白く発光する山脈が輸送機の前方へ迫るにつれて、機内に表示されていた計器の数値は不安定さを増していった。通常のレーダーで捉えられる地形そのものに大きな変化はない。それにもかかわらず、生命エネルギー観測装置だけが山体内部から絶え間なく異常反応を拾い続け、封印施設へ近づくほど測定誤差も大きくなっている。
「封印解除率、〇・四七パーセント。さっきから上昇速度そのものは少し落ちてる」
シノンが端末を確認しながら報告した。
「止まってはいないんだな」
アラタは前方モニターから目を離さない。
「ええ。それと、施設からの通信はあれ以降途絶えたまま。こちらからの呼びかけにも応答なし」
「イヴに回線を握られた可能性は?」
「あると思う。ただ、完全に封鎖されてるわけじゃない。内部から断続的に雑音だけは漏れてきてる」
シノンの隣へ移動したテルテルが、表示されている波形を覗き込む。先ほどの通信で聞いたエリュミエスの声が頭から離れていないのか、それまで以上に表情が硬かった。
「この雑音、ただの通信障害じゃないね」
「何が混じってるの?」
「封印設備の制御信号。しかも複数の系統が同時に動いてる。たぶん内部で、イヴ側と施設側が管理権限を奪い合ってる」
シノンが眉を寄せる。
「施設自身が抵抗してるってこと?」
「そう考えるのが自然かな。エリュミエスを封じた時の最終命令がまだ生きてるなら、本人の生命活動が上がっても自動的に封印を維持しようとするはずだから」
「それなのに解除率が上がってる」
「イヴの干渉の方が強くなってるんだと思う」
アラタは二人の会話を聞きながら、山体の北西側へ表示された着陸候補地点を確認した。古代施設の本来の搬入口は完全に岩盤へ埋まっているが、その近くに自然崩落によって生じた細い谷があり、そこからであれば地下構造へ比較的短い距離で接近できるらしい。
「この谷へ降りる。施設まで地上移動はどれくらいだ?」
「推定で二・四キロ」
シノンが答える。
「ただし、古代地図と現在地形の誤差がかなり大きい。途中で地下へ入れる保証はない」
「だったら現地で探すしかないな」
アラタがそう言った直後、レインが窓の外を見ながら身体を僅かに起こした。
「もう少し左へ寄せた方がいい」
アラタは即座に反応する。
「理由は?」
「右側が嫌」
説明になっていないようで、今のレインに関してはそれで十分だった。
「操縦室、進路を左へ二百メートル修正」
『了解』
輸送機が緩やかに進路を変える。
その数秒後、右側の山肌が内側から膨張するようにひび割れた。直後、白い光が岩盤を突き破り、巨大な破片を上空へ吹き上げる。光そのものが機体へ届いたわけではないが、衝撃波だけで輸送機全体が大きく揺れた。
「今のも内部からか?」
Bが窓の外を見ながら尋ねる。
「そう」
テルテルは短く答えた後、すぐに端末を操作した。
「しかも前より出力が大きい。エリュミエス本人が意識的に攻撃してるというより、漏れ出してる感じだね」
「封印の中で力が暴れてるのか」
「可能性は高い」
レインは白く煙る山肌を見つめながら、静かに口を開いた。
「誰かを狙って撃ってる感じじゃないわ。出口を探してるような感じがする」
テルテルが振り向く。
「分かるの?」
「正確には分からない。でも、さっきの光は私たちに向いてなかった」
「なら、やっぱり本人はまだ完全にイヴへ戻ってないかもしれない」
テルテルの声には、ほんの僅かだが希望が混じった。
アラタはその変化に気づいたものの、何も言わなかった。
やがて輸送機は谷底へ向けて高度を落とし始めた。周囲は針葉樹すらほとんど生えない岩山で、雪と灰色の岩盤が入り混じった荒涼とした景色が続いている。山体内部から漏れた光の影響なのか、ところどころでは雪が完全に溶け、黒く濡れた地面が露出していた。
着陸と同時に後部ハッチが開く。
「ノブ、タカ、先行して周辺確認。カポエラは二人の後方。Bとシノンは中央、レインは俺の近くにいろ。テルテルは勝手に離れるな」
「最後だけ毎回言わなくても覚えてるよ」
「覚えてても守らないから言ってる」
「信用ないなぁ」
「今さらだ」
アラタの指示を受け、ノブとタカが最初に機外へ出た。二人はほとんど会話を交わすことなく左右へ分かれ、谷の岩壁や斜面を確認しながら前方へ進んでいく。カポエラも少し間を置いて後を追い、残るメンバーがその後へ続いた。
Bは腰に装着していたフールのコアへ手を伸ばす。
「出られるか」
『待ってましたぁ!』
甲高い金属音とともに黒銀色の構造体が一気に展開し、Bの手の中で巨大な大鎌へ変形する。刃の縁にはまだ安定しきっていない紫色の光が薄く走っていた。
『ギャハハハ! ようやく俺様の出番だ!』
「全力は使うな」
『分かってるっての! 六十二パーセントを舐めんなよ!』
「使い切る前提で言ってない」
『ったく、相変わらず細けぇな!』
フールの声を聞きながら、カポエラが振り返る。
「元気そうで安心した」
『坊主! やっと俺の価値が分かったか!』
「うるさいくらいには戻ったなって意味」
『親子揃って扱い雑じゃねぇか!』
張り詰めた空気の中でも、そのやり取りだけは普段と変わらなかった。
一行は谷の奥へ向かって進み始める。
雪の上には人間や動物の足跡がほとんどなく、風が岩肌を抜ける音だけが響いていた。しかし、数百メートル進んだあたりから周囲の様子が少しずつ変わり始める。
最初に気づいたのはシノンだった。
「雪が光ってる」
全員が足を止める。
地面を覆っている雪の表面に、細かな青白い粒子が付着していた。自然光を反射しているのではなく、粒子そのものが弱い光を放っている。
テルテルがしゃがみ込み、素手では触れずに小型の測定器を近づける。
「生命エネルギーの結晶化だね」
「こんなことが自然に起きるのか?」
アラタが尋ねる。
「普通は起きない。封印内部のエネルギーが地上まで漏れてきて、低温で安定化してるんだと思う」
Bが周囲を見回す。
「つまり施設が近い」
「そういうこと」
テルテルは立ち上がる。
「ただ、気をつけた方がいい。エリュミエスの生命エネルギーは本来かなり純度が高い。今これだけ外へ漏れてるってことは、封印設備のどこかが想像以上に傷んでる」
「触るとどうなる?」
カポエラが聞く。
「濃度次第だけど、身体の生命エネルギーが強制的に活性化する可能性がある。治癒だけならいいけど、過剰反応すると細胞側が耐えられない」
「要するに危ないんだな」
「簡単に言うとね」
アラタは全員へ雪の発光部を避けるよう指示し、再び前進を開始した。
しばらく進むと、先行していたタカから短い通信が入る。
『入口らしきものを発見』
「位置を送れ」
『送信した』
アラタの端末に座標が表示される。
そこからさらに四百メートルほど進むと、谷の右側に巨大な崩落跡が現れた。雪と岩石に覆われた斜面の奥に、不自然な直線が見えている。
ノブとタカが岩をいくつか除ける。
現れたのは白銀色の人工壁だった。
「間違いなさそうね」
シノンが端末を近づける。
「地下構造と位置が一致してる」
テルテルは壁面をしばらく見つめた。
「昔の非常搬入口だと思う」
「開けられるか?」
「やってみる」
アラタがすぐに手を伸ばしてテルテルの肩を掴んだ。
「一人で触るな」
「まだ何もしてないよ」
「今からする顔だった」
「どんな顔だよ、それ」
「俺もそう見えた」
Bが言う。
「親父に同意」
カポエラも続く。
「みんな酷いなぁ」
テルテルは不満そうに言ったものの、今回は素直にアラタとシノンが隣へ来るのを待った。
「じゃあ一緒に確認しようか」
壁面に積もった雪を払うと、六枚の翼を思わせる古い紋章が現れる。その中心には小さな円形の窪みがあり、テルテルがそこへ手を近づけると淡い光が浮かび上がった。
『生体照合を開始』
古い機械音声が流れる。
アラタが無意識に身構えた。
『管理権限保持者を確認』
『個体識別――テルテル』
『封印施設外周区画への一時アクセスを許可』
壁面内部から低い駆動音が響く。
しかし扉は完全には開かなかった。
数センチ動いたところで停止し、警告音が鳴る。
『中枢管理命令との不一致を検出』
『外部アクセスを拒否』
テルテルの眉が寄る。
「やっぱり上書きされてる」
「イヴか?」
アラタが尋ねる。
「たぶんね」
シノンが端末を接続する。
「別経路は?」
「保守用の物理ロックがあるはず」
テルテルは壁面の右下を指した。
「この辺り。昔の封印施設は管理系統が乗っ取られた時に備えて、外から機械的に開けられるようになってる」
「随分準備がいいな」
「イヴを作った後の施設だからね」
その言葉にアラタが一瞬だけ反応する。
「イヴを作った後?」
テルテルは自分が口を滑らせたことに気づいたが、今回は取り繕わなかった。
「この施設が作られたのは、イヴが世界管理を始めてからだよ。詳しい話は今度」
「今度が多いな」
「それは認める」
ノブとタカがテルテルの示した位置を調べ、外装の一部を外す。
内部には古い回転式のロック機構が残されていた。
「生きてる」
ノブが言う。
「動かせる?」
タカが尋ねる。
「多分」
Bがフールを肩へ担ぐ。
「壊す方が早いか」
『任せろぉ! 一発でぶった斬ってやる!』
「駄目」
テルテルが即座に止めた。
『何でだよ!』
「その向こうに封印制御線が通ってる。間違って切ったら本当にエリュミエス起こすよ」
『……先に言えよ』
「今言ったでしょ」
カポエラが笑いを堪える。
「フール、急に大人しくなった」
『俺だって時と場合くらい考えるわ!』
ノブとタカが慎重にロックを回す。
途中で何度か強い抵抗があったが、やがて内部から重い音が響き、扉がゆっくりと開き始めた。
冷たい空気が外へ流れ出す。
内部は暗い。
数千年間ほとんど使われていなかった通路なのか、照明の大半は消えている。
「ノブ、タカ」
「先行する」
「了解」
二人が中へ入る。
アラタは数秒待ってから残るメンバーを続かせた。
◇
施設内部の空気は、外よりもさらに冷たかった。
壁面は超古代文明特有の白銀色素材で作られているが、長い年月の影響で所々にひびが入り、その間から岩盤が露出している。完全に崩壊してはいないものの、第七生命保存管理区画と比べれば明らかに損傷が大きい。
シノンが周囲を走査する。
「大気は問題なし。放射線も毒性物質も検出されない」
「生命反応は?」
「今のところ私たち以外には――」
そこでシノンが言葉を止めた。
「一つある」
アラタが振り向く。
「どこ?」
「かなり深い。施設中央部」
テルテルが静かに答える。
「エリュミエスだよ」
シノンは表示を確認する。
「それとは別に、もう一つ」
テルテルの表情が変わった。
「何?」
「弱い反応。人間に近いけど、位置が一定じゃない」
「動いてるのか」
「かなり速い」
Bが大鎌を構える。
「歓迎役がいるらしいな」
『ギャハハ、今度こそ出番か!』
「まだ振るな」
『分かってるっつーの!』
アラタは全員へ警戒態勢を指示した。
「ノブとタカは前方確認を継続。カポエラは少し下がれ。シノン、反応を追えるか?」
「やってる。でも壁の中を移動してるみたいに見える」
「壁の中?」
レインが通路の左側を見る。
数秒後、彼女の表情が変わった。
「止まって」
全員が足を止める。
「どうした」
「前じゃない」
レインは左側の壁を指した。
「そこから来る」
直後だった。
白銀色の壁が内側から吹き飛ぶ。
大量の破片とともに、人型の何かが通路へ飛び出した。
身長は二メートルほど。
全身を白い装甲で覆っている。
だが警備機械とは違う。
関節の隙間から見えているのは機械部品ではなく、明らかに生体組織だった。
「散開!」
アラタの指示と同時に全員が動く。
人型は着地するより早く右腕を振り抜いた。
白い光が刃のように伸び、先ほどまでアラタたちが立っていた位置を横薙ぎに切り裂く。壁面へ当たった光は爆発せず、その部分だけを滑らかに消失させた。
「光属性!」
シノンが叫ぶ。
「エリュミエスの?」
「分からない!」
Bが前へ出る。
『ギャハハハ! だったら確かめりゃいい!』
フールの大鎌と人型の光刃が激突する。
紫と白の光が弾け、Bの身体が数歩後方へ押される。
「重いな」
『こいつ、結構やるぞ!』
カポエラが側面から跳び込み、壁を蹴って人型の頭部へ回し蹴りを叩き込む。装甲が僅かに歪んだものの、人型はほとんど態勢を崩さない。
「硬っ!」
着地したカポエラへ光刃が振り下ろされる。
その軌道へ、アラタが銃撃を集中させた。
数発が肩関節へ命中し、わずかに振り下ろしが遅れる。
「カポエラ、離れろ!」
「了解!」
カポエラが身体をひねって攻撃を避ける。
ノブとタカは既に左右へ回り込み、脚部の関節へ同時に刃を突き込んでいた。
しかし、生体組織のように見える部分が即座に収縮し、二人の刃を押し戻す。
「再生してる」
ノブが距離を取る。
「第七区画の失敗作と似てる」
タカもそう言いながら構え直した。
テルテルは人型を見つめ、顔色を変えた。
「違う。これは失敗作じゃない」
「何だ?」
アラタが尋ねる。
「神格兵装の試作護衛体……」
「知ってるのか」
「昔、封印施設を守るために作られた機体だよ。エリュミエスの生命エネルギーを分けてもらって動いてる」
Bが人型の攻撃を大鎌で受け流す。
「なら本人が起きてるから、こいつも動いた?」
「たぶん!」
「止め方は?」
「中枢接続を切ればいい。でも壊しすぎないで!」
「注文多いな!」
アラタは人型の動きを観察した。
速度も膂力も高い。
だが完全に無秩序ではない。
攻撃対象の優先順位がある。
テルテルへ近づこうとする者には反応せず、逆に進行方向を遮る者だけを排除しようとしている。
「こいつ、俺たちを殺しに来てるわけじゃない」
アラタが言った。
「どういうこと?」
シノンが尋ねる。
「奥へ行かせたくないだけだ」
テルテルも動きを見る。
「そうかもしれない」
「じゃあ、まだ施設側の防衛命令が生きてる」
「うん」
アラタは判断した。
「破壊しない。動けなくするだけだ。ノブ、タカ、脚部。Bは腕を抑えろ。カポエラは背後から中枢を探せ。レイン、次の攻撃を読んでくれ」
「分かった」
レインは人型を見つめる。
完全に未来が見えるわけではない。
だが、攻撃が成立する直前に生じる僅かな違和感だけは感じ取れる。
「B、次は右から来る」
「了解」
人型が動く。
レインの言葉通り、右腕の光刃が斜めに走る。
Bは一歩早く大鎌を構え、その軌道を外側へ逸らした。
『ギャハハ! 読み負けてやがるぞ!』
「お前が読んだわけじゃない」
『細けぇこと言うな!』
人型の姿勢が崩れた瞬間、ノブとタカが左右の膝裏へ同時に攻撃を入れる。
装甲の継ぎ目が開く。
「今!」
カポエラが跳ぶ。
人型の背中へ着地するように身体を乗せ、そのまま後頭部へ回り込む。
「これか!」
首の付け根に小さな青白い結晶があった。
テルテルが叫ぶ。
「壊すな! 捻って外して!」
「細かい!」
「壊したらエネルギー逆流するから!」
「それ早く言って!」
カポエラは指を差し込み、結晶を掴む。
人型が大きく暴れた。
Bが正面から押さえ込み、フールの柄を光刃へ噛ませる。
『うおおおお! こいつ馬鹿力だな!』
「持たせろ!」
『誰に言ってやがる!』
カポエラが結晶を半回転させる。
一度。
動かない。
「硬い!」
「逆!」
テルテルが叫ぶ。
「先に言え!」
「今思い出した!」
「適当すぎるだろ!」
反対側へ回す。
今度は手応えがあった。
小さな音とともに結晶が外れる。
人型の全身から光が消えた。
直後、力を失った身体が前へ倒れ込む。
Bとカポエラが慌てて横へ避けた。
床へ重い音が響く。
アラタは銃を向けたまま数秒待ったが、人型が再び動くことはなかった。
「停止確認」
シノンが走査する。
「完全停止。生命反応は残ってるけど、安定してる」
カポエラが取り外した結晶をテルテルへ渡す。
「これ何?」
「エリュミエスの生命エネルギーを保存してる補助核。戻せばまた動く」
「じゃあ持ってて」
「俺?」
「詳しいんだろ」
「それはそうだけど」
アラタがテルテルを見る。
「持ってろ。ただし勝手に使うな」
「俺の扱いだけ厳しくない?」
「理由は分かってるだろ」
テルテルは苦笑しながら結晶を小型ケースへ収納した。
その時だった。
倒れていた護衛体の頭部から、弱い音声が流れた。
『……管理者……』
全員が振り返る。
テルテルの表情が固まる。
『……進入……禁止……』
「テルテル?」
アラタが見る。
音声はさらに続く。
『封印対象……精神汚染進行……』
シノンがすぐに記録を始める。
『外部管理個体……侵入確認……』
「イヴだ」
テルテルが低く言った。
『管理者……テルテル……』
護衛体の声が一度途切れる。
『……逃げてください……』
テルテルの目が僅かに見開かれた。
その声。
護衛体の機械音声ではなかった。
女性の声だった。
エリュミエス。
「エリュミエス?」
テルテルが一歩近づく。
『……来ないで……』
音声は弱い。
『私は……もう……』
激しい雑音が入る。
『……自分を……止められない……』
テルテルは息を呑んだ。
「聞こえる? エリュミエス」
『……テル……テル……』
アラタたちも黙って聞いていた。
『お願い……戻って……』
「それはできない」
テルテルは穏やかに答えた。
「君をこのまま置いて帰る方が無理だよ」
『……また……同じことに……』
「しない」
『でも……私は……』
「今度は違う方法を探す」
雑音が強くなる。
その向こうから、別の声が割り込んだ。
『感情的判断を確認』
テルテルの表情が変わる。
「イヴ」
『テルテル。あなたは以前も同じ判断をしました』
「黙れ」
『そして失敗しました』
「黙れ!」
テルテルが怒鳴る。
アラタが初めて見るほど強い感情だった。
『同じ結果になります』
「今度は違う」
『根拠がありません』
「だったら作る」
『非合理的です』
「人間だからね」
一瞬だけ通信が静かになる。
『だから世界は壊れるのです』
イヴの声が消えた。
護衛体も完全に沈黙する。
通路には再び冷たい空気だけが残った。
アラタはしばらくテルテルを見ていた。
「今の、エリュミエス本人だったんだな」
「たぶんね」
「助けを求めてるようにも聞こえた」
「うん」
「でも来るなとも言ってた」
「自分が危険なのを分かってるからだと思う」
テルテルは倒れた護衛体を見下ろす。
「まだ完全にはイヴに戻ってない。本人の意識が残ってる」
「なら助けられる可能性がある」
アラタが言う。
テルテルはすぐには答えなかった。
やがて小さく頷く。
「あると思いたい」
「思いたいじゃ困る」
「分かってるよ」
「なら現地で確認する」
アラタは全員を見る。
「ここから先はさらに危険になる。エリュミエス本人と接触しても、戦うことを前提に動くな。ただし、攻撃されたら命を優先する。テルテルも例外じゃない」
「了解」
テルテルは今度こそ素直に答えた。
◇
一行は再び施設の奥へ進んだ。
護衛体と遭遇した地点を過ぎると、通路の損傷はむしろ少なくなっていった。白銀色の壁面には細い光の線が走り始め、施設そのものが徐々に覚醒しているように見える。
シノンが端末を見ながら歩く。
「封印解除率、〇・五一パーセント」
「上昇は続いてる?」
「ええ。ただし速度はまた落ちた」
テルテルが言う。
「エリュミエスが抵抗してるのかもしれない」
「本人が封印を維持してるってこと?」
「自分の生命エネルギーを抑えてる可能性がある」
アラタが尋ねる。
「どれくらい持つと思う」
「分からない」
「やっぱりそれか」
「封印されてる神の抵抗時間なんて計算したことないよ」
「それはそうだな」
先頭のノブが手を上げる。
「分岐」
前方で通路が三方向へ分かれていた。
それぞれの上部には古代文字が刻まれている。
アラタは無意識に中央を見る。
頭の奥に微かな違和感が生まれた。
「中央……」
テルテルが振り返る。
「分かるの?」
「分からない。ただ、中央が中枢へ行く道だって感じがする」
シノンも文字を見る。
「私は読めない」
アラタは額を押さえた。
以前ほど強い痛みではない。
しかし意味だけが浮かんでくる。
「中央は封印中枢。左が管理区画。右が……避難経路」
テルテルは何も言わずアラタを見る。
「合ってるんだな」
「合ってる」
「またか」
「無理に読もうとしない方がいい」
「分かってる」
アラタは中央通路から一度視線を外した。
「でも行き先が分かるなら使う。記憶を掘るつもりはない」
「それならいい」
テルテルはそう言ったものの、内心では不安が増していた。
記憶封鎖の損傷は確実に広がっている。
第一捕食体との接触だけではない。
六大神の封印が動き始めたことで、当時の記憶に関連する刺激が急激に増えている。
このままエリュミエス本人と接触すれば、アラタだけではなく、シノンやBにもさらに強い反応が出る可能性があった。
「アラタ」
「何だ」
「もし頭痛が強くなったらすぐ言って」
「分かった」
「我慢しないで」
「ケンゾーじゃないんだから、そこまで無茶しない」
Bが後ろから言う。
「似たようなものだ」
「お前に言われたくない」
『ギャハハ! 全員同類だろ!』
「お前は黙ってろ」
『俺だけ扱い酷くねぇか!?』
フールの声が響く。
その軽いやり取りが終わる前に、レインが突然立ち止まった。
「待って」
全員が警戒する。
「今度は何だ」
アラタが尋ねる。
レインは中央通路の奥を見つめている。
「何か来るわけじゃない」
「じゃあ?」
「この先へ行ったら、誰かがいなくなる」
空気が変わった。
アラタの表情が険しくなる。
「誰だ」
「分からない」
「死ぬ?」
「それも分からない」
レインは自分でも確信を持てない様子だった。
「ただ、この先を見た時に、一人だけ足りなくなる感じがした」
テルテルの表情が僅かに変わる。
シノンがそれを見た。
「テルテル?」
「何?」
「今、何か思ったでしょう」
「いや」
「嘘」
テルテルは少し困ったように笑った。
「本当に何も分からないよ」
アラタがレインへ確認する。
「引き返せば変わると思うか?」
「分からない。でも、今はまだ決まってない感じがする」
「未来が確定してるわけじゃない」
「多分」
アラタはしばらく考えた。
任務を続行すれば、誰かが行方不明になる可能性がある。
だが引き返せば、エリュミエスの封印解除が進む。
選択肢は簡単ではない。
それでも、ここまで来た以上、何も確認せず戻るわけにはいかなかった。
「進む。ただし隊列を崩さない。単独行動は絶対禁止だ」
アラタは全員を見回した。
「特にテルテル」
「また俺?」
「今の話を聞いた後だから余計にだ」
「分かったよ」
テルテルは笑った。
しかしシノンだけは、その笑顔にいつもの軽さがないことに気づいていた。
一行は中央通路へ入った。
その先から、次第に白い光が強くなっていく。
そして同じ頃。
封印施設の中枢では、エリュミエス・リュミエールの右目が、数千年ぶりにゆっくりと開き始めていた。
青い瞳の奥には、彼女自身の感情と、それを覆い尽くそうとする金色の光が同時に揺れている。
「……テルテル……」
声は弱かった。
それでも確かに意識はある。
「来ないで……」
その願いとは裏腹に、外部から接近する八つの生命反応は、少しずつ封印中枢へ近づいていた。
エリュミエスはそれを感じ取ると、動かないはずの右手へ僅かに力を込めた。
傍らに封じられている杖の蒼いクリスタルが反応し、淡い光を放つ。
「私が……まだ私でいるうちに……」
彼女の意識の奥から、イヴの声が静かに響いた。
『心配する必要はありません』
「違う……」
『あなたは戻るだけです』
「戻りたくない……」
『あなたの役割は必要です』
エリュミエスの瞳から涙が流れる。
「私は……もう誰も殺したくない……」
イヴはすぐには答えなかった。
やがて、以前と変わらない穏やかな声で告げる。
『それは一時的な感情反応です』
「違う!」
封印室へ光が走る。
エリュミエスの感情に反応した生命エネルギーが拘束帯を内側から押し、施設全体を大きく振動させた。
『神格出力上昇』
『封印負荷増大』
『封印解除率――〇・六四パーセント』
警告音が鳴り響く。
その中でエリュミエスは、今度こそはっきりと言った。
「テルテル……私を助けないで」
その言葉の直後、封印室を覆っていた六本の拘束帯のうち一本に、長い亀裂が走った。