受け、お父さんが食べる手を止め、弟子に目を向ける。
「それは
人を襲ったのだから当然の答えと言えるが、わたしはどうにも腑に落ちない。
「カラスが狩りをするんですか?」
「ええ。姿はカラスに似ていますが、あれはヘラクレーエという魔物であって、似て非なる存在です。それに、あの巨体を維持するとなると、狩りで大物を仕留めるほうが効率的なんです」
「あ、そっか……」
魔物って意外と奥が深いんだな。
感心しているとお父さんが疑問を呈する。
「だがアイツは人里を襲うようなヤツじゃねえだろ?」
「ええ。ですがこの時期は抱卵期ですので」
「
昔お父さんに教わった。
抱卵期とは親鳥が卵を温める期間であり、卵を温めるメスが活動出来ない期間でもある。だからその間オスの鳥はメスの分まで食料を集めようとするために必死なのだ。
「そっか……巣は?」
「報告によると、近郊の断崖にて営巣している様子が観測されています」
フェアさんが予定を読み上げる秘書のように淡々と答えていく傍らで、口下にトマトソースをべったり付けたフロイデさんが補足する。
「……お腹に泥、ついてた」
「なるほどな……だがそうなると、
お父さんはスプーンを置き、腕を組んで呻り出す。それは熟考するときの癖なのだ。
そうして話が難解になっていき、わたしはついて行けなくなった。
手持ち無沙汰になってトマト煮を食べ進めていると、お母さんが上辺だけの笑みを貼り付けているのに気付く。その笑みの裏に『食事中にお仕事の話はほどほどにしてください』と書いてあった。
それに気付いてしまった以上、話題を変えないといけない。しかしどう伝えたものかと考えていると、おじさんが口を挟む。
「師匠、アンタはもう引退してるんだから、考えたって仕方ねえだろ?」
言い方は乱暴だったが、その分、明快だった。
「あ、ああ……そうだったな…………」
それまで難しそうな顔をしていたお父さんは考えることをやめるとトマト煮を一口食べた。するとほっこりした顔になって、その様子にわたしは穏やかな気持ちになるのだった。