ちいはちい―四センチの少女が百メートルになるまで―   作:a TO

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上――手のひらのきみが、私より大きくなるまで

 最初は、虫だと思った。

 

 机の上で何かが動いた。

 

 私は右手に持ったマグカップを口元まで運びかけたまま、視線だけをそちらへ向けた。

 

 午前七時を少し過ぎたところだった。カーテンは半分しか開けていなくて、十月の朝の白っぽい光が、細長く部屋の中へ差し込んでいる。

 

 昨夜遅くまで降っていた雨のせいで、窓の外はまだ濡れていた。ベランダの手すりから、ときどき水滴が落ちる。

 

 そのたびに、下から小さく金属を叩く音がした。

 

 エアコンは切っていた。

 

 少し蒸す。

 

 洗ったばかりの髪が、首の後ろに張りついていた。

 

 大学へ行くまで、あと一時間。

 

 机の上にはノートパソコンと、昨日開いたまま放置した教科書と、シャープペンシルが二本。それから、食べ終わったヨーグルトの容器をまだ捨てていなかった。

 

 動いたものは、その教科書の横にいた。

 

 黒っぽい何か。

 

 サイズは、親指の先より少し大きいくらい。

 

「……え」

 

 声を出した瞬間、それが止まった。

 

 私も止まった。

 

 止まった時間の中で、コーヒーの表面だけがゆっくり揺れていた。

 

 虫。

 

 たぶん虫だ。

 

 そう思った。

 

 思おうとした。

 

 私は虫が特別苦手というわけではない。ゴキブリならもちろん嫌だけれど、クモなら窓から逃がせるし、小さな羽虫くらいならティッシュで取れる。

 

 だから、とりあえず何の虫なのか確認しようとした。

 

 マグカップを机の端へ置く。

 

 陶器の底が、こつ、と鳴った。

 

 その音に反応して、それが動いた。

 

 二歩。

 

 後ろへ。

 

 私は瞬きをした。

 

「……は?」

 

 二歩だった。

 

 這ったんじゃない。

 

 跳ねたんでもない。

 

 歩いた。

 

 私はその場で少し腰を曲げた。

 

 ゆっくり近づく。

 

 まだ分からない。

 

 顔を近づける。

 

 視界の中で、それが少しずつ大きくなる。

 

 さらに顔を近づける。

 

 机と私の鼻先との距離が縮まっていく。

 

 それを正しく認識して、私は息を止めた。

 

 人だった。

 

 女の子だった。

 

 そう理解するまでに、たぶん二秒か三秒くらいかかった。

 

 でも、その数秒の間に私の頭の中では何度も違う考えが浮かんでは消えた。

 

 人形?

 

 フィギュア?

 

 おもちゃ?

 

 虫?

 

 いたずら?

 

 見間違い?

 

 寝ぼけている?

 

 でも、そのどれにも当てはまらなかった。

 

 女の子がいた。

 

 私の机の上に立っていた。

 

「…………」

 

 喉の奥から、空気だけが抜けた。

 

 小さい。

 

 あまりにも小さい。

 

 人差し指を横に置けば、第一関節から第二関節の途中くらいまでしかないと思う。

 

 三センチ。いや、四センチくらい。その程度だった。

 

 髪がある。黒い髪。肩より少し下まで伸びている。

 

 顔もある。当たり前だけれど、目も鼻も口もあった。

 

 小さすぎて細かな形までは分からない。それでも、その顔がこちらを向いていることだけは分かった。

 

 そして、怯えていた。

 

 私は反射的に身体を引いた。

 

「あ、ごめん」

 

 何に対して謝ったのか、自分でも分からなかった。

 

 ただ、私が顔を近づけた瞬間、その子は両腕を胸の前に寄せ、明らかに身を竦めた。

 

 それを見たら、謝らずにはいられなかった。

 

「……ごめん。びっくりしたよね」

 

 言ってから、もっと変な気分になった。

 

 私は何をしているんだろう。

 

 四センチくらいの女の子に話しかけている。

 

 朝の七時過ぎに。

 

 大学へ行く前に。

 

 自分の部屋で。

 

 夢かもしれない。

 

 そう思って、頬を抓ろうとしてやめた。

 

 夢かどうかはどうでもいい。

 

 目の前のものが消えるわけでもない。

 

 私は椅子を引いた。

 

 脚がフローリングを擦って、がん、と大きな音を立てた。

 

 小さな女の子が肩を跳ねさせた。

 

「ご、ごめん」

 

 また謝る。

 

 今度は椅子をそっと持ち上げて、音を立てないように座った。

 

 机に頬杖をつく。

 

 いや、近い。

 

 怖がらせる。

 

 すぐに腕を引っ込めた。

 

 何をどうすればいいのか分からない。

 

 女の子は教科書の脇に立ったまま、こちらを見ている。

 

 いや。

 

 見上げている。

 

 そこで初めて、その違いに気づいた。

 

 私から見れば、机の上に小さな人がいるだけだった。

 

 けれど、あの子から見れば。

 

 私はどれくらい大きいんだろう。

 

 四センチだと仮定する。

 

 私が百六十センチだから──四十倍くらい。

 

 自分の四十倍の人間。

 

 そんなものが目の前まで顔を近づけてきた。

 

 想像してみた。

 

 四十倍。

 

 六十メートルくらい。

 

「……それは怖いわ」

 

 思わず口に出した。

 

 女の子が小さく動いた。

 

 声が聞こえたのだろうか。

 

 私は黙った。

 

 部屋が急に静かになる。

 

 冷蔵庫のコンプレッサーが回る低い音。

 

 道路を走る車。

 

 上の階で何かを落としたらしく、一度だけ天井が鈍く鳴る。

 

 普段なら意識もしない音が、今日はやけに大きく聞こえた。

 

 この子には、もっと大きいのかもしれない。

 

 ふと、そんなことを思った。

 

 私は机の上を見た。

 

 シャープペンシル。

 

 消しゴム。

 

 教科書。

 

 マグカップ。

 

 昨日まで全部、ただの文房具だった。

 

 でも女の子の隣に置かれた途端、違うものに見えた。

 

 シャープペンシルは、その子の身長の三倍以上ある。

 

 消しゴムは、腰くらいまでの高さの白い箱。

 

 力学の教科書は、厚さだけでも膝近くまである。

 

 その子は、その教科書の角に片手を添えていた。

 

 寄りかかっているのか。

 

 隠れようとしているのか。

 

 分からない。

 

 私は視線を少し落とした。

 

 女の子は裸ではなかった。

 

 白っぽい服を着ている。

 

 ワンピース、だと思う。

 

 ただ、ちゃんとした衣服というには妙だった。

 

 装飾が何もない。縫い目も見えない。

 

 膝の少し上までを覆う、薄い布。

 

 足は裸足だった。

 

 その足で、私の机の木目の上に乗っている。

 

 机の表面には細かな傷がたくさんある。

 

 シャープペンシルを落としてつけた凹み。カッターで間違えて引いた細い線。コーヒーをこぼして、薄く色が残っているところ。

 

 その一つ一つが、彼女の足元では段差に見えた。

 

 急に、恥ずかしくなった。

 

 もっと机を片づけておけばよかった。

 

 そう思ってから、自分で意味が分からなくなった。

 

 なんで私は、この状況で机の汚さを気にしているんだ。

 

「……ねえ」

 

 できるだけ小さな声を出した。

 

 それでも、その子の髪がほんの少し揺れたように見えた。

 

 空気か。

 

 私の息かもしれない。

 

 私は口元を手で覆い、少し横を向いた。

 

「私の声、聞こえる?」

 

 返事はない。

 

 女の子はこちらを見ている。

 

「……分かる?」

 

 少し間を置く。

 

「日本語」

 

 女の子の口が動いた。

 

 私は思わず前へ出かけた身体を、ぎりぎりで止めた。

 

「今、何か言った?」

 

 また口が動くが、音が聞こえない。

 

 いや。

 

 何か聞こえた気もする。

 

 私は息を殺した。

 

「もう一回」

 

 女の子がこちらを見上げる。

 

 その顔は、小さすぎて表情まではほとんど分からない。

 

 ただ、口元が動いた。

 

「……ぃ」

 

 音。

 

 確かに聞こえた。

 

 蚊の羽音よりずっと小さい。

 

 私は耳を近づけようとした。

 

 でも、やめた。

 

 代わりに右手を机へ置く。

 

 彼女から二十センチほど離れた場所。

 

 手のひらを上に向けた。

 

 置いてから、私はその大きさに自分で驚いた。

 

 私の手。

 

 毎日見ている、自分の手だった。

 

 指先には少し伸びた爪。

 

 掌には何本もの皺。

 

 それが今は、馬鹿みたいに大きく見えた。

 

 彼女なら、たぶん掌の中央に立てる。

 

 指一本よりも小さい。

 

「……乗らなくていいから」

 

 私は言った。

 

「怖いよね。これ」

 

 手を引こうかと思った。

 

 でも急に動かす方が怖い気がして、そのままにした。

 

 女の子が私の手を見る。

 

 しばらく動かなかった。

 

 私も動かなかった。

 

 一分も経っていないはずなのに、妙に長かった。

 

 腕が少し疲れてくる。

 

 手首が机の角に当たって痛い。

 

 それでも動かせない。

 

 やがて、女の子が一歩踏み出した。

 

 私の指がぴくりと動きそうになって、慌てて力を抜いた。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 ゆっくり歩いてくる。

 

 机の上の木目を跨ぐ。

 

 途中で一度立ち止まり、こちらを見る。

 

「大丈夫」

 

 囁く。

 

「動かないから」

 

 自分に言い聞かせている気もした。

 

 女の子はまた歩いた。

 

 私の小指の先まで来る。

 

 立ち止まる。

 

 私の爪を見上げる。

 

 そこで、初めて実感した。

 

 この子は本当に小さい。

 

 頭ではもう理解していた。

 

 四センチ。

 

 数字にもした。

 

 でも数字とは違った。

 

 私の小指の爪が、この子の胴体ほどの幅がある。

 

 指先の皮膚の溝が、彼女の足元でははっきりした凹凸になっている。

 

 そんなものを見せつけられて、ようやく身体の方が理解した。

 

 胸の奥がざわつく。

 

 怖い。

 

 違う。

 

 怖いというより。

 

 どうすればいい。

 

 こんなに小さいものを。

 

 もし私が少し手を動かしたら。

 

 もし気づかず物を置いたら。

 

 もし床へ落ちたら。

 

 もし──。

 

「……だめだ」

 

 声が漏れた。

 

 女の子が止まる。

 

「ごめん。あなたじゃなくて」

 

 何を説明してるんだろう。

 

 私は唇を噛んだ。

 

 女の子は、しばらく私の指先を見ていた。

 

 それから。

 

 小さな両手を伸ばした。

 

 私の小指に触れた。

 

「……っ」

 

 触った。

 

 分かった。

 

 ちゃんと。

 

 ものすごく小さな感触だった。

 

 羽虫が止まったときより軽い。

 

 でも、虫とは違った。

 

 指の腹に二つ、小さな圧力がある。

 

 彼女の手だった。

 

 私は呼吸を忘れた。

 

 その子は私の小指を両手で押さえながら、片足を爪の横へ掛けた。

 

 登ろうとしている。

 

「あ……」

 

 声を出すと怖がらせる。

 

 口を閉じる。

 

 女の子は苦労していた。

 

 私の指は彼女の胸くらいの高さがある。

 

 最初の一回は足が滑った。

 

 机へ戻る。

 

 私は手を傾けようかと思った。

 

 やめる。

 

 勝手に動かさない方がいい。

 

 二回目。

 

 彼女は小指の縁に腕をかけた。

 

 身体を持ち上げる。

 

 片膝が乗る。

 

 そのまま這うようにして、私の指の上へ登った。

 

 ほんの少しだけ、重さを感じた。

 

 たぶん実際には、ほとんど感じていない。

 

 皮膚が何かに触れられたことを重さと勘違いしているだけだ。

 

 それでも私は、その感覚から目を離せなかった。

 

 彼女は私の指の上を歩いた。

 

 爪の脇から、第二関節の方へ。

 

 一歩ごとに、ごく小さく皮膚が刺激される。

 

 くすぐったい。

 

 でも動けない。

 

 女の子は親指の付け根まで来ると、私の掌へ降りた。

 

 そこで座り込んだ。

 

 力が抜けたみたいに。

 

 両脚を前へ投げ出して。

 

「……大丈夫?」

 

 聞く。

 

 女の子は顔を上げた。

 

 そして口を動かした。

 

 今度は近かった。

 

 掌の上。

 

 耳からは遠いけれど、さっきよりずっと近い。

 

 私は顔を少しだけ寄せた。

 

 息が当たらないように、横から。

 

「……こわい」

 

 聞こえた。

 

 私は動けなくなった。

 

 声だった。

 

 小さい。

 

 掠れている。

 

 でも、確かに女の子の声だった。

 

「……そっか」

 

 それ以外、何も出なかった。

 

 当たり前だ。

 

 怖いに決まっている。

 

 知らない部屋。

 

 知らない巨大な人間。

 

 机の上。

 

 裸足。

 

 自分がどうしてここにいるのかも分からないかもしれない。

 

 私は左手を持ち上げかけて、やめた。

 

 彼女を覆うようにしたら安心するだろうかと思った。

 

 でも、掌の上にいる側からしたら、さらに巨大な手が上から降りてくるだけだ。

 

 だから右手だけをそのままにした。

 

「何もしないよ」

 

 ゆっくり言った。

 

「少なくとも、勝手には触らない」

 

 女の子は私を見上げた。

 

「……ここ、どこ」

 

「私の部屋」

 

 答えてから、それでは何も分からないと思った。

 

「日本。横浜」

 

 反応はない。

 

「分かる?」

 

 女の子は少し俯いた。

 

 掌の皺を見ている。

 

 裸足の足先が、その一本に触れていた。

 

 私はその姿を見ながら、急に時計の音が気になった。

 

 机の端に置いたスマートフォン。

 

 七時二十一分。

 

 一限は九時から。

 

 八時過ぎには家を出たい。

 

 そんな予定が、頭の中に浮かぶ。

 

 浮かんで。

 

 消えた。

 

 行けるわけがない。

 

 いや、大学どころじゃない。

 

 警察。

 

 病院。

 

 保健所。

 

 どこへ連絡するんだ。

 

 こんな場合。

 

 スマートフォンへ目を向ける。

 

 そして、掌の上の女の子を見る。

 

 誰かに電話して、何と説明する。

 

 四センチくらいの女の子がいます。

 

 人間です。

 

 たぶん。

 

 保護しました。

 

 捕まえてください。

 

 ──捕まえる。

 

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、嫌な感じがした。

 

 私は女の子を見た。

 

 彼女はまだ私の掌の上に座っていた。

 

 膝を抱えるでもなく、泣くでもなく、ただ小さく身体を縮めている。

 

 朝の光が、彼女の髪に当たっていた。

 

 その黒い髪の一本一本まで、私には見えない。

 

 それくらい小さい。

 

 でも生きている。

 

 息をしている。

 

 怖がっている。

 

「……とりあえず」

 

 私は言った。声をできるだけ落として。

 

「朝ごはん、食べる?」

 

 女の子が顔を上げた。

 

 私はそこで初めて、自分がさっきから何も飲んでいなかったことに気づいた。

 

 机の端のコーヒーは、もう湯気を立てていなかった。

 

 *

 

「朝ごはん、食べる?」

 

 女の子は、すぐには答えなかった。

 

 私の掌の上で、ほんの少しだけ首を傾ける。

 

 意味が分からなかったのか、それとも、何を食べるのか警戒したのか。

 

 どちらにしても、この大きさの人間に何を出せばいいのかなんて私にも分からない。

 

「……パンとか」

 

 言ってから、パンは大きすぎるなと思う。

 

「いや、ちぎればいいか。ヨーグルトもあるし……」

 

 机の上に残っている空の容器を見て、冷蔵庫にもう一個あったことを思い出した。

 

 女の子は反応しない。

 

「ご飯の方がいい?」

 

 まだ反応しない。

 

「そもそも、お腹空いてる?」

 

 少し間があった。

 

「おなか」

 

 私がおなかを指すと、彼女は、自分の腹のあたりを見た。

 

 白い服の上から、小さな手で触れる。

 

「……わかんない」

 

「分かんない?」

 

 こく、と頷いた。

 

 私は眉を寄せた。

 

 分からないって何だ。

 

 空腹というものを知らないのか。

 

 それとも、今それどころじゃないだけなのか。

 

「じゃあ、とりあえず何か持ってくるね」

 

 立ち上がろうとした。

 

 その瞬間。

 

「あ」

 

 右手の上で小さな声がした。

 

 私は動きを止めた。

 

「ん?」

 

 女の子が立ち上がっていた。

 

 そして、私の掌の中央から指の方へ歩いてくる。

 

「どうしたの?」

 

 返事はない。

 

 さっきより歩くのが少し速い。

 

 指の付け根を越え、人差し指の側面に両手をつく。

 

 そのまま、ぎゅ、と身体を寄せた。

 

「……?」

 

 私は腕を中途半端に持ち上げた姿勢のまま固まった。

 

 女の子は私の人差し指に抱きついていた。

 

 正確には、抱きつくというより、全身を押し当てている。

 

 頬。

 

 胸。

 

 腕。

 

 腹。

 

 片脚まで。

 

 私の指一本に。

 

「……どうしたの」

 

 聞くと、ほんの少しだけ顔を動かした。

 

「ここ」

 

「ここ?」

 

「……あったかい」

 

 思わず左手の指を見る。

 

「私?」

 

 女の子は頷いた。

 

 それから、また頬を押しつける。

 

 ぺた、と。

 

 子どもが暖房に手を当てるみたいな無防備さだった。

 

「……そんなに?」

 

「うん」

 

 今度は答えが早かった。

 

 私はしばらくそのまま眺めていた。

 

 朝の部屋は、たしかに少し涼しい。

 

 雨上がりだから湿気はあるけれど、窓際には冷たい空気が溜まっている。私は普通に半袖で過ごせる程度だが、四センチしかない身体なら事情が違うのかもしれない。

 

 表面積がどうとか。

 

 熱容量がどうとか。

 

 そんなことを頭の中で計算しかける。

 

 でも、この子が普通の人間なら、そもそも四センチで生きていられること自体がおかしい。

 

 私は左手の指先で机に触れた。

 

 冷たい。

 

 次に自分の頬。

 

 当たり前だけど、温かい。

 

「寒かったの?」

 

 女の子は少し考えた。

 

「……さむい」

 

「ずっと?」

 

 また考える。

 

「ここ、つめたい」

 

 彼女は私の指にくっついたまま、机の上を指した。

 

「手は?」

 

「あったかい」

 

 明確だった。

 

 私はその答えを聞きながら、さっきまでの彼女の様子を思い返した。

 

 教科書の脇。

 

 ほとんど動かなかった。

 

 歩くときも、ずいぶん慎重だった。

 

 怯えているからだと思っていた。

 

 もちろん、それもあるだろう。

 

 でも。

 

 私の手に乗ってから。

 

 少しずつ。

 

 声がはっきりしてきた。

 

 歩き方も。

 

「……まさか」

 

 呟く。

 

 女の子がこちらを見る。

 

「いや、なんでもない」

 

 私は左手をそっと近づけた。

 

 触らない。

 

 ただ、左手の掌を彼女の背中から数センチ離れた位置に立てる。

 

 女の子の髪がわずかに揺れた。

 

 そして。

 

 彼女は迷わなかった。

 

 私の人差し指から離れ、左手の方へ歩いていく。

 

 掌の端まで来る。

 

 そこで両腕を伸ばした。

 

「……そっち?」

 

「うん」

 

 私は笑いそうになった。

 

 なんで。

 

 さっきまで私の顔を見るだけで身を竦めていたのに。

 

 手ならいいのか。

 

 いや。

 

 怖くないわけじゃないのかもしれない。

 

 彼女は左手に移る直前、一度だけ私を見上げた。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 確かめるような目。

 

 大丈夫か。

 

 動かないか。

 

 落とさないか。

 

 そう聞かれている気がした。

 

「いいよ」

 

 小さく言う。

 

「動かさないから」

 

 彼女は私の左手へ移った。

 

 今度は掌の真ん中まで歩かず、親指の付け根に身体を寄せて座った。

 

 すぐに肩から力が抜ける。

 

「……あったかい?」

 

「うん」

 

 今度の声は、ほんの少し柔らかかった。

 

 私はそこで、妙なことに気づいた。

 

 彼女自身は、ほとんど温かくない。

 

 さっき指に抱きつかれたときも、触れられている感触はあった。

 

 けれど、人の肌が触れたとき特有の温度を、あまり感じなかった。

 

 冷たいわけではない。机よりはずっとましだ。

 

 でも、私より明らかに低い。

 

 小さな身体だから冷えやすい?

 

 それなら説明はつく。

 

 ベルクマンの法則かも。たぶん。

 

「ちょっと待ってて」

 

 頭の中の法則を振りきって、今度こそ立ち上がろうとする。

 

 女の子がすぐ顔を上げた。

 

 両腕が私の親指へ回る。

 

「……あ」

 

 止まる。

 

「離れたくない?」

 

 答えはない。

 

 ただ、指を掴む力が少し強くなった。

 

 もちろん、私にはほとんど力として感じられない。

 

 でも、その動きで分かった。

 

「……困ったな」

 

 言いながら、困っているわりには嫌ではなかった。

 

 むしろ少しだけ、

 

 本当に少しだけ、安心した。

 

 さっきまで、この子にどう接したらいいのか全然分からなかった。

 

 何を言えばいいのか。

 

 どこまで近づいていいのか。

 

 触れていいのか。

 

 何をしたら怖がらせるのか。

 

 何をしたら喜ぶのか。

 

 でも少なくとも、一つだけ分かった。

 

 この子は私の手を嫌がっていない。

 

 それどころか。

 

 必要としている。

 

 胸の奥にあった妙な緊張が、少しだけほどけた。

 

「じゃあ一緒に行く?」

 

 女の子が私を見る。

 

「台所」

 

 私は左手を胸の高さまでゆっくり持ち上げた。

 

 女の子の身体が揺れる。

 

 慌てて親指にしがみつく。

 

「ごめん、ごめん」

 

 止める。

 

「これ怖いね」

 

 床から私の胸まで。

 

 彼女にしてみれば、何十メートルも一気に持ち上げられた感覚なのかもしれない。

 

 左手をなるべく水平にする。

 

「落とさないよ」

 

 言っても、怖いものは怖いだろう。

 

 それでも彼女は降りようとはしなかった。

 

 むしろ私の親指に身体を寄せ、足を開いて掌の皺を踏ん張る。

 

 私は右手を軽く添えた。

 

 壁を作るだけ。

 

 囲わない。

 

「行くよ」

 

 一歩。

 

 フローリングが鳴る。

 

 掌の上で身体が揺れる。

 

 女の子の腕に力が入る。

 

 二歩目から、私は普段よりずっとゆっくり歩いた。

 

 自分の部屋から、狭い廊下へ。

 

 ほんの数メートル。

 

 毎日何度も通っている距離。

 

 なのに今日は妙に遠かった。

 

 足を下ろすたび、自分の身体がどれだけ揺れているのか意識してしまう。

 

 腕を振らない。

 

 急に曲がらない。

 

 掌を傾けない。

 

 階段でも運んでいるみたいに慎重になる。

 

 女の子は途中から親指にしがみつくのをやめた。

 

 代わりに、掌の中央に座っている。

 

 それでも手の端には近づかない。

 

 冷蔵庫を開ける。

 

 冷気が流れ出した。

 

「ひっ」

 

 小さな声。

 

 次の瞬間、女の子が立ち上がり、私の親指の陰に隠れた。

 

「寒い?」

 

 こくこく。

 

 今までで一番はっきりした反応だった。

 

「ごめん」

 

 すぐ閉める。

 

 冷蔵庫からヨーグルトを出すつもりだったのに、取り損ねた。

 

 女の子は親指にぴったり身体を寄せている。

 

「……冷たいの、だめなんだ」

 

「きらい」

 

 即答だった。

 

 私は少し笑った。

 

 女の子がこちらを見る。

 

「ごめん。笑ったんじゃなくて」

 

 何を笑ったんだろう。

 

 たぶん、初めて彼女が「嫌い」とはっきり言ったからだ。

 

 何が好きで、何が嫌いか。

 

 それだけで少し人間らしく見える。

 

「じゃあ温かいものにしようか」

 

 ケトルに水を入れた。

 

 スイッチを押す。

 

 私は左手に彼女を乗せたまま、右手だけで作業をする。

 

 ものすごく不便だった。

 

 コップを取る。

 

 パンを出す。

 

 皿を取る。

 

 袋を開ける。

 

 全部片手。

 

 でも彼女を机へ戻そうとは思わなかった。

 

 さっき冷たいのが「きらい」と言った声を聞いてしまったから。

 

「……手、好きなの?」

 

 聞いてみる。

 

 女の子は親指にもたれたまま、少し考えた。

 

「すき」

 

「温かいから?」

 

「うん」

 

「私じゃなくても?」

 

 聞いてから、変な質問だと思った。

 

 彼女も分からなかったらしい。

 

 首を傾げる。

 

「温かければ何でもいいのかな」

 

 ケトルが音を立て始める。

 

 その振動に、彼女が少しだけ顔を向けた。

 

 お湯が沸く。

 

 私はマグカップに少しだけ注いだ。

 

 湯気が立つ。

 

「これは?」

 

 掌を近づけすぎないようにして見せる。

 

 女の子は少し身を乗り出した。

 

 興味はありそうだった。

 

「温かいよ」

 

 私は右手の指をカップの側面へ当てる。

 

「というか熱いけど」

 

 女の子も近づこうとした。

 

 けれど、慌てて身を引く。

 

 彼女が私を見る。

 

「あつい」

 

 そう言って、彼女はカップを見つめた。

 

 それから、私の親指へ頬をつける。

 

「こっち」

 

「こっちがいい?」

 

「うん」

 

 私はマグカップを離して置いた。

 

 また少し妙な気持ちになる。

 

 温かいものが好き。

 

 それなら湯気でも、このカップでもいいはずだ。

 

 でも、この子は私の手を選んだ。

 

 人肌くらいがちょうどいい?

 

 熱すぎても駄目。

 

 冷たすぎても駄目。

 

 三十数度。

 

「……充電じゃないんだから」

 

 ぽつりと言う。

 

「じゅうでん?」

 

「ううん」

 

 私は首を振った。

 

 でも、その言葉だけが頭に引っかかった。

 

 充電。

 

 さっきより声が出るようになった。

 

 動きも明らかに良くなった。

 

 手の上に乗ってから。

 

 温まってから。

 

 偶然かもしれない。

 

 だが、そう考えると妙に納得がいった。

 

「ねえ」

 

「うん」

 

「さっき机の上にいたとき、動けなかった?」

 

 彼女は黙った。

 

 考えている。

 

「寒かったから?」

 

 少しして、頷く。

 

「うごかない」

 

 背中がぞくりとした。

 

「……寒いと?」

 

「うん」

 

「温かいと?」

 

 彼女は私の掌の上で立ち上がった。

 

 そして。

 

 意味を伝えようとしているのか、その場で二歩ほど歩いた。

 

 行って。

 

 戻る。

 

「うごく」

 

 私は何も言えなかった。

 

 ただ小さい人間なんじゃない。

 

 そう思った。

 

 それまでにも十分おかしかったはずなのに、初めてはっきりそう感じた。

 

 四センチしかない。

 

 どこから来たか分からない。

 

 記憶も曖昧そう。

 

 それでも、人間に見える。

 

 人間の声で話す。

 

 怖がる。

 

 寒がる。

 

 温かい場所を好む。

 

 体温をもらわなければ、身体がまともに動かない。

 

「あなた……」

 

 言葉が止まる。

 

 何者。

 

 そう聞こうとした。

 

 でも、やめた。

 

 この子に聞いても分からない気がした。

 

 それに、もし答えが返ってきたら。

 

 少し怖かった。

 

「名前は?」

 

 代わりに聞いた。

 

 女の子が瞬きをする。

 

「名前」

 

 自分を指す。

 

「私は──」

 

 一瞬、自分の名前を言おうとして、なんとなくやめた。

 

「あなたは?」

 

 彼女は黙っている。

 

「名前、分かる?」

 

 長い沈黙。

 

 やがて小さく首を横に振った。

 

「ないの?」

 

 また首を振る。

 

 ないのか、分からないのか。

 

 その違いまでは判断できなかった。

 

「そっか」

 

 私は台所の椅子に座った。

 

 掌をテーブルに近づける。

 

 でも彼女は降りなかった。

 

「名前ないと、不便だね」

 

「ふべん?」

 

「呼べないから」

 

 言いながら、私は女の子を見る。

 

 掌の上。

 

 四センチくらい。

 

 白い服。

 

 裸足。

 

 私の親指の付け根に寄りかかっている。

 

「……何がいいかな」

 

 本人に聞いても仕方がない。

 

「好きなものある?」

 

「あったかい」

 

「それは知ってる」

 

 思わず笑う。

 

 彼女はまた首を傾げた。

 

「温とか、陽とか……」

 

 考える。

 

 でも、いきなり立派な名前をつけるのも妙だった。

 

 そもそも、これは正式な名前じゃない。

 

 一時的な呼び名。

 

 今日一日だけかもしれない。

 

 明日には誰かに保護されているかもしれない。

 

 そう思った途端、胸のあたりに少しだけ引っかかるものがあった。

 

 何だろう。

 

 まだ会って一時間も経っていない。

 

 なのに。

 

 掌の上が空になる光景を想像したら、妙に寒々しく感じた。

 

 私はその感覚をごまかすように、彼女の大きさを見直した。

 

 小さい。

 

 本当に。

 

 何度見ても、小さい。

 

 人差し指一本より少し大きいだけ。

 

「……ちい」

 

 口から出た。

 

 女の子が顔を上げる。

 

「小さいから」

 

 言ったあとで、あまりに安直だと思った。

 

「いや、適当すぎるか」

 

「ちい」

 

 彼女が繰り返す。

 

「うん。『小さい』の、ちい」

 

「ちい」

 

 もう一度。

 

 今度は、自分の胸に手を当てた。

 

「ちい?」

 

 私は少し迷った。

 

 こんなのでいいのか。

 

 もっとちゃんと考えた方が。

 

 でも、その子は自分の胸に手を置いたまま、こちらを見ていた。

 

 さっきまでとは少し違う顔だった。

 

 表情までは細かく見えない。

 

 それでも。

 

 待っているのは分かった。

 

「……うん」

 

 私は頷いた。

 

「ちい」

 

 そう呼んだ。

 

 彼女の肩が、ほんの少し上がった。

 

「あなたは、ちい」

 

「ちい」

 

「そう」

 

 私はもう一度言った。

 

「よろしくね、ちい」

 

 ちいはしばらく私を見上げていた。

 

 それから。

 

「よろしく」

 

 小さな声で言った。

 

 胸の奥が、わずかに温かくなった。

 

 変なの。

 

 温かいのが必要なのは、この子の方なのに。

 

 ちいはまた私の親指に頬をつけた。

 

 さっきより自然に。

 

 最初からそこが自分の場所だったみたいに。

 

 私は反対の手でパンを食べながら、ときどき左手を見る。

 

 四センチの女の子。

 

 ちい。

 

 名前をつけた途端、それまでの「何か」が、急に近くなった。

 

 得体の知れないもの。

 

 あり得ない現象。

 

 そういう言葉が向こう側へ、少しだけ遠ざかった。

 

 ちいは小さい。

 

 私の手に収まるほど小さい。

 

 指に抱きつかなければ体温を十分に保てないほど小さい。

 

 だから、その名前にした。

 

 そのときの私は、それで十分だと思っていた。

 

 彼女がそれ以上の大きさになることなんて。

 

 考える理由が、まだどこにもなかった。

 

 *

 

 名前をつけたからといって、分からないことが減ったわけではなかった。

 

 むしろ増えた。

 

 ちいは、私がちぎったパンを食べなかった。

 

 パンを小さくちぎって、掌の上に置いても、彼女は首を振るだけだった。

 

 水も飲ませようとしてみた。

 

 ティースプーンの先へほんの少しだけ水を溜め、ちいに近づけた。

 

「落ちないでね」

 

 自分でも変な言い方だと思った。

 

 ちいはスプーンの縁へ両手をつき、水を覗き込んだ。たった一滴でも、彼女には小さな池に近い。ちいが顔を寄せると髪の先が水へ触れ。嫌そうに後ろへさがった。

 

 そして元の位置へ戻る。

 

 結局水も飲まなかった。

 

 けれど、それを見ているうちに、私の緊張が少しづつほぐれた。

 

 もちろん、状況がおかしいことは変わらない。

 

 机の上に四センチの女の子がいる。

 

 今でも文章にすると頭がおかしくなりそうだ。

 

 それでも、一つ一つの行動は普通だった。

 

 あたたかいものが好き。

 

 髪が濡れるのを嫌がる。

 

 寒いと私の手へ寄ってくる。

 

 そういう小さな反応を見ていると、「何なのか」より先に、「どうすれば困らないか」を考えるようになった。

 

 大学には休むと連絡した。

 

 体調不良、と書いた。

 

 嘘ではないと思う。

 

 こんなものを見つけて平然と講義に出られる精神状態なら、そっちの方がたぶんおかしい。

 

 スマートフォンで送信を押してから、私はちいを見た。

 

「今日、一日ここにいるから。大学には行かない」

 

 ちいは私の左手の上で、親指へ背中を預けていた。

 

「だいがく?」

 

「学校みたいなところ」

 

「いかない?」

 

「今日はね」

 

 すると、ちいはほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

 それを見てしまった。

 

 見てしまうと、なんだか行かなくて正解だった気がした。

 

 別に私のために休んだわけではない、と自分に言い聞かせる。

 

 ちいを一人にしておけなかっただけだ。

 

 それだけ。

 

 たぶん。

 

 午前中、私はほとんどを机の前で過ごした。

 

 ちいのための場所を作ろうとした。

 

 まず、空き箱。

 

 通販で届いたイヤホンの箱がちょうどよさそうだったので、中の仕切りを外して机の上へ置いた。

 

「家」

 

 私がそう言うと、ちいは箱を見上げた。

 

 高さは五センチくらい。

 

 ちいより少し高い。

 

 中へ入るためには、外側から見ると胸くらいまである縁を越えなければならない。

 

「……無理か」

 

 指を入れ、箱を横倒しにした。

 

「これなら?」

 

 ちいは入口まで歩いていく。

 

 白い紙箱の中は、彼女には小さな部屋くらいの広さだった。

 

 とりあえずティッシュを折って敷く。

 

 上にハンカチを重ねる。

 

「ベッド」

 

「べっど」

 

「寝るところ」

 

 ちいは中へ入った。

 

 数歩歩いて。

 

 座る。

 

 ハンカチに触れる。

 

 それから、顔を上げた。

 

「つめたい」

 

「……だよね」

 

 忘れていた。

 

 私は額へ手を当てた。

 

 この子にとっては、寝床が柔らかいかどうかより先に温かいかどうかなのだ。

 

 とりあえず、自分の手でハンカチをしばらく握って温めてみた。

 

 箱へ戻す。

 

「これは?」

 

 ちいは足を乗せる。

 

 少し考える。

 

「さっきよりいい」

 

「でしょう」

 

 ちょっと得意になった。

 

 でも五分もすると、また冷える。

 

 ちいの表情も分かりやすかった。

 

 最初は箱の中を歩き回っていたのに、時間が経つにつれて動きが減り、最後には膝を抱えて座り込む。

 

「……だめか」

 

 結局、私は彼女を掌へ戻した。

 

 ちいはすぐに座った。

 

 今度は最初から親指の付け根へ身体を預ける。

 

「ここがいい?」

 

「ここ、すき」

 

「そっか」

 

 それは少し困る。

 

 ずっと手の上へ乗せているわけにはいかない。

 

 けれど。

 

 困ると思いながら、私はしばらく降ろさなかった。

 

 左手を机へ置き、右手だけでスマートフォンを操作する。

 

 人肌程度の温度を一定に保つ方法。

 

 検索欄へそこまで打って、消した。

 

 何を調べているんだ私は。

 

 使い捨てカイロ。

 

 USBのカップウォーマー。

 

 冬用の電気毛布。

 

 いくつか思いついたが、どれも温度が高すぎる気がする。

 

「ちい」

 

「うん」

 

「熱いのは嫌い?」

 

「いや」

 

「どのくらい?」

 

 質問が悪かった。

 

 ちいは首を傾げた。

 

 私は自分の手を示した。

 

「これは?」

 

「すき」

 

「さっきのマグカップは?」

 

 離れたカップを指さす。

 

「……いや」

 

「机は?」

 

「いや」

 

 ちいの適温は人肌くらい。

 

 それより低いと動きにくくなり、高いと嫌がる。

 

 生き物というより、機械みたいだった。

 

 でも、機械なら温かい方へ自分から寄っていくだろうか。

 

 好き、と言うだろうか。

 

 私は親指の横で丸くなっているちいを見る。

 

 見た目はどう考えても人間だった。

 

 耳。

 

 指。

 

 髪。

 

 小さな爪まである。

 

 ただし、私の目では細部までは追えない。

 

「……顕微鏡ほしいな」

 

「けんびきょう?」

 

「いや、あなたを見るために使ったら嫌がりそう」

 

 ちいは意味が分からず、また首を傾げた。

 

 昼前になると、彼女は眠った。

 

 それも私の掌の上で。

 

 眠る直前まで、ちいは起きていると言い張っていた。

 

「眠いでしょ」

 

「ねむくない」

 

「目、半分閉じてるよ」

 

「へいき」

 

「無理しなくていいって」

 

「へいき」

 

 その五分後には寝ていた。

 

 私は笑いそうになったが、起こすのも嫌で、口元だけで止めた。

 

 眠っているちいを見るのは不思議だった。

 

 起きているときより、さらに小さく見える。

 

 膝を曲げ、両腕を胸の前へ寄せている。

 

 黒い髪が私の掌へ広がる。

 

 呼吸をしている。

 

 ごく小さく。

 

 胸が上下するのが、じっと見ていれば分かる。

 

 私はしばらく、何もできなかった。

 

 スマートフォンを取れば手が傾く。

 

 立ち上がれば揺れる。

 

 だから左腕を机に置き、右手で頬杖をついて、ただ見ていた。

 

 馬鹿みたいだと思う。

 

 四センチの女の子が昼寝をしているから動けないなんて。

 

 それでも。

 

 落としたくなかった。

 

 起こしたくなかった。

 

 私の掌が冷えたら困る気もした。

 

 そのとき、ふと思った。

 

 朝、最初に見つけたとき。

 

 ちいは教科書の脇にいた。

 

 じっとしていた。

 

 私が近づいたとき、怖がっていた。

 

 それでも最終的には自分から手の方へ来た。

 

 あれは。

 

 勇気を出したんだろうか。

 

 それとも。

 

 温かさが必要だっただけなんだろうか。

 

 もし後者なら。

 

 怖くても、私のところへ来るしかなかった。

 

 その想像をした瞬間、胸の奥が少しだけ締まった。

 

 朝のちいの姿を思い出す。

 

 教科書の陰。

 

 白い服。

 

 裸足。

 

 あれだけ小さい身体で、何も知らない部屋に一人。

 

 目の前に、自分の何十倍もある人間がいる。

 

 怖かったはずだ。

 

 それでも近づいた。

 

 私の手へ。

 

「……よく来たね」

 

 気づいたら、声に出ていた。

 

 ちいは起きない。

 

 私は指を動かさなかった。

 

 触ることもしなかった。

 

 ただ、じっとしていた。

 

 午後一時過ぎ。

 

 ちいが起きた。

 

「おはよう」

 

「……おはよう」

 

「昼だけどね」

 

 ちいは寝ぼけているのか、反応しなかった。

 

 代わりに大きく伸びをした。

 

 両腕を上へ。

 

 脚も伸ばす。

 

 そのときだった。

 

 何か。

 

 引っかかった。

 

 私は目を細めた。

 

「……ん?」

 

 ちいがこちらを見る。

 

「ちょっと立って」

 

「?」

 

「いいから」

 

 ちいは掌の上で立ち上がった。

 

 私は顔を近づける。

 

 近づけすぎないように。

 

 朝と同じくらいの距離。

 

 何かが違う。そう思った。

 

 でも分からない。

 

「こっち来て」

 

 私はちいを机の上へ降ろした。

 

「さむい」

 

「ちょっとだけ。我慢して」

 

 ちいは不満そうだった。

 

 それでも机の上へ立つ。

 

 私はシャープペンシルを横に置いた。

 

 違う。分かりづらい。

 

 消しゴム。

 

 朝と同じ位置。

 

 さらに。

 

 私は引き出しから定規を出した。

 

「じっとしてて」

 

「なにする?」

 

「測る」

 

 透明な十五センチ定規を、ちいの横へ立てる。

 

 目盛りを読む。

 

 水平に見る。

 

 四センチと

 

 一ミリ。

 

 二ミリ。

 

「……四・三?」

 

 もう一度見る。

 

 定規を動かす。

 

 机に対して垂直になっているか確認する。

 

 できるだけ真横から見る。

 

 ちいの髪の上端。

 

 四・三センチ。

 

 少なくとも、そう見える。

 

「ちい、朝って何センチだったっけ」

 

 ちいは首を傾げる。

 

「だよね」

 

 私は自分の記憶を探った。

 

 四センチくらい。

 

 指と比較して。

 

 厳密に測ってはいない。

 

「待って」

 

 スマートフォンを取る。

 

 写真。

 

 撮ってない。

 

 当たり前だ。

 

 朝の時点では、写真を撮ろうなんて発想すらなかった。

 

 私は机の上のちいを見る。

 

 白い服。

 

 黒い髪。

 

 裸足。

 

 何も変わっていない。

 

 ように見える。

 

 でも。

 

 朝より少しだけ。

 

 本当にほんの少しだけ。

 

 大きい。

 

 気がする。

 

「……いや」

 

 自分で否定する。

 

 錯覚だ。

 

 朝は慌てていた。

 

 正確な大きさなんて見ていない。

 

 四センチという数字だって、私が勝手に出しただけだ。

 

「どうしたの?」

 

「なんでもない」

 

 私は定規を寝かせた。

 

 でも。

 

 胸のどこかに、小さな違和感が残った。

 

「戻っていいよ」

 

 掌を出す。

 

 ちいは待ってましたというようにすぐ乗った。

 

「さむかった」

 

「ごめん」

 

 親指の付け根まで歩いていく。

 

 座る。

 

 頬をつける。

 

 いつもの位置。

 

 私はその姿を見ていた。

 

 朝より。

 

 少しだけ。

 

 私の親指が小さく見えた。

 

 ほんの少し。

 

 気のせいと言われれば、それで終わる程度の差。

 

 だから。

 

 そのときの私は、深く考えなかった。

 

 ちいは温かさが必要で。

 

 私はそれを与えられる。

 

 それで十分だった。

 

 彼女が昨日まで何センチだったのか。

 

 明日、何センチになっているのか。

 

 まだ私は。

 

 そこまで考えていなかった。

 

 *

 

 翌朝、目を覚ましたとき、左腕が痺れていた。

 

 身体を起こそうとして、その理由を思い出す。昨夜、ちいをどうやって寝かせるか散々悩んだ末、私はベッドの枕元に小さな箱を置き、その中へ手を入れたまま眠ったのだった。

 

 箱の中には、昨日作ったハンカチの寝床。その横に私の左手がある。

 

「……いた」

 

 声が掠れた。

 

 ちいは私の人差し指と中指の間に挟まるようにして眠っていた。両腕で人差し指を抱え、頬までぴったりくっつけている。

 

 夜中に私が寝返りを打たないよう、腕を抱え込むような変な姿勢で寝ていたせいで、肩まで痛い。

 

 それでも、ちゃんとそこにいることを確認すると、安心が勝った。

 

「ちい。朝だよ」

 

 指をほんの少し動かす。

 

 ちいの眉間が寄った。

 

「……や」

 

「や、じゃない。起きて」

 

「へいき」

 

「昨日もそんなこと言ってたね」

 

 返事がなくなった。

 

 二度寝する気らしい。

 

 私は笑いながら枕元のカーテンへ手を伸ばした。右手だけでは少しやりづらく、身体を捻って端を掴み、そのまま一気に開ける。

 

 朝の光が部屋へ入った。

 

 昨日とは違う、ちゃんと晴れた朝だった。窓ガラスを通った陽射しがベッドの端から床へ斜めに落ち、白いシーツの上を明るくしている。

 

 その光が、箱の端にも触れた。

 

「……ん」

 

 ちいが動いた。

 

 私はまだ眠い目でそれを見た。

 

 人差し指を抱いていた腕を離し、身体を起こす。少しぼんやりしたまま周囲を見回したあと、明るくなった箱の入口へ顔を向けた。

 

「おはよう」

 

「……あっち」

 

「ん?」

 

 ちいが指差す。

 

 窓。

 

 正確には、その手前のシーツにできた日向だった。

 

「あっち行きたいの?」

 

「うん」

 

 昨日までなら、私の手から自分で離れようとすることなんてほとんどなかった。

 

 少し意外に思いながら、私は箱ごとちいをベッドの上へ移した。ただし日向の真ん中には置かず、その少し手前で止める。

 

「熱かったら戻るんだよ」

 

 ちいはもう聞いていなかった。

 

 箱から出ると、ハンカチの坂を下り、シーツの上へ足をつける。

 

 柔らかい布に足が沈み、最初の一歩で少しよろけた。それでも転ばずに進んでいく。

 

 昨日まで机の木目すら大きな段差だったちいにとって、シーツはかなり歩きづらそうだった。

 

 布の皺に出会うたび、足を高く上げたり、両手をついて登ったりする。

 

 私は横になったまま、その姿を眺めていた。

 

 やがてちいの足先が光の中へ入った。

 

 一歩。

 

 もう一歩。

 

 全身が日向へ出る。

 

 そこで止まった。

 

「どう?」

 

 返事がない。

 

「ちい?」

 

「……あったかい」

 

 声が、明らかに嬉しそうだった。

 

 そのまましゃがみ込み、両手でシーツへ触れる。昨日までなら冷たい布を嫌がっていたのに、朝日に照らされたそこはもう十分温まっているらしい。

 

 ちいはしばらく手のひらで感触を確かめ、それから唐突に身体を倒した。

 

「え」

 

 うつ伏せ。

 

 両腕を前へ伸ばし、脚まで真っ直ぐ伸ばして、シーツへ全身をくっつける。

 

「……何してるの?」

 

「あったかい」

 

「それは分かったけど」

 

「きもちいい」

 

 私は少し黙った。

 

 昨日は私の指に同じことをしていた。

 

 頬から腹まで、なるべく広い面積を押しつけて温まろうとしていた。今はその相手が日向のシーツになっただけだ。

 

「日光浴みたい」

 

「にっこうよく?」

 

「日に当たって温まること」

 

「これ、にっこうよく?」

 

「うん、まあ」

 

「すき」

 

「でしょうね」

 

 ちいは完全に気に入ったらしい。

 

 その後、十分ほどほとんど動かなかった。途中で仰向けになり、今度は顔を日に向ける。目を閉じ、両腕を身体から少し離して、光を浴びていた。

 

 私はベッドの上に肘をつき、その様子を見る。

 

 小さな黒い髪が、光の中では少し茶色く透けていた。

 

 昨日はずっと、私の手から離せないことを気にしていた。

 

 トイレへ行くのにも一苦労したし、料理も片手だった。お風呂の間はさすがに連れていけず、私が着ていたパジャマを丸め、その内側にちいを入れて急いで済ませた。

 

 日向でもいいのなら、少し楽になる。

 

「じゃあ昼間はここにいてもらおうかな」

 

 ちいは目を閉じたまま返事をした。

 

「ここいる」

 

「決断早いなあ」

 

 私が右手の人差し指を近くへ置いても、昨日みたいにすぐ抱きついてはこなかった。指先へ片手だけ触れ、それからまた離す。

 

 暖かさを比べたのかもしれない。

 

「どっちが好き?」

 

 聞いてみる。

 

 ちいは少し考えたあと、私の指を両手で掴んだ。

 

「これ」

 

「じゃあなんで離れるの」

 

「こっちもすき」

 

「なるほど。贅沢になったね」

 

 意味は分からなかったらしいが、ちいは気にせず指から手を離した。

 

 私はそのまま起き上がり、洗面所へ向かった。

 

 昨日までなら、何度も振り返ったと思う。でも今日は日向の中にちいがいる。ちゃんと動いているし、機嫌もいい。それだけで少し安心できた。

 

 顔を洗い、歯を磨き、戻ってくる。

 

 十分も経っていない。

 

 ちいはまだ日光浴をしていた。

 

「飽きないね」

 

「すき」

 

「知ってる」

 

 私はベッドへ腰掛けた。

 

 横で、仰向けのまま伸びをするちい。

 

 止まった。

 

 何かがおかしい。

 

 昨日も似た感覚があった。

 

 昼寝から起きたちいを見たとき、ほんの少しだけ違って見えた。定規で測ると四・三センチだった。でも朝の数字がなかったから、結局は気のせいで済ませた。

 

 今日は違う。

 

 昨日、寝る前に測った。

 

 四・四センチ。

 

 スマートフォンにも記録した。写真も撮った。定規の横に立つちいを、真横から。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「ちょっと来て」

 

 ちいを机に呼ぶ。

 

「ここがいい」

 

「あとで戻してあげるから」

 

「や」

 

「測るだけ」

 

「さむい」

 

「今日は部屋も暖かいでしょ」

 

 嫌そうだったが、最後には来た。

 

 私は昨日と同じ透明な定規を机の上へ立て、ちいを横へ並ばせる。

 

「まっすぐ立って」

 

 ちいが背筋を伸ばす。

 

 私は目線を目盛りまで下げた。

 

 一度見る。

 

 身体を起こす。

 

 もう一度、見る。

 

「……五?」

 

 ちいが定規を見上げた。

 

「ご?」

 

「五センチ」

 

 昨日の夜は四・四。

 

 今は。

 

 五センチを、少し越えている。

 

 五・一くらい。

 

 一晩で七ミリ。

 

 数字だけなら小さい。

 

 でも、ちいの身体からすれば違う。四・四センチが五・一センチになったなら、一割どころではない。

 

 昨日まで私の指一本より明らかに小さかった身体が、今はずいぶん近づいている。

 

「ちょっと待って」

 

 スマートフォンを取る。

 

 昨夜の写真を開く。

 

 定規の横のちい。

 

 拡大する。

 

 四・四。

 

 間違いない。

 

 今のちいを見る。

 

 また写真を見る。

 

「……大きくなってる」

 

 口に出した瞬間、胸が少し速く鳴った。

 

 昨日の違和感は間違いではなかった。

 

 朝に見つけたとき、おそらく四センチ前後。その日の午後に四・三。夜には四・四。そして翌朝には五・一。

 

 増えている。

 

 確実に。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「自分で分かる?」

 

「なにが?」

 

「大きくなってる」

 

 ちいは自分の身体を見た。両腕を広げ、手のひらを裏返す。脚も見る。

 

 それから、私を見る。

 

「おおきい?」

 

「昨日よりね」

 

 ちいはしばらく考えていた。

 

 怖がるかと思った。

 

 でも。

 

「いい?」

 

「え?」

 

「おおきいの、いい?」

 

 思っていたのと違う質問が返ってきた。

 

 私はすぐ答えられなかった。

 

 大きくなることが良いのか悪いのか。そもそも、どうして大きくなっているのかも分からない。

 

 けれど、ちい自身はどうやら不安より先に、私の反応を気にしている。

 

「……今は、別に悪くないよ」

 

「ほんと?」

 

「だって五センチだし」

 

 そう言って、私は指を隣へ置いた。

 

「まだこんなに小さい」

 

 ちいは私の人差し指を見たあと、自分の身体を見る。

 

 それから急に腕を伸ばし、指へ抱きついた。

 

「いいこと」

 

 昨日より少しだけ大きい身体が触れる。

 

 たしかに違った。

 

 抱きつかれた感触が、昨日より分かりやすい。

 

 腕。

 

 頬。

 

 胸。

 

 脚。

 

 私の皮膚に触れている範囲が増えている。

 

「……ほんとに大きくなってる」

 

 さっき数字で見たときより、ずっと実感があった。

 

 ちいはそんな私の驚きを気にする様子もなく、指に頬を押しつけた。

 

「あったかい」

 

「はいはい」

 

 私は苦笑しながら、指ごとちいを持ち上げた。

 

 そのままベッドへ戻り、日向の中へ下ろす。

 

「日光浴の続きする?」

 

「する」

 

 ちいはすぐに横になった。

 

 今度は仰向け。

 

 朝の光の中で、満足そうに目を閉じる。

 

 私はその隣へ定規を置いた。透明な目盛りの五という数字が、ちいの頭の少し下にある。

 

 五センチ。

 

 まだ小さい。

 

 掌に乗る。指に抱きつける。日向になったシーツの皺を、両手を使って越えていく。

 

 だから、このときはまだ、成長という言葉にもそれほど重さがなかった。

 

 むしろ私は、少しだけ期待していたのだと思う。

 

 もう少し大きくなれば、世話が楽になるかもしれない。声も聞き取りやすくなる。いつか掌の上ではなく、机を挟んで普通に話せるくらいになるのかもしれない。

 

 その想像の中でも、ちいは小さかった。

 

 せいぜい人形くらい。

 

 だから私は、日向で気持ちよさそうに眠り始めたちいを見ながら、カーテンをもう少し大きく開けた。

 

 陽射しが広がる。

 

 ちいの身体を、頭から足まで明るく包む。

 

「いっぱい温まりな」

 

 何気なく、そう言った。

 

 ちいは目を閉じたまま、小さく頷いた。

 

 *

 

 その日の午後、課題を進める私の横、ちいはほとんど窓際にいた。

 

 日向がベッドの上から少しずつ移動していくたび、ちいもそれを追いかける。最初は仰向けで寝ていたのに、光が足元から外れ始めるとむくりと起き上がり、数センチ先まで歩いてまた寝転がった。

 

 それを三回ほど繰り返したところで、さすがに笑ってしまった。

 

「そんなに好き?」

 

「すき」

 

「知ってるけど」

 

 ちいは目を閉じたまま答える。朝より言葉の受け答えが少し滑らかになっていた。温まっている時間が長いせいか、昨日のように途中で動きが鈍くなることもない。

 

 私は机にノートパソコンを置いて作業しながら、ときどきベッドを見る。

 

 窓から入る陽射しの中に、小さな女の子が一人寝ている。

 

 昨日なら、それだけで何度も手を止めていたと思う。

 

 今も十分おかしい。でも、たった一日で慣れてしまうものらしい。

 

「ちい、寝るなら箱に入ったら?」

 

「ここがいい」

 

「眩しくない?」

 

「へいき」

 

「暑くない?」

 

「へいき」

 

 返事だけ聞くと普通の子どもみたいだった。

 

 私はまた画面へ目を戻した。

 

 しばらくして、ベッドの方から何か擦れる音がした。

 

 振り返る。

 

 ちいが起きていた。

 

 そして、私を見ている。

 

「どうしたの?」

 

「……こっち」

 

 自分ではなく、私の方を指した。

 

「こっち?」

 

 頷く。

 

「日向あるでしょ」

 

「こっちがいい」

 

 言われて、少しだけ胸が緩んだ。

 

「はいはい」

 

 私は椅子をベッドの横まで寄せ、左手を差し出した。

 

 ちいはまてがきれたペットみたいに近づいてくる。

 

 日向で十分温まっているはずなのに、掌へ乗るといつものように親指の付け根まで歩き、そのまま腰を下ろした。

 

 ただ。

 

 少し窮屈そうだった。

 

「……ん?」

 

 昨日までなら、親指の付け根に身体を寄せるとちょうど収まっていた。背中を預け、脚を前へ伸ばしても掌の真ん中まで届かないくらい。

 

 今は違う。

 

 脚が掌の中央を越えている。

 

 ちい自身は気にしていないらしく、いつもの姿勢で私の親指に頬をつけた。

 

「ちい」

 

「ん?」

 

「ちょっと立って」

 

「また?」

 

「また」

 

「いや」

 

「測るだけだから」

 

 ちいはさらに親指へ身体を寄せた。

 

「あとで戻る?」

 

「戻る戻る」

 

「ほんと?」

 

「ほんと」

 

 そこまで確認して、ようやく立ち上がる。

 

 私は苦笑しながら定規を取った。

 

「そんなにここ好き?」

 

「すき」

 

「日向より?」

 

 ちいは少し考えた。

 

「こっちのほうがすき」

 

「……そっか」

 

 聞いたのは自分なのに、妙に嬉しくなる。

 

 私はその感情をごまかすように、ちいを机へ降ろした。

 

 透明な定規を横へ立てる。

 

「まっすぐ」

 

 ちいが背筋を伸ばした。

 

「……六・二」

 

 朝が五・一。

 

 半日で、一センチ以上。

 

「結構大きくなってるな……」

 

「おおきい?」

 

「うん。昨日よりかなり」

 

 ちいはまた自分の身体を見た。

 

 腕。

 

 脚。

 

 服。

 

 見たところ、白い服も身体と一緒に大きくなっている。朝より丈が短くなったり、きつくなったりはしていない。

 

「何か変な感じする?」

 

「へん?」

 

「身体が痛いとか。苦しいとか」

 

 ちいは首を横に振った。

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「ない」

 

「じゃあ、急に眠くなったりとか」

 

「ない」

 

 ちいはまた首を横に振った。

 

 それから私の手に戻る。

 

 やっぱり、温かさ。

 

 私はちいを見て考える。

 

 日向。

 

 私の手。

 

 昨日よりずっと長い時間、そのどちらかに触れていた。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「温かいところにいると、大きくなるのかな」

 

 ちいはパンを持ったまま首を傾げた。

 

「わかんない」

 

「だよね」

 

 私も分からない。

 

 ただ、昨日より成長が速いのはあきらかだった。

 

 それが日向のせいなのか。

 

 私の体温のせいなのか。

 

 単純に時間が経ったからなのか。

 

 何も分からない。

 

「……まあ、元気ならいいか」

 

 口に出したあとで、少し無責任だと思った。

 

 でも今の私にできることは、数字を残すくらいしかない。

 

 スマートフォンに時刻と身長を入力する。

 

 六・二センチ。

 

 十四時四十七分。

 

 その横に、何となく「機嫌良好」とまで書いた。

 

「何書いてるの?」

 

「ちいの記録」

 

「きろく?」

 

「大きさとか」

 

「なんで?」

 

「大きくなってるから」

 

「いいこと」

 

「分からないけどね」

 

 ちいは少し考えたあと、私のスマートフォンへ近づいた。

 

 画面を見上げる。

 

「ちいいる?」

 

「いるよ」

 

「どこ?」

 

「ここ」

 

 画面を指で示す。

 

 ちいはそこへ顔を近づけた。

 

「これ?」

 

「そう」

 

「ちい」

 

「うん」

 

 読めているか分からないが、自分の名前を見つけたことが嬉しいのか、しばらく画面を眺めていた。

 

 その後、また私の手へ戻る。

 

 今度は親指の付け根に座らず、掌の中央へ腹ばいになった。

 

「何してるの」

 

「あったかい」

 

「そればっかりだね」

 

 ちいは返事をせず、頬を私の掌へ押しつけた。

 

 六センチを越えると、昨日とは触れられる感覚がかなり違った。

 

 重さも少し分かる。

 

 掌に身体の形がある。

 

 髪が触れる。

 

 腕が乗っている。

 

 小さな膝が皮膚を押している。

 

 ほんの一日で、もう「何かが乗っている」とはっきり感じるようになっていた。

 

 私は指を少し曲げて、ちいの身体の横に壁を作る。

 

「苦しくない?」

 

「へいき」

 

「じゃあこのままにするよ」

 

「うん」

 

 そのまま課題へ戻る。

 

 片手しか使えないので、当然効率は悪い。

 

 途中で左手を使いたくなって、ちいを見る。

 

 寝ている。

 

「……またか」

 

 仕方なく、昨日と同じ、右手だけで続けた。

 

 夕方になる頃には、日向はベッドから完全に消えていた。

 

 窓の外も少しずつ暗くなり、昼間は暖かかった部屋の空気が冷え始める。

 

 ちいはそれに気づくのが早かった。

 

 机の上にいると、突然動きを止めた。

 

「寒い?」

 

「さむい」

 

「やっぱり」

 

 私は手を差し出した。

 

 ちいが乗る。

 

 でも、その日はそこで終わらなかった。

 

「……ん?」

 

 掌に乗ったちいが、そのまま手首の方へ歩いてきた。

 

「どこ行くの」

 

 手首を越える。

 

 腕へ。

 

 私の前腕の上を、両手も使いながら登ってくる。

 

「ちょっと、ちい」

 

「こっち」

 

「こっちって?」

 

 肘まで来る。

 

 そこから先は傾斜が急になる。

 

 ちいは少し迷ったあと、服の袖を掴んだ。

 

「待って。落ちるから」

 

 右手で後ろを支える。

 

 ちいは気にせず登る。

 

 肩。

 

 そこまで来ると、今度は首の方へ歩いた。

 

「え、そこ?」

 

「ここ」

 

 大冒険の末、ちいは私の首と肩の間に身体を押し込んだ。

 

 頬を首筋へつける。

 

「……あったかい」

 

 声がすぐ耳の近くで聞こえた。

 

 昨日までなら小さすぎて、耳元まで来てもほとんど聞こえなかったかもしれない。

 

 今はちゃんと分かる。

 

「手じゃなくていいの?」

 

「ここ、もっとあったかい」

 

「覚えたなあ」

 

 私は笑った。

 

 ちいは首筋にぴったりくっついている。

 

 髪が肌に触れて、少しくすぐったい。

 

「動かないでね」

 

「うん」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 その返事の直後、ちいはさらに身体を寄せた。

 

「……くすぐったいって」

 

 少し身体を離そうとすると、服の襟を掴まれる。

 

「や」

 

「落とさないよ」

 

「ここいる」

 

「分かったから」

 

 私は諦めて、そのままにした。

 

 夕飯を作る間も。

 

 洗い物をする間も。

 

 ちいはほとんど首元から離れなかった。

 

 ときどき姿勢を変えるくらいで、頬か背中のどちらかを必ず私の肌へつけている。

 

 昨日は、私の指一本に抱きついていた。

 

 今日は、首元。

 

 たったそれだけの違いなのに、妙に印象に残った。

 

 もしこのまま大きくなったら。

 

 いつか首元には収まらなくなる。

 

 指にも乗れなくなる。

 

 掌にも。

 

 肩にも。

 

 そのとき、この子はどうするんだろう。

 

 ふと、そんなことを思った。

 

「ちい」

 

「ん?」

 

「もっと大きくなっても、こうする?」

 

 ちいは意味が分からなかったらしい。

 

「こう?」

 

「温かいところにくっつくの」

 

 少しだけ考えて。

 

「する」

 

「即答だね」

 

「すき」

 

 ちいはそう言って、また首筋へ頬をつけた。

 

 その言い方があまりに当然だったので、私はそれ以上何も言えなくなった。

 

 少なくとも、ちいの中では。

 

 大きくなることと、温かいところが好きなことは。

 

 たぶん、何の関係もない。

 

 身体の大きさが変わっても、自分は自分。

 

 そんなふうに考えているのかもしれない。

 

 私はまだ、その意味をよく分かっていなかった。

 

 *

 

 次の朝、ちいは七・八センチになっていた。

 

 昨夜測ったときは六・九センチだったから、また一晩で一センチ近く伸びている。

 

 私は定規の横に立つちいを見ながら、しばらく何も言えなかった。

 

「おおきい?」

 

「……うん。昨日より」

 

「いいこと」

 

「覚えたなあ」

 

 ちいは自分の両手を見て、それから私の手を見る。

 

 まだ掌には乗る。ただ、もう最初の頃のように中央へちょこんと収まる感じではない。寝転がれば、頭から足までで掌の大部分を使う。

 

 それでも本人は気にしていなかった。

 

 測定が終わると、すぐに私の手首を伝って腕を登り、昨日覚えた首元へ向かう。

 

「ちょっと待って。今日は出かけるから」

 

 ちいが止まった。

 

「だいがく?」

 

「そう」

 

「いく?」

 

「行かないと、そろそろまずい」

 

 昨日も、おとといも休んだ。今日は休むと、出席を取る授業が一つ危ない。

 

 私は昨夜からずっと考えていた。

 

 ちいを家へ置いていく。

 

 普通なら、それが一番安全だ。

 

 ただ、問題がある。

 

 試しに今朝、日陰になっている机の上で十五分ほど過ごしてもらったところ、ちいは明らかに動きが鈍くなった。

 

 受け答えも遅くなり、最後には私の方へ両手を伸ばした。

 

 助けを求めるように。

 

「あったかい」

 

 あの声を聞いてしまったあとで、何時間も一人にしておく気にはなれなかった。

 

 日向ならしばらく大丈夫かもしれない。でも、陽射しは動く。曇れば終わりだし、今のちいにはカーテンを動かすこともできない。

 

 つまり連れていくしかない。

 

 そこまで考えたところで、今度は別の問題が出た。

 

「……どうやって隠そう」

 

 ちいは首を傾げた。

 

「見つかったら困るの」

 

「なんで?」

 

「説明できないから」

 

「ちい、いるだけ」

 

「それを説明できないって言ってるの」

 

 ちいには納得できないらしい。

 

 私はクローゼットを開け、服を何枚か引っ張り出した。

 

 ポケット。

 

 まず思いつくのはそこだった。

 

 パーカーのポケットなら十分入る。

 

 でも、実際にちいを入れてみるとすぐ問題が分かった。

 

「……どう?」

 

「くらい」

 

「寒い?」

 

「ちょっと」

 

 そのうえ歩くと揺れる。

 

 二歩進んだだけで、ポケットの中から「うっ」と小さな声がした。

 

「ごめん」

 

「ここ、やだ」

 

「だよね」

 

 却下。

 

 リュックの中はもっと駄目だった。寒いし、何かの下敷きにする可能性がある。

 

 袖も無理。すぐに落ちる。

 

 最終的に残ったのは、昨日、ちい自身が選んだ場所だった。

 

「ここ」

 

「……やっぱり?」

 

 私の首元。

 

 今日は少し襟の広い長袖のカットソーを着た。

 

 その上に薄手のパーカーを重ねれば、首から肩にかけての部分は外からほとんど見えない。

 

 試しにちいを肩へ乗せる。

 

 ちいはすぐに襟の内側へ入り込み、鎖骨の少し下へ身体を寄せた。

 

「そこ苦しくない?」

 

「へいき」

 

「私が歩いたら?」

 

「つかまる」

 

 言いながら、ちいは服の布を両手で握った。

 

 私の肌とカットソーの間。

 

 たしかに温かい。

 

 外から見てもほとんど分からない。

 

「……これなら、いける?」

 

 鏡の前に立つ。

 

 正面。

 

 横。

 

 肩を動かす。

 

 ちいが入っている側だけ少し膨らんでいる気がする。

 

「もっと奥」

 

「うん」

 

 ちいが胸元の方へ少し下がった。

 

「そこは駄目」

 

「なんで?」

 

「なんでも」

 

 また上へ戻す。

 

 結局、鎖骨あたりで落ち着いた。

 

 パーカーのファスナーを胸元まで上げる。

 

 これなら分からない。

 

 たぶん。

 

「絶対、勝手に出てこないでね」

 

「でない」

 

「声も小さく」

 

「うん」

 

「私が誰かと喋ってるときは、なるべく喋らない」

 

「うん」

 

「あと動き回らない」

 

 ちいは少し黙った。

 

「……うん」

 

「今ちょっと嫌だったでしょ」

 

「うごきたい」

 

「今日は我慢」

 

 ちいが首元へ頬をつける。

 

「ここいる」

 

「なら大丈夫」

 

 私は鏡の中の自分を見た。

 

 普段とほとんど変わらない。

 

 ただ、服の内側に八センチ近い女の子が一人いる。

 

「……何やってるんだろ、私」

 

「なに?」

 

「なんでもない」

 

 家を出て最初の五分で、想像以上に大変だと分かった。

 

 歩くたびに、ちいが揺れる。

 

 本人は服を掴んで耐えているらしいが、時々指先の感触が肌に伝わる。

 

「大丈夫?」

 

 小声で聞く。

 

「だいじょうぶ」

 

「落ちそうなら言って」

 

「うん」

 

 住宅街ではまだよかった。

 

 問題は駅だった。

 

 人が多い。

 

 階段を上る。

 

 改札でカードをかざす。

 

 電車を待つ。

 

 いつもなら意識もしない動作を、一つずつ気にする。

 

 走らない。

 

 急に振り向かない。

 

 誰かとぶつからない。

 

 リュックの肩紐がちいのいる場所を圧迫しないように、少しずらして背負う。

 

 それだけで歩き方までぎこちなくなった。

 

 ホームに着いた時点で、私はもう疲れていた。

 

「……大学着く前から大変なんだけど」

 

 服の中から、声が返る。

 

「ちい、わるい?」

 

「ちいが謝ることじゃないよ。私が勝手に連れてきた」

 

「ちい、きたかった」

 

 思わず口元が緩んだ。

 

「そうなの?」

 

「ひとり、いや」

 

 胸のあたりに何かが残った。

 

 返事をしようとしたところで電車が入ってくる。

 

 慌てて口を閉じた。

 

 車内は思ったより混んでいた。

 

 座れない。

 

 つり革を掴む。

 

 電車が動く。

 

 その瞬間、胸元でちいの身体がずれた。

 

「っ」

 

 声を出しかけて飲み込む。

 

 右手をさりげなく胸元へ添える。

 

 服の上から。

 

 ちいを押さえるというより、外側に壁を作る。

 

 電車が揺れるたび、身体の内側で小さな気配が動いた。

 

 くすぐったい。

 

 心配。

 

 それ以上に。

 

 人に見られたら終わる。

 

 向かいに立っている会社員が、ちら、とこちらを見た。気がした。

 

 私は何でもない顔で窓へ視線を逸らした。

 

 心臓だけが少し速い。

 

 次の駅。

 

 人が乗ってくる。

 

 肩がぶつかる。

 

 ちいが服の中でぎゅっと身体を寄せた。

 

 まずい。

 

 思った瞬間。

 

「いたい」

 

 小さな声。

 

 私は反射的に胸元を押さえた。

 

「大丈夫?」

 

 言ってから気づく。

 

 目の前にいた女子学生がこちらを見る。

 

「え?」

 

「あ、いや」

 

 何。

 

 何て言えばいい。

 

 私は一瞬詰まった。

 

「……イヤホンが」

 

 自分でも意味が分からなかった。

 

 女子学生は少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。

 

 私は顔を伏せる。

 

 服の中へ、ほとんど息だけで囁いた。

 

「喋っちゃ駄目って言ったでしょ」

 

「いたかった」

 

「ごめん。でも今は我慢して」

 

「うん」

 

 少ししょんぼりした声。

 

 怒るつもりはなかったのに。

 

 私は右手を服の上から添え直した。

 

「あとちょっとだから」

 

 今度は聞こえないくらい小さく言った。

 

 大学に着いた頃には、私は普段の倍くらい時間をかけた気分になっていた。

 

 講義室へ入る。

 

 知っている顔が何人かいる。

 

「最近休んでたよね」

 

 後ろから声をかけられた。

 

「うん。ちょっと体調悪くて」

 

「もう平気?」

 

「たぶん」

 

 嘘をつきながら席へ座る。

 

 ちいは静かだった。

 

 さすがに状況が分かってきたらしい。

 

 講義が始まる。

 

 私はノートを開いた。

 

 最初の二十分は順調だった。

 

 ちいは動かない。

 

 声も出さない。

 

 服越しに感じる体温だけが、ときどき存在を思い出させる。

 

 これならいける。

 

 そう思った。

 

 甘かった。

 

 四十分ほど経ったところで、ちいが動いた。

 

 ほんの少し。

 

 最初は姿勢を変えただけだと思った。

 

 でも止まらない。

 

 胸元から鎖骨の方へ、ゆっくり登ってくる。

 

 私は左手でノートを取りながら、右手でパーカーの襟を押さえた。

 

 やめて。

 

 心の中で言う。

 

 ちいは止まらない。

 

 首のすぐ下まで来る。

 

 髪が肌に触れる。

 

 くすぐったい。

 

「……っ」

 

 肩が跳ねた。

 

 隣の席の人がちらっと見る。

 

 私は咳払いでごまかす。

 

 服の中で、ちいが頬を首筋へつけた。

 

 たぶん。

 

 もっと温かい場所へ来ただけ。

 

 分かっている。

 

 分かっているけど、今は困る。

 

 私は襟元へ指を入れたい衝動を必死で我慢した。

 

 教授の声が続く。

 

 板書。

 

 いつもなら普通に追える内容なのに、全然頭へ入ってこない。

 

 そのうえ。

 

「……あったかい」

 

 ほとんど聞こえない声がした。

 

 私は目を閉じた。

 

 頼むから。

 

 今だけは。

 

 静かにして。

 

 数秒後。

 

 首筋へ触れていた小さな頬の感触が、少しだけ弱くなった。

 

 ちいが満足したらしい。

 

 それ以上は動かなかった。

 

 私はようやく息を吐いた。

 

 講義が終わるまで、あと三十五分。

 

 長い。

 

 こんなに一コマが長く感じたのは初めてだった。

 

 そして、もう一つ。

 

 私はまだ気づいていなかった。

 

 朝、家を出る前に七・八センチだったちいが、ずっと私の体温に触れ続けていたこと。

 

 講義が終わる頃には、その身体が服の中で少し窮屈になり始めていたことに。

 

 *

 

 講義が終わると、私は誰より先にノートを閉じた。

 

 普段なら友達と少しくらい話してから出るところだけれど、今日は無理だった。服の中にいるちいが、朝より明らかに窮屈そうだったからだ。

 

 立ち上がっただけで、鎖骨の下にいた身体が押される感覚がある。

 

「今日早くない?」

 

「ちょっと用事あるから」

 

 声をかけてきた友達へそれだけ返し、リュックを肩に掛ける。今朝よりさらに外側へずらした。肩紐が少しでもちいに当たるのが怖い。

 

 講義室を出て、人が少なくなったところで胸元へ手を添えた。

 

「ちい、大丈夫?」

 

「うん」

 

「苦しくない?」

 

 少し間があった。

 

「ちょっと」

 

「やっぱり……」

 

 朝はカットソーと肌の間に余裕があった。ちいが姿勢を変えても、それほど気にならなかった。

 

 でも今は違う。歩くたびに、ちいの膝や肘らしいものがはっきり肌へ触れる。首元に近づいてくるときも、朝なら小さな何かが這っている程度だったのに、今は身体そのものが押し上がってくる感覚があった。

 

「もう少しだから我慢して」

 

「かえる?」

 

「帰る」

 

「おうち?」

 

「うん」

 

 服の中で少し動いたあと、ちいはまた首筋へ頬をつけた。

 

「あったかい」

 

「それはいいけど、今あんまり動かないでね」

 

「うん」

 

 返事は素直だった。

 

 素直だったけれど、その直後にもう一度位置を変えた。

 

「ちい」

 

「……うん」

 

「今動いたよね」

 

「せまい」

 

「ごめん」

 

 怒る気が消えた。

 

 狭いのはちいのせいじゃない。

 

 朝は入れた場所に、夕方には身体が収まりにくくなっている。

 

 その事実を考えると、今度は私の方が落ち着かなくなった。

 

 駅までの道を歩きながら、何度も胸元を気にする。外から見えていないか。服の形がおかしくなっていないか。ガラスに映るたびに確認した。

 

 たぶん大丈夫。

 

 でも、朝より膨らみが分かりやすい。

 

 パーカーを少し前へ引っ張って隠す。

 

 電車では運よく座れた。

 

 端の席を選び、リュックを膝へ置く。それを壁にするようにして身体を少し丸めると、ようやく肩の力が抜けた。

 

 ちいもそれが分かったのか、服の内側で姿勢を変えた。

 

「楽?」

 

 小さく聞く。

 

「うん」

 

「あと三十分くらい」

 

「さんじゅっぷん」

 

「長い?」

 

「わかんない」

 

「そっか」

 

 ちいにはまだ時間の感覚がないらしい。

 

 私は窓へ視線を向けた。

 

 夕方の光が、流れていく住宅の屋根に反射している。朝は日向を追いかけてベッドの上を歩き回っていたちいを思い出した。

 

 今日は、ほとんど一日中私の体温に触れていた。

 

 もし本当に温かさが成長に関係しているなら。

 

 嫌な予感というほどではなかった。

 

 まだ。

 

 どちらかといえば、確かめたいという気持ちの方が強かった。

 

 七・八センチから、どのくらいになったんだろう。

 

 九センチ?

 

 十センチ?

 

 そこまで考えて、十センチという数字が妙に大きく感じた。

 

 最初に見つけたときの倍以上。

 

 たった三日で。

 

 私は無意識に胸元へ手を当てた。

 

 服越しに、ちいの身体がある。

 

 すると内側から、小さな手が押し返してきた。

 

「……何?」

 

「て」

 

「私の?」

 

「うん」

 

 私はそのまま手を離さなかった。

 

 服一枚を挟んでいるから、直接触れてはいない。それでも、ちいがどこにいるのかは分かる。

 

「もうすぐ帰るから」

 

「うん」

 

 その返事を聞いて、少し安心した。

 

 家の玄関を閉めた瞬間、私は靴もちゃんと揃えずにリュックを床へ置いた。

 

「着いた」

 

「ついた?」

 

「うん。もう出ていいよ」

 

 パーカーを脱ぎ、鏡の前まで行く。

 

 カットソーの襟を指で広げた。

 

「ちい?」

 

「ここ」

 

 声が近い。

 

 鎖骨のすぐ下。

 

 私は片手を胸元へ差し入れ、掌を壁のようにして待った。

 

「乗れる?」

 

 少しして、ちいの手が指に触れた。

 

 次に頭。

 

 肩。

 

 身体。

 

 ゆっくりと私の掌へ移ってくる。

 

 全部出てきたところで。

 

「……え」

 

 声が漏れた。

 

 大きい。

 

 分かっていた。

 

 朝より大きくなっていること自体は。

 

 でも、服の中では全体が見えなかった。

 

 掌へ乗せると、違いがはっきりした。

 

 朝は七・八センチ。

 

 あのときも、もうだいぶ大きくなったと思った。

 

 今のちいは、掌へ収まらない。

 

 座ればもちろん乗る。でも脚を伸ばすと、かかとが手首の近くまで届く。寝転がれば頭と足を同時に掌の中へ収めるのは無理だった。

 

 それに、重い。

 

 重いといっても、持てないほどではない。

 

 でも、もう存在を意識しなくても分かる。

 

 掌の中央に、ちゃんと重さがある。

 

「ちい、おおきい?」

 

 ちいが聞いた。

 

 私は答えず、すぐ机へ向かった。

 

「測ろう」

 

「また?」

 

「これは測る」

 

 いつもの十五センチ定規を出す。

 

 ちいを机へ降ろすと、本人は少し不満そうに足を動かした。

 

「さむい」

 

「一分だけ」

 

「はやく」

 

「早くする」

 

 定規を横に立てる。

 

 ちいがもう慣れた様子で背筋を伸ばした。

 

 私は目盛りへ顔を近づけた。

 

「……十・四」

 

 一度目。

 

 もう一度見る。

 

「十・五……くらい」

 

 朝が七・八。

 

 約十時間で、二・七センチ。

 

 私はスマートフォンを出して記録を開く。

 

 昨日。

 

 六・二。

 

 六・九。

 

 今朝。

 

 七・八。

 

 そして今。

 

 十・五。

 

「……急に速くなってない?」

 

 ちいが私を見る。

 

「はやい?」

 

「大きくなるのが」

 

「いいこと?」

 

「……分からない」

 

 私は記録を指で遡った。

 

 最初に見つけたとき、おそらく四センチ前後。

 

 そこから一日ほどで六センチ台。

 

 今は十センチを越えている。

 

 倍率で考えると、もう二倍半くらい。

 

「痛くない?」

 

「ない」

 

「身体、変な感じしない?」

 

「しない」

 

「苦しいとか、だるいとか」

 

 ちいは首を横に振った。

 

 むしろ元気そうだった。

 

 机の上を少し歩いてから、定規へ近づく。数字の十のところへ手を置き、自分の頭の高さを見る。

 

「ちい、ここ?」

 

「そう。十センチちょっと」

 

「おおきい?」

 

「最初よりは、かなり」

 

 私が人差し指を横へ置く。

 

 最初のちいは、この指一本より小さかった。

 

 今はもう、指の長さを越えている。

 

 ちいもそれに気づいたらしい。

 

 私の指と自分を見比べる。

 

 それから少し嬉しそうに、指へ両腕を回した。

 

「ちい、おおきい」

 

「嬉しいの?」

 

「うん」

 

「そっか」

 

「いいこと」

 

 私は少し笑った。

 

 ちいにとって、大きくなることにはまだ何の不安もないようだ。

 

 むしろ、できることが増える。

 

 昨日まで乗り越えられなかったものを越えられる。私の指より小さかった身体が、それより大きくなる。

 

 それなら嬉しいのも分かる。

 

「でも、今日大変だったでしょ」

 

「せまかった」

 

「そう。もう同じ場所は無理かも」

 

 ちいの顔から少しだけ嬉しさが消えた。

 

「ここ?」

 

 自分の首元を指す。

 

「そう」

 

「いけない?」

 

「十センチならまだ何とかなるかもしれないけど……」

 

 私はちいを見る。

 

 もし明日、また二センチ、三センチ伸びたら。

 

 十五センチ。

 

 二十センチ。

 

 そこまでいけば、服の内側へ隠すなんて到底無理だ。

 

「だいがく、いけない?」

 

「ちいを連れて、ってこと?」

 

「うん」

 

「……どうしようね」

 

 ちいは少し考えたあと、机の端まで歩いてきた。

 

 私は反射的に掌を差し出す。

 

 ちいはそこへ乗った。

 

 そして今までと同じように親指の付け根へ向かおうとして、途中で止まった。

 

 場所が足りない。

 

 昨日までなら背中を親指へ預けて、脚を前へ伸ばせた。

 

 今は同じ姿勢を取ると、脚が完全に掌からはみ出す。

 

「……」

 

 ちいは自分の脚を見た。

 

 次に私の掌を見る。

 

 もう一度、座り直す。

 

 やっぱりはみ出る。

 

 私はその様子を黙って見ていた。

 

 ちいもようやく、自分が大きくなったということを数字ではなく身体で理解したらしい。

 

「ここ、せまい」

 

「そうだね」

 

 少し寂しそうな声だった。

 

 私は指を曲げ、ちいの背中へ軽く添えた。

 

「でも、乗れなくなったわけじゃないでしょ」

 

「うん」

 

「座り方変えればいいよ」

 

 ちいは私を見る。

 

 私は掌を少し傾けて、ちいを手首の方へ寄せた。

 

「ほら。脚、腕の方に出せば」

 

 ちいは試すように身体の向きを変え、私の前腕へ脚を伸ばした。

 

 ちょうどいい。

 

「あ」

 

「いけるでしょ」

 

「うん」

 

 ちいは少し考えたあと、今度は横向きになり、私の親指へ両腕を回した。

 

 頬をつける。

 

「あったかい」

 

「結局それなんだ」

 

「すき」

 

「知ってる」

 

 私は笑った。

 

 大きくなったからといって、ちいが急に別の誰かになるわけではない。

 

 昨日までと同じように温かい場所を探して、同じように私へくっつく。ただ身体の方だけが、そのやり方を少しずつ変えさせている。

 

 私はちいを乗せたまま窓際へ行った。

 

 夕日はもうかなり低い。それでもカーテンの隙間から入った光が、床の一角をまだ薄く暖めていた。

 

「日光浴する?」

 

 ちいはその場所を見る。

 

 少し迷った。

 

 それから私の親指へ頬をつけ直した。

 

「いま、こっち」

 

「日向より?」

 

「うん」

 

 胸の奥が、また少し緩んだ。

 

「じゃあ、好きにして」

 

 私は椅子へ座った。

 

 ちいは私の掌から腕にかけて身体を預けたまま、目を閉じる。

 

 十・五センチ。

 

 もう最初のちいとは、見た目の大きさが全然違う。

 

 それなのに。

 

 こうしていると、あの日、私の小指へ必死に登ってきた四センチの女の子と同じだった。

 

 私はしばらくその姿を見たあと、スマートフォンの記録へ一行だけ追加した。

 

 十・五センチ。

 

 帰宅後。

 

 体調、問題なし。

 

 機嫌──。

 

 そこで少し考えた。

 

 親指へ頬をつけたまま、ちいはもう眠そうにしている。

 

 私は「良好」と入力した。

 

 *

 

 問題は、明日だった。

 

 十・五センチのちいを腕に乗せたまま、私は机に向かっていた。

 

 明日は午前から講義が二つある。今日みたいに服の中へ入れて連れていくのは、たぶん無理だ。今でもぎりぎりだったのに、この調子なら朝にはさらに大きくなっている可能性が高い。

 

 かといって、家に置いていくのも気になる。

 

 私はスマートフォンで明日の天気を確認した。

 

「曇りかあ……」

 

「くもり?」

 

「明日、お日様あんまり出ないって」

 

 私の前腕に跨るように座っていたちいが、窓を見る。もう外は暗い。当然何も見えないのに、しばらくそちらを眺めていた。

 

「じゃあ、こっち」

 

 そう言って私の腕へ両手を回す。

 

「いや、それができないから困ってるんだけど」

 

「あったかいよ」

 

「知ってるよ」

 

 ちいにとっては簡単な話らしい。

 

 太陽がなければ私にくっつけばいい。それで終わり。

 

 私の講義とか、周囲の人間に見つかったらどうするとか、そういう事情は彼女の中ではまだあまり重要ではないのだろう。

 

「ちいはいいよね」

 

「いい?」

 

「うん。まあ、いい」

 

 ちいは褒められたと思ったのか、少し嬉しそうにした。

 

 私はため息をつき、改めて考える。

 

 必要なのは、三つ。

 

 温かい。

 

 外から見えない。

 

 私が動いても安全。

 

 こうして条件を並べると、今日の服の中という方法は案外優秀だった。ただ、ちいが大きくなったせいで空間が足りなくなっただけだ。

 

 なら、空間を作ればいい。

 

「……袋?」

 

 ちいが顔を上げる。

 

「ふくろ?」

 

「うん。こう、身体につけられるやつ」

 

 リュックでは私の体温が届かない。でも身体に密着する袋なら、内側はある程度温かくなるかもしれない。

 

 私はちいを机へ降ろそうとして、途中で止めた。

 

「降りる?」

 

「いや」

 

「だよね」

 

 結局、左腕にちいを乗せたままクローゼットを漁ることになった。

 

 使っていない小さめのサコッシュ。薄手のマフラー。エコバッグ。昔買ったまま使っていない腹巻きまで出てきた。

 

 床へ並べていると、ちいが興味を持ったらしく腕から降りた。

 

「これは?」

 

 サコッシュの上に乗る。

 

「鞄」

 

「はいる?」

 

「ちいなら入るけど」

 

 私は紐を肩から斜めに掛け、サコッシュを胸の前へ持ってきた。

 

「これ、外から見えすぎるな」

 

 しかも中が広い。歩くたびにちいが転がる。

 

 却下。

 

 次。

 

 腹巻き。

 

「……これ、意外と」

 

 服の下につけて、その内側にちいが入れば。

 

 いや。

 

 十センチの人間を腹巻きに入れて大学へ行こうとしている自分を想像した。

 

 私は腹巻きを持ったまま固まった。

 

「……何やってんだろ」

 

 床に座り込む。

 

 ちいがこちらを見る。

 

「なに?」

 

「いやさ」

 

 目の前に並んでいるものを見る。

 

 マフラー。

 

 サコッシュ。

 

 腹巻き。

 

 裁縫箱まで出してある。

 

「三日前まで普通に大学行って、帰って、課題やって寝てたんだよ、私」

 

「うん」

 

「今、十センチの女の子をこっそり大学へ連れていくための入れ物作ろうとしてる」

 

「ちいの?」

 

「ちいの」

 

 ちいが笑った。

 

「うれしい」

 

「……そういう反応されると困るな」

 

 頭を抱えるほどではない。

 

 泣きたいわけでもない。

 

 ただ、急に現実感が追いついてきた。

 

 私は何をしているんだろう。

 

 本来なら、もっとまともなところへ相談するべきなんじゃないか。病院か、警察か、それとも大学の先生か。少なくとも一人で抱えて、服の中へ隠して講義へ連れていくのが正解だとは思えない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、誰かへ連絡する場面を想像すると指が止まる。

 

 この子を見せて。

 

 説明して。

 

 知らない人に囲まれて。

 

 何か調べるからと連れていかれて。

 

 そうなったとき、ちいが「ひとり、いや」と言っても、私はそばにいられるんだろうか。

 

 そこまで考えると、答えはいつも同じところへ戻ってきた。

 

「……まあ、いっか」

 

「いい?」

 

「よくはない。でも今すぐどうにかしなくてもいいかなって」

 

 ちいにはよく分からなかったらしい。

 

 それでも私が作業を再開したのを見ると、すぐ近くまで歩いてきた。

 

 結局、腹巻きはやめた。

 

 代わりに、薄手のマフラーを使うことにした。

 

 二つ折りにして端を何ヶ所か縫い合わせれば、浅い袋になる。それを肩から胸のあたりへ掛け、上からパーカーを着れば外からは見えにくい。背中側ではなく身体の前なので、私の熱も伝わる。

 

 問題は裁縫だった。

 

「痛っ」

 

 針を指へ刺した。

 

「いたい?」

 

「ちょっとね」

 

 ちいが近づいてくる。

 

「みる」

 

「見ても治らないよ」

 

 それでも指を差し出すと、ちいは小さな両手で私の指先を掴んだ。

 

 血が一滴出ている。

 

「これ?」

 

「そう」

 

「いたい?」

 

「もう平気」

 

 ちいはしばらく赤い点を見ていたが、やがてそのまま指へ頬をつけた。

 

「あったかい」

 

「結局そこ?」

 

「うん」

 

「心配したんじゃなかったの?」

 

「した」

 

「ほんとに?」

 

「うん。あったかい」

 

「同時に言うことじゃないと思う」

 

 思わず笑った。

 

 私はちいから指を抜き、また針を持つ。

 

 三十分ほどかかって、かなり不格好なものが完成した。

 

「できた」

 

「これ、ちいの?」

 

「一応ね」

 

 机の上に置く。

 

 マフラーで作った、細長い袋。

 

 ちいはすぐ中へ入った。

 

 頭から。

 

「そっちから入るんだ」

 

 しばらく足だけが外に出ていて、もぞもぞ動く。

 

「ちょっと待って。引っかかってない?」

 

「へいき」

 

 やがて全部入った。

 

 中で身体の向きを変え、顔だけ出す。

 

「どう?」

 

「あったかくない」

 

「今はね」

 

 私は袋を持ち上げ、肩から斜めに掛けた。

 

 ちょうど胸の少し下にちいが来る。

 

 上から手を添える。

 

「これなら?」

 

 少し待つ。

 

「……あったかい」

 

「よし」

 

 歩いてみる。

 

 部屋を一周。

 

「揺れる?」

 

「ちょっと」

 

「今日より?」

 

「こっちのほうがいい」

 

 次に軽く屈む。

 

「これは?」

 

「へいき」

 

 身体を左右へ向ける。

 

 ちいは袋の縁を掴んでいるものの、今朝のポケットみたいに振り回されることはない。

 

「結構いいじゃん」

 

 鏡の前へ行く。

 

 パーカーを着る。

 

 ファスナーを上げる。

 

 正面から見る。

 

「……ちょっと膨らんでるな」

 

 胸の下に妙なふくらみがある。

 

 でも大きめのパーカーなら、知らない人が見て気づくほどではない。

 

 横から。

 

 まあ。

 

 ぎりぎり。

 

「明日はこれで──」

 

 言いかけて、やめた。

 

 袋から顔を出しているちいを見る。

 

 十・五センチ。

 

 今夜も大きくなるなら。

 

「……待って」

 

「なに?」

 

「これ、明日入れる?」

 

 ちいは袋の中で脚を伸ばした。

 

 底まで届いている。

 

 余裕は、それほどない。

 

「はいる」

 

「今はね」

 

 私は額へ手を当てた。

 

「いや、成長する前提で物作るの難しすぎるでしょ……」

 

 サイズが固定されていない。

 

 袋も。

 

 寝床も。

 

 隠す方法も。

 

 今日ぴったり作れば、明日には使えないかもしれない。

 

 今までそれを頭では分かっていたけれど、せっかく三十分かけて縫った袋を見て、初めて腹の底から実感した。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「お願いだから今日は大きくならないで」

 

 ちいは少し考えた。

 

「むり」

 

「やっぱり?」

 

「わかんない」

 

「じゃあ、むりって言わないでよ」

 

 ちいが笑う。

 

 私はため息をついた。

 

 でも、その笑い声を聞いたら、さっきまでの徒労感が少しどうでもよくなった。

 

 明日使えなくなったら。

 

 また考えればいい。

 

 明後日も使えなくなったら。

 

 そのときも。

 

 いつまでそんなことができるのかは分からないけれど、少なくとも今はそれでいい気がした。

 

「まあ、使えるところまで使おう」

 

「これ、ちいの?」

 

「うん。ちい専用」

 

「せんよう?」

 

「ちいしか使わないってこと」

 

 それを聞くと、ちいは妙に嬉しそうな顔をして、袋の中へ身体を沈めた。

 

 顔まで隠れる。

 

「見えないよ」

 

「ここ、すき」

 

「まだ私につけてないから温かくないでしょ」

 

「せんよう、すき」

 

 私は返事ができなかった。

 

 ただのマフラーだ。

 

 しかも縫い目は曲がっているし、明日には小さいかもしれない。

 

 それなのに。

 

 ちいはその中で満足そうに丸くなっている。

 

「……そっか」

 

 私はその袋ごと、ちいを持ち上げた。

 

「じゃあ、今日はそれで寝る?」

 

「うん」

 

「でも温かくないと嫌なんでしょ」

 

「うん」

 

「どっちなの」

 

 結局、袋を胸元へ抱えることになった。

 

 ソファに座って、腕で軽く包む。

 

 布一枚を通して、ちいの身体が少しずつ私の体温を受け取っていく。

 

 しばらくすると、中から満足そうな声がした。

 

「あったかい」

 

「よかったね」

 

「うん」

 

 私はそのままスマートフォンを取り、今日の記録を見返した。

 

 七・八。

 

 十・五。

 

 数字だけ見れば、やっぱり普通ではない。

 

 怖がるべきなのかもしれない。

 

 もっと焦るべきなのかもしれない。

 

 でも胸元では、私が適当に縫った袋の中でちいがごそごそと寝やすい姿勢を探している。

 

 やがて動きが止まった。

 

「ちい?」

 

「ねる」

 

「もう?」

 

「うん」

 

「おやすみ」

 

「おやすみ」

 

 数秒して、また声がした。

 

「せんよう」

 

「……はいはい」

 

「すき」

 

 私は笑って、スマートフォンを置いた。

 

 何やってるんだろう。

 

 たぶん、明日も思う。

 

 それでも今は、まあいっかと思えた。

 

 *

 

 朝、目を覚まして最初に見たのは、私の胸元で少し形の変わった袋だった。

 

 昨夜はちいが「せんよう」の中から出たがらなかったので、袋ごとベッドへ持っていった。

 

 私の脇へ置くと寒いと言われ、結局、身体と布団の間に挟むようにして眠った。

 

 その結果、袋は朝までずっと温かかった。

 

「……ちい?」

 

「ん」

 

 中から返事があった。

 

 いる。ちゃんと動く。

 

 そこまではよかった。

 

「出てみて」

 

「まだねる」

 

「測るから」

 

「あとで」

 

「昨日より狭くなってない?」

 

 返事が止まった。

 

 私は布団の上で袋の口を広げた。中で丸くなっているちいは、昨日より明らかに窮屈そうだった。膝を胸まで寄せ、身体を斜めにしないと収まっていない。

 

「ほら」

 

「はいってる」

 

「入ってはいるけど」

 

 ちいはそれで問題ないらしい。むしろ袋の内側へ頬を擦りつけ、もう一度目を閉じようとする。

 

「ちいの、せんよう」

 

「分かってる。だから壊す前に出て」

 

 両脇へ指を入れて身体を支えると、ちいはようやく袋から出てきた。

 

 持ち上げた瞬間、昨日より重くなっているのが分かった。

 

 もう掌だけで持つより、両手を使った方が安定する。

 

「おおきくなった?」

 

「なってると思う」

 

「やった」

 

「そこで喜べるのすごいね」

 

 ちいを机へ立たせる。

 

 昨日まで使っていた十五センチ定規を横へ置いて、少し嫌な予感がした。

 

 足元を合わせる。

 

「十二・八……」

 

 声に出してから、もう一度見る。

 

 十二・八センチ。

 

 昨夜が十・五。

 

 一晩で二・三センチ。

 

「……これ、定規もそのうち足りなくなるな」

 

「ちい、ここ?」

 

「そう。十二・八」

 

「おおきい?」

 

「結構ね」

 

「いいこと」

 

 ちいは嬉しそうに定規へ手を当てた。数字を読めるわけではないのに、目盛りの上の方まで自分が届くこと自体が楽しいらしい。

 

「もうちょっと」

 

「十五センチだから、そうだね」

 

「なる」

 

「なる、じゃないのよ」

 

 本人は完全に目標として捉えている。

 

 私はスマートフォンへ十二・八、機嫌良好と入力しながら、今日の予定を確認した。

 

 午前に二コマ。

 

 午後は何もない。

 

 そして明日と明後日は休み。

 

「……今日だけ」

 

 思わず呟いた。

 

「なに?」

 

「今日だけどうにかすれば、明日と明後日はずっと家にいられる」

 

「おうち?」

 

「そう。大学行かなくていい日」

 

 ちいの顔が明るくなった。

 

「ずっといっしょ?」

 

「まあ、そうなるね」

 

「やった」

 

「私より喜んでない?」

 

 少し笑った。

 

 でも実際、私もかなり安心していた。

 

 二日あれば、ちいがどのくらいの速さで大きくなるのかもう少し調べられる。外へ連れていく方法を毎朝その場しのぎで考えなくて済む。何より、人目を気にせずちいを自由にさせられる。

 

 今日さえ終われば。

 

 その言葉が、思っていた以上に心強かった。

 

 問題は、その今日をどうするかだった。

 

 昨日作った袋を机へ置く。

 

 ちいがすぐ近づく。

 

「はいる」

 

「待って」

 

「なんで?」

 

「サイズ確認」

 

 袋を平らに伸ばしてみる。

 

 昨夜はまだ多少余裕があった。でも十二・八センチになったちいが横になると、頭と足でほとんど端から端まで使う。

 

「……ぎりぎり」

 

「はいれるよ」

 

「そうだけど、大学でまた大きくなったら?」

 

 ちいは少し考えた。

 

「おおきくなる」

 

「そうなる前提なんだ」

 

「うん」

 

 妙に自信満々だった。

 

 私は袋の縫い目を見る。昨日、自分で適当に縫ったところ。今見るとかなり頼りない。

 

 途中で破れたら洒落にならない。

 

「補強するか……」

 

 そう言って裁縫箱を出したところで、一度手が止まった。

 

 昨日の夜も同じことをしていた。

 

 起きて十分。

 

 顔も洗っていない。

 

 朝ごはんより先に、私は成長する十二センチの女の子を大学へ密輸するため、手製の袋を補強しようとしている。

 

「……ほんと何やってんだろ」

 

 ちいが私の顔を見る。

 

「ちいの?」

 

「そうだよ。ちいのためだよ」

 

「ありがと」

 

 間髪入れずに返ってくる。

 

「……まあいっか」

 

 早かった。

 

 昨日より、自分でも驚くほど諦めが早い。

 

 縫い目を二重にし、袋の底には柔らかい布を一枚足した。ただし厚くすると体温が伝わりにくいので、薄いハンカチを一枚だけ。

 

 十五分ほどで完成した。

 

「はい」

 

「せんよう?」

 

「専用、改良版」

 

「かいりょう?」

 

「ちょっと強くした」

 

 ちいは早速入る。

 

 昨日と違い、今日は頭から潜ることはできなかった。身体を横向きにして、まず脚を入れ、それから腰、最後に肩を押し込む。

 

「ちょっと待って。それ苦しくない?」

 

「へいき」

 

「足伸ばせる?」

 

 中でもぞもぞ動く。

 

「……ちょっと」

 

「駄目じゃん」

 

「へいき」

 

 何としてでも使いたいらしい。

 

 袋から顔だけ出し、こちらを見る。

 

「これ、ちいの」

 

「分かったって」

 

「せんよう」

 

 専用という言葉がそんなに効くとは思わなかった。

 

 仕方なく、袋を肩から掛ける。昨日より少し高め、胸の中央近くに来るよう紐の長さを調整した。上から大きめのパーカーを着ると、膨らみはかなり目立つ。

 

 鏡の前で身体を横へ向ける。

 

「……太ったって思われるかな」

 

「ふとった?」

 

「知らなくていい」

 

 パーカーの前側を少したるませる。

 

 正面からなら、なんとか。

 

 横はなるべく見せたくない。

 

「ちい、今日は特に出ないでね」

 

「うん」

 

「昨日より大きいから、顔出したら普通に見えるからね」

 

「うん」

 

「声も」

 

「ちいさい」

 

「そう」

 

 ちいは少し考えてから、袋の奥へ身体を沈めた。

 

「ねる」

 

「それが一番助かる」

 

 家を出る。

 

 昨日より重い。

 

 まだ大した重量ではないはずなのに、胸元に十二センチの身体があると、歩くたびにその存在が分かる。

 

 それでも、袋はかなりうまく機能した。

 

 電車が揺れてもちい自身が直接振り回されない。外側から手で支えれば、ほとんど動かない。昨日みたいに肌の上を移動されることもない。

 

 私は電車の座席で、少しだけ安心した。

 

「これ、結構成功だったかも」

 

 小さく言う。

 

 袋の中から返事はない。

 

「ちい?」

 

「……ねてる」

 

「起きてるじゃん」

 

「ねる」

 

「はいはい」

 

 昨日に比べれば拍子抜けするほど静かに大学へ着いた。

 

 一限の講義室へ入り、なるべく端の席を選ぶ。

 

 パーカーは脱げない。

 

 少し暑い。

 

 でも脱げば袋の膨らみが完全に見える。

 

 十月とはいえ朝の講義室は冷えているから、まだ不自然ではない。そう自分に言い聞かせてファスナーを上げたまま座った。

 

 一限は、本当に何も起こらなかった。

 

 ちいはほとんど寝ていたらしい。

 

 途中で一度だけ袋の中から身体を動かす感触があったが、それもすぐ止まった。

 

 私は久しぶりにまともに板書を取れた。

 

 教授の話も頭に入る。

 

 昨日の講義で書いたノートを見ると、途中から字が露骨に乱れている。板書がまるまる抜けているところまであった。

 

「……昨日ひどいな」

 

 小さく呟く。

 

 すると胸元から声がした。

 

「なに?」

 

「寝てていいよ」

 

「うん」

 

 また静かになる。

 

 楽だ。

 

 ちいがこんなに静かなら、今日はいけるかもしれない。

 

 そう思った。

 

 一限が終わるまでは。

 

 休み時間に入ると、私は講義室を出た。

 

 次の教室へ向かおうとしたところで、胸元が動く。

 

「ちい?」

 

「おきた」

 

「おはよう」

 

「あったかい」

 

「それはよかった」

 

 歩き出す。

 

 数歩。

 

 また動く。

 

「どうしたの?」

 

「せまい」

 

 私は足を止めた。

 

 廊下には人が多い。

 

「……どのくらい?」

 

「せまい」

 

「痛い?」

 

「いたくない。でも、こうできない」

 

 中で身体を動かそうとしているらしく、パーカーの表面がほんの少し押し上がる。

 

「やめてやめて。外から分かる」

 

「でも」

 

「ちょっと待って」

 

 私は周囲を見る。

 

 次の講義まで十分。

 

 トイレ。

 

 個室なら。

 

 すぐ近くのトイレへ入り、空いていた一番奥の個室へ滑り込んだ。

 

 鍵を閉める。

 

 ようやく息を吐いた。

 

「出ていいよ」

 

 パーカーを開け、袋の口を広げる。

 

 ちいが中から顔を出した。

 

 次に肩。

 

 腕。

 

「……待って」

 

「なに?」

 

 私は両手を差し出した。

 

 ちいがそこへ移る。

 

 朝より。

 

 また。

 

 少し大きい。

 

 数字を見なくても分かった。

 

 両手に乗せたときの重さ。

 

 脚の長さ。

 

 何より、朝にはぎりぎり収まっていた袋から、今は身体を丸めなければ出られなくなっている。

 

「ちい、立てる?」

 

「うん」

 

 私の掌の上で立つ。

 

 この場所で定規なんて出せない。

 

 代わりに、自分の手と比較する。

 

 手首から中指の先まで。

 

 私の手は十八センチくらい。

 

 ちいは、そのかなりの部分を占めるようになっている。

 

「……十四センチくらいある?」

 

「じゅうよん?」

 

「たぶん」

 

「おおきくなった?」

 

「なったね」

 

「いいこと」

 

 小声ながら、嬉しそうだった。

 

「いや、今はあんまり喜べないんだけど」

 

「なんで?」

 

「袋が限界だから」

 

 私は胸元の袋を見る。

 

 朝はぎりぎり。

 

 今はもう明らかに小さい。

 

 二限が終わるまであと一時間半近くある。

 

「どうしよ……」

 

 私が便座の蓋を閉めて座り込むと、ちいは掌から腕へ移った。

 

 そのまま肘の方へ歩いてくる。

 

「ちい?」

 

「ここ」

 

 袖口へ手を掛ける。

 

「そこ入るの?」

 

「あったかい」

 

「いや、暖かいかもしれないけど、袖から十二……いや十四センチの女の子出てきたら終わりだから」

 

「でないよ」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 少し考える。

 

 袋よりは、腕と服の間の方が縦方向の余裕はある。

 

 でも歩けば動く。

 

 しかも二限中、ずっと片腕の袖にちいがいることになる。

 

「……いやいや」

 

 私は一度首を振った。

 

 それでも、他の方法が思いつかない。

 

 リュックは冷たい。

 

 袋は狭い。

 

 家へ帰れば二限に間に合わない。

 

 休む?

 

 昨日も一限だけで帰ったようなものなのに。

 

「今日だけ……」

 

 声に出る。

 

 今日さえ終われば。

 

 明日と明後日は休み。

 

 二日間、こんなことをしなくていい。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「二限だけ、ここでじっとしてられる?」

 

 私は自分の左腕を示した。

 

 ちいがすぐ頷く。

 

「できる」

 

「ほんとに?」

 

「うん」

 

「途中で首まで登ってこない?」

 

 ちいは黙った。

 

「今考えたでしょ」

 

「……いかない」

 

「その間が怖いんだけど」

 

 それでも結局、やるしかなかった。

 

 カットソーの袖を少し緩め、ちいを腕の内側へ入れる。肘から上、二の腕の内側なら外から形が出にくい。

 

 ちいは私の腕に抱きつくような形で落ち着いた。

 

「あったかい?」

 

「うん」

 

「苦しくない?」

 

「へいき」

 

「じゃあ、絶対そこにいてね」

 

「うん」

 

 パーカーを上から着直す。

 

 鏡がないので、自分の腕を色々な角度から見る。

 

 少し太く見える。

 

 でも両腕を並べなければ、たぶん分からない。

 

「……こんなことで左右の腕の太さ気にする日が来ると思わなかった」

 

「なに?」

 

「何でもないよ」

 

 個室を出る。

 

 手を洗いながら鏡を見る。

 

 大丈夫。

 

 普通。

 

 普通に見える。

 

 左腕に十四センチくらいの女の子がしがみついている以外は。

 

「……普通ってなんだろ」

 

 鏡の中の自分へ小さく言って、教室へ向かった。

 

 二限は、一限よりずっと大変だった。

 

 ちいは約束通り静かにしていた。

 

 問題は私だった。

 

 左腕を自由に曲げられない。

 

 肘を強く曲げればちいを挟みそうで怖い。机へ腕を置くと圧迫するかもしれない。仕方なく左腕だけ少し浮かせ、右手だけでノートを取る。

 

 三十分を過ぎるころには肩が疲れた。

 

 四十分。

 

 左腕がだるい。

 

 五十分。

 

 ちいが一度だけ姿勢を変え、髪が腕の内側を擦った。

 

「……っ」

 

 私は歯を食いしばる。

 

 くすぐったい。

 

 今じゃない。

 

 頼むから今じゃない。

 

 それでも声には出さなかった。

 

 前を向く。

 

 教授の説明を聞く。

 

 数式を写す。

 

 左腕だけ、不自然なくらい動かさない。

 

 ふと、横の席の子がこちらを見る。

 

「腕どうしたの?」

 

 心臓が跳ねた。

 

「え?」

 

「さっきからずっと変じゃない?」

 

「あー……筋肉痛」

 

「左だけ?」

 

「昨日、変な寝方して」

 

 自分でも苦しいと思った。

 

 でも相手は「ああ」とだけ言って前へ向き直った。

 

 私はゆっくり息を吐く。

 

 腕の内側で、ちいの手がほんの少し動いた。

 

 たぶん私の皮膚を掴み直しただけ。

 

 それが何となく、「だいじょうぶ」と言われた気がした。

 

 いや。

 

 原因はあなたなんだけど。

 

 そう思ったのに、少し笑いそうになった。

 

 二限が終わった瞬間、私は心の中で時計へ拍手した。

 

 十二時。

 

 終わった。

 

 今日はもう帰れる。

 

 ノートを閉じ、周囲と同じ速度で立つ。昨日みたいに急いで怪しまれるのは嫌だった。

 

 左腕の中で、ちいはまだじっとしている。

 

「帰ろう」

 

 廊下へ出てから、小さく言った。

 

「おうち?」

 

「うん」

 

「あったかい?」

 

「今日は曇りだから、日向はないかな」

 

 少し間があった。

 

「じゃあ、こっち」

 

 腕にぎゅっと身体を寄せる感触がした。

 

「……はいはい」

 

 私は笑った。

 

 朝から袋を縫い直して、トイレで隠し場所を変更して、二限の間ずっと片腕を犠牲にして。

 

 我ながら、かなり意味の分からない午前だった。

 

 でも今日の講義は終わった。

 

 明日も明後日も大学はない。

 

 少なくとも二日間は、誰にも隠さなくていい。

 

 それだけ考えると、左肩の疲れまで少し軽くなった。

 

「帰ったら測ろうね」

 

「また?」

 

「また」

 

「おおきくなってる?」

 

「たぶんね」

 

「やった」

 

「だから、なんでそんなに嬉しいの」

 

「いいこと」

 

 腕の中でちいが笑った。

 

 私はため息をつきながら、駅へ向かった。

 

 たぶん帰ったら、袋ももう使えない。

 

 寝床も考え直す必要がある。

 

 十五センチ定規も、今日か明日には役目を終える。

 

 問題は増えている。

 

 確実に。

 

 それでも、二日も家にいられるなら何とかなる気がしていた。

 

「まあいっか」

 

 その時点では、本当にそう思っていた。

 

 *

 

 家に着いたのは、一時を少し回った頃だった。

 

 玄関の鍵を閉めた瞬間、私は壁に背中を預けた。

 

「……終わった」

 

「おわった?」

 

 左腕の中から声がする。

 

「終わった。もう出ていいよ」

 

「でる」

 

「ちょっと待って、ここで出ないで」

 

 袖の中でもぞもぞし始めた気配を止め、そのまま自分の部屋まで行く。リュックを床へ置き、パーカーを脱いでから、ようやくカットソーの袖口を広げた。

 

「はい。どうぞ」

 

 最初に手が出た。

 

 私の指を掴む。

 

 次に頭が見えて、黒い髪が袖口から押し出されてくる。

 

「……大きくなったなあ」

 

 思わず言った。

 

 朝は袋に入っていたのに、今は私の袖から一人の女の子が出てくる。

 

 もちろん、まだ小さい。

 

 小さいはずなのに。

 

 ほんの数日前、私の小指へ登るのにも苦労していた姿を知っているせいで、十五センチ前後の身体が妙に大きく見える。

 

 ちいは私の掌へ移ると、そのまま腕の上へ座った。

 

「ついた?」

 

「着いたよ」

 

「かくれる?」

 

「今日はもう隠れなくていい」

 

「ほんと?」

 

「ほんと。明日も明後日も」

 

 ちいは少し目を見開いた。

 

「ずっと?」

 

「とりあえず、大学には行かない」

 

「やった」

 

 両腕を上げた。

 

 それだけだった。

 

 でも、あまりに素直に喜ぶものだから、朝からずっと張っていたものが一気に抜けた。

 

「私もやっただよ、本当に……」

 

「いっしょ?」

 

「うん。一緒」

 

 今日はもう、電車の中で声を出さないよう気にしなくていい。講義中に突然動き出さないか心配しなくてもいい。左右の腕の太さを見比べて怪しまれないか確認する必要もない。

 

 明日の朝、何センチになっていても、とりあえず外へ隠して運ぶ必要はない。

 

 その事実だけで、部屋が昨日より広く感じた。

 

「じゃあまず測ろう」

 

「また?」

 

「帰ったら測るって言ったでしょ」

 

「あとで」

 

「駄目。絶対忘れるから今」

 

 机の上を見る。

 

 十五センチ定規。

 

 私はそれを取って、ちいを見る。

 

 少し迷った。

 

「……足りる?」

 

 ちいが定規の横へ立った。

 

 足元を合わせる。

 

 頭。

 

 十五の目盛り。

 

 髪の先が。

 

「超えてる」

 

 私は定規を見たあと、ちいを見る。

 

「ちい、ちょっと待って」

 

 引き出しを開ける。

 

 三十センチ定規。

 

 大学の授業で使ったものが一本あった。

 

 それを取り出した瞬間、自分で少し笑ってしまった。

 

「ついにこっちか」

 

「おおきい?」

 

「定規がね」

 

 机の上へ置くと、ちいは興味深そうに端から端まで見た。

 

「ながい」

 

「三十センチあるから」

 

「ちいもなる?」

 

「……どうだろうね」

 

「なる」

 

「なんでそんなに楽しそうなの」

 

 ちいは答えず、定規の横へ立つ。

 

 もう測定の手順は完全に覚えたらしい。踵を端へ合わせ、背筋を伸ばす。

 

「十五・六……かな」

 

 私は目線を下げて確認した。

 

「うん。十五・六」

 

 朝が十二・八。

 

 昼前に見た感じでは十四くらい。

 

 今が十五・六。

 

 スマートフォンへ記録する。

 

 機嫌良好。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「今日も結構伸びてるよ」

 

「うん」

 

「嬉しい?」

 

「うん」

 

「怖くない?」

 

 何気なく聞いたつもりだった。

 

 ちいがこちらを見る。

 

「こわい?」

 

「身体がどんどん大きくなってるの」

 

 ちいは自分の手を見る。

 

 足を見る。

 

 それから、机の上を見回した。

 

 少し考えている。

 

 私は黙って待った。

 

「あるける」

 

「うん」

 

「これ、のぼれる」

 

 ちいが近くにあった消しゴムへ片足を乗せた。

 

 今ではもう、障害物ですらない。

 

「うん」

 

「おおきいと、いっぱいできる」

 

「うん」

 

「いいこと」

 

 なるほど。

 

 ちいにはそう見えているらしい。

 

 私が先のことばかり気にしているのに対して、ちいは今できるようになったことを見ている。

 

 机の木目を跨がなくてよくなった。

 

 消しゴムより大きくなった。

 

 私の指より大きくなった。

 

 一人で移動できる距離も増えた。

 

 今のところ、大きくなることで失ったものより、得たものの方がずっと分かりやすい。

 

「そっか」

 

「だめ?」

 

「駄目じゃないよ」

 

 私はスマートフォンを置いた。

 

「痛くないならね」

 

「いたくない」

 

「苦しくもない?」

 

「ない」

 

「なら、今はいいか」

 

 またそれだ。

 

 今はいい。

 

 最近、何度この言葉で考えるのを先送りにしたんだろう。

 

 でも、本当にそれ以上の答えがなかった。

 

 その日の午後は、今までで一番ちいを自由にさせた。

 

 人に見られる心配がないから、机の上だけに留めておく必要もない。私はベッドから床までクッションを使って簡単な段差を作った。

 

「ここから降りられる?」

 

 ちいがベッドの端から下を見る。

 

 高さは四十センチ以上。

 

 今のちいからすれば、自分の身長の三倍近い。

 

「むり」

 

「だよね」

 

 クッションを二つ。

 

 畳んだ毛布。

 

 さらに座布団。

 

 階段というより斜面に近いものを作る。

 

「これなら?」

 

 ちいは慎重に一段目へ足を下ろした。

 

「……いける」

 

「落ちないでよ」

 

「へいき」

 

「そのへいき、あんまり信用してないからね」

 

 言ったそばから、毛布の端で足を滑らせた。

 

「あっ」

 

 私は反射的に手を出した。

 

 でも、ちいは自分で踏ん張った。

 

 両手をつき、そのまま身体を起こす。

 

「へいき」

 

「今落ちかけたでしょ」

 

「おちなかった」

 

「結果論なんだよなあ」

 

 それでも、床へ着いたちいは嬉しそうだった。

 

 初めて自分の足で部屋の中を歩く。

 

 まだ私からすればほんの数歩の距離なのに、ちいにとっては広い。

 

 ベッドの下を覗く。

 

 机の脚へ触る。

 

 カーテンの裾を両手で掴んでみる。

 

「それ引っ張らないで」

 

「なんで?」

 

「落ちたら困るから」

 

 今度はスリッパの中へ入る。

 

「ちい」

 

「おおきい」

 

「それ私のスリッパ」

 

「ちい、はいれる」

 

「入れるね。出て」

 

 顔だけ出してこちらを見る。

 

「ここもあったかい?」

 

「たぶん臭いよ」

 

「くさい?」

 

「……分からないならいい」

 

 床へ座ってその様子を見ているうちに、私はいつの間にか笑っていた。

 

 昨日まで、ちいをどう隠すかばかり考えていた。

 

 今日は違う。

 

 どこまで歩けるか。

 

 何に登れるか。

 

 何が危ないか。

 

 そんなことを一つずつ確かめている。

 

 ふと時計を見る。

 

 もう三時を過ぎていた。

 

 私は床に並べたクッションと毛布を見た。机の横には三十センチ定規。スマートフォンには身長の記録。

 

 使えなくなったちい専用の袋は、机の端に置いたまま。

 

「……何してるんだろうなあ」

 

 今度は自然に出た。

 

 ちいがスリッパから顔を出す。

 

「なに?」

 

「ちいのあそびば」

 

「ちいの?」

 

「そう」

 

 その瞬間、ちいがまた嬉しそうにした。

 

「すき」

 

「何が?」

 

「せんよう」

 

 専用。

 

 昨日から、それが妙に気に入っている。

 

「……じゃあ、まあいっか」

 

 私は毛布の端をもう少し折って、ちいが登りやすいようにした。

 

 夕方には雲が少し切れた。

 

 窓から弱い光が入ってきて、床の一部だけが明るくなった。

 

 ちいはすぐ気づいた。

 

「ひなた」

 

「よく分かるね」

 

 走る、とまではいかないけれど、さっきまでより速い足取りで向かっていく。

 

 光の中へ入ると、その場に座った。

 

 手を床へつける。

 

「まだ温かい?」

 

「ちょっと」

 

「じゃあカーテンもう少し開けようか」

 

 私は立ち上がり、カーテンを端まで寄せた。

 

 日向が広がる。

 

 ちいもそれに合わせて少し移動した。

 

 そこへ寝転がる。

 

 最初に日光浴をしたときと同じ、仰向け。

 

 両腕を少し広げ、目を閉じる。

 

 十五センチを越えた今も、その姿は何も変わっていなかった。

 

「気持ちいい?」

 

「うん」

 

「寝る?」

 

「ねない」

 

 十分後には寝ていた。

 

「……知ってた」

 

 私は小さく笑った。

 

 夕方六時頃、もう一度測った。

 

「十七・一」

 

 ちいは三十センチ定規の横で、自分の頭の位置を見ている。

 

「またおおきい」

 

「また大きいね」

 

「どこまで?」

 

「それを私が聞きたいんだけど」

 

 記録を眺める。

 

 朝、十二・八。

 

 帰宅時、十五・六。

 

 夕方、十七・一。

 

 やっぱり温かい時間が長いほど伸びているように見える。

 

 でも、それだけでは説明できないところもある。眠っている間にも伸びる。日向にいたときも伸びる。私から離れている時間があっても止まりはしない。

 

 人肌程度の温度は、ちいを元気にする。

 

 たぶん成長も促す。

 

 でも、成長そのものを起こしている原因は別なのかもしれない。

 

 私はスマートフォンのメモへ、自分なりに仮説を書き始めた。

 

 適温は三十数度前後。

 

 低温では活動低下。

 

 人肌または日向を好む。

 

 高温は嫌がる。

 

 成長継続。

 

 健康状態に異常なし。

 

「……研究ノートみたいになってきた」

 

「これなに?」

 

「ちいのこと調べてる」

 

「ちい?」

 

「そう」

 

 ちいが私の隣まで来る。

 

 今はもう、机の上から腕へ移るのに以前ほど苦労しない。私が手を出すと掌へ乗り、そこから手首、腕へと歩いてくる。

 

 そして肘の内側へ座った。

 

「見たい?」

 

「うん」

 

「字、読めないでしょ」

 

「みる」

 

「まあいいけど」

 

 スマートフォンを見せる。

 

 ちいは画面へ顔を近づけた。

 

「これ、ちい?」

 

「そう。全部ちい」

 

「いっぱい」

 

「いっぱいだよ。誰のせいだと思ってるの」

 

「ちい?」

 

「正解」

 

 嬉しそうに笑った。

 

 私は呆れながら画面を閉じた。

 

 夜になると、別の問題が出た。

 

 寝床。

 

 昨日まで使っていた袋は、もう完全に無理だった。

 

 試しにちいが入ろうとしたけれど、腰まで入れたところで止まった。

 

「むり」

 

「だから言ったでしょ」

 

「ちいのなのに」

 

「ちいのだけど、ちいが大きくなったんだから仕方ないよ」

 

 ちいは袋を見ていた。

 

 少し残念そうだった。

 

「捨てないよ」

 

 気づいたらそう言っていた。

 

 ちいが顔を上げる。

 

「ほんと?」

 

「うん。最初の専用だし」

 

「せんよう」

 

「だから取っとく」

 

 それだけで機嫌が戻る。

 

 本当に分かりやすい。

 

 私は袋を畳み、机の引き出しへ入れた。

 

「じゃあ今日どうするかだね」

 

 昨日までのイヤホンの箱なんて、もう家どころか椅子にもならない。

 

 私はベッドの上を見た。

 

 枕。

 

 布団。

 

 ちい。

 

「……普通に寝る?」

 

「ここ?」

 

「ベッド」

 

「いっしょ?」

 

 ぱっと顔が明るくなる。

 

「いや、喜ぶ前に問題があるんだよ」

 

 私は自分が寝返りを打つ様子を想像した。

 

 十七センチ。

 

 昨日までよりは丈夫そうに見える。

 

 でも、私の身体の下に入ったらどうなるかなんて試す気にもならない。

 

「潰したら嫌だし」

 

「つぶれる?」

 

「だから怖いの」

 

 私はしばらく考えた末、枕の隣に空間を作った。

 

 畳んだタオルを何枚か重ね、その周囲を丸めた毛布で囲う。

 

 小さなベッド。

 

 いや。

 

 もう、小さいというほどでもない。

 

 ちいが横になると、ちゃんと一人分の寝床に見えた。

 

「どう?」

 

 ちいが入る。

 

 横になる。

 

 背中をつける。

 

 数秒。

 

「つめたい」

 

「やっぱりそこか」

 

 分かっていた。

 

 タオルを私の身体で温めても、長くは持たない。

 

 電気毛布は温度調節が難しい。

 

 使い捨てカイロは熱すぎる。

 

 私はベッドの上で腕を組んだ。

 

「……もう一個布団買う?」

 

「ふとん?」

 

「いや、買っても温かくならないか」

 

 ちいが寝床から出た。

 

 私の膝まで歩いてくる。

 

 パジャマの上から両手をつく。

 

「ここ」

 

「ここって」

 

 そのまま膝へ身体を寄せる。

 

「あったかい」

 

「まあ、そうでしょうね」

 

 私は見下ろした。

 

 ちいも見上げている。

 

「……一緒に寝たいの?」

 

「うん」

 

 迷いがない。

 

 私は困った。

 

 本当に困った。

 

 安全だけ考えれば離した方がいい。

 

 でも、ちいにとって私の体温はただ好きなだけじゃない。身体を動かすために必要なものでもある。

 

 それに。

 

 正直に言えば。

 

 私も、隣にいた方が安心する。

 

 夜中に冷えて動けなくなっていないか。

 

 どこかから落ちていないか。

 

 そんなことを気にして何度も目を覚ますくらいなら、手の届くところにいてくれた方がいい。

 

「……何やってるんだろうな」

 

 呟きながら、布団をめくる。

 

「いいよ。ただし条件あるからね」

 

「じょうけん?」

 

「私の身体の前には来ない。絶対」

 

「なんで?」

 

「寝返りで潰すから」

 

「へいき」

 

「そういう問題じゃないの」

 

 ちいが少し考える。

 

「じゃあ、ここ」

 

 私の枕を指差した。

 

「枕?」

 

「うん」

 

 試しに横になる。

 

 ちいを枕の端へ座らせる。

 

 私の顔の横。

 

 距離は二十センチもない。

 

「近くない?」

 

「ちかい」

 

「嬉しそうだね」

 

 ちいはそのまま枕へ横になった。

 

 でも数秒後、私の方へ寄ってくる。

 

「ちょっと」

 

 頬を、私の頬へ。

 

 ぺた。

 

「……そこ?」

 

「あったかい」

 

 思わず笑った。

 

「最初、私の指にこれやってたよね」

 

「ゆび?」

 

「覚えてない?」

 

 ちいは考えている。

 

「ちい、ちいさかった?」

 

「すごく小さかったよ」

 

「いま、おおきい」

 

「そうだね」

 

「いいこと」

 

 私の頬に両手を置いている。

 

 最初なら、その手が触れていることに集中しなければ分からなかった。

 

 今は違う。

 

 ちゃんと手だ。

 

 指の形も。

 

 掌の面積も。

 

 頬へ伝わる圧力も分かる。

 

「もっと大きくなったら、これどうするの?」

 

「する」

 

「何を」

 

「こうする」

 

 ちいはさらに頬を寄せた。

 

「いや、今じゃなくて」

 

「すき」

 

「……知ってる」

 

 私は目を閉じた。

 

 ほんの数日前。

 

 ちいは私の小指より小さかった。

 

 今は顔の横で寝ている。

 

 この速度なら、休日が終わる頃にはどれくらいになっているんだろう。

 

 二十センチ。

 

 三十センチ。

 

 もっと。

 

 考えると不安になる。

 

 でも、その不安のすぐ横で、ちいは私の頬へくっついて満足そうにしている。

 

 たぶん本人は、明日の自分が何センチかなんて全く気にしていない。

 

 温かい。

 

 私がいる。

 

 明日は大学がない。

 

 今のちいにとって、大事なのはそれくらいなのだろう。

 

「……まあいっか、明日は明日で考える」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 しばらくすると、頬に触れていた力が抜けた。

 

 寝たらしい。

 

 私は目を開け、すぐ横を見る。

 

 十七センチの身体を丸めて、ちいが眠っている。

 

 もう枕の端に置いた小さな何かではない。

 

 それでも寝顔は、掌の上で眠っていた頃と変わらなかった。

 

 私はちいがこちらへ転がってこないよう、枕の間に丸めたタオルを一本置いた。

 

 そこでまた、自分のしていることに気づく。

 

 夜中の四センチの女の子用に手を差し出して寝ていた数日前から、今度は十七センチの女の子用に枕へ柵を作っている。

 

「……順応しすぎじゃない、私」

 

 小さく言う。

 

 当然、返事はなかった。

 

 まあいっか。

 

 明日は休みだ。

 

 目覚ましもかけなくていい。

 

 朝になったちいが、また少し大きくなっていたとしても。

 

 少なくとも、誰にも隠さなくていい。

 

 それだけで今日は十分だった。

 

 *

 

 次の日は、目を開ける前から晴れているのが分かった。

 

 カーテン越しの光が瞼に明るく、布団の外へ出した頬が昨日より暖かい。

 

 その頬に、別の温かさが触れていた。

 

「……ん」

 

 目を開ける。

 

 ちいがいた。

 

 昨夜、私の顔の横で眠っていたはずのちいは、いつの間にか丸めたタオルの柵を越え、私の頬へ背中をつけて寝ていた。

 

 しかも、大きい。

 

 寝起きの頭でも分かるくらい。

 

 黒い髪が枕の上へ広がっている。頭から足までを目で追うと、昨日より明らかに長い。私の顔の横にいるせいもあって、もう「小さな人形」という感じがかなり薄れていた。

 

「……ちい」

 

「んー」

 

「起きて」

 

「や」

 

「測るよ」

 

「あとで」

 

 寝返りを打とうとして、ちいの存在を思い出し、私は寸前で止まった。

 

 危ない。

 

 これだ。

 

 昨日より大きくなったから安心、ではない。むしろ身体がある程度大きくなったせいで、私の方が無意識に普通の寝方へ戻りかけている。

 

「ほら、起きて。私が怖いから」

 

「こわい?」

 

「潰しそうで」

 

 ちいは薄く目を開け、私を見る。

 

「つぶれてない」

 

「今はね」

 

 本人は全く気にしていなかった。

 

 ようやく起き上がったちいを両手ですくう。昨日の夜は十七センチ。今は、両手に乗せても脚が手首より先へ出る。

 

 三十センチ定規の横へ立たせると、二十の目盛りを髪が少し越えた。

 

「二十・三」

 

「にじゅう?」

 

「二十センチ超えた」

 

「やった」

 

「何が、やった、なの」

 

 でも、ちいは嬉しそうだった。

 

 三十センチ定規の三分の二まで自分が届いたことが面白いらしい。

 

 昨日までは数字の十五辺りにいたのに、今日は二十を指で触っている。

 

「もう最初の五倍くらいだよ」

 

「ごばい?」

 

「最初のちいを五人、縦に並べたくらい」

 

 ちいは少し考え、自分の隣に小さな自分が五人並んでいるところでも想像したのか、笑った。

 

 私はその横顔を見ながら、ふと違和感を覚えた。

 

「……そういえば」

 

「なに?」

 

「その服」

 

 白い服。

 

 最初に見つけたときから着ている、何の飾りもないワンピースのようなもの。

 

 四センチの頃からずっと同じだった。

 

 同じ、というのは色や形だけではない。

 

 ちいが五倍になった今も、丈は膝の少し上。肩周りも腰回りもぴったりで、きつくなった様子がない。

 

「それ、何?」

 

 今更だった。

 

 ちいが自分の胸元を見る。

 

「ふく」

 

「それは分かる」

 

 私は笑いながら、ちいの前へ指を出した。

 

「ちょっと触っていい?」

 

「うん」

 

 服の裾を指先でつまむ。

 

 薄い。

 

 柔らかい。

 

 布には違いないように感じる。でも、よく見ると縫い目がない。裾にも、脇にも、肩にもない。糸の一本一本も、普通の布ほどはっきり見えなかった。

 

「これ脱げる?」

 

 ちいが首を傾げる。

 

「ぬぐ?」

 

「うん」

 

 自分の服を脱ぐ動作をしてみせる。

 

 ちいも襟元らしい部分へ指を掛けた。

 

 引っ張る。

 

 伸びない。

 

 もう一度。

 

「……むり」

 

「やっぱり?」

 

「なんで?」

 

「それを私が聞きたいんだけど」

 

 肌と繋がっているようには見えない。襟の間にはちゃんと隙間があるし、指先も少し入る。

 

 なのに、脱げない。

 

 そして成長しても一緒に大きくなる。

 

「身体の一部なのかな……」

 

「ちいの?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、ちいの」

 

「納得するの早いなあ」

 

 本人にとっては、それで終わりらしい。

 

 私はもう少し気になったけれど、引っ張り回すのも嫌なのでやめた。

 

 そのままカーテンを開けた。

 

 朝の日差しが一気に部屋へ入る。

 

「あ」

 

 ちいが振り向いた。

 

 分かりやすい。

 

「行っておいで」

 

「うん」

 

 ベッドから床へのクッション階段も、昨日よりずっと簡単に降りられた。昨日は一段ずつ慎重だったのに、今日は毛布の段差を普通に跨ぎ、最後のクッションから床へ降りる。

 

 そして日向へ向かう。

 

 窓際。

 

 床板が陽射しを受けて温まり始めている場所へ座り、両手をつく。

 

「まだそんなに温まってないでしょ」

 

「ちょっとあったかい」

 

 しばらくすると、いつものように寝転がった。

 

 うつ伏せ。

 

 頬を床につける。

 

 四センチの頃なら、机の上の日向で小さな身体を伸ばしていた。

 

 二十センチになっても、それは同じだった。

 

 机が床になっただけ。

 

 私はベッドへ腰掛けて、その姿を見る。

 

 昨日までなら、転ばないか、何かに挟まらないか、目を離すのが怖かった。でも二十センチを越えると、少しだけ安心できる。

 

 床を歩く足取りもしっかりしているし、自分で段差を避けることもできる。

 

 だから午前中は、久しぶりにのんびりした。

 

 洗濯機を回し、部屋を片づける。

 

 ちいは日向。

 

 光が移動すると、ちいも移動する。

 

 私が洗濯物を干して戻ってくると、さっきまでいた場所から三十センチくらいずれて寝ている。

 

「……植物みたい」

 

「しょくぶつ?」

 

「何でもない」

 

 昼が近づくにつれて日差しは強くなった。

 

 ちいは気持ちよさそうだった。

 

 私は床へ座り、ノートパソコンを膝へ乗せる。課題をやっていると、ときどきちいが近づいてくる。

 

 最初は足元。

 

 次に膝。

 

 今では私が少し手を添えるだけで、自分で太腿まで登れるようになっていた。

 

「日向あるでしょ」

 

「こっちも」

 

「どっちも欲しいの?」

 

「うん」

 

 私の膝の上へ腹ばいになる。

 

 顔だけ日差しの方へ向けて。

 

「贅沢だねえ」

 

 返事はない。

 

 数分で寝た。

 

 私はキーボードへ手を伸ばしかけ、その姿を見る。

 

 動かせない。

 

「……またこれか」

 

 結局、片手で課題をすることになった。

 

 そのときはまだ笑っていられた。

 

 問題に気づいたのは昼過ぎだった。

 

 冷蔵庫を開けた。

 

「……ない」

 

 何もないわけではない。

 

 でも、まともに数日過ごすには明らかに少ない。

 

 大学へ行った日は帰宅するとすぐちいの様子を見ていたし、休んだ日はほとんど家にいた。買い物をずっと後回しにしていたせいで、冷蔵庫も戸棚もかなり空いている。

 

 明日も休み。

 

 明後日からまた大学。

 

 今日のうちにまとめて買っておきたい。

 

 私は冷蔵庫の扉を閉めた。

 

 そのまま、床の日向にいるちいを見る。

 

「……買い物」

 

「かいもの?」

 

「行かなきゃ」

 

 ちいが起き上がる。

 

「いく」

 

「いや」

 

「いく」

 

「今日は無理」

 

 即答すると、ちいの顔が少し曇った。

 

「なんで?」

 

「二十センチあるから」

 

「はいれる?」

 

「何に」

 

「せんよう」

 

「あれはもう入れないでしょ」

 

 ちいは一瞬黙り、机の引き出しを見る。

 

 あの袋が入っている場所を覚えているらしい。

 

「そもそも今日は買う量が多いから、ちいまで連れていったら無理なの」

 

「ちい、あるける」

 

「そういう問題じゃない」

 

「いく」

 

「駄目」

 

 思ったより頑固だった。

 

 私が立ち上がると、ちいもついてくる。床を歩いて私の足元まで来て、裾を掴む。

 

「ちい」

 

「いく」

 

「見つかったら困るって、大学のときも言ったでしょ」

 

「かくれる」

 

「二十センチがどこに隠れるの」

 

 ちいは考える。

 

「……ここ」

 

 私の脚へ抱きついた。

 

「それ隠れてないから」

 

 思わず笑いそうになった。

 

 でも、ちいは笑っていなかった。

 

「ひとり、いや」

 

 その言葉で困る。

 

 最初から、ここだけは変わらない。

 

 温かさが必要だからという理由もある。

 

 でも、それだけじゃないのかもしれない。

 

 私はしゃがんだ。

 

 ちいと目線を近づける。それでも私の方がずっと大きいけれど、最初に顔を机へ近づけたときほどの隔たりはない。

 

「今日は晴れてるから」

 

 窓を指す。

 

「日向、ずっとあると思う。寒くなったら日向へ移動して。窓は閉めていくから危なくないし、玄関も鍵かける」

 

「でも」

 

「すぐ帰ってくる」

 

「すぐ?」

 

「一時間くらい」

 

 ちいに一時間がどのくらいか、まだ感覚として分からないかもしれない。

 

 私はスマートフォンのタイマーを一時間にして見せた。

 

「これが鳴るより前に帰ってくる」

 

「ほんと?」

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「……帰ってくる。頑張る」

 

 そこまで言っている自分に、少しおかしくなった。

 

 大学生が、二十センチの女の子に留守番を説得している。

 

 しかも心配だからタイマーまで設定して。

 

「ペット飼ってるみたいだな……」

 

 口から出た。

 

「ぺっと?」

 

 ちいが聞く。

 

 私はそこで、少し嫌な気分になった。

 

「いや。違う」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 違う。

 

 ちいはペットじゃない。

 

 言葉を話すし、嫌だと言うし、私の都合で飼っているわけでもない。

 

 そもそも私はこの子を拾ったというより、ただ机の上で見つけただけだ。

 

 それなのに、留守番を心配して、危ない場所がないか確認して、帰る時間を約束している自分を外側から見たら、そう見えてしまった。

 

「……やめよ」

 

「なにを?」

 

「変なこと考えるの」

 

 私は立ち上がった。

 

「ちいはちい」

 

 その言葉は、胸にすとんとおりた。

 

「ちいは留守番。私は買い物。いい?」

 

「ちいはいかない?」

 

「今日はお留守番」

 

 まだ不満そうだった。

 

 そこで私は窓際へ、使っていないタオルを何枚か重ねた。

 

 日差しの当たる場所。

 

 床より少し柔らかい。

 

「ここ、ちい専用」

 

 言った瞬間。

 

 ちいの顔が変わった。

 

「せんよう?」

 

「……そこに食いつくと思った」

 

 ちいはすぐタオルへ乗った。

 

 座る。

 

 触る。

 

 寝転がる。

 

「どう?」

 

「すき」

 

「じゃあ、ここで待ってて」

 

「うん」

 

 早い。

 

 さっきまでの抵抗は何だったんだ。

 

「絶対、窓は触らない。机に登らない。玄関にも行かない。分かった?」

 

「うん」

 

「日向が動いたら、床の明るいところ追いかけていいけど、ベッドの下には入らないで」

 

「なんで?」

 

「見つからなくなるから」

 

「わかった」

 

 私は念のため、もう一度部屋を見回した。

 

 危ない物。

 

 落ちそうな物。

 

 倒れそうな物。

 

 窓の鍵。

 

 コンセント。

 

 ドア。

 

「……ほんと何してんだ私」

 

 また出た。

 

 でも今度は、自分で笑った。

 

「まあいいや」

 

 バッグを持つ。

 

 玄関へ向かう。

 

 後ろから声がした。

 

「かえってくる?」

 

 振り返る。

 

 日向のタオルの上で、ちいがこちらを見ている。

 

「帰ってくるよ」

 

「はやく?」

 

「なるべく」

 

「うん」

 

 ドアを閉める寸前まで、ちいはそこにいた。

 

 外へ出てからも、しばらく落ち着かなかった。

 

 鍵はかけた?

 

 かけた。

 

 窓は?

 

 閉めた。

 

 危ない物は?

 

 片づけた。

 

 日向は?

 

 まだしばらく窓際にある。

 

「……大丈夫」

 

 小さく自分に言い聞かせる。

 

 スーパーへ着く頃には、少し落ち着いた。

 

 むしろ一人で歩くことが久しぶりに感じた。

 

 服の中を気にしなくていい。

 

 腕を曲げてもいい。

 

 急に立ち止まってもいい。

 

 誰かにぶつかっても、少なくとも二十センチの女の子を挟む心配はない。

 

 楽だった。

 

 ものすごく。

 

 それに気づいて、少しだけ罪悪感が出た。

 

「いや、普通だから」

 

 自分に言う。

 

 私は元々一人で買い物していた。

 

 これが普通だ。

 

 ちいが来てからがおかしかっただけ。

 

 だから今くらい、解放されたと思ってもいい。

 

 そう考えているうちに、今度はちいのことばかり考えている自分が馬鹿らしくなった。

 

 野菜を籠へ入れる。

 

 日用品。

 

 冷蔵庫に入れておけるもの。

 

 数日分まとめて。

 

「大丈夫大丈夫」

 

 もう一度言った。

 

 ちいは今、自分専用のタオルで日光浴している。

 

 たぶん寝ている。

 

 私はその光景を想像した。

 

 そして、少し笑った。

 

 ペットみたい。

 

 またそう思って、今度は打ち消さなかった。

 

 似ている部分はある。

 

 それでいい。

 

 別にちいを本当にペットだと思っているわけじゃない。

 

 世話を焼いて、外出中に気になって、帰ったら最初に様子を見たくなる。

 

 その部分だけなら、似ていてもいい。

 

「ちいはちい。なんでもいい」

 

 私は買い物籠を持ち直した。

 

 ちいと会ってから、吹っ切れるのが早くなった気がする。

 

 帰宅したのは、家を出てから五十二分後だった。

 

 約束より早い。

 

 玄関の鍵を開ける。

 

「ただいま」

 

 返事はない。

 

 まあ、部屋まで聞こえないか。

 

 両手の袋を床へ置き、靴を脱ぐ。

 

「ちい?」

 

 廊下を進む。

 

 部屋のドアは、出たときと同じだけ開いている。

 

 入る。

 

「帰ったよ」

 

 日向を見る。

 

 タオル。

 

 空。

 

 一瞬、意味が分からなかった。

 

「……ちい?」

 

 窓際へ行く。

 

 タオルを持ち上げる。

 

 いない。

 

 日向は出たときより左へ移動していた。

 

 その先を見る。

 

 いない。

 

「ちい」

 

 少し声が大きくなる。

 

 机の下。

 

 ベッドの脇。

 

 カーテンの裏。

 

「ちい?」

 

 返事がない。

 

 胸の中が、急に冷えた。

 

 さっきまでの余裕が全部消えた。

 

 ベッドの下。

 

 入るなと言った。

 

 でも。

 

 しゃがんで覗く。

 

 暗い。

 

「ちい!」

 

 いない。

 

 喉が乾く。

 

 何で。

 

 どこ。

 

 窓。

 

 閉まっている。

 

 鍵もかかったまま。

 

 玄関。

 

 開けられるはずがない。

 

 それでも、あり得ないことばかり起きている。

 

 ちいが四センチで机にいたこと自体、あり得なかった。

 

 じゃあ、いなくなることだって。

 

「……やだ」

 

 声が出た。

 

 自分でも驚くくらい弱かった。

 

 私は床に膝をついたまま周囲を見る。

 

 クッション。

 

 毛布。

 

 机。

 

 引き出し。

 

 スリッパ。

 

 昨日ちいが歩いた場所。

 

 全部見る。

 

 頭の中で、出かける前の会話が何度も戻ってくる。

 

 すぐ帰る。

 

 帰ってくる。

 

 ここで待ってて。

 

 ちい専用。

 

 私が置いていった。

 

 一人にした。

 

 いや。

 

 だから何だ。

 

 たった五十分だ。

 

 今までだって私が風呂に入っている間くらい一人だった。

 

 大丈夫。

 

 そう思おうとするのに、身体が聞かない。

 

 心臓が速い。

 

 指先が冷たい。

 

「ちい、返事して!」

 

 部屋を出る。

 

 廊下。

 

 洗面所。

 

 浴室。

 

 台所。

 

 ちいがそこまで移動できるのかも分からない。

 

 でも探す。

 

 床に何か落ちていないか。

 

 隙間に挟まっていないか。

 

 冷たい場所で動けなくなっていないか。

 

 最悪の想像ばかり出る。

 

 踏んだ?

 

 いや、帰ってからほとんど歩いていない。

 

 何かの下に。

 

 落ちた。

 

「……ちい」

 

 返事がない。

 

 私は自分の部屋へ戻った。

 

 そこで、ようやく。

 

 ごそ。

 

 音がした。

 

 止まる。

 

 どこ。

 

 もう一度。

 

 ごそ、ごそ。

 

 ベッド。

 

 いや。

 

 その上。

 

 掛け布団が、ほんの少し動いた。

 

「……え」

 

 私は近づいた。

 

 布団の膨らみ。

 

 出かける前にはなかった。

 

 端を掴む。

 

 めくる。

 

 黒い髪が見えた。

 

「ちい!」

 

 いた。

 

 枕と掛け布団の間。

 

 ちいは身体を丸くし、私のパジャマの上着を抱えるようにして寝ていた。

 

 私が朝脱いで、ベッドの端へ置いていたもの。

 

 日差しで温まったあと、たぶん匂いか温度か、何かを頼りにここまで来たのだろう。

 

 ちいが目を開けた。

 

「……おかえり」

 

 その声を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。

 

「……何してるの」

 

「ねてた」

 

「見れば分かるよ」

 

「かえってきた?」

 

「帰ってきたよ」

 

 怒りたかった。

 

 勝手に動かないでと言ったでしょう、と。

 

 ベッドの下には入るなとは言ったけど、ベッドの上ならいいなんて意味じゃない。

 

 探した。

 

 すごく。

 

 心配した。

 

 言いたいことはいくらでもあった。

 

 なのにちいは、まだ眠そうな顔で私を見上げている。

 

 そして、抱えていた私のパジャマへ頬をつけた。

 

「あったかかった」

 

「……もう冷えてるでしょ、それ」

 

「ちょっと」

 

 私はその場に座り込んだ。

 

 膝から力が抜けていた。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「いなくなったかと思った」

 

 ちいが瞬きをする。

 

「いたよ」

 

「私は知らなかったの」

 

「ここに」

 

「だから……」

 

 声が少し震えた。

 

 そこで初めて、自分がどれだけ怖かったのか分かった。

 

 胸の奥がまだ痛い。

 

 心臓も速いまま。

 

 ちいがいなかった時間なんて、実際には数分だった。

 

 でも。

 

 この数日ずっと、目を離さないようにしていた。

 

 落とさないように。

 

 冷やさないように。

 

 見つからないように。

 

 大きくなったら新しい場所を作って。

 

 大学へ連れていく袋まで縫って。

 

 それなのに帰ってきていなかった。

 

 その瞬間。

 

 全部、間に合わなかった気がした。

 

「……ほんとにもう」

 

 私は両手を差し出した。

 

 ちいが立ち上がる。

 

 そして手へ乗る。

 

 重い。

 

 朝よりまた少し。

 

 でも今は測る気になれなかった。

 

 私はそのまま胸元へ持ってきた。

 

 ちいが腕を伸ばす。

 

 首へ。

 

 頬をつける。

 

「あったかい」

 

「……うん」

 

 抱きしめるわけにはいかない。

 

 今のちいでも、私が力を入れすぎれば痛いかもしれない。

 

 だから両手で包むだけ。

 

 それでも、手の中にいる。

 

 触れている。

 

 それだけでようやく呼吸が戻ってきた。

 

「次から、移動したら分かるようにして」

 

「どうやって?」

 

「それは……」

 

 分からない。

 

 鈴でもつける?

 

 首輪?

 

 そこまで考えて。

 

「……ほんとペットじゃん」

 

 思わず笑った。

 

 ちいが顔を上げる。

 

「ぺっと?」

 

「違う。何でもない」

 

 私は首を振った。

 

 もういい。

 

 似てても何でも。

 

 この子はちいだ。

 

 私は私。

 

 ちいはちい。

 

 心配するものは心配するし、振り回されるときは振り回される。

 

 それでいい。

 

「ただいま、ちい」

 

 改めて言った。

 

 ちいは少し笑う。

 

「おかえり」

 

 それから私の首元へもう一度頬をつけた。

 

「ここ、すき」

 

「知ってる」

 

 私は片手でちいを支えながら、玄関に置きっぱなしだった買い物袋を取りに戻った。

 

 予定では、帰ったら冷蔵庫へしまって、洗濯物を取り込んで、課題の続きをするはずだった。

 

 でもその前に。

 

 一度、ちいを測った。

 

 二十四・九センチ。

 

 朝より四センチ以上大きくなっていた。

 

「……」

 

「おおきい?」

 

「大きいよ」

 

「やった」

 

「うん。もう好きに喜んで」

 

「いいこと」

 

 ちいは笑った。

 

 私はその数字を記録し、スマートフォンを置いた。

 

 機嫌良好。私の気も知らないで。

 

 いつものように記録すると、かなり落ち着いてきた。

 

 買ってきたものを片づけなければならない。

 

 洗濯物もまだ外。

 

 部屋も、探し回ったせいで少し散らかった。

 

 やることはいくらでもある。

 

 そのくせ、ちいは私の肩近くに座り、首へもたれたまま動こうとしない。

 

「……降りない?」

 

「ここいる」

 

「私、片手しか使えないんだけど」

 

「うん」

 

「うん、じゃないよ」

 

 返事はない。

 

 満足そうだった。

 

 私は天井を見た。

 

 何やってるんだろう。

 

 本当に。

 

 朝から二十センチの女の子の服を調べて、専用の日向を作って、留守番を説得して、スーパーでもずっと気にして、帰ったら家中探し回って。

 

 挙げ句の果てに、見つけた本人は何も知らずに私のパジャマで昼寝していた。

 

「……まあ」

 

 ちいを見る。

 

 頬を首につけたまま、もう目を閉じかけている。

 

「まあいっか」

 

 私は片手で買い物袋を持ち上げた。

 

 大変なのは変わらない。

 

 たぶん明日は、もっと大きくなる。

 

 もっとできることが増えて。

 

 その分、また別のことをする。

 

 そして私はまた、何やってるんだろうと思うのだろう。

 

 それでも今は、さっきまで空だった部屋にちゃんと重さが戻ってきたことの方が、ずっと大事だった。

 

 *

 

 買ってきたものを全部しまい終える頃には、外はもう薄暗くなっていた。

 

 ちいは結局、ずっと私の肩にいた。

 

 二十五センチ近くもあると、さすがに以前みたいに存在を忘れる心配もない。

 

 首元へ寄りかかられるたびに重さがかかるし、姿勢を変えれば肩から背中へ小さな足が当たる。

 

「ちい、そろそろ降りない?」

 

「なんで?」

 

「重いから」

 

 言ってしまってから、少し申し訳なくなった。

 

 でも事実だった。

 

「おもい?」

 

「前よりね」

 

 ちいは私の肩の上で自分の身体を見る。

 

「おおきいから?」

 

「そう」

 

「いいこと」

 

「ちいにとってはね」

 

 ちいはそれで納得したらしく、今度は嬉しそうに私の首へ頬をつけた。

 

「いや、重いって言った直後にくっつく?」

 

「あったかい」

 

「そうですか」

 

 結局、家の整理が終わるまで降りなかった。

 

 夕方になると、ちいはさらに自由に部屋を歩き回るようになった。

 

 二十センチを超えてから、家の中にあるものの意味がかなり変わってきたらしい。

 

 三日前まで壁だった座布団は、今日は少し高い段差になった。

 

 スリッパは完全に入れる箱ではなく、跨いで中を覗けるものになった。

 

 床に置いたリュックのファスナーにも、自分で手をかけられる。

 

「開けないでよ」

 

「なんで?」

 

「中ぐちゃぐちゃだから」

 

「みる」

 

「見なくていい」

 

 ちいは気にせずファスナーを両手で引っ張ろうとしていた。

 

 まだ力が足りず、ほとんど動かなかったけれど。

 

 私はそれを見ながら、少し変な気分になった。

 

 最初は机の上から落ちないように見張っていればよかった。

 

 次は床に降りられないように。

 

 今は、床へ降ろしておくと勝手に部屋の中を探索している。

 

 できることが増えるのは、ちいにとっては楽しい。

 

 私にとっては、心配する範囲が広がる。

 

「……成長ってそういうことなのかな」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 なんだか本当に子どもを見ているみたいだと思って、すぐにその考えをやめた。

 

 子どもどころか、数日前に机の上へ突然現れた正体不明の女の子だ。

 

 普通の成長と一緒にするには、いろいろ無理がある。

 

 それでも。

 

 カーテンの裾を持ち上げて裏を覗いている姿は、かなりそれっぽかった。

 

「そこには何もないよ」

 

「ある」

 

「何が?」

 

「くらい」

 

「それはあるとは言わない」

 

 私が笑うと、ちいも笑った。

 

 夜になり、私は風呂へ入ろうとした。

 

 そこで初めて、今日一日の疲れを身体が思い出した。

 

 買い物袋。

 

 家中を探したときの緊張。

 

 肩にちいを乗せたまま片づけをしたせいで、首の横も少し張っている。

 

「お風呂入ってくるから」

 

「おふろ?」

 

「うん」

 

 私はタオルと着替えを持って部屋を出た。

 

 数歩進んで。

 

 後ろから小さな足音がした。

 

 振り返る。

 

 ちいがいる。

 

「……何してるの?」

 

「いく」

 

「どこに」

 

「おふろ」

 

「いや、ちいはいつも部屋で待ってるでしょ」

 

 これまではそうしていた。

 

 まだ数センチだった頃は、私が脱いだ服やパジャマを丸め、その中へ入れていた。布に残った体温で十五分程度なら平気だったし、ちい自身もほとんど動けなかったから、それで十分だった。

 

 少し大きくなってからは、脱衣所まで連れてきて、温めたタオルの上へ置いたこともある。

 

 でも今は。

 

 二十五センチ近い。

 

 自分で歩ける。

 

 そして、私が行く場所へ普通についてくる。

 

「ちい、お風呂は別に面白くないよ」

 

「みたい」

 

「何を?」

 

「おふろ」

 

「……今まで見たことなかったっけ」

 

 考えてみれば、ない。

 

 ちいを脱衣所に置いても、浴室の扉は閉めていた。

 

 私はしばらく迷った。

 

「水あるよ」

 

「みず?」

 

「いっぱい」

 

 ちいの顔が少し明るくなる。

 

 嫌な予感。

 

「いやじゃない?」

 

「へいき」

 

「信用できないなあ」

 

 はじめて会った日、髪の毛が濡れていやがるちいを思い出した。

 

「見るだけね」

 

「うん」

 

「入らない」

 

「うん」

 

「絶対」

 

「うん」

 

 返事が軽い。

 

 信用しきれない。

 

 それでも私は、ちいを脱衣所まで連れていった。

 

 といっても、もう持っていく必要はない。私の後ろを自分で歩いてくる。

 

 廊下を二十五センチの女の子が歩いている。

 

 まだ見慣れない。

 

 ちいにしてみれば相当な距離なのに、途中で止まることもなく、ちゃんとついてきた。

 

 脱衣所へ入ると、ちいはすぐに周囲を見回した。

 

「ここ、あったかい」

 

「これからもっと暖かくなるよ」

 

 私は先にシャワーを少し出した。

 

 冷たい水が温水へ変わるまで待つ。

 

 浴室の中へ湯気が立ち始める。

 

 それが開いた扉から脱衣所へ流れてくると、ちいが反応した。

 

「あ」

 

「何?」

 

「あったかい」

 

「好きそうだと思った」

 

 ちいは浴室の入口まで歩いてくる。

 

「そこから先は駄目」

 

「なんで?」

 

「滑るから」

 

 浴室の床はもう濡れている。

 

 ちいが転んだくらいで大怪我をするかは分からないが、小さい身体にシャワーが直接当たったらどうなるかも分からない。

 

「ここ」

 

 私は脱衣所の乾いた床へタオルを敷いた。

 

 さっきまで私が首に掛けていたもの。

 

「ここなら温かいし、見えるから」

 

「みえる?」

 

「扉ちょっと開けとく」

 

 ちいはタオルへ座った。

 

 しばらくはおとなしかった。

 

 私が浴室へ入り、扉を少しだけ開けてシャワーを浴びる。

 

 視線を感じる。

 

 横を見る。

 

 ちいがじっとこちらを見ていた。

 

「……そんなに見なくていいよ」

 

「おみずいっぱい」

 

「そっち?」

 

 ちいが見ていたのは私ではなく、床を流れていく水だった。

 

 シャワーから落ちた水が排水口へ向かって流れる。

 

 ちいの身体からすれば、かなりの量に見えるはずだ。

 

「これ、どこいく?」

 

「下に流れてく」

 

「した?」

 

「家の外まで」

 

 ちいは真剣に見ている。

 

 こんなものが面白いのか。

 

 私は髪を洗いながら少し笑った。

 

 そのうち、ちいが立ち上がった。

 

「ちょっと。そこにいて」

 

「みたい」

 

「見えてるでしょ」

 

「ちかく」

 

「駄目」

 

 ちいは止まった。

 

 不満そう。

 

「水、勢い強いから」

 

「へいき」

 

「そのへいきは、今日は信用しない」

 

 少し考えてから、私はシャワーを壁へ向けた。

 

 床を流れる水だけが入口近くまで薄く広がる。

 

「触るなら指だけ」

 

 ちいが浴室の境目へしゃがんだ。

 

 床を流れてきたぬるい水へ手を伸ばす。

 

 指先。

 

 触れる。

 

「あったかい」

 

「でしょ」

 

 もう片方の手も。

 

 次に両手。

 

「ちい」

 

「ここだけ」

 

「そこまでね」

 

 ちいは水面を叩くように手を動かした。

 

 跳ねた水が顔にかかる。

 

「つめたい」

 

「今温かいって言ったでしょ」

 

「かお、つめたい」

 

「蒸発するからじゃない?」

 

 意味は分からなかったらしい。

 

 それでも、楽しそうだった。

 

 私は結局、いつもの倍くらい時間をかけて風呂へ入った。

 

 ちいが入口から落ちないか気にして。

 

 途中で浴室へ入ろうとするたび止めて。

 

 最後には、浴室から上がるより先にちいの濡れた手をタオルで拭いた。

 

「……私、何してんだろ」

 

 ちいがタオルに両手を包まれながら見上げる。

 

「ふいてる」

 

「そうだね。見れば分かる」

 

 髪を拭き、身体を乾かして部屋へ戻る。

 

 ちいはすっかり風呂が気に入ったらしい。

 

「またいく?」

 

「明日ね」

 

「いく」

 

「見るだけだからね」

 

「うん」

 

「絶対また入りたがるでしょ」

 

「はいる」

 

「だから入らない」

 

 ちいが笑った。

 

 私は少し先が思いやられた。

 

 でも、部屋へ戻る途中でふと思う。

 

 今後もっと大きくなったら。

 

 今みたいに入口へ座って眺めるだけでは済まなくなるかもしれない。

 

 そもそも、脱衣所へ入れる大きさでいられるのか。

 

 浴室の扉は。

 

 家の廊下は。

 

 考え始めると際限がなかった。

 

「……やめよ」

 

「なに?」

 

「先のこと考えるの」

 

「なんで?」

 

「疲れるから」

 

「じゃあ、ねる?」

 

「そういうことじゃないけど、まあそれでもいい」

 

 夜九時頃、もう一度測った。

 

 二十八・二センチ。

 

 三十センチ定規の上端が、もう頭のすぐ上にあった。

 

「明日、これ超えるかも」

 

「やった」

 

「はいはい」

 

 ちいは三十センチ定規へ並び、自分の頭と定規の先を見比べている。

 

 あと少し。

 

 本人にとっては競争みたいになっているらしい。

 

 私はスマートフォンへ数字を入力した。

 

 二十八・二。

 

 機嫌良好。

 

 朝が二十・三。

 

 一日で、約八センチ。

 

 増加量そのものが大きくなっている。

 

 四センチだったときの八センチなら、身体三つ分。

 

 そう考えると、急に笑えなくなる。

 

 明日。

 

 明後日。

 

 その先。

 

 私は記録を見つめた。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「本当に何ともない?」

 

「ない」

 

「痛くない?」

 

「ない」

 

「苦しくない?」

 

「ない」

 

「変な感じとか」

 

「ない」

 

 いつも通り。

 

 少しも迷わない。

 

「じゃあいいか」

 

 また、それで終わらせた。

 

 寝る頃には、外で風の音がし始めていた。

 

 天気予報を見る。

 

 明日は一日雨。

 

 気温も今日よりかなり低い。

 

「うわ」

 

「なに?」

 

「明日、寒いって」

 

「さむい?」

 

 ちいの反応が早かった。

 

「今日よりだいぶ」

 

「ひなたは?」

 

「太陽ほとんど出ないみたい」

 

 ちいは少し黙った。

 

 それから私を見る。

 

「じゃあ、こっち」

 

 言うと思った。

 

「はいはい」

 

 私は布団へ入った。

 

 ちいも隣へ来る。

 

 二十八センチともなると、もう枕の端に置くという感じではない。私の顔から肩ほどまである長さで横になり、以前のように頬へくっつくのも少し窮屈になっている。

 

 それでも、ちいは気にしなかった。

 

 身体を丸め。

 

 顔を私の首元へ寄せる。

 

「あったかい」

 

「明日はずっとそうしてそうだね」

 

「うん」

 

 嬉しそうだった。

 

「私は大変なんだけど」

 

「なんで?」

 

「もう二十八センチあるから」

 

「おおきい」

 

「そう。重いの」

 

 ちいは少し考えたあと、私から離れようとした。

 

 その動きが意外で、私は止めた。

 

「別に今はいいよ」

 

「おもい」

 

「寝てるだけなら平気」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

 ちいはまた戻ってきた。

 

 今度はさっきより少し遠慮がちに、首へ頬だけをつける。

 

 そんなことをする知恵はあるんだ。

 

 胸が少しだけ温かくなる。

 

「……まあいっか」

 

「いい?」

 

「いいよ」

 

 夜中から雨が降り始めた。

 

 窓を細かく叩く音で、一度目が覚めた。

 

 部屋の空気も、昨日までとは違っていた。

 

 冷たい。

 

 布団から出した鼻先がすぐに分かるほど。

 

 首元を見る。

 

 ちいが私へ身体を寄せて眠っている。

 

 いつもより近い。

 

 腕まで私の首へ回していた。

 

 私は起こさないよう布団を少し引き上げ、そのままもう一度目を閉じた。

 

 朝になっても、雨は止んでいなかった。

 

 窓の向こうは灰色で、日差しはない。

 

 部屋は薄暗い。

 

 そして。

 

「……寒っ」

 

 布団から手を出した瞬間、思わず引っ込めた。

 

 昨日までとは明らかに違う。

 

 秋が一晩で急に進んだみたいに、空気が冷えていた。

 

 ちいはまだ寝ている。

 

 私の首元にぴったりくっついて。

 

 外へ出ようという気は、見るからになさそうだった。

 

 *

 

 雨は朝になっても弱くならなかった。

 

 窓ガラスに細かな水滴が絶えず流れ、外は夜かと思うほど暗い。カーテンを全部開けても、昨日みたいな日向はどこにもできなかった。

 

 布団から出て最初にしたことは、暖房をつけることだった。

 

「十月なんだけどな……」

 

 設定温度を見ながら呟く。

 

「くがつ?」

 

「まだ暖房つける時期じゃないってこと」

 

「さむい」

 

「そうなんだよね」

 

 ちいはベッドの上に座ったまま、両腕を自分の身体へ回していた。

 

 昨日の夜より大きくなっている。

 

 でも、いつもの朝ほどではない。

 

 三十センチ定規の横へ立たせて測ると、二十九・一センチだった。

 

「……九ミリか」

 

「おおきくなった?」

 

「なったけど、ちょっとだけ」

 

 昨日は朝から夜までに八センチ近く伸びた。それと比べれば、ほとんど止まったようなものだった。

 

 ちいは数字より、定規の先の方が気になるらしい。

 

「まだ?」

 

「何が?」

 

「これよりおおきい」

 

「ああ」

 

 三十センチの端。

 

 頭のすぐ上。

 

「あと一センチくらい」

 

「もうちょっと」

 

「なんでそんなに勝ちたがってるの」

 

 ちいは少し笑った。

 

 ただ、その笑い方も昨日より鈍かった。

 

 声が小さい。

 

 動きも遅い。

 

 定規の横から私の手まで戻ってくるのに、途中で一度立ち止まった。

 

「ちい?」

 

「ん」

 

「疲れた?」

 

「ちょっと」

 

 珍しい。

 

 昨日なら、このくらいの距離は何でもなかった。

 

 私は掌を近づける。

 

 ちいはそこへ乗ると、そのまま腕を伝って登ってくる……と思ったけれど、今日は手首まで来たところで座り込んだ。

 

「もう終わり?」

 

「だっこ」

 

「え?」

 

 ちいが両手をこちらへ伸ばす。

 

 今まで、自分で登れるようになってからはほとんどしなかった仕草だった。

 

「……はいはい」

 

 両手で持ち上げる。

 

 二十九センチ。

 

 もう片手で気軽に扱える大きさではない。

 

 胸元へ寄せると、ちいはすぐに私の首へ頬をつけた。

 

「あったかい」

 

「今日はずっとこれかな」

 

「うん」

 

「即答だね」

 

 朝のうちは、それでも少し楽観していた。

 

 暖房をつければ部屋は暖まる。

 

 私も家にいる。

 

 日向がなくても何とかなるだろう。

 

 でも、午前十時を過ぎても、ちいの動きはあまり戻らなかった。

 

 部屋の温度は二十四度。

 

 私には普通に快適だ。

 

 ちいには足りないらしい。

 

 床へ降ろすと、しばらくは歩く。

 

 でも昨日みたいに部屋中を探索することはない。

 

 ベッドから机まで行く途中で座る。

 

 カーテンのところまで歩いて、外を見る。

 

「おひさまない」

 

「ないね」

 

「いつくる?」

 

「今日は来ないかも」

 

 ちいは窓の向こうをしばらく見ていた。

 

 雨。

 

 灰色の空。

 

 濡れたベランダ。

 

 昨日なら日向を追いかけて床を移動していたのに、その日向自体がどこにもない。

 

「こっちおいで」

 

 私が手を出す。

 

 ちいは振り返った。

 

 でも、すぐには来なかった。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 そこで止まる。

 

「……ちい?」

 

「つかれた」

 

 胸が少しざわついた。

 

 私はすぐ近くまで行き、両手ですくい上げた。

 

「大丈夫?」

 

「うん」

 

「痛い?」

 

「ない」

 

「苦しい?」

 

「ない」

 

「眠い?」

 

「ねむい」

 

 いつもなら最後だけ強がるのに。

 

 私はそのままソファへ座った。

 

 ちいを膝の上へ乗せ、上から薄い毛布をかける。

 

 自分の太腿。

 

 毛布。

 

 暖房。

 

 それだけあれば少しはましだろう。

 

「どう?」

 

「あったかい」

 

「よかった」

 

 ちいはすぐ横になった。

 

 太腿の上へ頬をつける。

 

 目を閉じる。

 

 五分もしないうちに寝た。

 

 私はその姿を見下ろした。

 

 最初の日を思い出した。

 

 教科書の横。

 

 ほとんど動かず、身体を縮めていた。

 

 怖がっているんだと思っていた。

 

 もちろん怖かったんだろう。

 

 でも、それだけではなかった。

 

 身体そのものが冷えて、動けなかった。

 

 私の手を見つけて。

 

 怖いのに近づいてきて。

 

 指へ登って。

 

 頬をつけた。

 

「あのときも、こんな感じだったのかな」

 

 寝ているちいの髪へ触れないよう、指を近くへ置く。

 

 今は二十九センチ。

 

 あの頃とは見た目が全然違う。

 

 それなのに。

 

 温かい場所を見つけると、身体を寄せて、安心したように眠る。

 

 そこだけは本当に変わらなかった。

 

 昼前、ちいが目を覚ました。

 

「おはよう」

 

「……おはよう」

 

「元気になった?」

 

「ちょっと」

 

 上半身を起こす。

 

 私の膝の上で伸びをする。

 

 でも、すぐにまた座った。

 

「まだだるい?」

 

「だるい?」

 

「身体が重い感じ」

 

「うん」

 

「そっか」

 

 私はスマートフォンのメモを開いた。

 

 低温。

 

 活動量低下。

 

 眠気。

 

 成長速度も低下。

 

 そこまで入力して、止まった。

 

「……何してんだろ、私」

 

「かいてる」

 

 すぐ返ってきた。

 

「うん。それは見れば分かる」

 

「ちいのこと」

 

「そうだけど」

 

 ちいが私のスマートフォンを覗く。

 

「いっぱい」

 

「いっぱいだよ」

 

「ちい、いっぱい?」

 

「ちいについていっぱい書いてある」

 

「すごい」

 

「何が?」

 

「ちい」

 

 少し胸を張った。

 

 私は数秒黙って。

 

 笑った。

 

「……そうだね。すごいね」

 

「うん」

 

 なんだろう。

 

 私は真面目に異常現象の観察記録をつけているつもりなのに、本人は自分についてたくさん文字が書かれていることを褒められたと思っている。

 

 さっきまで少し重かった胸の奥が、そこで緩んだ。

 

「もういいや」

 

「いい?」

 

「うん。今は寝てて」

 

「ねる」

 

「そこは素直なんだ」

 

 ちいはまた私の太腿へ横になった。

 

 昼を過ぎても雨は続いた。

 

 私はいくつか試した。

 

 まず暖房を上げた。

 

 二十六度。

 

 ちいは少し動きやすくなったらしいけれど、私の方が暑い。

 

「……これ以上は無理」

 

「なんで?」

 

「私が暑い」

 

「ちいはちょうどいい」

 

「部屋の主は私なんだけど」

 

 次に、タオルを乾燥機で温めた。

 

 これはかなり気に入った。

 

 畳んだタオルを床へ置くと、ちいはその上へ腹ばいになった。

 

「どう?」

 

「すき」

 

「何分もつかな」

 

 二十分ほどで冷えた。

 

 ちいが顔を上げる。

 

「つめたい」

 

「終わったね」

 

 また温める。

 

 二回目。

 

 三回目。

 

 乾燥機へタオルを入れながら、自分でも呆れてきた。

 

 四回目。

 

「……何してんだろ」

 

 後ろからちいの声がした。

 

「たおる、あったかくしてる」

 

 私は乾燥機の前で振り返った。

 

「そうなんだけど」

 

「ちいの」

 

「そうだね」

 

「ありがと」

 

 迷いもなく言う。

 

 私は乾燥機の扉を閉めたまま、しばらく止まった。

 

 こういうとき。

 

 急に馬鹿らしくなる。

 

 大学生が休日に、正体不明の三十センチ弱の女の子のためだけにタオルを何度も乾燥機へ入れている。

 

 電気代。

 

 時間。

 

 手間。

 

 冷静に考えるほど意味が分からない。

 

 でも。

 

「ありがと」と言われる。

 

 それだけで全部どうでもよくなるのも、やっぱり意味が分からない。

 

「……はいはい。もう一回ね」

 

「うん」

 

 結局、五回目も温めた。

 

 午後三時。

 

 もう一度測った。

 

 二十九・四センチ。

 

「三ミリ」

 

「さんみり?」

 

「朝から三ミリしか伸びてない」

 

 ちいは定規の先を見る。

 

「まだこえてない」

 

「そこ気にする?」

 

「もうちょっと」

 

「今日は無理かもよ」

 

「なんで?」

 

「寒いから」

 

 ちいは少し考えた。

 

「じゃあ、あったかくする」

 

 そう言って私を見る。

 

「……私?」

 

「うん」

 

「当然みたいに言うね」

 

 ちいが両腕を伸ばす。

 

 私はため息をつきながら、持ち上げた。

 

 胸元へ。

 

 ちいが首へ腕を回す。

 

 以前なら身体全体で首元に収まっていたけれど、今はもう無理だ。上半身だけを私の肩へ預け、脚は胸の前へ垂れる。

 

 重い。

 

 はっきり。

 

 でも、抱えられないほどではない。

 

「あったかい?」

 

「うん」

 

「これで大きくなったら困るんだけどな」

 

「おおきくなる?」

 

「たぶん」

 

「やった」

 

「困るって言った直後なんだけど」

 

 ちいは気にせず頬をつけた。

 

 雨音を聞きながら、そのままソファで過ごした。

 

 私が動画を見る。

 

 ちいは寝る。

 

 ときどき起きる。

 

 私のスマートフォンの画面を覗く。

 

 飽きる。

 

 また寝る。

 

 昨日のように部屋を歩き回ることはなかった。

 

 夕方には、さらに動きが鈍くなった。

 

 私の膝から降りようとして、途中でやめる。

 

「どうしたの?」

 

「あとで」

 

「行きたいところあった?」

 

「おみず」

 

「持ってくるよ」

 

「うん」

 

 その返事をしている時点で、いつものちいではない。

 

 普段なら自分で行けそうな場所は行きたがる。

 

 できることが増えるのが嬉しくて仕方ない様子だった。

 

 そのちいが、今日は私に任せる。

 

 私は少し不安になった。

 

「ちい、本当に大丈夫?」

 

「だいじょうぶ」

 

「元気?」

 

「ちょっとない」

 

「それ大丈夫って言わないんだけど」

 

 ちいは首を傾げた。

 

「でも、いたくない」

 

「……まあ、そうか」

 

 初日と同じ。

 

 動けないだけ。

 

 冷えているだけ。

 

 そう思うと、少し安心できた。

 

 でも同時に。

 

 あの日。

 

 もし私がもっと遅く起きていたら。

 

 もし机の上のちいを虫だと思って無視していたら。

 

 あの子はどうなっていたんだろう。

 

 考えそうになってやめた。

 

「今いるんだからいいか」

 

「いるよ」

 

 ちいが言った。

 

「うん」

 

「ここ」

 

「そうだね」

 

「どこいく?」

 

「どこにも行かないよ」

 

「じゃあいい」

 

 それだけ言って、また私の腕へ頬をつけた。

 

 私は少しだけ笑った。

 

 難しいことを考えているのは、いつも私だけだ。

 

 ちいの方は。

 

 寒い。

 

 私がいる。

 

 温かい。

 

 だからいい。

 

 だいたいそれで終わる。

 

 夜九時。

 

 最後の測定。

 

 二十九・七センチ。

 

 朝から六ミリ。

 

 昨日一日で八センチ近く伸びたことを考えると、ほとんど止まっている。

 

「今日はこれだけ」

 

 機嫌普通。

 

 ちいに朝の記録と並べて見せた。

 

「まだ三十いかないね」

 

「ざんねん」

 

「私はちょっと安心してる」

 

「なんで?」

 

「このまま毎日八センチとか大きくなったら、大変だから」

 

「でも、おおきいのはいいこと」

 

「ちいはね」

 

「いっぱいできる」

 

「それも分かるけど」

 

 私は定規を片づけた。

 

 ちいは今日一日、ほとんど眠っていた。

 

 大きくもならなかった。

 

 昨日までの勢いが嘘みたいだった。

 

 もし。

 

 温かさが成長を速めるなら。

 

 逆に言えば、冷たい場所に置いておけば成長を抑えられるのかもしれない。

 

 その考えが一瞬だけ浮かんだ。

 

 すぐに消した。

 

 ちいが寒いと言っていた。

 

 身体が動かないと言っていた。

 

 それを知っていて、成長を止めるためだけに冷やす。

 

 考えただけで、胸の奥が嫌な感じになった。

 

「……ないな」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

「また?」

 

「また」

 

 私は布団へ入った。

 

 ちいも当然のようについてくる。

 

 今日は普段よりさらに近かった。

 

 私の腕の内側に身体を寄せ、胸元へ顔を埋める。

 

「寒い?」

 

「ちょっと」

 

「もう布団の中なのに?」

 

「こっちのほうがあったかい」

 

「そうですか」

 

 私は布団を少し引き上げた。

 

 ちいが完全に隠れる。

 

 これで大丈夫。

 

 少なくとも今夜は。

 

「何してんだろ、ほんと」

 

 小さく呟く。

 

 布団の中から返ってきた。

 

「ちい、あったかくしてる」

 

「……うん」

 

 正しい。

 

 あまりにも正しい。

 

 私は笑ってしまった。

 

「そうだね」

 

「あったかい」

 

「それは良かった」

 

 雨はまだ窓を叩いていた。

 

 外は寒い。

 

 日向もない。

 

 今日のちいはほとんど大きくならなかった。

 

 でも、布団の中で私へくっついている重さは、昨日より確かだった。

 

 私はそれを感じながら目を閉じた。

 

 成長するのがいいのか。

 

 止まるのがいいのか。

 

 まだ分からない。

 

 ただ。

 

 寒くて動けなくなるちいを見ているくらいなら、少しくらい大きくなっても、温かい方がいい。

 

 今はそう思った。

 

 *

 

 暑い。

 

 最初に浮かんだのは、それだった。

 

 目を閉じたまま布団を蹴る。脚にまとわりついていた掛け布団が半分床へ落ち、冷たい空気が入ってくると思った。

 

 入ってこない。

 

「……あつ」

 

 喉が乾いている。

 

 首筋にも汗をかいていた。

 

 十月の朝にしては明らかにおかしい。

 

 ぼんやりした頭で身体を起こす。

 

 そこで、暖房の作動音が聞こえた。

 

「……あ」

 

 昨日。

 

 寒かったから。

 

 暖房をつけて。

 

 夜もそのままで。

 

 消した記憶がない。

 

 壁のリモコンを見る。

 

 二十六度。

 

「最悪……」

 

 しかも雨は夜のうちに上がっていたらしい。

 

 カーテンの隙間から、朝の光が細く入っている。

 

 暖房。

 

 布団。

 

 晴れ。

 

 そして。

 

「……ちい?」

 

 返事がない。

 

 私は枕元を見る。

 

 いない。

 

 一瞬だけ胸が嫌な跳ね方をしたが、すぐに分かった。

 

 布団が膨らんでいる。

 

 私の脇腹のあたり。

 

 昨日までなら、ちい一人が潜っていても布団の形なんてほとんど変わらなかった。

 

 今日は違う。

 

 明らかに、何かがいる。

 

「ちい」

 

 布団を持ち上げる。

 

 黒い髪。

 

 肩。

 

 白い服。

 

 そこまではいつも通りだった。

 

 でも、その先が長い。

 

「……え」

 

 思わず布団をもっとめくった。

 

 ちいは私の脇腹へ背中をつけ、身体を丸めて眠っていた。

 

 昨日の夜は二十九・七センチ。

 

 もう、その大きさではない。

 

 見ただけで分かる。

 

 四十センチ。

 

 いや。

 

 もっとあるかもしれない。

 

 私の腕の肘から指先までと比べても、かなり長い。

 

「ちい。起きて」

 

「ん……」

 

「起きて。ちょっと」

 

「ねむい」

 

「それどころじゃないから」

 

 肩へ手を添える。

 

 触った瞬間、また変な感覚がした。

 

 大きい。

 

 もう「小さな身体へ触れる」という感じではない。

 

 肩幅がある。

 

 腕の太さがある。

 

 背中に手を当てれば、ちゃんと背中として掌へ返ってくる。

 

「ちい」

 

「なに……」

 

 ようやく目を開ける。

 

 寝ぼけた顔で私を見る。

 

「大きくなってる」

 

 ちいが自分を見る。

 

 腕。

 

 脚。

 

 それから私を見る。

 

「おおきい?」

 

「かなり」

 

 ぱっと顔が明るくなった。

 

「やった」

 

「待って。まだ喜ばないで」

 

「なんで?」

 

「測るから」

 

 私はベッドから降りた。

 

 床へ足をつけた瞬間、暑さがさらに気になった。

 

 暖房を消す。

 

 窓を少し開ける。

 

 外の空気が入ってきた。

 

 昨日よりずっと暖かい。

 

 雨上がりの湿った匂いがする。

 

「……これ、夜中ずっと二十六度だったのか」

 

 しかも、ちいは私の身体にくっついて布団の中。

 

 人肌程度の温度を好む。

 

 温かいほど活動が安定する。

 

 昨日、一日寒かっただけでほとんど大きくならなかった。

 

 そして昨夜。

 

 逆の条件を、ほとんど完璧に揃えてしまった。

 

「……やったなあ」

 

「なにが?」

 

「私が」

 

「なにした?」

 

「暖房消し忘れた」

 

「いいこと」

 

「ちいにはね」

 

 ちいはベッドの端まで来る。

 

 昨日なら、その高さから床へ降りるにはまだクッションを使っていた。

 

 今日は端へ座り、下を見る。

 

「待って」

 

 私は慌てて近づいた。

 

「降りる?」

 

「うん」

 

「飛ばないでね」

 

「とべる?」

 

「試さなくていい」

 

 両手を差し出す。

 

 ちいは私の腕へ足を掛け、身体を預けてきた。

 

「……重っ」

 

 思わず出た。

 

 ちいが止まる。

 

「おもい?」

 

「あ、ごめん。悪い意味じゃなくて」

 

 悪い意味ではない。

 

 でも本当に重い。

 

 昨日までは両手に乗せられた。

 

 今は抱える。

 

 片腕を背中へ。

 

 もう片方を脚の下へ。

 

 そうしないと安定しない。

 

「おおきいから?」

 

「そう。大きくなったから」

 

「じゃあ、いいこと」

 

 ちいは少し嬉しそうに私の首へ腕を回した。

 

「あったかい」

 

「朝からそれ?」

 

「うん」

 

「もう十分温まったと思うよ」

 

 床へ降ろす。

 

 今まで使っていた三十センチ定規を見る。

 

 当然、足りない。

 

「……メジャーだな」

 

 裁縫箱から巻尺を出した。

 

 床へ伸ばす。

 

「ここに寝て」

 

「ねる?」

 

「測るだけ」

 

 ちいは素直に仰向けになった。

 

 踵をゼロへ合わせる。

 

 膝を伸ばす。

 

 頭。

 

「四十三・六……」

 

 もう一度。

 

「四十三・七くらい」

 

 昨日の夜。

 

 二十九・七。

 

 一晩で十四センチ。

 

「……は?」

 

 数字を見た瞬間、見た目で感じていた驚きより、もう一段深いところへ落ちた。

 

 十四センチ。

 

 最初に見つけたちいを、三人以上縦に並べたくらい。

 

 それだけの長さが、一晩で増えた。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「昨日の夜から十四センチ大きくなってる」

 

「いっぱい?」

 

「いっぱい」

 

「やった」

 

「やったじゃない」

 

 思ったより強い声が出た。

 

 ちいが少しだけ目を丸くする。

 

 私はすぐに息を吐いた。

 

「ごめん。怒ってない」

 

「だめ?」

 

「駄目っていうか……」

 

 言葉が出ない。

 

 大きくなることそのものが駄目なのか。

 

 痛みもない。

 

 苦しそうでもない。

 

 ちいはむしろ嬉しい。

 

 でも、この速度は。

 

「ちょっと速すぎる」

 

「はやい?」

 

「昨日の夜からこれだけ」

 

 私は両手で十四センチくらいの幅を作った。

 

「これだけ大きくなった」

 

 ちいはその間を見た。

 

「おおきい」

 

「そう」

 

「ちい、すごい」

 

「……そう来るか」

 

 力が抜けた。

 

 私は床に座った。

 

 ちいもすぐ近くへ座る。

 

 四十三センチ。

 

 こうして並ぶと、昨日までとはかなり印象が違う。

 

 床にいる姿が、もう人形とは呼びづらい。

 

 座っていても膝の高さがある。

 

 髪も肩も。

 

 表情も以前よりずっと見やすい。

 

 今まで「たぶん嬉しそう」と思っていた顔が、今はちゃんと嬉しそうだと分かる。

 

 それが妙だった。

 

 身体だけが急激に大きくなっている。

 

 でも、中身は昨日と同じ。

 

「……大学」

 

 時計を見る。

 

 七時十二分。

 

 一限。

 

 間に合う。

 

 本来なら。

 

「だいがく?」

 

 ちいが聞く。

 

「今日ある」

 

「いく?」

 

 私はちいを見る。

 

 四十三・七センチ。

 

 見る。

 

 もう一度。

 

「……無理でしょ」

 

「なんで?」

 

「隠せないから」

 

「せんよう」

 

「あれ何日前の話だと思ってるの」

 

 机の引き出しに入れてある、マフラーで作った袋。

 

 今のちいなら、片脚すらまともに入らない。

 

「今日は家にいてもらう?」

 

 ちいの顔が少し曇る。

 

「ひとり?」

 

「……うん」

 

 言ってから、自分でも無理だと思った。

 

 昨日。

 

 一時間弱の買い物。

 

 帰ってきて見つからなかっただけで、あれだけ取り乱した。

 

 今日は一限から午後まで。

 

 しかも、ちいは一晩で十四センチ大きくなっている。

 

 帰宅したら何センチになっているか分からない。

 

 その状態で一人にする。

 

「……いや」

 

「いかない?」

 

「ちょっと待って。考える」

 

 スマートフォンを取る。

 

 今日の授業。

 

 一限。

 

 二限。

 

 三限。

 

 一限は出席を取る。

 

 二限も。

 

 三限は資料が後で配られる。

 

 全部休むのは、さすがに無理だ。

 

 でも。

 

 ちいを見る。

 

 本人は私の迷いなんて気にせず、床に伸ばした巻尺を触っている。

 

「これ、ながい」

 

「そうだね」

 

「ちい、ここまで」

 

 四十三の目盛りを指す。

 

「うん」

 

「もっとなる?」

 

「……たぶんね」

 

「やった」

 

「そこ一貫してるなあ」

 

 私は頭を抱えた。

 

 大学。

 

 ちい。

 

 出席。

 

 留守番。

 

 誰かに相談。

 

 保温。

 

 成長速度。

 

 昨日までより明らかに問題が大きくなっている。

 

 その横で。

 

「これ、ちいよりながい」

 

 ちいは巻尺を伸ばして遊んでいる。

 

 私の悩みなど関係ない。

 

「当たり前でしょ。百五十センチあるから」

 

「ひゃくごじゅう?」

 

「私くらい」

 

 ちいが止まった。

 

 私を見る。

 

 巻尺を見る。

 

「ちいもなる?」

 

 その問いに、今度はすぐ答えられなかった。

 

 百五十。

 

 人間と同じ大きさ。

 

 数日前なら冗談だった。

 

 でも。

 

 四・四センチ。

 

 七・八センチ。

 

 十・五センチ。

 

 二十・三センチ。

 

 二十九・七センチ。

 

 四十三・七センチ。

 

 画面に数字が並ぶ。

 

「……なるかもね」

 

「やった」

 

 嬉しそうだった。

 

 私は額を押さえた。

 

「なんで私だけこんなに悩んでるんだろ」

 

「だいがく?」

 

 ちいが答えた。

 

 私は顔を上げる。

 

「……うん。まあ、それもある」

 

「いかない?」

 

「どうしようかなって」

 

「じゃあ、いっしょ」

 

「だから連れていけないの」

 

「じゃあ、いかない」

 

 あまりにも簡単だった。

 

「いや、私にも成績というものがあってね」

 

「うん」

 

「行かないと困るの」

 

「こまる?」

 

「単位とか」

 

「たんい?」

 

「……説明しても仕方ないな」

 

 ちいは分からないまま頷いた。

 

 私はスマートフォンを見る。

 

 欠席連絡。

 

 昨日までなら、ちいのために大学を休むことへかなり抵抗があった。

 

 体調不良と嘘をつくことも。

 

 自分の生活が、突然現れた存在に崩されていくことも。

 

 でも今日は。

 

 四十三センチのちいを見てしまった。

 

 これを置いて、一日普通に講義を受ける自分の方が想像できない。

 

「……一限だけ休むか」

 

 口にする。

 

 二限から。

 

 その頃まで様子を見て。

 

 大丈夫そうなら、少しだけ留守番。

 

 無理そうなら全部休む。

 

 それならまだ。

 

「とりあえず一限は休み」

 

「いかない?」

 

「今は」

 

 ちいが笑った。

 

「やった」

 

「喜ぶところじゃないって」

 

「いっしょ」

 

 そこで言われる。

 

 ああ。

 

 そういう意味か。

 

 大学を休んだことが嬉しいんじゃない。

 

 私がいることが嬉しい。

 

 分かると、少しだけ怒る気がなくなる。

 

「……はいはい」

 

 私は欠席の連絡を送った。

 

 送信。

 

 画面を見て、ため息。

 

「何してんだろ、ほんと」

 

 ちいが近づいてきた。

 

「だいがく、やすんだ」

 

「そうだね」

 

「ちいといる」

 

「そうだね」

 

「いいこと」

 

 私は数秒黙った。

 

 それから笑った。

 

「ちいは本当にそれで全部終わるね」

 

「うん」

 

「羨ましい」

 

 ちいは意味を分かっていない。

 

 でも私が笑ったので、ちいも少し笑った。

 

 そのあと、カーテンを開けた。

 

 雨上がりの朝。

 

 雲の切れ間から強い日差しが入る。

 

 床に、久しぶりのはっきりした日向ができた。

 

「あ」

 

 ちいがすぐ振り向いた。

 

 そして立ち上がる。

 

 昨日は寒さで数歩歩くだけでも疲れていたのに、今日は違う。

 

 足取りが軽い。

 

 むしろ昨日以前より速い。

 

「ちょっと待って。まだ身体の具合見たいんだけど」

 

「ひなた」

 

「分かってるって」

 

 日向まで歩いていく。

 

 四十三センチもあると、もう歩幅が大きい。

 

 昨日まで何十歩もかかっていた距離を、十歩もしないうちに進む。

 

 光の中へ入る。

 

 しゃがむ。

 

 両手を床へつく。

 

「……あったかい」

 

「暖房で十分温まってるでしょ」

 

「これもすき」

 

 ちいはそのまま、いつものようにうつ伏せになった。

 

 腕を前へ伸ばし、頬を床につける。脚まで真っ直ぐ。

 

 四センチの頃。

 

 日向の中へ身体全部が小さく収まっていた。

 

 今は違う。

 

 四十三センチの身体が、床に長く伸びている。

 

 それでもやっていることは同じ。

 

「……変わらないね」

 

「なにが?」

 

「何でもない」

 

 私は窓際へ座った。

 

 ちいの隣。

 

 日向に手を置く。

 

 暖かい。

 

 温かい部屋。

 

 朝の太陽。

 

 私。

 

 昨日一日ほとんど得られなかったものが、今日は全部ある。

 

 そして。

 

 ちいの身体は、もうそれに反応し始めている気がした。

 

 気のせいかもしれない。

 

 でも、朝測ったときより。

 

 横になっている脚が、少しだけ長く見える。

 

「……まさかね」

 

 私は巻尺を見る。

 

 七時二十三分。

 

 四十三・七センチ。

 

 記録する。

 

 機嫌良好。

 

 良すぎるほどだ。

 

 ちいはそんな私を気にも留めず、朝の日差しの中で目を閉じていた。

 

 たぶん。

 

 今日は昨日の反動までまとめて取り返す。

 

 そんな予感がした。

 

 *

 

 八時を過ぎても、ちいは日向から動かなかった。

 

 昨日一日ほとんど眠っていた反動なのか、今日は寝ているというより、ただ気持ちよさそうに身体を伸ばしている。

 

 ときどき寝返りを打ち、うつ伏せから仰向けになって、今度は顔まで陽に向ける。

 

「眩しくない?」

 

「へいき」

 

「目閉じなよ」

 

「とじてる」

 

「ならいいけど」

 

 私はその横で、一限の代わりに配布資料を読んでいた。

 

 読むつもりだった。

 

 実際には、十分に一度くらいちいを見る。

 

 朝の四十三・七センチという数字が頭から離れない。

 

 昨日は寒くてほとんど大きくならなかった。その翌朝、暖房をつけっぱなしにして、私と一緒に布団へ入れていたら、一晩で十四センチ。

 

 そして今は晴れている。

 

 暖房は消したけれど、部屋には朝の暖かさが残っている。窓からの日差しも強い。

 

「……これ、まずくない?」

 

「なに?」

 

 ちいが目を閉じたまま聞く。

 

「何でもない」

 

 私は時計を見た。

 

 八時二十分。

 

 朝に測ってから、まだ一時間も経っていない。

 

 いくらなんでも早い。

 

 そう思ったのに、結局巻尺を持ってきた。

 

「ちい、ちょっとだけ測っていい?」

 

「また?」

 

「気になるから」

 

 ちいは素直に身体を起こした。

 

 床へ巻尺を伸ばす。

 

 横になってもらう。

 

 踵から頭。

 

「……四十五・一」

 

 一・四センチ。

 

 一時間弱で。

 

「やっぱり伸びてる……」

 

「おおきい?」

 

「うん」

 

「やった」

 

「昨日との温度差が露骨すぎるんだよなあ」

 

 ちいは数字より、昨日より伸びた自分の脚の方を見ていた。

 

「ながい」

 

「長くなったね」

 

「いいこと」

 

 自分で片脚を上げてみる。

 

 曲げる。

 

 伸ばす。

 

 それだけで楽しそうだ。

 

「身体、変な感じしない?」

 

「しない」

 

「急に伸びてる感じとか」

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 ちいが立つ。

 

 昨日までなら、立っていても床にいる小さな存在だった。

 

 四十五センチを超えると、もう膝下くらいまである。

 

 私が床へ座れば、目線の高さもかなり近づいてきた。

 

 そして大きくなるほど、表情が分かりやすくなる。

 

 嬉しい。

 

 面白い。

 

 日向が好き。

 

 全部、顔に出ている。

 

 怖がっているのは私だけだった。

 

 二限も休んだ。

 

 理由は簡単だった。

 

 九時を過ぎた頃には、もう四十七センチを超えていたからだ。

 

「無理」

 

 スマートフォンを握ったまま、私は言った。

 

「なにが?」

 

「大学」

 

「いかない?」

 

「行けない」

 

「やった」

 

「だから喜ばないの」

 

「いっしょ」

 

「……はいはい」

 

 昨日までなら、一時間くらい留守番させる選択肢も考えた。

 

 でも今日は違う。

 

 朝から明らかに成長が速い。

 

 今のちいを一人にして、数時間後に帰ってきたとき、どれだけ大きくなっているか分からない。

 

 四十七センチなら、まだ部屋の中で安全に動ける。

 

 六十センチなら。

 

 七十センチなら。

 

 その先は。

 

 私は欠席連絡を送った。

 

「……二日休みのあとにまた休んでる」

 

「やすみ?」

 

「ちいのせいだからね」

 

「ちい?」

 

「半分くらい」

 

 ちいは少し考えて、私の膝へ手を置いた。

 

「いっしょ」

 

「それで許されると思ってる?」

 

「うん」

 

「……思ってるんだ」

 

 迷いのない返事だった。

 

 私は笑ってしまった。

 

「まあ、今日はもういいや」

 

 午前中は、まだ穏やかだった。

 

 ちいは日向を追いかける。

 

 私は課題をする。

 

 光が窓際から少しずつ部屋の奥へ移るたび、ちいも立って移動する。

 

 同じ距離が、これまでよりずっと少ない歩数で進める。

 

 そのこと自体が面白いらしい。

 

「はやい」

 

「何が?」

 

「ここまで」

 

「前より脚長いからね」

 

 ちいは自分の脚を見る。

 

「もっとながくなる?」

 

「たぶん」

 

「やった」

 

「本当に何でも喜ぶね」

 

 十一時。

 

 五十一・八センチ。

 

 朝から八センチ以上。

 

 私は数字を入力しながら、昨日の記録を見た。

 

 二十九・七。

 

 今朝、四十三・七。

 

 十一時、五十一・八。

 

 もう昨日の夜から二十二センチ以上伸びている。

 

「……一日で最初のちい五人分くらい増えてる」

 

「ごにん?」

 

「そう」

 

「いっぱい」

 

「いっぱいだよ」

 

 ちいは満足そうだった。

 

 私は満足できなかった。

 

 でも、止める方法も分からない。

 

 日向から出す?

 

 昨日みたいに寒いところへ置けば、たぶん遅くなる。

 

 実際、昨日はそうだった。

 

 ただ。

 

 昨日のちいを思い出す。

 

 数歩歩くだけで疲れて。

 

 ずっと眠くて。

 

 私のところまで来る途中で座り込んで。

 

「だっこ」と両手を伸ばした。

 

 成長を止めるために、あの状態へ戻す。

 

 それは違う。

 

「……難しいな」

 

「なにが?」

 

「ちい」

 

 ちいが自分を指す。

 

「ちい?」

 

「そう。ちいが難しい」

 

「むずかしくない」

 

「本人が言う?」

 

「うん」

 

「何が簡単なの」

 

「おひさま、あったかい」

 

「……そうだね」

 

 ちいにとっては、本当にそれだけなのかもしれない。

 

 昼を過ぎる頃には、抱き上げるのがかなり大変になった。

 

 試しにいつものように両手を伸ばしたら、持ち上がることは持ち上がった。

 

 でも長くは無理だった。

 

「待って、重い」

 

「おもい?」

 

「重い」

 

 ちいは私の腕の中で自分を見る。

 

「おおきいから」

 

「そうだね」

 

「いいこと」

 

「私の腰にはあんまりよくない」

 

 床へ降ろす。

 

 ちいは少し残念そうだった。

 

 その顔を見て、また困る。

 

「抱っこできなくなるの嫌?」

 

「うん」

 

「……そっか」

 

 これまでは、私が手を出せば乗ってきた。

 

 寒ければ持ち上げる。

 

 眠ければ腕へ乗せる。

 

 移動が危なければ抱える。

 

 それが、もうずっとはできない。

 

 私の都合ではなく、単純に重さの問題で。

 

 ちいもそれに少しずつ気づき始めている。

 

「でも、座ってれば大丈夫」

 

 私は床へ座った。

 

「ほら」

 

 太腿を叩く。

 

 ちいが近づいてくる。

 

 今はもう、私の膝へ自分で手をかけ、ほとんど補助なしで登れる。

 

 横向きに座る。

 

 脚は私の膝から完全に出ている。

 

 上半身を私へ預ける。

 

「これなら?」

 

「あったかい」

 

「重いけど、持たなくていいからね」

 

 ちいが身体を寄せる。

 

 以前は掌の上で親指へ頬をつけていた。

 

 次は腕。

 

 肩。

 

 今は、私の胸元へ頭を預けている。

 

 大きくなるたび、くっつき方だけが変わっていく。

 

 本人は何も気にしていない。

 

 午後二時。

 

 五十九・三センチ。

 

「六十近い……」

 

「ろくじゅう?」

 

「もうすぐ」

 

「やった」

 

「まだ何も達成してないよ」

 

「おおきい」

 

「それが達成なの?」

 

「うん」

 

 ちいは立ったまま、私の脚と自分を見比べていた。

 

 今は私の膝より高い。

 

 歩幅もかなり大きい。

 

 部屋の端から端まで、もうそれほど時間がかからない。

 

 そして危ないものへ手が届くようになった。

 

 机の引き出し。

 

 ベッドの上。

 

 低い棚。

 

「それ触らない」

 

「これ?」

 

「そう」

 

「なんで?」

 

「落ちるから」

 

「これ?」

 

「それも」

 

「これは?」

 

「ちい、わざとやってない?」

 

 ちいが笑う。

 

「……元気になったなあ」

 

 昨日は歩くのも億劫そうだった。

 

 今日は止まらない。

 

 その違いを見れば、温めないという選択肢がますます取りづらくなる。

 

 私は結局、危ないものを上へ移動させ始めた。

 

 床に置いていたもの。

 

 低い棚のもの。

 

 倒れそうなもの。

 

 コンセント周り。

 

「……何してんだろ」

 

「かたづけ」

 

 すぐに答えが返る。

 

「ちいが触るから片づけてるの」

 

「うん」

 

「うんじゃないよ」

 

「きれいになる」

 

 私は手を止めた。

 

「……それはそう」

 

 的外れだけど、間違ってはいない。

 

「部屋きれいになってよかったね」

 

「うん」

 

「誰のせいで片づけてると思ってるの」

 

「ちい?」

 

「正解」

 

 笑ってしまった。

 

 夕方になると日差しが弱くなった。

 

 それでも部屋は暖かい。

 

 ちいは私の近くにいる時間が増えた。

 

 六十センチを超えた身体で、私の横へ座る。

 

 肩に頭を預けるにはまだ小さいので、腕へ寄りかかる。

 

「そのうち普通に肩並ぶね」

 

「かた?」

 

「私と同じくらい大きくなったら」

 

「なる?」

 

「朝もその話したね」

 

「なる?」

 

 期待した目。

 

「……なるかも」

 

「やった」

 

 もう否定する気力もなかった。

 

 夕方六時。

 

 六十八・六センチ。

 

 朝から約二十五センチ。

 

「今日は本当にすごいね」

 

「すごい?」

 

「すごい」

 

「ちい、すごい」

 

「そういう意味でいいのかな……」

 

 私は記録を眺める。

 

 昨日一日でほとんど増えなかった分を、取り返すみたいに伸びている。

 

 いや。

 

 取り返す、という表現も違う。

 

 ちいに必要なだけの熱があると、成長が本来の速さへ戻る。

 

 それが今日なのかもしれない。

 

 もしそうなら。

 

 この先ずっと天気がよくて、私が一緒にいて、部屋を暖かくしていたら。

 

 どこまで。

 

「……やめよ」

 

「なに?」

 

「また先のこと考えてた」

 

「なんでやめるの?」

 

「怖くなるから」

 

 ちいは少し考えた。

 

「ちい、いるよ」

 

「うん」

 

「ここ」

 

 私の腕へ身体を寄せる。

 

「……そうだね」

 

 今のことだけなら。

 

 元気。

 

 楽しそう。

 

 それでいい。

 

 夕食のあと、ちいが浴室の方を見た。

 

 また、嫌な予感がした。

 

「おふろ」

 

「覚えてたの?」

 

「うん」

 

「今日も見るだけね」

 

「はいる」

 

「駄目」

 

 即答した。

 

 ちいの顔が不満そうになる。

 

「なんで?」

 

「なんでって……」

 

 私は浴室を見る。

 

 それから、ちいを見る。

 

 六十八センチ。

 

 昨日の二十八センチとは違う。

 

 もう浴室の入口で指先だけ水へ触れるような大きさではない。

 

 入ろうと思えば、普通に入れる。

 

 浴槽にだって。

 

「まず危ないし」

 

「へいき」

 

「あと熱い」

 

「あったかい」

 

「それが問題なの」

 

「なんで?」

 

 答えに詰まった。

 

 温かい。

 

 それが問題。

 

 ちいには意味が分からない。

 

「今日、温かいところにずっといたから、すごく大きくなったでしょ」

 

「うん」

 

「お風呂って、もっと温かいの」

 

 ちいが少し目を輝かせる。

 

「あったかい?」

 

「そこ喜ぶところじゃない」

 

「はいる」

 

「だから……」

 

 私は額へ手を当てた。

 

 お湯。

 

 身体全体を一度に温める。

 

 今までのどの方法より効率がいいかもしれない。

 

 もし温度が成長速度に直接関係するなら。

 

 今日だけで二十五センチ。

 

 そこからさらに。

 

「……でもなあ」

 

 昨日、寒さで弱っていたちい。

 

 今日、温かくなって元気に動き回るちい。

 

 どちらがいいかと聞かれれば、答えは決まっている。

 

 大きくなるのが怖いから、温めない。

 

 そうする方が、私には嫌だった。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「本当に入る?」

 

「うん」

 

「熱かったらすぐ出る」

 

「うん」

 

「走らない」

 

「うん」

 

「勝手に潜らない」

 

「もぐる?」

 

「覚えなくていい」

 

 ちいが笑った。

 

「……やっぱりやめようかな」

 

「はいる」

 

「即答しないでよ」

 

 結局。

 

 私は浴槽に湯を張った。

 

 いつもより少しぬるめで。

 

 三十八度。

 

 自分一人ならもう少し熱くする。

 

 でも、ちいは初日、カップに手を付けて、熱いと言った。

 

 このくらいが限界かと思った。

 

「手からね」

 

 浴槽の横にちいを立たせる。

 

 服は脱げないから、そのまま。

 

 もう縁へ手を掛ければ、中を自分で覗ける。

 

 湯気が顔に当たる。

 

「あったかい」

 

「まだ入ってないよ」

 

 ちいが手を伸ばす。

 

 指を入れてみる。

 

「どう?」

 

「あったかい」

 

「熱くない?」

 

「ちょっとあつい」

 

「じゃあやめる?」

 

「はいりたい」

 

「そこはやめないんだ」

 

 私は浴室へ入り、ちいが滑らないよう両脇を支えた。

 

「ゆっくりね」

 

 片足。

 

 お湯へ。

 

 ちいの肩が少し上がる。

 

「あつい?」

 

「ちょっと」

 

「無理なら出るよ」

 

「へいき」

 

 もう片方。

 

 膝まで。

 

 そして腰。

 

「あ……」

 

「どう?」

 

 ちいが目を丸くした。

 

「あったかい」

 

 声が少し弾んでいた。

 

 浴槽の浅いところへ座らせる。

 

 今の身長なら、座っても顔は十分水面より上に出る。

 

 脱げない白い服は当然そのまま。

 

 お湯に浸かると、布地が身体へ張りつく。

 

 そこで私はまた気になった。

 

「……これ、本当に服なのかな」

 

 ちいが自分の胸元を見る。

 

「ふく」

 

「それは知ってる」

 

 普通の布なら、濡れれば色が変わる。

 

 重くなる。

 

 透けたり、まとわりついたりする。

 

 でも、ちいの白い服は多少身体に沿うだけで、ほとんど様子が変わらなかった。

 

 水を吸っている感じもない。

 

 表面をお湯が滑って、そのまま落ちていく。

 

「ちょっと触るね」

 

「うん」

 

 肩の布へ触れる。

 

 濡れている。

 

 でも指で軽く押すと、水が染み込んでいるというより、表面に乗っているだけに近い。

 

「撥水?」

 

「はっすい?」

 

「いや、何でもない」

 

 服の裾を少し持ち上げる。

 

 水から出した瞬間、雫がまとまって落ちた。

 

 数秒で見た目がほとんど乾いた状態に戻る。

 

「何これ」

 

「ふく」

 

「だから、それは分かってるって」

 

 ちいは気にしていない。

 

 両手でお湯をすくう。

 

 落とす。

 

 またすくう。

 

「ちい、遊ぶなら静かに」

 

「これ、あったかい」

 

「知ってる」

 

 今度は手のひらで水面を叩いた。

 

 ぱしゃ。

 

 もう一回。

 

「ちい」

 

 ぱしゃ。

 

「楽しんでるね?」

 

「うん」

 

 顔が完全にそう言っていた。

 

 少し熱いと言っていたくせに、出る気配はない。

 

 髪の先も濡れているのに。

 

 湯気の中で、目を細めている。

 

「ほんとに熱くない?」

 

「ちょっとあつい」

 

「出る?」

 

「まだ」

 

「大きくなるかもしれないよ」

 

 ちいが私を見る。

 

「おおきく?」

 

「うん」

 

 一瞬。

 

 考えて。

 

「いいこと」

 

「……聞く相手間違えた」

 

 私は浴槽の縁へ額を預けた。

 

 やっぱり葛藤しているのは私だけだ。

 

 ちいは温かい。

 

 気持ちいい。

 

 楽しい。

 

 大きくなれば嬉しい。

 

 全部同じ方向を向いている。

 

 止める理由が一つもない。

 

「何してんだろ、私」

 

 小さく呟く。

 

 ちいがすぐ答えた。

 

「ちいと、おふろ」

 

 私は顔を上げた。

 

「……そうだね」

 

「いっしょ」

 

「そうだね」

 

「たのしい」

 

 その三つで、また全部崩された。

 

「まあいっか」

 

 私は笑った。

 

「あと十分だけね」

 

「じゅっぷん?」

 

「短い時間」

 

「うん」

 

 その十分が、結局十五分になった。

 

 ちいが水面へ手をつけたり、浴槽の中で脚を伸ばしたり、私が身体を洗っているのを見て真似しようとしたりするからだ。

 

「それ何してるの?」

 

「まね」

 

「洗ってるつもり?」

 

「うん」

 

「服の上から?」

 

「うん」

 

「まあ……服が服じゃないっぽいからいいのか」

 

 ちいは気にせず腕を擦っている。

 

 最後に浴槽から出す。

 

 私は両脇へ手を入れて持ち上げようとして。

 

「っ、重」

 

 朝とは比べものにならない。

 

「ちい、自分で縁つかめる?」

 

「うん」

 

 浴槽の縁へ手を掛けてもらい、私が下から支える。

 

 なんとか外へ出す。

 

 床へ立ったちいを見て。

 

 止まった。

 

「……待って」

 

「なに?」

 

「さっきより大きくない?」

 

 気のせいではない。

 

 浴室へ入る前、私の膝を少し越えるくらいだった。

 

 今は。

 

 太腿の中ほどまで来ている。

 

「ちい、ちょっと立って」

 

「たってる」

 

「そうじゃなくて、真っ直ぐ」

 

 浴室から出す。

 

 服。

 

 ほとんど乾いている。

 

 髪だけは普通に濡れていた。

 

「髪は濡れるんだ……」

 

「ぬれてる」

 

「服は乾いてるのにね」

 

「ふく、へいき」

 

「ほんとに何なんだろう」

 

 タオルで髪を拭く。

 

 ちいは気持ちよさそうに目を閉じる。

 

 私は途中でまた、自分が何をしているのか分からなくなる。

 

 七十センチ近い正体不明の女の子を風呂へ入れて。

 

 髪を拭いて。

 

 しかも入浴中にさらに成長したかもしれない。

 

「……私、自分で加速させてない?」

 

「なに?」

 

「ちいを大きくしてる気がする」

 

「うん」

 

「肯定するんだ」

 

「おふろ、あったかかった」

 

「そういう意味じゃないんだけど」

 

 部屋へ戻り。

 

 巻尺を床へ伸ばす。

 

「測るよ」

 

「うん」

 

 ちいが横になる。

 

 もう一メートルまで測れる部分を使う。

 

 踵。

 

 頭。

 

「……七十四・八」

 

 私は黙った。

 

 入る前は六十八・六。

 

 入浴とその前後で、六センチ以上。

 

 もちろん夕方から風呂までにも時間はあった。

 

 全部が風呂のせいとは言えない。

 

 でも。

 

「お風呂、効きすぎじゃない……?」

 

「おおきくなった?」

 

「なった」

 

「やった」

 

 ちいは起き上がった。

 

 そして、嬉しそうに私の隣へ立つ。

 

 私の太腿を見る。

 

 自分の頭。

 

「ここ」

 

「うん。もうそこまで来たね」

 

「もっと?」

 

「たぶん」

 

「やった」

 

 何度目だろう。

 

 私はため息をついた。

 

 でも、もう本気で止めようとは思えなかった。

 

 少なくとも今日のちいは、昨日よりずっと元気だった。

 

 歩く。

 

 笑う。

 

 遊ぶ。

 

 風呂へ入りたがる。

 

 私の後ろをついてくる。

 

 それを全部奪ってまで、大きくなるのを止めたいとは思わない。

 

「……大きくなるなら、なるで考えるしかないか」

 

「なに?」

 

「また明日の話」

 

「あしたもおふろ?」

 

「そっち?」

 

「うん」

 

「……温度、もう少し下げようかな」

 

「さっきのすき」

 

「そう言うと思った」

 

 ちいが笑う。

 

 私は濡れた髪をもう一度タオルで包んだ。

 

 七十四センチ。

 

 もう、膝の上へ乗せるというより、隣に座らせる大きさだった。

 

 それでも少しすると、ちいは当然のように私へ寄ってきた。

 

 肩にはまだ届かない。

 

 だから腕へ頬をつける。

 

「あったかい」

 

「お風呂入ったばっかりでしょ」

 

「こっちもすき」

 

「……はいはい」

 

 私はそのままにした。

 

 大きくなっても。

 

 たぶん一メートルになっても。

 

 その先でも。

 

 この子は、同じことをするんだろう。

 

 そう思うと少しだけ怖くて。

 

 同時に。

 

 少しだけ見てみたいとも思ってしまった。

 

 *

 

 風呂から上がったあと、ちいは妙に機嫌がよかった。

 

 理由は、お風呂が楽しかったからだと思っていた。

 

 半分は合っていた。

 

 残り半分に気づいたのは、私がベッドの上で髪を乾かしているときだった。

 

 ちいは床にいた。

 

 七十四・八センチ。

 

 数日前なら私が持ち上げなければ、机から床へ移動することさえできなかった。今はもう、床に立てば私の太腿の半分近くまである。

 

 ドライヤーを止め、スマートフォンを見る。

 

 そのとき。

 

 腰に何かが当たった。

 

「ん?」

 

 見下ろす。

 

 ちいがいた。

 

 私の横から両腕を回して、腰へ抱きついている。

 

「……何してるの?」

 

「ぎゅってしてる」

 

「見れば分かる」

 

 ちいは頬を私の服へ押しつけた。

 

「あったかい」

 

「お風呂出たばっかりでしょ」

 

「こっちもすき」

 

 まあいっかと思って、頭を軽く撫でた。

 

「はいはい」

 

 ちいは満足したらしく、すぐ離れた。

 

 私はまたドライヤーをつける。

 

 三十秒くらい。

 

 腰に何かが当たる。

 

 止める。

 

 見る。

 

 また抱きついていた。

 

「……ちい?」

 

「ぎゅ」

 

「さっきやったよね」

 

「うん」

 

「じゃあ何でまたやってるの」

 

「できるから」

 

 私は少し黙った。

 

「できるから?」

 

「うん」

 

 それだけ言って、さらに腕へ力を入れる。

 

 そういうことか。

 

 今までのちいは、私にくっつきたくても一人ではどうにもならないことが多かった。

 

 掌へ乗るには、私が手を出す。

 

 肩へ行くには、腕を登る。

 

 眠るときも、私が近くへ置く。

 

 私が立っていれば、ちいから私の身体へ抱きつくなんてできなかった。

 

 今は違う。

 

 歩いてくる。

 

 好きなときに近づく。

 

 自分の腕を私の身体へ回せる。

 

「……それが嬉しいの?」

 

「うん」

 

 顔を上げた。

 

 楽しそうだった。

 

「そっか」

 

「うん」

 

「分かったから、もうドライヤーさせて」

 

「うん」

 

 離れた。

 

 ドライヤー。

 

 一分。

 

 今度は前から来た。

 

「ちい」

 

「ぎゅ」

 

「ちょっと待って。何回やるの?」

 

「いっぱい」

 

「いっぱいって」

 

 腰へ両腕を回して、顔を腹へつける。

 

 私の服越しに、ちいの頭の重さがちゃんとある。

 

 さっきまでなら可愛いで済んだ。

 

 三回目ともなると、ちょっと邪魔だ。

 

「……あのね、ちい」

 

「なに?」

 

「私、髪乾かしたいの」

 

「うん」

 

「抱きつかれると動けないの」

 

「うん」

 

「分かってる?」

 

「うん」

 

 離れない。

 

「分かってないよね?」

 

 ちいが笑った。

 

「楽しいんだ」

 

「うん」

 

「……しょうがないな」

 

 結局、片手でちいの頭を避けながら髪を乾かした。

 

 終わってからも続いた。

 

 私が机へ行けば、後ろから。

 

 ベッドへ座れば、横から。

 

 立ち上がれば、また腰へ。

 

 最初の二、三回は笑っていた。

 

 五回目くらいで。

 

「ちい、ちょっと多い」

 

「おおい?」

 

「多い」

 

「だめ?」

 

「駄目ではないけど」

 

 答える前に、また抱きついてくる。

 

「今聞いた意味ある?」

 

「あったかい」

 

「話聞いて?」

 

 ちいは頬を擦りつける。

 

 もう完全に楽しんでいる。

 

「……うざいなあ」

 

「うざい?」

 

「あ」

 

 言ってから失敗したと思った。

 

 ちいが顔を上げる。

 

「ちい、うざい?」

 

「えっと」

 

 説明しづらい。

 

「いっぱい来るってこと」

 

「いっぱい」

 

「うん」

 

「だめ?」

 

 少しだけ不安そうになる。

 

 私はすぐ首を振った。

 

「嫌って意味じゃない」

 

「ほんと?」

 

「ほんと。ただ、私も動きたいから」

 

 ちいは少し考えた。

 

「じゃあ、いまいい?」

 

「今はいい」

 

 また抱きつく。

 

「……結局するんだ」

 

 でも今度は笑った。

 

 風呂に入って。

 

 元気になって。

 

 自分の足で歩けるようになって。

 

 自分から好きな場所へ行ける。

 

 その一つに、私が入っている。

 

 そう考えると、何度来られても本気で邪魔だとは思えなかった。

 

「でも十回までね」

 

「じゅっかい?」

 

「あと何回か分かんないけど」

 

「いっぱい?」

 

「いっぱいじゃない」

 

 ちいは嬉しそうだった。

 

 たぶん数えていない。

 

 私も数えなかった。

 

 寝る前までに、間違いなく十回以上来た。

 

 そして翌朝。

 

「……八十八・四」

 

 私は巻尺を見た。

 

「またおおきい?」

 

「また大きい」

 

 昨日の夜が七十四・八。

 

 一晩で十三センチ以上。

 

 昨日ほどではない。

 

 そう思った自分に気づいて、少し怖くなった。

 

 十三センチ。

 

 普通なら十分おかしい。

 

 それなのに、一晩十四センチの前例ができただけで「昨日より少ない」と感じている。

 

「慣れって怖いな……」

 

「なれ?」

 

「何でもない」

 

 ちいは立ち上がった。

 

 八十八センチ。

 

 もう、私の腰より少し高い。

 

 床に立ってこちらを見る姿が、急に近くなった。

 

「おっきい」

 

「そうだね」

 

「ぎゅできる」

 

「それ昨日からできてる」

 

 言ったそばから来た。

 

 前から。

 

 今までなら私の腰へ顔をつけていたのに、今日は少し上。

 

 胸の下あたりへ額が来る。

 

「ほら、これなんだよ」

 

「ぎゅ」

 

「もう二回目」

 

「うん」

 

「何回する気?」

 

「いっぱい」

 

「昨日と同じ答え」

 

 私は頭を撫でた。

 

 そのままスマートフォンを見る。

 

 時間。

 

 今日の講義。

 

 胃のあたりが重くなった。

 

「……今日は行かないと、本当にまずい」

 

「だいがく?」

 

「そう」

 

 昨日も休んだ。

 

 その前は休日。

 

 さらにその前も、午前で帰っている。

 

 出席を取る授業が二つ。

 

 しかも一つは、そろそろ欠席数が危ない。

 

「今日はさすがに無理」

 

「いっしょ?」

 

「ちいとはいられない」

 

 ちいの腕が少し緩む。

 

「ひとり?」

 

「……うん」

 

 八十八センチの女の子を家へ置いていく。

 

 昨日までなら、それだけで相当不安だった。

 

 でも今は別の問題もある。

 

 隠して連れていく、という選択肢が完全に消えた。

 

 八十八センチ。

 

 リュックにも入らない。

 

 服にも隠せない。

 

 袋なんて論外。

 

 どう頑張っても、見つかる。

 

「今日、天気いいし」

 

 窓を見る。

 

 晴れている。

 

「日向あるから、おとといみたいに元気なくなることはないと思う」

 

「でも」

 

「なるべく早く帰ってくる」

 

「はやく?」

 

「……午後までには」

 

 ちいの顔が曇る。

 

 このまえの買い物のときみたいに、専用タオルで釣るにはもう大きすぎる。

 

 そもそも今のちいなら、タオル一枚では寝床にもならない。

 

「大丈夫だよ。この前ちゃんと留守番できたでしょ」

 

「うごいた」

 

「そうだった」

 

 思い出した。

 

 全然安心材料にならない。

 

 私はベッドへ座った。

 

「どうしようかな……」

 

 ちいも横へ来る。

 

 自分でベッドへ登るのはまだ少し難しいので、端へ手を掛けた。

 

 私は腰を支える。

 

「よいしょ」

 

 乗った。

 

 八十八センチともなると、もう「持ち上げる」より「手伝う」という感じだった。

 

 隣へ座る。

 

 頭の位置が私の肩より少し下。

 

 近い。

 

「大学休んだら?」

 

 思わず自分で言った。

 

 駄目だ。

 

 さすがに。

 

「……いや、駄目」

 

「だめ?」

 

「行く」

 

「いかない」

 

「どっちだと思う?」

 

 ちいは分からない顔をしている。

 

 私はスマートフォンを開いた。

 

 友達とのトーク画面。

 

 しばらく眺める。

 

 そして。

 

「……最低限だけ出席して、帰る」

 

 できるだけ滞在時間を短くする。

 

 一限と二限。

 

 終わったら即帰宅。

 

 その間、ちいには日向で待ってもらう。

 

 それなら三時間半くらい。

 

「三時間……」

 

 長い。

 

 昨日は五十分で家中を探し回った。

 

 でも行かない方もまずい。

 

「……ほんと、何してんだろ」

 

「だいがく、いく」

 

 ちいが答える。

 

「そうだね」

 

「ちい、まつ」

 

「……できる?」

 

「うん」

 

「本当に?」

 

「おひさまある」

 

 窓を見る。

 

「あと」

 

 私を見る。

 

「かえってくる」

 

 そこで少し止まった。

 

「うん」

 

「帰ってくるよ」

 

「じゃあ、へいき」

 

 簡単に言う。

 

 私はしばらく、ちいの顔を見ていた。

 

 こないだまでは「一人、いや」と言っていたのに。

 

 今日は嫌じゃないわけではない。

 

 それでも、私が帰ってくることを少し覚えたらしい。

 

「……そっか」

 

 その成長の方が、身体が十三センチ伸びたことより嬉しかった。

 

「じゃあ、今日は留守番ね」

 

「うん」

 

「絶対外出ない」

 

「うん」

 

「窓触らない」

 

「うん」

 

「お風呂も勝手に行かない」

 

「おふろ」

 

「反応しない」

 

「はいりたい」

 

「帰ってから」

 

「ほんと?」

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「……入るかは大きさ見てから」

 

 ちいは不満そうだった。

 

 私は大学へ向かった。

 

 家を出た瞬間から、気になった。

 

 駅までの道で。

 

 電車の中で。

 

 講義室の授業中も。

 

 ずっと。

 

 買い物の時よりはましだった。

 

 一度帰ってきた経験がある。

 

 ちいも八十八センチまで大きくなった。

 

 数センチの頃ほど簡単に事故には遭わない。

 

 そう思う。

 

 それでも、講義が始まって二十分でスマートフォンを見た。

 

 意味はない。

 

 ちいから連絡なんて来ない。

 

「……見てもしょうがないでしょ」

 

 隣の友達が小声で言った。

 

「え?」

 

「さっきから時計見すぎ」

 

「あー……ちょっと用事」

 

「今日すぐ帰るの?」

 

「うん」

 

 その子は私のノートを見る。

 

「最近休み多くない?」

 

「まあ、ちょっと」

 

「大丈夫?」

 

「たぶん」

 

 自分でも最近「たぶん」ばかりだと思う。

 

 一限が終わる。

 

 二限まで十分。

 

 次の教室へ移動しながら、私は考えた。

 

 このまま二限を受ければ、帰宅は十二時半過ぎ。

 

 あと二時間。

 

 長い。

 

 そのとき、別の友達から声をかけられた。

 

「今日は三限出る?」

 

「出ない」

 

「即答」

 

「帰る」

 

「じゃあさ、これ今週までなんだけど、ちょっと手伝ってくれない?」

 

 見せられたのは一枚のプリントだった。

 

 計算問題。

 

 面倒ではあるけれど、私ならそこまで時間はかからない。

 

 私はそれを見る。

 

 友達を見る。

 

 ふと思いついた。

 

「……逆にお願いしていい?」

 

「何?」

 

「二限、私の代わりに出席だけどうにかならない?」

 

「え?」

 

「課題やるから」

 

「何それ」

 

「今日だけ」

 

 口にしてから、自分でかなり駄目だと思った。

 

 出席だけ代わりに。

 

 課題を引き受ける代わりに。

 

 大学生として褒められた方法ではない。

 

 むしろ普通に駄目だ。

 

 友達も少し呆れた顔をしている。

 

「そんな急いでんの?」

 

「ちょっと家に……」

 

 何と言う。

 

 八十八センチの女の子を一人にしている。

 

 言えるわけがない。

 

「……家で待ってるのがいて」

 

「何それ。ペット?」

 

 心臓が一瞬止まりそうになった。

 

「あー……まあ、近い」

 

 自分で言って。

 

 ちいの顔を思い出す。

 

 ペットじゃない。

 

 分かっている。

 

 でも説明としては、それが一番近い。

 

「具合悪いの?」

 

「いや、元気すぎる」

 

「じゃあ大丈夫じゃん」

 

「元気すぎるから心配なの」

 

「意味分かんない」

 

「私も」

 

 友達は少し笑った。

 

「出席どうやって?」

 

「返事だけ」

 

「バレたら知らないよ」

 

「課題二つ」

 

「二つ?」

 

「そして今日だけ」

 

 数秒。

 

「……分かった」

 

「本当?」

 

「その代わりマジで二つね」

 

「やる」

 

「交渉成立」

 

 私はすぐ帰ることにした。

 

 駅へ向かいながら、罪悪感が遅れてくる。

 

「……何してんだろ」

 

 講義をサボる。

 

 友達に代返を頼む。

 

 その代わり課題をやる。

 

 全部、家にいるちいのため。

 

 数日前までなら絶対しなかった。

 

「……いや、今回だけ」

 

 自分に言う。

 

 これが常態化したら本当にまずい。

 

 今日は特別。

 

 今の成長速度が落ち着けば、また考える。

 

 そうやって自分を納得させた。

 

 家に着いたのは十一時少し前だった。

 

 鍵を開ける。

 

「ただいま」

 

 今度はすぐ返事があった。

 

「おかえり」

 

 声が大きい。

 

 そして。

 

 足音。

 

 以前の小さなぱたぱたではない。

 

 ちゃんと床を踏む音。

 

 部屋から廊下へ出てきたちいを見て、私は立ち止まった。

 

「……また大きくなってる」

 

 朝。

 

 八十八・四。

 

 今。

 

 見ただけでも、九十センチは超えている。

 

 ちいはそんな私の反応を無視して、まっすぐ来た。

 

「え、ちょっと」

 

 そのまま。

 

 抱きつく。

 

「おかえり」

 

 腰。

 

 いや。

 

 もう少し上。

 

 腕が背中までしっかり回る。

 

「……ただいま」

 

「あったかい」

 

「日向あったでしょ」

 

「こっち」

 

「はいはい」

 

 離れる。

 

 と思った。

 

 三歩下がる。

 

 また来る。

 

「え?」

 

「ぎゅ」

 

「さっきしたよ」

 

「もういっかい」

 

 抱きつく。

 

「何で」

 

「かえってきたから」

 

「一回でいいでしょ」

 

「もういっかい」

 

「もうしてるじゃん」

 

 離れる。

 

 また。

 

「ちい」

 

「ぎゅ」

 

「多いって」

 

「いっぱい」

 

「昨日からそれしか言わないね?」

 

「うん」

 

 それでも。

 

 帰ったらすぐに来る。

 

 それが嬉しいんだと分かっている。

 

 だから、本気では止められない。

 

「はい、もう最後」

 

「さいご?」

 

「今はね」

 

「あとで?」

 

「あとでなら」

 

「あとで」

 

 ちいが笑った。

 

 私はため息をついた。

 

「……大学で悪いことまでして帰ってきたのに」

 

「わるいこと?」

 

「知らなくていい」

 

「でもかえってきた」

 

「そうだね」

 

「じゃあいい」

 

 またそれだ。

 

 私がここ数時間ずっと考えていたこと。

 

 出席。

 

 課題。

 

 欠席数。

 

 友達への借り。

 

 これら全部、ちいの中では。

 

 私が帰った。

 

 だからいい。

 

 それで終わる。

 

「……ちいみたいに生きたら楽なんだろうな」

 

「いきる?」

 

「何でもない」

 

 測った。

 

 九十六・二センチ。

 

「朝から八センチ近く……」

 

「おおきい?」

 

「とっても。もうすぐ百センチ」

 

「もうすぐ、ひゃく?」

 

「そうだね」

 

 ちいの顔が明るくなる。

 

「ひゃくなる」

 

「目標にしないで」

 

「なる?」

 

「たぶん今日中に」

 

「やった」

 

 私は記録をつける。

 

 昨日の夜、七十四・八。

 

 今朝、八十八・四。

 

 そして、九十六・二。

 

 気分良好。

 

 百センチ。

 

 一メートル。

 

 それがもう目前。

 

 最初に見つけた四センチの女の子が、数日で。

 

「一メートル……か」

 

 声に出すと、急に現実感が出る。

 

 ちいは私の隣へ立った。

 

 もう私が屈まなくても、手を伸ばせば頭を撫でられる。

 

「もっとおおきくなる?」

 

 私はちいを見る。

 

「なると思う」

 

「どこまで?」

 

「分からない」

 

「じゃあ、いっぱい」

 

「……かもしれないね」

 

 その日は、午後も成長が止まらなかった。

 

 昼過ぎ。

 

 百センチを超えた。

 

 夕方には、百六センチ。

 

 夜。

 

 百十一・三センチ。

 

 数字が増えるたびに、私の中の驚きが少しずつ追いつかなくなっていく。

 

 百センチを超えた瞬間だけは、ちいが妙に嬉しそうだった。

 

「ひゃく!」

 

「百だね」

 

「おおきい」

 

「大きい」

 

「ぎゅ」

 

「それ関係ある?」

 

「できる」

 

 今度は私の腹ではなく、胸の下あたりへ腕が回る。

 

 頭も高い。

 

 抱きつかれたときの重さも、もう無視できない。

 

「ちょっと、勢いつけて来ないでね」

 

「なんで?」

 

「普通によろけるから」

 

「ちい、つよい?」

 

「強いっていうか重くなってる」

 

「おおきいから」

 

「そう」

 

「いいこと」

 

「ちいにとっては全部そこへ戻るね」

 

 夜、寝る頃にはベッドの問題が出た。

 

 百十一センチ。

 

 さすがに一緒に横になると、完全に一人分の場所を取る。

 

「狭い」

 

「せまい?」

 

「ちいが大きいから」

 

「いいこと」

 

「寝る場所についてはよくない」

 

 それでもちいは私の隣へ来た。

 

 肩の高さはまだ私より下。

 

 でも、横になればもう普通に腕が届く。

 

 そして。

 

 抱きつく。

 

「……寝るときも?」

 

「うん」

 

「今日何回目?」

 

「いっぱい」

 

「知ってる」

 

 腕が私の胴へ回る。

 

 顔は胸元。

 

 昨日までとは、抱きつかれている感覚そのものが違う。

 

 以前は小さな身体が貼りついている感じだった。

 

 今は、誰かに抱きつかれている。

 

 そこまで来た。

 

「大きくなったね」

 

「うん」

 

「最初は私の指に抱きついてたのに」

 

「ゆび」

 

「覚えてる?」

 

 ちいは少し考えた。

 

「ちい、ちいさかった」

 

「すごくね」

 

「いま、おおきい」

 

「うん」

 

 嬉しそうだった。

 

「もっとおおきくなる」

 

「……たぶんね」

 

「そしたら」

 

 ちいは私へ腕を回したまま考える。

 

「もっとぎゅできる」

 

 私は笑った。

 

「そこなの?」

 

「うん」

 

「大きくなってやりたいこと、それ?」

 

「うん」

 

 迷いがない。

 

 私は目を閉じた。

 

「……まあいっか」

 

「いい?」

 

「いいよ。ただし潰さないでね」

 

「つぶさない」

 

「今は私の方が大きいけど、そのうち分かんないから」

 

「ちい、おおきい?」

 

「まだ私の方が大きい」

 

「いつ?」

 

「何が?」

 

「ちいのほうがおおきい」

 

 また答えに困る質問。

 

「……この調子なら、そんな先じゃないかもね」

 

「やった」

 

「そこ喜ばれると複雑なんだけど」

 

 ちいはもう目を閉じていた。

 

 明日は。

 

 何センチ。

 

 私は眠る前に考えた。

 

 百十五。

 

 百二十。

 

 そのくらい。

 

 そして実際。

 

 翌朝。

 

 巻尺の数字は、百十八・七センチを示していた。

 

 *

 

 百十八・七センチ。

 

 朝一番にその数字を見た私は、しばらく巻尺を床へ伸ばしたまま動かなかった。

 

「もう一回」

 

「また?」

 

「念のため」

 

 ちいを壁際へ立たせる。

 

 踵を合わせる。

 

 頭の位置へ手を置く。

 

 やっぱり同じだった。

 

「百十八~九くらい……」

 

「おおきい?」

 

「大きいよ」

 

「やった」

 

「うん。もうそこは好きに喜んで」

 

 最近、このやり取りにも慣れてきた。

 

 四センチだった頃のちいを思い出そうとすると、むしろそっちの方が現実感を失い始めている。

 

 今のちいは、私の腰よりずっと高い。

 

 立って向かい合えば、顔を見るのに少し視線を下げるだけでいい。

 

 そして。

 

「ぎゅ」

 

「朝から?」

 

 当然のように来た。

 

 両腕が後ろへ回る。

 

 昨日までは腹のあたりだった顔が、今日はもう胸まで来ている。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「毎朝これやるの?」

 

「うん」

 

「決定事項なんだ」

 

 私が頭へ手を置くと、ちいは満足そうに頬を押しつけた。

 

 数秒。

 

 離れる。

 

 そして窓へ行く。

 

 カーテンを開ける。

 

 今はもう、自分でかなりのことができる。

 

「あ」

 

 朝の日差しが入った。

 

 ちいはすぐ日向へ移動した。

 

 そこまではいつも通りだった。

 

 でも今日は、寝転がらなかった。

 

 窓の前に立つ。

 

 ベランダ越しに、外を見ている。

 

「どうしたの?」

 

「そと」

 

「外?」

 

「うん」

 

 私も隣へ行く。

 

 昨日までの雨が嘘みたいに晴れていた。

 

 道路はところどころまだ濡れているけれど、空は青い。

 

「なにある?」

 

「いろいろ」

 

「いきたい」

 

「……外に?」

 

「うん」

 

 来たか。

 

 いつか言うと思っていた。

 

 最初は机の上。

 

 次は部屋。

 

 家の中。

 

 できることが増えるたび、ちいの行動範囲も広くなった。

 

 今は百十八センチ。

 

 窓の外が気になるのは当然なのかもしれない。

 

「外ねえ……」

 

 私はちいを見る。

 

 白い服。

 

 裸足。

 

 そこからまず問題だった。

 

「このままは無理」

 

「なんで?」

 

「靴」

 

「くつ?」

 

 私は自分のスニーカーを見せた。

 

「外はこれ履くの」

 

「ちいも?」

 

「本当はね」

 

 ちいは自分の足を見る。

 

 素足。

 

 四センチの頃からずっと変わらない。

 

「靴ないもんね」

 

「ない」

 

「知ってる」

 

 サイズを測る。

 

 足長は十八センチ少し。

 

「……普通に子ども用だな」

 

 そこで、自分の言葉に少し引っかかった。

 

 子ども用。

 

 今のちいを見れば、見た目だけなら本当にそのくらいだった。

 

 百十八センチ。

 

 白いワンピース。

 

 黒い髪。

 

 街中を歩いても、遠目には小学生くらいに見えるかもしれない。

 

 問題は、誰と歩いているように見えるか。

 

「私と一緒なら……妹?」

 

「いもうと?」

 

「いや、無理あるかな」

 

 年齢差としてはあり得る。

 

 顔は当然似ていないけれど、姉妹なんてそんなものだと言い張れなくもない。

 

 親戚。従妹。友達の子……

 

 考え始める。

 

「……いや、何の設定練ってるの私」

 

「そといく」

 

「そのためだよ」

 

「じゃあいい」

 

「またそれ?」

 

 ちいは笑った。

 

 スマートフォンには大学からの通知が届いていた。

 

 少し迷ったけれど、何より今日はちいと出かけると決めた。

 

 私は通知をまとめて閉じた。

 

 授業のことは、帰ってから考えることにした。

 

 結局、午前中の早いうちに出ることにした。

 

 人の少ない近所だけ。

 

 駅には行かない。大きな店にも入らない。

 

 まずは歩いて十分ほどの公園まで。

 

 そこで様子を見ることにした。

 

 問題は靴だった。

 

 家中を探しても、当然十八センチの靴なんてない。

 

「……どうしよう」

 

 もうちいは玄関に座っている。

 

 今すぐ出られると思っている顔。

 

「ちょっと待ってね」

 

「まってる」

 

 私は古い厚手の靴下を出した。

 

 ちいに履かせる。

 

 大きい。

 

 余る。

 

「歩ける?」

 

 ちいが立つ。

 

 二歩。

 

 靴下の先が余って滑る。

 

「むり」

 

「だよね」

 

 却下。

 

 次。

 

 ルームシューズ。

 

 これも大きすぎる。

 

 サンダル。

 

 もちろん大きすぎる。

 

「……詰んだ」

 

「つんだ?」

 

「外行けないかも」

 

 ちいの顔が一気に曇った。

 

 分かりやすい。

 

「そんな顔しないでよ」

 

「そといく」

 

「分かってるって」

 

 私は床へ座り込んだ。

 

 足を守れればいい。

 

 近所だけ。

 

 完全な靴でなくても。

 

 古いスリッパの底。

 

 布。

 

 ゴム。

 

「……作る?」

 

 また。

 

 裁縫箱を出す。

 

 私は一度止まった。

 

 見慣れた光景。

 

 ちい専用の袋を作ったときと同じ。

 

「……何してんだろ」

 

「くつつくる」

 

 ちいが即答した。

 

「そうなんだけど」

 

「ちいの?」

 

「そうだよ」

 

「せんよう?」

 

「……専用」

 

 顔が明るくなる。

 

「すき」

 

「まだ完成してないから」

 

 結局、古いルームシューズの底を切り、ちいの足に合わせることにした。

 

 きれいなものではない。

 

 布を足の甲へ回して、簡単に固定する。

 

 サンダルに近い。

 

「試して」

 

 ちいが履く。

 

 立つ。

 

 歩く。

 

「どう?」

 

「へんなかんじ」

 

「痛くない?」

 

「ない」

 

「脱げない?」

 

 歩く。

 

 少し速く。

 

「へいき」

 

「じゃあ今日はこれ」

 

 見た目はかなり手作り感がある。

 

 でも近所の公園までなら。

 

「……いや、ちゃんとしたの買おう」

 

「かう?」

 

「ちいの靴」

 

「せんよう?」

 

「靴は普通みんな専用だよ」

 

「ちいの」

 

「はいはい」

 

 玄関へ立つ。

 

 そこで急に緊張した。

 

 これまでは、ちいを外へ出すときは隠していた。

 

 服の中。袋。袖。

 

 絶対に人に見せないことが前提だった。

 

 今日は違う。

 

 隠さない。

 

 というか、隠せない。

 

 百十八センチの女の子と、普通に玄関から外へ出る。

 

「……本当にいいかな」

 

「いく」

 

「ちょっと待って。最後に確認」

 

 ちいの肩へ手を置く。

 

「外で、大きくなったとか言わない」

 

「なんで?」

 

「困るから」

 

「ちい、ちい?」

 

「名前は言っていい」

 

「ぎゅは?」

 

「……何でそれ聞くの?」

 

「していい?」

 

「人がいないところなら」

 

「いるところは?」

 

「なるべくしない」

 

 ちいが不満そう。

 

「何でそこが一番嫌そうなの」

 

「したい」

 

「家帰ったらいくらでもしていいから」

 

「いっぱい?」

 

「……ほどほど」

 

「いっぱい」

 

「勝手に決めない」

 

 私は鍵を開けた。

 

 ドアを開ける。

 

 外の空気が入ってきた。

 

 ちいが止まった。

 

 さっきまであれだけ急かしていたのに、玄関の境目で動かない。

 

「どうしたの?」

 

「ひろい」

 

 廊下。

 

 階段。

 

 建物の向こうの空。

 

 ちいにとっては初めて見る外。

 

「怖い?」

 

 少し考える。

 

「ちょっと」

 

 初日に聞いた「こわい」が、一瞬だけ頭をよぎった。

 

 私は手を出した。

 

「じゃあ、手つなぐ?」

 

 ちいが私の手を見る。

 

 すぐ掴んだ。

 

「いく」

 

「うん」

 

 玄関を出た。

 

 階段は、一段ずつ。

 

 今のちいなら普通に降りられる。

 

 ただ、大人用の階段は一段が少し高い。

 

 ちいは最初の数段だけ慎重だった。

 

 途中から楽しくなったらしい。

 

「ちい、はやい」

 

「走らない」

 

「なんで?」

 

「転ぶから」

 

「へいき」

 

「その言葉で何回危ない目に遭ったと思ってるの」

 

 通りに出る。

 

 ちいが止まった。

 

 太陽。

 

 風。

 

 道路。

 

 車の音。

 

 鳥。

 

 全部が一度に来る。

 

 ちいは何も言わず、空を見上げた。

 

「どう?」

 

「……おおきい」

 

「空?」

 

「うん」

 

「そうだね」

 

 私には見慣れた住宅街。

 

 ちいには違う。

 

 建物の高さ。

 

 道路の広さ。

 

 遠くを走る車。

 

 歩道を歩く人。

 

 何を見るにも、少しずつ立ち止まる。

 

「ちい、前見て」

 

「これなに?」

 

「電柱」

 

「あれ?」

 

「車」

 

「あれ?」

 

「自転車」

 

「あれ?」

 

「……質問多いな」

 

 でも楽しかった。

 

 説明するたび、ちいが覚えようとして見る。

 

 それを見ていると、私まで普段気にしないものを一つずつ意識するようになる。

 

 最初の人とすれ違ったときは、身体が硬くなった。

 

 中年の女性。

 

 こちらを見る。

 

 ちいを見る。

 

 私は反射的に手を握り直した。

 

 でも。

 

「おはようございます」

 

 普通に挨拶された。

 

「あ、おはようございます」

 

 終わり。

 

 それだけ。

 

 女性はそのまま通り過ぎた。

 

 私は数歩進んでから振り返りそうになった。

 

「……普通だった」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 当たり前だ。

 

 今のちいを見て、正体不明の巨大化する女の子だと思う人間なんていない。

 

 ただの小さい子。

 

 私と一緒に歩いている。

 

 それだけ。

 

「……いける?」

 

「いける」

 

「ちいに聞いたんじゃないけど」

 

 本人は元気だった。

 

 日差しがあるからか、足取りも軽い。

 

 手作りの靴も意外と持っている。

 

 公園へ着いた。

 

 小さな住宅街の公園。

 

 朝だから人は少ない。

 

 幼児を連れた親子が一組。

 

 ベンチに高齢の男性。

 

 そのくらい。

 

 ちいは入口で止まった。

 

「ここ?」

 

「公園」

 

「こうえん」

 

「遊ぶところ」

 

 説明は少し雑だったが、ちいには十分だったらしい。

 

 中へ入る。

 

 最初に向かったのは遊具ではなかった。

 

 日向。

 

 芝生の端。

 

「やっぱりそこなんだ」

 

 ちいは私の手を離し、歩いていく。

 

 しゃがむ。

 

 地面へ触れる。

 

「あったかい」

 

「家と同じことするの?」

 

「うん」

 

「せっかく外来たのに?」

 

 聞いていない。

 

 そのまま座る。

 

 横になる。

 

「ちょっと」

 

「にっこうよく」

 

「よく覚えてるね」

 

 私は周囲を見る。

 

 公園の地面でいきなり寝転がる子。

 

 まあ。

 

 いる。

 

 たぶん。

 

 私は隣へしゃがんだ。

 

「服汚れるよ」

 

「へいき」

 

「それ本当に汚れるのかな」

 

 白い服。

 

 草の上へ寝ているのに、不思議なくらい汚れがつかない。

 

 土が少し触れても、払えばすぐ落ちる。

 

「その服、ますます意味分かんないね」

 

「ちいのふく」

 

「はいはい」

 

 ちいは目を閉じた。

 

 日差し。

 

 風。

 

 昨日までの部屋より、ずっと広い場所。

 

 その中でやっていることは日光浴。

 

「……連れてきた意味あった?」

 

「そと、すき」

 

 目を閉じたまま答える。

 

「そっか」

 

 ならいい。

 

 十分ほどすると、ちいはようやく起きた。

 

 今度は遊具に興味を持った。

 

「これ?」

 

「滑り台」

 

「のる」

 

「待って」

 

 もう走り出している。

 

「ちい!」

 

 階段へ。

 

 一段。

 

 二段。

 

 上る。

 

 私は慌てて後ろからついていく。

 

 百十八センチなら、遊具の大きさ自体はほとんど普通に使える。

 

 むしろ今のちいにぴったりだった。

 

 上まで行く。

 

 滑り台の入口から下を見る。

 

 さすがに少し止まる。

 

「こわい?」

 

「ちょっと」

 

「やめてもいいよ」

 

「やる」

 

「そう言うと思った」

 

 座る。

 

 両手を横につく。

 

「足前ね」

 

「うん」

 

「ゆっくり」

 

 滑る。

 

「わっ」

 

 思ったより速かった。

 

 下まで。

 

 尻もち。

 

 数秒、固まる。

 

「大丈夫?」

 

 私は急いで近づいた。

 

 ちいが顔を上げる。

 

 笑顔だった。

 

「……もういっかい」

 

「元気だなあ」

 

 二回目。

 

 三回目。

 

 四回目。

 

「ちい、そろそろ」

 

「もういっかい」

 

「さっきからそればっかり」

 

 昨日までの「ぎゅ」と同じ。

 

 できるようになったことを、飽きるまで繰り返す。

 

 五回。

 

 六回。

 

 私は途中から下で待つだけになった。

 

「……ペットじゃなくて完全に子どもの付き添いだな」

 

 口から出た。

 

 ちいが滑り台の上から聞く。

 

「なに?」

 

「何でもない。前見て」

 

 六回目。

 

 降りてきたちいは、今度はそのまま私へ走ってきた。

 

「え、待って」

 

 抱きつく。

 

「ぎゅ」

 

「公園ではしないって言ったでしょ」

 

「ひといない」

 

 見る。

 

 近くにはいない。

 

「……そうだけど」

 

「あったかい」

 

「日向いたでしょ」

 

「こっちも」

 

 腰へ腕。

 

 今はもう、勢いよく来られると普通に身体が揺れる。

 

「ちい、これから抱きつくとき走ってこないで」

 

「なんで?」

 

「倒れる」

 

「つよくなった?」

 

「重くなった」

 

「おおきいから」

 

「そうだよ」

 

「いいこと」

 

「その理論万能すぎる」

 

 離れた。

 

 そしてまた滑り台へ。

 

 私はベンチへ座った。

 

 時計を見ると、十時半、外へ出て一時間くらい。

 

 想像していたよりずっと普通だった。

 

 誰にも怪しまれない。

 

 ちいも特に変なことはしていない。

 

 日光浴して、滑り台を六回滑って、私へ抱きついている。

 

 普通の子どもみたいに。

 

 その事実が、逆に奇妙に感じられた。

 

 数日前は机の上で四センチ。

 

 私を見上げて震えていた。

 

 それが今は、公園の滑り台を駆け上がっている。

 

「……すごいな」

 

 小さく言う。

 

 ちいが上から手を振った。

 

「みて!」

 

「見てるよ」

 

 滑る。

 

 今度は途中で少し身体をひねった。

 

「危ない!」

 

 下へ着く。

 

「へいき」

 

「今のは本当にやめて」

 

 私は立ち上がった。

 

 頭を軽く押さえる。

 

「痛かった?」

 

「ない」

 

「ならいいけど」

 

 触れた頭が、ほんの少し高い気がした。

 

「……ん?」

 

 隣へ立たせる。

 

 さっきよりも、ほんの少し。

 

 視線が近い。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「大きくなってない?」

 

 ちいは自分を見る。

 

「なった?」

 

「たぶん」

 

 外へ出てから一時間。

 

 日差しの中で、走って、遊んで。

 

 活動量も多い。

 

 私はもう半分諦めに近い気持ちでバッグから小さな巻尺を出した。

 

「ここで測るの?」

 

「端っこでね」

 

 人気のない植え込みの横に立たせて、手早く測る。

 

「……百二十一・四」

 

「ひゃくにじゅう?」

 

「超えたね」

 

「やった」

 

「外でも容赦ないなあ」

 

 朝から二・七センチ。

 

 以前の成長速度を考えれば、むしろ驚くほどではない。

 

 そう考えた自分にまた少し慣れを感じた。

 

 ちいは巻尺を見るより、私を見る。

 

「もっと?」

 

「今日はもう知らない」

 

「おおきくなる?」

 

「なるんじゃない?」

 

「やった」

 

 また抱きつく。

 

「何で今?」

 

「おおきくなったから」

 

「記念?」

 

「ぎゅできる」

 

「朝からずっとできてるよ」

 

 ちいは笑った。

 

 昼前に公園を出る。

 

 帰るつもりだった。

 

 でも、ちいが道の向こうを見て止まった。

 

「なに?」

 

 視線の先には小さなパン屋。

 

 その隣に雑貨と衣類を扱う店。

 

 そして店先には、子ども用の靴が並んでいた。

 

 私はちいの足元を見る。

 

 手作りの簡易サンダルが、少しずれている。

 

「……ちょうどいいか」

 

「なに?」

 

「ちゃんとした靴、買おう」

 

「ちいの?」

 

「そう」

 

「せんよう?」

 

「だから靴は全員専用だって」

 

 嬉しそうにする。

 

 私は店の前まで歩いた。

 

 そこで気づいた。

 

 今朝測った足。

 

 十八センチ少し。

 

 でも今は。

 

「……待って」

 

 ちいを見る。

 

「何?」

 

「足も大きくなってるよね」

 

「うん?」

 

 手作りのサンダル。

 

 朝は少し余裕があった。

 

 今は踵がほとんど端。

 

「……先に測ればよかった」

 

 ちいは何も気にせず店先の靴を見ている。

 

「いっぱい」

 

「いっぱいあるね」

 

「ちいのどれ?」

 

「今から探す」

 

 私はその横顔を見た。

 

 朝までは、外へ連れていくこと自体が大事件だった。

 

 それが今は。

 

 公園で遊んで。

 

 日向で寝転がって。

 

 靴を買おうとしている。

 

 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 

 大学からの通知だった。

 

 今日の二限の出席確認。

 

 それから、課題提出についての連絡。

 

 画面を開いたまま、私はしばらく動けなかった。

 

 今日の授業があることは、朝から分かっていた。

 

 分かっていたのに、ちいを連れて外へ出た。

 

 提出期限の近い課題もある。友達にも頼まれている。

 

 昨日までなら、どれだけ眠くても、どれだけちいのことが気になっても、どうにか大学へ行こうとしたはずだった。

 

 でも今は。

 

 隣でちいが、店先の靴を一つずつ見ている。

 

 自分の足に合うものを探している。

 

 私の手を握ったまま、外の世界を楽しんでいる。

 

 この手を離して、家へ置いて、大学へ向かう。

 

 その想像をしただけで、もう気持ちが動かなかった。

 

「……授業、あるんだけどな」

 

 小さく呟く。

 

「じゅぎょう?」

 

「大学のやつ」

 

「いく?」

 

 ちいが私を見る。

 

 私はスマートフォンの画面を閉じた。

 

「……今日はもういいや」

 

「いかない?」

 

「うん」

 

 自分でも驚くほど、あっさりしていた。

 

 投げ出した。

 

 出席も。

 

 課題も。

 

 あとで困ることも。

 

 全部、今は考えたくなかった。

 

 ここでちいを連れて歩いていることの方が、ずっと大切だった。

 

「本当に?」

 

 自分へ問いかける。

 

 答えは出なかった。

 

 ただ、ちいが私の手を握り直した。

 

「いっしょ」

 

「……うん」

 

 それだけで、まあいっかと思ってしまった。

 

 大学は、あとでどうにかする。

 

 出席は落とすかもしれない。

 

 課題は遅れるかもしれない。

 

 友達に頼ることになるかもしれない。

 

 それでも。

 

 今、ちいを一人にしてまで行く気にはなれなかった。

 

「今日はちいといる」

 

「うん」

 

「その代わり、帰ったら課題やるからね」

 

「かだい?」

 

「私のやること」

 

「ちいも?」

 

「ちいは邪魔しないで」

 

「ぎゅは?」

 

「……ほどほどなら」

 

「いっぱい」

 

「だから勝手に決めないで」

 

 ちいが笑った。

 

 私はその顔を見て、またため息をついた。

 

 授業を投げ出した罪悪感は、まだ残っている。

 

 でも、それ以上に。

 

 今さら大学へ戻ることの方が、もう無理だった。

 

 私はちいの手を引いて、店先の靴を見た。

 

「足、もう一回測ろう」

 

「ちいの?」

 

「そう。今のサイズで」

 

「せんよう?」

 

「うん。ちい専用」

 

 ちいは嬉しそうに、私の隣へ寄った。

 

 そして、当然のように腰へ抱きつく。

 

「また?」

 

「ぎゅ」

 

「外だよ」

 

「ひといない」

 

 周囲を見る。

 

 幸い、店先には誰もいない。

 

「……一回だけね」

 

「うん」

 

 抱きついたまま、ちいは靴を見ている。

 

 私はその頭へ手を置いた。

 

 大学の通知は、もう一度震えた。

 

 見なかった。

 

 少なくとも昼までは、ちいと一緒にいることにした。

 

 *

 

 靴は、結局かなり大きめを買った。

 

 店先で足を測り直すと、朝には十八センチ少しだったはずが、十九センチに近づいていた。

 

「……数時間で足までちゃんと伸びてるんだ」

 

 考えてみれば当たり前だった。

 

 身長だけ伸びて足がそのままなら、それはそれで困る。

 

 でも、成長に合わせて全身の比率が保たれていることを改めて数字で突きつけられると、妙な気分になる。

 

「十九なら、これかな」

 

 私は十九センチのスニーカーを手に取った。

 

 そして止まる。

 

 今日の朝から、もう三センチ近く身長が伸びている。

 

 今ぴったりの靴を買ったら。

 

「……夕方には履けない可能性あるよね」

 

「これ?」

 

 ちいは靴を指差す。

 

「そう」

 

「ちいの?」

 

「今買おうとしてるけど、すぐ小さくなるかもしれない」

 

 ちいは少し考えた。

 

「おおきいのかう」

 

「簡単に言うなあ」

 

 でも、その通りだった。

 

 少しくらい余るなら、中敷きや靴下で調整できる。

 

 私は二十センチの靴を持ってきた。

 

「これならしばらく……」

 

 言いかける。

 

 しばらく。

 

 今のちいにその言葉がどれくらい通用するんだろう。

 

「……二十一にしようかな」

 

「おおきい?」

 

「かなり」

 

 試着させる。

 

 当然ぶかぶかだった。

 

 踵に指が余裕で入る。

 

「歩ける?」

 

 ちいが立つ。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 少し足を引きずる。

 

「あるきにくい」

 

「だよね」

 

 結局、二十センチ。

 

 厚手の靴下も一緒に買った。

 

 今は少し余る。

 

 でも紐をしっかり締めれば歩ける。

 

「どう?」

 

 ちいは店の中を数歩歩いた。

 

「いい」

 

「痛くない?」

 

「ない」

 

「脱げそう?」

 

「ない」

 

「じゃあこれにしよう」

 

 ちいが自分の足元を見る。

 

 白い服。

 

 新品のスニーカー。

 

 そこだけ急に、普通の子どもみたいになった。

 

「ちいのくつ」

 

「そう。ちゃんとしたやつ」

 

「せんよう」

 

「はいはい、専用」

 

 嬉しそうだった。

 

 会計をして、朝作った簡易サンダルを袋へ入れる。

 

 そこで私はそれを見た。

 

 布を切って、底を合わせて、朝、必死に作ったもの。

 

 たった数時間で役目を終えた。

 

「……これ作るのに何分かかったっけ」

 

「ちいのくつ」

 

「だったね」

 

「ありがと」

 

 簡単に言われた。

 

 私は少しだけ笑って、袋をバッグへしまった。

 

「捨てないでおくか」

 

「せんよう?」

 

「初代専用靴」

 

 ちいは意味も分からないまま嬉しそうにした。

 

 店を出ると、もう昼だった。

 

 当初の予定なら、とっくに家へ戻っている時間だ。

 

「帰ろうか」

 

「かえる?」

 

「うん。結構歩いたでしょ」

 

 ちいは少しだけ残念そうだったけれど、素直に頷いた。

 

 そこで私のスマートフォンがまた震えた。

 

 大学。

 

 午前中に無視した通知とは別だった。

 

 今日配布された講義資料について。

 

 紙でのみ配布。

 

 残部は教室前。

 

 本日中。

 

「……あ」

 

 完全に忘れていた。

 

 今週使う資料。

 

 今日中に持っていかないと、次回は自分で誰かからコピーしろと言われていたものだ。

 

 そして、課題のためには今日取りに行く必要がある。

 

「どうしたの?」

 

「プリント」

 

「ぷりんと?」

 

「大学に取りに行かなきゃいけないやつ」

 

「だいがく」

 

「……そう」

 

 ここから大学までは電車。

 

 家へ一度帰って、ちいを置いて、私だけ大学へ行く。

 

 それが普通。

 

 時間的にもまだできる。

 

 私はその手順を頭の中で考えた。

 

 帰宅。

 

 ちいを置く。

 

 駅へ戻る。

 

 大学。

 

 プリント。

 

 また電車。

 

 帰宅。

 

「……めんどくさい」

 

 声に出た。

 

「めんどくさい?」

 

「すごく」

 

 しかも、ちいは今すでに外にいる。

 

 百二十センチを少し超えた程度。

 

 服装も靴も、普通。

 

 ここまで誰にも怪しまれていない。

 

 なら。

 

「……このまま行く?」

 

「だいがく?」

 

「うん」

 

「いく」

 

 返事が早い。

 

「いや、ちょっと待って。駅、人多いんだよ」

 

「て、つなぐ」

 

「大学も人いるし」

 

「かくれる?」

 

「今のちいが?」

 

 ちいは自分を見る。

 

「むり?」

 

「分かってるじゃん」

 

 でも、講義を受けるわけではない。

 

 プリントだけ。

 

 キャンパスの建物に入って、取って、帰る。

 

 ちいを人の少ない場所で待たせれば、数分で終わる。

 

 できなくはない。

 

「……何しようとしてるんだろ」

 

「ぷりんととる」

 

 横からちいが答える。

 

「そうなんだけどね」

 

 私は駅の方を見る。

 

 そして家の方。

 

 数秒迷った。

 

「……行っちゃうか」

 

「いく?」

 

「行く」

 

 決めた瞬間、妙に気が楽になった。

 

 駅まで歩く。

 

 ちいは新しい靴が気にいったらしく、何度も足元を見ていた。

 

「前見て」

 

「くつ」

 

「逃げないから」

 

「ちいの」

 

「分かってるよ」

 

 駅へ着く。

 

 ここからが問題だった。

 

 改札前。

 

 券売機。

 

 人。

 

 私は路線図を見ながら、ちいを見る。

 

 百二十センチほど。

 

 どう見ても子ども。

 

 私は学生。

 

「……まあ、子どもだよね」

 

「こども?」

 

「今はそういうことにする」

 

 券売機の画面。

 

 大人。

 

 小児。

 

 指が止まった。

 

 ちいに戸籍はない。

 

 年齢も分からない。

 

 そもそも数日前に四センチだった。

 

 規則に照らして何が正しいのか、考え始めると全部おかしくなる。

 

「……知らない」

 

「なに?」

 

「もう知らない」

 

 小児を押した。

 

 切符が出てくる。

 

 ちいへ渡す。

 

「これ、切符。しっかり持ってて」

 

「ちいの?」

 

「そう。なくさないで」

 

 ちいは両手で切符を持った。

 

 まじまじと見る。

 

「これで、でんしゃ?」

 

「乗れる」

 

「すごい」

 

「そういうものなの」

 

 改札を通り抜ける。

 

 私はICカード。

 

 ちいは切符。

 

「ここ入れて」

 

 切符が吸い込まれる。

 

「なくなった」

 

「向こうから出るから」

 

「あ」

 

 出てきた。

 

 取る。

 

「でてきた」

 

「楽しい?」

 

「うん」

 

「よかったね」

 

 それだけのことなのに、ちいには全部が初めてだった。

 

 ホームも。

 

 黄色い線も。

 

 電光掲示板も。

 

 向かいの線路も。

 

 遠くから近づいてくる音がした。

 

「くる?」

 

「来るよ」

 

 電車がホームへ入ってきた瞬間、ちいが私の手を強く握った。

 

 風、音、金属の大きな塊。

 

 公園で車を見たときより明らかに驚いている。

 

「怖い?」

 

「おっきい」

 

「大丈夫。乗るだけ」

 

 扉が開く。

 

「行くよ」

 

 手を引く。

 

 ちいは少しだけ躊躇してから、一緒に乗った。

 

 昼過ぎの車内は、それほど混んでいなかった。

 

 二人で端の席へ座る。

 

 ちいは窓へ顔を向けた。

 

 動き出す。

 

 景色が流れる。

 

「あ」

 

 家。

 

 道路。

 

 電柱。

 

 全部が後ろへ飛んでいく。

 

「はやい」

 

「速いね」

 

「すごい」

 

「窓に顔つけないでね」

 

「なんで?」

 

「汚れるから」

 

 ちいは少しだけ離れた。

 

 しばらくして、また窓へ近づく。

 

「ちい」

 

「ついてない」

 

「ぎりぎりを攻めないで」

 

 向かいの席にいた女性が少し笑っていた。

 

 私は恥ずかしくなって、窓を見る。

 

 完全に。

 

 子どもを連れて出かけている人だった。

 

「……何してんだろ」

 

「でんしゃのってる」

 

 当然のように返ってくる。

 

「うん」

 

 笑った。

 

「そうだね」

 

 大学の最寄り駅。

 

 改札を出る。

 

 ちいはもう切符の仕組みを覚えていた。

 

「ここ」

 

「そう」

 

 入れる。

 

 今度は戻ってこない。

 

「なくなった」

 

「今回はそれでいい」

 

「なんで?」

 

「そういうもの」

 

 大学までの道は、普段なら何も考えず歩く。

 

 今日は全然違った。

 

 知っている人に会わないか。

 

 同じ学科の誰かがいないか。

 

 ちいを見て何か聞かれないか。

 

 私は必要以上に周囲を見ていた。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「大学着いたら、ちょっとだけ静かにね」

 

「うん」

 

「私のこと呼ばないで」

 

「なんで?」

 

「知り合いに見つかったら面倒だから」

 

「めんどくさい」

 

「覚えたね、その言葉」

 

 キャンパスへ入る。

 

 ちいが辺りを見る。

 

「ここ?」

 

「大学」

 

「おおきい」

 

「建物いっぱいあるからね」

 

「いつもここ?」

 

「そう」

 

 ちいは私を見る。

 

「ちいもきた」

 

「来ちゃったね」

 

 何か変だった。

 

 少し前まで、ちいをどう隠して大学へ連れていくか必死に考えていた。

 

 服の中。

 

 袋。

 

 袖。

 

 今は普通に隣を歩いている。

 

 誰も気にしない。

 

 百二十センチの女の子だから。

 

 私は人の少ない中庭の端へ行った。

 

 ベンチ。

 

 木陰。

 

「ここで待てる?」

 

「ひとり?」

 

「五分。今度こそ本当に五分」

 

「どこいく?」

 

「あの建物」

 

 すぐ向こうを指す。

 

「プリント取って戻ってくる」

 

 ちいは少し不満そうだった。

 

「一緒に入ると、知ってる人に会うかもしれないから」

 

「ちい、だめ?」

 

「駄目じゃないけど説明が面倒なの」

 

 ちいはしばらく考えた。

 

「ここいる」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

「動かない?」

 

「うん」

 

「絶対?」

 

「うん」

 

「……こないだの前例があるからなあ」

 

「へいき」

 

「その言葉、今日は信じるよ」

 

 私は急いだ。

 

 建物へ。

 

 階段をあがる。

 

 廊下の教室前にプリントの束。

 

 一枚取る。

 

 それだけ。

 

 知り合いに会う前に戻る。

 

 実際、三分もかからなかった。

 

 中庭へ戻る。

 

 ベンチにちいはいた。

 

 私を見つけて、立つ。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

 走ってくる。

 

「待って、走って抱きつかない!」

 

 ぎりぎりで速度を落とした。

 

 それでも抱きつく。

 

「ぎゅ」

 

「大学でもやるんだ」

 

「ひといない」

 

 周りには誰も見えない。

 

「……確かに今はいないけど」

 

 私は頭を撫でた。

 

「待てたね」

 

「うん」

 

「偉い」

 

 ちいが嬉しそうにする。

 

 それを見て、完全に親みたいだと思った。

 

「……いや、やめよう」

 

「なに?」

 

「自分で自分に突っ込むの疲れた」

 

「つかれた?」

 

「ちょっと」

 

 実際、朝からずっと歩いていた。

 

 陽射しも強く、秋とはいえ、昼間はかなり暖かい。

 

 少し身体がだるい気もした。

 

 ただそれを、疲れだと思った。

 

「帰ろうか」

 

「うん」

 

 大学を出た。

 

 今度こそ帰る。

 

 そう決めた。

 

 駅へ向かう途中。

 

 ちいが一軒の店の前で止まった。

 

「……どうしたの?」

 

 ガラス越し。

 

 小さな犬。

 

 猫。

 

 鳥。

 

「これ」

 

 ちいが指差す。

 

「ペットショップ」

 

「ぺっと」

 

「あ」

 

 以前の会話を思い出した。

 

 ちいも覚えていたらしい。

 

「これ、ぺっと?」

 

「そう」

 

「ちいも?」

 

「違う」

 

 即答した。

 

「ちいは違う」

 

「なんで?」

 

「……喋るから?」

 

 そう言ったものの、それだけではないと思った。

 

「ちいはちいだから」

 

「ちい」

 

「そう」

 

 ガラスの向こうで子犬が動く。

 

 ちいが近づく。

 

 子犬もこちらへ寄ってくる。

 

「あ」

 

「見えてるね」

 

「ちい、みてる」

 

「向こうもちい見てるよ」

 

 しばらく見つめ合っていた。

 

 ちいが手を振る。

 

 子犬が首を傾げる。

 

「かわいい」

 

 初めて聞いた言葉だった。

 

「分かるの?」

 

「かわいい」

 

「どこで覚えたんだろ」

 

 小さかった頃、本人に向けて言ったこともあるかもしれない。

 

「入る?」

 

「うん」

 

 また寄り道。

 

 もう諦めた。

 

 店内は暖かかった。

 

 動物の匂い。

 

 餌。ケージ。おもちゃ。

 

 ちいは全部に興味を示した。

 

 特に小動物のコーナー。

 

 ハムスターがいる。

 

 ちいはしゃがみ込む。

 

「ちっちゃい」

 

「ちいが言うようになったね」

 

「ちいより?」

 

「ずっと小さい」

 

 数日前なら逆だった。

 

 ハムスターの方が、ちいより何倍も大きかった。

 

 今は、ちいの掌に乗りそうなサイズ。

 

「……すごいな」

 

「なに?」

 

「最初のちい、これより小さかったなって」

 

 ちいはハムスターを見る。

 

 自分を見る。

 

「ちい、ちいさかった」

 

「うん」

 

「いま、おおきい」

 

「うん」

 

 嬉しそうなちい。

 

 変わらない。

 

 私も笑った。

 

 そのあと、ペット用のヒーターが並んでいる棚で足が止まった。

 

 小動物用、温度調節ヒーター。

 

「……これ、最初に買えばよかったのかな」

 

「なに?」

 

「ちいを温めるやつ」

 

「あったかい?」

 

「たぶん」

 

 手に取る。そして、ちいを見る。

 

 百二十センチ以上。

 

「……もう遅いな」

 

「ちい、はいれる?」

 

「無理」

 

 最初なら。

 

 四センチなら。

 

 十分すぎるくらいだった。

 

「数日前の自分に渡したい」

 

「だれ?」

 

「私」

 

「いるよ」

 

「今の私じゃなくてね」

 

 ちいはよく分からない顔をしている。

 

 私はヒーターを棚へ戻した。

 

 結局、何も買わずに店を出た。

 

 今度こそ電車。

 

 帰りの車内では、ちいも少し疲れたらしい。

 

 窓を見る時間が短くなった。

 

 私の腕へ頭を預ける。

 

「眠い?」

 

「ちょっと」

 

「いっぱい歩いたもんね」

 

「あったかい」

 

「電車も暖かいしね」

 

「こっち」

 

 私の腕へ頬をつけ直す。

 

「はいはい」

 

 私も少し疲れていた。

 

 身体が重い。

 

 喉も、何となく乾く。

 

 朝から外にいたせいだと思った。

 

 水分を取らないと。

 

 帰ったらシャワー。

 

 課題。

 

 それから、ちいの身長も測る。

 

 考えることはまだいくらでもあった。

 

 駅を出た頃には、空がかなり低くなっていた。

 

 夕方。

 

 西の空が橙色に染まっている。

 

 建物の隙間から差す光が長く、道路へ影を伸ばしていた。

 

「きれい」

 

 ちいが言った。

 

「夕焼け」

 

「ゆうやけ」

 

「太陽が沈む前」

 

「おひさま、なくなる?」

 

「夜になるからね」

 

 ちいは少し残念そうだった。

 

「またでる?」

 

「明日晴れたら」

 

 手をつなぐ。

 

 家まではもう十分もない。

 

 長い一日だった。

 

 朝、公園に行って。

 

 靴を買って。

 

 電車に乗って。

 

 大学に行って。

 

 ペットショップに寄った。

 

 気づけば、予定になかったことばかりしている。

 

「……何してたんだろ、今日」

 

「おでかけ」

 

 すぐ返ってきた。

 

「うん」

 

「くつかった」

 

「うん」

 

「でんしゃ」

 

「乗ったね」

 

「だいがく」

 

「行った」

 

「ぺっと」

 

「見たね」

 

「たのしかった」

 

 ちいが私を見る。

 

 その顔を見たら。

 

「……まあ、いい一日だったか」

 

「ありがと」

 

 ちいが笑った。

 

 私も笑った。

 

 少しだけ寒くなってきていた。

 

 日中は暖かかったのに、日が落ち始めると風が冷たい。

 

 薄着で出たことを少し後悔する。

 

「早く帰ろ」

 

「うん」

 

 住宅街を歩く。

 

 見慣れた道。

 

 あと数分。

 

 そこで。

 

 ちいが急に止まった。

 

「ん?」

 

 手が引かれる。

 

 ちいは前を見ていた。

 

 道路の先。

 

 T字路。

 

 突き当たりの向こうに川。

 

 低い柵。

 

 その向こうに、夕焼けを映した水面が見えた。

 

「どうしたの?」

 

 返事がない。

 

 ちいの目が。

 

 光を追っていた。

 

 川。

 

 赤い。

 

 橙。

 

 揺れる光。

 

 夕日が水の上へ長く長く伸びている。

 

「ちい?」

 

「あったかい」

 

「え?」

 

 その瞬間。

 

 手が抜けた。

 

「ちい!」

 

 走った。

 

 突然。

 

 何の前触れもなく。

 

 新しい靴がアスファルトを叩く。

 

 たたたた、と。

 

 朝よりずっと速い。

 

「待って!」

 

 私は反射的に追う。

 

 何で。

 

 何を見た。

 

 前。

 

 川。

 

 夕日。

 

「ちい、止まって!」

 

 振り返らない。

 

 T字路まで、二十メートル。

 

 十五。

 

 十。

 

 私も走る。

 

 朝から歩き続けて重かった脚が、一気に動く。

 

 喉が焼ける。

 

 バッグが腰へ当たる。

 

 ちいが前。

 

 速い。

 

 百二十センチを超えた脚。

 

 もう、私が想像していたよりずっと速い。

 

「止まって!」

 

 T字路。

 

 柵。

 

 そこで。

 

 私は違和感に気づいた。

 

 いつもなら。

 

 歩道と川の間。

 

 金属の支柱。

 

 その間を渡す鎖。

 

 それが一ヶ所、ない。

 

 いや。

 

 垂れている。

 

 片側の金具から鎖が外れ、地面近くまで落ちている。

 

 隙間。

 

 子ども一人なら。

 

 そのまま通れる。

 

「ちい!」

 

 ちいはそこへ向かっていた。

 

 迷わず。

 

 夕焼けの水へ。

 

「あったかい」

 

「違う!」

 

 叫んだ。

 

「あれは光!」

 

 届かない。

 

 あと五メートル。

 

 三。

 

 ちいが隙間へ入る。

 

 私は腕を伸ばした。

 

 白い服。

 

 背中。

 

「ちい!」

 

 川は目の前。

 

 追いついた。

 

 掴んだ。

 

 右腕。

 

 手首。

 

「止まって!」

 

 その瞬間。

 

 身体が前へ持っていかれた。

 

「え」

 

 重い。

 

 強い。

 

 今朝、公園で抱きつかれたときに身体が揺れた。

 

 昨日より大きくなった。

 

 重くなった。

 

 何度も分かっていた。

 

 でも。

 

 走っているちいの力。

 

 それがどれだけ大きいか。

 

 私は知らなかった。

 

「ちょ、待っ──」

 

 靴底が滑る。

 

 片足が道路の縁へ。

 

 ちいも止まろうとしたらしい。

 

 振り返る。

 

 目が合う。

 

「……?」

 

 何が起きたか分かっていない顔。

 

 私は手首を離せなかった。

 

 離したら。

 

 ちいが川へ行く。

 

 そう思った。

 

「戻って!」

 

 引く。

 

 ちいもこちらへ身体を向ける。

 

 でも。

 

 勢いはもう消えきっていない。

 

 二人分の重さが。

 

 柵の隙間へ向かう。

 

 私の腰が支柱へ当たった。

 

「っ!」

 

 痛い。

 

 身体がひねられる。

 

 ちいの腕を掴んだまま。

 

 片足。

 

 柵の外。

 

 地面がない。

 

「え」

 

 ほんの一瞬。

 

 

 夕焼けが視界いっぱいに広がった。

 

 

 赤い空。

 

 黒い柵。

 

 ちいの白い服。

 

 川面に砕ける光。

 

 そして。

 

 身体が浮いた。

 

「──ちい!」

 

 手にあったはずの感触が、ずれた。

 

 指。

 

 手首。

 

 滑る。

 

 掴み直そうとした。

 

 間に合わない。

 

 足元が完全になくなる。

 

 胃が持ち上がる。

 

 風。

 

 耳元を切る音。

 

 下は。

 

 川。

 

 思っていたよりずっと近い。

 

 冷たい、と。

 

 まだ触れてもいないのに。

 

 そう思った。

 

 次の瞬間。

 

 水面が身体を殴った。

 

 *

 

 冷たい。

 

 それしか分からなかった。

 

 身体じゅうを叩かれたような衝撃のあと、耳の中まで一気に水が入った。

 

 上も下も分からない。

 

 暗い。

 

 いや、暗くはない。

 

 夕焼けの光が水の中までぼんやり差し込んでいる。

 

 赤い。

 

 揺れている。

 

 息を。

 

 吸ってはいけない。

 

 そう思った瞬間、身体が勝手にもがいた。

 

 腕を動かす。

 

 足。

 

 水を蹴る。

 

 重い服が身体へまとわりつく。

 

 バッグが肩を引っ張る。

 

 はっとする。

 

 ちい。

 

 頭の中が一気に戻った。

 

 ちい。

 

 どこ。

 

 私は水面へ顔を出した。

 

「っ、は……!」

 

 空気を吸う。

 

 咳。

 

 また水を飲みそうになる。

 

「ちい!」

 

 声が掠れた。

 

 周囲を見る。

 

 川幅は思っていたほど広くない。

 

 流れも、濁流というほどではない。

 

 でも水の中へ落ちるのと、道路から眺めるのでは全然違った。

 

 冷たい水が身体を持っていく。

 

 足が底につかない。

 

「ちい!」

 

 右。

 

 いない。

 

 左。

 

 白いものが見えた。

 

 数メートル先。

 

「ちい!」

 

 黒い髪。

 

 顔。

 

 水面へ出る。

 

 沈む。

 

 また出る。

 

「ちい!」

 

 私はそちらへ泳いだ。

 

 泳ぐなんて呼べるほどきれいな動きじゃなかった。

 

 腕を掻く。

 

 脚を動かす。

 

 ただ前へ。

 

 ちいまで。

 

「手!」

 

 ちいがこちらを見る。

 

 目が大きい。

 

 怖がっている。

 

 初めて机の上で見たときと同じ。

 

 いや。

 

 あのときより。

 

「ちい、手!」

 

 腕を伸ばす。

 

 一度、届かない。

 

 もう一度。

 

 ちいも腕を伸ばす。

 

 指先。

 

 触れる。

 

 掴む。

 

「離さないで!」

 

「う、ん……」

 

 声が弱い。

 

 私はちいの手首を掴み直した。

 

 今度こそ。

 

 絶対。

 

 離さない。

 

 引き寄せる。

 

 百二十センチを超えた身体。

 

 完全に抱えることなんてできなかった。

 

「こっち」

 

 どこへ。

 

 岸。

 

 とにかく、岸へ。

 

 見る。

 

 コンクリートの護岸。

 

 高い。

 

 すぐには上がれない。

 

 少し下流。

 

 階段。

 

 いや、点検用の梯子。

 

 金属の足掛けが壁へ埋め込まれている。

 

「あそこ」

 

 ちいは返事をしない。

 

「ちい、聞こえる?」

 

「……うん」

 

「一緒に行くよ」

 

「うん」

 

 いつもの「うん」じゃなかった。

 

 小さい。

 

 震えている。

 

 寒い。

 

 当たり前だ。

 

 水は冷たい。

 

 夕方で気温も下がっている。

 

 雨の日、室内が少し寒かっただけで動けなくなったちいが。

 

 今、全身川の水に浸かっている。

 

「もうちょっと」

 

 自分に言っているのか、ちいに言っているのか分からなかった。

 

 片手でちいを引きながら進む。

 

 何度も水を飲みそうになる。

 

 腕が重い。

 

 脚も。

 

 身体の芯が急速に冷えていく。

 

 最初の日。

 

 掌へ乗せたとき。

 

 あのときと同じ。

 

 その感触が、嫌なくらい鮮明に戻った。

 

「ちい」

 

「……なに」

 

「寝ないでね」

 

「ねてない」

 

「うん。喋って」

 

「……さむい」

 

「知ってる。もう出るから」

 

 梯子まで。

 

 あと少し。

 

 私は金属の足掛けを掴んだ。

 

 冷たい。

 

 でもそんなことはどうでもいい。

 

「ちい、先に上がれる?」

 

 ちいが壁を見る。

 

 動かない。

 

「ちい?」

 

「……むり」

 

 声がさらに小さい。

 

 腕へ力が入っていない。

 

 私は一瞬、息が止まりそうになった。

 

「分かった。いい。私が支える」

 

 どうやって。

 

 考える。

 

 片腕で梯子。

 

 片腕でちい。

 

 無理。

 

 でもやるしかない。

 

「ちい、私の首につかまれる?」

 

 ちいが少し動く。

 

「ここ」

 

 私は身体を近づけた。

 

「腕回して」

 

 ちいの腕が私の首へ回る。

 

 弱い。

 

 いつもの抱きつき方と全然違う。

 

 私はその腕を自分の肩へ引っかけるようにして、片手で背中を支えた。

 

「絶対離さないで」

 

「うん」

 

 一段。

 

 足が滑る。

 

「っ」

 

 怖い。

 

 落ちたら。

 

 もう一回。

 

 今度は。

 

 考えるな。

 

 二段。

 

 三段。

 

 ちいの身体が背中へぶつかる。

 

 水を吸った髪。

 

 でも白い服は、変だった。

 

 身体に張りついているように見えるのに、水を吸って重くなっている感じがない。

 

 そんなことを考えている場合じゃない。

 

 四段。

 

 腕が震える。

 

 自分の身体も寒い。

 

 呼吸が浅い。

 

「もう少し」

 

「……うん」

 

 上。

 

 手を伸ばす。

 

 縁を掴む。

 

 身体を引き上げる。

 

 膝がコンクリートにつく。

 

 痛い。

 

 それでも。

 

 上がった。

 

「ちい」

 

 すぐ振り返る。

 

 ちいも。

 

 私へしがみついたまま。

 

 一緒に。

 

 護岸の上へ転がるように出た。

 

 しばらく。

 

 何もできなかった。

 

 仰向け。

 

 空。

 

 夕焼け。

 

 さっきまできれいだと思っていた色。

 

 今は。

 

 嫌だった。

 

 うざいほど赤かった。

 

 喉が痛い。

 

 胸が苦しい。

 

 息を吸うたびに咳が出る。

 

「っ、げほ……」

 

 横。

 

 ちい。

 

「ちい!」

 

 身体を起こす。

 

 ちいは座り込んでいた。

 

 濡れた黒い髪が頬へ張りついている。

 

 けど、白い服は水が表面から落ちて、もう元の状態へ戻っている。

 

「大丈夫?」

 

「……うん」

 

「どこか痛い?」

 

 首を振る。

 

「息苦しい?」

 

 少し考える。

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 でも元気がない。

 

 いつもの強がりがない。

 

 寒いせい。

 

 それは分かる。

 

 肩が少し震えている。

 

 動きも遅い。

 

 寒かった日と同じ。

 

 でも。

 

 それだけではない気がした。

 

 ちいが私を見ない。

 

 膝を抱える。

 

 下を向いている。

 

「ちい?」

 

 返事はない。

 

「寒い?」

 

「……うん」

 

「帰ろう」

 

 立ち上がろうとする。

 

 脚に力が入らない。

 

 一度座り直す。

 

「……ちょっと待って」

 

 自分の声が情けない。

 

 何をしてるんだろう。

 

 今日は。

 

 公園。

 

 靴。

 

 電車。

 

 大学。

 

 ペットショップ。

 

 楽しかった。

 

 ちいも楽しそうだった。

 

 だから。

 

 油断した。

 

 外へ連れ出しても大丈夫なんだと思った。

 

 普通の子どもみたいに歩ける。

 

 普通に電車へ乗れる。

 

 誰にも怪しまれない。

 

 そのことに安心して。

 

 肝心なことを忘れた。

 

 ちいはまだ。

 

 世界をほとんど知らない。

 

 夕焼けが水面に反射することも。

 

 川がどれくらい危ないかも。

 

 道路の先に柵がある意味も。

 

 全部。

 

 知らない。

 

 なのに私は。

 

 歩けるから。

 

 喋れるから。

 

 大きくなったから。

 

 いつの間にか、分かっているつもりになっていた。

 

「……ごめん」

 

 声が出た。

 

 ちいが少しだけ顔を上げる。

 

「なに?」

 

「私が」

 

 何を謝る。

 

 連れ出したこと?

 

 手を離したこと?

 

 もっと強く止めなかったこと?

 

 川へ落ちたこと?

 

 全部。

 

「ちゃんと見てなかった」

 

 ちいは黙っている。

 

「ちいが外のこと分からないの、知ってたのに」

 

「……ちい」

 

「うん」

 

「はしった」

 

 胸が詰まった。

 

「そうだね」

 

「ちいが」

 

「うん」

 

「はしったから」

 

 そこで分かった。

 

 寒いだけじゃない。

 

 この子も。

 

 自分のせいだと思っている。

 

「……違うよ」

 

 すぐ言った。

 

 自分でも驚くくらい強く。

 

 ちいが私を見る。

 

「走ったのは駄目だった」

 

 そこは嘘をつきたくなかった。

 

「危なかった。すごく」

 

 ちいの顔が少し固くなる。

 

「でも」

 

 私は近づいた。

 

 濡れた髪。

 

 頬。

 

 身体。

 

「ちいだけが悪いんじゃない」

 

「でも」

 

「私もいた」

 

 自分の胸を指す。

 

「私、ちいよりずっと長く外にいた。川が危ないのも知ってた。柵から先に行ったら駄目なのも知ってた」

 

「……うん」

 

「だから、私がちゃんと止めなきゃいけなかった」

 

 ちいはまた下を見る。

 

「ちい、わかんなかった」

 

「うん」

 

「ひかってた」

 

「うん」

 

「あったかいとおもった」

 

「分かるよ」

 

 本当は。

 

 全部分かるわけじゃない。

 

 でも。

 

 夕焼け。

 

 暖かい光。

 

 日向が好きなちい。

 

 あの川面が。

 

 大きな温かい場所に見えたのかもしれない。

 

「次からは、走る前に聞いて」

 

「きく?」

 

「うん。あれ何、とか。行っていい、とか」

 

「うん」

 

「私も、ちゃんと説明するから」

 

 ちいが小さく頷いた。

 

 それでも、顔は上がらない。

 

 私は手を伸ばした。

 

 頭へ触れる。

 

 冷たい。

 

「まず帰ろう」

 

「……うん」

 

 立たせる。

 

 ちいの足元。

 

 新しい靴。

 

 当然びしょ濡れ。

 

「歩ける?」

 

「うん」

 

 一歩。

 

 遅い。

 

 私はすぐ分かった。

 

 無理をしている。

 

「ちい?」

 

 返事はない。

 

「おんぶする?」

 

 以前なら抱っこだった。

 

 今はもう無理。

 

 百二十センチを超えている。

 

 でも背負うなら。

 

 短い距離なら。

 

「できる?」

 

 ちいが聞く。

 

「……たぶん」

 

 本当は自信がなかった。

 

 私自身も濡れている。

 

 寒い。

 

 疲れている。

 

 腕も脚も震えている。

 

 それでも、ちいをこのまま歩かせる方が嫌だった。

 

「乗って」

 

 しゃがむ。

 

 ちいがゆっくり背中へ腕を回す。

 

 身体が乗る。

 

「っ……」

 

 重い。

 

 予想以上。

 

 立ち上がる。

 

 膝が少し揺れる。

 

「へいき?」

 

 背中から聞かれる。

 

「ちいが聞くの?」

 

「おりる」

 

「……大丈夫」

 

 歩く。

 

 家まで。

 

 十分もない。

 

 さっきまで。

 

 さっきまでだった。

 

 今は。

 

 一歩ごとに長い。

 

 服から水が落ちる。

 

 鞄が肩を引っ張る。

 

 靴の中が気持ち悪い。

 

 風が吹くたび、濡れた身体から熱を奪われる。

 

 寒い。

 

 歯が少し鳴る。

 

 でも背中のちいの方が。

 

「寒い?」

 

「うん」

 

「もうすぐ」

 

 何度も言った。

 

 曲がり角。

 

 住宅街。

 

 さっき歩いた道。

 

 行きは外の景色にわくわくしていた。

 

 帰りは早く家に着いてほしいとしか思えない。

 

 人とすれ違う。

 

 視線。

 

 濡れた大学生が、同じくびしょ濡れの子どもを背負って歩いている。

 

 どう見てもおかしい。

 

 でも。

 

 どうでもよかった。

 

 誰かに声をかけられたら。

 

 何て言う。

 

 川に落ちました。

 

 妹です。

 

 親戚です。

 

 そんなことすら考えられない。

 

 ただ。

 

 家。

 

 風呂。

 

 暖かくする。

 

 それだけ。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「寝ないでね」

 

「ねない」

 

「喋ってて」

 

 少し間。

 

「きょう」

 

「うん」

 

「でんしゃ、たのしかった」

 

 胸が苦しくなった。

 

「うん」

 

「くつも」

 

「うん」

 

「こうえんも」

 

「うん」

 

「おみず……」

 

 止まる。

 

「川?」

 

「……こわかった」

 

「うん」

 

 私は歩きながら、目の奥が少し熱くなった。

 

「私も怖かった」

 

「ほんと?」

 

「すごく」

 

 背中の腕が少しだけ強くなる。

 

「ごめん、なさい」

 

 また。

 

「ちい」

 

「……なに」

 

「謝らなくていいって言ってるわけじゃないよ」

 

 自分でも、何を言っているんだろうと思う。

 

「危ないことしたら、次はしないようにしよう。それは必要」

 

「うん」

 

「でも、ずっと落ち込まなくていい」

 

「……なんで?」

 

「帰れたから」

 

 言って。

 

 自分にも言い聞かせる。

 

「二人ともいるから」

 

 背中から返事はなかった。

 

 ただ。

 

 腕がもう少しだけ強くなった。

 

 家が見えた。

 

 あんなに安心したことはなかった。

 

「着いた」

 

「おうち?」

 

「うん」

 

 玄関。

 

 鍵。

 

 指がうまく動かない。

 

「ちょっと待って」

 

 バッグ。

 

 中。

 

 鍵。

 

 濡れている。

 

 ようやく差し込む。

 

 回す。

 

 ドア。

 

「入るよ」

 

 家の中。

 

 暖かい。

 

 外より。

 

 でも、それでも足りない。

 

 私はちいを下ろした。

 

「お風呂」

 

「おふろ?」

 

「今日は絶対入る」

 

 昨日までは。

 

 大きくなるかもしれない。

 

 温まりすぎるかもしれない。

 

 そんなことを考えていた。

 

 今日は。

 

 どうでもよかった。

 

 大きくなってもいい。

 

 今は。

 

 早く温めたい。

 

「先にお湯出すから」

 

 浴室へ。

 

 服を脱ぐ。

 

 濡れた布が肌へ張りついて、うまく脱げない。

 

 腕を抜く。

 

 寒い。

 

 身体が震える。

 

「ちい、そこにいて」

 

「うん」

 

 シャワーを出す。

 

 最初。

 

 冷たい。

 

 すぐ温かくなる。

 

 浴室に湯気。

 

 私は浴槽へ湯を張る。

 

 三十八。

 

 いや。

 

 今日は四十近くでも。

 

 自分が早く温まりたい。

 

 でもちいは。

 

「……三十八」

 

 やっぱり少しぬるめ。

 

 急に熱いところへ入れるのは怖い。

 

 浴室の入口を見る。

 

 ちいは座っていた。

 

 動かない。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「こっちおいで」

 

 ゆっくり立つ。

 

 歩く。

 

 昨日なら、自分から入りたくて仕方なかった。

 

 今日は違う。

 

 私が手を出す。

 

 ちいが掴む。

 

「滑るからゆっくり」

 

「うん」

 

 浴槽。

 

 まず足。

 

 温かい湯へ。

 

 ちいの肩が震えた。

 

「あつい?」

 

「……あったかい」

 

「痛くない?」

 

「ない」

 

 もう一歩。

 

 膝。

 

 腰。

 

 座る。

 

 湯が胸元近くまで来る。

 

 白い服は。

 

 川で濡れたときと同じ。

 

 ほとんど水を吸っていない。

 

 浴槽へ入ると表面が身体に沿う。

 

 でも重くならない。

 

 色もほとんど変わらない。

 

 水が弾かれて。

 

 浮いて。

 

 落ちる。

 

 いつもなら。

 

 何これ、本当に服なの。

 

 そう考えたと思う。

 

 今日は。

 

「……もういいや」

 

「なに?」

 

「服」

 

 ちいが自分を見る。

 

「ふく」

 

「うん。服だね」

 

 これ以上考える気力がなかった。

 

 私も浴槽へ入る。

 

「っ……」

 

 温かい。

 

 痛いくらい。

 

 冷えた指先へ血が戻ってくる。

 

 身体の芯が、少しずつ緩んでいく。

 

 ちいは昨日みたいに水を叩かなかった。

 

 遊ばない。

 

 ただ湯の中にいる。

 

 両腕を膝へ回して。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「こっち来る?」

 

 私の近く。

 

 少し迷う。

 

 それから来た。

 

 浴槽の中で。

 

 私の隣へ。

 

 身体を寄せる。

 

 頭がもう胸の下くらいまである。

 

 昨日より大きい。

 

 その身体を。

 

 私は片腕でそっと抱いた。

 

「……ごめんね」

 

 口から出た。

 

 ちいが顔を上げる。

 

「なんで?」

 

「今日」

 

「ちい、はしった」

 

「それもあるけど」

 

 私は湯面を見る。

 

「私が連れ出したから」

 

「でも」

 

「外、楽しかった?」

 

 ちいが少し考える。

 

「うん」

 

「公園も?」

 

「うん」

 

「電車も?」

 

「うん」

 

「大学も」

 

「ぷりんと」

 

「そうだったね」

 

「ぺっとも」

 

「うん」

 

「くつも」

 

「うん」

 

 少しずつ。

 

 ちいの声が戻る。

 

 まだ弱い。

 

 でも。

 

 さっきより。

 

「じゃあ、全部が悪かったわけじゃない」

 

 自分に言う。

 

 外へ連れ出した判断。

 

 それ自体を全部間違いにしてしまったら。

 

 ちいが楽しかったことまで。

 

 否定することになる。

 

「最後だけ」

 

 言う。

 

「最後だけ、危なかった」

 

 ちいが下を見る。

 

「ちい」

 

「……うん」

 

「怖かった?」

 

 しばらく無言。

 

「うん」

 

「私も」

 

「……うん」

 

「でも今ここにいる」

 

 ちいがこちらを見る。

 

「おうち」

 

「そう」

 

「おふろ」

 

「そう」

 

「いっしょ」

 

「うん」

 

 それだけ。

 

 それでいい。

 

 ちいが少し身体を寄せる。

 

「あったかい」

 

 ようやく。

 

 いつもの言葉。

 

 私は目を閉じた。

 

「よかった」

 

 その声が、自分でも少し震えていた。

 

「本当に」

 

 どれくらい湯船にいたのか分からない。

 

 十五分。

 

 二十分。

 

 もっと。

 

 普段なら、ちいが温まりすぎて大きくなることを気にした。

 

 今日は一度も時計を見なかった。

 

 途中で、ちいが手を握ってきた。

 

 私の腕によりかかる。

 

「元気になった?」

 

「ちょっと」

 

「よかった」

 

 ちいが水面へ手をつける。

 

 一度。

 

 ぱしゃ。

 

 小さい音。

 

 私は見た。

 

「遊ぶ?」

 

 首を振る。

 

 そのしぐさが妙に胸に残った。

 

「そっか」

 

 無理に遊ばせる必要はない。

 

 ただ。

 

 この子がいつも通りに戻ってほしい。

 

 笑って。

 

 温かいと言って。

 

 何回もうざいくらい抱きついて。

 

 大きくなったと喜んで。

 

 それが。

 

 どれだけ私を安心させていたのか。

 

 今日、初めて分かった。

 

 風呂から上がる。

 

 ちいの服は。

 

 やっぱり数分もしないうちにほとんど乾いた。

 

 髪だけは濡れている。

 

 私はタオルを取った。

 

「座って」

 

「うん」

 

 脱衣所。

 

 ちいを座らせる。

 

 髪を拭く。

 

 黒い髪。

 

 タオル。

 

 何度も。

 

「……何してんだろ」

 

 また出た。

 

 習慣みたいになっている。

 

 ちいが少し間を置いて答えた。

 

「ちいの、かみ」

 

 私は手を止めた。

 

「うん」

 

「ふいてる」

 

「そうだね」

 

 いつもなら。

 

 その的外れなほど単純な答えに笑う。

 

 今日は。

 

 少しだけ。

 

 泣きそうになった。

 

 笑ったけれど。

 

「そうだね。髪拭いてる」

 

「うん」

 

「ちゃんと乾かさないと風邪ひくから」

 

「かぜひく?」

 

「病気」

 

「ちいも?」

 

「分かんない」

 

 むしろ。

 

 私の方が。

 

 そこまで考えて、自分の身体に気づいた。

 

 少しだるい。

 

 頭も重い。

 

 喉。

 

 さっき川の水を飲んだせいか。

 

 寒かったせいか。

 

 でも。

 

「……疲れただけ」

 

 声に出す。

 

「つかれた?」

 

「すごく」

 

 ちいがこちらを見る。

 

「ねる?」

 

「うん。今日はもう寝よう」

 

 部屋へ戻る。

 

 濡れたバッグをひっくりかえす。

 

 靴も干す。

 

 服は……いいや。

 

 全部、明日。

 

 今は無理。

 

 私は最低限だけタオルの上へ置いた。

 

 床も少し濡れている。

 

 それも。

 

 明日。

 

「……大学の課題も」

 

 思い出す。

 

 プリント。

 

 今日わざわざ取りに行ったもの。

 

 濡れている。

 

「うわ……」

 

 取り出す。

 

 紙。

 

 端が湿っている。

 

 文字は読める。

 

「よかった……」

 

「ぷりんと」

 

「これ取りに大学行ったんだよ」

 

「うん」

 

「川に落ちてまで得るものじゃなかったけど」

 

「ぬれてる」

 

「そうだね」

 

 ちいが少し笑った。

 

 本当に少し。

 

 それだけで。

 

 私はまた安心した。

 

「もう今日はいいや」

 

 プリントを机へ広げて乾かす。

 

 課題はしない。

 

 ベッド。

 

 ちいを見る。

 

 以前なら。

 

 今の大きさで一緒に寝るのは狭い。

 

 寝返りが怖い。

 

 そんなことを考えた。

 

 今日は。

 

「おいで」

 

 言った。

 

 ちいがベッドへ来る。

 

 登る。

 

 百二十センチを越えた身体。

 

 もうほとんど、一人分の場所を取る。

 

 でも。

 

 いい。

 

 私は横になる。

 

 ちいも。

 

 しばらく少し離れた場所にいた。

 

 珍しい。

 

「ちい?」

 

「なに?」

 

「こっち来ないの?」

 

 少し間。

 

「……いい?」

 

 その聞き方で。

 

 また分かった。

 

 まだ気にしている。

 

 今日。

 

 自分が走ったこと。

 

 私まで川へ落ちたこと。

 

 抱きついていいのか。

 

 近づいていいのか。

 

 たぶん。

 

 そこまで。

 

「いいよ」

 

 私は布団を少し開けた。

 

「おいで」

 

 ちいが近づく。

 

 ゆっくり。

 

 いつもの勢いがない。

 

 私の横。

 

 身体を丸める。

 

 でも触れない。

 

「ちい」

 

「うん」

 

「ぎゅしないの?」

 

 顔を上げる。

 

「していい?」

 

「今日だけ特別。いっぱいしていい」

 

 ちいが少しだけ迷って。

 

 腕を伸ばした。

 

 私の胴へ。

 

 抱きつく。

 

 弱い。

 

 遠慮している。

 

「もっと普通でいいよ」

 

「つよく?」

 

「いつもくらい」

 

 少しだけ強くなる。

 

 頬が胸元へつく。

 

「あったかい」

 

「うん」

 

 いつもの。

 

 やっと。

 

 私はちいの背中へ手を置いた。

 

「今日、怖かったね」

 

「うん」

 

「でも帰ってきた」

 

「うん」

 

「明日は、外行かない」

 

「……うん」

 

「しばらく家」

 

 ちいは頷いた。

 

「おそと、だめ?」

 

 胸が痛む。

 

「駄目じゃない」

 

 すぐ言った。

 

「今日のことで、もう二度と外に行かないっていうのは違う」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

「また、こうえん?」

 

「いつかね」

 

「でんしゃ?」

 

「それも」

 

「ぺっと?」

 

「また見よう」

 

 ちいの腕が少し強くなる。

 

「でも次は」

 

 私は頭を撫でた。

 

「勝手に走らない」

 

「うん」

 

「川に近づかない」

 

「うん」

 

「分からないものがあったら私に聞く」

 

「うん」

 

「約束」

 

「やくそく」

 

「そう」

 

 少しずつ。

 

 ちいの身体から力が抜けていく。

 

 眠くなってきたらしい。

 

 私も。

 

 身体が重い。

 

 頭が熱いような。

 

 でも寒いような。

 

 布団をもう少し引き上げる。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「もう寒くない?」

 

「うん」

 

「あったかい?」

 

「うん」

 

「よかった」

 

 目を閉じる。

 

 川。

 

 夕焼け。

 

 手が滑った感触。

 

 身体が浮いた瞬間。

 

 水にたたきつけられた。

 

 全部。

 

 まだ残っている。

 

 いつか夢に見る。

 

 それでも。

 

 腕の中。

 

 ちい。

 

 温かい。

 

 いる。

 

 そのことを何度も確かめる。

 

「……何してんだろ、ほんと」

 

 もうほとんど寝言みたいだった。

 

 胸元から。

 

 眠そうな声。

 

「いっしょに、ねてる」

 

 私は目を閉じたまま笑った。

 

「そうだね」

 

「うん」

 

「それでいいか」

 

「うん」

 

 今日は。

 

 本当に。

 

 それだけでよかった。

 

 ただ。

 

 眠りへ落ちる直前。

 

 私は自分の身体が、いつもよりずっと熱くなっていることには気づかなかった。

 

 *

 

 目が覚めたとき、最初に思ったのは、雨の日と同じだった。

 

 暑い。

 

 でも、昨日の朝とは種類が違った。

 

 部屋が暑いんじゃない。

 

 身体の中が暑い。

 

 布団の中へ熱がこもっているような感じがして、私は目を閉じたまま掛け布団を胸元までずらした。

 

「……あつ……」

 

 声まで変だった。

 

 喉がざらつく。

 

 唾を飲み込むと、少し痛い。

 

 頭も重い。起き上がろうとしただけで、額の奥に鈍い痛みが広がった。

 

「……最悪」

 

 昨日。

 

 川。

 

 濡れたままの帰り道。

 

 風。

 

 思い当たることしかなかった。

 

 私は枕元へ手を伸ばした。

 

 スマートフォン。

 

 時間を見る。

 

 七時三十八分。

 

 本来なら、そろそろ起きて大学へ行く準備を始める時間だった。

 

「……ちい?」

 

 呼ぶ。

 

「いる」

 

 声はすぐ返ってきた。

 

 でも、近くない。

 

 昨日の夜は、私へ抱きついたまま眠ったはずだった。

 

 目を開ける。

 

 ちいはベッドの端に座っていた。

 

 私から少し離れたところ。

 

「……何でそこ?」

 

「ここ?」

 

「いつもなら、もっとこっち来るでしょ」

 

 私が手を伸ばす。

 

 ちいは少し迷ったあと、その手へ自分の手を重ねた。

 

 数秒。

 

 すぐ離した。

 

「あつい」

 

「え」

 

「て、あつい」

 

 私は自分の手を見る。

 

「そんなに?」

 

 ちいが頷く。

 

 少しだけショックだった。

 

 いや。

 

 意味が分からない。

 

 昨日まで、あれだけうざいくらい抱きついてきた。

 

 私が立てば腰へ。

 

 座れば腕へ。

 

 寝れば胸元へ。

 

 それが今日は、ベッドの端。

 

「……ちいに避けられてる」

 

「よけてる?」

 

「何でもない」

 

 違う。

 

 単に熱いだけだ。

 

 ちいは熱ければ嫌がる。

 

 熱いマグカップだって駄目だった。

 

 人肌くらいが好きなのであって、何でも温かければいいわけじゃない。

 

 分かっている。

 

 それなのに。

 

 少し寂しい。

 

「私、かなり熱あるんじゃない?」

 

 体温計を探す。

 

 ベッドから脚を下ろした。

 

 立つ。

 

「……っ」

 

 すぐ座った。

 

 身体が重い。

 

 視界が一瞬だけ揺れた。

 

「なに?」

 

 ちいが近づく。

 

「大丈夫。ちょっと立ちくらみ」

 

「だいじょうぶ?」

 

「たぶん」

 

 自分でも最近そればかりだ。

 

 結局、ちいに体温計を取ってもらった。

 

 もう百二十センチ近くある。

 

 昨日までなら私が何でもやっていたのに、今は棚の低い段くらいなら普通に手が届く。

 

「それ。白いやつ」

 

「これ?」

 

「そう」

 

 持ってくる。

 

「ありがと」

 

「うん」

 

 測る。

 

 待つ。

 

 電子音。

 

 見る。

 

「……三十九・三」

 

「さんじゅうきゅう?」

 

「熱あるね」

 

「ねつ?」

 

「私の身体が熱くなってる」

 

 ちいが少し考える。

 

 それから納得したように言った。

 

「だから、あつい」

 

「そこに繋がるんだ」

 

 少し笑ったら、咳が出た。

 

「っ、げほ……」

 

 喉が痛い。

 

 ちいの顔が変わる。

 

「いたい?」

 

「喉がね」

 

「きのう?」

 

「たぶん昨日のせい」

 

 川へ落ちた。

 

 濡れた。

 

 冷えた。

 

 ちいを背負って帰った。

 

 今考えれば、風邪をひく条件としては十分だった。

 

 でも、昨日の夜はそんなことまで考えられなかった。

 

 ちいが無事だった。

 

 それだけでよかった。

 

「……大学」

 

 私はスマートフォンを開いた。

 

 今日の予定を見る。

 

 一限。

 

 二限。

 

 昨日までなら。

 

 どうにかして行く方法を考えたと思う。

 

 友達へ頼む。

 

 途中から行く。

 

 プリントだけ取る。

 

 何か。

 

 でも今日は。

 

 画面を見るだけで嫌になった。

 

「無理」

 

「いかない?」

 

「今日は本当に行けない」

 

 昨日までの、ちいのために休むのとは違う。

 

 これは。

 

 普通に。

 

 私が病人だった。

 

「……初めて正当に休める」

 

「せいとう?」

 

「何でもない」

 

 大学へ体調不良の連絡を送る。

 

 今回は嘘じゃない。

 

 そのことに妙な安堵を覚えて、自分で情けなくなった。

 

「本当に何してるんだろ」

 

 ちいがこちらを見る。

 

「ねてる」

 

「まだ寝てない」

 

「じゃあ、かぜひいてる」

 

 私は少し黙った。

 

「……正解」

 

 ちいの答えが最近どんどん的確になってきている気がする。

 

 そのあと、ほとんど体を起こさず、ちいの身長も測った。

 

 昨日の朝。

 

 百十八・七。

 

 公園で。

 

 百二十一・四。

 

 川へ落ちたあとは測る余裕なんてなかった。

 

 今朝。

 

「百二十二・一……」

 

「おおきい?」

 

「昨日から、ほとんど変わってない」

 

 七ミリ程度。

 

 あれだけ晴れた日に外へいて、夕方まで歩き回ったことを考えれば、異様に少ない。

 

 もっとも、最後に長時間冷たい川へ浸かった。

 

 そのあとも帰宅まで冷え続けた。

 

 風呂で温めたとはいえ、昨日は明らかにいつもと違った。

 

「ちいは元気?」

 

「うん」

 

「寒くない?」

 

「ない」

 

「だるくない?」

 

「ない」

 

 昨日の夜よりはずっと元気だった。

 

 ただ。

 

 私には寄ってこない。

 

 壁際に座り。

 

 私を見る。

 

 たまに近づく。

 

 手を触る。

 

「あつい」

 

 離れる。

 

「……そんな何回も確認しなくていいよ」

 

「いつもの、ちがう」

 

「私の温度?」

 

「うん」

 

 ちいにとっては、それだけでもかなり大きな違いなのかもしれない。

 

 いつもなら。

 

 私が一番温かくて。

 

 一番好きで。

 

 困ればとりあえずくっつけばよかった。

 

 今日は。

 

 私は熱すぎる。

 

 ちいが少し遠くにいる。

 

 それが妙に落ち着かなかった。

 

 私は布団の中で横になりながら、何度もその姿を見る。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「こっち来ない?」

 

「あつい」

 

「……ですよね」

 

 仕方ない。

 

 でも寂しい。

 

「私、完全にちいに依存してない?」

 

「いぞん?」

 

「知らなくていい」

 

 その後寝ようとしたが、まったく寝付けなかった。

 

 昼前になると、熱は三十九・五まで上がった。

 

 頭痛。

 

 喉。

 

 身体のだるさ。

 

 立つのが嫌だった。

 

 水を取りに行くのさえ面倒で、ちいにペットボトルを持ってきてもらった。

 

「ありがと」

 

「まだいる?」

 

「そこ置いといて」

 

「うん」

 

 蓋まで開けようとする。

 

「そこは私やる」

 

「できるよ」

 

「固いから」

 

 ちいは両手で回した。

 

 開いた。

 

「……できるんだ」

 

「できた」

 

「大きくなったねえ」

 

「うん」

 

 嬉しそう。

 

 いつもならそこで抱きついてくる。

 

 今日は来ない。

 

 やっぱり少し寂しい。

 

 水を飲む。

 

 そこで思い出した。

 

「……薬」

 

 薬箱。

 

 見る。

 

 風邪薬。

 

 ない。

 

 以前使った空箱だけ。

 

「うわ」

 

「なに?」

 

「風邪薬ない」

 

「くすり?」

 

「飲んだらちょっと楽になるやつ」

 

「ない?」

 

「ない」

 

 私は天井を見た。

 

 最寄りのコンビニ。

 

 徒歩五分。

 

 薬の扱いがある少し大きめの店舗。

 

 昨日なら。

 

 自分で行った。

 

 今日は。

 

 ベッドから起きて、立って。

 

 二歩。

 

「……無理」

 

 また座る。

 

 ちいがこちらを見ている。

 

 私はちいを見る。

 

 百二十二センチ。

 

 昨日。

 

 一人で公園を歩いた。

 

 電車へ乗った。

 

 大学の中庭で待った。

 

 ペットショップにも入った。

 

 それから。

 

 川。

 

 胸が縮んだ。

 

 無理。

 

 ちいを一人で外へなんて。

 

 昨日。

 

 走った。

 

 柵。

 

 川。

 

 手が滑った。

 

 また映像が戻る。

 

「……いや」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 私は横になる。

 

 薬くらい。

 

 なくても寝ていれば。

 

 そう思った。

 

 三十分。

 

 喉が痛い。

 

 頭も。

 

 熱も下がらない。

 

 身体の節々までだるくなってきた。

 

「……買いに行くか」

 

 もう一度立つ。

 

 玄関まで。

 

 行ける。

 

 たぶん。

 

 壁へ手をつく。

 

「どこいく?」

 

「コンビニ」

 

「こんびに?」

 

「薬買いに」

 

「ちいも」

 

「いや」

 

 歩く。

 

 三歩。

 

 脚が重い。

 

 玄関までまだ遠い。

 

「……無理だこれ」

 

 壁へ額をつけた。

 

「へいき?」

 

「大丈夫じゃないね」

 

 正直に認めた。

 

 ベッドへ戻る。

 

 横になる。

 

 そして。

 

 また。

 

 ちいを見る。

 

 ちいも私を見ていた。

 

「……ちい」

 

「なに?」

 

 喉が詰まる。

 

 言いたくない。

 

 言いたくない。

 

 本当に。

 

「おつかい……できる?」

 

 ちいが首を傾げた。

 

「おつかい?」

 

「一人で、コンビニ行って。薬買って。帰ってくる」

 

 言葉にした瞬間。

 

 心臓が速くなった。

 

 熱のせいじゃない。

 

「ひとり?」

 

「……うん」

 

 昨日の事故。

 

 次の日。

 

 私は何を言っているんだろう。

 

「いや、やっぱり駄目」

 

 すぐ撤回した。

 

「ちい、いけるよ」

 

「駄目」

 

「なんで?」

 

「昨日、川に落ちたから」

 

 ちいが黙る。

 

「まだ一日しか経ってない」

 

「でも」

 

「また何かあったら」

 

「車とか。道間違えるとか。知らない人に声かけられるとか。転ぶとか。何か気になるもの見つけて走るとか。鍵なくすとか。帰ってこられなくなるとか」

 

 止まらない。

 

 一つ浮かぶと、次から次へと。

 

「やっぱ無理」

 

 私は目を閉じた。

 

「薬くらい我慢する」

 

 ちいはしばらく何も言わなかった。

 

 静か。

 

 やがて。

 

「ちい」

 

「うん」

 

「きのう、やくそくした」

 

 目を開ける。

 

「約束?」

 

「かってに、はしらない」

 

「……うん」

 

「わかんないの、きく」

 

「うん」

 

「かわ、いかない」

 

「うん」

 

「ちい、できる」

 

 声はいつも通りだった。

 

 能天気というほど明るくはない。

 

 でも。

 

 迷っていない。

 

「コンビニの場所、分かる?」

 

「……わかんない」

 

「ほら」

 

「おしえて」

 

 私は言葉に詰まった。

 

 正しい。

 

 分からないなら聞く。

 

 昨日。

 

 私が言った。

 

「……ずるいな」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 私はスマートフォンを開いた。

 

 地図。

 

 家。

 

 コンビニ。

 

 本当に近い。

 

 大きな道路を渡らない。

 

 ひたすらまっすぐ。

 

 信号も一つだけ。

 

 昨日歩いた道の途中。

 

 ちいも途中までは知っている。

 

「ここ」

 

 画面を見せる。

 

「昨日、公園行った道覚えてる?」

 

「うん」

 

「あの道を途中まで行く。角のところに、明るい看板のお店がある」

 

「ここ?」

 

「そう」

 

 私はそれでも迷った。

 

 行かせる。

 

 行かせない。

 

 自分で行く。

 

 寝る。

 

 誰かに頼む。

 

 友達を呼ぶ?

 

 何て説明する。

 

 風邪薬だけ届けて。

 

 そのあと、家に百二十二センチの正体不明の女の子がいます。

 

 無理。

 

「……ちい」

 

「うん」

 

「本当にできる?」

 

「できる」

 

「絶対走らない?」

 

「はしらない」

 

「知らない道に行かない」

 

「いかない」

 

「寄り道しない」

 

「しない」

 

「ペットショップ見つけても」

 

「……」

 

「今迷ったよね?」

 

「いかない」

 

「ほんとに?」

 

「うん」

 

 私は頭を押さえた。

 

 熱い。

 

 頭痛い。

 

 心配。

 

 でも。

 

 ちいを信じる。

 

 昨日、自分で言った。

 

 何も知らないから危ない。

 

 なら。

 

 教えればいい。

 

 約束すればいい。

 

 少しずつ。

 

 できることを増やせばいい。

 

 いつまでも。

 

 私が全部やるわけにはいかない。

 

 もう百二十二センチもある。

 

「……分かった」

 

 口にした瞬間。

 

 胃が縮んだ。

 

「行ってもらう」

 

 ちいの顔が少し明るくなる。

 

「おつかい」

 

「そう」

 

 私は財布から現金を出した。

 

 ちいが持てる小さな袋。

 

 小銭入れを入れる。

 

 予備の鍵も入れる。

 

 その一つ一つを確認する。

 

「お店入ったら」

 

「うん」

 

「店員さんに言うこと、覚えて」

 

「うん」

 

 私はゆっくり言った。

 

「『お姉ちゃんが風邪をひきました』」

 

 ちいが繰り返す。

 

「おねえちゃんが、かぜひきました」

 

「『熱と、喉が痛いです』」

 

「ねつと、のど、いたいです」

 

「『風邪薬がほしいです』」

 

「かぜぐすり、ほしいです」

 

「全部」

 

 ちいが息を吸う。

 

「おねえちゃんが、かぜひきました。ねつと、のどいたいです。かぜぐすり、ほしいです」

 

「……よし」

 

「おねえちゃん?」

 

「私」

 

「おねえちゃん」

 

 妙なところで。

 

 胸が少し止まった。

 

「……まあ、そういうことにしよう」

 

「ちいの、おねえちゃん?」

 

「今日はね」

 

 ちいが少し嬉しそうになった。

 

「おねえちゃん」

 

「何回も言わなくていい」

 

「おねえちゃん」

 

「ちい」

 

 笑ってしまった。

 

 喉が痛くて、すぐ咳になる。

 

「げほ……っ、もう」

 

「へいき?」

 

「じゃないから薬買ってきてもらうの」

 

「うん」

 

 玄関まで見送る。

 

 立っているのも辛いので、壁へ寄りかかる。

 

 ちいが靴を履く。

 

 昨日買った少し大きめの靴。

 

 まだ少し濡れている。

 

 今日も余裕がある。

 

 成長がほとんど止まっているから。

 

 それにも、少し不安になる。

 

 元気そうではある。

 

 でも。

 

 昨日の川。

 

 やっぱりちいにも何か残っているんじゃないか。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「やっぱり……」

 

 行かなくていい。

 

 言いかける。

 

 ちいが私を見る。

 

「かえってくるよ」

 

 出かけるとき。

 

 私が何度も言った言葉。

 

 今度は。

 

 ちいが言った。

 

 私は何も言えなくなった。

 

「……うん、待ってる」

 

 予備の鍵と現金を入れた袋を持たせる。

 

「気をつけて」

 

「うん」

 

「急がなくていい」

 

「うん」

 

「でも寄り道は駄目」

 

「うん」

 

「何かあったら……」

 

 何かあったら。

 

 電話も持っていない。

 

 困る。

 

 また不安になる。

 

「……店員さんに聞いて」

 

「きく」

 

「分からなかったら帰ってきていいから」

 

「うん」

 

「薬買えなくても怒らない」

 

「うん」

 

「絶対」

 

「うん」

 

 ちいがドアを開ける。

 

 外。

 

 私は反射的に手を伸ばしそうになった。

 

 やめた。

 

「いってきます」

 

 初めて聞いた、ちいの言葉。

 

 私がちいに言った言葉。

 

 胸の奥が変な感じになる。

 

「……いってらっしゃい」

 

 ドアが閉まった。

 

 足音。

 

 少しずつ遠くなる。

 

 静か。

 

「……無理」

 

 私はその場にしゃがみ込んだ。

 

 もう心配だった。

 

 一分も経っていない。

 

 戻ってきてと言いたい。

 

 追いかけたい。

 

 でも。

 

 立てない。

 

 そして。

 

 信じると決めた。

 

 ベッドへ戻る。

 

 スマートフォンを見る。

 

 一分。

 

 二分。

 

 三分。

 

 往復なら最低でも十分くらい。

 

 その十分が長い。

 

 分かっている。

 

 でも長い。

 

 昨日、川へ走った背中が浮かぶ。

 

 消す。

 

 ちいは約束した。

 

 走らない。

 

 寄り道しない。

 

 分からないものは聞く。

 

「大丈夫」

 

 自分へ言う。

 

 四分。

 

 五分。

 

 六分。

 

 コンビニへ着いた頃。

 

 たぶん。

 

 今頃。

 

 店へ入って。

 

 店員に。

 

「お姉ちゃんが風邪をひきました……」

 

 想像する。

 

 百二十二センチのちい。

 

 新品の靴。

 

 現金を握って。

 

 一生懸命、覚えた言葉を言う。

 

「……絶対怪しまれてる」

 

 少し笑った。

 

 また咳。

 

 八分。

 

 九分。

 

 十。

 

 まだ。

 

 十一。

 

 立ち上がりかける。

 

「いや、待って」

 

 買い物している。

 

 当然十分以上かかる。

 

 十二。

 

 十三。

 

 玄関から音。

 

 私はベッドから身体を起こした。

 

 がちゃ。

 

 扉が開く。

 

「ただいま」

 

 ちいの声。

 

「ちい!」

 

 思ったより大きな声が出た。

 

 喉が痛む。

 

 それでも。

 

「おかえり」

 

 言いたかった。

 

 ちいが部屋まで来た。

 

 手には小さなレジ袋。

 

「ただいま」

 

 その一言だけで。

 

 全身から力が抜けた。

 

「……よかった」

 

「かったよ」

 

「何を?」

 

「かぜぐすり」

 

 袋を渡される。

 

 中。

 

 箱。

 

 それから飲み物。

 

 補水液が入っていた。

 

 私は驚いた。

 

「これも?」

 

「おみせのひと」

 

「店員さん?」

 

「おねえちゃん、みずものんでって」

 

「……そっか」

 

 たぶん。

 

 事情を聞いて。

 

 熱のある姉が家にいると知って。

 

 飲み物も勧めてくれたらしい。

 

「ちゃんと言えた?」

 

「うん」

 

「何て?」

 

 ちいは少し胸を張った。

 

「おねえちゃんが、かぜひきました。ねつと、のどいたいです。かぜぐすり、ほしいです」

 

「全部言えたんだ」

 

「うん」

 

「店員さん何て?」

 

「おねえちゃん、だいじょうぶ?って」

 

「……そうだろうね」

 

「ちい、だいじょうぶじゃないっていった」

 

「そこまで言ったの?」

 

「うん」

 

 私は笑った。

 

 笑うと頭が痛い。

 

 喉も。

 

 でも。

 

 嬉しかった。

 

「ありがと」

 

 ちいが少し近づく。

 

 いつものように抱きつこうとして。

 

 途中で止まる。

 

 手を伸ばす。

 

 私の腕へ触れる。

 

「あつい」

 

「まだ駄目かあ」

 

「でも」

 

 ちいは少し考えた。

 

 それから。

 

 私の手だけ握った。

 

「これならへいき」

 

 私はその手を見る。

 

「そっか」

 

 抱きついてはくれない。

 

 でも。

 

 そばにはいる。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「おつかい、できたね」

 

「うん」

 

「すごいね」

 

 顔が明るくなる。

 

「ちい、すごい」

 

「そういう意味でいいよ、今日は」

 

 私は薬の箱を手に取った。

 

 頭はまだ痛い。

 

 熱もある。

 

 大学にも行けない。

 

 昨日の事故もまだ頭から離れない。

 

 ちいの成長も止まりかけている。

 

 不安なことばかりだった。

 

 でも。

 

 昨日まで外へ出れば、私がちいを守らなければいけないと思っていた。

 

 今日。

 

 私はベッドからほとんど動けなくて。

 

 ちいが外へ出た。

 

 私のために。

 

 薬を買って。

 

 帰ってきた。

 

「……何してんだろ、私」

 

 いつものように呟く。

 

 ちいがすぐ答えた。

 

「かぜひいてる」

 

「うん」

 

「だから、ねる」

 

「……はい」

 

 何も間違っていなかった。

 

 私は笑いながら布団へ戻った。

 

 ちいは抱きつかず、ベッドの横へ座る。

 

 少し離れて。

 

 でも手だけは、私の手を握ったまま。

 

 いつもとは違う距離。

 

 それでも。

 

 今日はそれで十分だった。

 

 *

 

 次に目が覚めたとき、部屋は少し暗くなっていた。

 

 カーテンの隙間から入ってくる光が、朝の白さではない。

 

 橙色。

 

 夕方。

 

「……ん」

 

 頭を動かす。

 

 まだ重い。

 

 でも。

 

 昼よりは少しましだった。

 

 喉は痛い。身体もだるい。熱が完全に下がった感じはない。

 

 それでも、目を開けた瞬間に何もしたくないと思うほどではなかった。

 

「今……何時」

 

 スマートフォン。

 

 取りたい。

 

 手を伸ばそうとして。

 

 動かなかった。

 

「……ん?」

 

 右手。

 

 何かに握られている。

 

 ちいの手。

 

 その先。

 

「……あ」

 

 ベッドの横。

 

 ちいがいた。

 

 床に座ったまま、上半身だけをベッドへ預けている。

 

 腕を伸ばして。

 

 私の手を握って。

 

 そのまま、顔を布団へ伏せて眠っていた。

 

 黒い髪が広がっている。

 

 顔は見えない。

 

 呼吸に合わせて、肩がゆっくり上下する。

 

「……寝てる」

 

 声に出して。

 

 少しだけ笑った。

 

 昼。

 

 薬を買ってきて。

 

 私が薬を飲むところを見て。

 

 それからずっと、ここにいたらしい。

 

 抱きつけない。

 

 私の身体は熱すぎる。

 

 だから。

 

 手だけ。

 

「……そこまでして握らなくてもいいのに」

 

 小さく言う。

 

 ちいは起きない。

 

 握っている力は強くない。

 

 でも、完全には離れていない。

 

 私が少し指を動かすと。

 

 眠ったまま。

 

 ちいの指が少しだけ締まった。

 

「……」

 

 胸の奥が。

 

 ゆっくり緩んだ。

 

 昨日、川へ落ちたこと。

 

 今日、ちいを一人で外へ出したこと。

 

 ずっと。

 

 心配ばかりだった。

 

 自分の判断が間違っていないか。

 

 この子に何かあったら。

 

 今度こそ、もし。

 

 そういうことばかり考えていた。

 

 でも、今。

 

 ちいはここにいる。

 

 ちゃんと帰ってきて。

 

 私の手を握ったまま。

 

 安心したみたいに寝ている。

 

「……そっか」

 

 私が安心するだけじゃない。

 

 ちいも、私がここにいるか、たぶん気にしていた。

 

 病気というものをどこまで理解しているかは分からない。

 

 熱が出る。

 

 咳をする。

 

 いつもと違う。

 

 それがちいは、不安だったのかもしれない。

 

「ごめんね」

 

 言ってから。

 

 何に対してだろうと思った。

 

 昨日、川へ落ちたこと。

 

 今日、一人でお使いをさせたこと。

 

 心配させたこと。

 

 全部。

 

 でも。

 

 謝ってばかりなのも違う気がした。

 

「……ありがと」

 

 こっちの方がいい。

 

 私は空いている手で、ちいの髪へそっと触れた。

 

 起こさないように。

 

 一度だけ。

 

 撫でる。

 

 ちいが少し動いた。

 

「ん……」

 

「ごめん。起こした?」

 

 顔が上がる。

 

 寝ぼけている。

 

「……おきた?」

 

「私がね」

 

 ちいは数秒、私を見る。

 

 それから。

 

 握っている手を見る。

 

 まだ離していない。

 

「ずっとここいたの?」

 

「うん……」

 

「何でベッドで寝なかったの」

 

「ここ」

 

「手?」

 

「うん」

 

 眠そうに答える。

 

「私、熱かったでしょ」

 

「あつい」

 

「なら離れて寝ればよかったのに」

 

 ちいは少し考える。

 

「でも、ここいる」

 

「……うん」

 

 その返事だけで。

 

 また少し笑った。

 

「体温測ろうかな」

 

「ねつ?」

 

「うん」

 

 ちいが手を離す。

 

 少しだけ。

 

 寂しい。

 

 でも今度は、普通に離れただけだと分かっている。

 

 体温計を脇に挟む。

 

 待つ。

 

 ちいはベッドの横に立って見ている。

 

「そんなに見ても早くならないよ」

 

「なる?」

 

「ならない」

 

 電子音。

 

「三十八・一」

 

 下がってる。

 

 昼より。

 

 ちゃんと。

 

「……よし」

 

「なおった?」

 

「まだ。でもちょっと下がった」

 

「いい?」

 

「いい」

 

 ちいの顔が少し明るくなる。

 

「薬効いたのかな」

 

「ちい、かった」

 

「そうだね」

 

「ちいのくすり」

 

「ちいが作ったわけじゃないでしょ」

 

「ちい、かった」

 

「そこは譲らないんだ」

 

 笑う。

 

 昼よりちゃんと笑えた。

 

 咳も少し出たけれど。

 

 さっきほど苦しくない。

 

「お腹空いた」

 

 言ってから。

 

 自分で驚いた。

 

 昨日の夜からほとんど食べていない。

 

 昼も薬を飲むために少し口へ入れただけだった。

 

 今。

 

 何か食べたいと思える。

 

「元気出てきたかも」

 

「げんき?」

 

「ちょっと」

 

 ベッドから身体を起こす。

 

 ちいがすぐ近づく。

 

「だいじょうぶ?」

 

「立てると思う」

 

 足を床へ。

 

 立つ。

 

 少しふらつく。

 

 でも朝ほどではない。

 

 ちいが手を出した。

 

 反射的に掴む。

 

 今のちいは、百二十二センチ。

 

 少しくらいは頼れる。

 

「……ちいに支えてもらう日が来るとは」

 

「できる」

 

「うん。できるね」

 

 ゆっくり台所へ。

 

 冷蔵庫。

 

 このまえ、ちいを留守番させて買ったもの。

 

 あの日と今日は逆だった。

 

「何食べよう」

 

「たべる?」

 

「私がね」

 

「うん」

 

 簡単なもの。

 

 作るほどの元気はない。

 

 お粥は。

 

 冷凍してあったご飯。

 

 水。

 

 少し塩。

 

 電子レンジ。

 

「……これでいいや」

 

「なに?」

 

「病人用ごはん」

 

 ちいが横から覗く。

 

「おいしい?」

 

「たぶん普通」

 

 温める。

 

 湯気。

 

 ちいが少し後ろへ下がった。

 

「あつい?」

 

「ちょっと」

 

「今日は私も熱いし、台所まで熱いね」

 

 茶碗を持ってテーブルへ。

 

 座る。

 

 一口。

 

「……薄い」

 

 でも食べられる。

 

 二口。

 

 三口。

 

 身体へ少しずつ力が戻ってくる。

 

 ちいは向かいに座って、ずっと見ていた。

 

「そんな見ないでよ」

 

「たべてる」

 

「見れば分かる」

 

「いっぱいたべる?」

 

「今日はそんなに」

 

「げんきになる?」

 

「食べないよりは」

 

 ちいが頷く。

 

 それから。

 

「じゃあ、たべて」

 

「……はい」

 

 妙に素直に従ってしまった。

 

 食べ終わる。

 

 水。

 

 薬。

 

 ちいは全部確認している。

 

「飲んだよ」

 

「うん」

 

「監督みたい」

 

「かんとく?」

 

「何でもない」

 

 ソファへ移動。

 

 まだ長く立っているのはきつい。

 

 座る。

 

 ちいは少し離れたところへ座った。

 

 やっぱり。

 

 いつもの距離ではない。

 

 私は少しだけ手を伸ばす。

 

「まだ熱い?」

 

 ちいも手を伸ばす。

 

 掌。

 

 触れる。

 

 しばらく。

 

「まだ、ちょっと」

 

「そっか」

 

「でも」

 

 ちいはそのまま手を離さなかった。

 

「これいい」

 

「手だけ?」

 

「うん」

 

「それなら」

 

 ただ握る。

 

 昼からずっと。

 

 同じ。

 

「今日はぎゅなしだね」

 

「ぎゅ、あつい」

 

「分かってる」

 

「なおったらする」

 

「……予約?」

 

「いっぱい」

 

「元気になった瞬間うざそう」

 

 ちいが笑った。

 

 私も笑う。

 

 それが。

 

 すごく普通だった。

 

 夕方の光が部屋へ入る。

 

 昨日の夕焼けとは違う。

 

 窓越し。

 

 安全なところから見る色。

 

 私は少しだけ身構えた。

 

 川面。

 

 柵。

 

 落ちる瞬間。

 

 まだ思い出す。

 

 でも。

 

 隣にちいがいる。

 

 手を握っている。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「夕焼け、怖くない?」

 

 ちいは窓を見る。

 

 少しだけ黙った。

 

「……わかん、ない」

 

「ここは大丈夫」

 

「うん」

 

「あれは見てて大丈夫」

 

「いかない?」

 

「行かない」

 

 ちいはまた夕焼けを見る。

 

「きれい」

 

「うん」

 

 昨日と同じ言葉。

 

 でも。

 

 今度は走らない。

 

 座ったまま。

 

 手を握ったまま。

 

 見る。

 

 それだけ。

 

「……覚えたんだね」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 しばらく二人で窓を見た。

 

 そのうち、熱が少し戻ってきたのか。

 

 身体がまた重くなる。

 

「……やっぱり寝よ」

 

「ねる?」

 

「うん」

 

 ベッドへ戻る。

 

 今度はちいも一緒に来た。

 

 ただし。

 

 少し距離を空ける。

 

「そこ?」

 

「ここ」

 

「今日はずっとそこだね」

 

「あついから」

 

「はいはい」

 

 私は布団へ入る。

 

 ちいは枕元。

 

 手だけ。

 

 また。

 

 握る。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「今日、お使い行ってくれて本当にありがとね」

 

「うん」

 

「怖くなかった?」

 

「ちょっと」

 

「……そっか」

 

 やっぱり。

 

 怖くなかったわけじゃない。

 

 昨日の今日。

 

 一人で外へ。

 

 それでも行った。

 

「私が頼んだから?」

 

「うん」

 

「無理させた?」

 

 ちいは考える。

 

「でも」

 

 私を見る。

 

「おねえちゃん、げんきないから」

 

 胸の奥が止まった。

 

 昼。

 

 店で言うために教えただけの言葉。

 

 姉という設定。

 

 外で怪しまれないための。

 

 それだけだったはずなのに。

 

 今は。

 

 違う意味に聞こえた。

 

「……そっか」

 

 それ以上。

 

 何も言えなかった。

 

 ただ。

 

 手を握り返す。

 

「ありがと」

 

 ちいは少しだけ笑った。

 

「げんきなる?」

 

「なるよ」

 

 今度は。

 

 ちゃんと言えた。

 

「明日には、もっと元気になる」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

「じゃあ」

 

 ちいが少し考える。

 

「ぎゅできる?」

 

「……そこなんだ」

 

「うん」

 

 笑った。

 

「熱下がったらね」

 

「いっぱい?」

 

「ほどほど」

 

「いっぱい」

 

「元気になってから交渉しよう」

 

 ちいは満足したのか。

 

 手を握ったまま横になる。

 

 今度はちゃんとベッドの上。

 

 距離は少しある。

 

 でも。

 

 昼より近い。

 

 私は目を閉じた。

 

 身体はまだ重い。

 

 喉も痛い。

 

 熱も残っている。

 

 大学のことも。

 

 ちいの成長のことも。

 

 昨日の事故も。

 

 何一つ片づいていない。

 

 それでも。

 

 朝よりずっと。

 

 大丈夫な気がした。

 

 薬が効いたからなのか。

 

 熱が下がったからなのか。

 

 夕方の光が穏やかだからなのか。

 

 それとも。

 

 手の中に。

 

 ちいの手があるからなのか。

 

 たぶん。

 

 全部だった。

 

 *

 

 目が覚める少し前から、何かが重かった。

 

 胸。

 

 腹。

 

 脚。

 

 身体の前側へ、広く重さがかかっている。

 

 けれど嫌ではなく、むしろ久しぶりで、少し懐かしいような感覚だった。

 

「……ん」

 

 腕が背中へ回っている。

 

 顔は胸元に押しつけられ、脚まで私の横へ絡むように近い。

 

 寝ぼけた頭で、ああ、と思った。

 

 ちいだ。

 

 抱きついている。

 

 昨日は熱いと言ってずっと少し離れていた。

 

 手しか握れなかった。

 

 それが。

 

「……治った?」

 

 声に出す。

 

 喉は、少し痛い。

 

 でも昨日よりずっとまし。

 

 身体も、熱い感じがしない。

 

 頭痛もほとんどない。

 

「……よかった」

 

 それより。

 

 ちい。

 

 またくっついてる。

 

 それが。

 

 妙に嬉しかった。

 

「ほんとに予約通りだね……」

 

 昨日、熱が下がったらいっぱいぎゅする。

 

 そんな話をした。

 

 早速朝から、それもかなり本気で。

 

「……重いけど」

 

 笑いながら目を開けた。

 

 一瞬。

 

 何を見ているのか分からなくなった。

 

 黒い髪。

 

 すぐ近く。

 

 顔。

 

 ちい。

 

 そこまでは分かる。

 

 でも。

 

 近すぎる。

 

 というより。

 

「……え」

 

 顔の大きさも、肩幅も、私へ回された腕も。

 

 昨日と違う。

 

 ちいは私へ抱きついたまま眠っていた。

 

 胸元へ顔を寄せて。

 

 腕を胴へ回して。

 

 脚まで私の横へ伸びている。

 

 昨日までなら。

 

 その姿勢になっても。

 

 私の胸から足先までに収まっていた。

 

 今はベッドの上でほとんど私と同じ長さになっていた。

 

「……ちい?」

 

 返事はない。

 

「ちい。起きて」

 

 肩へ手を置いた瞬間、その大きさを改めて実感した。

 

 昨日までの肩とは違う。

 

 腕も背中も、もう小さな身体の一部じゃない。

 

 ちゃんと人ひとり分の身体がそこにある。

 

「ちい、ちょっと起きて」

 

「ん……ねむい」

 

 声。

 

 変わっていない。

 

 少し幼い。

 

 言葉の調子も。

 

 昨日と同じ。

 

「いや、寝てる場合じゃない」

 

 ちいがゆっくり目を開ける。

 

「なに?」

 

 その顔を見て。

 

 また変な感じがした。

 

 

 顔そのものは当然大きくなっている。

 

 目元も頬も、少し幼い印象もそのまま。

 

 身体だけが急に先へ進んでいた。

 

「ちい」

 

「うん」

 

「大きくなってる」

 

 ちいは自分の腕や脚を見る。

 

 それから私を見る。

 

「おおきい?」

 

「……ものすごく」

 

 目が少し明るくなった。

 

「やった」

 

「待って待って」

 

 私は身体を起こす。

 

 ちいも続いた。

 

 並んで座る。

 

 もう肩の高さがほとんど変わらない。

 

「……嘘でしょ」

 

 私が百六十くらい。

 

 ちいは昨日の朝、百二十二くらい。

 

 その差、四十センチ。

 

 それが一晩で。

 

 ベッドから降りる。

 

「立って」

 

「たつ?」

 

「いいから」

 

 今までは。

 

 私が少し手伝うこともあった。

 

 今日は。

 

 普通に足を下ろして、立った。

 

 向かい合う。

 

 私は思わず息を止めた。

 

 目線がほとんど同じだった。

 

 ほんの少しだけ私の方が高い気がする。

 

 たぶん数センチ。それだけ。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「……私と同じくらい」

 

「おんなじ?」

 

「たぶん」

 

 ちいの顔がゆっくり嬉しそうになる。

 

「やった」

 

「そこなんだ」

 

 そして、そのまま近づいてきた。

 

「え」

 

 真正面から抱きつかれる。

 

 今までみたいに私の腰や胸元へ飛び込んでくる。

 

 ではない。

 

 肩も腕も顔もほとんど同じ高さ。

 

 同じくらいの身体がそのまま私へ抱きついてくる。

 

「ぎゅ」

 

「……」

 

「できた」

 

「できたっていうか……」

 

 私は少し固まった。

 

 これまでは、ちいが抱きついて、私が受け止める。

 

 大きい私と、小さいちい。

 

 それが一晩でほとんど消えている。

 

 今は。

 

 ちいが私へ抱きついているというより、普通に二人で抱き合っている。

 

「……すご」

 

 声が漏れた。

 

「ちい、ちょっとだけ離れて」

 

「なんで?」

 

「ちゃんと見たいから」

 

 少し不満そうだったが、ちいは離れた。

 

 改めて見る。

 

 白い服、黒い髪、幼い顔つき。

 

 見慣れたちいのままなのに、背丈だけはもう完全に人間の大人。

 

 そのとき、玄関に置いてある靴を思い出した。

 

「……靴」

 

「くつ?」

 

「昨日買ったやつ、もう無理じゃない?」

 

 二十センチ。

 

 大きめを選んだはずだった。

 

 玄関まで行って見比べるまでもない。

 

 今のちいの足には明らかに小さい。

 

「……二日」

 

 私は額を押さえた。

 

「一日しか履いてない……」

 

「ちいのくつ」

 

「そうだよ。専用だったよ」

 

「もうむり?」

 

「絶対無理」

 

 ちいは少し残念そうだった。

 

「……また買うしかないね」

 

「せんよう?」

 

「そこは嬉しそうにしない」

 

 私は裁縫箱から巻尺を出した。

 

「とりあえず測る」

 

「また?」

 

「これは測るでしょ」

 

 床へ伸ばしてみる。

 

 一メートル、百二十、百四十、百五十。

 

 そこで終わった。

 

「ない」

 

「なに?」

 

「足りない」

 

 百五十センチの巻尺。

 

 ちいの身長は、どう見てもそれ以上だった。

 

「……裁縫箱のメジャーで測れない」

 

「ちい、おおきいから?」

 

「そう」

 

「やった」

 

「その反応でいいのかな」

 

 仕方なく壁際へ立たせ、私自身の身長と比べる。

 

 私が百六十。

 

 ちいはほんの少し低い。

 

「百五十七とか、百五十八とか……そのくらいかな」

 

「ひゃくごじゅう?」

 

「そのくらい」

 

「おんなじ?」

 

「ほぼね」

 

「おんなじ」

 

 また嬉しそうに言う。

 

 そして。

 

「ぎゅ」

 

「それに戻る?」

 

 再び抱きつかれる。

 

 今度は私も自然に腕を回した。

 

 変な感じだった。

 

 昨日までとは、もう明らかに違う。

 

「……ちい」

 

「なに?」

 

「本当に大きくなったね」

 

「うん」

 

 声も、返事も、表情もまだ幼い。

 

 その一方で、見た目だけならもう同年代の背丈。

 

 アンバランス。

 

 初めて、そう思った。

 

「見た目だけなら、もう普通に私と同じくらいなのに」

 

「おんなじ」

 

「身体はね」

 

 ちいは意味をよく分かっていないようで、不思議そうに顔を近づけた。

 

「なに?」

 

「……何でもない」

 

 私は少しだけ顔を引く。

 

 近い。

 

 その距離感まで、昨日までとは全然違っていた。

 

「げんき?」

 

「え?」

 

「ねつ」

 

「あ」

 

 完全に忘れていた。

 

 体温を測る。

 

 三十七・一。

 

「……下がってる」

 

「なおった?」

 

「ほぼ」

 

「じゃあ、ぎゅ」

 

「もうしてるでしょ」

 

「いっぱい」

 

「昨日予約した分?」

 

「うん」

 

「覚えてたんだ」

 

 また抱きついてくる。

 

「ちょっと待って。ほんとに重いから」

 

「おもい?」

 

「重いっていうより」

 

 もう勢いつけられたら普通に私が負ける

 

「走って来ないでね」

 

「なんで?」

 

「倒れる」

 

「ちい、つよい?」

 

「強いし、大きい」

 

「いいこと」

 

「そこは変わらないんだ」

 

 私は笑った。

 

 昨日、川のことがあって、私が熱を出して。

 

 ちいは一人で薬を買いに行った。

 

 そして今朝。

 

 私がちゃんと起きて、熱も下がって、また隣にいる。

 

 安心したから。

 

 それで、ちいの中の何かがまた一気に動いたのかもしれない。

 

「……ブーストかかった?」

 

「ぶーすと?」

 

「何でもない」

 

 窓から朝の日差しが入っている。

 

 今日は晴れ。

 

 そしてちいは、もう百五十センチを超えている。

 

「長いメジャー買わないとな」

 

「また?」

 

「もっと長いやつ」

 

「ちいの?」

 

「これは私の」

 

「ちい、はかる」

 

「それに使うから、半分ちいの」

 

 ちいは満足そうに頷いた。

 

 そのあとも何度か抱きつかれながら、私はスマートフォンの時刻を確認した。

 

 別の問題を思い出した。

 

「……やば」

 

「なに?」

 

「課題」

 

 机を見る。

 

 友達から引き受けたものが二つ、手つかずのまま残っている。

 

 私が早く帰る代わりにやると約束したのに。

 

 そのあと川へ落ちて、風邪をひいて、当然一文字も進んでいなかった。

 

「今日返すって言ったんだった……」

 

「かえす?」

 

「借り」

 

「かり?」

 

「私の代わりに大学で助けてもらったから、今度は私がやるの」

 

「これ?」

 

 ちいがプリントを指差す。

 

「そう。それとこっち」

 

「ふたつ」

 

「二つ」

 

 時刻はまだ九時前だった。午後から大学へ行くから、何とか間に合う。

 

「……やるか」

 

 私は椅子へ座った。

 

 当然のように、ちいも横へ来る。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「今からしばらく、本当に邪魔しないでね」

 

「じゃま?」

 

「ぎゅ禁止」

 

 明らかに不満そうな顔になる。

 

「なんで?」

 

「終わらなくなるから」

 

「ちょっとも?」

 

「ちょっとも」

 

「いっぱいは?」

 

「もっと駄目」

 

 ちいは黙った。

 

 私を見て、机を見て、また私を見る。

 

「そんな顔しても駄目だから」

 

「あとで?」

 

「終わったら」

 

「いっぱい?」

 

「交渉の余地あり」

 

 意味は分かっていなさそうだったが、「あとで」だけは理解したらしい。

 

「わかった」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

 私はシャープペンシルを持って問題を読み始めた。

 

 一問目。計算。

 

 普段なら十五分もかからないはずなのに、病み上がりの頭はまだ少し鈍い。

 

「……頭回らない」

 

「まわる?」

 

「そういう意味じゃない」

 

 ちいが横から覗き込む。

 

「これは?」

 

「問題」

 

「むずかしい?」

 

「今はちょっと」

 

「ちい、やる?」

 

「無理でしょ」

 

「なんで?」

 

「この前まで四センチだった人に大学の課題任せられないから」

 

 ちいは少し考えて。

 

「いま、おおきい」

 

「大きさの問題じゃない」

 

「おんなじ」

 

「だから身長の話じゃないって」

 

 こんな会話をしている場合ではない。

 

「ほら。邪魔しない約束」

 

「してない」

 

「今してたでしょ」

 

「はなしただけ」

 

「……理屈を覚え始めたな」

 

 私はちいを少し机から離した。

 

「日向行ってきて」

 

「ここいる」

 

「じゃあ静かに」

 

「うん」

 

 その返事から五分ほど、ちいは本当に静かだった。

 

 ただし、ずっと私の横に立って見ている。

 

「……視線が気になる」

 

「みてる」

 

「知ってる」

 

「じゃま?」

 

「ちょっと」

 

 ちいが一歩下がる。

 

「ここ?」

 

「まだ近い」

 

 さらに一歩。

 

「ここ?」

 

「……まあいいか」

 

 それから二十分。

 

 何とか一つ目が終わった。

 

「できた」

 

「おわり?」

 

「一個」

 

「あとひとつ」

 

「そう」

 

 ちいが嬉しそうに両腕を広げる。

 

「ぎゅ?」

 

「まだ」

 

「ひとつおわった」

 

「半分だから」

 

「はんぶんぎゅ」

 

 私は手を止めた。

 

「何それ」

 

「はんぶん」

 

「どうやるの」

 

 ちいは近づいてきて、片腕だけを私の肩へ回した。

 

「……それ半分?」

 

「うん」

 

 思わず笑ってしまう。

 

「十秒だけ」

 

「じゅうびょう」

 

「それ以上は駄目」

 

 顔は肩、身体は少し横向き。

 

 確かに半分っぽい。

 

「何してんだろ、ほんと」

 

「はんぶんぎゅ」

 

「うん。それは分かった」

 

 十秒で離して、二つ目へ戻る。

 

 濡れてるから、レポート用紙にまとめた。

 

 はんぶんぎゅのおかげかどうか、二つ目は少し早く進んだ。

 

 十一時前。

 

「終わった……」

 

 机へ突っ伏す。

 

「おわった?」

 

「終わった」

 

「ふたつ?」

 

「二つ」

 

 ちいがすぐ来る。

 

「ぎゅ」

 

「……約束したもんね」

 

 今度は両腕。

 

 真正面から抱きつかれる。

 

「ちょっと、勢い」

 

「はしってない」

 

「そうだけど」

 

 もう同じくらいの身長。

 

 小さな身体が胸元へ飛び込んでくる感覚ではない。

 

 同じくらいの大きさの誰かが普通に抱きついてくる。

 

 腕の位置も、顔の位置も。

 

 昨日までと全然違う。

 

「あったかい」

 

「熱、もう平気?」

 

「うん」

 

「ほんと?」

 

 ちいが頬を私の首へ近づける。

 

「ちょっとだけあつい」

 

「まだ微熱あるからね」

 

「でも、へいき」

 

「そっか」

 

 少し安心した。

 

 昨日ずっと距離を取っていた反動なのか、そのまましばらく離れなかった。

 

 昼前にもう一度体温を測ると、三十六・九だった。

 

「……よし」

 

「なおった?」

 

「ほぼ」

 

 身体のだるさも喉の違和感も多少は残っている。

 

 けど、大学へ行けないほどではない。

 

 何より今日は行かないとまずい。

 

 課題。出席。借り。

 

 全部。

 

「午後から大学行く」

 

 ちいが私を見る。

 

「ひとり?」

 

「うん」

 

「ちい?」

 

「留守番」

 

 少し間があった。

 

 以前なら、ここで「ひとり、いや」と言ったと思う。

 

 でも。

 

「わかった」

 

「……え」

 

「まってる」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

 あまりにあっさりしていて、逆に私の方が不安になった。

 

「本当に大丈夫?」

 

「だいじょうぶ」

 

「昨日、一人でコンビニ行ったから?」

 

「うん」

 

「今日も外行こうとか思ってない?」

 

「いかない」

 

「川も」

 

「いかない」

 

「ペットショップ」

 

「いかない」

 

「公園」

 

「いかない」

 

「……疑いすぎ?」

 

「うん」

 

 即答された。

 

「でもね、昨日のことあるから」

 

「やくそくした」

 

「そうなんだけど」

 

 ちいは私を見る。

 

 昨日と同じ。

 

 逃げない。

 

 変に落ち込んでもいない。

 

 ただ。

 

 自分は分かっている、という顔。

 

「はしらない」

 

「うん」

 

「わかんないの、きく」

 

「うん」

 

「そと、ひとりでいかない」

 

「……うん」

 

 そこは昨日の約束より一歩進んでいた。

 

「覚えてたんだ」

 

「うん」

 

 私は少し黙った。

 

 この子を信じる。

 

 言葉にすると簡単だけれど。

 

 玄関を閉めた瞬間から心配する未来がもう見えている。

 

 それでも昨日。

 

 ちいは一人でコンビニへ行って、薬を買って、寄り道せずに帰ってきた。

 

 今日も。

 

 朝から私が課題をしている間、半分ぎゅ以外はだいたい邪魔しなかった。

 

「……だいたいね」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 成長している。

 

 身体だけじゃない。

 

 そこを私は、ちゃんと見なければならない。

 

「じゃあ、今日は信じる」

 

「うん」

 

「でもルールはある」

 

「ある?」

 

「ある」

 

 私は指を立てた。

 

「玄関から出ない」

 

「うん」

 

「窓を開けない」

 

「うん」

 

「火を使わない」

 

「ひ?」

 

「コンロ。触らない」

 

「うん」

 

 一つずつ確認していく。

 

「お風呂も勝手に入らない」

 

「……」

 

「何でそこだけ黙るの」

 

「おふろ」

 

「お風呂は帰ってから」

 

「ほんと?」

 

「元気だったら」

 

「ちい、げんき」

 

「私が」

 

「あ」

 

「そう」

 

 何かあったときに連絡できる方法も考えた方がいいと思った。

 

「……今度、連絡できる方法も考えないと」

 

「れんらく?」

 

「私が外にいても、困ったって言えるように」

 

「ちい、こまる?」

 

「困らないのが一番だけどね」

 

 昨日のコンビニでは、何かあれば店員に聞くように言った。

 

 でも家で留守番中に何か起きる可能性だってある。

 

「帰ったら考えよう」

 

「うん」

 

 昼を簡単に済ませ、薬を飲み、着替える。

 

 課題二つをバッグへ入れる。

 

 借りを返すためのレポート用紙も入れる。

 

 昨日濡れたプリントは端が少し波打っていた。

 

「……これはまあ読めるからいいか」

 

「ぬれてる」

 

「昨日一緒に川入ったからね」

 

 ちいの顔が少し曇る。

 

「あ、責めてないよ。本当に」

 

「うん」

 

「今日はちゃんと大学行って、ちゃんと帰ってくる。それだけ」

 

「かえってくる?」

 

「帰ってくる」

 

「はやく?」

 

「できるだけ」

 

 ちいが近づき、両腕を少し広げる。

 

「出発前?」

 

「ぎゅ」

 

「一回だけね」

 

「うん」

 

 抱きつく。

 

 今はもう、私も普通に腕を回す。

 

「……なんか変だな」

 

「なに?」

 

「前は出かける前に、ちいをどこへ隠すか考えてたのに」

 

「かくれる?」

 

「今は無理」

 

「おおきいから」

 

「そう」

 

「いいこと」

 

「それはもういい」

 

 ちいが笑う。

 

「じゃあ行ってくる」

 

「いってらっしゃい」

 

 ドアノブへ手をかけて、また止まる。

 

「……本当に大丈夫?」

 

「だいじょうぶ」

 

「鍵は?」

 

「しめる」

 

「誰か来ても?」

 

「あけない」

 

「窓は?」

 

「あけない」

 

「外は?」

 

「いかない」

 

「火は?」

 

「つかわない」

 

「お風呂は?」

 

「かえってから」

 

「よし」

 

 ここまで言ってから、自分でも呆れた。

 

「……私、完全に保護者みたい」

 

「ほごしゃ?」

 

「知らなくていい」

 

「いってらっしゃい」

 

「追い出された」

 

「だいがく」

 

「はいはい」

 

 私はようやく外へ出た。

 

 玄関が閉まり、鍵がかかる。

 

 数歩進んでから振り返る。

 

 当然、見えるのはドアだけ。

 

「……大丈夫」

 

 自分へ言う。

 

 昨日より今日は少しだけ信じる。

 

 *

 

 駅まで歩き、電車へ乗って席に座った。

 

 無意識にスマートフォンを見る。

 

 時間を確認して、それから通知欄を見る。

 

 当然、ちいから何か来るわけがない。

 

「……何見てるんだろ」

 

 一度閉じる。

 

 三十秒ほどして、また見る。

 

「いや、だから」

 

 自分で笑った。

 

 信用するというのは、たぶん心配しなくなることではない。

 

 心配しても戻らないことなのかもしれない。

 

 大学へ着く。

 

 おとといはちいを中庭へ置いて、プリントだけ取って逃げるように帰った。

 

 今日は一人で普通に講義室へ向かう。

 

 それだけで変な感じがした。

 

「お、生きてた」

 

 友達がいた。

 

「失礼だな」

 

「こないだはいきなり帰るし、昨日もいないし」

 

「風邪ひいてた」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとに。三十九度」

 

「家で待ってるやつは?」

 

 少し詰まる。

 

「……元気」

 

「何飼ってんの?」

 

「飼ってない」

 

「じゃあ誰?」

 

「その話はいいから」

 

 私はバッグからレポート用紙を二つ出した。

 

「はい」

 

「え?」

 

「こないだの借り」

 

 友達が受け取り、ざっと目を通す。

 

「マジで?」

 

「約束したから」

 

「風邪なのに?」

 

「朝、死ぬ気で」

 

「そこまでしなくてもよかったのに」

 

「代返頼んだ方が悪い」

 

「自覚はあるんだ」

 

「あるよ」

 

 友達は一枚目、二枚目と確認して、少し笑った。

 

「ちゃんとやってるじゃん」

 

「当たり前でしょ」

 

「もっと雑かと思った」

 

「失礼」

 

「これでチャラね」

 

「チャラ」

 

「じゃ、また次も頼んでいい?」

 

「二度としない」

 

 即答すると、友達が笑った。

 

「相当懲りてるじゃん」

 

「いろいろあったの」

 

 本当にいろいろあった。

 

 言える範囲を完全に超えている。

 

 授業ではノートを開き、先生の話を聞く。

 

 久しぶりにちゃんと大学生をしているというだけで、最初の十分くらいは妙に安心した。

 

 私にはここもある。

 

 ちいのことだけで一日が全部埋まる前の生活。

 

 講義。課題。友達。電車。

 

 普通。

 

 それを少しずつ取り戻している感じがした。

 

 でも二十分もすると、ちいのことを考える。

 

 三十分で、大丈夫かなと思う。

 

 四十分になる頃には、今何してるんだろうと考えていた。

 

 窓際の日向で寝ているかもしれない。

 

 あるいは家の中を一人で歩いているかもしれない。

 

 今の身長なら、机にも棚にもいろいろ届く。

 

 私はノートへ目を戻す。

 

 大丈夫。

 

 約束した。

 

 昨日、自分で帰ってきた。

 

 今日もできる。

 

 それでもスマートフォンを一度だけ確認した。

 

 何もない。

 

 当たり前。

 

「……よし」

 

 しまう。

 

 授業が終わるまで、今日はちゃんと席にいた。

 

「今日帰るの?」

 

 友達が聞く。

 

「帰る」

 

「また即答」

 

「まだ病み上がりだから」

 

「それは帰れ」

 

「そうする」

 

「課題ありがとね」

 

「こっちこそ昨日ありがと」

 

 ちゃんと借りを返せたことで、少し胸のつかえが取れた。

 

 校舎を出たあと、私はそのままホームセンターへ寄った。

 

 目的はメジャー。

 

 裁縫箱の百五十センチでは、もう役に立たない。

 

「……二メートル」

 

 商品棚を見る。

 

 三メートル。

 

 五メートル。

 

 私は一度五メートルを手に取り、さすがに長すぎると思って戻した。

 

 三メートルを見る。

 

 でも。

 

 また五メートルを見る。

 

「……こっち」

 

 結局、五メートルを取った。

 

 自分でも少し嫌だった。

 

 そこまで必要になる前提で選んでいる。

 

 でも、またすぐ買い直すよりはいい。

 

「何してんだろ」

 

 商品を持ったまま、少し笑った。

 

 帰宅する。

 

 玄関を開ける。

 

「ただいま」

 

「おかえり!」

 

 すぐ足音がした。

 

 そして、部屋から出てきたちいを見た瞬間、私は止まった。

 

「……ちい」

 

「なに?」

 

「朝より大きくない?」

 

 確実だった。

 

 朝は少しだけ見上げる程度だったのに、今は明らかに顔の位置が高い。

 

「なった?」

 

「なってる」

 

 ちいの顔が明るくなる。

 

「やった」

 

 そのまま近づいてくる。

 

「待って、勢いが」

 

 上から迫ってくるちい。

 

 抱きつかれた瞬間、私は一歩後ろへ押された。

 

「ちい!」

 

「ぎゅ」

 

「倒れるって言ってるでしょ!」

 

「はしってない」

 

「歩いてても重いの!」

 

 身体を離して、改めて見る。

 

 顔も表情も笑い方も今までと同じなのに、肩幅も腕も脚も大きくなっていて、もう私よりかなり高い。

 

「……すごいアンバランス」

 

「なに?」

 

「何でもない」

 

 悪い意味ではない。

 

 ただ、見上げている相手が昨日までのちいと同じ顔をして、同じ言葉を使っていることが少し不思議だった。

 

「測ろう」

 

「また?」

 

「今日はちゃんと長いの買ったから」

 

 五メートルのメジャーを出す。

 

「ながい」

 

「五メートル」

 

「ごめーとる?」

 

「ちい五人分くらい……いや、今なら二人半くらいか」

 

「?」

 

「何でもない」

 

 壁際へ立たせる。

 

「真っ直ぐ」

 

「うん」

 

 メジャーを伸ばし、数字を見る。

 

「……百八十二・六、か」

 

「ひゃくはちじゅう?」

 

「うん」

 

 朝から二十センチ以上伸びている。

 

「私より二十センチ大きい」

 

「おおきい」

 

「そう」

 

「ぎゅ?」

 

「何で測るたび抱きつくの」

 

「おおきくなったから」

 

「記念にしないで」

 

 結局、また抱きつかれる。

 

 夕方になると、ちいは以前ほど窓際の日向へ行かず、私のそばにいる時間の方が増えた。

 

 ソファへ並んで座ると、今はちいの肩の方が高い。

 

「……逆じゃない?」

 

「なに?」

 

「前まで、ちいが私に寄りかかってた」

 

「いまも」

 

「いや」

 

 実際にちいが身体を傾けてくる。

 

「ちょっと、全体重預けないで!」

 

「ぎゅ」

 

「座ってるときはもっと加減して」

 

 私が笑うと、ちいも笑った。

 

 身体だけはどんどん先へ進んでいる。言葉も理解も確かに増えているけれど、表情や考え方にはまだ今までのちいが残っている。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「自分が大きくなるの、怖くない?」

 

「なんで?」

 

「どこまで大きくなるか分かんないから」

 

 ちいは少し考えた。

 

「おおきくなる」

 

「うん」

 

「できること、ふえる」

 

「うん」

 

「ぎゅ、いっぱい」

 

「そこ重要なんだ」

 

「うん」

 

 怖くない。

 

 少なくとも今は、本当にそうらしい。

 

「……そっか」

 

 私はそれ以上聞かなかった。

 

 夕食のあと、風呂の時間になった。

 

 そこで、また問題に気づく。

 

「一緒は無理だね」

 

「なんで?」

 

「見れば分かるでしょ」

 

 浴槽と、百八十センチを超えたちいと、私。

 

 二人で入るのはさすがに無理だった。

 

「ちい、はいる」

 

「一人で?」

 

「うん」

 

「……できる?」

 

「できる」

 

 今のちいなら、たぶんできる。

 

 私は少し迷ったが、任せることにした。

 

「滑らない。熱かったら出る。長く入りすぎない。あと、お湯で遊びすぎない」

 

「……うん」

 

「今間があった」

 

 結局ちいが先に入り、私は脱衣所で待つことにした。

 

「何かあったら呼んで」

 

「うん」

 

 浴室から水音がする。

 

「あったかい」

 

「そっか」

 

 少しして、ぱしゃ、と音がする。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「遊んでない?」

 

「ちょっと」

 

「ほどほどにね」

 

「うん」

 

 私は少し笑った。

 

 普通のやり取り。

 

 なのに、その相手は百八十センチを超えた正体不明の女の子で、私の家の浴槽に一人で入っている。

 

 しかも今日一日だけで、朝の百五十台後半からここまで大きくなった。

 

 昨夜考えた「ゴール」という言葉がまた頭をよぎる。

 

 人間くらいの大きさで止まると思っていた。

 

 でも止まらなかった。

 

 何のために大きくなるのか。

 

 誰が。

 

 どこまで。

 

 分からない。

 

 風呂から上がったあと、ちいが身体を拭いている間に、私はふと昼間のことを思い出した。

 

「そういえば」

 

「なに?」

 

「今日、インターホン鳴った?」

 

「なった」

 

「誰か来た?」

 

「きた」

 

 私は壁のモニターを操作して録画履歴を開いた。

 

 普段はほとんど見ない。

 

 宅配なら不在票があるし、勧誘ならそのまま忘れる。

 

 あった。

 

 今日の昼過ぎに。

 

 一件。

 

 画面を開く。

 

「……誰?」

 

 知らない男だった。

 

 三十代か四十代くらい。

 

 スーツではなく、薄い上着と普通のシャツ。

 

 宅配業者でもなければ、何か分かりやすい名札を下げているわけでもない。

 

 男はインターホンを押し、しばらく待った。

 

 返事はない。

 

 当然。

 

 ちいには開けるなと言ってあった。

 

 もう一度押す。

 

 それから少し妙だった。

 

 普通なら留守だと思って帰るはずなのに、その人はすぐには動かなかった。

 

 玄関のドアを見て、廊下の奥を見て、またドアを見る。

 

 何かを確認するように数秒立ったあと、最後に一度だけカメラの方を見た。

 

 録画なのに、目が合ったような気がした。

 

「……なんだろ」

 

「だれ?」

 

「分かんない」

 

「しってる?」

 

「知らない」

 

 もう一度再生する。

 

 やっぱり知らない。

 

 外で見た人かもしれないと思った。

 

 公園。大学。ペットショップ。駅。

 

 でも思い出せない。

 

 そもそも外ではちいのことばかり気にしていて、周囲の人の顔なんてほとんど覚えていなかった。

 

「勧誘かな」

 

「かんゆう?」

 

「何か買いませんかとか、入りませんかとか」

 

「はいらない」

 

「私も」

 

 そこで閉じようとして、指が止まった。

 

 もし。

 

 あの日ちいを見た誰かだったら。

 

 あの日のちいは、ただの女の子にしか見えない。

 

 でも。

 

 もし以前のちいを知っている人間がいたら。

 

 四センチだったちいを。

 

 知っている誰かがいたら。

 

「……ちい」

 

「なに?」

 

「ちいって、ここに来る前のこと、本当に何も覚えてないんだよね」

 

「まえ?」

 

「私と会う前」

 

 少し考える。

 

「わかんない」

 

「名前も?」

 

「わかんない」

 

「どこにいたかも?」

 

「わかんない」

 

「誰かと一緒だったとか」

 

「わかんない」

 

 いつも通りだった。

 

 思い出せなくて苦しむ様子もない。

 

 本当に、そこだけ最初から抜けているようだった。

 

 私はモニターから目を離した。

 

 白い服。

 

 最初から着ていた。縫い目がない。脱げない。

 

 水を吸わない。身体と一緒に大きくなる。

 

 ちい自身。

 

 人間の言葉を話す。身体の形も人間とほとんど同じ。

 

 でも寒いと動けなくなり。

 

 温かいと元気になり。

 

 信じられない速度で大きくなる。

 

「……人工生命」

 

 小さく言う。

 

「なに?」

 

「なんでもない」

 

 机の上に置いてあるスマートフォンには、これまでの記録が残っている。

 

 四・四。

 

 五・一。

 

 六・二。

 

 十・五。

 

 二十・三。

 

 四十三・七。

 

 七十四・八。

 

 百十八・七。

 

 機嫌良好。

 

 そして今日。

 

 朝に百五十台後半。

 

 夕方には百八十二。

 

 数日で。

 

 たったそれだけの時間で。

 

 ここまで。

 

 私はどこかで。

 

 人間と同じくらいの大きさになれば止まると思っていた。

 

 人間の形をしているから。

 

 人間くらいになれば完成。

 

 そこが終わり。

 

 でも。

 

 そんな根拠は一つもない。

 

「……人間くらいになるのが、ゴールじゃなかったら?」

 

 自分で言って、少し背中が冷えた。

 

 ちいが首を傾げる。

 

「ごーる?」

 

「これ以上大きくならないところ」

 

「もっとおおきくなる?」

 

 嬉しそうだった。

 

「……たぶんね」

 

「やった」

 

 その返事が、今日は少しだけ怖かった。

 

 もし、成長そのものに何か目的があるのなら。

 

 効率よく身体を作り替えて、服まで一緒に変わって。

 

 何日も止まらず大きくなるのなら。

 

 何のため。

 

 誰が。

 

 どこまで。

 

「……無理」

 

「なにが?」

 

「考えても分かんない」

 

 私はインターホンの録画を保存した。

 

 証拠でも何でもない。

 

 本当にただの勧誘かもしれない。

 

 それでも消さない。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「自分が何なのか、気にならない?」

 

 ちいは自分の腕を見て。

 

 白い服を見て。

 

 それから私を見る。

 

「ちい」

 

「それ名前」

 

「うん」

 

「そうじゃなくて」

 

 何と言えばいいのだろう。

 

 人間なのか。

 

 人工生命なのか。

 

 何のために作られたのか。

 

 そもそも、作られたものなのか。

 

「ちいって、何なんだろうって」

 

 ちいは少し考えた。

 

 そして。

 

「ちいは、ちい」

 

 私は黙った。

 

「……それ、私が言ったやつ?」

 

「うん」

 

 覚えていた。

 

 いつだったか。

 

 ペットなのか、子どもみたいなものなのか、それとも全然別なのか。

 

 自分でも分からなくなって、最後にそう片づけたことがある。

 

「覚えてたんだ」

 

「ちいはちい」

 

 もう一度。

 

 今度は少し嬉しそうだった。

 

「……そっか」

 

 肩の力が抜ける。

 

 分かっていない。

 

 何も。

 

 私も。

 

 ちいも。

 

 それでも、今目の前にいる。

 

 笑っている。

 

 私に抱きつくのが好きで。

 

 専用と言われると喜んで。

 

 昨日は薬まで買ってきた。

 

「……まあいっか」

 

「いい?」

 

「今はね」

 

 正体がどうでもいいわけではない。

 

 録画は残した。記録も続ける。

 

 少し怖い。

 

 でも、今すぐ答えなんて出ない。

 

「分かるまで、ちいはちいで」

 

「うん」

 

「それでいよう」

 

 ちいが笑った。

 

 そして、やっぱり両腕を広げる。

 

「ぎゅ」

 

「その流れで?」

 

「うん」

 

「……はいはい」

 

 抱きつかれる。

 

 でも、昼前とはもう違う。

 

 今は私よりずっと高くて、腕は肩より上から回ってくる。

 

「ちい」

 

「なに?」

 

「さっきよりまた大きくなってない?」

 

「なった?」

 

「……測る?」

 

「うん」

 

 買ってきたばかりの五メートルのメジャーを、もう一度伸ばした。

 

 壁際へ立たせる。

 

 数字を見る。

 

「……百九十八・四」

 

「ひゃくきゅうじゅう」

 

「もう少しで二メートルいくね」

 

「にめーとる?」

 

「あとちょっと」

 

「おおきい?」

 

「ものすごく」

 

 私が百六十。

 

 ちいは百九十八。

 

 三十八センチ差。

 

 完全に見下ろされている。

 

「……本当に大きい」

 

 私は顔を上げた。

 

 それでも、ちいの表情は変わらない。

 

 嬉しそう。

 

 少し幼い。

 

「やった」

 

「うん」

 

「ぎゅ」

 

「……来ると思った」

 

 今度は、私の方がちいの胸元へ収まった。

 

 最初は、ちいが私の指へ必死に抱きついていた。

 

 今は逆。

 

 私がちいの腕の中にいる。

 

「あったかい」

 

 頭の上から声がする。

 

 私は少し笑った。

 

「そっちが言うんだ」

 

「うん」

 

 大きい。

 

 重い。

 

 何者なのか。

 

 どこまで行くのか。

 

 今日来た男は誰なのか。

 

 分からない。

 

 何一つ。

 

 それでも、この腕の中にいるのは、ちゃんとちいだった。

 

「……まあいっか」

 

 また口にした。

 

 同じ言葉なのに。

 

 朝より少しだけ意味が変わっている気がした。

 

 分からないから放っておくのではない。

 

 分からないままでも今はここにいる。

 

 そういう意味で。

 

「いい?」

 

 ちいが聞く。

 

「うん」

 

 私はそのまま腕を回した。

 

「今日は、それでいいよ」

 

 自分に言い聞かせるように言った。

 

 

 ちいはちい




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