ヴェルディアナに見送られて家を出てから、およそ一時間後。
律が立っていたのは、真夏の陽射しが照りつける絃神島ではなかった。
天井の高い石造りの回廊には湿った冷気が澱み、古い鉄錆の臭いが鼻につく。等間隔に並んだ鉄格子の向こうには底知れない闇が沈み、壁の燭台だけが濡れた石床を頼りなく照らしていた。
──監獄結界。
南宮那月の夢の内側に構築された、異能犯罪者を収容するための異空間である。現実の絃神島とは異なり、ここなら壁を吹き飛ばそうが大規模な忍術を放とうが、外界へ被害が及ぶことはない。
その代わり、ここでは空間そのものが那月の支配下にある。
「余所見をする余裕があるとは、随分と偉くなったものだな」
声が響いた瞬間、律はわずかに首を傾けた。
鋼鉄の鎖が頬を掠めて通過し、ほとんど間を置かず左右と頭上から三本が追加される。律の黒い瞳が紅へ染まり、三つの勾玉が静かに回った。
速度、角度、鎖を構成する環の捻れまで一息に読み取り、身体を半身にして二本を躱す。足を狙った三本目に対してのみ、律は印を結んだ。
「土遁──土流壁」
石床が隆起した。
ただし、壁は自分を守るために作られたものではない。飛来する鎖の側面へ斜めに突き出し、その軌道だけを強引に変える。弾かれた鎖が別方向から来た一本へ絡みつき、攻撃網に一瞬の穴が生まれた。
「防がないのか」
「全部止める必要ないだろ」
その隙間へ身体を滑り込ませ、瞬身で一気に距離を詰める。
正面から追加の鎖が殺到したが、今度は避けない。抜いた苦無へチャクラを流した途端、刃を青白い雷光が覆った。
苦無と鎖が触れる。
雷遁のチャクラが金属を伝った。
那月は即座に意図を察し、自分へ繋がるより早く鎖を途中から切断した。
「さすがに切るか」
「金属を伝って術者まで雷を流そうとは、品のない真似をする」
「効くだろ?」
「効くから切ったんだ」
床へ落ちる鎖を、律はそのまま左手で掴んだ。
那月が怪訝そうに目を細める。
律は奪った鎖を近くの石柱へ巻きつけると、鋼糸を結んだ苦無を別方向へ投げた。鎖、柱、鋼糸。その三点を即席の支点として繋いだ直後、白煙とともに二体の影分身が現れる。
一体は右へ。
もう一体は壁を蹴り、そのまま天井を走った。
本体だけが正面から那月へ踏み込む。
「正面からとは芸がないな」
「そう見える?」
那月が足を踏み出した瞬間、石床が僅かに沈んだ。
たった数センチ。
落とし穴と呼ぶには浅すぎるが、踏み込みの軸を崩すにはそれで十分だった。
「土遁か」
先ほどのように大きな壁を作ったわけではない。律が弄ったのは、那月が足を置く一点だけだった。
体勢がわずかに崩れたところへ、天井の影分身から手裏剣が降る。那月が日傘を振ってそれを弾くと、その陰から小さな火炎弾が連続して飛び込んだ。
「火遁──鳳仙火」
狙いは那月ではない。
火炎は天井や壁、床へ着弾して次々と弾け、薄暗かった監獄結界を一瞬だけ眩しく照らした。炎の明滅によって何重もの影が生まれ、熱で揺れる空気が視界を歪ませる。
「目眩ましか」
那月がそう呟いたときには、正面にいた律はもう消えていた。
右にいるのは影分身。左にはいない。
那月が僅かに視線を落とす。
「下か」
石床が爆ぜた。
土中へ潜っていた本体が那月の足元から飛び出す。握った苦無には再び雷光が走り、その切っ先が喉元まで迫った。
あと僅か。
「取った」
「現実ならな」
那月が指を鳴らした。
世界が歪む。
律と那月の間にあった数十センチの距離が、一瞬にして十数メートルへ引き伸ばされた。床は壁へ、壁は天井へと姿を変え、振り抜いた苦無は虚しく空を切る。
「……やっぱそれ、反則だろ」
「ここは私の夢だ。反則も何もあるか」
背後から再び鎖が迫る。
律は振り返りざまに手裏剣を投げ、一本へ鋼糸を絡めると、それを引いて先ほど奪った鎖を跳ね上げた。二本、三本と連鎖的に巻き込み、その間を縫うように駆け抜けていく。
眼が捉える攻撃は多い。
だが、すべてを見る必要はない。
自分へ届くものだけを選ぶ。
右足を踏み込む直前、足裏の石床だけへ土遁のチャクラを流した。表面を瞬間的に硬化させることで踏み込みの力を逃がさず、その反発を利用して身体を前へ弾き出す。
「──ほう」
那月が初めて感心したような声を漏らした。
律自身の予想を上回る加速だった。それでも写輪眼ならば、急激に変わった速度の中でも周囲を捉えられる。
着地と同時に再び足場を作り、突き出した岩を蹴って軌道を変える。鎖の群れを縫いながら那月との距離を削り、三メートルまで迫ったところで印を結んだ。
「風遁──」
完成した忍術として放つ直前、律はチャクラの扱いを変えた。
欲しいのは攻撃力ではない。
瞬間的な圧力だけ。
掌から放たれた突風が那月の日傘を押し、その右腕を僅かに外側へ流した。
ほんの数センチ。
それで十分だった。
生まれた死角へ滑り込み、律は苦無を振るう。
今度こそ届く。
そう確信した、そのときだった。
視界の端で、白い光が瞬いた。
「…………」
存在するはずのない光。
燃え盛る家々。
血に濡れた石畳。
倒れた男。
伸ばしても届かなかった手。
『生きろ』
朝の夢が一瞬だけ蘇った。
律の動きが止まる。
ほんの刹那。
だが、この距離では致命的だった。
ごん、と鈍い音が脳天へ響いた。
「──ッ!」
視界が揺れ、写輪眼が消える。
頭を押さえながら蹲った律の前には、細い鋼鎖を手にした那月が立っていた。
「……何しやがる」
「頭を冷やせ」
「物理的に割れそうなんだけど」
「吸血鬼の再生能力があるだろう」
「そういう問題じゃない」
恨めしげに睨まれても、那月は笑わなかった。
「今朝、何を見た?」
律の表情が僅かに強張る。
「内容を話せと言っているわけではない。ただ、それを戦闘中にまで持ち込むな」
律は答えない。
「先ほどの動きは悪くなかった。この空間を私が自由に動かせなければ、少なくとも三度は捕まっている。だからこそ、くだらんところで隙を作るな」
「三度も?」
「調子に乗るな。一度目で喉を裂かれていれば、残り二度は存在しない」
「でも一回は勝ってるだろ」
「そういうところだ」
日傘の先が律の額を軽く押した。
「眼は現在を見ているのに、頭だけが八年前へ戻っている」
「…………」
「おまえの眼は便利だ。人間には見えないものまで拾う。だが、見えるものが増えるということは、そのぶん捨てるものを自分で選ばなければならないということでもある」
那月は紅から黒へ戻った律の瞳を見つめる。
「戦闘で必要なのは、情報を増やすことではない。必要な情報を選ぶことだ。すべてを抱え込めば、身体より先に頭が止まる」
律は小さく息を吐いた。
「……説教?」
「授業だ」
「授業料払ってないけど」
「おまえと暁の尻拭いで十分すぎるほど徴収している」
「俺まで一緒にするなよ」
そこでようやく、那月の口元に僅かな笑みが浮かんだ。
律も立ち上がる。
「もう一回やる?」
「その前に訊きたいことがある」
那月は広間へ視線を巡らせた。
斜めに突き出した土壁。わずかに沈んだ床。焦げた石壁。鋼糸の絡んだ鎖。
「おまえの忍術というものは、すべてああいう使い方ができるのか?」
「ああいう?」
「術の本来の形から外して使うことだ。土壁は防御に使わず鎖の進路を逸らした。火炎は敵へ当てず、光と熱だけを利用した。風に至っては、私の腕を少しずらすためだけだ」
律は肩を竦めた。
「別に、術に使い方が書いてあるわけじゃないし」
「なら、なおさら面白い」
「何が?」
那月は少し考えてから答えた。
「考え方が、魔術に近い」
「忍術が?」
「違う。おまえの使い方が、だ」
律は黙って続きを待つ。
「魔術師は、必ずしも『火の魔術を使いたい』とは考えない。先に必要な結果を決める」
那月は指先で燭台の炎を示した。
「敵を焼きたいなら炎をぶつければいい。暗闇を照らしたいだけなら光で足りる。霧を払うなら必要なのは熱だ。敵を一瞬怯ませるだけなら、閃光でも破裂音でも構わない」
「……目的から逆算するのか」
「そうだ。拘束、切断、遮断、移動、温度変化。欲しい現象を決め、それに必要な術式や触媒、魔力の性質を選ぶ」
那月は律へ視線を戻した。
「だが、おまえは時々逆になっている。火遁を覚えているから火を出す。土遁を知っているから壁を作る。完成された術を起点にして、そのあとで使い道を考えている」
「別に間違いじゃないだろ」
「間違いとは言っていない。勿体ないと言っている」
那月は先ほどの戦闘跡を日傘で順に示した。
「おまえ自身、すでにやっている。欲しいのは壁ではなく鎖の軌道を変える硬い面だった。欲しいのは炎ではなく、光と熱だった。なら、それをもっと突き詰めることはできないのか?」
律が目を細める。
「もっと細かく?」
「私は忍術の仕組みを知らん。ただの魔術師としての疑問だ」
那月は一本の鎖を呼び出した。
「例えば、火遁とやらは何をしている?」
「チャクラを火の性質に変える」
「性質?」
「性質変化。チャクラには属性があって、それを火や雷、風なんかの性質に──」
「その用語は知らん。もっと単純に言え」
律は少し考えた。
「普通のチャクラを、炎を起こせる状態へ変えてる」
「雷や土も同じか?」
「ああ」
「おまえは何が得意なんだ?」
「雷。御影は火遁をよく使うけど、俺自身のチャクラは雷のほうが馴染む」
「なるほどな」
那月は先ほど切断した鎖へ目を向けた。
「だから雷を金属へ流したときだけ妙に扱いが滑らかだったのか」
「たぶん」
「なら訊くが、雷に変えるとは、具体的には何を意味する?」
「……何って?」
「敵を感電させることか。刃物の貫通力を高めることか。筋肉や神経へ刺激を与えることか。あるいは、単純に光と熱を生み出すことか」
律は黙った。
「火も同じだ。炎という一つの現象の中に、熱、光、燃焼、膨張という複数の作用が含まれている。土なら硬さや重さ。風なら圧力や切断。水なら流動や圧力」
那月はそこで一度言葉を切った。
「魔術なら、それらは最初から別々の現象として扱う。同じ系統へ分類されることはあっても、炎を生む術式と、対象の温度だけを上げる術式は同じではない」
「…………」
「忍術に同じことができるかは知らんぞ。私は忍術師ではない」
「でも……」
律は自分の掌を見つめる。
性質変化。
幼いころから何度も教え込まれてきた技術だった。チャクラへ火、風、雷、土、水の性質を与え、それを術として成立させる。
これまでは、それが完成形だと思っていた。
「全部、最後まで変える必要があるのか……?」
掌に青白い雷光が走る。
「感電させたいわけじゃないなら、外へ放つ必要もない」
律は雷光を消し、今度は右腕の内側だけへ極細の雷遁チャクラを巡らせた。
「筋肉と神経を一瞬だけ刺激して、反応速度を上げるとか」
「自分自身を対象にするのか」
「ああ。それなら必要な出力も少なくて済む」
次に苦無を抜き、刃へ雷を纏わせる。
先ほどまでは派手な放電が周囲へ散っていた。
律はそれを見つめ、少しずつ出力を絞る。
「これも同じだ。感電させる必要がないなら、無駄に放電させなくていい。欲しいのが貫通力だけなら──そこだけ残せばいい」
雷光が細くなる。
「……性質を、絞る」
那月は何も言わない。
律自身に考えさせている。
「風なら切断だけ。あるいは押し出す圧力だけ。土なら全部を壁にするんじゃなくて、一部分だけ硬くする。逆に敵の足元だけ崩すこともできるかもしれない」
思考が急速に広がっていく。
「火も、炎にする前に熱だけ取り出せれば──」
「そこまでだ」
那月が遮った。
「なんで」
「顔を見ればわかる。今すぐ全部、自分の身体で試すつもりだろう」
「悪い?」
「悪いに決まっている」
即答だった。
「私が話したのは、あくまで魔術における考え方だ。忍術にそのまま通用する保証はない。まして自分の神経や筋肉へ未知の方法で雷を流そうとしている人間を、放置できると思うか?」
「一応、吸血鬼だから再生するけど」
「そういう問題ではない。それはおまえがさっき私に言った台詞だ」
「……覚えてたか」
「まずは一つに絞れ。最も扱いやすいものから試せ」
律は少しだけ笑った。
「雷か」
「おまえがそう言ったんだろう」
右手を握る。
微かな雷光が指先から前腕へ走り、すぐに消えた。
派手さはない。
けれど、以前とは明らかにチャクラの流れが違う。
「どうだ?」
「まだわからない」
「それでいい。わからないものを、わかったつもりになるよりは余程マシだ」
律は右腕を何度か開閉すると、再び那月を見た。
「もう一回」
「まだやるのか?」
「今度は試したいことがある」
「雷か」
「ああ」
写輪眼が再び開く。
那月が指を鳴らすと、監獄結界全体が低く震え、壁や天井から無数の鎖が現れた。
「……増えてない?」
「気のせいだ」
「数えられる眼なんだけど」
「なら数えながら避けろ」
鎖が一斉に動いた。
今度の律は、すべてを見ようとはしなかった。
正面から来る三本。右から二本。足元に一本。
自分へ届くものだけを選び、それ以外は捨てる。
最初の一本を身体を捻って躱し、二本目は足元を僅かに隆起させて軌道を逸らす。三本目を影分身へ追わせ、四本目には鋼糸を絡めた。
そして右脚へ雷遁チャクラを流す。
全身を覆うほどの出力はいらない。
踏み込む、その一瞬だけ。
筋肉を強制的に加速させる。
「──っ!」
地面を蹴った瞬間、景色が後方へ弾け飛んだ。
那月の目が僅かに見開かれる。
律自身も予想以上の速度に驚いたが、写輪眼は問題なく追いついていた。身体を捻り、迫る鎖を紙一重で躱し、そのまま一気に那月との間合いへ入る。
五メートル。
三メートル。
一メートル。
そして律の右手が、那月の肩を捉えた。
「──取った」
指先が黒いドレスへ触れる。
那月は一瞬だけ黙り、それから僅かに目を細めた。
「今度は夢を使わなかったな」
「使う必要なかったからだろ」
「そうか」
那月が指を鳴らす。
律の足元から、床が消えた。
「おい!」
身体が闇へ落ちる。
「今から使う」
「卑怯だろ──!」
抗議の声が暗闇の底へ遠ざかっていった。
数秒後、別の場所に開いた穴から律が落下し、石床の上へ派手に転がる。
「……やっぱ勝てる気しねえ、この中」
「それでいい。現実で同じことをされるほうが、私としては面倒だからな」
律が顔を上げた。
「今なんつった?」
「何も言っていない」
「聞こえたぞ」
那月は取り合わず、日傘を開いた。
「覚えておけ、久世」
「何を?」
「強い術を増やす必要はない」
律が起き上がる。
「一つの術から、一つの結果しか取り出せないことのほうが問題だ。新しい術を覚えるのも結構だが、その前に──」
那月は少しだけ振り返った。
「今ある力で、できることを増やせ」
律は答えず、自分の右手を見た。
掌の上で、細い雷光が一筋だけ弾ける。
生まれつき最も馴染む、雷の性質。
何度も使ってきた力なのに、その性質をどこまで理解していたのかと問われれば、答えは怪しかった。
ただ雷へ変えるのではない。
何を残し、何を捨てるのか。
どこまで変え、何に利用するのか。
考え始めれば、まだいくらでも余地がある。
「……面白いな」
自然と笑みが漏れた。
「那月ちゃん」
「先生と呼べ」
「もう一回」
「今の話を聞いていたのか?」
「考える時間も訓練なんだろ」
「そう言ったな」
「だったら戦いながら考える」
那月はしばらく律を見つめたあと、諦めたように小さく息を吐いた。
「まったく。面倒な生徒を拾ったものだ」
「今さら後悔した?」
「八年前からしている」
「ひでえな」
再び那月が指を鳴らす。
監獄結界の闇の中で、無数の鎖が金属音を響かせながらゆっくりと持ち上がった。
「来るぞ、久世」
律は笑みを消した。
紅い眼が、真正面の那月を捉える。