日本は危険な国だって言っただろう 作:おじさん。
その日の朝、リ・ウェイはいつも通り大使館へ向かった。
少なくとも、そのつもりだった。
大使館の門が見えた。
いつもの警備。
いつもの建物。
いつもの朝。
ただ、一つだけ違った。
門の内側に、黒い服を着た大男たちが立っていた。
十人ほど。
全員、無言だった。
リ・ウェイは足を止めた。
「……何ですか?」
返事はない。
「私は大使館員です」
一人の男が近づいてきた。
「身分証を――」
最後まで言う前に、腕を掴まれた。
「ちょっと待て!」
リ・ウェイが声を上げる。
「何をする!」
男は何も言わない。
ただ、歩き始めた。
「離せ!」
リ・ウェイは抵抗した。
だが、男の手はびくともしなかった。
門の外には、一台のバスが停まっていた。
普通のバスだった。
ただし、窓がなかった。
正確には、窓の部分が黒く塞がれていて、外がまったく見えない。
「これは何だ?」
答えはない。
扉が開く。
中から、人の声が聞こえた。
泣き声。
怒鳴り声。
中国語。
日本語。
咳。
子供の声。
「……何人いる?」
リ・ウェイが呟いた。
分からない。
座席などほとんど見えない。
人が詰め込まれている。
立っている者もいる。
老人もいる。
子供を抱いた女性もいる。
リ・ウェイは思わず足を止めた。
「待ってくれ。私は外交官だ」
黒服の男は答えない。
「中国大使館の職員だ」
答えない。
「これは外交問題になるぞ」
答えない。
背中を押された。
リ・ウェイはバスの中へ倒れ込んだ。
扉が閉まる。
暗い。
外が見えない。
誰かが泣いている。
「ここはどこなんだ?」
「分からない」
「どこへ行くんだ?」
「分からない」
「日本政府は何をしている?」
「分からない」
リ・ウェイは、自分がその質問をしている側ではなく、質問される側になっていることに気づいた。
バスが動き出した。
窓がないため、どこへ向かっているのか分からない。
曲がった。
止まった。
また動いた。
それだけだった。
やがて、海の匂いがした。
バスが停まった。
扉が開く。
まぶしい。
「降りろ」
初めて、運転手以外の誰かが言葉を発した。
港だった。
海が荒れている。
空は暗い。
風が強い。
リ・ウェイは船を見た。
貨物船。
大きい。
そして、明らかに旅客船ではなかった。
「……これは何だ?」
誰も答えない。
人々が船へ誘導される。
そのとき、一人の男が突然走った。
「逃げろ!」
港の方へ駆け出す。
黒服の大男が追った。
数歩。
追いついた。
男が振り返る。
次の瞬間、大男の拳が一度だけ入った。
男はその場に崩れた。
別の場所では、若い女性が逃げようとしていた。
男が後ろから腕を伸ばす。
首元を掴まれた女性が悲鳴を上げる。
「いや――!」
身体が大きく反り返った。
そのまま力が抜ける。
黒服の男は、倒れた女性を支えもせず、ただ抱えて列へ戻した。
リ・ウェイは立ち尽くした。
周囲の人々も黙った。
誰も逃げようとしなくなった。
船の脇に立っていた大男が、こちらを見ている。
表情がない。
怒っているようにも見えない。
ただ、作業を続けているだけだった。
「……人間なのか、あいつらは」
誰かが呟いた。
答える者はいなかった。
リ・ウェイは船内へ押し込まれた。
貨物倉だった。
何もない。
鉄の壁。
床。
低い天井。
すでに人が大勢いる。
「待て!」
リ・ウェイが振り返る。
「私は外交官だ!」
黒服の男がこちらを見る。
「あなた方の外交官特権は無効化されています」
それだけだった。
扉が閉じた。
巨大な金属音が響いた。
暗くなった。
リ・ウェイは壁に手をついた。
船が揺れている。
まだ港にいるはずなのに、波が船体を叩いている。
誰かが言った。
「……出るぞ」
「何が?」
「船だ」
リ・ウェイは耳を澄ませた。
エンジン音。
低い振動。
船体が動く。
「待て」
誰かが叫んだ。
「台風だぞ!」
返事はなかった。
貨物船は動き始めた。
荒れた海へ向かって。
リ・ウェイは暗闇の中で、初めて理解した。
自分たちは国外追放されるのではない。
国外へ運び出されている。
それだけだった。
どこへ行くのか。
いつ着くのか。
誰が命令したのか。
何も知らされていない。
ただ船だけが、荒れる海へ進んでいく。
そして――
船は港を離れた。