翌朝。
テレビでは、絃神島のローカルニュースが流れていた。
『──昨夜未明、南地区の路上で魔族登録証を所持する男性が襲撃される事件がありました。被害者は二十代の吸血鬼男性で、現在、特区警備隊が傷害事件として捜査を進めています』
「吸血鬼が襲われたのか。最近何かと物騒だな。もう三件目だぞ」
律はトーストを齧りながら、他人事のように呟いた。テーブルの向かいから、呆れたような視線が返ってくる。
「あなたもでしょう」
「ん?」
「吸血鬼」
「ああ」
言われてから思い出した。
「……そういえばそうだった」
「忘れるものなの、それ?」
「生まれたときからじゃないからな。いまだに自分で吸血鬼って言うと違和感あるんだよ」
「もう何年経ったと思ってるのよ」
「ヴェルの従者になってから?」
「そう」
「…………」
「なによ」
「数えたら負けな気がする」
「何に負けるのよ」
ヴェルディアナは呆れたように息を吐き、紅茶へ口をつけた。
テレビでは現場周辺の映像へ切り替わっている。規制線の向こうに見える道路には、何かに抉られたような跡が残っていた。
律がそれを眺めていると、やがて画面下のテロップが切り替わった。
『続いて、昨日発生した倉庫街大規模損壊事故の続報です』
「ん?」
律の手が止まった。
画面に映し出されたのは、昨日まで倉庫街だったはずの場所だった。
少なくとも、律にはそうとしか思えなかった。
道路は黒く焼け焦げ、いくつもの倉庫が原形を失っている。屋根を吹き飛ばされた建物の向こうでは、大型クレーンが瓦礫を撤去していた。上空から撮影された映像に切り替わると、被害が一角だけでは済んでいないことがよくわかる。
『被害は倉庫およそ六十棟に及び、周辺地域では一時、およそ二万世帯が停電しました。また、付近の橋梁およびモノレール軌道にも損傷が確認されています』
「…………」
律は齧りかけのトーストを持ったまま画面を見つめた。
ヴェルディアナも紅茶を飲む手を止めている。
『特区警備隊は、現場で確認された大規模な魔力現象との関連を調査しています。人的被害は現在まで確認されていませんが、倉庫や公共設備などの直接被害だけでも約七十億円。物流停止などによる間接的な損失を含めた被害総額は――』
一拍置いて、女性アナウンサーが告げた。
『五百億円規模に達する可能性があると見られています』
「…………五百億?」
律が呟いた。
桁を聞き間違えたのかと思った。
「五百億って、ゼロ何個だ?」
「そこから?」
「億より上は普段使わないから」
「五百億円よ。五百億円」
「二回言われても増えないだろ」
「減りもしないわよ」
「…………」
律は改めてテレビを見る。
ちょうど視聴者が撮影したらしい映像へ切り替わったところだった。
夜の倉庫街。
激しく揺れる画面の向こうで、巨大な黄金の雷が空へ立ち昇っている。映像そのものが白く飛び、次の瞬間には雷鳴とともに撮影者の悲鳴が入った。
その光景を見た瞬間、律の眉が寄った。
「……やっぱり、あいつの眷獣だよな」
「あいつ?」
「古城」
第四真祖――暁古城。
昨日、本人から聞いた話とも一致する。
倉庫街でオイスタッハたちと戦闘になり、その最中に自分の眷獣が勝手に出てきた。それも、本人の命令などまるで聞かなかったという。
話だけ聞いたときには、いまひとつ実感がなかった。
だが、こうして結果を映像で見せられると話が違う。
「……あいつ、本当に第四真祖なんだな」
「今さら?」
「だって普段の古城見てるとさ」
追試だの宿題だので頭を抱えている姿しか浮かばない。
世界最強の吸血鬼。
その呼び名と本人の間にある落差が、どうにも大きすぎるのだ。
けれど――。
律はもう一度、壊滅した倉庫街を見た。
主人の言うことを聞かない眷獣が、一度暴れただけで五百億円。
笑い話ではない。
「そういえばさ、ヴェル」
「なに?」
「吸血鬼って、血を吸わないと眷獣は言うこと聞かないのか?」
ヴェルディアナがカップを置いた。
「さあ。吸血鬼といっても一様ではないし、眷獣との契約の形も違うもの。普通なら、自分の眷獣を使うたびに誰かの血を吸わなければならない、なんてことはないと思うけれど」
「じゃあ古城は?」
「牙城の息子のこと?」
律が頷く。
ヴェルディアナは少し考え、ティーカップの縁を指でなぞった。
「……本人が望んで手に入れた力ではないのでしょう?」
「ああ。三カ月くらい前まで普通の人間だったらしい」
「なら、あり得るかもしれないわね。眷獣の側が新しい主人を認めていないのなら、力で従わせるだけでは足りないのかも」
「血を吸えば?」
「吸血は吸血鬼にとって、ただの食事ではないもの。魔力の補給にもなるし、相手との結びつきを作る行為でもあるわ。少なくとも、何かしらのきっかけにはなるんじゃないかしら」
「なるほど」
律はトーストを皿へ戻した。
視線の先では、ニュースがいまだに倉庫街の惨状を映している。
古城の眷獣がどれほど危険なのかは、もう想像する必要もなかった。
五百億円である。
「じゃあ、やっぱり血を吸う必要があるのか」
「…………」
向かい側で、ヴェルディアナの手が止まった。
律は気づかない。
「困るよな。また暴れられたら」
誰の血を吸うことになるのだろう。
浅葱は――まずい気がする。
古城自身がどう思っているかは知らないが、あれで浅葱は古城にかなり惚れている。昨日のファミレスで確信した。
となると。
「……血を吸いたい」
そうなるように仕向ければいいのかな。
「…………っ」
妙な音がした。
律が顔を上げる。
ヴェルディアナが俯いていた。
「どうした?」
「……い、今?」
「今?」
律は眉を寄せた。
「何が?」
「だから……その……」
ヴェルディアナの白い頬が、見る間に赤くなっていく。
律には理由がわからない。
じっと見ていると、彼女はますます居心地悪そうに視線を泳がせた。
「ヴェル?」
「そんなに見ないでよ」
「いや、急に赤くなったから」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
なぜか怒られた。
熱でもあるのかと律が訝しんでいると、ヴェルディアナはしばらく唇を引き結んだあと、覚悟を決めたように椅子から立ち上がった。
「……わかったわよ」
「何が?」
「そうよね、これも主人の務めだもの」
意味がわからない。
律が目で追っていると、ヴェルディアナはテーブルを回り込んでこちらへ近づいてきた。
「ヴェル?」
「何度も呼ばないで」
なぜか耳まで赤い。
律のすぐ隣で立ち止まったヴェルディアナは、一度だけ大きく息を吸った。それから長い髪へ手を差し入れ、片側へ掻き分ける。白いうなじが露わになった。
「…………」
「…………」
律は絶句する。
ヴェルディアナも黙っている。
よくわからない沈黙が、朝のリビングに落ちた。
「……いいわよ」
消え入りそうな声だった。
「な、何が?」
「だから!」
ヴェルディアナが振り返る。顔が真っ赤だった。
「血が必要なんでしょう!?」
「…………俺に?」
「他に誰がいるのよ!」
律は数秒かけて今の状況を整理した。
そして、ようやく理解する。
「ああ、違う違う」
「……え?」
「俺じゃなくて古城の話」
ヴェルディアナの表情が止まった。
「…………」
「古城が眷獣を従わせるのに血を吸う必要があるのかなって。俺は別に今──ぶっ!?」
まともに頬へ入った。
椅子ごとひっくり返りかけた律が、どうにかテーブルへ手をついて踏みとどまる。
「な、なんで殴るんだよ!?」
「紛らわしいのよ!」
「何が!? 最初から古城の話してただろ!」
「途中から主語がなくなったでしょう!」
「会話の流れでわかるだろ!」
「わからないからこうなったんでしょう!」
正論なのか逆ギレなのか、判断が難しい。
律は殴られた頬を押さえながらヴェルディアナを見る。
彼女は乱暴に髪を戻し、律から顔を背けていた。けれど髪の隙間から覗く耳は、まだ真っ赤だった。
「……でもおまえ、なんで俺が血を吸いたいと思っただけで、いきなり首──」
「律」
「はい」
「それ以上喋ったら、次は本気で殴るわよ」
「今のは本気じゃなかったのかよ。怪力すぎだろ」
ヴェルディアナが無言で拳を握った。
「……ごめんなさい」
律は素直に謝った。
朝のニュースはいつの間にか終わり、テレビでは今日の天気予報が流れている。
『本日の絃神島は一日を通して晴れ。最高気温は三十四度──』
「今日も暑いのか……」
律がうんざりして呟く。
「…………」
「ヴェル」
「なによ」
「俺の紅茶取って」
「自分で取りなさい」
「なんでまだ怒ってんだよ」
「知らない!」
カップを奪うように持ち上げたヴェルディアナを見ながら、律は首を傾げた。結局、最後まで自分が何を間違えたのかは、よくわからなかった。
「あ。いいこと思いついた」
冷たい石造りの床を、燭台の炎が頼りなく照らしていた。
湿った壁の向こうには錆びついた鉄格子が連なり、そのさらに奥、光の届かない暗闇から、ときおり鎖の擦れる音が聞こえてくる。
南宮那月が管理する異界の監獄――監獄結界。
本来なら凶悪な魔導犯罪者を現実世界から隔離し、永久に幽閉しておくための場所である。
そんな物騒極まりない空間の中央で、暁古城は石柱に縛りつけられていた。両腕と両脚だけでなく、胴体まで銀色の鎖が幾重にも巻きついている。
その姿を前にして、律はごく普通の調子で言った。
「――ってなわけで、なんか吸血鬼狙う事件も起きてるし。血を吸ってみろ」
「なんでお前までその結論になるんだよ!?」
古城の絶叫が、監獄の奥まで響いた。
「つーか、なんで俺がこんなに厳重に拘束されてんだ! 実験するだけだって聞いてたぞ!」
「安心しろ。ここの囚人はもっと厳重に封印されている」
「比較対象がおかしいだろ! それと――」
古城が鎖を鳴らしながら身を乗り出し、律の隣を指差した。
「そいつもなんでいるんだよ!?」
「ん?」
律が隣を見る。
そこには、小柄な少女が一人立っていた。
淡い色の髪に、感情の乏しい瞳。監獄結界などという異様な場所に連れてこられたというのに、怯えるでも周囲を警戒するでもなく、ただ律の隣で静かに佇んでいる。
律は少女を見て、それから古城を見た。
「……知り合いなの?」
「その反応で連れてきたのかよ!?」
「知り合いというか――」
雪菜も困惑を隠せないまま少女を見つめていた。
「その子がアスタルテです。昨日、ルードルフ・オイスタッハと一緒にいた……」
「ああ」
律が納得したように頷く。
「こいつがアスタルテなんだ」
「おまえ名前も知らなかったのかよ!」
「聞いてないし」
「だったらなんで連れてきた!?」
もっともな疑問だった。
律は少し考えてから答える。
「今日の朝、散歩してたら会った」
「それで?」
「目が合った」
「それで?」
「でかい腕で殴られた」
「途中が抜けてんだろ!」
「抜けてないよ。本当にそれだけだったから」
律としても理不尽な話だった。
人気の少ない通りを歩いていたときのことだ。向こうから歩いてきた少女とすれ違いざまに目が合った。
次の瞬間には、その背後から現れた巨大な腕が律のいた場所を薙ぎ払っていた。
当然、避けた。
もう一度襲ってきたので、写輪眼を使った。
そして――少し気になった。
「写輪眼で見たら、なんか嫌な感じだったんだよ」
「嫌な感じ?」
古城の表情がわずかに変わる。
「うん。あのでかい腕と、こいつの身体の繋がり方が」
律はアスタルテへ視線を戻した。
あの巨大な腕が何なのかまでは知らない。
ただ、術者が魔力を送り込んで外部の何かを操っている、という単純な構造には見えなかった。少女自身の身体、そのもっと深い部分へ食い込むように、巨大な魔力の塊が絡みついている。
写輪眼で見ていて、妙に気分の悪くなる光景だった。
「放っておくのも嫌だったから、とりあえず先生のところに連れてきた」
「とりあえずで昨日の敵を拾ってくんなよ!」
「襲ってきたのは向こうだぞ」
「だから余計に連れてくんなって言ってんだよ!」
「でも大人しくなったし」
「どうやって?」
「ちょっと目を見てもらった」
「…………」
古城が黙った。
雪菜も黙った。
二人の視線が、律の紅くもなっていない瞳へ向けられる。
「……久世先輩」
「何?」
「その『ちょっと』は、たぶん普通の意味の『ちょっと』ではありません」
「失礼だな」
すると、それまで黙っていたアスタルテが口を開いた。
「訂正」
「ん?」
「当該対象による精神干渉を確認。行動制御を一時的に喪失しました」
古城が律を見た。
「ほら見ろ!」
「今は普通だろ」
「そういう問題じゃねえ!」
「質問」
アスタルテが古城を見る。
「対象の拘束状態を確認。あなたは収監対象ですか?」
「違う!」
即答だった。
「俺は実験に付き合わされてるだけだ!」
「了解。実験動物と認識します」
「なんで悪化した!?」
雪菜が思わず口元を押さえた。
律も僅かに顔を背ける。
「おまえら今笑っただろ!」
「笑ってない」
「笑ってません」
「こっち見ろ!」
古城の抗議を無視するように、少し離れた場所からカップが受け皿に触れる小さな音が響いた。
「騒ぐな、暁。囚人どもが目を覚ます」
那月はティーテーブルの前で、いつもと変わらぬ優雅さで紅茶を口にしていた。陰鬱な牢獄に黒いゴシックドレス姿も十分に場違いだが、ティーセットまで持ち込んでいる光景は、それ以上に異様だった。
「那月ちゃんも止めろよ! なんで昨日の敵まで普通に参加してんだ!」
「ちゃん付けするな。それと勘違いするな、暁。私も久世が昨夜いきなり人工生命体を連れてきたときには、頭痛を覚えた」
「先生、酷くない?」
「朝方に『拾った』と言って正体不明の人工生命体を連れてくる生徒を持った私の身にもなれ」
「拾ったとは言ってないだろ」
「似たようなものだ」
那月は律を一蹴して、古城へ視線を戻した。
「アスタルテについては後で話を聞く。それと、私も久世の提案に全面的に賛成したわけではない。第四真祖の眷獣について何か試すというなら、市街地よりここがましだと判断しただけだ」
「俺は何を試すのかすら聞いてねえんだけど!」
「聞いたら来なかっただろ」
「当たり前だ!」
律としては、わりと真面目だった。
今朝ヴェルディアナと話しているうちに、古城が眷獣を制御できない理由について一つの可能性を思いついた。その検証場所として、これほど都合のいい空間もない。
本人が納得していないことと、なぜか昨日の事件の関係者が一人増えていることを除けば、ここまでは順調である。
「あの……」
少し離れて様子を見ていた雪菜が、とうとう口を挟んだ。
「わたしも、第四真祖の眷獣に関する検証を行うので立ち会うように、としか聞いていないのですが」
「それで合ってるよ。姫柊は監視役だろ。もし眷獣が暴走したら、雪霞狼で止めてもらおうと思って」
「そういうことでしたか」
雪菜はわずかに肩の力を抜いたものの、すぐに怪訝そうな顔へ戻った。
「ですが、なぜ吸血を?」
「今朝、ヴェルに聞いたんだよ」
律が古城の前でしゃがみ込む。
「古城みたいに、自分の意思と関係なく真祖の力を受け継いだ場合、眷獣の側が新しい主人を認めてない可能性があるって。吸血は魔力の補給だけじゃなくて、吸血鬼にとって相手との結びつきを作る行為でもあるらしい。それが眷獣を従わせるきっかけになるんじゃないかってさ」
「カルアナの娘か」
那月は考えるようにカップの縁へ指を添えた。
「戦王領域の旧貴族なら、吸血鬼と眷獣についての知識はそれなりにあるだろう。確証はないが、仮説としては筋が通っている」
「だろ?」
「だからといって、本人への説明もなしに拘束していい理由にはならんがな」
「先生がやったんだろ、これ」
「逃げると思ったのでな」
「逃げるわ! そりゃ⋯⋯」
古城は即答したものの、それまでとは違って、どこか歯切れが悪かった。
律はその変化に気づいた。
「古城。もしかして、おまえも似たようなこと考えてた?」
「……まあな」
古城は一度、自分の胸元へ視線を落とした。
「俺の中にあいつらがいるのはわかる。アヴローラから受け継いだのも間違いねえ。でも、そこにいるってのと自由に使えるってのは別なんだよ。呼んだって出てくる保証はねえし、仮に出てきても俺の命令を聞くとは思えねえ」
「主人として認められてない?」
「たぶんな。呼びかけ自体は向こうにも伝わってる気がする。それでも従う気がないっていうか……そんな感じだ」
古城は第四真祖の力を使わないのではない。使えない。
そして、それは本人も理解しているらしい。
「吸血してないことが原因かも、ってのも?」
「……それも考えてる」
「なんだ。知ってるじゃん」
「わかってても簡単にできることじゃねえんだよ!」
古城が苛立ったように鎖を鳴らす。
律には、その感覚がいまひとつわからなかった。
「血を飲むだけだろ?」
「そういうもんじゃねえって」
「だったら俺ので試す?」
「絶対嫌だ」
間髪を容れない返事だった。
律が少し眉を寄せたところで、那月が先に首を振る。
「どのみち久世の血は却下だ。こいつは通常の吸血鬼とは違う血の従者で、チャクラという別系統の生体エネルギーまで循環している。第四真祖に飲ませて何が起こるかわからん」
「ふうん。じゃあ先生は?」
「久世。歯を食いしばれ」
「なんで?」
ぱぁん、と景気のいい音が響いた。
頭を押さえてしゃがみ込む律を、雪菜がなんとも言えない顔で見ている。
「私を実験材料に数えるな」
「候補を挙げただけだろ……」
「次は空間ごと捩じるぞ」
律が口を閉じたところで、那月は傍らの空間へ手を差し入れた。取り出したのは、暗赤色の液体が満たされた透明な袋だった。
「保存血だ」
「用意してたの?」
「おまえと違って、私は実験というものを準備してから始めるのでな。まず、血液そのものを摂取することで変化が起こるのか確認する」
古城の片腕だけ拘束が緩められ、保存血が手渡された。
ところが、古城は袋の中身を眺めるばかりで、いつまで経っても口をつけようとしなかった。
「どうした?」
「……いや。たぶん、これじゃ駄目だ」
「血なのに?」
「そういう問題じゃねえんだよ。飲もうと思えば飲めるのかもしれねえけど、これ見ても別に吸いたいとは思わない」
律はそこで、今朝ヴェルディアナが言っていたことを思い返した。
吸血は単なる栄養摂取でも、魔力の補給でもない。相手との結びつきを作る行為でもある。
だとすれば、血という物質だけを取り込めばいいわけではないのだろう。
「なら、生きた相手なら誰でもいいのか?」
那月の問いに、古城はまた黙った。
それだけで何かあることはわかった。
「古城?」
「……誰でもいいわけじゃねえ」
「条件あるの?」
「あるけど言いたくねえ」
「眷獣の制御に関係するなら話せ、暁」
那月にまで促され、古城は露骨に嫌そうな顔をした。
それでも逃げ場がないと悟ったらしく、しばらくしてから観念したように息を吐く。
「……強く吸血衝動が出る相手じゃないと、たぶん駄目なんだよ。血を見たから飲みたいとか、腹が減ったとか、そういうのじゃなくて……その、異性として強く意識したときとか、そういうのと繋がってるっぽい⋯⋯性的興奮とかじゃねぇのか」
最後のほうは、ほとんど投げやりだった。
律は数秒考えた。
昨日。
雪菜。
古城。
鼻血。
自然と視線が動く。
那月も同じことを考えたらしい。
古城まで二人の視線を追い、そこでようやく雪菜がいることに気づいて慌てて顔を背けた。
「……なぜ、わたしを見るんですか?」
「今の条件だと、姫柊が一番可能性高いなと思って」
「嫌です」
即答だった。
「まだ何も頼んでないけど」
「これから頼むつもりだったのでは?」
雪菜はギターケースの肩紐を握り直した。
「眷獣を制御する必要性は理解しています。ですが、それとわたしが暁先輩に血を吸わせることは別の話です。監視役の職務にも、そのような項目はありません」
「そりゃそうだろ」
古城がすぐに同意した。
「姫柊が嫌だって言ってんだから、無理にやる必要ねえよ。俺だってそんなこと頼むつもりねえし」
「……そうですか」
雪菜は古城を見た。
ほんのわずかだったが、それまで強張っていた肩から力が抜ける。
律は二人を見比べ、それ以上食い下がることなく頷いた。
「じゃあ無理だな」
「諦めるの早くないか?」
「本人が嫌だって言ってるんだから仕方ないだろ」
「そこはまともなんだな、おまえ」
「さっきから俺をなんだと思ってるんだよ」
古城が答える前に、那月がカップを受け皿へ戻した。
「吸血についてはここまでだ。本人の同意がない以上、これ以上の検証はできん」
これで終わりかと、古城が安堵したように息を吐く。
だが、那月の視線はまだ彼から離れていなかった。
「代わりに、比較対象を取っておく」
「……比較対象?」
「吸血によって眷獣との関係が変化するというなら、その前の状態を確認しておく必要があるだろう。暁、今のおまえが眷獣をどこまで呼び出せるのか試せ」
古城の顔が引きつった。
「だから、たぶん出てこねえぞ」
「出なければ、それも結果だ。ここなら暴走しても私が抑える。最も、抑えられればの話だがな」
雪菜も意味を理解したらしく、雪霞狼を収めたケースへ手をかける。律はしばらく古城を見てから、何でもないことのように言った。
「一回、出してみよう」
「簡単に言うなよ……」
古城の溜息が、薄暗い監獄結界へ長く響いた。