燃えていた。
家も、森も、空までも。
どこへ目を向けても視界の端まで赤く、夜だったはずの闇はもうどこにも残っていなかった。屋根を舐める炎が夜空を赤黒く染め、もうもうと立ち昇る黒煙が月を覆っている。焼け落ちた梁が轟音を立てて崩れるたび、弾けた火の粉が無数に舞い上がり、風に煽られて雪のように降り注いだ。
熱気に焼かれた空気は、息を吸い込むだけで喉を灼いた。
焦げた木材と油の臭い。鉄錆にも似た濃い血の臭い。そして、そのすべてに混じって鼻腔の奥へこびりつく、甘ったるく吐き気を催す異臭。
幼い朔にも、それが何なのかはわかっていた。
人の焼ける臭いだ。
「……っ」
反射的に袖で鼻と口を覆う。それでも何の意味もなかった。臭いは煙とともに服へ染みつき、皮膚にも髪にもまとわりついている。口の中は乾ききり、舌にはざらついた灰の味が残っていた。
逃げなければならない。
そう教えられたはずなのに、どこへ逃げればいいのかわからなかった。
幼いころから何度も駆け回った石畳には、血が赤黒い筋を作って流れている。毎朝、木刀を振って汗を流した広場には折れた刀や砕けた忍具が散乱し、祭りの日になれば一族総出で提灯を吊した門も、今は半ばから折れて炎を上げながら道を塞いでいた。
見慣れたはずの故郷だった。
それなのに、もうどこにも知っている景色がない。
朔は焼け落ちた門の下に、人の腕が覗いていることに気づいた。
「…………」
足が止まる。
見覚えのある袖だった。
昨日まで、その腕の持ち主は笑っていた。朝に顔を合わせれば乱暴に頭を撫で、菓子を隠し持っていれば、周囲に見つからないよう一つだけ朔へ分けてくれた。
名前を呼ぼうとして、声が出なかった。
見なければよかったと思う。けれど、一度それが誰なのか気づいてしまえば、もうただの死体として見ることなどできなかった。
その人の身体は、燃え落ちた門の下から半分だけ覗いていた。
「……なんで」
掠れた声が漏れた、そのとき。
足元で、ぱき、と乾いた音がした。
木片でも踏んだのだと思った。けれど、何気なく視線を落とした朔は息を呑む。
足の下にあったのは、折れた人の指だった。
「──っ!」
悲鳴を噛み殺して飛び退く。
踵が血溜まりを踏み、足を滑らせた。倒れかけた身体を壁へ手をついて支えた瞬間、ぬるりとした感触が掌に触れる。
壁には、血に濡れた手形が残されていた。
一つ、二つ、三つ。
誰かが傷ついた身体を引きずりながら、この壁へ縋って歩いたのだろう。指の跡を残した血の筋は数歩先まで続き、そこで唐突に途切れている。
その先に何があるのか、確かめることはできなかった。
「──朔!」
炎の向こうから、怒鳴るような声が飛んできた。
知っている声だった。
「……っ!」
朔は弾かれたように顔を上げる。
「朔! こっちだ!」
声のしたほうへ走った。
燃え落ちた屋根を避け、道を塞ぐ瓦礫を飛び越え、倒れた人々を跨いで石畳を蹴る。誰の顔も見ないようにした。見てしまえば、また足が止まる。誰なのかわかってしまう。
それでも、走っている途中で突然、足首を何かに掴まれた。
「ひっ──」
一瞬、死人が動いたのだと思った。
違った。
まだ、生きていた。
「さ……く……」
掠れた声。
足元を見れば、近所に住んでいた女が瓦礫の間から朔を見上げている。庭先で洗濯物を干しながら、一族の子供たちが悪戯をするたび大声で叱っていた人だ。
腰から下が、崩れ落ちた家屋の下敷きになっていた。
「たすけ……て……」
血で濡れた手が、朔の足首へ縋りつく。
「……っ」
助けなければ。
そう思って、朔は女へ手を伸ばした。
その瞬間、すぐ近くで爆発が起きた。
地面が大きく揺れ、炎が夜空へ吹き上がる。熱風に煽られて身体がよろめき、燃えた木片が二人のすぐそばへ落下した。
「朔! 止まるな!」
再び男の怒声が響いた。
朔は声のする方向を振り返り、それからもう一度、足元の女を見る。
女の指は、まだ朔を離そうとしなかった。
「…………ごめん」
声になったのか、自分でもわからない。
縋りつく手を振りほどいて、朔は走った。
背後から何か聞こえた。
自分の名を呼ばれたような気がした。
けれど、振り返ることができなかった。
あのとき戻っていたら。
もう少し力があったなら。
助けようとしていたら。
幼い子供一人にどうにかできる状況ではなかったと理解できるようになってからも、その「もし」だけは消えてくれなかった。
「朔!」
やがて、炎と煙の向こうに声の主を見つけた。
男が石畳の上に倒れていた。
「先生……!」
毎朝のように朔へ稽古をつけてくれた男だった。
褒めるより先に拳骨を落とし、「痛みを覚えれば同じ失敗はせん」と笑うくせに、朔が熱を出したときには誰よりも慌てて薬師を呼びに走った人。
朔にとって、いつだって大きかった人。
その男の身体が、今は血の中に沈んでいる。
腹部には深い傷があり、流れ出した血が着物を黒く染めていた。片脚はあり得ない方向へ折れ曲がり、右腕もだらりと石畳へ投げ出されたまま動かない。
「先生……」
駆け寄ろうとした朔を、男の怒声が止めた。
「来るな!」
びくりと身体が強張る。
「逃げろ……!」
「でも──」
「走れ!」
「でも、先生が──」
「いいから行け!」
血に濡れた左手が石畳を掻いた。爪の間へ砂と血が入り込み、それでも男は立ち上がろうとしている。
朔は首を振った。
「嫌だ……俺も残る」
「馬鹿を言うな」
「置いていけない!」
「朔!」
怒鳴られても、足は動かなかった。
男の周囲には、無数の死体が転がっていた。道の脇にも、燃える家の前にも、井戸のそばにも。折り重なった身体が炎の揺らめきに照らされ、赤く、そして黒く染まっている。
朝稽古で毎日のように顔を合わせていた男。祭りの踊りを教えてくれた老婆。会うたび朔をからかってきた年上の少年。山へ入れば木の実を奪い合って喧嘩した幼馴染。
みんな、そこにいた。
姿はあるのに、誰も返事をしない。
昨日までは名前を呼べば振り返った人たちが、もう二度とこちらを見てはくれない。
「どうして……」
涙が頬を伝った。
そこへ火の粉が落ちる。熱いはずなのに、その痛みすらひどく遠い。
「なんで……みんな……」
男が何かを言おうとした。
その瞬間、炎の向こうで人影が動いた。
「──朔」
男の声が変わった。
朔にも、それだけでわかった。
何かが来る。
先ほどまで肌を灼いていた炎とは正反対の、冷たい感覚が背筋を這い上がった。
顔を上げる。
燃え盛る家々の向こうに、一つの黒い人影が立っていた。
火に照らされているはずなのに、なぜか顔だけが見えない。男なのか女なのか、若いのか老いているのか、それすら判別できなかった。
ただ一つ。
その手元だけに、白い光が灯っている。
「…………」
朔は息を呑んだ。
知らない。
そんな術を、見たことがない。
火遁でも、雷遁でもない。風でも、水でも、土でもない。そもそも印を結んだ様子すらなく、相手の身体からは術を発動させるはずのチャクラの流れさえ感じ取れなかった。
それなのに、白い光からは紛れもない力を感じる。
何なのかわからない。
だからこそ、怖かった。
朔は反射的に写輪眼を開いた。
黒かった瞳が鮮血のような紅へ染まり、その中へ黒い勾玉の紋様が浮かび上がる。
途端に、世界の見え方が変わった。
炎の揺らぎに隠された僅かな身じろぎ。筋肉の収縮。呼吸。重心。体内を巡る力の流れ──常人の目には決して捉えられない情報までもが、一つ一つ切り分けられるように鮮明になっていく。
それでも。
「……なんだよ、それ……」
白い光だけは、わからなかった。
確かに見えている。
視界の中には存在している。
なのに、それが何によって生まれ、どのような理屈で力として成立しているのか、写輪眼をもってしても読み取ることができない。
これまで見てきた忍術とは、根本から何かが違っていた。
術式も、力の流れも、発動の理も、何一つ噛み合わない。
まるでそこだけ、この世界とは異なる法則で動いているかのようだった。
「朔」
倒れた男が低い声で呼ぶ。
「走れ」
「先生……」
「後ろを見るな」
「でも──」
「生きろ」
その一言に、朔は息を止めた。
男が笑った。
血に濡れ、今にも消えてしまいそうな弱々しい笑み。それでも、朔がよく知っている笑い方だった。
「それだけでいい」
黒い影が腕を上げた。
手元の白い光が膨らむ。
「──先生!」
朔は走った。
逃げるためではない。
男のところへ戻るために、必死で石畳を蹴った。
「やめろおおおお──!」
手を伸ばす。
指先まで、あと僅かだった。
あと一歩。
ほんの少し。
届く。
そう思った瞬間、白い閃光が夜を切り裂いた。
世界が、一瞬だけ真っ白に染まる。
次の瞬間、何か生温かいものが朔の頬へ降りかかった。
「…………え」
手で触れる。
赤い。
自分の血ではなかった。
目の前で男の身体が崩れ落ちる。宙へ散った鮮血が炎の光を受けて輝き、ひどく場違いなほど美しく見えた。
「──っ」
叫んだ。
たぶん、叫んでいた。
喉が裂けるほど声を上げているはずなのに、自分には何も聞こえない。耳の奥で甲高い耳鳴りだけが鳴り続けていた。
朔は男へ手を伸ばす。
届かない。
もう一歩踏み出す。
それでも届かない。
やがて石畳も、炎も、折り重なった死体も、男の背中さえも、まるで深い水の底へ沈んでいくように遠ざかり始めた。
「待って……」
涙で視界が滲んだ。
「待ってよ……!」
あと少しなのに。
手を伸ばせば、そこにいるのに。
「先生!」
けれど、届かない。
何度この夢を見ても。
何度あの夜へ戻っても。
最後の瞬間だけは決して変わらない。
どれだけ手を伸ばしても、その背中へ触れることはできなかった。
「朔──」
最後に聞こえた声だけが残る。
炎も、悲鳴も、血の臭いも、焼けた肉の臭いも、やがてすべてが闇の中へ消えていく。
それでも、その声だけは消えなかった。
いつまでも。
耳の奥に、焼きついたまま。
律は目を開いた。
荒い呼吸が乾いた喉を擦り、舌の奥には嫌な苦みが残っている。焦点の定まらない視界に最初に映ったのは、見慣れた白い天井だった。
炎はない。血の臭いもしない。
耳に届くのは、エアコンの低い駆動音と、窓の外を走り抜けていく車の音。それに、遠くで鳴く海鳥の声だけだった。カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、壁の上でゆっくり揺れている。
ここは絃神島だ。
「……夢か」
掠れた声で呟き、右手を動かそうとして――動かなかった。
何かに掴まれている。
視線を下ろすと、ベッド脇の椅子に一人の少女が座っていた。
長い茶色の髪が肩から流れ、透き通るように白い頬へいく筋かかっている。閉じた瞼には長い睫毛が影を落とし、髪を結ぶ赤いリボンも今はわずかに傾いていた。
ヴェルディアナ・カルアナ。
戦王領域の旧貴族にして、律へ血を与えた吸血鬼。
普段の彼女には、生まれ育った身分を感じさせる気品がある。けれど律の前では、そんな取り澄ました態度を長く保っていることのほうが珍しい。怒れば睨むし、呆れれば容赦なく溜息をつく。その彼女も、こうして眠っているときばかりは表情から力が抜け、伏せられた目元も、わずかに開いた唇も、年相応の少女のものに戻っていた。
そして、その両手は眠っている今も、律の右手を包んだままだった。
律はしばらく何も言わなかった。
手を抜こうとも思わなかった。
つい先ほどまで、夢の中ではどれだけ伸ばしても届かない背中があった。追いかけても、叫んでも、最後には白い光に呑まれて消えてしまう。
その感触がまだ指先に残っているせいだろうか。
今は逆に、誰かの手が自分を離さずにいる。
それだけのことが、妙に鮮明だった。
「ん……」
やがてヴェルディアナが小さく身じろぎした。長い睫毛が震え、黄色い瞳がゆっくりと開く。まだ眠気の残る目で何度か瞬きをしてから律を見て――次に、自分の両手へ視線を落とした。
その間に挟まれている、律の右手へ。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
「……おはよう、ご主人」
「――っ」
ヴェルディアナの頬が目に見えて赤くなった。
「起きてたなら言いなさいよ!」
「今起きたところだよ」
「だったら、そんな面白そうな顔をしないで」
「してない」
「してるわよ」
「寝起きから注文多いな」
ヴェルディアナは何か言い返しかけて、ようやく律の手を離した。ずっと握っていたせいか、掌にはまだ彼女の体温が残っている。
律は右手を軽く開いたり閉じたりしてから、彼女を見る。
「それで?」
「……なによ」
「なんで俺の手、握ってたんだ?」
ヴェルディアナの視線が、わずかに泳いだ。
「あなたが伸ばしてきたのよ」
「俺が?」
「そう。夜中に魘されながら、何かを探すみたいに手を伸ばしてきたから……少し握っていれば落ち着くかと思っただけ」
「朝まで?」
「…………」
痛いところを突かれたらしい。
「途中で離して、また魘されたら面倒でしょう」
「なるほど」
「なに、その顔」
「いや。ずいぶん面倒見のいいご主人だなと思って」
「病人を放っておかなかっただけよ」
「俺、病人だったのか」
「少なくとも昨日のあなたは、健康な人間の顔じゃなかったわ」
言われて、律は少しだけ目を細めた。
ヴェルディアナは乱れた髪を耳へ掛けながら、今度は真面目な声で続ける。
「食事はほとんど残すし、話しかけても上の空。なのに本人だけは、いつもどおりのつもりなんだから始末が悪いのよ」
「眠かっただけだよ」
「あなた、昔からそういうときほど『何でもない』って顔をするじゃない」
即座に返され、律は口を閉じた。
何年も傍にいる相手に使うには、さすがに古すぎる言い訳だったらしい。
窓から入った風が、カーテンをわずかに膨らませる。
ヴェルディアナはしばらくその白い布を眺めていたが、やがて声を落とした。
「……それと」
「ん?」
「朔って、呼んでたわよ」
律の指が止まった。
「何度か、その名前を呼んでた」
夢の中で見た炎が、一瞬だけ脳裏を掠める。
「……そっか」
それ以上、律は何も言わなかった。
ヴェルディアナも訊かなかった。
何を夢に見ていたのか。誰を呼んでいたのか。知ろうと思えば訊けたはずなのに、彼女はただ椅子に座ったまま、黙っている。
その沈黙がありがたかった。
律はもう一度、自分の右手を見る。
「でも、効果はあったみたいだな」
「何が?」
「手。途中から夢を見てない」
「……そう」
ヴェルディアナの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「なら、よかったわ」
その一言を聞いて、律も小さく息を吐いた。
しばらくして顔を上げると、朝の光の中にあるヴェルディアナの横顔が目に入った。長い睫毛と、整った鼻筋。そこでふと、昨日会った少女の顔が重なる。
「……やっぱ似てるな」
「なにが?」
「昨日会った姫柊って子」
「姫柊?」
ヴェルディアナが怪訝そうに眉を寄せる。
「獅子王機関の剣巫。古城につけられた監視役らしい」
「第四真祖の監視役を、中学生に?」
先ほどまでの柔らかな空気が少しだけ変わった。
「ああ。姫柊雪菜っていうらしい」
「……獅子王機関ね」
ヴェルディアナは何か考えるように目を細めたものの、すぐに律へ視線を戻した。
「それで、その子のどこが私に似ているの?」
「顔立ちとか、睫毛とか。あと、生真面目そうなところ」
「あら。私は生真面目よ」
「……そこは否定してない」
「今、一瞬考えたでしょう」
「考えてないって」
「間があったわ」
「朝から細かいな」
ヴェルディアナは不満そうに律を見る。
そのまま数秒ほど黙っていたが、やがて何気ない調子を装うように髪を整えた。
「……綺麗な子だった?」
「まあ、整った顔はしてたよ」
「…………そう」
返事だけは平静だった。
けれど、さっきまで律を見ていた黄色い瞳が、なぜか窓のほうを向いている。
律は少し考えてから付け加えた。
「でも、ヴェルとは全然違うけどな」
「…………そう」
同じ返事だった。
ただし今度は、ほんのわずかに口元が緩んでいる。
「……なんだよ」
「なにも?」
「いや、今ちょっと機嫌――」
「変わってないわよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「言おうとしたでしょう」
「便利だな、その決めつけ」
「あなたは顔に出るのよ」
「さっきと言ってること逆じゃないか?」
律が笑うと、ヴェルディアナは誤魔化すように髪を払った。
これ以上言えば、たぶん面倒なことになる。
それくらいは律にもわかっていた。
ベッドを降り、洗面所へ向かう。扉へ手を掛けたところで、律は足を止めた。
「ヴェル」
「なに?」
振り返らないまま、右手を軽く上げる。
「……さっきも言ったけど、ありがとな」
一拍遅れて、背後から小さな声が返ってきた。
「……二回も言わなくていいわよ」
「じゃあ、もう言わない」
「それはそれで、なんだか腹が立つわね」
「どっちだよ」
律は苦笑して、洗面所の扉を閉めた。
部屋に残されたヴェルディアナは、しばらく閉じた扉を見つめていた。
やがて、自分の両手へ目を落とす。
昨夜、悪夢に魘されながら、律は何かを探すように手を伸ばしていた。
だから掴んだ。
少し握っていれば落ち着くだろうと思った。それだけだったはずなのに、いつの間にか彼の呼吸は穏やかになり、自分まで眠ってしまった。
その時点で、手を離してもよかった。
けれど朝になって目を覚ますまで、自分は離さなかった。
窓から入り込んだ風が、頬にかかった髪を揺らす。
「……馬鹿」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからない。
ヴェルディアナはほんのり熱を持った頬へ片手を当て、小さく息を吐いた。
玄関を出た途端、律は反射的に目を細めた。
朝だというのに、絃神島にはすでに容赦のない陽射しが降り注いでいる。舗装路から立ち昇る熱気が景色を揺らし、潮気を含んだ風まで生温い。
「……暑い」
思わず漏れた声にも覇気がない。
数年前から、昼間はどうにも身体が重くなるようになった。陽光を浴びたところで灰になるわけでも、まともに動けなくなるわけでもない。ただ身体の芯へ鉛でも流し込まれたような倦怠感がまとわりつき、何をするにも億劫になる。
まして真夏の絃神島だ。
学校まで歩くことを考えただけで、今から帰りたくなる。
「律!」
背後から呼ばれて振り返った瞬間、何かが飛んできた。
「っと」
片手で受け止める。
布に包まれた弁当箱だった。
「……食い物を投げるなよ」
「ちゃんと受け取ったでしょう?」
「落としたらどうすんだ」
「その程度も受け取れないなら、今日は家から出さないわ」
「判断基準おかしくないか?」
玄関から顔を覗かせたヴェルディアナは、それには答えず、律の手にある弁当箱を指さした。
「朝食、ほとんど食べなかったでしょう。お昼はちゃんと食べなさい」
「腹減ったら食うよ」
「あなたの『腹が減ったら』は信用してないの」
「俺の食事に信用問題が発生してるのか」
「昨日の実績があるもの」
返す言葉がなかった。
律は諦めて弁当箱を鞄へしまう。するとヴェルディアナは満足したように小さく頷いた。
「途中で倒れられたら迷惑なのよ」
「誰に?」
「私に決まってるでしょう」
間髪入れずに返ってきた。
律は一瞬だけ彼女を見て、それから僅かに口元を緩める。
「……そっか」
「なによ」
「いや。じゃあ倒れないようにする」
「最初からそうしなさい」
相変わらず注文が多い。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「じゃ、行ってくる」
「ええ」
律は片手を上げ、灼けた舗装路へ足を踏み出す。
数歩進んだところで、
「――律」
もう一度、名前を呼ばれた。
先ほどまでとは違う声だった。
律が振り返る。
ヴェルディアナはまだ玄関に立っていた。何かを言おうとして唇を開き、けれど一度閉じる。朝の風に長い茶色の髪が揺れ、赤いリボンが小さく震えた。
「今日は……ちゃんと帰ってきなさいよ」
静かな声だった。
その言葉に、ほんの一瞬だけ昨夜の夢が蘇る。
炎に包まれた里。血に濡れた石畳。その向こうへ遠ざかっていく背中へ、幼い自分は何度も手を伸ばした。それでも最後まで届かなかった。
けれど今朝、目を覚ましたときには、その手を握っている誰かがいた。
律はヴェルディアナを見る。
「帰るよ」
「……本当に?」
「ああ」
鞄を軽く持ち上げた。
「弁当箱、返さないと怒るだろ」
「当たり前でしょう。あれ、気に入ってるんだから」
「そっちの心配かよ」
「それも、よ」
最後の一言だけ、少し小さかった。
律は何も返さなかった。ただ、先ほどより少しだけ表情を緩めて踵を返す。
「いってらっしゃい、律」
「いってきます」
真夏の陽射しは相変わらず鬱陶しいほど眩しく、身体も重い。
それでも今度は、帰りたいとは思わなかった。