絃神島は、太平洋のただ中、東京から南へおよそ三百三十キロ離れた海上に浮かぶ人工島だった。
ギガフロートと呼ばれる超大型浮体式構造物をいくつも連結して造られた、総面積約百八十平方キロメートル、総人口約五十六万人の人工都市である。行政区分上は東京都絃神市と呼ばれているものの、実際には独自の行政体系を持つ特別行政区として運営されていた。
暖流の影響を強く受けるため気候は一年を通して温暖で、真冬でさえ平均気温は二十度を超える。いわゆる常夏の島だが、この街の主要産業は観光ではない。島への出入りには厳しい審査が課されており、気軽な観光客が訪れるような場所でもなかった。
絃神市は、巨大な学究都市である。
製薬、精密機械、ハイテク素材産業をはじめ、日本を代表する大企業や有名大学の研究機関が、限られた島内にひしめき合っている。それほど多くの研究施設がここへ集められているのは、日本本土から遠く離れたこの人工島でのみ、公に認められている研究分野が存在するからだった。
──魔族特区。
それが、絃神市に与えられたもう一つの名前である。
獣人、精霊、半妖半魔、人工生命体、そして吸血鬼。この島では、人ならざる者たちの存在が法的に認められ、その生活と権利が保護されている。同時に、彼らの肉体組織や特殊能力を解析し、その成果を科学や産業の発展へ利用することも、この都市に課せられた役割の一つだった。
人と魔族が共に生きるためのモデル都市。
そう呼べば聞こえはいい。
だが見方を変えれば、絃神島とは、人ならざる者たちを集めて観察するための壮大な実験場であり、海の上に築かれた巨大な檻でもあった。
「──にしても、この暑さだけは勘弁してくんねえかな、くそっ」
白いパーカーのフードを目深に被り、暁古城は恨めしげに空を睨んだ。
先ほどまでいたファミレスから自宅までは、モノレールを使えば十五分ほどで着く。普段なら迷うような距離ではないのだが、現在の古城にはそのわずかな運賃さえ惜しかった。浅葱の食事代として、ただでさえ心許なかった財布の中身を派手に削られたばかりなのである。
その結果、世界最強の吸血鬼は、炎天下の絃神島を徒歩で帰宅する羽目になっていた。
「……暑ぃ」
じりじりと肌を焼く夕陽に、湿気をたっぷり含んだ海風。吸血鬼の体質がどうこう以前に、普通の人間でも十分につらい暑さだった。
海沿いのショッピングモールへ差しかかったところで、古城は何気ない素振りを装って背後を確認した。ほんの一瞬だけ視線を送り、それから前へ戻す。
「…………」
眉間に皺が寄った。
「やっぱ、尾けられてる……んだよな?」
十五メートルほど後方に、一人の少女がいる。
先ほどファミレスの向かい側に立っていた、黒いギターケースを背負った少女だった。着ているのは彩海学園の制服だが、浅葱とは違って襟元にあるのはネクタイではなくリボン。どうやら中等部の生徒らしい。
見覚えはなかった。
整った顔立ちをしているものの、雰囲気にはどこか人馴れしていない野良猫めいた硬さがある。そして何より問題なのは、本人は隠れているつもりなのだろうが、尾行があまり上手ではないことだった。
古城が立ち止まれば、少女も止まる。振り返れば慌てて街路樹の陰へ隠れ、こちらが歩き出せば、また一定の距離を空けてついてくる。
「……凪沙の知り合いか?」
古城には一歳下の妹がいる。彩海学園中等部に通う暁凪沙だ。年齢だけを考えるなら、あの少女が凪沙の知り合いという可能性はないわけではない。
ただ、それなら普通に声をかけてくれば済む話である。
「…………」
そしてもう一つ、心当たりがないわけでもなかった。
できれば考えたくない類の理由だが。
「様子……見てみるかな」
古城は進路を変え、ショッピングモールの中へ入った。入口近くにあるゲームセンターへ紛れ込み、クレーンゲームの筐体を盾にして外の様子を窺う。
少女が本当に自分を尾けているのなら、何かしら反応するはずだった。
案の定、彼女は入口の前でぴたりと足を止めた。
「…………」
ゲームセンターの内部をひどく警戒した目で見つめている。古城の姿は見失いたくない。しかし、自分から店内へ踏み込めば本人と鉢合わせるかもしれない──そんな葛藤が、隠しきれないほど顔に出ていた。
「……なんだあいつ」
筐体越しにその様子を眺めているうちに、古城はだんだん自分のほうが悪いことをしているような気分になってきた。
「はあ……」
仕方なく外へ出る。
ちょうど少女のほうも覚悟を決めたところだったらしい。入口をくぐろうとした彼女と、出てきた古城が真正面から鉢合わせた。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
先に反応したのは少女だった。
「だ……第四真祖!」
ひどく上擦った声を上げると同時に、少女は反射的に重心を落とした。
古城の表情が盛大に引き攣る。
やっぱり、そっちか。
第四真祖。
その呼び名で自分へ近づいてくる人間に、ろくな奴がいたためしがない。
「オゥ、ミディスピアーチェ! アウグーリ!」
「は?」
古城は突然両腕を広げ、いかにも外国人らしい大げさな身振りを作った。
「ワタシ、通りすがりのイタリア人です。日本語、よくわかりません。アリヴェデルチ! グラッチェ!」
「え……?」
少女が完全に固まった隙に、古城はその横を素早くすり抜ける。
しかし当然、そんな小細工が通用するはずもなかった。
「な……!? 待ってください、暁古城!」
名前まで知られている。
「ちっ」
古城は諦めて振り返った。
「誰だ、おまえ?」
今度はさすがに警戒を隠さない。
少女は一度息を整えると、姿勢を正した。
「わたしは獅子王機関の剣巫です。獅子王機関三聖の命により、第四真祖であるあなたを監視するため、派遣されて来ました」
「…………は?」
知らない単語が三つほど一度に出てきた。
獅子王機関。剣巫。三聖。
古城が理解できたのは、最後の一部分だけだった。
「監視?」
「はい」
「俺を?」
「はい」
「いらねえよ」
「え?」
「あー……悪ィ。やっぱ人違いだわ。ほか当たってくれ」
「え? 人違い?」
少女は一瞬、本気で困惑した顔になった。
古城はその隙を見逃さない。
「じゃあな」
「あ……」
さっさと背を向けて歩き出す。
「ま、待ってください! 本当は人違いなんかじゃないですよね!?」
「監視とか間に合ってるから」
「そういう問題ではありません!」
背後から飛んでくる抗議を無視して、古城はそのまま距離を取った。しばらく歩いても追ってくる気配はない。
「……なんなんだ、あいつ」
どうやら面倒事は避けられたらしい。
少なくとも今のところは。
そう思いながらショッピングモールの出口まで来たところで、古城は念のためもう一度振り返った。
「……あ?」
先ほどの少女は、まだ同じ場所にいた。
ただし、今度は一人ではない。
派手な黒スーツを着た若い男が二人、少女の進路を塞ぐように立っている。
「ねえねえ、そこの彼女。どうしたの?」
「暇なら俺たちと遊ぼうぜ」
ナンパ。
どうやら、そういうことらしい。
「……いい歳こいて中学生ナンパしてんじゃねえよ……」
古城は露骨に顔をしかめた。
それだけなら、放っておいてもよかったかもしれない。問題は、男たちの腕にはまっている金属製の腕輪だった。
魔族登録証。
「魔族かよ……」
あの少女もただ者ではないのだろうが、揉め事が大きくなればどう転ぶかわからない。まして彼女は古城の正体を知っている。人前でまた「第四真祖」などと叫ばれてはたまらなかった。
「仕方ねえな……」
古城が踵を返そうとした、その瞬間だった。
「──っ!」
少女の制服のスカートが、不自然にふわりと持ち上がった。
男の一人が、悪ふざけで手を出したらしい。
「若雷っ──!」
少女の鋭い声が響く。
次の瞬間、男の身体が宙を舞った。
「え」
古城の目が点になる。
小柄な少女が繰り出したのは、ただの掌底にしか見えなかった。ところが男の身体は数メートルも吹き飛び、そのまま壁へ叩きつけられて動かなくなる。
「このガキ……攻魔師か!?」
残った男の表情が変わった。
怒りと恐怖。その混じり合った感情と同時に、男の瞳が真紅へ染まり、口元から鋭い牙が覗く。
「D種──!」
少女の表情が険しくなる。
忘却の戦王を祖とする吸血鬼。欧州系の中では、もっとも一般的な血族だ。
「おいおい……」
古城の顔から血の気が引いた。
少女が相当の使い手なのはわかる。だが、相手は吸血鬼だ。そして吸血鬼には──
「──灼蹄! その女をやっちまえ!」
男の左脚から、どす黒い炎が噴き上がった。
炎は瞬く間に形を得て、四肢と頭部を持つ巨大な馬へ変わる。歪に燃え上がる妖馬が甲高く嘶き、踏みつけられたアスファルトが音を立てて焦げた。
「こんな街中で眷獣を使うなんて──!」
少女が叫ぶ。
男の魔族登録証がけたたましい警告音を鳴らし、ほぼ同時にショッピングモール全体へ避難警報が響き渡った。
吸血鬼の眷獣は、単なる使い魔ではない。
意思さえ宿すほど濃密な魔力の塊であり、吸血鬼という種族が他の魔族から王として恐れられる最大の理由でもある。さほど強力ではない若い吸血鬼の眷獣でさえ、その破壊力は軍用兵器に匹敵する。
男が喚び出した炎の妖馬も例外ではなかった。こんな場所で暴れさせれば、周囲の店舗などひとたまりもない。
そして炎の妖馬が、少女めがけて地面を蹴った。
「雪霞狼──!」
少女は背負っていた黒いケースへ手を伸ばす。
そこから抜き放たれたのは、もちろんギターではなかった。
現れたのは、一振りの銀槍。
展開した柄が一瞬で伸び、先端から流麗な主刃が突き出す。その左右には副刃が開き、古式の槍でありながら、どこか近代兵器を思わせる異様な姿を完成させた。
少女はその武器を軽々と振るうと、襲いかかってくる炎の妖馬へ真っ向から突き立てた。
炎の妖馬が放った魔力の奔流は、戦場から離れた場所にまで届いていた。数区画先の建物の屋上で、久世律が足を止める。
「……眷獣?」
片手には紙袋。中身は紅茶と、頼まれていた日用品である。本来ならとっくに帰宅しているはずだったが、街中に突然現れた巨大な魔力反応を、律が見逃すはずもなかった。
「面倒な……」
小さく呟きながら屋上の縁まで歩き、騒ぎの起きている方角へ視線を向ける。
かなりの距離があった。肉眼では、そこに人がいることさえ判別しづらい。
それでも律は目を細めた。
黒かった瞳が、静かに紅へ染まっていく。その虹彩に、三つの黒い勾玉が浮かび上がった。
──写輪眼。
途端に、遠く離れた戦場の輪郭が鮮明になった。
炎の妖馬。吸血鬼。そして、銀色の槍を構えた少女。
「……あいつか」
ファミレスの向かい側で古城を見張っていた少女だった。
律の視線が、彼女の手にある銀槍へ移る。
「…………」
眼は、少女の身体を巡る霊力の流れまで拾い上げていた。
踏み込みに合わせて足から腰へ力が通り、そこから肩、腕、槍へと流れていく。動作に無駄がなく、全身が一つの運動としてつながっている。
だが、律が本当に気にしたのはそこではない。
銀槍の穂先から、通常の魔術とは性質の違う、特殊な振動めいた力が放たれている。
「結界を……いや」
違う。防御を削っているのではなく、対象を成立させている超自然的な力そのものへ、直接干渉している。
銀槍が炎の妖馬へ突き刺さった。
直後、眷獣の輪郭が大きく揺らぎ、その姿が跡形もなく掻き消える。
「──消した?」
吹き飛ばしたのではない。
傷つけたのでもない。
存在を維持していた魔力そのものが、根こそぎ断たれている。
その現象を見届けた律の表情から、わずかに残っていた気怠さが消えた。
「神格振動波……」
知らない技術ではなかった。
むしろ――嫌になるほど、覚えている。
「獅子王機関か」
その名を口にした途端、声から温度が消えた。律は紙袋の口を折り、片手で抱え直す。次の瞬間には、屋上に少年の姿はなかった。
「う……嘘だろ!?」
吸血鬼の男が怯んだように後退する。
自分の眷獣を一撃で消し去られたのだから、当然の反応だった。
だが、雪菜は止まらない。
雪霞狼を構え直すと、迷いなく男との間合いを詰める。銀色の刃が、まっすぐ心臓を狙った。
「ちょっと待ったァ!」
甲高い金属音が響いた。
「えっ!?」
雪霞狼の軌道が、強引に上へ跳ねる。
飛び込んできた古城が、拳で槍の穂先を弾いたのだ。
雪菜は驚愕しながらも即座に後方へ跳び、近くに停まっていたワゴン車の屋根へ着地する。
「暁古城!?」
警戒を露わにする雪菜をよそに、古城は吸血鬼の男へ振り返った。
「おい、あんた!」
「……っ」
「仲間連れて逃げろ! これに懲りたら中学生ナンパすんのはやめろよ。あと街中で眷獣なんか出すな!」
「あ、ああ……!」
男は気絶している仲間を慌てて担ぎ上げ、その場から逃げていく。
雪菜は険しい目で、その背中を見送った。
「どうして邪魔をするんですか?」
「邪魔っていうか……目の前で殺し合い始めたら、普通は止めるだろ」
「公共の場で魔族化し、市街地で眷獣まで使用したんですよ。明白な聖域条約違反です」
「だからって殺すことねえだろ」
「ですが──」
「そもそも先に手ェ出したの、おまえじゃん」
「それは……」
雪菜が言葉に詰まった。
古城は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「ほら」
「ですが、あの人たちが先に──」
「まあ、気持ちはわかるけどさ。ちょっとパンツ見られたくらいで──」
そこまで言って、古城は硬直した。
雪菜の目が、すっと細くなる。
「……見てたんですか?」
「あ」
「見てたんですね?」
「いや、事故というか……」
「…………」
「でもほら、別に俺、中学生の下着とか興味ないし。柄も普通に可愛かったし──」
「…………」
「待て。今のは言葉を間違えた」
完全に墓穴だった。
しかも間の悪いことに、そこへ海側から強い風が吹き込んでくる。
ワゴン車の屋根に立っていた雪菜のスカートが、またふわりと舞い上がった。
「…………」
古城の視線が、反射的にそちらへ吸い寄せられる。
沈黙。
「なんでまた見てるんですか」
「いや待て! 今のは俺悪くねえだろ!」
「……もういいです」
雪菜の声から、すっと温度が消えた。
雪霞狼を収納して黒いケースへ戻すと、ワゴン車から地面へ飛び降りる。
「いやらしい」
「ちょっ──」
古城を冷たく一瞥し、雪菜はその場を立ち去ろうとした。
しかし。
その進路に、一人の少年が立っていた。
「…………!」
雪菜の足が止まる。
黒髪に、彩海学園高等部の制服。そして片手には、この場にはひどく不似合いな買い物用の紙袋。
資料で見た顔だった。
「久世……律」
思わず、名前が口をついて出る。
「俺まで知ってんのか」
律が心底面倒そうに返した。
「律?」
古城も驚いた顔をする。
「なんで戻ってきたんだ?」
「街中で眷獣が吠えてりゃ、嫌でも気づく」
「それだけで戻ってきたのか?」
「おまえが近くにいたからな」
「……心配してくれた?」
「確認しに来ただけだ」
「素直じゃねえな」
「うるさい」
律は古城の横を通り過ぎる。
その視線が向かっているのは雪菜の顔ではなく、背負っている黒いギターケースだった。
「七式突撃降魔機槍──ね」
雪菜の瞳がわずかに見開かれた。
「どうして、その名前を……」
「やっぱり雪霞狼か」
律の声音から、僅かに残っていた気安さが消える。
「獅子王機関」
その名を聞いた瞬間、雪菜の表情にも緊張が走った。
「あなた……機関をご存じなんですか?」
「知ってるよ」
「では、雪霞狼も?」
「ああ」
律は短く答え、それから黒いケースを見たまま続ける。
「道具の名前なんて、本当なら忘れてもいいんだけどな」
「……?」
「向けられた側は、案外忘れない」
雪菜が言葉を失った。
昼間に見た資料の一文が、脳裏をよぎる。
──獅子王機関との接触履歴あり。
「それは……どういう意味ですか?」
「その質問をするってことは、そこまでは聞かされてないらしいな」
「…………」
律がようやく雪菜を見る。
「俺の資料も持たされてるんだろ」
「それは……」
「否定しなくていい。今のでわかった」
雪菜の表情に僅かな動揺が浮かぶ。
「すみません」
「なんで謝る?」
「勝手に個人情報を見たことは事実ですから」
「仕事だろ」
「ですが──」
「仕事だから何をしてもいい、とは言わないけど。でも、決定権があったわけでもないだろ」
律はそこで一度言葉を切った。
「恨む相手くらい、自分で選ぶって」
雪菜が目を瞬く。
あまりにあっさりと答えられ、今度は雪菜のほうが戸惑った。
資料を読んだ印象では、獅子王機関そのものへ相当強い反感を持っているように見えた。もっと露骨な敵意を向けられるものだと思っていたのだ。
「獅子王機関の人間なのに、怒らないんですか?」
「あのな、所属してる場所と、その人間自身は別だろ」
律は一度だけ視線を逸らした。
「昔のことを言っても仕方ないだろ」
それ以上は何も言わない。
雪菜も、どう返せばいいのかわからず黙り込んだ。
その横で、古城だけが二人を交互に見比べていた。
「おまえ、獅子王機関と何があったんだよ」
「古城」
「ん?」
「この雰囲気感じて、その質問する?」
「……悪かった」
「わかればよろしい」
「なんでちょっと偉そうなんだよ」
律の視線が、そこで古城の右手へ落ちた。
「それより、手」
「手?」
雪霞狼を殴った拳から、赤い血が滲んでいる。
「それ、素手で止めたのか」
「まあ……咄嗟に」
「世界最強になっても馬鹿は治らないんだな」
「肩書きと知能は関係ねえだろ!」
「自分で証明するなよ」
古城の抗議を聞き流し、律はもう一度雪菜へ視線を戻した。
正確には、その背中にある雪霞狼へ。
「なるほどな」
小さく呟く。
「何がですか?」
「別に」
不意に。
律の黒い虹彩が、血を溶かしたような紅へ変わった。
「……!」
三つの黒い勾玉が、瞳の中に浮かぶ。
ほんの一瞬。
雪菜は、呼吸することすら忘れた。
視線を向けられただけだった。
それなのに、自分の身体を巡る霊力も、雪霞狼の構造も、その奥に隠していたものまで、何もかも見透かされたような錯覚に陥る。
次の瞬間には、律の眼は元の黒へ戻っていた。
「その眼……」
「資料に書いてなかったのか?」
「…………」
確かに資料には書かれていた。
──特殊な視覚能力。
──高位異能使用時は報告。
だが、雪菜が気にしているのは、単に目が赤くなったという事実だけではなかった。
あの不気味な感触が残っている。
「じゃあ俺は帰るから」
律が踵を返す。
「ちょっと待ってください!」
「まだ何かあるのか」
「あなたのその眼は──」
「律!」
古城の声が割り込んだ。
二人が振り向くと、古城は大通りの向こうを指差している。
「警備隊来るぞ」
遠くからサイレンが近づいていた。
「ああ」
律もすぐに納得した。
「移動するぞ」
「待ってください。逃げる必要はありません。わたしたちは違法行為を──」
「してないなら、残ればいい」
「では──」
「事情聴取に二時間。学校にも連絡。転校初日に市街地で戦闘行為」
律が指を一本ずつ折る。
「報告書も書かされるだろうな」
「…………」
「残る?」
「移動しましょう」
「判断が早いな」
「合理的と言ってください」
「そういうことにしとく」
古城が呆れた顔で二人を見る。
「なんかおまえら、もう普通に喋ってないか?」
「喋ってるだけだ」
「それを普通に喋ってるって言うんだよ」
三人は、警備隊が到着する前にその場を離れた。
数分後。
大通りまで出たところで、律は二人から離れるように歩調を緩めた。
「じゃあな」
「久世先輩」
雪菜が呼び止める。
「ん?」
「一つだけ、訊いてもいいですか?」
「内容による」
「あなたは、第四真祖の味方なんですか?」
「…………」
律は少しだけ黙ったあと、隣にいる古城を見た。
当の古城も、「俺?」と言いたげな顔をしている。
「友達だよ」
律はそれだけ答えた。
「それ以上でも、それ以下でもないな」
「友達……」
「だから」
今度は雪菜を見る。
「古城を監視するのは勝手だけど、変なことするなら俺も黙ってないからな」
雪菜の表情がわずかに引き締まった。
「脅しているんですか?」
「忠告」
「同じでは?」
「違う」
「どこがですか」
「気分」
「…………」
雪菜が呆れたような目を向ける。
「おまえ、案外普通に喋るんだな」
横から古城が口を挟んだ。
「何だと思ってたんですか」
「いや、もっとこう……堅い奴かと」
「先輩には言われたくありません」
「なんでだよ」
「いろいろです」
律は二人のやり取りを聞き流し、そのまま歩き出した。
紙袋の中で、紅茶の箱が小さく揺れる。
「……遅くなった」
今頃、間違いなく機嫌を悪くしている。
吸血鬼より怖い。
少なくとも、律にとっては。
それから、もう少し後。
雪菜と別れた古城は、警備隊の規制が緩んだころを見計らって、先ほどのショッピングモールへ戻っていた。
財布が落ちているとすれば、おそらくこの辺りだろう。
騒ぎの中心だった一帯はすでに人影が少なくなり、規制線の向こうでは、警備隊員たちが焼け焦げた道路や壁面を調べている。
「ったく……散々な目に遭ったぜ」
事情聴取に巻き込まれないよう壁際を選んで歩いていた古城は、ふと足元へ目を向けた。
「ん?」
白地に赤い縁取り。
二つ折りの財布が落ちている。
「…………」
拾い上げ、中を確かめる。
千円札が数枚。
さらに、一万円札まで入っていた。
「金持ってんな……」
今の自分の財布とは大違いである。
そしてカードホルダーを開くと、学生証が目に入った。
そこには、少しぎこちない笑顔を浮かべた少女の写真。
「あいつかよ」
古城は肩を落とした。
これで、もう一度あの監視役と顔を合わせなければならない理由ができてしまった。
「監視とか間に合ってるんだけどな……」
ぼやきながら財布をポケットへしまう。
すでに夕陽は水平線の向こうへ沈み、人工島の街には、ゆっくりと夜が降り始めていた。