ちいはちい―四センチの少女が百メートルになるまで― 作:a TO
その夜、ベッドへ入ってから最初に思ったのは、狭い、だった。
当然だった。
百九十八・四センチ。
ほとんど二メートルあるちいが、いつも通り私と同じベッドで寝ようとしている。
「ちい、そっち寄って」
「こっち?」
「逆。私が落ちる」
ちいが少し身体をずらす。
マットレスが沈む。
それだけで私の身体まで少し傾いた。
「……重くなったなあ」
「おおきいから」
「はいはい。いいことね」
「うん」
ちいは横向きになっている。膝を曲げなければ脚がベッドの端からはみ出すから、自然と身体を丸めることになる。
かなり場所を取る。私がいつもの位置へ横になると、肩から膝までどこかしらが触れた。
最初の頃は、寝返りで潰さないようにタオルで壁を作った。
十数センチになった頃は、枕の横へ寝かせた。
大きくなってからは、徐々に一人分の場所を取るようになった。
そして今は。
「これ、明日も一緒に寝られるかな」
「ねる」
「ちいの希望は聞いてない」
「いっしょ」
「そうしたいけど、物理的な話」
ちいは分かっていない顔をしたまま、私の方へ寄ってきた。
「ちょっと、今寄らないで」
「ぎゅ」
「狭いって言ってるでしょ」
腕が回る。
抱きつかれると、完全に私の身体がちいの胸元へ収まる。
「……だから大きいんだって」
「あったかい」
「それも知ってる」
私は一度抵抗して、それから諦めた。
腕を回す。
ちいの背中。
広くなった。
最初は指先だけで身体全部へ触れられた。
今は腕を伸ばして抱き返している。
目を閉じる。
明日から二日、大学へ行かなくていい。
本来なら、助かった、と思うところだった。
実際、助かっている。
でも。
二日。
その言葉を考えた瞬間、別の不安が出てきた。
この二日で。
どこまで。
「……」
今日だけで、私とほとんど同じだったちいが、二メートル近くまで伸びた。
もし明日も同じように伸びたら。
あるいは、もっとかもしれない。
二メートル半。
三メートル。
そこまで行ったら。
天井に頭がぶつかるかも。
ベッドにおさまる?
風呂は、もう無理か。
いや。
そもそも、玄関は通れるのか。
「ちい」
「なに?」
「明日、大きくなったらどうする?」
「やった」
「そうじゃなくて」
やっぱり。
ちいの方には、私が抱えている種類の心配がほとんどない。
「この部屋より大きくなったら」
「へやより?」
「そこまで一日じゃならないと思うけど」
そう言ってから止まった。
本当に?
四センチだった。
それが今は、二メートル。
たった数日で。
「……分かんないな」
私は天井を見る。
「何も」
「なにが?」
「ちいが」
「ちい?」
「そう。ちいが今後どうなるか」
少し考えて。
「おおきくなる」
「そこだけは分かってる」
ちいは満足そうだった。
私だけが先のことを考えている。
正体。
限界。
目的。
でも、何一つ答えがない。
昨夜見たインターホンの男。
不思議な白い服。
急激な成長。
大好きなあったかい。
全部つながっているようにも見えるし、つながっていないようにも見える。
「……まあいっか」
いつものように口にして。
今回は。
少し引っかかった。
本当にいいのか。
その言葉で済ませるには、ちいが大きくなりすぎている。
でも今は。
目の前にいるちいは眠そうで、幸せそう。
痛くもないし、苦しくもない。
それなら、いい。
「明日考えよう」
「うん」
「明日は休みだから」
「ずっといる?」
「いる」
ちいの腕が少し強くなる。
「あったかい」
「はいはい」
*
翌朝。
先に目を覚ましたのは、また私だった。
理由も昨日と同じだった。
「……おも」
身体の上から、かなりの圧迫感。
ちいが抱きついている。
夜中に体勢を変えたらしい。
腕が私の胸から腹へ回り、片脚までこちらへ寄っている。
「ちい」
返事はなし。
「ちい。ちょっと」
「ん……」
「重い」
ちいが少し動く。
でも離れない。
「……ほんとにもう」
腕を押す。
そこで違和感。
腕が太い。長い。
昨夜より、ずっと。
「……え」
目を開ける。
目の前に、ちいの顔。
近い。
そして、大きい。
「ちい、起きて」
「ねむい」
「起きて」
少し強めに言うと、ちいは目を開けた。
「なに?」
「大きくなってる」
ちいが自分を見る。
そして私を見る。
「やった」
「朝から元気だね」
私は身体を起こすと、ちいも起き上がった。
並んでベッドの上へ座ると、ちいの頭が天井へ伸びる。
近い。
「……うわ」
今までの背が高いとは明らかに違う。
ちいがベッドに座っているだけで、部屋が小さく見える。
「立たないで」
「だめ?」
「天井にあたる」
「てんじょう?」
「頭ぶつけるかもしれない」
私が上を指しながら言うと、ちいも上を見た。
「ちかい」
「でしょ」
床へ降りる。
ちいは慎重に脚を下ろした。
ゆっくりと立った。
ちいの高さはぎりぎり部屋に収まった。
「……でか」
私は完全に見上げた。
首の角度が昨夜とは全然違う。
「ちょっと待って」
五メートルのメジャーを出す。
一番長いものを買っておいてよかった。
ベッドの上に立って、メジャーを伸ばす。
「ちい、踵そこにつけて」
「うん」
「真っ直ぐ」
「うん」
メジャーを床に垂らして、頭の数字を読む。
ベッドに立ち、腕を伸ばして、ようやく届いた。
「……二百三十七」
もう一度。
「二百三十八くらい」
二・三八メートル。
一晩で四十センチ近くも。
「……え」
「おおきい?」
「うん」
「やった」
「……うん」
私はいつものように返せなかった。
昨日までは、ものすごく背の高い人と考える余地があった。
今は二メートル三十八。
自宅の天井へもうすぐ頭が届く。
真上に広がる天井をみつめるちい。
ぺた。
腕を上げると、いとも簡単に触れた。
「てんじょう」
「そうだね」
ちいが面白そうに手を滑らせる。
「やめて。汚れる」
「へいき」
「ちいはそうかもしれないけど」
言いながら胸の奥がざわついた。
天井へ手が届く。
それだけなら背の高い人でも、台に乗ればできる。
でも、ちいは床に立ったまま。ごく普通に腕を伸ばして触っている。
「……人間離れしてきたな」
「にんげん?」
「あ、えーと」
思わず口にしてから、少し遅れてしまったと思った。
ちいがこちらを見る。
「ちい、にんげん?」
少し止まる。
昨日、自分でも同じようなことを考えた。
ちいは何なのか。
人間なのか、ただの機械か、それとも人工生命か。
結局、何一つ分からなかった。
「……分かんない」
正直に答える。
「人間に見えるけど」
「みえる?」
「うん、形は」
顔つきは今もどこか幼いままで、身体の比率も頭身も形も、人間と大きく違うわけではない。
ただ、大きさだけが少しずつその範囲から外れ始めている。
「ちいは、ちい」
ちいが言った。
私と同じ答えだった。
私は少しだけ笑う。
「そうだね」
ちいはちい。
それだけが、間違いない。
ただ、今度はそれで終わらせることができなかった。
部屋を見回す。
ベッドも机も椅子もドアも、全部がちいに対して小さくなっている。
「……今日、いろいろ考えないとね」
「なに?」
「ちいがもっと大きくなったときのこと」
「なる?」
「なると思う」
「やった」
「……ほんとにそこはぶれないね」
これだけ大きくなっても、ちいにとってはいいことのようだ。
朝の間、ちいには床へ座ってもらった。
椅子にも座れるかもしれない。
けれど、耐荷重なんて考えたこともない普通の家具に、二メートルを超えたちいを座らせるのは怖かった。
「床でいい?」
「うん」
本人は全く気にしていない。
やがて窓から朝の光が差し込むと、ちいはすぐに日向を見つけた。
「あ」
立ち上がってそこへ向かい、しゃがみ込む。
でも、今までみたいに簡単には寝転がれなかった。
身体が長くなったぶん、床に置かれた家具や物が邪魔になる。
「ここ」
ちいが身体を曲げる。
「狭い?」
「ちょっと」
「……ちいがそれ言うようになったか」
結局、私はベッドの横にある机を少しずらし、床をできるだけ空けた。
「これならどう?」
「いい」
ちいが横になる。
二メートル三十センチの身体が床へ伸びると、脚だけで窓から部屋の中央近くまで届いた。
私は、その姿をしばらく見ていた。
昨日までこの部屋は、ちいを守る場所だった。
外へ出れば人に見つかるし、何が起きるか分からないから、とにかくここにいれば安全だと思っていた。
でも今は、その考えそのものが怪しくなる。
「……この部屋が先に無理になるかも」
小さくつぶやく。
「なに?」
「何でもない」
私はスマートフォンを開いた。
無意識に地図を開く。
広い場所を探す。
まず公園が浮かぶ。でも人が来る。
河川敷も考えたけれど、川のことを思い出してすぐに却下した。
山は道が狭いし、ちいがさらに大きくなったときに動きづらい。
見つけて、指が止まった。
海。
海岸なら広い。
場所を選べば人も少ないし、住宅街からも離れている。
「……いやいや」
何を考えているんだろう。
ちいはまだ二メートル三十八センチで、家の中にいる。
玄関だって、身体を曲げればたぶん通れる。
でも、もう二メートル三十八センチだ。
私は家を出ることを前提に考え始めていた。
「キャンプ、か」
声に出すと、日向で横になっていたちいが起き上がった。
「きゃんぷ?」
「外で寝ること」
「そとでる?」
「まだ決めてない」
「いく?」
「まだ」
「いきたい」
「ちいは何でも行きたがるね」
私は地図を閉じた。
それでも、海岸という選択肢は頭から消えなかった。
広い浜。
人の少ない場所。
夜中の移動ならなんとか。
「……無許可キャンプとか、普通に怒られそう」
「おこられる?」
「まだ何もしてないよ」
ちいはまた日向へ戻って横になった。
私はその横で、今後必要になりそうなものをスマートフォンへ書き出していく。
テント。寝袋。タオル。飲食物。
モバイルバッテリー。ライト。着替え。
「……ちいの着替えは必要ないか」
「きがえ?」
「服のこと」
「ある」
「知ってる。ちいのふくね」
ちいは最初からずっと、白い服を着ていた。
汚れにくく、水もほとんど吸わず、身体と一緒に大きくなる。
おかげで、今まで困ったことはなかった。
「ほんと、便利なのか不気味なのか分かんないな」
返事はなかった。ちいは日向で眠っている。
私は立ち上がり、玄関のドアを見た。それから、床に寝ているちいを見る。
「……今日中かな」
玄関から外へ出られるのは。
人目を避けながら普通に歩かせられるのは。
今日が最後のチャンスかもしれない。
そう考えると、思っていたより事態は重かった。
まだ朝の八時を少し過ぎたところで、今日は大学もない。
時間ならある。
「準備しよう」
そう決めた。
ちいを今すぐ外へ出すためではない。まだ決定したわけでもない。
ただ、何かあったときに動けるようにしておくだけ。
そう自分へ言い聞かせる。
でも半分くらいは、もう家を出るつもりなことも分かっていた。
午前中はほとんど準備で終わった。
家にあるものを集め、大きめのリュックにライト、タオル、充電器、レジャーシートを詰め込む。
それから押し入れの奥から、ずっと使っていなかった小さなテントを引っ張り出した。
「……これ何年前のだろ」
大学へ入る前、家族と使ったものだったと思う。たぶん二人用。
「ちい」
「なに?」
「入れる?」
広げる前から、無理な気はしていた。
「……いや。今なら寝ればぎり?」
ちいが収納袋を見る。
「これ?」
「テント」
「ねる?」
「外でね」
顔がすぐに明るくなった。
「いく?」
「だからまだ決めてない」
「ちい、いきたい」
「遊びに行くんじゃないんだって」
私がそう言っても、ちいは楽しそうだった。
「キャンプが楽しみなの?」
「きゃんぷ」
「やっぱり」
私にとっては避難に近い。
ちいにとっては、お出かけ。
その差は大きかった。
正午、もう一度身長を測った。
「……二百五十四」
朝が二百三十八。四時間ほどで十六センチ伸びている。
私は数字を見たまま黙った。
「おおきい?」
「うん」
ちいが立ち上がると、今度は首を傾けなければ髪が天井に触れそうだった。
「ちい」
「なに?」
「部屋で走るの禁止」
「なんで?」
「頭をぶつける」
私は上を指した。
ちいも上を見る。
「あ」
「でしょ」
少し身体を縮めながら、ちいが言った。
「せまい」
「……そうだね」
はっきりと、ちい自身の口から部屋を狭いと言われた。
それを聞いて、私の中の決心が固まった。
「夜か」
「なに?」
「もし行くなら、夜」
「そと?」
「うん」
「きゃんぷ?」
「……たぶん」
ちいが嬉しそうにする。
「やった」
「遊びじゃないからね」
「どこいく?」
「今の候補は、海」
「うみ?」
「広いところ」
「はしれる?」
「おそらく」
「いく?」
「考え中」
そう答えながら、私はもう海岸までの道や、人の少なそうな場所を調べ始めていた。
昼を過ぎ、近所で必要なものを買うため、私は一人で外へ出る準備をした。
「ちいは留守番」
「ちいもいく」
「今日は無理」
「なんで?」
「大きいから」
「いいこと」
「今日はそれが困るの」
玄関に行く。
かがみながら、ちいもついてくる。
「もう今は、外で見たら絶対目立つ」
「かくれる」
「無理」
「しゃがむ」
「もっと目立つ」
ちいは少し不満そうだった。
「すぐ帰るよ」
「はやく?」
「すごく早く」
「どれくらい?」
考えて、宣言する。
「一時間。できればもっと早く」
ちいは少し悩んでから、こくんと頷いた。
「まってる」
「ほんと?」
「うん」
以前よりずっとあっさりしていた。
それでも私は心配で、一つずつ確認する。
「外に出ない」
「うん」
「窓を開けない」
「うん」
「インターホン」
「あけない」
「お風呂」
「はいらない」
「天井」
「ぶつけない」
「そこは新しいね」
私が笑うと、ちいも笑った。
「あと……もし私が帰ってくるまでに、今よりすごく大きくなったら、無理に動かないでね」
「なんで?」
「家具とか、壁とか、壊すかもしれないから」
「こわす」
「ちいが悪いって意味じゃないよ」
天井すれすれの、ちいの頭を見上げながら言う。
「ただ、身体が大きくなったら、今までみたいに動くと危ない」
ちいは自分の腕と脚を見た。
「ちい、つよい?」
「たぶん」
「おおきいから?」
「そう」
ちいはいつものように自分で結論を出さず、私へ聞いた。
「……いいこと?」
その一言が、ほんの少し胸に引っかかった。
「……いいこともある」
「うん」
「でも、気をつけないといけないことも、ある」
ちいはしばらく自分の手を見ていた。
「わかった」
「よろしい」
私は頭を撫でようとした。
手を上げる。
届かない。
「……あ」
ちいが少し身体を屈める。
「なに?」
「いや」
ちいの髪へ触れた。
「ありがとう」
「うん」
頭を撫でるために、ちいが屈む。
それだけのことなのに、少し寂しかった。
「じゃあ行ってくる」
「うん」
ちいが腕を広げる。
「……ぎゅ?」
「うん」
「玄関狭いから、優しくね」
抱きつかれると、私は完全にちいの胸元へ収まった。
身体はこんなに大きくなったのに、聞こえてくる言葉は変わらない。
「あったかい」
「うん」
私も腕を回す。
「すぐ帰ってくるから」
「うん」
玄関を出てドアを閉め、鍵をかけた。
私は玄関の前で少し立ち止まった。
今夜、このドアからちいは外へ出られるだろうか。
それとも夜になる頃には、この玄関を通れなくなっているだろうか。
考えたくなかった。
でも、考えないわけにもいかなかった。
*
買い物から戻ると、ちいはちゃんと部屋にいた。
それだけで、まず安心した。
「ただいま」
「おかえり」
声はする。でも姿がすぐには見えなかった。
「……ちい?」
「ここ」
声のする先を見上げる。
いた。
ベッドと壁の間。
ちいは床へ座り、膝を立てて身体を小さく畳んでいる。
「何してるの?」
「せまい」
「……そっか」
午前中で二百五十四センチ。それからも時間経っている。
見ただけでも、また大きくなっているのが分かった。
「立てる?」
「ここ、むり」
「じゃあ、そのままでいい」
近づく。
座っているだけなのに、立てた膝が、もう私の胸のあたりまである。
「……ほんとに、人の家にいるサイズじゃなくなってきたね」
「おおきい?」
「うん」
「やった」
「そこは変わらないんだ」
ちいが笑う。
顔はやっぱり同じだった。
分からないことを聞くと首を傾げるところも、嬉しそうな表情も、以前のまま。
身体だけが、どんどん先へ行っている。
「ちい」
「なに?」
「今日の夜、海行く」
顔がすぐに明るくなる。
「うみ」
「うん」
「きゃんぷ?」
「一応」
「やった」
「遊び半分、避難半分だからね」
「ひなん?」
「この部屋、もうきついでしょ」
ちいは周囲を見る。
「せまい」
「うん」
「そと、ひろい」
「たぶんね」
「なら、いく」
「ちいは本当に簡単だなあ」
私は買ってきたものを並べた。
追加のライト。大きめの寝袋。簡単な食料。水。救急用品。それから薪。
ちいが木を見つめる。
「これ?」
「燃やすやつ」
「もえる?」
「火にする」
「ひ」
「暖かいよ」
その言葉への反応は分かりやすかった。
「いく」
「まだ夜じゃない」
「あったかい?」
「火はね」
「いま?」
「今はやらない」
「なんで?」
「家燃える」
「だめ」
「そう。そこはちゃんと分かるんだ」
少しずつ、会話も変わってきていた。
数日前なら、知らない言葉も知らないものも一つずつ説明しなければならなかった。
でも今は、火。家。燃える。駄目。そのくらいなら自分でつなげられる。
「成長してるね」
「おおきい」
「そっちじゃなくて」
「ちがう?」
「……まあいっか」
私は笑った。
夜になるまでは、できるだけちいに動かないでもらった。
本当に家を壊しかねなかったからだ。
立ち上がるだけで天井が完全に邪魔になり、背中を丸め、首を傾けなければならない。
「ごめんね」
「なんで?」
「こんな狭いところにいさせて」
「ちいのおうち」
一瞬、言葉に詰まる。
「……まあ、今はね」
「なら、へいき」
「狭いのに?」
「うん」
「なんで?」
ちいは少し考えた。
「いるから」
「誰が?」
「いっしょ」
私のことらしい。
「……そっか」
そう言われると、弱かった。
「夜になったら、もっと広いところ行こう」
「うん」
日が落ちるまで待った。
暗くなり、人通りが少なくなり、外が静かになった頃。
「そろそろ」
私は荷物を背負った。
大きなバッグもあって、かなり重い。
ちいを見る。
「玄関まで来て。外に行くよ」
「うん」
問題は、どうやって外へ出るかだった。
もう立ったまま歩いては、通れない。
「ちい、四つん這いになって」
「こう?」
「そう」
「へん」
「我慢して」
大きな身体をできるだけ小さく縮め、ちいは廊下をゆっくり這っていく。
「頭さげて」
「うん」
「もうちょっと右」
「みぎ」
「そこ壁」
「せまい」
「知ってる」
ようやく肩が玄関を抜けた。
夜風があたる。
ちいが外を見る。
「……ひろい」
「この前より?」
「うん」
「暗くてそう見えるのかも」
全身が外へ出ると、ちいは身体を伸ばして立ち上がった。
「……うわ」
家の前の夜道に立つちいは、室内で見るのとは印象が全く違った。
部屋ではずっと天井を気にして身体を曲げていたから、真っ直ぐ立った姿を見るのは久しぶりな気さえする。
「ちい」
「なに?」
「ちょっと待って」
メジャーを伸ばし、ライトを使いながら測る。
「まっすぐ立って、これもってて」
「うん」
もう頭に届かない。ちいにも手伝ってもらい、測る。
「……二百八十九くらい」
「にひゃくはちじゅう」
「ほぼ三メートル」
「おおきい?」
「かなり」
「やった」
「やっぱりそれ言うんだ」
ちいが笑う。
その笑い方が変わっていないことに、少し安心した。
「行くよ」
「うん」
夜道ではできるだけ人目を避けた。
ちいも今度は私の言葉をちゃんと聞き、後ろをゆっくり歩く。
「走らないでね」
「はしらない」
「約束」
「うん」
川のときのことを思い出した。
でも今回は、ちいが私の言葉を聞いている。
それだけで少し安心できた。
地図アプリを頼りに、暗い路地をしばらく進んだ。
会話もほとんどなく、しばらく歩く。
目指していた海岸が遠くに見える。
遠くには街の光があり、近くには人影がない。
聞こえるのは波の音ばかりだった。
砂浜に降り立つ。
「うみ」
ちいが立ち止まる。
「そう」
「おおきい」
波が引き、また寄せる。
ちいはしばらくそれを見ていた。
だが、それ以上近づこうとはしなかった。
「いかない」
「何のこと?」
「うみ」
「なんで?」
「つめたい」
「……覚えてるんだ」
ちいが私を見る。
「かわ」
「うん」
「こわかった」
「うん」
「だから、うみ、いかない」
「そっか」
胸が少し痛んだ。
でもそれ以上に、嬉しかった。
「偉いね」
「えらい?」
「うん」
ちいが少し嬉しそうにする。
私はテントを広げた。
「これ」
「きゃんぷ」
「そう」
組み立てている間、ちいは興味深そうに見ていた。
「手伝う?」
「いい」
「できる」
「今のちいが触ると、たぶん折れる」
ちいが自分の手を見る。
「つよい?」
「たぶんね」
「おおきいから」
「そう」
「いいこと」
「今日はちょっと困る」
テントが完成する。
二人用。
普通なら十分な大きさのはずだった。
でも今は。
「入ってみる?」
「うん」
ちいがしゃがみ、入口へ身体を入れようとする。
頭を入れたところで、すぐに止まった。
「……むり」
「だよね」
上半身までは何とか入る。
でも肩が引っかかる。
「ちょっと待って」
「せまい」
「分かってる」
私が入り口を広げ、身体を横向きにして、どうにか半分くらいは入った。
ただし脚は完全に外だ。
「……ちい」
「なに?」
「これ、テントっていうよりちいの頭だけ守ってる」
「だめ?」
「よくない」
私が笑うと、ちいも笑った。
「もう出よう」
「うん」
数時間前まで、何とか使えるかもしれないと思っていたテントだが、もう役に立たない。
「……準備って追いつかないね」
「なに?」
「ちいの成長の速さに」
「ちい、はやい?」
「すごく」
「やった」
「褒めてない」
それでも少し笑った。
そのあと、火をつけるかはかなり迷った。
夜の海岸は冷えるし、ちいには暖かい場所が必要だ。
だが、無断でのキャンプファイヤーは危なすぎる。
「……怒られたら、そのとき考えよう」
「おこられる?」
「誰にも見つからなければね」
薪を組み立て、火をつける。
最初は弱かった炎が、少しずつ明るくなっていく。
「……あ」
ちいはすぐ反応した。
そして、かなり近くまで寄ろうとする。
「待って!」
「なに?」
「近い!」
「あったかい」
「熱いって」
腕を引こうとしたけれど、もう私の力では簡単に動かせない。
「ちい、自分で下がって」
「なんで?」
「火傷する」
「やけど?」
「熱すぎると痛くなる」
ちいが火を見る。
「ちょっとあつい」
「でしょ」
一歩下がる。
「ここ」
「そこなら?」
「あったかい」
「じゃあそこ」
薪がぱち、と鳴る。
火の明かりがちいの顔を照らした。
身体は大きい。
でも、顔はいつものちいだった。
「すき」
「火?」
「あったかい」
「良かった」
「ひなた」
「太陽の代わりかな」
「うん」
ちいが砂浜へ座る。
長い脚を抱え込む。
その隣へ私も座ると、ちいの膝は私より高かった。
「……変な感じ」
「なに?」
「この間まで、ちいが私の膝に乗ってたのに」
「のった」
「覚えてる?」
「うん」
「今は無理だね」
ちいが私を見る。
「のる?」
「私が?」
「うん」
「……どこに」
ちいは自分の脚を見る。
「ここ」
「膝?」
「うん」
「いやいや」
思わず笑う。
「だめ?」
「なんか違う」
「むり?」
「無理ではないけど」
「じゃあ、いい」
「その理屈」
結局、私は少しだけちいへ寄り、脚のあたりへ背中を預けた。
二人で火を眺めた。
「……あったかいね」
自然と口から出た。
ちいがすぐ嬉しそうにする。
「いっしょ」
「うん」
火が暖かい。
背中にいるちいも大きくて、身体を預けていると安心する。
「逆になったね」
「なに?」
「前は、ちいが私にくっついて暖まってた」
「いまも」
「今は私の方がくっついてる」
ちいは少し考える。
「いいこと」
「……それでいいんだ」
「うん」
身体も、大きさも、力も、できることも変わった。
でも、その答え方だけは変わらない。
しばらく火を見ながら黙っていると、ちいが突然言った。
「ぎゅする?」
「今?」
「うん」
「どうやって」
ちいが腕を広げる。
「……ちょっと待って」
「なに?」
「そのまま来たら私埋まる」
「うまる?」
「潰れるかもしれない」
ちいが止まった。
「つぶれる?」
「本気ならね」
ちいの顔が曇る。
「……できない?」
その声は、今の大きさとは裏腹にとても幼くて、胸が痛んだ。
「できるよ」
「ほんと?」
「やり方変えれば」
私は立ち上がる。
「手」
「て?」
「両手出して」
ちいが掌を差し出す。
大きい。まだ私が乗れるほどではないけれど、片手だけでも私の腰ほどの幅がある。
私はその手首を掴み、もう片方の腕を抱えるようにした。
「これで」
「ぎゅ?」
「半分」
「はんぶんぎゅ」
「覚えてた?」
「うん」
ちいが笑う。
私も笑った。
「じゃあ今日はこれ」
「いっぱい?」
「ほどほど」
「いっぱい」
「そこも変わってないね」
火が少しずつ弱くなる。
ちいはまだ近くにいる。
「ちい」
「なに?」
「今、どんな感じ?」
「なにが?」
「大きくなって」
ちいは自分の身体を見る。
「おおきい」
「それは分かる」
「できること、ふえた」
「うん」
「てんじょう、さわれる」
「それは家では困る」
「あるく、はやい」
「走らないでね」
「うん」
「ほかは?」
ちいは少し考えた。
「ぎゅ、むずかしい」
「……うん」
そこには、ちゃんと気づいていた。
「寂しい?」
ちいは少し黙った。
「ちょっと」
初めて聞いた。
大きくなるのは嬉しい。
それが当たり前のようだった。
今はもう、それだけではないらしい。
「そっか」
「でも」
「うん」
「いっしょ」
「うん」
「だから、いい」
私は火を見る。
「……私は、怖い」
「こわい?」
「ちいがどこまで大きくなるか」
「うん」
「家に帰れるのか」
「うん」
「大学どうするか」
「だいがく」
「それから……」
そこで止まる。
ちいの正体。
誰なのか。何なのか。
白い服。
インターホンに映っていた男。
全部。
「……まあ、今はいいや」
「いい?」
「うん」
ちいが少し笑う。
「いいこと」
「ちいのそれ、便利だね」
夜はさらに深くなった。
火が消えると、辺りは一気に暗くなった。
私はテントを見て、それからちいを見る。
「……無理だね」
「せまい」
「うん」
「ここ、ねる」
「寒くない?」
「へいき」
「私はちょっと寒い」
すると、ちいはすぐ近づいてきた。
「こっち」
「え」
「ここ」
ちいが砂浜へ座る。
そして、横を指し示す。
一緒に寝ようとのことらしい。
私はレジャーシートを敷き、寝袋に入った。
「ちいは?」
「ここ」
ちいが隣に横になる。
砂浜なら、身体を真っ直ぐ伸ばせた。
「広い?」
「うん」
「なら良かった」
私も横になる。
見上げると、街で見るよりずっと多く星が出ていた。
「わあ」
ちいも空を見る。
「ちい」
「なに?」
「上」
「いっぱい」
「星」
「ほし」
「そう」
しばらく、ちいは何も言わなかった。
「きれい?」
「うん」
ちいが指を上へ向ける。
「これすき」
「どれ?」
「これ」
「分かんないって」
「おおきいの」
「星、全部ほぼ点だよ」
私が笑うと、ちいも笑った。
「おひさまも、ほし?」
「そうだよ」
「じゃあ、あったかい?」
「近ければね」
ちいは少し考える。
「いきたい」
「絶対無理」
「なんで?」
「遠すぎる」
「おおきくなったら?」
「……それでも無理だと思う」
「もっと?」
「もっと大きくなっても」
言ってから、少し止まった。
どこまで、この子は大きくなるんだろう。
星を見上げる。
今はまだ三メートルにも届いていない。
それでも、少し前までは四センチだった。
「……ちい」
「なに?」
「どこまで大きくなるんだろうね」
「わかんない」
短い沈黙。
ちいが口を開く。
「でも」
「どうしたの?」
「いっしょ」
ちいは私を向いて笑った。私も少し笑った。
「できるだけね」
「できるだけ?」
「ずっとって言いたいんだけど」
海の音と風だけが続く。
「今は、それくらいしか言えない」
ちいはしばらく黙っていた。
「できるだけ」
「そう、できるだけ」
「いっしょ」
「うん」
ちいの手が近くにある。
私はその指を掴んだ。
昔は逆だった。
ちいが私の指へ抱きついて、そこで温まっていた。
今は私が、ちいの指を握っている。
「あったかい」
ちいが言った。
空には星があり、波の音が続いている。
隣には、大きくなったちいがいる。
本当にたくさん変わった。
それでも、こうして手を握れば少し安心する。
私も。ちいも。
そこだけは、あまり変わっていなかった。
*
翌朝、目を覚ますと、最初に見えたのは空だった。
薄い青が広がる。
雲は少なく、夜の名残を少しだけ残した色の向こうで、もう朝が始まっている。
波の音は眠る前とほとんど変わらず、一定の間隔で寄せては引いていた。
私は寝袋の中でしばらく動かなかった。砂浜で寝たせいか身体の節々が少し痛み、首も重い。背中も妙に張っている。
それでも、風邪のあとに残っていたようなだるさはなかった。
「……ちい?」
返事がない。
身体を起こすと、すぐ横にいた。
ただ、昨夜そこへ横になったときより、身体がずっと遠くまで続いているように見えた。
「……うわ」
黒い髪も、白い服も、仰向けになって眠っている顔も見慣れたままだった。でも、その身体が明らかに長い。
昨夜は三メートルに届かないくらいだった。
寝転がっていれば大きいとは思っても、まだ人間の延長として見られた。
今は違う。
砂浜へ伸びた脚の先まで見るには、一度視線を動かさなければならなかった。
「ちい」
「……ん」
「起きて」
「ねむい」
「知ってる。でも起きて」
ちいが目を開ける。
顔は昨日と何も変わらず、眠そうに目を細めて私を見つけると、そのまま閉じようとした。
「起きて。ちい、大きくなってる」
その言葉で、目が開いた。
「おおきい?」
「うん。かなり」
ちいが身体を起こすと、髪や服から砂がさらさらと落ちた。
私は反射的に少し後ろへ下がる。
ただ座っただけなのに、視界の中へちいの身体が大きく広がった。
「……ちょっと待って。立ってみて」
ちいが両足を砂へつき、ゆっくり立ち上がっていく。
昨夜もかなり見上げていたはずなのに、今朝はさらに首を反らさなければ顔が見えなかった。
「おおきい」
「それは私が言いたい」
ちいは嬉しそうだった。
「測るよ」
「うん」
五メートルのメジャーを取り出し、端をちいに持たせる。
足元から上へ伸びていく数字を見て、途中で不安になった。
「……これ、足りるかな」
結果はぎりだった。
「四メートル七十……くらいかな」
「よん?」
「四メートル七十センチくらい。砂の上だし、正確にはちょっと分かんないけど」
「おおきい?」
「二メートル近く増えてる」
「やった」
やっぱり、そこは何も変わらない。
「一晩で二メートル近くって、もう伸びたって言い方でいいのかな」
「おおきくなった」
「そうだね。そっちの方が正しいかも」
私はメジャーを巻き取りながら考えた。
どうして。
夜だった。日差しはなく、途中で火を焚いたとはいえ、眠る頃には完全に消している。
そのあとは、ただ夜の海岸で眠っていただけだった。
起きたときは、私と離れていた。
それなのに。
「……条件、もう分かんないな」
「なに?」
「ちいが大きくなる条件」
「なる」
「よく分かった」
ちいが笑う。
私はその顔を見ながら、昨夜と同じことを考えた。
変わっていない。
少なくとも、そこは。
身体だけが先へ進んでいる。
顔立ちはまだ幼く、言葉が増えてきたとはいえ、考え方にはちいらしい単純さが残っている。
四メートルを超えた身体の上に、私の掌へ乗っていた子の表情がそのまま残っているようで、見るたびに頭が混乱した。
「ぎゅする?」
突然言われた。
「……朝から?」
「うん」
ちいが両腕を広げる。
「いや、待って」
長い。
一瞬だけ、怖い、という言葉が頭に浮かんだ。
すぐに打ち消す。
はじめて会った時のちいは、私がもっと大きく見えたはずだ。
「昨日よりさらに無理だからね」
「なんで?」
「自分の大きさ見て」
ちいは自分の腕を見る。
「できる」
「ちいはできるよ。私の方が無理なの」
「つぶれる?」
「可能性ある」
そこで、ちいの腕が止まった。
「……じゃあ、しない?」
少し残念そうだった。
「しないんじゃなくて、やり方変える」
私は近づいた。
ちいの手は、もうかなり大きい。
掌だけでも私の幅を超え、指一本にも私の腕ほどの存在感がある。
「手、ここに出して」
ちいが差し出した手を、私は両腕で抱えた。
「これなら」
「ぎゅ?」
「だいぶ小さいけどね」
ちいが笑う。
そして、やさしく握った。
「ぎゅ」
「うん、ぎゅ」
「あったかい」
その反転は、朝よりさらに大きくなっていた。
「ちい」
「なに?」
「大きくなるの、やっぱり嬉しい?」
「うん」
「今でも?」
「うん」
「抱きつけなくなっても?」
そこで、ちいは少しだけ考えた。
「ちょっと、やだ」
私は顔を上げた。
「そっか」
「でも、いいこと」
「両方なんだ」
「うん」
「難しくなってきたね」
「むずかしい?」
「いいことだけじゃないってこと」
朝の海岸には誰もいなかった。
そのことに心底ほっとする。
昨夜なら三メートル弱で、しかも暗かった。遠目には何か大きな影で済んだかもしれない。
でも今は無理だ。
四メートル七十センチ。明るい朝の砂浜に、どう見ても巨大な女の子がいる。
「ちい、できれば座ってて」
「なんで?」
「見つかりたくないから」
「だれに?」
「誰にでも」
ちいは周囲を見回す。
「いない」
「今はね」
「へいき」
「そうじゃないんだって」
私はテントや荷物をまとめ始めた。
テントは昨夜の時点ですでにほとんど役に立っていなかったが、今のちいには完全に小さい。
畳んでいる私を、ちいが座ったまま眺めている。
「それ、つかう?」
「もう使えない」
「なんで?」
「ちいが入れないから」
「ちい、そとねる」
「昨日はね」
「きょうも」
「今日もここにいる前提なんだ」
「いる?」
その問いに、私はすぐ答えられなかった。
帰る。
家。
玄関。
廊下。
天井。
それから、四メートル七十センチのちい。
「……帰れないね」
「おうち?」
「うん」
「はいれない?」
「絶対無理」
言葉にしてみると、思っていたより心に響いた。
昨日は家を出た。
それでも、帰ろうと思えばまだ戻れるような気がしていた。
身体を縮めて、どうにか玄関を通れば、またあの部屋に戻れると思っていた。
今は違う。
家にはもう、入れない。
「ちい」
「なに?」
「今日は、家に帰れない」
ちいは少し考えた。
「ここいる?」
「そういうこと」
「いっしょ」
「そのつもり」
「なら、いい」
「私はよくないんだけどなあ」
「なんで?」
「家に荷物あるし、明日は大学もあるし、服もあるし。生活全部、あっちにあるから」
「せいかつ?」
「私の普通の生き方」
ちいには、たぶん分からない。
この子にとっての普通は、ここ数日しかない。
机。ベッド。日向。風呂。大学。
そして、私。
たぶん、そのくらいだ。
「……戻る場所があるって思ってるの、私だけなのかもね」
「もどる?」
「うん」
私は家のある方角を見た。
もちろん、ここからは見えない。海岸の向こうに街があって、そのさらに先に私の部屋がある。
「まあ、今日一日は考えよう」
「うん」
朝の日差しが強くなってくると、ちいはすぐ反応した。
砂浜へ身体を伸ばす。
「寝るの?」
「おひさま」
「昨日と同じだね」
ちいが横になる。
ただ、今はその身体が砂浜に大きく横たわっている。
白い服と黒い髪が、朝の砂の上に長く伸びていた。
遠くから見ても、もう普通の人には見えないだろう。
「……人外じみてきたな」
思わず声に出た。
「なに?」
「何でもない」
言ってから、自分で少し嫌な言葉だったと思った。
人ではないのかもしれない。
最初から。
でも、だから何だ。
ちいはちい。
そう言ってきた。
そのはずだった。
スマートフォンを見る。
今日まで大学は休みだった。
それだけは、本当に助かった。
「ちい」
「なに?」
「今日、私ちょっと色々考えるから」
「うん」
「たぶん、いつもよりつまんないよ」
「ここいる」
「うん」
「いっしょ」
「そうだね」
しばらく私は、スマートフォンで周囲について調べた。
地図。人の少ない場所。この海岸の周辺。道路。キャンプ場。公共施設。
でも、ちいの大きさを考えた瞬間、どれも選択肢から消えていった。
車には乗れない。電車なんて論外。
人のいるキャンプ場へ連れていくわけにもいかない。ホテルに至っては、考えるだけで笑えてくる。
「……もう、地図アプリ見る意味ないな」
「なに?」
「普通の人のための場所しか出てこない」
「ちい、ふつう?」
私は指を止めた。
「……どうだろ」
ちいがこちらを見る。
「ちいは」
じっと私を見つめる。
「ちいはちい」
「そうだね」
言われてしまった。
私は少し笑う。
「便利だな、それ」
「いい?」
「うん。今は」
「いいこと」
午前中、ちいはほとんど動かなかった。
日向で寝て、ときどき起きる。
海を見て、私を見る。また横になる。
それだけだった。
でも、そのたびに少しずつ違って見えた。
「ちい」
「なに?」
「また大きくなってない?」
「なった?」
もう一度測る。
五メートルのメジャーを足元から伸ばす。
今度こそ、ほとんど限界だった。
「……四メートル九十七」
「ごめーとる?」
「ほぼね」
「やった」
「これ、次はもう測れないね」
五メートル。
買ったときは長すぎると思っていた。
それが役目を終えようとしている。
「三日ももたなかったなあ」
「なに?」
「メジャー」
「ちいより、ちいさい?」
「もうすぐね」
「やった」
ちいは嬉しそうにメジャーを見ている。
私は同じようには笑えなかった。
次は何で測るんだろう。
工事用の長い巻尺か、レーザー距離計か。
そもそも、そこまでして正確な数字を知る意味があるのか。
「……記録も、そろそろ無理かな」
「かかない?」
「書くけどね」
最初は、数ミリの違いにも意味があった。
今は五メートル近い。
数センチが誤差になる。
「変わったね」
「おおきい?」
ちいは砂へ座った。
私も横に座った。
隣にいるちいの顔は、ずっと上にある。
「間違いない。間違いなく大きい」
「できること、ふえた」
「何ができるようになった?」
ちいは少し考える。
「とおく、みえる」
「そうだろうね」
「あるく、はやい」
「走らないでね」
「うん」
「ほかは?」
また考える。
「おおきいの、さわれる」
「大きいもの?」
ちいが海岸の向こうにある岩を指す。
「あれ」
「触れるね」
以前のちいにとって、あれくらいの岩は、もはや山みたいな大きさだった。
今なら、触れるどころか持てるかもしれない。
「じゃあ、できなくなったことは?」
「ぎゅ」
「そっか、そうだね」
ほとんど即答だった。
そこはずっと気にしているようだ。
「他は?」
「おうち、はいれない」
「そうだね」
「おふろ?」
「もう無理」
「でんしゃ」
「絶対無理」
「だいがく」
「連れていけない」
「ぺっと」
「ペットショップも無理だね」
ちいが黙った。
少しだけ、寂しそうに見えた。
「できてたのにね」
「うん」
「大きくなるの、いいことばっかりじゃない?」
しばらく答えない。
「でも」
「うん」
「おおきいの、すき」
「そっか」
「できること、ふえる」
「うん」
「……できないのも、ふえる?」
少し間を置いて、ちいが聞いた。
「いいこと?」
「……たぶんね」
ちいは海を見る。
少し前まで、公園にも行けた。電車にも乗った。大学へも連れていった。店にも入れた。
今は、その全部ができない。
変わるのに、ほとんどかからなかった。
「早すぎるね」
「なにが?」
「変わるの」
ちいは何も答えなかった。
昼近くになり、私が簡単に食事をしている間、ちいは海を眺めていた。
座っている姿は巨大なのに、膝へ腕を乗せて波を見ている仕草には、まだどこか幼さが残っている。
「ちい」
「なに?」
「昨日、海来てよかった?」
「うん」
「家にいた方がよかったとか思わない?」
「ここ、ひろい」
「うん」
「うみ、きれい」
「うん」
「ほし、いっぱい」
「うん」
「いっしょ」
「……うん」
「すき」
私はその答えが、かなり好きだった。
「そっか」
昼になり、太陽が高くなる。
ちいはまた光の当たる砂の上へ身体を伸ばした。
「ちい」
「なに?」
「今、どう?」
「どう?」
「日向」
少し間があった。
「あったかい?」
自分でも、少し慎重な聞き方になった。
ちいは目を閉じたまま、しばらく黙っていた。
「……あったかい」
「そっか」
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「うん」
私はそれ以上聞かなかった。
昨日までなら、日向へ出た瞬間に「あったかい」と言っていた。
迷わなかった。
今は、ほんの少し考えた。
それだけの違いだった。
胸の奥に嫌な感じが残る。
「ちい」
「なに?」
「私の近くは?」
言ってから、聞かなければよかったと思った。
ちいが身体を起こし、私を見る。
大きな手が近づいてくる。
私はその指へ触れた。
ちいは、しばらく黙っている。
「……あったかい?」
「うん」
でも、やっぱり返事が少し遅かった。
「……そっか」
「なに?」
「何でもない」
私は笑った。
たぶん、変わっているのは大きさだけではない。
そんな気がした。
でも今は確かめる方法がなく、ちい自身も困っている様子はない。
だから。
「まあいっか」
口にする。
前より少しだけ、無理をして。
それでも、まだそう言えた。
*
午後になっても、ちいの成長は止まらなかった。
五メートルのメジャーが使えなくなってからは、もう正確な数字を記録することを諦めた。
数ミリの違いをスマートフォンへ入力して、その数字を見ながら一喜一憂していた。
今では砂浜に残った足跡や、見上げる角度からだいたいの大きさを推測するしかない。
記録の中の、機嫌良好の文字も減っていた。
昼を過ぎた頃には、立ったちいの膝が私の頭より高くなっていた。
「……六メートルくらい?」
私は離れたところから見上げた。
ちいも自分の身体を見る。
以前ならすぐ聞いてきたはずなのに、少し間があった。
「おおきい?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そう、たぶん」
「おおきい」
「それはそうなんだけど」
会話はそこで途切れた。
やった、とは言わなかった。
ちいはまた海の方を向いた。
別に機嫌が悪いわけではない。
呼べば返事をするし、私が近くへ行けばちゃんと見る。
それでも、お出かけの時のように、目に入ったもの全部について、あれなに、これなに、と聞くことはなくなっていた。
私は最初、それを成長したからだと思おうとした。
外のことを少しずつ覚えた。知らないものが減った。言葉も増えた。
だから質問が減る。
それなら自然だ。
でも、それだけではない気もしていた。
ちいは海を長く見るようになった。
空を見上げる時間も増えた。
私が何かしている間、以前ならそばまで来て覗き込んでいたのに、今は数メートル離れたところからじっと見ている。
身体が大きいから、それだけで距離ができる。
そう考えれば説明はつく。
私はなるべく、それ以上の意味を探さないようにした。
午後二時過ぎ、海岸へ来る人の姿が遠くに見えた。
私たちがいる場所まではまだかなり距離がある。間に岩もあり直接は見えない。
それでも、人影を見つけるたびに心臓が縮む。
「ちい、少しこっち」
「なに?」
「人いるから」
ちいは遠くを見る。
「あれ?」
「そう。見つからないようにしたい」
「なんで?」
そこはまだ聞く。
「説明できないから」
「ちいのこと?」
「うん」
私はしばらく迷ってから続けた。
「今のちいを見たら、みんなびっくりすると思う」
ちいは自分の腕を見る。それから、遠くを歩いている人を見る。
「こわい?」
「ちいが?」
「うん」
「……怖がる人はいるかも」
嘘はつけなかった。
ちいは少し黙った。
「ちい、こわい?」
「ちいが怖くないこと、私は知ってるよ」
「でも、しらないひと」
「うん」
そこでまた会話が止まった。
以前なら、なんで?と会話が続いたかもしれない。
今のちいは、遠くの人影を少し見て、それ以上何も言わなかった。
私はその横顔を見上げながら、妙な焦りを覚えた。
ちいの身体が大きくなることには、もう十分驚いた。
四センチから五センチになったときの方が、もしかすると今より驚いていたくらいだ。
数字の異常さそのものには、感覚が麻痺してきている。
でも。
話さなくなるのは。
嫌だった。
「ちい」
「なに?」
すぐ返事。
少し安心する。
「……何でもない」
ちいが首を傾げた。
「よんだ」
「呼んだね」
「なんで?」
「いるか確認しただけ」
「ここいる」
「そうだね。そうだよね」
それでよかった。
少なくとも、今は。
そう言い聞かせた。
午後の日差しが砂浜を照らしていた。
ちいはしばらく横になっていたけれど、以前のようにあったかいと言うことはなかった。
私は何も聞かず、少し離れたところでスマートフォンを見ていた。
大学の通知がいくつか来ている。
次の授業。課題。グループ連絡。友達からのメッセージ。
私は画面をしばらく見た。
明日。
大学。
その二つの単語と、目の前の光景がうまく結びつかなかった。
砂浜に横たわっている六メートルを超えた女の子。
自宅には戻れない。
一人でここへ置いていくこともできない。
それなのに、明日の私は講義室へ座ってノートを取る必要がある。
「……無理でしょ」
返信はしなかった。
まだ。
明日になれば。
成長が止まるかもしれない。
家に帰れるかもしれない。
根拠はない。
楽観的なことも分かっている。
それでも、そういう可能性を完全に捨てるのが怖かった。
夕方になる頃には、その期待も薄くなったが。
ちいが立ち上がっただけで分かった。
「……また?」
朝より。
昼より。
さらに。
私はかなり離れてから見上げる。
七メートル。
八メートル。
正確には分からない。
でも、少なくともそれくらい。
ちい自身も、今度はすぐには喜ばなかった。
自分の手を見る。脚を見る。砂浜に残った、自分の足跡を見る。
「おおきい」
「うん」
「いっぱい」
「うん」
ちいが私を見る。
私から見れば、顔はずっと上にある。
「ぎゅ」
その言葉を聞いて、胸が少し詰まった。
「……したい?」
「うん」
「どうしようか」
昨日までは体にもできた。
今日の朝は手。
でも今は、その指一本でも私の腕で抱えるには太くなり始めている。
ちいがしゃがんだ。
それだけで砂が大きく舞う。
顔が近づく。
それでも私よりずっと高い。
「て」
掌を砂の上へ置く。
私はその横へ近づいた。
「これなら」
ちいの手へ両腕を回そうとする。
でも、完全には回らない。
「……もう半分ぎゅも無理になってきたね」
ちいが自分の手を見る。
「できない?」
「触ることはできるよ」
私は掌へ両手を置いた。
「ほら」
「ぎゅ?」
「……ぎゅではないかな」
ちいは少し黙った。
「じゃあ」
指が動く。
私の周囲へ。
でも途中で止まった。
怖かったのだと思う。
ちい自身の指。
私とちいの大きさ。
力の差。
ちい自身が、それを理解し始めている。
「大丈夫。ゆっくりなら」
私は言った。
指が少しずつ近づいてくる。
触れないぎりぎりで、私の左右を囲う。
「これ」
「うん」
「ぎゅ?」
私は少し笑った。
「そういうことにしようか」
「ぎゅ」
ちいも笑った。
でも、以前みたいに何度も繰り返そうとはしなかった。
一度。
それだけ。
指が離れる。
私の届かない高さへ。
私は砂の上に残された。
たったそれだけのことが、思っていた以上に寂しかった。
日が沈み始める。
海に夕焼けが映る。
川。
一瞬だけ身体が強張った。
ちいも夕日を見る。
走らない。
立ったまま。
海の向こうへ沈んでいく光を見ている。
「うみ」
小さな声だった。
身体の大きさに対して、妙に静かだった。
「きれい」
「うん」
私もそれだけ答えた。
夕焼けの中に立つちいを、少し離れたところから見る。
白い服。
黒い髪。
人間と同じ形。
それなのに、もう明らかに人間の大きさではない。
人外じみている。
昨日より。
朝より。
その言葉が似合ってしまう。
それでも、夕日を見て、きれいと言う。
私はそのことに安心していた。
夜。
もうテントは畳んだままだった。
私は寝袋。
ちいは砂浜。
少し離れて寝る。
十メートル。
同じ場所で寝ようとしても、そのくらい距離が必要だった。
「ちい」
「なに?」
「今日、楽しかった?」
少し長い間。
「……うん」
「何が?」
また、間。
「うみ」
「うん」
「ひなた」
「うん」
「いっしょ」
「……そっか」
言葉は減った。
でも最後に、それは残っている。
「私も」
私は横になった。
見上げれば昨日と同じ星空なのに、隣の景色はまるで違う。
ちいの身体が、視界の端に巨大な影として入っている。
「ちい」
「なに?」
「聞こえる?」
「うん」
距離にしてたった十メートル。
それでも確認したくなった。
「……よかった」
「なにが?」
「何でもない」
私は空を見る。
何も言わない。
ちいも話さない。
波の音。
風の音。
それだけが聞こえた。
以前なら沈黙はほとんどなかった。
ちいが何か聞く。
私が答える。
分からない。
また聞く。
その繰り返しだった。
今は。
一緒に海を見て。
今は同じ空を見て。
それで終わる時間が増えている。
悪いことではない。
そう思いたかった。
でも、いいこと、とは思えなかった。
「ちい」
もう一度。
「なに?」
「……あったかい?」
星空の下には、日差しも火もない。
ちいはしばらく答えなかった。
「……わかんない」
私は目を閉じかけて、また開いた。
「分かんない?」
「うん」
「寒い?」
「……わかんない」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
返事を待つあいだ、胃の辺りがゆっくり冷えていった。
最初はすぐに寒いといった。
少し離れると動けなかった。
私の指に抱きついて、あったかい、そう言った。
その温度を何より大事にしていた。
その感覚が、今は曖昧になっている。
「痛いところは?」
「ない」
「苦しい?」
「ない」
「元気?」
少し沈黙。
「……うん」
「なら」
私は止まった。
いつもの言葉。
「……まあいっか」
そう言った。
でも今日は。
自分でも、あまり信じていなかった。
*
翌朝、私は音で目を覚ました。
低い音。
砂が擦れるような音と、地面の向こうから伝わってくるような振動。
寝袋から顔を出す。
空はまだ薄暗い。
夜明け前だった。
「……ちい?」
返事はない。
身体を起こして見上げる。
そして、何も言えなくなった。
ちいは座っていた。
昨日の夜は、八メートルくらいだったはずだ。
今は座っているだけなのに、それよりずっと大きい。
私は立ち上がった。
「ちい!」
少し大きな声を出すと、高いところにある顔がこちらを向いた。
「……なに?」
返事はある。
でも一拍、遅い。
「大丈夫?」
「うん」
また少し間がある。
「どこか変?」
ちいは自分の身体を見る。
「……おおきい」
「それは分かる」
私は笑おうとした。
できなかった。
「立てる?」
ちいが砂へ手をつき、ゆっくり立ち上がる。
その動きだけで地面が震え、私は数歩後ろへ下がった。
身体が上へ伸びていく。
十メートル。
違う。
もっとある。
十五。
二十。
首を限界まで上げる。
顔は遠く、もう表情を簡単には読めない。
「ちい」
呼ぶ。
少し遅れて、顔がこちらへ向く。
「……いる」
以前より大きな声が、空気を震わせる。
それでも言葉は同じだった。
いるよ。
私は少し息を吐いた。
スマートフォンを見る。
時間。大学。授業。通知。
画面に並んでいる。
それから、ちいを見る。
「……大学」
声に出して、自分で笑いそうになった。
無理だ。
昨日までは、休むか、出席は大丈夫か、課題はどうするか、友達に何と言うか。
そんなことで悩んでいた。
今は二十メートル近い。
あるいはそれ以上かもしれない。
ちいが海岸に立っている。
「……大学どころじゃないね」
ちいに聞こえたかどうかは分からない。
私は欠席連絡の画面を開いた。
理由は何にする。
また体調不良でいい。
そう思ったところで指が止まり、結局画面を閉じた。
今はどうでもよかった。
「ちい」
もう一度呼ぶ。
顔が少しずつこちらへ向く。
「なに?」
まだ返事はある。
でも、昨日までより遠い。
物理的な距離だけではない。
なにかが、もっと遠い。
そんな気がした。
私は砂浜を歩き、少しだけちいの足元へ近づいた。
「今日!」
届くように声を張る。
「今日はずっとここにいるから!」
ちいはしばらく動かなかった。
それから。
「……うん」
一言だけ返した。
私は、もっと何か言ってほしいと思った。
ぎゅ。
あったかい。
いっしょ。
何でもよかった。
でも、ちいはまた海の向こうを見た。
私はその巨大な背中を見上げる。
風が強くなり、白い服が揺れる。
海の向こうから朝日が上がり始める。
ちいは、それをじっと見ていた。
そのとき初めて、ちいが私ではない何かを待っているような気がした。
*
朝日が完全に昇ってからも、私はしばらく海岸に立ったまま、ちいを見上げていた。
正確な身長はもう分からないし、測ろうという気も起きなかった。
二十メートル前後はあるように見える身体が砂浜に座っていると、昨日まではためらいなく、女の子と呼べたちいが、急に別の段階へ入ってしまったように思えた。
それでも、ちいはちいだった。
黒い髪を風に揺らし、白い服の裾を押さえるような仕草をして、海の向こうに昇っていく太陽をじっと見ている。
横顔にはまだ幼さが残っていて、最初の日に私の指へ頬をつけていた子と同じ表情だと分かる。
だが、その顔を見るためには、首をいっぱいに反らさなければならなかった。
「ちい」
呼ぶと、少し遅れて顔が動いた。
「なに?」
「……何でもない。呼んだだけ」
ちいはしばらく私を見下ろしていたが、それ以上は聞かなかった。
以前なら、なんで?と続いたはずだった。
その一言が来ないことに気づいてから、私は自分の方からもう一度話しかけようとして、結局やめた。
話すことがなくなったわけではない。
むしろ聞きたいことはいくらでもある。
身体は平気なのか。
何を感じているのか。
昨日からどうして急に返事が遅くなったのか。
海を見ながら何を考えているのか。
そして。
ちい自身が何者なのか、少しは思い出したのか。
でも、聞いてもたぶん答えは出ない。
ちい自身が知らないことを、私は何度も聞きすぎた。
私は砂の上へ座り、スマートフォンを開いた。
大学からはすでにいくつか通知が来ていたし、友達からも短いメッセージが届いていた。
今日はどれも開かなかった。
先週は欠席数や課題の締切に頭を抱えていた。
海岸に二十メートルのちいがいる朝は、それらが別の世界の出来事みたいだった。
代わりに、自分のメモを開く。
最初の日。
四センチくらい。
午後、四・三。
夜、四・四。
次の日、五・一。
数字が並んでいる。
最初の方だけは、几帳面なくらい細かい。
「……よくこんなの測ってたな」
四ミリ伸びた。
一センチ近く伸びた。
そんなことで驚いていた。
何度も定規を当て、気のせいじゃないかと測り直した。
成長していることが怖くて、でも少し面白くて。
ちいが、おおきい?と聞くたびにどう答えればいいか分からなかった。
ページを送る。
七・八。
十・五。
十五・六。
二十・三。
その辺りから、数字の増え方が急になっている。
大学へ連れていったことも思い出した。
服の内側。
首元。
袖。
自分の身体へ隠して、誰にも気づかれないように息まで小さくしていた。
講義中にちいが少し動いただけで心臓が跳ね、誰かに声をかけられるたびに全部ばれる気がした。
それなのに、今。
私はスマートフォンから顔を上げる。
ちいは遠くにいる。
遠くと言っても、ほんの数十メートル先だった。
でも、その足元から顔まで視線を上げていくだけで、とてつもない距離を感じる。
「……隠してたんだよなあ」
声に出す。
返事はない。
ちいは聞こえているのかもしれないし、聞こえていないのかもしれない。
私はまた記録へ戻った。
専用の袋。
ちいが喜んだ。
大きくなって入らなくなった。
最初の専用だから捨てない、と言った。
引き出しの中。
今も、家にある。
あの小さな袋と、今のちいの身体を比べる。
笑いそうになった。
「……指一本も入らないよ」
今度は、ちいがこちらを見た。
「なに?」
「昔の袋」
少し考える。
「せんよう?」
「覚えてる?」
「うん」
返事は短い。
でも、覚えている。
それだけで胸の奥の何かが緩んだ。
「捨ててないよ」
「うん」
「家にある」
ちいは少しだけ笑った。
「ちいの」
「そう。ちいの」
それで終わった。
以前なら、すき、と続いたかもしれない。
専用という響きを面白がって、何度も口にしたかもしれない。
でも今は、それだけ。
けれど、その短い一言にはちゃんと、あの頃と同じものが残っている。
そんな気がした。
そう思いたかった。
昼近くになると、ちいは砂浜のほうに座りなおした。
その動作だけで身体の周りの砂が大きく沈む。
脚を伸ばせば、一昨日、私がテントを張っていた範囲を簡単に越えてしまう。
私は少し離れて見ていた。
近くへ行けないわけではない。
でも、ちいが何気なく手を動かすだけでも私には十分危ない。
本人もそれを分かり始めたのか、私が近くにいるときほど動きが遅くなった。
それがまた、寂しかった。
できることが増えるから、大きいのが好き。
ちいはずっとそう言っていた。
実際、歩けるようになった。
自分で外へ行けるようになった。
私を抱きしめられるようになった。
公園でも遊べた。
買い物もできた。
電車にも乗った。
大きくなるたび、世界は広がった。
でも今は、大きすぎるせいで、またできないことが増えている。
電車へ乗れない。
店へ入れない。
風呂へ入れない。
家へ戻れない。
私へ抱きつけない。
そして、私のそばにいるためには、動くことさえ気をつけなければならない。
「……なんか逆だね」
私が言うと、ちいが顔を向けた。
「なに?」
「大きくなれば、できること増えるって言ってたでしょ」
「うん」
「今は、できないことも増えてる」
ちいは少し黙った。
「でも」
私は待つ。
「みえる」
「何が?」
「いっぱい」
ちいは海の向こうを指した。
「とおく」
私はその指の先を見る。
私には海と、水平線と、空しか見えない。
「何見えるの?」
少し長い沈黙があった。
「いっぱい」
同じ答えだった。
「そっか」
たぶん説明する言葉がないのだろう。
あるいは、私が想像しているより、もっと遠くまで見えている。
そんな気がした。
午後に入ると、ちいはまたひと回り大きくなった。
もはや数値は分からない。
二十五メートル。
三十。
そのくらい。
私は海岸の流木や、近くの防風林と比べて推測するしかなかった。
ちいが立ち上がるたびに予想より大きくなっていて、私は少しずつ驚くことをやめた。
記録することも、億劫になっていった。
その代わり、思い出すことが増えた。
最初の朝。
机。
教科書。
虫だと思った。
小さな身体。
怖がっていた。
私も怖かった。
それでも手を出した。
ちいが近づいた。
もし、あのとき手を出さなかったら。
私は今ここにいない。
たぶん普通に大学へ行って、普通に課題をやって、普通に友達と話して。
狭い部屋で一人で暮らしている。
それは悪くない生活だった。
間違いなく、幸せな生活のはずだった。
「……戻りたい?」
誰に聞くでもなく、自分へ向けて声に出す。
答えは、すぐには出なかった。
困った。
本当に、ずっと困らされた。
大学を休んだ。
嘘もついた。
代返まで頼んだ。
買い物へ行くだけで大騒ぎして、川にも落ちた。
風邪もひいた。
家にも帰れない。
今は海岸で、巨大な正体不明の女の子のそばにいる。
「……最悪だな」
少し笑った。
でも、戻りたいかともう一度考える。
ちいが、いない。
机は静か。
誰も。
あったかい、と言わない。
せんよう、に喜ばない。
風呂の入口から、水を見ない。
太陽が出て、床の日向へ寝転がる子はいない。
帰っても、おかえり、はない。
「……それは」
嫌だった。
そこだけは、すぐ分かった。
「ちい!」
かなり大きな声で呼ぶ。
ちいがこちらを見る。
「なに?」
遠い。
声も、もう耳へ届くというより、空気全体が震える感じがする。
長い沈黙。
「……何でもない」
また同じ答え。
でも今回は、ちいが口を開いた。
「いる」
私は顔を上げた。
「うん」
それだけ返す。
「知ってる」
ちいはまた海を見る。
私はしばらく動かなかった。
夕方になり、空の色が少しずつ変わり始めた。
ちいは横にならず、海を向いて座っている。
もう大きさは、私の目では三十メートルを越えているように見えた。
正確な数字への執着は、不思議なくらい消えていた。
四・四。
五・一。
七・八。
十・五。
あの頃、あれほど几帳面に数字を残していたのは、ちいを理解しようとしていたからだ。
測れば。記録すれば。
何か分かる気がした。
でも、結局何も分からなかった。
今も、白い服も、正体も、成長も、温度も、インターホンの男も、全部謎のままだ。
答えはない。
「……結局、何だったんだろうね」
呟く。
今度はちいは振り向かなかった。
聞こえなかったのかもしれない。
それはそれで少し安心した。
正体は知りたい。
でも、もし知った結果、今までの全部が違う意味になってしまうなら怖い。
ちいが私へ近づいたのも。
抱きついたのも。
私の服を抱いて寝たのも。
一人が嫌だったのも。
全部、何かの仕組みだったら。
何かの命令で、最初からそうなるように作られていたら。
私は砂を指で掻いた。
その可能性はある。
むしろ人工生命なら、自然な仕組みなのかもしれない。
最初に見つけた人間を基準にする。
熱源。
安全。
依存。
そういう機能があっても、おかしくはない。
だったら、ちいの「あったかい」は私じゃなくてもよかった?
抱きつく相手が、私である必要は本当にあった?
そこまで考えて、私は顔を上げた。
ちいは遠くて、大きい。
でも。
私が風邪をひいた日。
薬を買ってきた。
怖かったはずなのに、一人で店へ行った。
それも仕組み?
川へ落ちたあと、私がいなくなることを怖がった。
それも?
専用の袋を嬉しそうに抱えていたことも?
「……分かんない」
口に出した。
たぶん、それでいい。
少なくとも今は、答えはいらない。
「ちいはちい」
今度は私が言った。
遠くで、ちいの頭が少しだけこちらへ向いた。
聞こえたかどうかは分からない。
夜になる。
私は前日と同じ場所へ寝袋を広げた。
ちいはもっと離れた場所へ横になった。
距離が広がれば、会話はさらにしにくくなる。
星空は昨日と同じだった。
ちいは仰向けで、巨大な身体を砂浜へ横たえている。
私はずっと小さい。
「ちい」
大きな声で呼ぶ。
少し遅れて返事が来た。
「なに?」
「星、見える?」
「うん」
「昨日よりいっぱい?」
少し間がある。
「……うん」
それだけだった。
私は空を見る。
「どれが好き?」
最初の夜にも同じことを聞いた。
長い沈黙のあと、ちいが巨大な腕をゆっくり上げる。
「……あれ」
「また分かんないよ」
私は笑った。
ちいも、たぶん笑った。
でも遠くて、よく分からない。
それが嫌だった。
「ちい」
「なに?」
「……明日も、話そうね」
少し沈黙が続いた。
「うん」
短い。
それだけ。
私は目を閉じた。
明日どうなるかは分からない。
でも、何となく今日までとは違う。
そんな気がした。
海岸に巨大なちいがいる。
もう隠せない。
誰かに見つかるのも、たぶん時間の問題だ。
大学も、家も、普通の生活も、どんどん遠くなっている。
それでも私は、逃げようとは思わなかった。
最初の日、小さなちいが怖いはずの私へ近づいてきた。
今度は私なのかもしれない。
大きくなって、遠くなって、少しずつ分からなくなっていくちいへ、私が近づく番。
「……まあいっか」
小さく言う。
明日困ったら、明日考える。
それは今までと同じだった。
でも今夜は。
その言葉が逃げるためではなく。
ここに残るためのものへ。
少しだけ変わった気がした。
*
いつ眠ったのか、よく覚えていなかった。
星を見ながら、明日も話そうと約束して、波の音を聞いていたところまでは覚えている。
そのあと一度くらいちいを呼んだ気もするし、返事を聞いたような気もする。
でも、身体はここ何日かずっと疲れていた。
考えなければならないことも増え続けていたから、気づかないうちに眠りへ落ちていたのだと思う。
目を覚ましたのは、波ではない音のせいだった。
最初は夢の続きかと思った。
遠くで何かが鳴っている。
低い音が何度も重なり、その間に細かなざわめきが混じっていた。
目を閉じたまま聞いているうちに、それが一つの音ではないと分かった。
車。
人の声。
何かを拡声器で呼びかける音。
さらに遠くから、規則的な回転音のようなものまで聞こえる。
「……なに」
身体を起こした。
空はもう完全に明るい。
朝だった。
そして海岸は、昨日までとは違っていた。
私たちがいた場所のずっと向こう、道路の方に何台もの車が止まっている。赤い光。白い車体。人影。
砂浜へ直接入ってきている人もいるけれど、こちらまでは来ていない。
来られないのかもしれない。
そう思った。
私は寝袋から出て立ち上がる。
「……ちい?」
すぐには見つけられなかった。
近すぎる場所を探していた。
昨日までなら、海岸のどこかに横たわっている白い服を探せばよかった。
少し離れたところ。
砂浜。
海の近く。
でも今朝は。
視線を上げる。
さらに上げる。
「……え」
立っていた。
ずっと遠く、海岸の先に。
ちいが。
昨日の夜は、三十メートルを越えたくらいだと思っていた。
今はそんな大きさではない。
五十。
六十。
もっとかもしれない。
もう数字を考えること自体が意味を失い始めていた。
ただ、大きい。
それだけだった。
海岸に立つちいの脚が周囲の木より高い。
白い服の裾が風に揺れ、その上へ身体が朝の空まで伸びている。
黒い髪も風を受けて大きく動き、一房一房が遠くから見ても分かるほどだった。
「……ちい」
自分の声が小さすぎることは、言った瞬間に分かった。
届くわけがない。
私は走った。
砂を蹴る。
寝袋も荷物も全部置いたまま。
「ちい!」
今度は大きく叫ぶ。
返事はない。
ちいは海を向いたまま、立って動かなかった。
遠くの喧騒。
拡声器の声。
少しずつ言葉を拾う。
危険。
離れて。
近づかないで。
避難。
たぶん、そういうことを言っている。
「……見つかった」
当たり前だった。
昨日までの方がおかしかった。
三十メートルもあったのに。
人が少なく、夜で、遠い海岸だったから隠れていただけだ。
今は空へ向かって立っている。
誰でも見る。
私はちいへ向かって走り続けた。
途中で声が飛んできた。
「そこの人!」
振り返る。
遠くで何人かが、砂浜へ入ってこようとしている。
私は止まらない。
「危険です!離れてください!」
「大丈夫です!」
反射的に叫んだ。
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
「知ってるんです!」
声が掠れる。
「私、あの子のこと知ってるから!」
向こうでも何か言っている。
聞かなかった。
私はちいへ走る。
昨日ちいが横になっていた場所を通り過ぎる。
足跡がある。
大きい。
昨夜残したもの。
その近くに、さらに新しい跡がある。
もっと大きい。
一歩ごとに砂浜が大きく凹み、その間を私は走った。
「ちい!」
ようやく、ちいが少し動いた。
顔がこちらへ向く。
本当にゆっくりと。
私は止まった。
顔は遠い。
表情はほとんど分からない。
でも、たぶん私を見ている。
「ちい!」
しばらく何も返らない。
風。
海。
遠くの人の声。
サイレン。
それから。
「……いる」
低く大きな声が、空気を震わせた。
でも言葉は、それだった。
いる。
私は息を吐いた。
「うん!」
笑いそうになる。
「私もいる!」
ちいはまた止まった。
返事はない。
表情も変わらない。
私は足元まで行こうとした。
そのとき、ちいの脚がほんの少し動いた。
砂がずれ、低い音と一緒に地面が揺れる。
私は止まった。
怖い。
初めて、はっきりそう思った。
ちいが怖いのではない。
この身体が怖い。
ちいが何も悪くなくても、一歩動くだけで私は危ない。
何かの拍子で、大変なことになるかもしれない。
私はちいに潰される、その可能性が怖かった。
「ちい」
今度は少し声を落とした。
「そこにいて」
聞こえるかどうかは分からない。
「動かないで」
ちいの顔が少し下へ向く。
その動作だけでも巨大だった。
「……うん」
返事がある。
でも遅い。
昨日より、もっと遠い。
私はそれ以上近づかず、その場へ立った。
今できるのは、それくらいだった。
遠くからまた拡声器の声が飛ぶ。
「その場から離れてください!」
私は振り返った。
人が増えている。
警察。
消防。
それ以外もいる。
遠くにはカメラやスマートフォンを向けている人もいた。
道路の向こうにも人が集まっている。
道路側に並んだ人影とレンズが、海岸をもう二人だけの場所ではなくしていた。
胸が痛んだ。
「……ごめん」
誰に対してなのか分からなかった。
ちいなのか。
自分なのか。
私はスマートフォンを取り出した。
通知が大量に来ている。
着信。
友達。
大学。
知らない番号。
ニュース。
何も見ない。
カメラを開き、ちいを画面へ映す。
巨大なのに、画面の中では小さい。
私はすぐ撮るのをやめた。
「……違う」
ずっと記録してきた。
身長。
時間。
温度。
何センチ。
何センチ。
でも今、この姿を撮るのは何か違う気がした。
スマートフォンをしまう。
ちいを見る。
「ちい!」
呼ぶと、少し反応する。
「覚えてる?」
何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。
「最初!」
声を張る。
「机の上!」
ちいは動かない。
「私の手!」
遠くで顔が少し傾いた。
昔、よくしていた仕草だった。
分からないことを聞いたときの、あの首の傾げ方。
今は巨大になっていても、そこだけ同じだった。
「覚えてる?」
長い沈黙。
「……ゆび」
私は笑った。
泣きそうになった。
「そう!」
「ちい」
大きな声が降ってくる。
「ちいさかった」
「うん!」
「……いま」
そこで止まり、ちいは自分を見る。
手。
腕。
身体。
海岸。
「おおきい」
「うん」
やっぱり同じ言葉。
でも声が少し違った。
喜びが薄い。
私はそこで気づいた。
以前なら「おおきい」の近くに、必ず「やった」があった。
今はない。
「ちい」
返事はない。
「大きいの、嬉しい?」
聞く。
遠くでは人の声とサイレンが続いている。
ちいは黙った。
長い。
本当に長い沈黙だった。
「……わかんない」
胸が沈む。
初めてだった。
大きくなるのが嬉しいかどうか、それすら分からなくなっている。
「そっか」
私はそれしか言えなかった。
ちいはまた海へ顔を向ける。
朝日が高くなっている。
光が当たっているのに、ちいはあったかいと言わない。
ずっと言っていない。
私は聞かなかった。
もう聞きたくなかった。
遠くの人たちが近づいてくる。
「あなた!こちらへ!」
手を引かれる。
私は少し下がりながらも、ちいから目を離さなかった。
このまま私は連れていかれるのだろうか。
話を聞かれて、ちいは囲まれて、誰かが何かをする。
分からない。
嫌だった。
でも、私に何ができる。
たぶん何もない。
そのとき、人混みの中に一人、見覚えのある顔が見えた。
「……あ」
インターホンの録画。
あの男。
たぶん同じ人。
距離があるし、服も違う。
断言はできない。
でも顔と立ち方が似ている。
そして、その人は他の人たちほどちいを見上げて驚いていない。
少なくとも、私にはそう見えた。
何か知っている。
胸が強く鳴る。
私はその人を見る。
向こうも、私を見た気がした。
この距離で本当に目が合ったのかは分からない。
それでも、その人は少し止まった。
私は反射的にちいを見る。
また正体のことが頭へ浮かぶ。
何なのか。
誰なのか。
作ったのか。
どこから来たのか。
何のためなのか。
もし、あの人が何か知っているなら。
聞けば少しは分かるかもしれない。
全部でなくても。
私は一歩、その人の方へ動いた。
その瞬間。
「……いや」
ちいの声がした。
私は止まり、振り返る。
「ちい?」
顔はこちらを向いている。
「どうしたの?」
返事はない。
「何が嫌?」
長い沈黙。
ちいは胸のあたりへ手を触れ、何かを探すように自分の身体を見た。
「……ちい」
「うん」
「ちい」
「うん。ちいだよ」
もう一度。
「ちい」
声が少し震えている。
私は背中が冷えるのを感じた。
「どうしたの?」
「ちいは、なに?」
昨日まで、何度も私が考えたことだった。
ちいって何なんだろう。
そのたびに。
ちいはちい。
それだけで終わった。
今は違う。
「ちい!」
私は叫ぶ。
「ちいはちい!」
ちいが顔を下げる。
「……ちがう」
初めて聞いた声。
「何が?」
返事はない。
遠くであの男が何かを言っている。
周囲の人も動く。
無線の声。
ざわめき。
何を言っているのかは分からない。
でも空気が変わった。
ちいの身体が少し揺れた。
足が一歩、後ろへ下がる。
地面が大きく震え、遠くで人が騒ぐ。
「ちい、動かないで!」
叫ぶ。
でも、ちいは止まらなかった。
もう一歩、海の方へ下がる。
「ちい!」
顔が歪んだ。
遠くても、今度は分かった。
怖がっている。
最初の日。
机の上で私を見て。
「……こわい」
そう言ったときと同じ顔。
でも今は、何十メートルもある。
それでも分かった。
同じ顔だ。
「大丈夫!」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
それでも言う。
「私いるから!」
ちいがこちらを見る。
「……いる?」
「いる!」
私は両手を上げた。
見えるように。
「ここ!」
ちいは私を見る。
少し止まる。
でも、その目が私を通り越して、何か別のものを見ているような気がした。
そして、ちいが小さく言った。
声そのものは巨大なのに、言葉だけは昔みたいだった。
「……わかんない」
「何が?」
「ちい」
胸が締まる。
「わかんない」
私は走り出した。
今度は、ちいの足元へ向かって。
後ろで人が叫んでいる。
危ない。
止まれ。
聞かない。
「分かんなくていい!」
走りながら叫ぶ。
「私も分かんない!」
砂へ足を取られる。
息が切れる。
「何なのかも!何で大きくなるのかも!誰が作ったのかも!」
言ってから初めて、自分が「作った」と口にしたことに気づいた。
ちいの身体が固まる。
「……つくった?」
私は止まった。
失敗した、と思った。
でも、もう戻せない。
「分かんない」
正直に言う。
「本当に、何も」
ちいが私を見下ろす。
「でも!」
私はさらに声を上げる。
「それでも!ちいは、ちい!」
風が声を持っていく。
届いたかどうかは分からない。
ちいは動かない。
遠くであの男がまた何かを言う。
今度は別の拡声器の声も混じった。
全部は聞き取れない。
ただ、断片的な単語だけが耳に入った。
個体。
反応。
起動。
そんな言葉だった気がする。
断片だけ。
でも十分だった。
「……個体」
私は男の方を見る。
それから、ちいを見る。
「……こたい?」
やめて。
今は言わないで。
知らない言葉を、ちいへ投げないで。
そう思った。
でも、もう遅い。
ちいは自分の手を見る。
白い服へ触れる。
胸。
腕。
「ちい」
呼ぶ。
反応はない。
「ちい!」
少しだけ顔が上がる。
「……つくられた?」
私は答えられなかった。
嘘はつけない。
知らない。
でも、その可能性をずっと考えていた。
人工生命。
白い服。
成長。
温度。
インターホンの男。
全部。
「分かんない」
私は言う。
「分かんないけど……」
ちいが目を閉じた。
その瞬間、地面から低い振動が来る。
ちいの身体の内側で何かが動く音がした。
私は見上げる。
白い服の表面を、ほんの一瞬、光が走った気がした。
見間違いかもしれない。
同時に、周囲に警告音が鳴り響き、人が一斉に動いた。
遠くで誰かが叫ぶ。
私は何も分からない。
ただ、ちいを見る。
身体がまた大きくなっている。
目で分かるほど速い。
今まで一度も見たことがないくらい。
「……ちい」
返事はない。
脚が砂へ沈む。
身体がさらに空へ近づいていく。
五十。
六十。
七十。
数字なんて、もうどうでもよかった。
ちいの顔がどんどん遠くなる。
「ちい!」
私は叫ぶ。
何度でも。
「ちい!」
返事はない。
駆けだそうとする。
人が走ってくる。
私を止めようとする。
腕を掴まれた。
「離して!」
「危険です!」
「分かってる!」
本当は分かっていない。
何が危険なのか。
何が起きているのか。
どこまで大きくなるのか。
何一つ分からない。
でも、ちいを見失うことだけは嫌だった。
「ちい!」
巨大な身体が海岸に立っている。
もう朝日さえ半分隠している。
顔はよく見えない。
私は必死に目を凝らす。
そして。
ほんの一瞬。
ちいがこちらを見た。
そんな。
気がした。
*
ちいがこちらを見たような気がした、その一瞬だけで、私は掴まれていた腕を振りほどこうとするのをやめた。
何十メートルも先に立っているちいの顔は、もう肉眼では細かな表情まで読み取れない。
それでも、あの子が私を見つけたときにほんの少しだけ顔の向きが変わることは、この短い日々の中で嫌というほど見てきたから分かった。
ところが次の瞬間、ちいの身体がまた大きくなった。
成長という言葉では追いつかないほどの速度で脚が伸び、胴が高くなり、空を背負っていたはずの頭がさらに遠ざかっていく。
砂浜に残る足跡の縁が崩れ、少し遅れて地面が低く震えるたびに周囲から悲鳴や指示の声が上がった。
それらは私の耳には入ってこなかった。
「ちい!」
返事はない。
ちいの白い服には、さっき見えたものと同じ淡い光が何度か走った。
服の表面だけなのか、その下の身体から透けているのか、それすら分からない。
光が現れるたびに周囲で機械の警告音が増え、インターホンの録画で見た男に似た人が、何人かに向かって何かを叫んでいた。
なおも駆け寄ろうとする私に、制止の声。
「離れてください。成長が止まっていません!」
「それは見れば分かります!」
私は思わず怒鳴り返した。
「そういうことじゃない!」
今度は男の声だった。
あのインターホンの男。
いつの間にか近くまで来ていた。
昨日までなら絶対に信用しなかったと思うし、今だって信用しているわけではない。
ただ、周囲の人間がちいを見て混乱している中で、その人だけは驚きより焦りの方が強く見えた。
私は男に向かって叫んだ。
「あなた、あの子のこと知ってるんですか」
男はすぐには答えなかった。
「知ってるんですか!」
「……少しだけ」
「何なんですか、ちいは」
また一瞬、間があった。
「分からない」
「は?」
「全部は分からない。本当に」
男はちいを見上げたまま続けた。
「少なくとも、こちらが想定していたものとは違う」
「こちらって何ですか」
答えはなかった。
代わりに、男が持っていた端末から別の声が聞こえてきた。
『基準反応、固定先を再確認。初期同調対象との距離が――』
途中で音量を下げられた。
でも、聞こえた。
「……基準?」
男が私を見る。
「今の、何ですか」
「説明している時間がない」
「じゃあ必要なところだけ!」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
「あの子、私のこと分からなくなってきてるんです!何で私に近づいたのかも、何で大きくなるのかも、自分が何なのかも分からなくなってる!」
自分の声が、今にも泣きそうに、聞こえた。
「今の言葉、それと関係あるんですか!」
男は一瞬、唇を噛んだように見えた。
その表情で、気勢がそがれた。
「最初に接触したのは、あなた?」
「たぶん」
「そのとき、あの個体……ちいは、極端に小さかった?」
「四センチくらい」
男が目を閉じる。
「やっぱり」
その一言で、胸の奥が冷たくなった。
「何が、やっぱりなんですか」
「あなたを安全な対象として固定した可能性がある。体温か、生体反応か、もっと複雑なものかは分からない。最初の段階で生存に必要な条件をあなたから得て、それを基準にしたのかもしれない」
周囲の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
あの日の机。
雨。
寒い部屋。
怖がりながら、それでも私の手へ近づいてきた小さな身体。
そして、最初から何度も繰り返してきた言葉。
「あったかい」
ずっと、それだった。
「……じゃあ」
声がうまく出なかった。
「私だったからじゃない?」
「分からない」
「誰でもよかった?」
「それも分からない」
男は繰り返した。
「分からないことの方が多い。こちらにも」
腹が立った。
でも、その答えが一番信じられた。
全部知っていると言われるより、ずっと。
私はちいを見る。
もう八十メートルか、九十メートルか、そのくらいあるのかもしれない。
建物と比べるものもない海岸では、数字は完全に感覚でしかなかった。
少なくとも、昨日のちいが何人縦に並んでも足りないほど遠いところに、顔があった。
そのちいが、こちらを見ていた。
「……聞こえた?」
男が小さく呟く。
「え?」
「今の話」
そんな距離。
でも、今のちいなら。
分からない。
けど、聞いて欲しくなかった。
「ちい!」
私が叫ぶ。
上から声が降ってきた。
「……きじゅん?」
息が止まった。
空気そのものが震えるほど大きな声なのに、その言い方はちいだった。
男は黙る。
「ちい、聞こえる?」
「きじゅんって、なに?」
私には答えず、ちいがもう一度聞く。
男はそれでも躊躇していた。
ちいがもう一度。
「なに?」
と聞いた。
ちいは。
怖がっていた。
あの日、机の上で私を見上げて、こわい、と言ったときと同じ声だった。
男が拡声器を受け取る。
「あなたが最初に接触した人を、活動の基準として認識した可能性がある」
ちいは動かない。
「何を基準にしているのかは、こちらにも分からない。熱なのか、声なのか、その他の生体情報なのか――」
「やめて」
ちいが言った。
男が止まる。
「ちい」
私は呼んだ。
「……じゃあ」
ちいの声が、ゆっくり降ってくる。
「ちいが、あったかいって、おもったのも?」
答えられない。
「ぎゅ、したかったのも?」
胸が痛い。
「ひとり、いやだったのも?」
私は何も言えない。
そして。
「おねえちゃん、すきなのも?」
その呼び方。
こんなときに。
ずるい。
泣きそうになった。
でも、泣いている場合じゃない。
「分かんない!」
私は叫んだ。
ちいが止まる。
「私にも分かんないよ!」
喉が痛い。それでも声を出す。
「最初に私に近づいたのは、そういう仕組みだったのかもしれない。私の身体が必要だっただけかもしれないし、誰でもよかったのかもしれない!」
言うたびに、自分の胸まで痛くなる。
でも、嘘はつきたくなかった。
「でも、じゃあ全部そうだったの?」
私はちいを見上げた。
「私の服抱いて寝たのも、専用って言われて喜んだのも、公園で何回も滑り台滑ったのも、私が帰ってきたら何回もぎゅってしたのも、私が風邪ひいたとき、一人で薬買いに行ったのも?」
返事はない。
「それも全部、最初から決められてたの?」
私は自分で首を振った。
「知らない。知らないよ、そんなの」
風が強い。髪が顔へかかる。でも払わなかった。
「でもね、私だって最初は、ちいのこと好きだったわけじゃない」
周囲が静かになったように感じた。
「虫だと思った。怖かった。意味分かんなかったし、正直面倒だった。大学にも行けなくなったし、川にも落ちたし、風邪もひいたし、今なんて家にも帰れない」
視界がにじむ。
ちいの顔は、もう見えない。
「それでも」
息を吸う。
「今、ちいがいなくなる方が嫌!」
初めて、ちゃんと言った。
「始まりに理由があったからって、そのあと全部が同じ理由になるわけじゃない!」
ちいは動かない。
「私だって最初に手を出した理由は、興味がわいたから。それだけ。こんなところまで来る予定なんてなかったし、こんなに好きになる予定もなかった」
うるんだ目で、少し笑う。
自分でも変な話だと思う。
「なのに、来ちゃった」
砂浜。
海。
大勢の人。
そして、空まで届きそうなちい。
「だから、ちいもそうなんじゃないの」
問いかけというより、願いだった。
「最初が何だったって、そのあとちいが何したかは、ちいでしょ」
長い沈黙。
やがて、ちいの手が動いた。
胸元へ置く。
白い服の上へ。
「……ちい」
「うん」
「ちいで、いい?」
胸の奥が、完全に崩れた。
「いいに決まってるでしょ」
声が掠れる。
「というか、今さら何になるの」
ちいの顔が、ほんの少し変わった気がした。
遠い。
それでも分かった。
たぶん、笑った。
「……ちい」
「うん」
「ちいは、ちい」
「うん」
ちいは何度も自分の名前を言う。
さっきまで、自分が何なのか分からないと言っていたのに、今は自分から名乗っている。
「それでいいよ」
私は言った。
「ずっと、それでいい」
ちいが手を下ろす。
そして、その手がゆっくりこちらへ伸びてきた。
周囲が一気に騒がしくなる。
「下がって!」
「危険です!」
「動かないで!」
違う。
私には分かる。
ちいは違う。
手が、本当にゆっくりと砂浜へ下りてくる。
巨大な指が、私の目の前で止まった。
昔は逆だった。
机の上。
私の指。
怖がりながら、それでも近づいてきたちい。
今度は、ちいの指が砂浜にあって、私が近づく。
「危ない!」
後ろで誰かが叫ぶ。
それでも私は歩いた。
足が震える。
怖い。
当然だった。
こんな巨大な指が少し動くだけで、私なんて簡単に終わる。
でも。
最初の日、ちいも怖かった。
私の手は、今の私が見ているこの指より、もっと大きなものに見えていたはずだ。
それでも来た。
私は指先の前で止まり、手を伸ばした。
触れる。
ちいは動かない。
「ちい」
顔を上げる。
「ここにいるよ」
少し時間が経った。
「あったかい?」
ちいは答えず、ただ手を置いたまま。
ちいは長く黙った。
「……わかんない」
胸が痛む。
それでも、手は離さない。
「分かんなくてもいいよ」
私は言った。
「今は」
ちいの指がほんの少し動く。
でも私は避けなかった。
「ちいが分かんないなら、私も一緒に分かんないでいる」
自分でも何を言っているんだろうと思う。
でも、今はそれが一番正しい気がした。
「そのうち分かるかもしれないし、ずっと分かんないかもしれない」
少しだけ笑う。
「まあいっか、でいいんだよ」
ちいから返事はなかった。
ただ、指がそこにある。
私はその表面へ両手を置いた。
何十秒だったのか。
もっと長かったのか。
分からない。
遠くではサイレンが鳴り、人が声を上げ、無線も飛び交っている。
でも、その間だけは。
私とちいだけだった。
「……おねえちゃん」
声が、小さく感じた。
実際には空気を揺らすほど大きいのに。
「なに?」
「ちい」
少し間があった。
「……あったかい」
私は何も言えなかった。
ただ、目を閉じた。
その瞬間。
ちいの白い服が、また光った。
今度は一瞬ではない。
身体全体をなぞるように、薄い光が走っていく。
周囲の警告音が一気に鳴った。
「離れて!」
男が叫ぶ。
私はちいの指から一歩下がった。
指は動かない。
でも光は強くなる。
「何が起きてるんですか!」
「分からない!」
「またそれ!?」
「本当に分からない!」
男は端末を見た。
「成長率が……違う」
「違う?」
「下がってる、いや、マイナスになって……」
男は無線で話し始めた。
私はちいを見る。
最初は、何を言っているのか分からなかった。
でも、すぐ気づいた。
目の前の指が、小さい。
私が近づいたわけではない。
ちいの指が縮んでいる。
「……え」
砂浜にあった巨大な指が、少しずつ小さくなっていく。
身体全体も。
遠くにあるはずの顔が、少しずつ近づいてくる。
さっきまで百メートル近くあったはずなのに、九十、八十と、明らかに小さくなっている。
正確な数字なんて分からない。
でも。
縮んでいる。
私に向かって。
「ちい!」
ちいも自分の身体を見る。
「ちいさくなる?」
「みたい!」
ちいの声が、ほんの少し明るくなった。
「いいこと?」
その聞き方に、思わず笑ってしまった。
「そこ私に聞くの?」
「やった?」
「……今は、やったでいい!」
「……やった」
ちいが笑う。
今度は、はっきり分かった。
顔が少しずつ近づいてくる。
七十メートル。
六十。
五十。
縮み方は速い。
でも身体が崩れるような感じはなく、比率はそのままで、白い服も一緒に小さくなっていく。
周囲では人が叫び、機械が鳴り続け、インターホンの男が何度も端末を確認していた。
「あり得ない……」
小さく聞こえた。
「何が?」
「こんな戻り方」
「じゃあ何が正しいんですか」
男は答えなかった。
私はもう聞かなかった。
知らない。
それでいい。
今は、ちいが戻っている。
それだけでいい。
四十メートル。
三十。
ここまで来ると、変化がさらに速く感じる。
さっきまで空を塞ぐくらい大きかった身体が、今は街路樹と比べられるくらいまで戻っている。
それでもまだ巨大だった。
でも、近づいている。
「ちい!」
「いる!」
返事が速い。
そのことが嬉しかった。
「気分悪くない?」
「ない!」
「痛い?」
「ない!」
「怖い?」
少しだけ間があった。
「ちょっと!」
「私も!」
笑った。
二十メートル。
この辺りは、つい昨日のちいだった。
まだ一日ほどしか経っていないのに、もう懐かしく感じる。
十メートル。
八。
五。
三メートル。
ちいが膝をつく。
手が離れた。
身体はまだ縮み続けている。
私は走った。
「ちい!」
顔が近い。
まだ私より大きい。
「大丈夫?」
「へいき」
ちいが手を伸ばす。
でも途中で止めた。
「ぎゅ?」
私から聞く。
ちいが少し笑った。
「まだ、おおきい」
「分かるようになったね」
そう言うと、ちいは腕を下ろして待った。
二メートル。
数日前、ベッドが狭いと言っていた大きさ。
一・八。
私とほとんど同じくらい。
一・六。
今度は、私の方が少し高い。
一・四。
一・三。
そして。
そこで、変化がゆっくりになった。
「……止まった?」
誰かが言った。
私はしゃがむ。
ちいの目が、もう遠くない。
顔が見える。
怖そうで、泣きそうで。
それでも笑っている。
「ちい」
「うん」
身体が最後にほんの少し小さくなる。
そして。
止まった。
私は立ち上がり、ちいを見る。
肩から胸のあたりまでの高さ。
以前にも見たことがある大きさだった。
百二十センチくらい。
ちょうどお出かけした日のサイズに戻っていた。
ちいは自分の身体を見る。
「ちいさい?」
「前よりね」
「やった?」
また聞く。
「それは自分で決めなよ」
ちいは考える。
少し長い。
でも、その考えている顔が近い。
ちゃんと見える。
「やった」
「そっか」
「ぎゅ、できる」
結局、それだった。
私は笑う。
「そこなんだ」
ちいが両腕を広げる。
でも途中で少し止まり、私を見る。
「いい?」
以前、川から帰った夜にも同じことを聞いた。
「うん」
私は腕を広げた。
「おいで」
ちいが来る。
走らない。
ちゃんと歩いて。
それから、抱きついた。
私も腕を回す。
もう怖くない。
潰れない。
周囲には警察も、消防も、知らない人も、カメラも、山ほどいる。
でも、今はどうでもよかった。
「ぎゅ」
「うん」
「いっぱい?」
「今日は特別」
「いっぱい」
「分かったって」
ちいは離れない。
私も、それでよかった。
しばらく、そのままでいた。
*
そのあと何がどうなったのかは、正直なところあまりよく覚えていない。
名前や住所、ちいといつ出会ったのか、どこで何が起きたのかを何人もの人に聞かれた。
四センチだったこと、机の上にいたこと、そこから大きくなり続けたこと、川に落ちたこと、最後にこの海岸まで来たこと。
答えられる範囲で何度も説明した。
分からないことも多かった。
ちいの正体は知らない。
どうして百メートル近くまで大きくなったのか。
どうして今度は小さくなったのか。
白い服の表面を走ったあの光が何だったのか。
インターホンに映っていた男がどこまで知っていたのか。
結局、何もはっきりしなかった。
周囲ではまだ何人もの人が機械を向けたり、遠巻きにちいを観察したりしていた。
誰かが近づいて触れようとすると、ちいはそのたびに私の後ろに隠れて袖を掴んだ。
「嫌がってます」
そう言えば、少なくとも無理に触ろうとする人はいなくなった。
何度目かのやり取りが終わった頃、あの男が私たちの前へやってきた。
「その個体を」
言いかける。
「ちいです」
遮った。
「ちいを」
男は一瞬だけ黙ってから言い直した。
男と、ちいのこの後について話した。
「……ちいを、連れて帰る?」
「はい」
「何が起きるか分からない。また大きくなるかもしれない」
「知ってます」
正確には、何も知らない。
明日の朝にはまた二メートルになっているかもしれない。
今度こそ百メートルを越えて戻らないかもしれない。
反対に四センチまで小さくなる可能性だって、今となっては私には否定できなかった。
それでも、私はもう一度、
「連れて帰ります」
と言った。
男は私の隣にいるちいを見た。
ちいはその視線に気づくと、ほんの少しだけ私の後ろへ隠れた。
その仕草を見た男はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうしてください」
「いいんですか」
「私に決める権利はない」
その言い方には何か引っかかるものがあったけれど、私は深く追及しなかった。
ただ、これだけは最後に聞いておきたいと思った。
「ちいって、何なんですか」
男は海の方を見た。
波は、少し前まで百メートル近いちいが立っていたことなんて知らないみたいに、変わらず寄せては引いていた。
「分からない」
「またそれですか」
「ただ、あれが本来予定されていたものだった、とは思わない」
「何が?」
男は答えなかった。
待てば何か続けたのかもしれない。
それでも私は、もう聞くのをやめた。
これ以上言葉を集めたところで、きっと全部がきれいにつながることはないし、そもそも私は数日前から何度もそうしてきた。
ちいの服を見て、成長を測り、記録し、人工生命かもしれないと考えて、分からないたびに同じところへ戻ってきた。
「……まあいっか」
思わず口から出ると、男が少し変な顔をした。
私はちいを見る。
「帰ろう」
ちいはすぐに頷いた。
「うん」
今は、それでよかった。
*
海岸から家の近くまでは、途中まで車に乗せてもらった。
昨日はもう乗ることなんて絶対にできないと思っていた普通の車の後部座席に、ちいが当たり前みたいに座って窓の外を眺めているのがおかしくて、私は何度も横顔を見てしまった。
「ちい」
「なに?」
「車、乗れたね」
「うん」
「家も入れるし、お風呂も入れる」
「うん」
ちいが少し笑ってから、「でんしゃ」と付け加える。
「それも乗れる」
「だいがく」
「……それは連れていくかどうか別問題」
「いかない?」
「今はね」
会話は少しずつ戻っていた。
それでも以前のように、目に入るもの全部について絶えず話しているわけではない。
ちいはまた窓の外を見て、私も隣に座ったまま黙って流れていく街を眺めた。
でも、その沈黙は海岸で感じたものとは少し違っていた。
声がなくても隣にいることが分かる距離に、ちいがいる。それだけで十分だった。
家から少し離れたところで車を降り、その先は歩くことになった。
「歩ける?」
と聞くと、ちいはいつものように
「うん」
と答えた。
そこでようやく裸足なのに気づいた。
「……足、大丈夫?」
「だいじょうぶ」
「でも道路だからね」
バッグの中を探すと、大きめのタオルが残っていたので、簡単に畳んで足へ巻く。
こんなもので長く歩けるわけではないけれど、家までなら何とかなるだろう。
「なんか、またこれだね」
「なに?」
「最初に外へ出たときも、靴なくて適当なの作ったでしょ」
ちいが少し考えてから言った。
「せんよう?」
「そう。専用」
「ちいの」
「うん。ちいの」
あのときと同じように雑で、あのときより少しだけ大きな即席の履き物だった。
歩き始めると、ちいの手が自然に私の方へ伸びてきたので、その手を握った。
百二十センチ。
以前にも一度、このくらいの高さのちいと並んで歩いた。
公園へ行って、電車へ乗って、ペットショップを覗いて、その帰り道に川へ落ちた、あの日だ。
私は無意識に少しだけ強く握ったらしい。
ちいも握り返して、しばらくしてからぽつりと言った。
「はしらない」
「言ってないよ」
「やくそく」
「……覚えてるんだ」
「うん」
「そっか」
それ以上は何も言わず、また二人で歩いた。
もちろん、何も元通りになったわけではなかった。
遠くからこちらを見る人がいるし、スマートフォンを向けている人もいる。
たぶん今頃、海岸で起きたことはニュースにもなっているだろうし、私の家が特定されるかもしれない。
大学がどうなるのかも分からないし、警察からまた話を聞かれるだろうし、あの男だってたぶんこれで終わりではない。
明日から、ものすごく面倒なことになる。
そんな予感がした。
確信に近かった。
でも今は、とにかく家へ帰る、それだけを考えて歩いた。
いつもの曲がり角を曲がると、見慣れた建物が見えてきた。
「おうち」
ちいが言った。
「そう」
「はいれる?」
「入れるよ」
それを聞いて、ちいは少し嬉しそうに
「やった」
と言った。
玄関の前まで来て、私は一度ドアを見上げた。
ほんの少し前には、この玄関を通るためだけにちいは身体を折り曲げ、四つん這いになって、頭をぶつけないよう慎重に外へ出た。
それが今は、私の横で普通に立っている。
ちいもドアを見ていた。
「せまい?」
聞かれて、私は笑った。
「今はちょうどいい」
鍵を開けてドアを押すと、そこには何も変わっていない玄関があった。
私の靴があって、散らかったものがあって、その端には、二回しか履けないまま小さくなった、ちいのスニーカーが残っている。
「……あ」
ちいも気づいた。
「せんよう」
「覚えてた?」
「うん」
試しに履かせてみると、今度は少し大きかった。厚手の靴下でもあればちょうどよさそうで、私はしゃがんだまま思わず笑った。
「大きくなって、もう二度と履けないと思ったのにね。戻ってきた」
ちいは靴を見下ろしながら、満足そうに言った。
「ちいの」
「そう。ちいの」
靴を脱いで玄関を上がると、ちいは部屋の中をゆっくり見回した。
ベッド。
机。
窓。
床。
昨日は全部が小さくなって、ここにはもう住めないのだと思ったものが、今はまたちいの周りにちゃんと収まっている。
「ただいま」
私が言うと、ちいは少しだけ考えたあと、同じように言った。
「ただいま」
その一言を聞いて、ようやく本当に帰ってきたのだと思った。
結局、ちいが何者なのかはまだ分からない。
誰かに作られたものなのか。
それともその考え自体が間違っているのか。
どうして百メートル近くまで大きくなったのか。
どうして私が触れたあとに戻り始めたのか。
あの光が何だったのか。
「基準」という言葉がどこまで本当だったのか。
答えのないことはいくらでも残っている。
たぶん、これから調べたところで全部が分かる日は来ないのかもしれない。
ちいは玄関で脱いだ靴を少し雑に置いた。
「ちい」
「なに?」
「ちゃんと揃えて」
「こう?」
「逆」
「こっち?」
「そう」
左右を直して靴がきれいに並ぶと、ちいは満足そうな顔をした。
「できた」
「うん」
私は笑った。
これから分からないことは、たぶんもっと増える。
明日になればまた大きくなるかもしれないし、知らない人が訪ねてくるかもしれないし、大学へ戻ったところで普通の生活なんてもうできないかもしれない。
それでも今は、ちいがここにいて、私もここにいて、また同じ家へ帰ってこられた。
それなら、ひとまず十分だった。
「……まあいっか」
ちいがこちらを見る。
「いい?」
私は玄関のドアを閉めた。
「うん」
今度は、自分でもちゃんとそう思えていた。
「それでいいよ。だって」
「「ちいはちい」」
最後の言葉だけ、ちいと重なった。
また、笑顔があふれた。
*
大学から帰って玄関を開けると、部屋の奥から足音がして、少し遅れてちいが顔を出した。
「おかえり」
「ただいま。今日はちゃんと留守番できた?」
「できた」
「インターホンは?」
「なった」
靴を脱ぎかけたところで手が止まった。
「誰?」
「いつものひと」
「ああ」
それならいい。
ここ最近は、あの日海岸にいた人たちのうち何人かが、時々様子を見に来るようになっていた。
何を調べているのか、何が分かったのか、説明を聞いても私にはいまいち分からないし、向こうも分からないことの方が多いらしい。
「開けた?」
「あけない」
「偉い」
「やくそく」
「そうだったね」
私が玄関を上がると、ちいはすぐ後ろをついてきた。
百二十センチに戻ってからしばらく経ったけれど、今のところ大きさに目立った変化はない。
毎朝測ることもしなくなって、たまに壁の印と見比べて、変わってないなと思うくらいになった。
最初の頃なら一ミリでも違えば記録していたのに、人間というのは慣れるものらしい。
「大学、どうだった?」
ちいが聞いた。
「普通」
「ふつう?」
「授業受けて、友達にいろいろ聞かれて、先生にも呼ばれて、帰ってきた」
「いっぱい」
「全然普通じゃないね」
自分で言って笑った。
大学へ戻った最初の数日は、それはもう大変だった。
事情をどこまで話していいのかも分からないし、ニュースを見た人から遠回しに探られるし、友達には「お前あれ何なんだよ」と真正面から聞かれたし、私自身その答えを持っていなかった。
結局。
ちい。
それ以上の説明は、今でもできない。
「ちい」
「なに?」
「明日、約束覚えてる?」
顔がぱっと明るくなった。
「おでかけ」
「そう」
「こうえん」
「うん」
「ぺっと」
「ペットショップね」
「いく」
「行くよ」
ちいは嬉しそうに笑った。
海岸から帰ってきてから、しばらくは外出を控えていた。
私が怖かったというのもあるし、周囲が落ち着いていなかったというのもあるし、ちい自身も以前より慎重になっていた。
それでも、いつまでも家の中だけというわけにはいかないし、何より一度約束した。
落ち着いたら、また外へ行こう。
今度は。
普通に。
「じゃあ今日は早く寝ないとね」
「いま?」
「まだ」
「おふろ?」
「その前にご飯」
「そのあと?」
「お風呂」
「そのあと?」
「寝る」
「そのあと?」
「明日」
「おでかけ」
「はい正解」
ちいが満足そうに頷く。
この感じも。
戻った。
完全に同じではないのかもしれない。
でも、少なくともこうして私が一つ言えば、その先をどんどん聞いてくるちいは、海岸で遠くに立って黙っていたあの子より、ずっと好きだ。
夕食を済ませてから、私は風呂を沸かした。
ちいは浴室の前で待っている。
「今日は先入る?」
「いっしょ」
「入れるかな」
「はいれる」
「前もそれ言って無理だったんだよね」
「いま、ちいさい」
「それ自分で言うようになったね」
百二十センチ。
最初にこの大きさになった頃は、私にとって十分大きかった。それが今は「小さい」という言葉が成立してしまう。
何と比べているのかは。
考えないことにした。
「まあ入ってみる?」
「うん」
浴槽には二人で何とか入れた。
以前のようにちいを抱えて入れる必要はないし、かといって二人の大人が入るほど窮屈でもない。
ちいは自分で身体を沈めて、少ししてから水面を見た。
「……あったかい」
「そっか」
それだけ返した。
ちいは手で湯をすくい、指の間から落ちるのを眺めている。
「まえも」
「うん」
「ちい、おおきくなった」
「お風呂で?」
「うん」
「ああ」
最初に一緒に入った夜。
風呂から上がって。
また。
大きくなった。
「こわかった?」
ちいが聞いた。
少し意外だった。
「私が?」
「うん」
「……まあ、ちょっと」
「いまは?」
私は浴槽の縁へ腕を乗せた。
「今も、ちょっとは」
「おおきくなる?」
「それは分かんない」
「ちいも」
「うん」
「わかんない」
「一緒だね」
それで会話は終わった。
別に。
答えを出さなくてもいい。
湯から上がって、髪を乾かして、私は自分の寝る準備をした。
私が布団をめくると、当然のようにベッドに入ってくる。
「前より広い?」
「うん」
「誰のせいだと思ってるの」
「ちい?」
「正解」
横になる。
百二十センチなら、二人で眠れる。
狭くは、ない。
「明日、走らない」
ちいが言った。
「うん」
「しらないの、いかない」
「うん」
「きく」
「覚えてるね」
川のあと。
約束したこと。
「でも、そんなに緊張しなくていいよ」
「いい?」
「明日は遊びに行くんだから」
「こうえん」
「そう」
「すべりだい」
「ある」
「いっぱい?」
「混んでなかったらね」
少しして。
「ぎゅ?」
「寝る前の?」
「うん」
「どうぞ」
ちいが寄ってくる。
今の大きさなら。
ちゃんと。
抱きつける。
「いっぱいは?」
「明日起きられなくなるから一回」
「ちょっと」
「何が」
「すくない」
「寝なさい」
それでも、しばらく離れなかった。
*
翌朝。
私が目を覚ましたとき、ちいはすでに準備完了みたいな顔で座っていた。
「……何時から起きてたの」
「わかんない」
「時計見て」
ちいがスマートフォンを見る。
「なな」
「早い」
「いく?」
「まだ」
「いつ?」
「朝ご飯食べて、準備してから」
「いま、たべる」
「はいはい」
以前なら、外へ出すこと自体が怖かった。
今も怖くないわけではない。
でも、怖いから全部やめるのも違うと思うようになった。
靴は、ちゃんと履けるものがある。
ちいの足には少し大きい、二十センチのスニーカー。
でも、せんよう、と言って、ちいは喜んで履いた。
玄関を出る。
「手」
ちいが言って、こちらへ手を差し出した。
「うん」
私はその手を取る。
今度は、普通に家を出られた。
空も、道路も、走っていく車も自転車も、ちいは以前ほど何でも立ち止まって見ることはなくなった。
それでも気になるものがあれば少し足を緩めるし、分からないものを見つければ私の方を見る。
そういうところを見ると、知らないものばかりだった頃から、ちゃんと時間が経ったのだと思う。
公園へ着いたのは、まだ人の少ない時間だった。
入ってすぐ、ちいの視線が一か所へ向く。
「あ」
「あるね」
「すべりだい」
「走らない」
「うん」
返事は素直だった。
ただし、歩く速さは明らかに上がった。
「それ走ってない?」
「はしってない」
「そういうのは覚えなくていいんだけど」
ちいは気にせず滑り台へ向かい、階段を上がって滑る。
一回。
すぐに戻って、二回。
それから三回。
「……何回やるの」
「いっぱい」
「やっぱり」
そこは全然変わっていなかった。
私は近くのベンチへ座り、ちいがまた階段を上っていくのを眺めた。
滑って、降りて、もう一度行こうとしてから、ふとこちらを見る。
そのまま少し止まった。
前なら、たぶんその場から走ってきた。
そして勢いのまま私へ抱きついた。
今のちいは、一度自分の足元を見てから、ちゃんと歩いてこちらまで来た。
「ぎゅ?」
「公園で?」
「うん」
「……まあ、一回だけ」
ちいが抱きつく。
私も腕を回した。
周りにいる人の視線が、少しだけ気になる。
以前なら、もっと気にしていたと思う。
ちいが誰かに見つからないか、変に思われないか、そればかり考えていた。
今も全く気にならないわけではない。
でも。
「次、ペットショップ行くよ」
「ぺっと」
「その前に離れて」
「もう?」
「もう」
*
ペットショップも、以前一度来たことのある店だった。
入口を入ると、ちいは迷わず犬のいる方へ向かった。
ガラスの向こうにいる小さな犬を見つけると、その前で足を止める。
「かわいい」
「覚えてるね、その言葉」
「かわいい」
犬がこちらを見る。
ちいも犬を見る。
その光景を眺めているうちに、前にここへ来た日のことを思い出した。
あの日のちいも、百二十センチくらいだった。
今も、だいたい同じ。
数字だけなら同じなのに、私には全然違って見えた。
あの日のちいは、まだ大きくなる途中だった。
この先どこまで成長するのかも分からず、私も一日ごとに変わる身体へ追いつくだけで精一杯だった。
今のちいは、一度百メートル近くまで大きくなった。
家にも入れなくなって、私を抱きしめることもできなくなって、自分が何なのかさえ分からなくなった。
それでも小さくなって、またここへ来ている。
「なに?」
ちいに聞かれて、私は我に返った。
「何でもない」
「みてる」
「ちいをね」
「ちい?」
「うん。ちいを見てた」
そう答えると、ちいは少し不思議そうにしたけれど、それ以上は聞かなかった。
犬の次は猫、そのあと小動物や魚を順番に見て回る。以前より質問は少なくなっていたけれど、興味を失ったわけではない。
知らないものが減ったのだと思う。
前に見たものを覚えていて、自分で名前を言えるものも増えた。その代わり、初めて見るものがあれば今でも足を止める。
「これ」
ちいが指した。
小動物用のヒーターだった。
「ああ、それ」
「まえ、みた」
「そうだったね」
以前ここへ来たとき、私はこれを見て、もっと早く知っていればちいに使えたかもしれないと思った。
あの頃のちいは今よりずっと小さくて、温かい場所を探してばかりいた。
でも、そのときにはもう身体が大きくなりすぎていて、結局使うことはなかった。
「ちい、つかう?」
「今は絶対無理」
「なんで?」
「サイズ見て」
ちいは商品を見る。
それから、自分の身体を見る。
「ちい、おおきい」
「そうだね」
「やった」
「……それ、まだ言うんだ」
「いいこと」
思わず笑った。
大きいのが嬉しい。
ちいはずっとそう言っていた。
百メートル近くまで大きくなったときには、それすら一度分からなくなったのに、今はまた同じように、いいこと、と言う。
たぶん。
それでいいのだと思った。
店を出たあと、私は少し迷ってから隣にある洋服店へ入った。
「ここ?」
「服のお店」
「ふく」
「そう」
ちいは自分が着ている白い服を見下ろす。
「ある」
「それ以外の服ね」
「いる?」
「……そこなんだよね」
前から少し考えていた。
ちいが最初から着ている白い服は、今でも何なのか分からない。
脱ぐことができず、身体と一緒に伸び縮みして、汚れにくく、水もほとんど吸わない。
大きくなっても。
小さくなっても。
ずっと一緒だった。
服として考えれば、むしろ便利すぎるくらいだ。
だから、実用だけ考えるなら別の服なんて必要ない。
ただ、街を歩くたびに毎回同じ真っ白な格好というのは少し目立つ。
それ以上に、ちいが自分で好きな服を選んでもいいんじゃないかと思った。
「上に着るものくらいあった方がいいかな」
「うえ?」
「パーカーとか」
子ども服の売り場を見る。
百二十。
百三十。
今のちいなら、普通に選べるサイズが並んでいた。
「これとかどう?」
一枚のパーカーを手に取る。
ちいはすぐにそれを見る。
「せんよう?」
「買ったらね」
「ちいの」
「気が早いなあ」
別のものも見てみる。
上着。
帽子。
靴下。
スカートも手に取ったけれど、あの白い服の上から重ねたら変だろうかと思って戻した。
パンツなら履けるのかとも考えたけれど、そもそも白い服が脱げない以上、試着はどうするんだろうという問題もある。
そこで、もっと根本的なことを思い出した。
今のちいは百二十センチくらいで落ち着いている。
でも、それが明日も同じとは限らない。
「……大きめ買った方がいいのかな」
「おおきい?」
「百四十くらいとか」
「ちい、おおきくなる?」
「分かんない」
それしか答えようがなかった。
このままずっと百二十センチかもしれない。
明日の朝にはまた伸び始めるかもしれない。
反対に、もう少し小さくなる可能性だって、今の私には否定できない。
百三十を買って、すぐ着られなくなったらもったいない。だから百四十にする。
でも、その理屈なら百五十の方がいい。
もっと大きくなったら百六十。
そこまで考えて、百メートル近くまで大きくなったちいを思い出した。
「……」
私はパーカーを持ったまま止まった。
「なに?」
「いや」
考え始めたら、きりがない。
今の大きさで止まった保証はないし、誰かが「もう成長しない」と言ってくれたわけでもない。
調べても分からないし、あの人たちだって分かっていない。
そして、私にも分からない。
「ちい、どれがいい?」
結局、本人に聞いた。
ちいはしばらく売り場を見てから、一枚のパーカーを指した。
「これ」
「それ?」
「うん」
「なんで?」
「すき」
理由は、それだけだった。
私はタグを見る。
百三十。
「サイズは?」
「わかんない」
「明日には着られなくなってるかもしれないよ」
「わかんない」
「また大きくなるかもしれないし」
「わかんない」
「逆に小さくなるかもしれない」
「わかんない」
何を聞いても同じ答えだった。
でも。
たぶん、それが一番正しい。
私は手の中のパーカーを見る。
それから、ちいを見る。
「これ、好きなんだよね」
「うん」
「着たい?」
「うん」
白い服の上から着たら、少し変かもしれない。
明日には着られないかもしれない。
そもそも、この先また何が起きるのかも分からない。
でも。
ちいはこれが好きだと言った。
私はもう一度タグを見て、それから考えるのをやめた。
「……まあいっか」
ちいが笑う。
「いい?」
「いいよ」
私はパーカーを持って、レジの方へ歩き出した。
「おねえちゃん、すき」
「あざといなあ」
笑みがこぼれる。
今度は、その先のことまで無理に考えようとはしなかった。
「ちいが好きなら、それでいいよ」
ちいはちい
感謝