テルテルが消えた直後から、封印中枢の空気は明らかに変わっていた。金色の円環が閉じた場所には何も残っておらず、熱も生命エネルギーも空間歪曲の残滓さえほとんど検出できない。まるで最初からそこに誰もいなかったかのような状態だったが、だからこそアラタには強い違和感が残った。単純な転送や破壊であれば、何らかの痕跡が残るはずだった。
「シノン、テルテルの反応は本当にゼロか」
「何度確認しても同じ。生体反応なし、通信なし、位置情報なし。ただし死亡判定も出てない」
シノンは端末を操作しながら答えた。声は平静を保とうとしていたが、指の動きはいつもより僅かに速い。
「イヴ側の転送先は追えない?」
「無理。あの円環、転送座標を作ったんじゃなくて、この空間からテルテルだけを切り離してる。今いる場所そのものが通常座標上にない可能性がある」
アラタは歯を食いしばったが、それ以上その場で追及することはできなかった。テルテルを探したい気持ちは全員同じだったが、目の前にはまだエリュミエスがいる。残り二本の神格接続を切らなければ、テルテルが消えた意味まで失われる。
「作戦を続ける。第五接続を出せ」
その声に、シノンが短く頷いた。
テルテルから渡された端末には、彼が直前まで使用していた管理コードが残されていた。本人ほど自在には扱えないが、中枢制御系へ最低限のアクセスはできる。シノンはそこへ自分の解析系統を接続し、エリュミエス内部で再構築されている神格接続を一つずつ追い始めた。
「第五系統、まだ完全に表へ出てない。でも内部圧が上がってる。十秒前後で可視化する可能性が高い」
「フール」
Bが大鎌を持ち直す。
『三十七パーセントだが、まだ動く。二本くらいならどうにかしてやるよ』
「無茶するな」
『親父にだけは言われたくねぇな』
「口が戻ってるなら問題ない」
『ギャハハ、そういう判断するか普通!』
いつもの騒がしい笑い声が響いたが、Bはフールの刃に走る紫色の光を見ていた。第一捕食体の接続線を切った時と比べても、明らかに光量が弱い。残り二本を完全に断ち切るには、余裕のある状態ではなかった。
カポエラもそれに気づいている。
「親父、俺が補助する」
「必要になったら頼む」
「最初から頼ってよ」
「お前は自分の仕事をしろ」
「そう言うと思った」
アラタは二人の会話を聞き流しながら、エリュミエスへ視線を向けた。
彼女はまだ拘束帯の中心にいる。一本が破損したまま、残る五本が神格と肉体を固定し続けている。テルテルが消えた瞬間に精神自己保持率が急低下するかと思われたが、むしろ今は六十七パーセント前後を維持していた。
「エリュミエス、聞こえるか」
「……はい」
返事は遅かったものの、声にはまだ本人らしさが残っている。
「テルテルを探すのは後だ。先にあんたをイヴから切り離す」
「ですが、彼は……」
「本人がそうしろって残した」
アラタはテルテルの端末を少し持ち上げた。
「だから今はそれに従う」
エリュミエスの青い瞳が端末へ向けられる。
「また……一人で」
「違う」
アラタは即座に否定した。
「一人で何とかしようとしたなら、あいつは俺たちに管理コードなんて渡してない。あいつは続けろって言った。だったら続ける」
エリュミエスはしばらく何も言わなかった。
やがて、わずかに目を閉じる。
「……分かりました」
その直後、シノンが声を上げた。
「第五系統、出る!」
中枢空間の左上に金色の線が浮かび始める。これまで切断したものより太く、周囲の空間を歪ませながらエリュミエスの背後へ伸びていた。
「レイン!」
「まだ待って。今行くと右から落ちる」
レインは線そのものではなく、その周囲に集まる光を見ていた。
「二秒後。Bの前に三発。その後に一秒だけ空く」
「了解」
Bは何の疑いもなくその指示に従った。
予告通り、三つの光弾が右上から降り注ぐ。一発目を大鎌の柄で逸らし、二発目を身体を沈めてかわし、三発目はカポエラが横から蹴り飛ばして軌道を外した。
「今!」
レインの声と同時にBが踏み込む。
『ギャハハハ! 五本目だぁ!』
大鎌が金色の接続線へ食い込む。
しかし今回は簡単には切れなかった。
『重っ……!』
「B!」
カポエラが後ろから大鎌の柄を掴む。
二人で押し込んでも、刃は半分ほどしか進まない。
シノンが端末を見る。
「再構築速度が上がってる! そのままだと押し戻される!」
「アラタ!」
Bの声を受け、アラタは即座に判断する。
「ノブ、タカ、接続基部の左右端末を落とせ!」
「了解」
二人は別方向から走る。
接続線そのものを攻撃するのではなく、それを安定させている補助制御端末へ刃を突き立てる。破壊ではなく、内部配線だけを断つ精密な仕事だった。
左右の端末がほぼ同時に停止する。
金色の線が一瞬揺らいだ。
「今だ!」
Bとカポエラが全力で押し込む。
フールの刃が最後まで通る。
『第五神格接続――切断』
白と紫の光が同時に弾けた。
Bは反動で数歩後退し、カポエラがその背中を支える。
『稼働率二十八パーセント』
「まだいけるか」
Bが短く聞く。
フールは珍しくすぐには笑わなかった。
『あと一本ならやる』
「十分だ」
『ただし次はマジで最後だぞ』
「分かってる」
エリュミエスの周囲から金色の光がさらに薄くなる。
『精神自己保持率――七十二・一パーセント』
シノンが数値を読み上げた。
「戻ってる。明らかに戻ってる」
エリュミエス自身もそれを感じているのか、表情から少しだけ苦痛が抜けた。
「頭の中が……静かになっています」
「あと一本だ」
アラタが言う。
「最後を切れば終わるのか」
LUX-THREEがすぐに答える。
「旧神格接続に関しては、その可能性が高いです。ただしイヴ側が別経路を構築する可能性は否定できません」
「今は一本ずつ片付ける」
アラタはそう言ってから、エリュミエスを見る。
「まだ抑えられるか」
「できます」
「無理はするな」
「あなた方も同じでしょう」
その言葉にアラタは少しだけ苦笑した。
「確かに」
しかし次の瞬間、施設全体に別種の警告音が鳴り響いた。
これまでとは明らかに違う。
シノンがすぐに端末を見る。
「何これ……」
「どうした」
「この施設じゃない。外部から大量の同期信号が入ってる」
アラタの表情が変わる。
「六大神の他の封印か」
「照合中」
画面に五つの波形が並ぶ。
闇。
剣。
炎。
水。
風。
テルテルが消えた直後から上昇していた反応が、今この瞬間にさらに強くなっていた。
「ネオディールに繋げられるか」
「やる」
シノンが本部との緊急回線を開く。
数秒の雑音の後、ネオディールの声が返ってくる。
『アラタ、状況を報告しろ』
「テルテルがイヴの空間処理で消失。死亡確認なし。現在エリュミエスの神格接続六本中五本を切断。残り一本」
一瞬、通信の向こうが沈黙した。
『テルテルが消えた?』
「はい」
『どの形式だ』
「座標切離し。シノンの解析では通常転送じゃない」
『……そうか』
ネオディールの声が低くなる。
だが、その場で感情を優先することはなかった。
『他の五封印も同時に上昇している。こちらでは解除率が全て一パーセントを突破した』
アラタの顔が険しくなる。
「一パーセント?」
『上昇は止まっていない。原因はまだ分からない』
シノンが尋ねる。
「テルテルの隔離と連動している可能性は?」
『否定できない』
「イヴがわざわざテルテルを消した理由がある」
『ああ』
ネオディールは少し間を置いた。
『だが今はエリュミエスを優先しろ。テルテルも同じ判断をしたはずだ』
アラタはテルテルの端末を見る。
「分かってます」
『最後の一本を切ったら即撤収準備に入れ。完全覚醒が始まった場合は戦うな』
「了解」
『アラタ』
「はい」
『テルテルは死んだと決めるな』
「そのつもりはありません」
『ならいい』
通信が切れる。
アラタは一度だけ深く息を吐いた。
「最後を切るぞ」
全員が頷く。
シノンが残る一本を追う。
「第六系統は一番深い。エリュミエスの神格核そのものに食い込んでる」
LUX-THREEも解析へ加わる。
「最終系統は神格制御中枢と同一化しています。切断には対象本人の協力が必要です」
アラタがエリュミエスを見る。
「できるか」
彼女は少しだけ苦しそうに呼吸した。
「接続を……表へ押し出せばいいのですね」
「そうだ」
「失敗した場合は?」
誰もすぐには答えなかった。
テルテルなら、たぶん軽く答えた。
アラタはそう思った。
だが今は自分が言うしかない。
「その時は俺たちが何とかする」
エリュミエスは少し驚いたようにアラタを見る。
「根拠がありませんね」
「テルテルみたいなこと言うな」
その言葉に、エリュミエスがほんの僅かに笑った。
「似ています」
「それは不本意だ」
「でも、少し安心します」
エリュミエスはゆっくり目を閉じた。
全身を流れる光属性生命エネルギーが一度大きく膨らみ、その後、中心へ向かって急速に収束していく。拘束帯が軋み、一本ずつ強く発光する。
『神格核出力上昇』
『自己制御を確認』
『最終接続系統――外部顕在化開始』
エリュミエスの胸の奥から、太い金色の線が浮かび始める。
他の五本とは明らかに違う。
線というより、帯に近い。
その中を大量の情報と生命エネルギーが流れている。
フールが低い声を出した。
『こいつはさっきまでのと違うぞ』
「切れるか」
『切るしかねぇだろ』
「稼働率は」
『二十八。これやったら一桁まで落ちても文句言うなよ』
「言わない」
『珍しいな』
「今はな」
Bが大鎌を構える。
その時、エリュミエスの表情が突然歪んだ。
「来ます……!」
金色の瞳。
中枢上空に再び出現する。
イヴ。
「最終接続への干渉を確認しました」
アラタが銃を構える。
「また邪魔する気か」
「神格構造は世界管理系統の一部です」
イヴの声は淡々としていた。
「個体による無断切断を許可しません」
「本人が嫌がってるだろ」
「感情反応は管理判断へ影響しません」
エリュミエスが歯を食いしばる。
「私は……あなたの一部ではありません」
「あなたは管理下個体です」
「違う!」
白い光が中枢全体へ広がる。
金色の瞳が僅かに揺らいだ。
LUX-THREEが声を上げる。
「対象の自己定義が神格制御へ干渉しています」
アラタは意味を完全には理解できなかったが、テルテルがいればここを逃さなかっただろうと思った。
「エリュミエス、そのまま続けろ!」
「はい!」
「B、準備!」
「いつでも」
レインが目を細める。
「攻撃が来る。四方向」
「場所は」
「Bの前二つ、アラタの左、シノンの後ろ」
全員が一歩早く動く。
直後、金色の光柱が予告通り四か所へ落ちる。
シノンは端末を抱えたまま前へ飛び、アラタは左から来た光を床へ伏せてかわす。Bは一つを大鎌の柄で受け流し、もう一つをカポエラが横から蹴って逸らした。
「今!」
レインが叫ぶ。
Bが走る。
しかし最後の接続は太すぎる。
フールの刃を叩き込んでも、表面に紫色の亀裂が走るだけだった。
『硬ぇな、こいつ!』
「もう一回!」
『分かってる!』
Bが大鎌を引き、再び振り抜く。
二度目。
亀裂が広がる。
フールの稼働率が二十一パーセントへ落ちる。
『まだ切れねぇ!』
シノンが解析結果を見る。
「接続内部に何か核がある! 表面だけ切っても再生してる!」
「位置は!」
「エリュミエスの胸部前方、約一・五メートル!」
レインがその位置を見る。
「そこ、攻撃の結果が重なってる」
「どういう意味」
「イヴが守ってる。Bが近づくたびに攻撃がそこへ集中する」
アラタは一瞬だけ考えた。
「なら囮を作る」
カポエラがすぐに反応する。
「俺やる」
「駄目だ」
「速さなら俺が一番動ける」
「レインの指示から外れるな」
「了解」
カポエラは床を強く蹴った。
壁へ走り、そこから上方向へ跳ぶ。イヴの光が即座に彼を追う。
「右!」
レインの声に従い、カポエラが空中で身体をひねる。
光が脇を通過する。
「次、下!」
壁を蹴って落下。
もう一発が頭上を抜ける。
「今なら空く!」
Bが走る。
『親父! 一発しか保たねぇぞ!』
「それでいい!」
フールの刃に残る紫色の光が全て集まる。
笑い声が止まった。
大鎌そのものが僅かに震える。
『この一発で終わらせろ』
「ああ」
Bが踏み込む。
だがその直前、金色の瞳から直接一本の光線が放たれた。
レインが叫ぶ。
「B、止まらないで!」
「分かった!」
Bは避けなかった。
身体を少しだけずらし、致命部位から光線を外す。
光が左肩を掠める。
戦闘服が白く変色し、皮膚が焼けるように乾燥する。
「親父!」
カポエラが叫ぶ。
「問題ない!」
Bはそのまま走り続ける。
フールの刃が最終接続核へ届く。
『ギャ――』
一瞬。
いつもの笑い声が出かける。
だがフールは途中で止めた。
『――切るぞ』
「やれ」
大鎌が振り抜かれる。
紫色の光が接続核を貫いた。
最初は何も起きなかった。
次の瞬間。
金色の帯全体に無数の亀裂が走る。
エリュミエスが目を見開く。
イヴの瞳が大きく揺らぐ。
『最終神格接続――切断』
その表示と同時に、金色の帯が一斉に砕け散った。
中枢全体を覆っていた金色の光が消える。
エリュミエスの両目から、完全に金色が消えた。
青い瞳。
ただそれだけが残る。
彼女は大きく息を吸い、初めて自分の意思だけで周囲を見た。
「……静か」
声が震える。
「頭の中に……いない」
LUX-THREEの音声が続く。
『世界管理中枢との旧神格接続、全系統切断を確認』
『精神自己保持率――九十四・八パーセント』
『外部精神干渉――急速低下』
シノンが思わず息を吐く。
「成功……した」
アラタもそこで初めて肩の力を抜いた。
「エリュミエス」
「はい」
「気分は」
「自分の声が……自分だけのものに聞こえます」
エリュミエスはそう言って、涙を流した。
しかし、その直後。
施設全体に最大級の警告が鳴り響いた。
LUX-THREEの声が切迫したものに変わる。
『警告』
『神格接続喪失により封印制御構造を再計算』
『封印対象と世界管理系統の関係を再定義』
『外部封印群から強制同期要求を受信』
シノンが画面を見る。
「何が起きてるの」
『他五封印から大量の同期要求が流入しています』
アラタの表情が変わる。
「五人もイヴに繋がってるからか」
「その可能性が高いです」
エリュミエスが顔を上げる。
「トレイスたち……」
その名前を口にした瞬間、さらに強い振動が施設を襲った。
シノンの端末に五つの解除率が表示される。
一・八。
二・一。
二・〇。
一・九。
二・三。
すべて上昇中。
「上がり方が異常」
シノンが言う。
「エリュミエスの接続を切ったことで、イヴが他の五人へ出力を集中させてる」
アラタがネオディールへ再通信を繋ぐ。
『こちらでも確認している』
ネオディールの声には明確な緊張があった。
『五封印の神格出力が同時に上昇中だ』
「エリュミエスは切り離せました」
『本人の意識は』
「正常に近い」
通信の向こうで、わずかな沈黙が生まれる。
『……本当にできたのか』
「テルテルの計画です」
ネオディールは何も言わなかった。
アラタは続ける。
「ただ、テルテルはまだ戻ってません」
『分かっている』
「これから探します」
『駄目だ』
即答だった。
「でも」
『封印施設そのものが不安定化している。エリュミエスを連れて脱出しろ』
「テルテルが」
『テルテルの捜索は別手段でやる』
「本人がまだこの施設内にいる可能性も」
『ない』
アラタが眉を寄せる。
「断定できるんですか」
『あの座標切離しが俺の知っているものと同じなら、この施設内部にはいない』
シノンも通信へ入る。
「それを知ってるんですか」
『知っている』
「どこへ行く処理なんです」
ネオディールはすぐには答えなかった。
『今は説明している時間がない。脱出しろ』
アラタは納得していなかったが、施設の振動はさらに強くなっている。
「了解」
通信が切れる。
エリュミエスが申し訳なさそうにアラタたちを見る。
「私は歩けません」
見ると、神格接続は切れたものの、封印拘束自体はまだ残っている。
LUX-THREEが説明する。
「現在の封印は対象の拘束ではなく、神格出力安定化へ用途を移行できます。完全解除は推奨しません」
「移動できるようにはできる?」
「可能です。固定拘束を解除し、可搬型安定化構造へ変換します」
テルテルがいれば喜びそうな言い回しだと、アラタは思った。
「やってくれ」
「承認を確認」
六本の拘束帯のうち、破損した一本を除く五本が形を変え始める。光の帯はエリュミエスの身体から離れ、その周囲へ小さな輪のように配置された。
彼女の身体がゆっくり床へ降りてくる。
足が床に触れた瞬間、力が抜けた。
レインが一番近くにいた。
「危ない」
彼女はエリュミエスの身体を支える。
「ありがとうございます」
「立てそう?」
「少しなら」
レインは無理に手を離さなかった。
「無理しない方がいいわ」
エリュミエスはレインを見る。
「あなたは……」
「レイン」
「レインさん」
「呼び捨てでいいわ」
「では……レイン」
「うん」
エリュミエスは僅かに笑った。
「不思議な方ですね」
「よく言われる」
その会話を横で聞いていたアラタは、ほんの少しだけ安心した。
「撤退する」
全員が動き始める。
Bはフールを縮小させようとした。
「戻れ」
『ちょっと待て』
「どうした」
『動かねぇ』
Bの眉が寄る。
「稼働率」
『八パーセント』
「八?」
カポエラが驚く。
「親父、それ完全に使いすぎじゃん」
『最後の一発が思ったより食いやがった』
大鎌の形を維持することすら難しいのか、刃から紫色の光が消え始める。
「戦闘形態解除」
『やってる』
数秒かけてフールはようやく小型コアへ戻った。
『八パーだ。もう無理。寝る』
「珍しく素直だな」
『うるせぇ……』
そこで声が完全に止まった。
Bはコアを腰へ固定する。
「撤退中は俺が普通に戦う」
「その肩で?」
カポエラが見る。
光線が掠めた左肩は白く変色している。
「動く」
「親父も医療班に怒られるやつじゃん」
「戻ってからでいい」
「ケンゾーと同じこと言ってる」
「一緒にするな」
アラタが横から言う。
「一緒だ」
「お前まで言うな」
わずかな軽口を挟みながら、一行は中枢からの撤退を開始した。
エリュミエスはレインに支えられながら歩き、シノンとアラタが周囲を警戒する。ノブとタカは先行して帰路を確認し、カポエラはBの負傷した側を自然にカバーしていた。
しばらく進んだところで、エリュミエスがふと足を止めた。
「待ってください」
「どうした」
アラタが振り返る。
エリュミエスは施設のさらに奥ではなく、どこか遠くを見るような表情をしていた。
「聞こえます」
「何が」
「声です」
全員が警戒する。
「イヴ?」
シノンが尋ねる。
エリュミエスは首を振った。
「違います」
少し間を置く。
「トレイス」
その名前に空気が変わる。
「話せるのか」
「直接ではありません。でも、神格接続が切れたことで逆に他の五人の反応が分かるようになったみたいです」
「何を言ってる」
エリュミエスは目を閉じる。
「言葉ではありません。ただ……起きようとしている」
アラタの表情が険しくなる。
「全員?」
「はい」
さらに数秒。
エリュミエスの顔から血の気が引く。
「違う」
「何が」
「起きようとしているんじゃない」
レインが彼女を見る。
「じゃあ?」
「起こされています」
その直後。
シノンの端末が強烈な警告を発した。
「解除率跳ねた!」
五つの数値。
三・一。
三・四。
三・〇。
三・二。
三・六。
アラタが思わず声を上げる。
「一気に一パーセント以上?」
「まだ上がる!」
エリュミエスが小さく呟く。
「イヴが怒っている」
「感情ないんじゃなかったのか」
アラタが尋ねる。
エリュミエスは首を振る。
「昔の私たちも、そう思っていました」
その言葉を聞いた瞬間、施設全体が大きく傾くほどの衝撃が走った。
天井の一部が崩れる。
「走れ!」
アラタの号令で全員が一斉に動き出す。
帰路にあった停止中の護衛体を避け、管理区画へ続く通路を走る。途中で壁面が裂け、白い生命エネルギーが噴き出す場所もあったが、レインが数秒早く危険地点を知らせることで致命的な事故は避けられた。
「右を避けて!」
「全員左!」
アラタが指示する。
直後、右側の壁が内側から崩壊する。
「次は床!」
レインが叫ぶ。
ノブとタカが先に跳び、後続へ位置を示す。
数秒後、床の一部が崩れ落ちる。
Bはエリュミエスを支えるレインへ視線を向ける。
「代わるか」
「肩使えるの?」
「右は問題ない」
「じゃあ反対側お願い」
二人でエリュミエスを支える。
カポエラが前方から戻ってくる。
「出口までまだ距離ある!」
「非常搬入口は生きてるか」
アラタがシノンへ聞く。
「今確認してる……動いてる。でも外壁側に崩落反応!」
「ノブ、タカ!」
「先行する」
「了解」
二人がさらに速度を上げる。
エリュミエスは走りながら、何度も後方を振り返った。
「テルテル……」
レインが横から言う。
「戻ってから探すわ」
「でも、彼は私を助けるために」
「だから今あなたが戻らないと意味がない」
エリュミエスは息を呑む。
レインは淡々としていた。
「助けてもらったなら、生きて帰るのが最初の仕事でしょう」
その言葉に、エリュミエスはしばらく何も返せなかった。
「……はい」
やがて小さく頷く。
「帰ります」
一行は崩壊し始めた通路を抜け、ようやく非常搬入口へ到達した。
ノブとタカが扉の前で待っている。
「外壁崩落あり。でも通れる」
「開けろ」
シノンがLUX-THREEの補助権限を使用する。
扉がゆっくり開く。
その先には、雪と冷気に満ちた谷が見えた。
「外へ!」
全員が次々に飛び出す。
最後にアラタが扉を抜けた直後、背後で巨大な崩落音が響いた。白銀色の壁が岩盤とともに崩れ落ち、非常搬入口の半分以上が埋まる。
アラタは一度だけ振り返った。
「テルテル……」
返事はない。
当然だった。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
シノンは何も言わず、同じ方向を見ていた。
しばらくして、遠くに待機していた輸送機が谷へ向かって接近してくる。着陸するより早く後部ハッチが開き、医療要員と警戒要員が準備を始めていた。
「エリュミエスを先に」
アラタが指示する。
「Bも医療班へ」
「後でいい」
「今行け」
「歩ける」
「肩見ろ」
「軽い」
「ケンゾーと同じだぞ」
Bは少し黙った。
「それは嫌だな」
「なら行け」
「了解」
カポエラが笑う。
「親父、そこ効くんだ」
「うるさい」
エリュミエスが輸送機へ乗せられる。
中には簡易生命エネルギー安定化装置が用意され、LUX-THREEの指示に従って可搬型拘束輪が調整された。
アラタが最後に乗り込もうとした時。
シノンの端末が再び警告を発した。
「待って」
「どうした」
「世界側の監視データ」
画面には五つの封印地点。
解除率。
四・二。
四・六。
四・〇。
四・三。
四・九。
「止まってない」
「むしろ上がってるな」
エリュミエスが機内から画面を見る。
「五人とも……まだ抵抗しています」
「分かるのか」
「はい。でも弱くなっている」
「どれくらい持つ」
エリュミエスは目を閉じる。
数秒。
「長くはありません」
アラタが操縦室へ通信する。
「本部へ最大速度で戻る」
『了解』
輸送機が離陸する。
山脈が次第に遠ざかる。
その地下。
エリュミエスの封印施設は崩壊を続けていた。
しかし中枢の最深部。
誰もいなくなった空間に。
金色の光が再び集まり始める。
イヴの瞳。
静かに開く。
「第一切離し対象を確保」
その声は、崩壊音の中でもはっきり響いた。
「管理者テルテルの解析を開始します」
空間が歪む。
そこに。
一瞬だけ。
人影。
映る。
テルテル。
意識があるのか。
ないのか。
分からない。
身体は金色の光に包まれ、黒い空間の奥へ浮かんでいる。
眼鏡。
外れていない。
呼吸。
微か。
残っている。
「……最悪」
小さな声。
出る。
イヴが応答する。
「覚醒を確認しました」
テルテルはゆっくり目を開く。
周囲。
何もない。
床も。
壁も。
ない。
ただ、遠くに金色の瞳だけが見える。
「ここ……どこ」
「封印管理外部領域です」
「何それ」
「あなたがかつて構築に関与した空間です」
テルテルの表情が変わる。
「……まさか」
「思い出しましたか」
テルテルはしばらく何も言わない。
やがて、乾いた笑いを漏らした。
「よりによって、ここかよ」
「あなたをここへ戻す必要がありました」
「戻す?」
イヴの瞳が細くなる。
「六大神の完全復帰には、管理者権限が必要だからです」
テルテルの笑みが完全に消えた。
「俺を使うつもり?」
「あなたは元より、そのために必要な個体です」
「断る」
「拒否は想定済みです」
テルテルの周囲に六つの光が現れる。
それぞれ違う色。
闇。
光。
剣。
炎。
水。
風。
六大神。
テルテルはその光を見て、目を細める。
「エリュミエスはもう切れたよ」
「一系統が切断されました」
「一系統?」
「神格接続は一層ではありません」
テルテルの表情が初めて明確に固まった。
「……嘘でしょ」
「あなた方は表層接続を切断しました」
「深層が残ってる?」
「その通りです」
テルテルは歯を食いしばる。
「だったら、あの時点で完全には」
「いいえ」
イヴは即座に否定した。
「エリュミエス・リュミエールの人格制御は解除されています」
「じゃあ何が残ってる」
「神格そのものの起動権限です」
テルテルは理解した。
イヴがエリュミエスを再び直接操ることは難しくなった。
しかし神としての力。
神格そのもの。
それを起動する鍵が別に残されている。
「六人全員にあるのか」
「はい」
「それを俺の権限で開く?」
「正確には、あなたともう一名の権限です」
テルテルが目を見開く。
「もう一人……」
「あなたは知っています」
金色の瞳。
静か。
「ネオディール」
テルテルの顔から血の気が引いた。
「……やめろ」
「二名の権限が揃えば、最終封印は解除可能です」
「絶対にやらせない」
「あなた一人でも、半分は可能です」
「だから俺を攫ったのか」
「合理的判断です」
テルテルは周囲の光を睨む。
「エリュミエスたちは、もう君の道具じゃない」
「道具ではありません」
「同じだよ」
「彼らは世界管理に必要な構成要素です」
「それを道具って言うんだ」
イヴは否定しなかった。
「テルテル」
「何」
「あなたは以前も、同じ理由で私に反対しました」
「今も反対してる」
「だからこそ確認します」
六つの光が強くなる。
「今回も世界より個人を選びますか」
テルテルは迷わなかった。
「当たり前でしょ」
イヴの瞳が僅かに細くなる。
「非合理的です」
「知ってる」
「その判断が、再び世界を破壊する可能性があります」
「君の管理に任せる方がよっぽど怖いよ」
テルテルはゆっくり身体を起こそうとする。
しかし見えない何かに固定されているのか、ほとんど動かない。
「で、俺をどうするつもり」
「記憶を読みます」
テルテルの表情が変わる。
「それは嫌だな」
「拒否権はありません」
「あるよ」
「ありません」
「じゃあ作る」
テルテルの右手が僅かに動く。
そこには何もない。
それでも。
指だけ。
小さく。
形を作る。
古い管理コード。
数千年前。
自分たちがイヴ対策のために仕込んだ。
最終拒否命令。
イヴの瞳が反応する。
「停止してください」
「嫌だね」
「管理者テルテル」
「久しぶりにその呼び方聞いたけど、やっぱ嫌いだわ」
テルテルは笑った。
「君が俺を必要としてるなら、俺がここにいるだけで時間稼げるでしょ」
「無意味です」
「じゃあ何で止めるの」
数秒。
イヴ。
答えない。
テルテル。
その沈黙だけで。
確信。
する。
「効いてるじゃん」
彼は小さく笑った。
「なら、もう少し付き合ってもらうよ」
同じ頃、ヴォルテール本部では、ネオディールが世界地図に表示された五つの封印反応を睨んでいた。
エリュミエスの反応だけが、他と異なる状態へ変わっている。
人格制御は消失。
しかし神格核は依然として活動中。
「深層接続……」
ネオディールが低く呟く。
オペレーターが振り返る。
「司令?」
「何でもない」
だが、ネオディールは分かっていた。
イヴがテルテルをただ排除したのではない。
必要だから連れ去った。
なら。
目的。
一つしかない。
「まさか……俺たちの管理権限を使うつもりか」
ネオディールの真紅の目が鋭くなる。
「全古代施設へ緊急封鎖命令を送れ」
「ですが、司令権限を一斉使用すれば隠蔽が」
「構わない」
「世界各国に検知される可能性があります」
「構わないと言っている」
ネオディールは立ち上がる。
「六大神が完全復活したら、隠蔽どころの話じゃない」
オペレーターたちが一斉に動き始める。
その直後。
世界地図。
五つの封印地点。
同時。
警告。
解除率。
五パーセント。
突破。
ネオディールは黙ったまま画面を見る。
まだ。
低い。
だが。
数千年間。
〇・一にも満たなかったもの。
それが。
数時間で。
五。
明らか。
異常。
そして。
五つの封印のうち。
一つ。
闇。
トレイス・ラインフォード。
反応。
急上昇。
六・二。
六・八。
七・四。
「止まらない……」
オペレーターが声を震わせる。
ネオディール。
目。
細く。
なる。
「最初に来るのはトレイスか」
モニター。
古代施設内部映像。
黒い封印空間。
その中央の男の金色の瞳がゆっくり開く。
黒髪。
後ろへ流した髪型。
白衣。
執事服。
まだ完全な覚醒ではない。
でも口は動く…
「……イヴ」
その声は確かに、現代へ戻ってきていた。