カメラアプリを開いた。液晶に青空と新緑と、肌色が映る。画角を調整していると、肌色が僕のほうへやってきた。
「さっさとしろよ。ちんこが萎えるだろ」
肌色——下野は眉間にしわを寄せた。じろりと、浅黒い皮膚に白目が際立つ。顔だけでなく、胸も足も、そして股間も一様に焼けているので、よけいにそう思えた。
「ごめん」
僕は急いで準備を済ませると、撮影を開始した。庄内川の静かなせせらぎに包まれて、下野は激しくオナニーした。土手には蔦の生い茂る中木が密植していて、対岸からここは見えない。隣の道路の間には大きな竹林があるので、道路からもここは見えない。
庄内川で五本の指に入る露出スポットだと、前に下野は語っていた。たしかに、見つかるとしたら堤防を通る人くらいだろう。
——こうして通行人に見つかっているから、ダメなんじゃないかな。
ふと、下野に言おうとして飲み込んだ言葉を思い出した。
僕が下野の共犯者になったのは、今から一か月ほど前だ。家に帰りたくなかった僕は、学校を出て右にある錆びた歩道橋を渡って、あてもなく堤防を歩いていた。河川の緩い蛇行に沿って、コンクリートの道も曲がる。道路にせり出す枝葉に隠されて、僕は直前まで気づけないでいた。
そこには露出魔がいた。全裸でオナニーをしている。僕ははじめ、その衝撃から露出魔に誰かがなっているのではなく、「露出魔」という名の個人が立っているような錯覚をしたが、傍らに日比津中の学ランが落ちているのを見て、ようやくそれが下野だと分かった。
「お前、誰だっけ」
下野は悪びれもせずに言った。僕に目もくれず、制服のスラックスに足を通している。それがあまりに自然体で、僕もつられて言った。
「あ、内木、だよ。同じクラスの」
「ふぅん。で、お前、どうすんの」
ベルトを回しながら訊く。今度は、しっかりと僕の目を見ていた。
「どうすんの、って。なにを」
「は、決まってんだろ。俺を、どうすんのか。チクるのか、それをダシに脅すのか」
下野は切れ長の目を狭めた。その奥は煌々として、どこか楽しげだった。
「べつに、なんもしないよ。証拠とか、ないし」
僕は目を逸らした。
「証拠なら、あるぜ」
下野は足元の学ランに手を伸ばした。取ったのは学ランではなく、それに立てかけられていた黒いスマホだった。同じ色に紛れて、まるで気づかなかった。下野は何度か操作したあと、僕に画面を見せた。そこには、さっきのオナニーが下からのアングルで映っていた。
「露活、って知ってるか。SNSで、自分の露出活動を投稿するんだ。さすがの俺も顔は隠してやってるが、スマホには修正前の動画がたくさんある。転送してやるから、適当な理由をつけて学校や警察に見せればいい」
下野は学ランを羽織りながら言った。シャツや肌着は着ていなかった。
「そんな、できないよ。転送するにしても、スマホも、持ってないし」
「へぇ。珍しいな、いまどき。よっぽど大事にされてんだな」
下野はまた目を細めた。今度は、あまり瞳に光がなかった。
「じゃあ、お前が送れよ」
下野は僕の掌を持つと、そこにスマホを乗せた。テレビで見たのと同じ、LINEのトーク画面が映っている。「母さん」とのやり取りを上半分に、動画や画像を下半分に表示している。その中で一つ、さっきの露出動画にマークがついていた。
「この紙飛行機をタップすれば、送信は完了する。さあ、やれよ」
下野はがっしりと僕の手首を掴んだ。少し痛い。身動きが取れない。下野の顔は獣のように強張って、感情が読めない。ただ、大きく開いた瞳孔で僕の指先を注視している。
「さあ」
いきなり、どうしたんだろう。
僕は下野の急変に当惑した。さきほどまでの自由奔放な下野の腹の奥から、鬱屈とした感情が突然飛び出てきた。
ぎゅうう。
下野が腕の力を強めた。締め上げられた動脈が、どっくんどっくんと跳ねる。
痛い。僕は、どうしたらいいんだろう。
下野に従って「母さん」に動画を送るか、それを拒むか。
まず、下野がそれをしろと言っているから、僕はそれをする必要があって。でも、それをしたら下野の「母さん」が悲しんでしまって。それは、「いい子」のすることじゃないから、僕は、しちゃいけないから。だから、だめなんだけど、でも、下野はずっと、僕の腕を握っているから。だから、えっと——。
不意に、腕の力が緩んだ。下野を見ると、もうさきほどまでの張りつめた熱は消えていて、どこか呆れたような表情をしている。
「酷い顔だな」
下野は僕を見て笑った。僕は自分の顔は分からないけど、スマホの液晶に大粒の汗が落ちているのを見て、おおよその推測はできた。
「つまんねーやつ」
下野は僕の掌からスマホを取ってポケットに入れると、わざとらしくため息をついた。
「お前さ、俺の露出を手伝えよ」
学ランのボタンを留めながら言った。もうすっかり、いつもの下野に戻っていた。
「なんで」
「そりゃ、共犯者がいたほうがやりやすいだろ。お前、従順そうだし。それに、もしかしたら、俺を売ってくれるかもしれないし」
下野はいたずらっぽく笑った。
——ぽた、ぽたたた、ぽたた。
精液が第一射、二射、三射と放たれる。白濁液が道路脇の細長い雑草にかかって、葉先をしだれさせた。
僕はそれを間近で撮りながら、けど画面はあまり見ないように、なるたけ視線を遠くへ向けていた。人影はいない。大丈夫、今回もなんとか乗り切った。下野が露出というしたいことをして、そして見たくない人に見つからないように僕が気を付けていれば、悲しむ人もいないはずだから、大丈夫。
僕は心の中で唱えると、録画停止ボタンを押した。
「今回も見つからなかったな」
下野は手際よく制服を着ながら、残念そうに言った。僕はそれに肯うべきか否むべきか分からず、ただ曖昧に「そうだね」とだけつぶやくと、下野の前にスマホを差し出した。きょうの露出動画が再生される。
下野はそれをつまらなそうに、射精後の気だるげな眼で、けどしっかりと見つめ続けていた。下野は毎回、チェックをする。たいていはなにも言わずスルーするけど、前に一度、僕が僅かに映り込んでいたときは、すぐに動画を削除していた。
今回は、特にトラブルはなさそうだ。淡々とオナニーが続いている。下野が大きくあくびをする。僕もつられて出そうになって、小さく噛み殺した。
そんな平穏な鑑賞を壊したのは、一通のバナーだった。ピコンと、画面上部に青い鳥のアイコンと、文字列が表示される。「露出おじさん」が動画を投稿したらしい。
下野は僕の手から勢いよくスマホを取ると、画面を凝視しだした。
露出おじさんについては、前に下野から聞いたことがある。名前の通り露出魔の中年男性で、活動拠点はこの辺り。露出に並々ならぬ情熱を注いでいて、自分の縄張りで目立つ投稿があろうものなら、すぐさまより挑戦的な裸体で対抗してくる露出狂。下野はその蛮勇は評価していたが、人に見せつけにいくきらいのある「悪の露出魔」として、眉をひそめていた(下野は自分を、一人静かに破滅とスリルを探求する「善の露出魔」と呼んでいる)。
僕は下野の様子を窺った。さっきからずっと、画面を見つめっぱなしだ。鼻先に当たりそうなほどスマホを近づけている。そのせいでなにが映っているかは覗き込めないけど、音声からして、同じ動画を繰り返しているようだった。
「くふ、ふははは」
下野は我慢ならないといったふうに吹き出した。僕にスマホを見せる。
「これ、俺んちの病院だぜ」
下半身を露出した男の背景に、建物が映る。ガラス製の二重扉の玄関の前に、赤い煉瓦の道が続く。真横には背の高い花壇があって、煉瓦道と車庫とを区切っていた。車庫には車と数台の自転車が並び、その奥でおじさんがオナニーをしている。動画はそこで終わっていた。
「看板は隠されてるが、間違いない。下野歯科だ。くは、おっさんすげぇな」
下野は口の端を吊り上げた。
「なあ、露出魔バトルしようぜ」
「え」
僕は思わず聞き返した。
「だから、露出魔バトル。俺がおっさんより攻めた露出をして、おっさんがさらに攻めた露出をする。それを繰り返していって、どっちが先に捕まるかのデスレースをすんだよ。面白そうだろ」
下野はいたずら小僧のように笑った。僕は正直、あまりに馬鹿馬鹿しいと思ったけど、下野の瞳の無邪気なのを見て、つい「うん。面白そう」と肯った。思考を介した発言というよりは、染み付いた習性の鳴き声に近かった。
下野は僕をじっと見つめた。らんらんとしていた瞳は暗く冷えて、僕の姿を反射している。眼球に沿って湾曲した僕は平面的で、いつもより薄っぺらく見えた。
「お前って、ほんとつまらないよな」
下野は僕に背を向けて歩き出した。呆然としていると、下野がカーブで見えなくなりそうだったので、急いで追いかける。
「どこ、行くの」
「下野歯科。露出魔バトルする」
下野は僕に振り向かないで言った。
■
色褪せ始めた淡い光が、白いタイルを照らす。真っ白い外壁の頂上に、ライムグリーンの「下野歯科」という文字看板が目立っていた。僕と下野は、それを少し離れたところから観察する。
「さすがに、難易度が高いな」
下野は顎に手を当てた。鳥居通の裏通りにあたるこの道は、往来が盛んというほどではないが、本陣駅にほど近いせいで、常に何人かが歩いてくる。くわえて、玄関の上には監視カメラが設置されていた。
「まずは、攻略の糸口を探さないとな」
下野は隣にある広い駐車場へ向かった。僕は諦めればいいんじゃないかな、と思ったけど、それを飲み込んでついていった。
駐車場には、①から⑳までの番号が割り振られた車止めが置いてあった。⑤から⑩までの番号の横に、下野歯科のプレートが貼られている。病院の一部である車庫が関係者用なのに対して、こちらは患者用らしかった。
駐車場から病院の側面を見ると、メッシュフェンスが緑に覆われている。下野は葉をかき分けて中を覗いた。
「ここだけは、手放しで褒められるな」
僕も中を覗く。そこには、美しい庭園があった。色とりどりの花々がセンス良く植えられている。右手には大きな窓から、歯科用のチェアユニットが見える。治療中の患者をリラックスさせるための庭なのだろう。
「わあ、きれいだね」
僕は心から言った。さっきまで性犯罪にばかり触れていた反動で、どこまでも清らかに感じられる。たぶん、僕の声は数トーン上がっていただろう。
横の下野を葉っぱ越しに見ると、僕が感情を出したのが珍しかったのか、僅かに目を見開いたあと、懐かしそうに遠くを見やった。
「ガキの頃、よくここで遊んでたんだ。母さんが診察室から、たまに手を振ってくれた」
「へぇ。いいね」
僕は視線を窓に向けた。チェアの周りを、複数の人間が取り囲んでいる。その中で一人、周りに指示を飛ばす女性がいた。
「あの人が、下野の」
「ああ」
「きれいな人だね」
庭園に対するのと同じ、素直な賛辞だった。四十代だろうか。濡羽色の髪を前髪ごと後ろに留め、白い額をさらしている。肌の色こそ下野と対照的だったが、切れ長の目や背の高いところは、下野とそっくりだった。
「今度、再婚するらしいぜ。見てくれはいいからな」
下野は乾いた笑みを浮かべた。僕は返事に困って、庭を見つめた。
「もし、俺が草や花みたいになったらさ」
「うん」
下野に顔を向ける。遠くを見たままの、神妙な面持ちだった。
「ここでシコっても、ばれないのかな」
「ぶふっ」
僕は吹き出した。唾が下野の顔にかかる。
「なんだよ。汚いだろ」
「ふは、ごめん、落差で」
「落差もなにも、そのやり方を探りに来たんだろ」
下野は口をとがらせたが、その瞳は、さっきより少し柔らかかった。
「にしても、珍しいな。お前が、落差とか、マイナスなことを言うなんて」
「あっ、ごめん」
僕が脳内であるべきいい子の在り方について反芻しようとしたとき、下野が口を開いた。
「いや。俺は、そのほうが好きだぜ」
下野があまり真っ直ぐ言うので、僕はまた、庭を見るしかなくなった。
このあと、病院を一周してみても、はかばかしい成果は得られなかった。僕らは病院の正面に戻って、作戦を練ることにした。
「露出おじさんと、同じ方法でやるのはだめかな。仮にも成功例なわけだし」
「だめだな。露出バトルに乗っからせるには、明確におっさんを超す必要がある。より危険な場所や、インパクトの強い行為、まあ射精とかが要るな」
下野は腕を組んだ。
「なら、同じ方法で射精すればいいんじゃないかな。たしか、おじさんは最後までしてなかったし」
「難しいな。射精するには、それ相応の時間が要る。俺の場合は、最低十分。それだけの時間があれば、通行人や病院関係者に見つかる可能性も十二分にある。ここは隣が駐車場なせいで、見晴らしがいいしな」
僕は頭を捻った。
「なら、場所を変えるのは」
「もっと難しい」
下野は監視カメラを指さした。
「死角はおっさんがいた、車庫の奥しかない。それ以外だと……ま、スマホに映るのも監視カメラに映るのも、大差ないかもな」
下野はニヒルに口を歪めた。長時間シコるのも、場所を変えるのもだめ。いったい、どうすればいいんだろう。
「下野が、早漏だったらな」
思わず、そんな言葉がこぼれた。ため息も出そうになったところで、下野がいきなり、肩を掴んだ。
「それだ」
目の奥が輝いている。下野は赤い舌を覗かせて言った。
「俺に、考えがある」
下野は僕にスクールバッグを預けると、病院へ向かった。足取りは車庫ではない。その横の、犬走りへと真っ直ぐに進む。白タイルの外壁と白いフェンスの狭間を通っていくと、やがてフェンスに草木が絡まりだす。ただでさえ狭い道に緑が溢れ出して、下野は蟹歩きになって進んだ。庭に入る手前の、犬走りとしては最も植物の勢いが盛んなところで止まると、首を横にして公道の僕を見やった。
僕は病院横の駐車場に出る。フェンスを確認する。葉は幾重にも重なって、うまく下野を隠していた。僕は垣根越しに下野にその旨を伝えると、再び道路に戻り、歩行者のいないのを見て、下野に目配せした。下野は横向きのままファスナーを下ろすと、オナニーを始めた。
——射精に時間がかかるなら、あらかじめシコっておけばいい。
下野が呈示した策は、つまりこれだった。犬走りで快感を溜めておいて、絶頂の間際に車庫に出る。説明を聞いて笑ってしまったけど、なかなか良い案だと思う。
僕は本陣駅のほうを見た。こちらに向かう歩行者が、一人。僕は電柱にもたれながら、肩を揉む。下野はそれを見て、ファスナーを閉じる。歩行者が過ぎると、今度は肩甲骨を外に開くポーズを取る。下野はファスナーを開く。
僕に任せられた役割は、合図と最後の撮影だけだった。どちらも、遠巻きにできるリスクの低い仕事だ。僕は時間を潰す若者を装うべく、道路を見ながら下野のスマホを触った。
ポチポチと適当にタップする。いろんなアプリを開いては閉じるなかで、不意に手が止まった。フォレストグリーンの立ち上げ画面、LINEだ。
初めて下野の露出を目撃したときを思い出す。あのときは下野の豹変に困惑してやり取りを読む余裕なんてなかったけど、考えてみると意味深だ。なぜ他の誰でもなく、母親に送ろうとしたのか。庭園での発言はなお分かりやすく、母親への複雑な感情を示していた。
下野の言動は不可解だ。なぜ、破滅を望みながら決定打を他人の選択に委ねるのか。謎を解く鍵は、母親にあると思われた。
「母さん」のトークに手を伸ばす。いけないことだ。分かっている。でも、知りたくなる。きょうの僕は少し変だ。露出の作戦会議であんなに意見を出すなんて、いつもなら絶対にしなかった。たぶん、きっと、庭園で下野に「悪い子」の僕を認められたせいだ。
僕はトークルームを開いた。そこには、やり取りと呼べるほどのものはなかった。あるのは、三通のメッセージだけだった。
3/25『スマホを買ってくれてありがとうございます! これからは自由に遊んでいいということで、とても驚いています!』
3/25『ですが、スマホを使いすぎないように気を付けて、これからも一生懸命勉学に励んでゆきます!』
3/26『別に、もういいよ』
僕は目を疑った。敬語で溌剌と話しているのが、あの下野だったからだ。今の性根が曲がっていそうな下野とは正反対だ。逆に最後の母親は淡泊すぎて、どこか不気味だ。
僕はLINEについて考えていたかったけど、視界の端に大きく動く下野を捉えて、慌てて動き出した。左手を上下させるジェスチャー、あれは「もうイキそう」のサインだ。道路の通行人を確認する。LINEを読んでいるときも意識は向けていたけど、万が一があってはならない。
誰もいないことを確認すると、肩甲骨を開いてゴーサインを出す。下野は速足で車庫に向かうと、ズボンを下ろしてちんこをしごき上げる。すぐに射精した。
僕はもちろんカメラを構えて、余すことなく記録した。ばっちりと、下野歯科の車庫で射精する下野が映っている。露出魔バトルの第一戦は、白星で飾れそうだ。
僕は下野にそれを伝えようとして、異変に気付いた。玄関のガラス製の二重扉から、歯科衛生士の女性が出ようとしている。今は内側の扉を開けていて、茶封筒とヘルメットを持っている。あれは、自転車に乗ろうとしているんだ、車庫に!
僕はすぐさま腕を交差させてバツの字を作った。ばれそうだ、のサインだ。大きく、できるだけ大きく組んで下野に見せる。下野はそれを見て頷くと、下半身を露出したまま、ゆっくりと目を閉じた。そのまま動かない。萎びたちんこと同じく、穏やかな表情をしている。
下野はもう、全部終わらせるつもりなんだ。
僕は直感的に理解した。どういう心づもりかは分からない。でも、間違いなくそうだと確信した。
僕は、どうしたらいいんだろう。
下野は、終わりを望んでいる。望んでいるなら、終わらせてあげるべきなのかもしれない。でも、そうしたら下野の「母さん」が悲しんで……いや、そうでもないのか。
——『別に、もういいよ』
LINEで見た「母さん」の文章はどこまでも冷たくて、無関心だった。実の息子にあれを送る人間が、はたしてどこまで悲しむだろうか。
なら、僕はなにもしなくていいんだろうか。
それは、たぶんきっとそうだ。僕はずっと、下野によって安全圏に置かれていた。ここで逃げてスマホを処分しさえすれば、下野が言わない限りばれないし、そして下野は僕を言うことはないだろう。
僕は、なにもしなくていい。なにもしなくていい、はずなのに。
衛生士は外側の扉を開けようとしていた。もう、考える時間はなかった。
僕は全速力で路上を駆けた。行き先は決まっていた。全身全霊を込めて、仏頂面を浮かべる下野の金玉に、膝蹴りを食らわす。
「あがっ……」
下野は腹を抑えて崩れ落ちる。僕はすかさず下野を転がして、花壇の側まで寄せた。
「どうか、されましたか」
扉を開けた衛生士が、困惑気味に尋ねた。僕が車庫に向かうまでの全力疾走が、ガラス越しに見えたのだろう。でも、下野の存在には気づいていないようだ。花壇の背が高すぎて、真下にあるものは隠れてしまうのだろう。
目先の危機は乗り越えたけど、まだ安心できない。鼻先ほどの近さまで、新たな危機が近づいているのだから。
衛生士が、何事かと車庫に向かおうとする。花壇を越えられたら、僕らは一巻の終わりだ。
「あ、あの。これ、下野のだと思うんですけど」
僕は衛生士の肩を掴んで、スマホを見せた。
「僕、下野の友達で。家にいなかったから、ここかなって」
足元の下野を見る。まだ痛みにうずくまっている。下野がズボンを履くまで、時間を稼がなければならない。
「へぇ、仁くんの。残念だけど、ここには仁くんはいないですね。というか、最近はめっきり来なくなっちゃいました」
「最近は、というと、前は来てたんですか」
僕は前のめりになって訊いた。花壇に腹を押し当てて、下にいる下野を隠すためだった。
「そうねぇ。仁くんが中学に上がる前は、よく来てたかな。勉強しに。先生、すごいんですよ。仁くん専用の勉強部屋なんか作っちゃったりして。夏休みのときはずっと籠ってましたもん」
衛生士は懐かしそうに言った。
「どうして、来なくなったんですか」
僕は尋ねた。衛生士は僕の制服を見て、口をまごつかせた。
「どうしてって、それは、その」
「——俺が受験に、落ちたからだな」
下野がよろめきながら立ち上がった。しっかりとズボンを履いて、花壇に手をついている。
「えっ。仁くん、いたの」
「ああ。友達に、いたずらに付き合ってもらったんだ」
「もう。仕事の邪魔しちゃだめでしょ。それに、こんな真面目そうな子まで巻き込んで」
「本当にな」
衛生士はさらにいくつか窘めると、「長話しすぎた」と言って、自転車を漕いで行った。
この場には、僕と下野だけが残されていた。なにを言うべきか見当たらず、意味もなく花を眺める。下野もそれは同じだったようで、しばらく二人で花を見ていた。
「俺は、本当は、お前よりずっと、つまらないやつなんだ」
不意に、下野が言った。僕は思わず、下野を向いた。
「嘘だよ」
「嘘じゃないさ」
下野は今までになく、静かだった。
「あんまりつまらないから、いっそ目を見張るくらいつまらなくなって、全部滅茶苦茶にしてやろうと思ったんだ。でも、性根がつまらないから、全てを壊す勇気もないんだ」
下野はそっと花を撫でようとして、やめた。花弁に照り返された光が、開きかけの掌を白く染める。どこも浅黒い下野の肌のなかで、掌だけ別人の皮膚のようだった。
「あ、あのさ」
僕は下から重ねるようにして手を握った。手汗がじわりと滲む。
「下野の家、行きたい」
どちらともなく指が強張った。切れ長の目が、静かに僕を捉えた。
「俺んちに、面白いもんはねぇよ」
下野の指先が、そっと抜けようとする。僕はぎこちない手つきで、ぎゅっと握り直した。
「面白い、面白くないとかじゃ、なくて」
「じゃあ、なんだよ」
僕は答えに窮した。自分でも、なぜ下野の家に行きたいのか分からなかった。さっき衛生士に「下野の家に行った」と嘘をついたからだろうか。それとも、下野の家庭環境を案じてだろうか。他にもいくつか理由は思いついたが、いずれも正しいような、それでいてどうでもいいような気がした。
「なんでかは、分かんないけど、行きたい」
「なんだよ、それ」
下野はため息をついた。そのまま僕に背を向ける。
「母さんが帰る前に、急げよ」
下野は今度こそ僕の手を離すと、手汗をズボンで拭って速足で歩きだした。追いかけて車庫の外に出ると、強烈な西日に目がくらんでシバシバとする。
「は、変な顔」
置き去りにされたスクールバックを肩にかけて待っていた下野が、意地悪気に口端を上げる。僕はふと、あることを思いついて目を細めた。
「下野。これ、なんの真似だと思う」
「はあ? ……仏か?」
「ううん。正解は、下野のちんこ」
「はあ?」
「さっき、車庫で終わりを待ってたときの、下野のちんこの真似」
僕が沈黙にめげずに顔真似を続けていると、段々と妙なツボに入ったようで、最初は唇を波打たせていたのが、最後は腹を抱えていた。
「くふ、くふふ。お前、俺のちんこはもっとかっこいいだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
下野はこれが正しいちんこだと言って、眉間にしわを寄せ、唇をへの字に曲げた表情をした。ゴルゴ13を意識したらしいけど、どちらかといえばイシツブテに似ている。
僕はスマホを取り出すと、カメラアプリを開いた。液晶に夕空と街路樹と、肌色が映る。それは僕が撮ってきたなかで、一番好きな「ちんこ」だった。