茜色に染まり始めた西の空から、真夏の陽射しが容赦なく降り注いでいた。
八月最後の月曜日。
外気温は人間の体温をとうに超え、夕方が近づいても、いっこうに下がる気配はない。フル稼働しているはずのエアコンも、店の奥にある窓際の席まで十分な冷気を届ける余裕はないらしい。
そんな午後のファミレスで、暁古城はテーブルにぐったりと突っ伏していた。
「熱い……焼ける。焦げる。灰になる……」
死にかけた声で呻きながら、古城は頬をテーブルへ押しつけたまま、正面の少女へ問いかける。
「今、何時だ?」
「もうすぐ四時。あと三分二十二秒」
「……もうそんな時間なのかよ。明日の追試って朝九時からだっけか」
「今夜一睡もしなけりゃ、まだ十七時間と三分あるぜ。間に合うか?」
「無理だろ」
矢瀬基樹の気楽な言葉に続いて、窓側の端で教科書を読んでいた少年が、顔も上げずに断言した。
「即答すんなよ、律!」
久世律。
古城や矢瀬と同じ、彩海学園高等部一年生。
黒髪に、どこか冷めた印象を与える目元。体格は古城と大きく変わらず、制服の着方にもこれといって目立ったところはない。こうして教科書へ目を落としているぶんには、どこにでもいる男子高校生にしか見えなかった。
「なあ……こないだから薄々気になってたんだが」
「ん?」
「なんで俺、こんな大量に追試受けなきゃなんねーんだろうな?」
古城がテーブルに積み上げられた教材を恨めしそうに眺める。
英語と数学二科目ずつを含む、合計九科目。さらに体育実技のハーフマラソンまでついている。
「ってか、この追試の範囲広すぎだろ! まだ授業でやってねえところまで入ってるじゃねえか! おまけに週七日補習ってなんだよ。うちの教師ども、俺になんか恨みでもあんのか!?」
「いや……そりゃあるわな。恨み」
「あんだけ毎日毎日、平然と授業サボられたらねェ。舐められてるって思うわよね、フツー。おまけに夏休み前のテストまで無断欠席だしィ?」
「自業自得。それに恨みっていうより、帳尻合わせじゃないか」
「おまえら、味方する気ねえだろ!?」
律は教科書から目を離さないまま言った。
「人間ってのは、理由がわからないものを放っておけないからな。授業に来ない。試験にも来ない。でも退学させるほどじゃない。だったら、理解できる形まで矯正する」
「俺は不良品かよ」
「学校から見れば、規格外と不良品の違いなんて大してないだろ」
「さらっと嫌なこと言うわね、あんた」
浅葱がストローを咥えたまま笑う。
「だから、いろいろ事情があったんだよ。だいたい今の俺の体質に朝イチのテストはつらいって、あれほど言ってんのに、あの担任は……」
「体質って何よ? 古城って花粉症かなんかだっけ?」
「ああ、いや。つまり夜型っていうか……朝起きるの苦手っつうか」
「それって体質の問題? 吸血鬼でもあるまいし」
「だよな……はは」
古城が引き攣った笑みを浮かべる。
その横で、律は何も言わずにグラスを持ち上げた。
目が合った。
「なんだよ」
「別に」
「今、笑っただろ」
「笑ってない。朝に弱い体質なんて珍しくもないだろ。日光を浴びたら灰になるってわけでもないんだし」
「……おまえ、わざと言ってるだろ」
「何が?」
「くそ……」
古城が呻く。
「あたしは那月ちゃん好きだけどね。いいセンセーじゃん。出席日数足りてないぶん、補習でチャラにしてくれたんでしょ?」
「まァな」
「それに、あたしだって古城があんまり哀れだから、こうして勉強教えてあげてるわけだし」
「他人の金でそんだけ好き勝手に飲み食いしといて、恩着せがましいこと言うな」
浅葱の前には、すでに何枚もの空いた皿が積み上がっていた。ほっそりした身体のどこへ消えているのか、不思議になるほどの量である。
「言っとくけど、浅葱のメシ代になったのは俺が貸した金だからなー。ちゃんと返せよ、古城」
「わかってるよ、畜生……おまえら、それでも温かい血の通った人間か」
「いやいや、借金踏み倒そうとしてる奴のほうが、どう考えても悪者だろ」
そこで律が教科書から目を上げた。
「今の発言、魔族特区だと面倒になるからやめたほうがいいぞ」
「おまえまでそれ言うのかよ」
「忠告してやってるんだ。『温かい血の通った人間』を善人の条件にしたら、この島じゃ半分くらい敵に回すぞ」
「半分もいねえよ!」
古城が反射的に突っ込む。その横で、浅葱がストローから口を離し、妙に納得したように頷いた。
「でも、律に言われると説得力あるわね」
「なんで?」
何気なく問い返した律に、浅葱は少し考えるように目を細めた。
「だってあんた、たまに人間のこと他人事みたいに喋るじゃない」
「ほら、さっきも『人間ってのは』とか言ってたし。普通、自分も人間ならそんな言い方する?」
一瞬だけ、古城と律の動きが止まった。
「言葉の綾だろ」
「ふうん」
「なんだよ」
「いや。ずいぶん便利な綾だなと思って」
「……浅葱、おまえ今日やけに細かいな」
「気になっただけよ。なんか律って、たまにこっち側じゃないみたいな言い方するから」
「こっち側って?」
「人間側」
「大丈夫だ。今のところ人間やめた覚えはない」
「今のところ?」
「そこ拾うのかよ」
浅葱がくすりと笑う。
「冗談よ」
律も肩を竦めてグラスへ口をつけたが、その隣で古城だけは笑っていなかった。
「……おまえ、今の返し普通に怪しいぞ」
「おまえが言うな」
二人は密かに胸を撫で下ろした。
浅葱は暁古城が第四真祖であることを知らない。
久世律の身体が、すでに普通の人間とは少し違うことも。
それは、この四人の中で古城と律だけが共有している秘密だった。もっとも、古城自身も律についてすべてを知っているわけではない。奇妙な術を使い、人間離れした身体能力を持ち、ときおり瞳が血のような紅へ変わる——把握しているのは、せいぜいその程度でしかない。
律がその力をどこで得たのか。なぜ南宮那月が彼のことを妙に気にかけているのか。尋ねても、律は答えようとしない。
だから古城も、無理に聞こうとはしなかった。
人には知られたくない事情がある。その点では、自分も似たようなものだからだ。
「あー……もうこんな時間? じゃ、あたし行くね。バイトだわ」
「バイトって、あれか? 人工島管理公社の……」
「そそ。保安部のコンピュータの保守管理。割がいいのさ」
携帯電話を確認した浅葱が席を立ち、空中でキーボードを叩くような仕草をしてみせる。
「じゃね」
軽く手を振ると、そのまま店を出ていった。
浅葱の背中を見送りながら、矢瀬が感心したように頬杖をつく。
「いつも思うんだが、あの見た目と性格で天才プログラマーってのは反則だよなあ」
「俺は試験勉強さえ教えてもらえるならなんでもいい」
古城は問題集へ視線を戻す。
「そういや、浅葱が他人に勉強教えるなんて意外だったな。あいつ、そういうの嫌いだから」
「嫌いって? なんで?」
「頭がいいとか、ガリ勉とか思われんのが嫌なんじゃね」
矢瀬が答える。
「でも古城には文句言いながら教えてんだよな。今回は宿題まで見せてやってたし」
「きっちり見返り要求されてるぞ」
「ほほう。そいつは不思議だなあ。なんで古城だけ特別なんだろうなあ?」
「だから特別じゃねえって」
本気で理解していないらしい。矢瀬が額を押さえ、律も教科書から顔を上げて、しばらく古城を眺めた。
「古城」
「あ?」
「浅葱って、他の男にも飯奢らせて勉強教えてんの?」
「知らねえけど。やってないんじゃね?」
「宿題見せるのは?」
「たぶん俺くらいだな」
「二人で出かけたりは?」
「そりゃあるけど」
「それで自分が特別扱いされてる可能性は?」
「だから、なんでそうなるんだよ」
律は黙って教科書へ視線を戻した。
「矢瀬」
「なんだ?」
「無理だ。諦めよう」
「だろ?」
「おい。勝手に何を諦めた」
「おまえの将来」
「話でかくなってんぞ!」
矢瀬が堪えきれず声を上げて笑う。
その直後、テーブルに置かれていた律のスマートフォンが短く震えた。画面に表示された一件のメッセージへ目を落とし、送り主を確認した瞬間、律の眉がほんのわずかに動く。
古城は、移行返しとばかりにそれを見逃さなかった。
「ヴェルさんか?」
「……なんでわかる」
「その反応するの、だいたいヴェルさんだから」
「どんな反応だよ」
「面倒そうな顔するくせに、ちゃんとメッセージ開く」
「誰から来ても開くわ」
「いや、おまえ興味ない相手の通知、平気で三時間くらい放置するだろ」
古城に言われ、律は一度だけ黙った。
矢瀬がにやりとする。
「しかもヴェルさんには返信早いよな」
「……おまえら、普段どこ見てんだよ」
「友人観察」
「気持ち悪い趣味やめろ」
律は短く返信を打つと、スマートフォンをポケットへしまった。そのまま鞄を手に取る。
「俺もそろそろ行く」
「おい、勉強は?」
「俺は追試二科目だけだからな」
「裏切り者!」
「三時間いて問題集が二ページしか進んでない奴と一緒にするな」
「数えるなよ!」
「暇だったから」
「だったら教えろよ!」
「浅葱が教えてあれなら、俺がやっても無理だろ」
「見捨てる判断が早すぎないか!?」
古城の抗議を聞き流し、律は席を離れた。
「じゃあな」
「おう。……なあ律」
「ん?」
「明日、ちゃんと来るんだろうな?」
「俺はな」
「その言い方やめろ!」
律は小さく笑うと、そのまま店の出口へ向かった。
自動扉が開いた途端、冷房の効いた店内へ外から猛烈な熱気が流れ込んでくる。
「暑……」
思わず顔をしかめる。
夏の太陽は昔から好きではなかったが、数年前を境に、苦手の質が変わった。陽光を浴びたところで焼けるわけでも、歩けなくなるわけでもない。ただ身体が重くなり、どうしようもなく億劫になる。
「……アイツの言うとおりだな。夜に呼べよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、律は歩き出した。しかし数秒も経たないうちに、その足がふと止まる。
「…………?」
視線を感じた。誰かに見られている——確信と呼ぶには薄すぎる、ごく微かな感覚。律は不自然にならない程度に周囲へ目を向けた。
交差点。
歩道橋。
バス停。
夕方の街には人影が絶えないが、こちらを注視している者は見当たらない。わずかに目を細め、もう一度だけ気配を探る。それでも、何も引っかからなかった。
「……まあ、いいか」
気のせいと切り捨て、律は再び歩き出す。その姿はほどなく、夏の人混みへと紛れていった。
「そろそろ俺も帰るわ」
「あ?」
律が去ってからしばらくして、今度は矢瀬が席を立った。
「宿題も写し終わったし、浅葱がいなきゃ、こんなとこで勉強してても意味ねえだろ。俺の追試は一教科だけだし、今夜一晩あればどうにかなる」
「待て」
「じゃあな」
「待てって!」
矢瀬は聞かなかった。
一人ファミレスに取り残された古城は、しばらく友人の背中を見送ったあと、力尽きたようにテーブルへ突っ伏した。
「やる気なくすぜ……」
そこで、腹が減っていることにも気づいた。だが財布には、料理を追加で頼めるほどの余裕はない。
吸血鬼といえば、ワインだのトマトジュースだのを優雅に飲んでいればいいような印象があるが、実際には普通に腹も減る。
世界最強の吸血鬼。
そんな大層な肩書きを持っていても、目の前の問題集一冊を終わらせることすらできないのだから、世の中というものは理不尽だった。
「俺も帰るか……凪沙のやつが、メシの支度忘れてないといいんだけど」
教科書と問題集を鞄へ放り込み、レジで精算を済ませる。店を出るころには、財布の中にわずかな小銭しか残っていなかった。
妹に金を借りるための言い訳を真剣に考えながら、古城は出口へ向かう。そして、自動扉を抜けたところで足を止めた。
ファミレスの正面、交差点の向こう側。茜色の逆光を背負って、一人の少女が立っていた。黒いギターケースを担いだ制服姿の女子生徒が、行き交う人波の中で身じろぎ一つしない。
まるで、暁古城がこの扉から出てくる瞬間を待ち構えていたかのように。
少女は真っ直ぐに、世界最強の吸血鬼を見つめていた。