未来の崩壊世界に転生したら、職業くじでハンターを引いたので旧文明を漁る 作:パラレル・ゲーマー
壁の掛け時計が、無機質な電子音とともに午後一時を告げた。
ハンター協会の支部、その喧騒の中心に立ちながら、俺は自分の目を疑った。
「……嘘だろ。まだ一時過ぎなのか」
思わず声に出して呟いてしまう。
体感時間とのあまりのズレに、頭がクラクラした。
今朝、家を出てから数日が経過しているような気分だった。旧ショッピングモールへ物資を漁りに行っただけのはずなのに、殺されかけ、謎の少女を連れ帰り、おまけに超能力まで使えるようになっている。
これだけ濃密な致死量のイベントをこなして、まだ昼飯時だという事実に、俺の精神は悲鳴を上げていた。
「おい悠真、ぼーっと突っ立ってねえで、とりあえず回収物を出せ」
頭を抱えていた片桐が、ひどく疲労した顔で俺を急かした。
「あ、そういやこれ、ずっと満杯でした」
「忘れんなよ! お前がそのイカれた幽霊連れてくるから、こっちの処理が全部飛んだんだぞ!」
俺は納品カウンターのトレイにインベントリキューブを向け、排出ボタンを押した。
シュンッ、シュンッ、と音を立てて、旧モールで回収した大量の物資が実体化していく。業務用蓄電池、高密度工具セット、小型家電のパーツ、未開封の日用品や消耗品。容量の九十二パーセントまで詰め込んでいたため、トレイの上にはあっという間に小さな山ができた。
通常なら、査定員が目を光らせて価値を弾き出す場面だ。だが、今日の査定員の視線は、物資の山には一切向けられていなかった。
査定員の目は、俺の斜め後ろで宙に浮いている半透明の少女に釘付けになっている。
そして少女の方も、物資をスキャンして自動で仕分けしていく査定機械の動きを、まじまじと見つめ返していた。
互いに無言で見つめ合う、異様な空間。
今日、俺が持ち帰った一番価値が高そうな『回収物』は、間違いなく横で浮いているこの子だろう。
だが、下手に口に出すと「拾われてない」とまた無表情で抗議されそうなので、俺は黙っておくことにした。
「……で、片桐さん。未登録ゲートの一件はどうなるんですか?」
俺が尋ねると、片桐は重いため息をつきながら端末を叩いた。
「すでにハーモニーモール周辺には、他のハンターへの一時的な接近禁止通知を出した。地下の物流区画は完全に封鎖だ。お前の母機から送られてきた位置記録とAR映像のデータをもとに、協会の専属調査チームとコロニー警備隊の専門班が動いてる」
「仕事早いですね」
「馬鹿野郎、地図にない未知の空間で、自律兵器が動いてたんだぞ。コロニーの安全に関わる一大事だ。……で、問題はだ」
片桐は忌々しそうに、宙に浮く少女を睨みつけた。
「お前は今日はもう帰れ」
「いいんですか? まだいろいろ聞かれるかと思ってましたけど」
「良くねえよ。全然良くねえ。ただ、あの映像を見た限り、俺ら支部の人間だけで判断できる話の範疇を超えちまってる。上には報告を上げた。本部からの指示が下りてくるまで、これ以上余計なことはすんな」
片桐は再び少女を指差した。
「……そいつもだ」
「?」
少女が不思議そうに小首を傾げる。
「どうするんですか、この子」
「俺に聞かれても困る。そもそも生体反応がねえんだぞ。拘束する物理的な手段すら怪しい」
少女は俺の袖を引こうと細い指先を伸ばしたが、その半透明の手は布をすり抜けた。
「悠真と行く」
「だ、そうですけど」
「お前、いつの間に名前教えたんだよ」
「ゲートから戻った後、通信で片桐さんが散々俺の名前を呼んでたじゃないですか」
「悠真」
少女が確認するように、もう一度俺の名前を呼んだ。
俺以外の人間にも見えて、声も聞こえる。だが、スキャンには一切引っかからないし、実体があるのかないのかも曖昧だ。
得体の知れない存在に自分の名前を呼ばれるのは、少しだけ肌が粟立つような、妙な感覚だった。
「いいか、悠真。今日のところは、そいつをお前のそばに置いとけ」
「俺が面倒見るんですか!?」
「拾った奴の責任だ。勝手にどっか行かせんな。もし何か変なことしでかしたら、すぐに俺の直通回線に連絡しろ。明日の朝、必ず一緒に連れてこい」
「拾われてない」
少女が再び抗議の声を上げた。
「もうそれでいいから! 頼むから帰ってくれ! 俺の胃に穴が空く!」
片桐の悲痛な叫びに見送られ、俺たちはハンター協会を後にした。
*
午後二時前。
太陽が中天から少し傾き始めた頃、俺は自宅のアパートのドアの前に立っていた。
鍵を開け、中に入る。
「ただいまー……って、誰もいないか」
両親は二人とも、コロニー内の工場と水耕農場で働いている。帰ってくるのは夕方過ぎだ。
俺が靴を脱いでリビングに入ると、後ろから少女がフワフワと浮遊しながらついてきた。
彼女にとって、普通の人間が暮らす家を見るのは初めてなのだろう。淡い青紫色の瞳をパチパチと瞬かせ、興味深そうに周囲を見回している。
玄関の造り、靴箱、廊下のフローリング。
俺は特に何も言わず、彼女が観察するに任せた。大げさに質問攻めにしてくるわけでもなく、ただ静かに、漂うように空間を移動しているだけだ。
やがて、彼女はキッチンの前に止まり、大きな白い箱をじっと見つめた。
「これは?」
「冷蔵庫。食べ物を冷やして保存する機械だよ」
「れいぞうこ……」
「知らない?」
少女は少し考えてから、首を横に振った。
「……見たことあるような、気がする」
記憶が曖昧、というやつだ。
彼女はさらにリビングを漂い、壁に飾られている写真立ての前で止まった。
俺の家族写真だ。俺が十歳くらいの時に、防壁の近くの広場で撮ったもの。
「これ、悠真?」
「そう。五年前だから、今よりだいぶ小さいけどな」
「この二人は?」
彼女の細い指が、写真の中の父さんと母さんを指す。
「父さんと、母さん」
「家族?」
「そう。俺の家族」
俺が答えると、少女は写真の表面をじっと見つめ、何かを思い出すように目を細めた。
しかし、数秒後には静かに視線を外した。彼女の表情に、自分の家族を懐かしむような、あるいは失ったことを悲しむような感情の揺れは一切なかった。
ただ、何も引っかからなかっただけ。
俺もそれ以上は突っ込まなかった。自分の正体すら分からない彼女に、過去を問い詰めても無意味だと分かっていたからだ。
「……ごはん」
唐突に、少女が振り返って言った。
「ああ、そうだったな」
協会にいる時から、彼女はずっとそれを要求していたのだ。幽霊のくせに腹が減るとは、本当にどういうシステムなんだ。
俺は冷蔵庫を開けた。
コロニーの配給品と、両親が買ってきた食材がそれなりに入っている。代用肉のブロック、水耕栽培の葉物野菜、そして貴重な本物の卵がいくつか。
十五年間、今世の相馬悠真としての人生で、俺はほとんど料理をしたことがない。
母さんが毎日作ってくれるし、学校と遊びで忙しい十五歳の息子が、わざわざ台所に立つ機会なんてなかったからだ。
だが、前世の俺は、日本のありふれたサラリーマンだった。
独身の一人暮らし歴も長く、外食ばかりでは金が持たないので、自炊のスキルはそれなりに鍛えられていた。休日に何時間も煮込むような凝った料理は無理でも、自分が食べるための一通りのものは手早く作れる。
「炒飯でいいか?」
「チャーハン?」
「食ったことない?」
「分からない」
「じゃあ、食えば分かるよ」
俺はエプロンを引き出しから引っ張り出し、キッチンに立った。
包丁を握る。十五年ぶりの感覚に、最初は少しだけ違和感があった。だが、柄の重みを感じ、まな板の上に野菜を置いた瞬間、前世の記憶と今世の肉体がスッと同期するような奇妙な感覚があった。
トントントントン。
リズミカルに野菜を細かく刻む。代用肉も賽の目に切り、ボウルに卵を割り入れて手早く溶く。
十五年という途方もない空白があったはずなのに、案外、身体は覚えているものだ。
いや、身体は別人のものだから、正確には『前世の脳が手順を完璧に覚えているだけ』なのだが。
フライパンに油を引いて火にかける。油が熱され、微かに白い煙が立ったところで、溶き卵を一気に流し込んだ。
ジュワァァァッ!
という派手な音とともに、卵がふわりと膨れ上がる。すかさず冷やご飯を投入し、お玉の背で叩くようにして米粒をほぐしていく。
肉と野菜を加え、塩、コショウ、そして顆粒のブイヨンで味を調える。鍋肌からほんの少しだけ醤油を垂らすと、香ばしい焦がし醤油の匂いがキッチンいっぱいに広がった。
ふと視線を感じて横を見ると、少女がキッチンのすぐ横で宙に浮いたまま、俺の手元を食い入るように見つめていた。
「……そんなじっと見られると、やりづらいんだけど」
「面白い」
「料理が?」
「悠真が」
「どういう意味だよ」
俺の問いには答えず、彼女はフライパンの中でパラパラと舞う米粒を不思議そうに目で追っていた。
*
数分後。
テーブルの上には、大盛りの炒飯と、即席のわかめスープが二つ並んだ。
少女はダイニングチェアの前に移動したが、当然のように椅子には座らなかった。座面から十センチほど上の空中に、ちょこんと座るような姿勢で浮遊を保っている。
「……便利だな、その身体」
「?」
俺は向かいの席に座りながら、ふと重大な疑問に行き当たった。
「ちょっと待て」
「?」
「お前、それ食べられるのか?」
「お腹、空いた」
「いや、それは知ってる。そうじゃなくてさ」
俺はスプーンを指差した。
「さっきからお前、物に触れられてないだろ。さっきも俺の服を掴もうとして空振りしてたし。スプーン、持てるのか?」
俺が指摘すると、少女は少し不思議そうな顔をして、テーブルの上のスプーンに向かって右手を伸ばした。
彼女の半透明の指先が、金属の柄に触れる。
——スッ。
何の抵抗もなく、彼女の指はスプーンをすり抜け、テーブルの天板の中へと沈み込んだ。
「…………」
少女は自分の手をじっと見つめ、無言になった。
「ほら見ろ。物理的な干渉ができないなら、食うこともできないんじゃ……」
俺が言いかけた、その時だった。
少女はもう一度、自分の半透明の手のひらを見た。そして、テーブルの上のスプーンをじっと見つめ直した。
数秒の間。彼女の中で、何かのスイッチが切り替わったような、微かな気配の変化があった。
再び、彼女が右手を伸ばす。
カチャ。
今度は、すり抜けなかった。
半透明の細い指が、しっかりと金属の柄を握りしめ、スプーンを持ち上げたのだ。
「…………え?」
俺は目を丸くした。
「持てた」
少女は何事もなかったかのように、平然とスプーンを構えている。
「なんで!? さっきすり抜けてたじゃん!」
「んー……」
少女は小首を傾げた。
「『持てる』って、思ったから?」
「…………」
持てると思ったから、持てた。
トンデモない理屈だった。物理法則を根底から馬鹿にしている。
だが、現実に彼女は今、スプーンを握り、器用に炒飯をすくい上げて自分の口へと運んでいる。
俺は頭を抱えたくなったが、これ以上深く考えるのはやめた。「お前の身体、本当にどうなってんだよ……」とだけ呟き、自分もスプーンを手にした。
もぐもぐ。
少女は無言のまま、行儀よく炒飯を咀嚼している。
久しぶりに、家族以外の誰かに自分の料理を食わせた。たぶん前世以来だ。なんだか妙に緊張する。
一口。二口。三口。
彼女の食べるペースが、思いのほか速い。
「……どう? 味は」
俺が恐る恐る聞いてみると、少女は少し咀嚼を止めて考え込んだ。
「まずまずの、美味しさだった」
「そりゃどうも。……ってか、まだ食ってる途中なのに過去形で評価するなよ」
無表情のまま淡々と食べているが、スプーンの動きは止まらない。幽霊のくせに、しっかりと味覚も食欲も存在しているらしい。
あっという間に、彼女は俺より先に皿を空にしてしまった。スープも綺麗に飲み干している。
「もう一杯」
少女が空の皿をスッと前に突き出した。
「食うな!?」
見た目は華奢で、しかも体重ゼロの幽霊のくせに、普通に俺と同じ量をおかわりしようとしている。
仕方なく、俺はフライパンに残っていた炒飯をすべて彼女の皿に盛ってやった。それも、彼女は数分で平らげてしまった。
「最後に飯食ったの、いつだよ……」
「分からない」
相変わらずの返答に少しだけ不憫さを覚えたところで、片桐の「何か変なことをしたら連絡しろ」という指示を思い出した。俺は母機から『少女、意思次第で物理干渉できる模様。食事も可能』と送る。少しして返ってきたのは、『……詳しくは明日聞く』という、ひどく疲れた一文だけだった。
*
食後の冷茶を飲みながら、俺は改めて彼女に向き合った。
空になった食器を前に、尋問ではなく、あくまで普通の会話のトーンで切り出す。
「それでさ」
「うん」
「いくつか聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「なに?」
「そもそも、なんであんな地図にない通路の奥にいたんだ?」
少女は少しの間、宙を見つめて考えていたが、やがて首を振った。
「分からない」
まあ、そうだろうな。
「気づいたら、あそこにいた」
「いつからいたかも、分からない?」
「うん」
「じゃあ、あそこにいた時間がどれくらいなのかも?」
「分からない」
「……お前、何なら分かるんだよ?」
俺が少し呆れたように言うと、少女は真剣な顔で俺を見た。
「ごはんが、おいしかった」
「それは今、たった五分前に知った情報だろ!」
思わずツッコミを入れると、少女は不思議そうに瞬きをした。
会話を通して、彼女の記憶の状態が少しずつ分かってきた。
言葉は普通に話せるし、「冷蔵庫」という概念も思い出しつつある。一般的な常識や知識は、頭の奥底に眠っているようだ。
だが、自分自身に関わる記憶が完全にすっぽ抜けている。自分の名前、出身、家族のこと。いつからあの空間にいたのか、《大転移》という現象を知っているか。そして、自分自身の正体が何なのか。
「それって、要するに完全な記憶喪失……なのか?」
「たぶん」
「そこはやっぱり『たぶん』なんだな……」
俺は深くため息をつき、次の質問に移った。
「じゃあ、あの『力』についてはどうなんだ?」
「あの力?」
俺はテーブルの上のスプーンを指先でトントンと叩いた。
「俺にくれた、これだよ。念動力。お前、どうやってあんな超能力を俺に渡したんだ?」
少女はしばらく黙り込み、自分の半透明の手のひらを見つめていた。
そして、先ほどスプーンを持った時と全く同じ、平然とした声で答えた。
「できると、思ったから」
「…………」
俺は頭を抱えた。
「『できると思ったから』で、他人にいきなり超能力なんて渡せるわけないだろ!」
「でも、渡せた」
「完全な結果論じゃねえか!」
俺が抗議すると、少女は少しだけ得意げに、小さく胸を張った。
「私は、すごいみたい」
「自分が誰かも分かってないのに、そこだけは謎の自信があるんだな」
「うん」
「……まあ、確かに、あのガーディアンをぶっ飛ばせたのは凄かったけどねぇ」
俺は立ち上がろうとして、ふとテーブルの上の空いた食器を見た。
今日、彼女から突然授けられた『念動力』。
さっきあの謎の空間では、自分のライフルを呼び寄せようとして、危うく顔面に直撃させそうになった。精密な操作は全くできなかったはずだ。
試しに、目の前の皿一枚に意識を集中させてみる。
——ふわっ。
皿が、空中にふわりと浮かび上がった。
「上手になった」
少女が感心したように言う。
「さっきよりはね。落ち着いてるからかな」
俺は皿をゆっくりと動かし、キッチンのシンクの中へ運んだ。
カチャ。
割れることもなく、無事に着地成功。
よし、次。コップ。スプーン。彼女が使った皿。
次々と意識を向け、浮かせていく。
その時、俺は明確な『異常』を感じ取った。
「……あれ?」
「なに?」
「いや、なんか……妙に簡単だなと思って」
俺は違和感を口にしながら、空中の食器を操り続けた。
最初は一つずつだった。だが、皿が二枚、三枚と増えていくにつれ、俺の脳はまったく混乱を起こさなかった。
気がつけば、皿二枚、コップ二つ、スプーン二本、そしてテーブルの端にあった調味料のビンまで、同時に七つの物体を空中に浮遊させていた。
それだけではない。
それぞれの物体を、完全に別の軌道で、異なるスピードで操作している。皿はシンクへ。コップは水切りの方へ。調味料は棚の中へ。
信じられないほど、『妙に馴染む』のだ。
ほんの数時間前まで、俺は超能力など欠片も持っていない普通の人間だった。
それなのに、今、俺が念動力を使う感覚は、「右手で箸を持ち、左手で茶碗を持つ」のと同じくらい、極めて自然で当たり前の行為として脳に処理されている。
右足を何センチ前に出して、膝を何度曲げるか。歩く時にそんなことをいちいち計算する人間はいない。
それと全く同じだ。どう動かすかを逐一頭で考えなくても、俺の『意思』がそのまま物理的な『力』となって空間に反映されている。
俺は、シンクに置かれた食器を手で洗い始めた。
スポンジや洗剤、水流まで一気に念動力で操ることもできそうだったが、そこまでやるより普通に手で洗った方が早そうだった。
洗った皿だけを、念動力でスッ、スッと水切りラックへと運んでいく。
非常に生活感にあふれた超能力の使い方だ。
「なんか、もう完全に慣れてきた」
俺が呟くと、少女が不思議そうに首を傾げた。
「慣れた?」
「うん。というか……やっぱり、ちょっと変なんだよな」
「?」
「今朝まで、こんな力使ったことなんて一度もないのにさ。まるで、ずっと昔から、生まれた時から使ってたみたいな感じがするんだ」
それくらい、彼女から渡された力は俺の身体に『完成された状態』でフィットしていた。
少女はそれを見て、小さく頷いた。
「上手」
「お前がくれたんだろ」
「うん」
「何か、もっと効率のいい使い方のコツとかないの?」
「使えば、いい」
「それがコツ?」
「うん」
「……全然参考にならねえな」
*
後片付けを終え、俺がリビングのソファに腰を下ろすと、少女もフワフワとついてきた。
しばらくぼんやりと外の景色を眺めていた彼女だったが、やがて小さく欠伸をした。
「悠真」
「ん?」
「眠い」
俺はジト目で彼女を見た。
「……お前さ」
「?」
「お腹空くの?」
「うん」
「飯、食うの?」
「うん」
「で、食ったら眠くなるの?」
「うん」
「お前、本当に幽霊じゃないよな?」
俺が呆れて言うと、少女は生真面目な顔で答えた。
「たぶん、違う」
「だから『たぶん』って言うのやめろ」
とはいえ、眠いものを無理に起こしておく理由もない。
「じゃあ、そこのソファ使っていいぞ」
「ソファ?」
「その長椅子。横になって寝るんだよ」
俺が説明すると、少女はコクリと頷き、ソファの上へと移動した。
そして。
彼女は座面には一切接触せず、ソファから十センチほど上の空中に、仰向けの状態で『横たわって』静止した。
長い銀白色の髪が、重力を無視して空中にフワッと広がり、白い服の裾が緩やかに波打っている。
目を閉じる。
「いや、そうやって浮いたまま寝るのかよ!」
「……おやすみ」
「早っ」
数秒後。
スゥ、スゥ、と規則正しい寝息が聞こえ始めた。本当に秒速で寝落ちしやがった。
俺はため息をつき、ソファの近くの椅子に座って彼女の寝顔を観察した。
起きている時は、どこか人形めいた、感情の抜け落ちた顔つきだった。だが、こうして力を抜いて眠っている姿を見ると、年相応の、どこにでもいる普通の女の子に見える。
空中に浮いていて、身体がうっすら透けているという点を除けば、だが。
静かなリビングに、時計の秒針の音だけが響く。
今日一日の、あまりにも異常な出来事を頭の中で整理する。
俺は空中で爆睡している少女を見ながら、改めてとんでもない相手を家まで連れてきたものだと思った。
「…………」
結局、こいつが何者なのかは何一つ分からない。
人間なのか、幽霊なのか。どうして俺に力を与えられたのか。
考えたところで、本人にすら分からないのだから答えが出るはずもない。
明日の朝にはまた協会へ連れていくことになっているし、詳しく調べるのはその後だ。
「……まあ、今日はもういいか」
俺はそう呟き、椅子の背もたれに身体を預けた。
俺は深く息を吐いた。
だが、そこで今すぐ考えなければならない問題に気づいた。
壁の時計を見る。時刻はすでに夕方の五時を回ろうとしていた。
両親が、工場と農場から帰ってくる時間だ。
「…………」
俺は再び、ソファの上を見た。
どう見ても普通の少女ではない。
身体は半透明。
宙に浮いている。
銀白色の髪に、白い謎の服。
しかも今は空中で寝ている。
「これ、父さんと母さんが帰ってきたら、どうやって説明すればいいんだ?」
最初に、勝手に危険な場所へ入ったわけではないことは絶対に言おう。
片桐さんへ報告して、大人しく帰ろうとしていたこともだ。
ゲートへ入ったのは、逃げ道を塞がれて他に選択肢がなくなったから。
この子は、その先にいた。
念動力のことは……隠せるわけがない。
実演すれば、少なくとも嘘ではないと分かってもらえるだろう。
問題は、この半透明の少女を家まで連れて帰ってきた理由だ。
協会の指示だと言えば、そこは納得してもらえるはず。
……いや、説明の順番を考えても十分おかしいな。
「……順番に並べても、頭のおかしい奴の妄言にしか聞こえねえな」
俺が頭を抱えていると。
ガチャリ。
玄関の扉が開く音が、アパートに響き渡った。
「げっ」
「ただいまー。悠真、今日はもう帰ってるの?」
母さんの明るい声だ。靴を脱ぐ音からして、父さんも一緒らしい。
二人の足音が、廊下を歩いてリビングへと近づいてくる。
「お、おかえり……」
俺は椅子から立ち上がり、引き攣った笑顔を向けた。
リビングに入ってきた両親は、まず俺の顔を見て「おかえり、早かったな」と微笑んだ。
次に。
二人の視線は、自然と部屋の中央に置かれたソファへと向けられた。
そこには、半透明の少女が、長い銀白色の髪を空中に広げ、プカプカと浮いたまま安らかな寝息を立てている。
ピタリ。
両親の動きが、映像がフリーズしたかのように完全に停止した。
一秒。
二秒。
三秒。
「…………悠真?」
母さんが、微かに震える声で俺を呼んだ。
「はい」
「その子、誰……?」
「それが、その、いろいろありまして……」
「待て」
父さんが、母さんを制止し、目を細めてソファの上の少女を凝視した。
「説明の前に、一つだけ確認させてくれ。……その子、宙に浮いてないか?」
「浮いてるね」
「それに、向こう側のソファの柄が透けて見えているようだが……気のせいか?」
「透けてるね。気のせいじゃないよ」
「どういうことなの!?」
ついに母さんが悲鳴のような声を上げた。
俺は、観念して事情を説明することにした。
長々と語っても信じてもらえないだろうから、要点だけをかいつまんで話す。
「今日、新しい周回ルートに行ったんだけど、そこで地図にない謎の通路を見つけてさ」
「入ったの!?」
「入ってない! 俺はちゃんと片桐さんに報告して、大人しく帰ろうとしたんだ!」
俺は必死に弁明した。無断で危険地帯に突っ込むような不良息子だと思われたくない。
「それで?」
父さんが促す。
「そしたら、ゲートガーディアンっていうバカでかい防衛機械が出てきて、追い回された挙句に出口を瓦礫で潰されて……仕方なく、その謎の通路の奥にあったゲートの中に逃げ込んだんだ」
「そこで、その子がいたと」
「そう」
母さんが、空中で寝ている少女を恐る恐る指差した。
「それだけ……なの?」
「いや」
俺は少し間を置いて、最大の爆弾を投下した。
「あと、俺、超能力が使えるようになった」
両親は顔を見合わせ、そして再び深い沈黙に陥った。
「…………」
「…………」
「……悠真、もう一回言ってくれ」
「だから、超能力が使えるようになったんだってば」
「悠真、今日はすごく疲れたのね。早くお風呂に入って寝た方が……」
母さんが俺の額に手を当てようとする。
「いや、本当だから! 熱はないし、幻覚も見てない!」
俺はため息をつき、テーブルの上に置かれていたテレビのリモコンを見つめた。
フワッ。
リモコンが空中に浮かび上がる。
俺の意思に従い、リモコンはゆっくりと空中を滑るように移動し、父さんと母さんの目の前まで飛んでいった。
「…………」
「…………」
二人は、目の前で静止しているリモコンを、口を半開きにして見つめている。
リモコンが、空中でクルリと一回転した。
「念動力。この子にもらった」
俺が実演すると、さすがに両親も信じざるを得ないようだった。
母さんは真っ先に、能力そのものよりも俺の身体を心配した。
「だ、大丈夫なの!? 身体がおかしくなったり、どこか痛いところはないの!? 頭は!?」
「大丈夫だって。もらった直後はちょっと頭痛がしたけど、今は全然平気だから」
父さんは、冷静に状況の深刻さを分析しようとしていた。
「協会には、このことは?」
「全部報告済み。未登録ゲートの件は、今頃調査チームが動いてるはず」
「その子についてもか?」
「もちろん」
「じゃあ、お前が勝手に連れ帰ってきたわけじゃないんだな?」
「うん。片桐さんから、今日は俺のそばに置いて、明日の朝一緒に協会に連れてこいって言われたんだ」
ハンター協会から正式な指示が出ていると聞き、両親は少しだけ安堵の息を吐いた。
その時。
両親の話し声で目が覚めたのか、少女の淡い青紫色の目が、ゆっくりと開いた。
彼女はフワッと身体を垂直に起こし(相変わらず空中に浮いたままだ)、見知らぬ大人二人を見つめた。
「…………」
「…………こ、こんにちは?」
母さんが、引き攣った笑顔で挨拶をした。
「こんにちは」
少女が抑揚のない声で返事をした。
母さんがビクッと一歩後ずさる。
「普通に喋るからな」
「先に言ってよ、そういうことは!」
だが、相手が見た目は十五歳くらいの、華奢で儚げな少女であることには変わりない。
母さんの持ち前の世話焼きな性格が、警戒心を少しだけ上回ったようだ。
「あ、あの……お腹は空いてない?」
「食べた」
「何を?」
「悠真が作った、ごはん」
「えっ、悠真が!?」
母さんが、信じられないという顔で俺を見た。
「そっち!? 驚くのそこ!?」
「だって、悠真、料理なんてできたの!?」
「まあ……ちょっとね」
前世で自炊生活が長かったなんて言えるはずがない。
「いつの間に覚えたのよ」
「料理動画とか見てたから! 見よう見まねで!」
俺は必死に誤魔化した。
「……美味しかった?」
母さんが少女に尋ねると、少女はコクンと頷いた。
「まずまず」
「その『まずまず』って評価、固定なの?」
俺のツッコミに、母さんが思わずクスッと笑った。
その笑い声で、部屋の中に張り詰めていた異常な空気が、少しだけ緩んだ気がした。
父さんが、真剣な顔つきで少女に向き直った。
「それで、君はどうしてあんな地下のゲートの中にいたんだ?」
「分からない」
「君の家はどこだ?」
「分からない」
「家族は?」
少しの沈黙の後。
「分からない」
俺が質問した時と同じ、完全な忘却。
だが、その答えを聞いて、母さんの表情が少し変わった。
見た目は息子と同年代。幽霊のような正体不明の存在ではあるが、自分の名前も、帰る家も、家族の顔すら思い出せない迷子。
母さんの目から警戒心が消え、代わりに深い同情の色が浮かんだ。
「悠真に、その超能力を与えたのは君なのか?」
父さんが尋ねる。
「うん」
「仕組みは分かるのか?」
「分からない」
「…………」
父さんが黙り込む。
「俺も家でいろいろ聞いたけど、本人も自分が何者なのかすら覚えてないみたい」
俺が肩をすくめると、少女は俺たちの顔を交互に見て、小さく頷いた。
「でも、力は渡せた」
「……そうか」
父さんは深くため息をつき、頭を掻いた。
「父さん、受け入れるの早くない?」
「理解はしていない。ただ、本人が一番分かっていないような現象を、これ以上問い詰めても仕方ないと思っただけだ」
理性的で現実的な父さんの反応は、俺にとっては非常にありがたかった。
母さんが、最も現実的な問題に切り込んだ。
「それで……この子は、今日これからどうするの?」
「…………」
「…………」
「…………」
全員が黙り込む。
「そこなんだよね」
俺が頭を掻くと、少女は俺の顔を見て、きっぱりと言った。
「ここにいる」
「お前、なんでそう勝手に決めるんだよ」
「でも……帰るところも、行く当てもないんでしょう?」
母さんが、助け舟を出すように言った。
「うん」
少女が頷く。
母さんは完全に絆されていた。
「……じゃあ、今日はうちにいればいいんじゃない?」
「いいの、母さん!?」
「外に放り出すわけにもいかないでしょう。こんな、記憶もない女の子を」
「協会の許可が出ているのなら、今夜一晩だけなら構わないだろう」
父さんも同意してくれた。
これで、なし崩し的にではあるが、謎の幽霊少女との同居が決定してしまった。
「でも、布団はどうする? お客様用のなんて無いわよ」
母さんが悩み始めると、俺は先ほどの光景を思い出して言った。
「布団はいらないと思う」
「なんで?」
俺はソファを指差した。
「浮いて寝るから」
「…………」
「寝られる」
少女が肯定する。
「そ、そう……」
母さんの常識が、音を立てて崩れていくのが分かった。
一段落ついたところで、母さんがふと思い出したように少女に微笑みかけた。
「そういえば、あなたのお名前は?」
「…………」
「…………」
「…………」
「?」
母さんが不思議そうに首を傾げる。
俺は少女を見た。少女も俺を見た。
「そういや俺、お前の名前、聞いてなかったな」
「一日中一緒にいて、どうして聞かないのよ!」
母さんが呆れたように俺を叩く。
「いや、今日会ってからまだ数時間しか経ってないし、ずっと命懸けだったし!」
「では、改めて。君の名前は?」
父さんが優しく尋ねた。
少女は少しだけ考え込んだ。
長めの沈黙が、リビングに降りる。
そして。
「……分からない」
全員が、深い沈黙に沈んだ。
「やっぱり、そこも覚えてないのか……」
「うん」
「でも、名前がないとこれから困るわね」
母さんが困ったように言う。
「困る?」
「だって、なんて呼べばいいか分からないでしょう? 誰かがあなたを呼ぶための、大切なものよ」
少女はポカンとしていたが、初めて『自分には名前というものが必要らしい』ということを認識したようだった。
彼女はゆっくりと宙を漂い、俺の目の前までやってきた。
淡い青紫色の瞳が、俺を真っ直ぐに見つめる。
「悠真」
「なに?」
「名前」
「……え?」
少女は、一切の感情を交えない、澄み切った声で言った。
「名前、つけて」
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