地下鉄駅へ続く階段を下り始めてから、地上の雨音は急速に遠ざかっていった。
崩れかけたコンクリートの壁面には古い広告板が残されており、その表面には水滴が伝っている。天井の一部は崩落し、そこから雨水が細い滝のように流れ込んでいた。非常灯はとうの昔に機能を失っており、運び屋たちが携帯する照明と、Bが肩に担いでいるフール・オブ・グレモリーの刃から漏れる紫色の光だけが、暗い通路を照らしている。
先頭を歩くケンゾーは、数メートル進むごとに足を止めて周囲を確認していた。ゲシュタルト・レーヴェは通常形態のままだが、いつでも変形できるよう右手に握られている。その後方にはB、さらにシノン、新兵三人が続き、最後尾をテルテルが守っていた。
「……思ったより普通ですね」
タケが小声で言った。
「もっとこう、入った瞬間に壁から機械が出てくるとか、床が抜けるとか想像してたんですけど」
「余計なこと言うな」
ハヤッティがすぐに返した。
「こういう時に『何も起きないですね』って言う奴が一番やっちゃいけないんだよ」
「何で?」
「何でって……そういうの言った直後に何か起きるだろ!」
「映画の見すぎじゃない?」
レインがタケの横を歩きながら振り向いた。
「いやいや、お前もさっき地下怖いって言ってただろ」
「怖いとは言ったけど、壁から機械が出てくるとは言ってないわ」
「そこ細かく分ける必要あるか?」
「大事じゃない?」
「どこがだよ」
三人の声を聞きながら、テルテルが最後尾で小さく笑っていた。
「いいねぇ。怖い場所ほど喋る奴が多い方が助かる」
「テルテルさんは緊張感なさすぎです」
ハヤッティが振り返る。
「この先にさっきのロボットみたいなのが何体いるか分からないんですよ?」
「だから笑ってるんだろ」
「意味分からないですけど」
「黙ると余計なこと考えるからさ」
テルテルはそう言った後、一瞬だけ視線を前へ戻した。
余計なこと。
その言葉が意味するものを知っているのは、今のところ彼だけだった。
地下へ降りるにつれ、テルテルの中で忘れることのできない感覚が強くなっている。湿ったコンクリートの臭いではない。現代の鉄道施設特有の油や錆の匂いでもない。
もっと奥。
さらに深い場所から漂ってくる、独特の空気。
人工的に滅菌された施設の冷たさ。
微量のオゾン。
高密度エネルギー炉が休眠状態にある時に発する、かすかな金属臭。
知っている。
あまりにもよく知っている。
だが、テルテルは何も言わなかった。
「止まれ」
ケンゾーの声で、全員が足を止めた。
階段を下り切った先には地下鉄駅の改札階が広がっていた。
ただし、ほとんど原形を留めていない。
券売機は倒れ、改札機の多くは瓦礫に埋もれている。天井から剥がれ落ちた配線が蛇のように垂れ下がり、床には数センチほど水が溜まっていた。照明を向けると、黒い水面に彼らの姿が揺らいで映る。
その奥に。
一つだけ。
異質なものがあった。
「……あれ」
レインが先に気づいた。
駅の最奥。
本来ならば業務用通路へ続いていたと思われる場所に、大きな金属扉が露出している。
周囲のコンクリートとは明らかに違う。
錆びていない。
傷もほとんどない。
黒に近い銀色の表面には、複雑な幾何学模様が刻まれていた。
そして中央には、円を貫く一本の線。
左右へ広がる六枚の翼。
先ほど破壊した機械人形の胸に刻まれていたものと同じ紋章だった。
「地下鉄の設備……じゃないですよね?」
タケが呟く。
「どう見ても違うな」
ハヤッティの声も自然と低くなる。
Bが大鎌を肩から下ろした。
「フール」
『見えてるぜ』
それまで何かにつけて笑っていたフール・オブ・グレモリーも、今回はすぐには笑わなかった。
『この扉……古い』
「どのくらい」
『分かるわけねぇだろ。俺の記憶も穴だらけだ』
「知ってる感じはする?」
レインが尋ねる。
フールの刃が僅かに震えた。
『……気持ち悪ぃくらいにな』
ケンゾーもゲシュタルトを見る。
「お前は?」
『同様。形状データに既視性あり。ただし照合不能』
「また封印か」
『可能性は高い』
テルテルは黙ったまま扉を見ていた。
見覚えがある。
完全に同じではない。
だが、この紋章。
この材質。
扉の両脇へ刻まれた微細な文字列。
超古代文明時代に使用されていた施設用規格だった。
しかも軍事施設ではない。
少なくとも表向きは。
「テルテルさん」
レインの声が飛ぶ。
「またそういう顔してる」
「どういう顔?」
「知ってる顔」
「亡霊さん、観察力高すぎない?」
「その呼び方やめてって言いましたよね」
「はいはい」
「話を逸らしてます」
「若いのにしつこいなぁ」
「先輩が誤魔化すからでしょう?」
テルテルが返答を考えていると、ケンゾーが扉の前へ進んだ。
「開けられるか」
誰にともなく言ったつもりだった。
だが。
次の瞬間。
扉の中央に一本の青白い線が走った。
「……え?」
タケが一歩下がる。
金属表面に光が広がっていく。
幾何学模様をなぞるように複数の光条が点灯し、長い眠りから目覚めるように扉全体が低い振動音を発した。
『生体認証開始』
機械音声。
全員が武器を構えた。
『対象――七』
『照合』
光が一人ずつをなぞる。
ケンゾー。
B。
シノン。
タケ。
レイン。
ハヤッティ。
そして。
テルテル。
『照合完了』
数秒の沈黙。
『管理権限保有個体を確認』
テルテルの顔から笑みが消えた。
『個体識別――テルテル』
「……は?」
ハヤッティが振り向く。
タケも目を丸くした。
「テルテルさん?」
レインは何も言わず、ただ彼を見つめていた。
テルテル自身も反応できなかった。
まさかこの施設が、現在でも自分の識別情報を保持しているとは思っていなかったからだ。
『管理権限――有効』
巨大な扉が開き始めた。
数千年、あるいはそれ以上の年月を閉ざされていたとは思えないほど静かに、左右の装甲が壁内部へ収納されていく。
冷たい空気が流れ出した。
その向こうには、地下鉄施設とは完全に異なる通路が伸びていた。
白銀色の壁。
床へ埋め込まれた青い光。
傷一つない天井。
まるで昨日まで誰かが使用していたかのように整った施設。
「……いや」
ハヤッティがゆっくりテルテルを見る。
「ちょっと待ってください」
「何?」
「今、普通に名前呼ばれてましたよね?」
「呼ばれたね」
「管理権限って言われてましたよね?」
「言われたな」
「何でそんな他人事なんですか!」
「俺も驚いてるから」
「絶対嘘だ!」
タケも困惑している。
「テルテルさん、この施設知ってるんですか?」
「……まあ」
「まあ?」
「存在する可能性は考えてた」
「それ知ってるって言うんじゃないですか?」
レインが静かに追い打ちをかける。
テルテルが頭を掻く。
「お前ら今日俺に厳しくない?」
「状況が状況です」
「正論」
シノンが口を挟んだ。
彼女も笑ってはいなかった。
「テルテル。私も聞きたい」
「……シノンまで?」
「あなたが隠し事してるのは昔から知ってる。でも、今回のは話が違う」
シノンは開いた扉を見る。
「現代の記録にない地下施設があなたを管理者として認識した。これは『ちょっと知ってる』で済ませられる話じゃないよ」
テルテルはしばらく黙っていた。
嘘をつくこと自体は簡単だった。
誤作動。
ヴォルテール社が事前登録した。
ネオディールが何か仕込んでいた。
使える言い訳はいくらでもある。
しかし、ここまで来れば下手な嘘は逆効果だった。
「全部は話せない」
テルテルはゆっくり言った。
「でも、これだけは言っとく。この施設はヴォルテールが作ったもんじゃない」
「じゃあ誰が?」
タケが尋ねる。
テルテルは答えなかった。
代わりに。
「かなり古い」
「どのくらいです?」
ハヤッティが聞く。
「お前らが想像してるより、ずっと」
「数百年?」
「もっと」
「千年?」
「もっと」
レインの目が僅かに見開かれた。
「……まさか」
「そこまで」
ケンゾーが止めた。
全員が彼を見る。
「今ここでテルテルを問い詰めても状況は変わらない。話せる時に話せ」
「優しいね」
テルテルが苦笑する。
「勘違いするな」
ケンゾーはゲシュタルトを握り直した。
「あとで全部聞く」
「逃げ道なくなったなぁ」
「最初からない」
Bが淡々と言った。
「Bまで酷くない?」
『ギャハハハ! 諦めろテルテル!』
「お前に言われたくねぇよ」
わずかな笑いが戻った。
だが。
レインだけはテルテルから視線を外さなかった。
彼女は何かを感じていた。
戦場で攻撃が飛んでくる方向を察知する時と似た感覚。
テルテルは嘘をついている。
正確には。
嘘ではない。
重要な部分だけを意図的に言わずにいる。
それが分かった。
だが、レインはそれ以上追及しなかった。
「行くんですよね?」
「ああ」
ケンゾーが通路へ足を踏み入れた。
「全員、警戒を維持」
七人が古代施設へ入る。
最後のテルテルが扉を越えた瞬間。
背後の扉が閉じ始めた。
「ちょっと!」
ハヤッティが振り返る。
「待て待て待て! 閉まってる!」
「止められる?」
レインが尋ねる。
「俺に聞くな!」
『自動閉鎖処理』
ゲシュタルトが解析する。
『外部からの強制侵入防止機構と思われる』
「つまり?」
タケが聞く。
「帰り道が閉じたってこと?」
『現時点ではそう判断する』
「最悪じゃないですか!」
ハヤッティが扉へ駆け寄る。
完全に閉まった。
「テルテルさん! 管理者なんですよね!? 開けてくださいよ!」
「言われてもなぁ」
テルテルが壁を見る。
近くに操作盤らしきものがある。
手を伸ばす。
すると操作盤が自動で点灯した。
『管理者認証』
「ほら!」
「本人が一番嫌そうな顔してる」
レインが呟く。
「嫌だよ。こんなの」
テルテルは珍しく本気で顔をしかめた。
パネルへ触れる。
『外部隔壁――ロック』
「解除」
『拒否』
「何でだよ」
『緊急封鎖プロトコル実行中』
「権限上書き」
『拒否』
「管理者じゃなかったのかよ!」
ハヤッティが叫ぶ。
「俺に言うな!」
「こっちの台詞です!」
『ギャハハハハ!』
フールが豪快に笑う。
『面白ぇじゃねぇか! 入ったら出られねぇ!』
「笑うな!」
Bが大鎌の柄で床を軽く叩いた。
『いてぇな相棒!』
「うるさい」
ケンゾーは先へ視線を向けた。
「出口を探す。進むしかない」
「ですよね……」
ハヤッティが肩を落とす。
通路を進み始める。
驚くほど施設内は綺麗だった。
壁面に埃すらほとんどない。
空調も動いている。
数千年以上放置されていたというテルテルの言葉が本当なら、異常としか言いようがなかった。
タケが壁に手を触れようとする。
「触るな」
テルテルが鋭く言った。
タケが手を止めた。
「え?」
「あ……」
テルテル自身も、自分の声の強さに気づいたようだった。
「悪い。何が起きるか分からないから」
「はい」
タケは素直に手を引いた。
しかしケンゾーはそのやり取りを見逃さなかった。
何が起きるか分からない。
違う。
テルテルは何かが起きることを知っているように見えた。
数分進んだところで、通路が巨大なホールへ繋がった。
「……すごい」
レインが思わず足を止める。
天井まで数十メートル。
中央には巨大な円柱状の装置が存在していた。
青白い光が内部を循環し、その周囲を無数のリングが浮遊している。壁面にはいくつものカプセル状設備が並び、一部は破損していた。
そして。
ホール中央の床に。
大量の跡が残されていた。
「これ……」
タケの声が低くなる。
黒い染み。
焼け跡。
壁面へ刻まれた無数の傷。
戦闘の痕跡だった。
テルテルの目から表情が消えていく。
知っている。
ここだ。
完全に記憶が繋がった。
「……第七避難区画」
小さく言葉が漏れた。
「え?」
レインが聞き返す。
テルテルはすぐに口を閉ざした。
だが遅かった。
「今、名前言いましたよね?」
「聞き間違い」
「第七避難区画って言いました」
「亡霊さん耳もいいね」
「テルテルさん」
「はい」
「そろそろ誤魔化すの無理だと思います」
「俺もそう思い始めてる」
ハヤッティがため息を吐く。
「開き直らないでくださいよ」
その時。
『警告』
ゲシュタルトが反応した。
フールも大鎌を持ち上げる。
『来やがったな』
「どこ?」
シノンがライフルを構える。
『全周』
「全周?」
タケが眉を寄せた。
次の瞬間。
ホールの壁面に並んでいたカプセルが一斉に開いた。
白い蒸気が噴き出す。
「うわっ!」
新兵三人が背中合わせになる。
蒸気の中から。
一体。
二体。
三体。
人型の機械が歩き出してくる。
先ほど地上で戦った個体とは違う。
より大型。
全身を白銀の装甲で覆い、頭部には顔がない。
胸には同じ六翼の紋章。
右腕には長剣。
左腕には盾。
全部で十二体。
「歓迎って感じじゃないわね」
レインが銃を構える。
「歓迎ならもっと平和な格好で出てくるだろ!」
ハヤッティが返す。
『対象確認』
十二体の機械兵が一斉に顔を上げる。
『侵入者――六』
タケが眉を寄せた。
「六?」
全員が一瞬だけ反応した。
七人いる。
なのに。
『管理者――一』
機械兵の視線がテルテルへ向く。
『管理者個体を保護』
『他対象を排除』
「え」
テルテルの顔が引きつった。
「待て待て待て!」
機械兵十二体が武器を構える。
「何で俺だけ保護なんだよ!」
「管理者だからでしょう!」
ハヤッティが叫ぶ。
「今まで散々否定してましたけど!」
「こういう扱いされたいわけじゃない!」
『ギャハハハハハ!』
フールが笑う。
『良かったじゃねぇかテルテル! お前だけ安全だぞ!』
「全然良くねぇよ!」
ケンゾーがゲシュタルトを構える。
「来るぞ」
十二体の機械兵が同時に踏み込んだ。
床が砕ける。
「新人三人、固まるな!」
シノンが叫ぶ。
「了解!」
タケが右へ。
ハヤッティが中央。
レインが左へ散開する。
一体の機械兵がレインへ長剣を振り下ろした。
高速。
並の兵士なら反応すらできない。
だが。
レインは半歩だけ身体をずらした。
刃が髪のすぐ横を通過し、床へ突き刺さる。
「相変わらず!」
ハヤッティが叫ぶ。
「何でそれ避けられるんだよ!」
「来る場所が分かったから!」
「その説明で納得できるか!」
別の個体がレインへ迫る。
盾による打撃。
レインは後ろを見ないまま一歩下がった。
盾が空を切る。
そのまま機械兵の腕へ銃弾を叩き込む。
さらに背後。
三体目の刃。
レインは身体を沈めた。
剣が頭上を通過。
地面へ片手をつきながら回転し、その勢いで敵の膝関節へ蹴りを叩き込んだ。
人間相手なら意味のある一撃ではない。
だが、装甲の隙間。
可動部。
そこだけを正確に狙っている。
機械兵の姿勢が僅かに崩れる。
「タケ!」
「了解!」
タケが横から射撃。
関節部へ弾丸が集中する。
機械兵の左脚が崩れた。
「やった!」
「まだ!」
レインが叫ぶ。
倒れながら機械兵が長剣を横薙ぎに振るう。
タケの腹部を狙う一撃。
「うおっ!」
タケが後ろへ跳ぶ。
切っ先が戦闘服を僅かに掠めた。
「危なっ!」
「だから最後まで見ろ!」
ハヤッティが援護射撃を行う。
「タケ! ケンゾーさんばっか見てないで敵見ろ!」
「今は見てないだろ!」
「日頃の行いだ!」
「関係ない!」
別方向。
Bの前へ三体の機械兵が迫っていた。
『ギャハハハハ!』
フール・オブ・グレモリーが待ち望んでいたように笑う。
『いいねぇ! さっきの鉄屑より上等だ!』
「三体」
Bが大鎌を両手で構える。
『足りねぇなァ!』
「十分だ」
最初の長剣が振り下ろされる。
Bは鎌の柄で受け止めた。
金属同士の激突。
火花が飛ぶ。
残り二体が左右から挟む。
『ギャハハ! 後ろォ!』
「分かってる」
Bが大鎌を軸にして身体を回転させる。
巨大な刃が円を描いた。
一体の盾へ直撃。
衝撃で機械兵の身体が横へ吹き飛ばされる。
残る一体が突きを放つ。
Bは首を僅かに傾けただけで回避し、そのまま大鎌の柄頭を敵の胸へ叩き込んだ。
「フール」
『おう!』
刃に紫光が集まる。
「切れ」
『ギャハハハハハハッ!』
横薙ぎ。
一体の機械兵が胴体から切断された。
同時にフールの笑い声がホール中へ響き渡る。
その声を聞けば。
戦場で「笑う死神」という異名が生まれた理由など、説明する必要もなかった。
一方。
ケンゾーの前には四体。
「ケンゾーさん!」
タケが遠くから声を上げる。
「自分の敵見てろ!」
ケンゾーの返事は短い。
「はい!」
「本当に弟子みたいだな」
ハヤッティが呟く。
ケンゾーは四方向から迫る機械兵を前にしても、一歩も退かなかった。
「ゲシュタルト」
『状況解析完了』
「任せる」
『了解』
黒い武器が変形する。
右腕を覆う巨大な籠手。
機械兵の剣が振り下ろされた。
ケンゾーは真正面から掴んだ。
刃を。
「……は?」
ハヤッティが一瞬だけ目を向ける。
古代兵器で覆われた掌が長剣を完全に止めている。
ケンゾーはそのまま敵を引き寄せた。
膝蹴り。
機械兵の腹部装甲が大きく凹む。
もう一体。
横から盾。
ゲシュタルトの籠手が瞬時に変形し、肘から黒い刃が伸びる。
一閃。
盾ごと腕を切断する。
『右後方』
ゲシュタルトの声。
ケンゾーは振り返らない。
身体だけを沈める。
長剣が頭上を通過。
そのまま背後へ肘を叩き込む。
敵の頭部が砕けた。
「これが……」
タケが思わず見てしまう。
敵兵。
古代兵器。
数の差。
そんなものを問題にすらしていない。
漆黒のロングコートが翻るたびに、一体ずつ敵が倒れていく。
英雄。
ただ強いから呼ばれているのではない。
どれほど絶望的な戦場でも。
どれほど敵が多くても。
この男が現れるだけで。
まだ勝てる。
まだ生きて帰れる。
そう思わせるからこそ。
――漆黒の英雄。
「タケ!」
「うわっ!」
レインの声で我に返る。
目の前に長剣。
タケは慌ててライフルで受けた。
「見惚れてる場合じゃないわよ!」
「悪い!」
「今日何回目だよ!」
ハヤッティの声が飛ぶ。
「後で反省会だからな!」
「生きて帰ったらな!」
「縁起でもないこと言うな!」
その時。
テルテルの背後へ一体の機械兵が回り込んだ。
だが。
『管理者を保護』
機械兵は攻撃しない。
逆に、テルテルと他の隊員の間へ身体を入れる。
「邪魔!」
テルテルが拳銃を構える。
『管理者。危険区域より退避してください』
「お前らが危険なんだよ!」
『理解不能』
「こっちも理解不能だ!」
テルテルは機械兵の膝へ二発撃ち込んだ。
『管理者による攻撃を確認』
一瞬。
機械兵が動きを止める。
『命令矛盾』
「なら止まれ!」
『上位プロトコルを照合』
数秒。
その間にも周囲では戦闘が続いている。
『管理者命令を受理』
テルテルの目が見開かれた。
「……え?」
『排除行動停止』
その一体が武器を下ろした。
「テルテル!」
ケンゾーが気づく。
「全員止められるか!」
「たぶん!」
「やれ!」
テルテルは一瞬だけ躊躇した。
命令権。
残っている。
それなら。
「全警備個体!」
声を張る。
「戦闘停止! 武装解除!」
ホールに声が響く。
十二体の機械兵。
残存九体。
それらが一斉に止まった。
『管理者命令確認』
『権限照合』
沈黙。
長く感じた数秒。
『承認』
全ての機械兵が武器を下ろした。
戦闘が止まる。
「……本当に止まった」
タケが呆然とする。
「テルテルさん」
ハヤッティがゆっくり顔を向ける。
「今のどう説明するんです?」
「……俺が一番聞きたい」
「絶対違うでしょ!」
レインは息を整えながら銃を下ろした。
被弾。
ゼロ。
髪の一部が少し乱れている程度だった。
「本当に管理者なんですね」
テルテルは返事をしない。
代わりに、機械兵の一体へ近づいた。
「施設状況を報告」
『了解』
機械兵の頭部に青い光が灯る。
『施設名――第七生命保存管理区画』
テルテルの顔が強張る。
名称が違う。
自分の記憶では第七避難区画。
いつ変更された。
『稼働率――十二パーセント』
『主動力炉――休眠』
『補助炉――稼働』
『封印設備――一部破損』
全員の表情が変わる。
「封印設備?」
シノンが聞き返す。
『肯定』
テルテルが口を開く前に。
機械兵は続けた。
『封印対象の一部に活動兆候』
「対象は何だ」
ケンゾーが尋ねる。
機械兵の頭部がゆっくり彼へ向く。
『権限不足』
「テルテル」
「分かったよ」
テルテルが機械兵を見る。
「俺の権限で開示」
『承認』
テルテルの喉が僅かに動いた。
聞きたくない。
だが。
聞かなければならない。
『封印対象識別』
青い光が赤へ変化する。
『第一種世界災害指定個体』
『管理AI――EVE関連システム』
空気が凍った。
ケンゾーの頭に。
再び痛み。
「ぐっ……!」
「ケンゾーさん!」
タケが駆け寄る。
同時にシノンも額を押さえた。
「っ……何……?」
「シノン!?」
レインが支える。
Bも僅かに身体を揺らした。
「……この名前」
フールの刃が震えた。
『……知ってる』
ゲシュタルトも。
『記録領域に強制アクセス発生』
「止めろ」
ケンゾーが頭を押さえながら言う。
『不能』
断片。
また。
白い都市。
巨大な塔。
血。
黒い空。
そして。
金色の光を背負った女。
顔が見えない。
ただ。
声だけ。
――世界を、正常化します。
「……誰だ」
ケンゾーの呼吸が乱れる。
テルテルが駆け寄った。
「ケンゾー!」
「触るな!」
ケンゾーが反射的に腕を振る。
テルテルが止まる。
「……悪い」
「いや」
テルテルの顔に冗談はなかった。
「無理に思い出すな」
ケンゾーがゆっくり顔を上げる。
「……何を?」
テルテルは答えられなかった。
その時。
ホール中央の巨大装置が起動した。
低い振動音。
青白い光が強くなる。
『警告』
機械兵が一斉に反応する。
『中央保存区画――開放』
「誰が開けた!」
テルテルが叫ぶ。
『不明』
『外部命令を検知』
「外部?」
『認証コード――不明』
中央のリングが回転する。
一つ。
二つ。
三つ。
床が割れるように開いていく。
その下から巨大な円筒形カプセルが上昇した。
「……何だ、あれ」
ハヤッティの声が掠れる。
カプセルの内部。
液体。
無数のケーブル。
そして。
一人の人間。
女性だった。
長い髪。
白い衣服。
目を閉じている。
身体には無数のコードが接続されている。
「生きてるの?」
レインが小さく言った。
『生命反応あり』
ゲシュタルトが答える。
テルテルだけが。
動けなかった。
顔を知っている。
信じたくなかった。
「……嘘だろ」
カプセルの女性がゆっくり目を開く。
青白い瞳。
液体越しに。
真っ直ぐテルテルを見る。
唇が動いた。
声は聞こえない。
だが。
何を言ったのか。
テルテルには分かった。
――久しぶり。
次の瞬間。
施設全体へ警報が鳴り響いた。
『警告』
『封印対象覚醒率――上昇』
『十四パーセント』
『十五』
『十六』
「下がれ!」
ケンゾーが叫ぶ。
カプセル表面に亀裂が走る。
液体が漏れ始める。
『十七』
「B!」
「分かってる!」
Bがフールを構える。
『ギャハハ……』
だが。
その笑い声には。
初めて。
僅かな恐怖が混じっていた。
『……おいおい』
「どうした」
『あの女』
フールの大鎌が震える。
『俺、知ってるぞ』
ゲシュタルトも答える。
『同一反応確認』
ケンゾーが目を細める。
「誰だ」
フールは数秒黙った。
そして。
『名前が……出てこねぇ』
カプセルが砕けた。
大量の液体が床へ流れ出す。
女性の身体が前へ倒れる。
「テルテル!」
ケンゾーの声。
だが。
テルテルはすでに走っていた。
落下する女性を両腕で受け止める。
「おい!」
軽い。
冷たい。
だが。
生きている。
女性の瞼が微かに動く。
「……テル……テル……」
聞こえた。
確かに。
テルテルの顔から完全に血の気が引いた。
「何で……」
女性が弱々しく笑う。
「やっと……来た……」
その瞬間。
ホールの全ての照明が消えた。
「何!?」
ハヤッティが叫ぶ。
暗闇。
そして。
巨大スクリーンだけが点灯した。
黒い画面。
中央に。
金色の瞳。
『――侵入者を確認』
女性の声が施設全体へ響く。
カプセルから出た女性とは違う。
冷たい。
感情のない声。
テルテルがゆっくりスクリーンを見る。
忘れるはずがない。
あの声。
『旧文明生存個体――確認』
『テルテル』
画面の金色の瞳が細められる。
『久しぶりですね』
ケンゾーの頭痛がさらに強くなる。
シノンも。
Bも。
記憶の奥底で何かが軋む。
テルテルだけが。
その名を口にした。
「……イヴ」
金色の瞳が。
笑った。