灰被りの蜘蛛 作:BNDに脳を焼かれたやつ
宙に浮かぶ、燃え盛る炎の球。まるで神話のような光景は、しかし科学によって引き起こされたものだ。
「博士、オクタビアス博士!」
ドクター・オクトパスと名付けられたヴィラン、オットー・オクタビアスはスパイダーマンこと私によってボッコボコにされた。同じ八本足の生物モチーフ同士の格付けは決まったね、蜘蛛はタコよりも強し、だ。次からはさん付けで呼んでもらうとしよう。
「起きてください、オクタビアス博士!」
なんて、おちゃらけている場合ではなかった。私は必死になって気絶した彼に声をかける。すると声が届いたのか、彼はようやく目を覚ました。
「……あぁ、どうなった?」
「あなたはボクに殴られて気絶しました! 骨が何本か折れてるけど命に別状はありません。許してね!」
「そうか、私は負けたのか」
ちょっと強く殴りすぎたかも。混乱していた博士は、ようやく現実を認識してくれたらしい。
「あれを見てください博士。あなたの作った太陽が、手当たり次第に周りの物質を食いつくしてる! どう見ても暴走状態ですよ! あれを今すぐ止めないと。どうか手を貸してください!」
「無理だ。ああなってしまった以上、あの光はさらに周囲の物質を食らって大きくなり続けるだろう。止める術はない」
「川に沈めて冷却すれば、理論上核融合反応は停止するはずです。そうでしょう!」
私は知っている。知識の中で、あの装置は停止したのだ。
「くっ、ははは! そうだな、君の言う通り、あの暴走した核融合炉も川に沈めれば止まることだろう」
私の記憶の中のオットー・オクタビアスが、自らを犠牲にしてあの装置を川に沈めたおかげで。
「それで、誰がそんなことをするのかね?」
けれど、所詮記憶は記憶であるらしい。
「あなたは、このままニューヨークが火に飲み込まれたって構わないというのですか。本の中で、あなたは言ったはずです。知識は世の中のために使うべきと……!」
「……本当に私の著書を読んでくれていたのだな、君は。だが実を言うとだね、私は人類という総体での発展は望んでいるが、他人の命などは至極どうでも良いと思っているのだ」
「どうして!?」
私がそう問いかけると、オクタビアス博士は疲れたように笑った。
「スパイダーマン、君は若いな。まだ十代かそこらだろう。一方私は、君の何倍もの年月を生きてきた。己の知性を世の中のために使うべく、な。その過程で得たものが、君には分かるか?」
「……」
「何もないのだ。どれだけの善い行いをしようとも、理想を掲げようとも、誰にも理解されぬ。それどころか否定され、爪弾きにされる。スターク社で私は数十年もの間、当時は見向きもされなかったクリーンエネルギーの研究を続けた。私は何度も予算拡大を訴えたのに、会社は耳を傾けなかった。それなのに、スタークがアークリアクターを小型化した瞬間、彼らはこぞって予算を出した。私の核融合にではなく、アークリアクターにな。私が育ててきた部下たちも、基礎研究のデータも、調達した物資も、私のラボさえも、根こそぎ奪われたのだ! 私が何十年もの間、捨てられるはずだったものを維持してきたというのに! やつらは我が物顔でその成果だけを摘み取っていった! 誰のおかげで、すぐにアークリアクターの研究を再開できたと思っている! 私がいなければ、またゼロからのスタートだったろうに!」
博士は強く拳を握りしめ、怒りのままに地面に叩きつけた。震える手の中からは、血が滴り落ちている。
「そして、最後には研究を打ち切られ会社を追い出された。……結果を出せなかったと言われればそれまでだ。スタークが洞窟で成し遂げたことが、私にはできなかっただけ。しかし冷や飯を食らいながらも、足りない予算の中で私は必死に研究を続けた。なのに、天才の一手ですべて覆されたなんて、とても認められなかった。私は、私の生涯はそんなものではないと否定したかったのだ。……だが、最後に賭けた核融合炉もあのザマだ」
安全ゴーグルを外すと、オクタビアス博士は眩い光を前にその緑色の瞳を細めた。
「本当は分かっていたさ、実験が高い確率で失敗することはな。けれど、もはやそれでも良いと思ったのだ。どうせ私には何も生み出せぬ。ならばいっそのこと、すべて燃えてしまえば良いと。私を認めなかった社会も、無能な我が身もすべて」
太陽が膨れ上がっていく。おそらく、これ以上肥大化すればあの光はいよいよ手がつけられなくなるだろう。焼け石に水どころか、それこそ太陽に水だ。やがては、この青く美しい星の地上、あまねくすべてを焼き尽くす。もはや何かも分からなくなった、色褪せた灰となるまで。
「すまないな、スパイダーマン。正直、君は好感を持てる若者だと思う。善きことをなすのに躊躇がなく、全力で、何よりまっすぐだ。眩しいくらいにな。こんな、老人の妄執などに付き合うべきではないというのに」
「オクタビアス博士……」
「だがな、それでも私は、その眩しさを前に何もしてやれないくらい疲れてしまったのだよ」
オットー・オクタビアス。私の二倍はおろか、四、五倍は長く生きたことだろう。そしてその人生を善きことに捧げたが、その努力は実ることがなかった。だから彼は、全てを諦めて燃やそうとしている。
……本当に?
「だったら」
……本当に、オクタビアス博士が生み出したものは、何もなかったのか?
「だったら、ボクが今から証明しますよ」
いいや、違う。彼にはもう一つ、素晴らしい発明品があるじゃないか。ニューヨークを太陽から救い出す、神の手のごとき叡智の結晶が。
「あなたの発明は、世界を救うことだってできるんだって」
私はオクタビアス博士の体を無理やり起こし、うつ伏せにした。
「おい、おいおい、何をして……うがっ!」
「痛いかもですけど、我慢してくださいね!」
彼の背中に張り付いた四本のアーム、それを私は手動で取り外す。
「よせ、何を考えている! そのアームは私の神経と繋がっているんだぞ!」
「あなたの論文は全部読んだって言ったでしょ? ほら、ボクって器用ですし、手動で脱着できるかも」
「正気か君は! そもそも、私はもう戦えん。アームを奪っても無意味だぞ!」
「ボクは、あなたを無力化するためにアームを奪うんじゃありません」
できた。完全に博士からアームを取り外せた。もともと緊急時には他人の手で外れるようになっていたのか、思ったよりも簡単だったな。外される側は死ぬほど痛いんだろうけど。
「ボク一人の力だとあれを止めるには足りないから、あなたの力を借りるんですよ」
大いなる力には、大いなる責任が伴う。けれど今私が果たすべきなのは、私の力を超えた責任だ。
だったら、足りない分の力を他から持ってくるしかないよね!
「くっ、結構キツイねこれ……!」
上着を脱いで、背中にアームを接続する。防火服の下はスパイダーマンらしくピチピチのスーツで体のラインが出るから、あんまり晒したくないんだけど致し方ない。
「まさか、一人であれを止める気か!?」
「まさかも何も、その通りだけど?」
「正気ではないぞ君は! 熱湯に茹でられ焼け死ぬか、磁力で体が滅茶苦茶になる可能性だってあるのだぞ!」
「知ってる。ぶっちゃけ生き残る確率の方が低そうだね。ボク、今日で廃業かも。けど、やらなくっちゃ」
「なぜそこまで……!」
四本のアームを意のままに動かしながら、私はオクタビアス博士の方を振り向いた。
「だってボクは、この街の
四本のアームが、炎の渦を押さえ込むように一本ずつ太陽へと触れた。
「見過ごすなんて、できるわけない」
この街には多くの人が暮らしている。大人も子どもも、強者も弱者も、悪人も善人も、そして私と違い、業火に飲まれるべきでない、罪無き命も。
その全てが助かるというのなら、対価として私の命の一つ、むしろ安いくらいだろう。
「よせ、スパイダーマン……ッ!」
核融合炉が音を立て崩れていく。そしてオクタビアス博士の悲痛な叫びを最後に耳にした私の体は、光と共に暗く冷たい川の底へと沈んだのだった。
「ごほっ、ごほっ。はぁ、死ぬかと思った」
どこかの川沿いで、私は仰向けになってマスクを脱いだ。夜空には都会にしては珍しく星が輝いて見える。太陽に目を焼かれていなければ、もっと綺麗に観察できただろうに。くすんだ星光しか見えないのはちょっと残念だ。
「君たちのおかげだね。ありがとう」
体を起こし、私と同じように川沿いに流された四本のアームの残骸だったものに、私は礼を言った。
オクタビアス博士の作ったアームに知性があったのか、それは定かではない。けれど、少なくとも彼らが私の命を救ってくれたのは事実だ。アームが自動的に私の背中からパージされていなければ、私も彼らと同じように黒焦げになっていたことだろう。
「ゆっくり休んでて。しばらくしたら、ダメージ・コントロール局の人が来て回収してくれるはず。置いてってごめん。でも私は、警部のところに行かないといけないから」
ぼやける視界のまま、私はマスクを被り直す。本当はこのまま寝そべって星を眺めていたかったけど、それをするにはまだ早い。
風を切り、夜のニューヨークを飛んで行く。今は少しでも早く前へ。そうでなければ、また。
「どうか間に合ってくれよ……!」
また私は、親しい人を亡くすことになるのだから。
「ただの人間が、より上位の種へと進化した私に歯向かうことが間違いだったのだ」
残ったのは私だけかと、地面に転がったジョージ・ステイシーは辺りを見渡し苦しげな表情を浮かべた。
仲間は皆、目の前のトカゲの怪物にやられてしまったのだ。ある者は気絶し、ある者はトカゲに変えられた。殺されなかったのは、慈悲ではなく捨て置かれたのだと分かる。それほどまでに、警察とこのトカゲの怪物との間には隔絶した戦力差が存在していた。
スパイダーマンに啖呵を切っておきながらなんてザマかと、彼は自嘲する。彼女が来てこの惨状を見た暁には、きっと鋭いナイフのような皮肉が飛んでくることだろう。
『あれ、蜘蛛の相手はできるのにトカゲの相手はできないんだ。優先順位履き違えてない? まったく、警察がそんなんだから』
声が聞こえた。少女のようにも、少年のようにも聞こえる声。まさかもう来たのかと期待したが、しかしこれは幻聴だと、ジョージ・ステイシーは頭を振った。
「お前たち警察がこの体たらくではな。やはり、私は正しかった。人類は皆、私のように強くなるべきなのだ」
『
「お前が、強いだと。はっ、笑わせるな……!」
「……何?」
倒れ伏すジョージ・ステイシーを無視し、水道局へと向かっていたリザードの足が止まった。
「私の強さを笑ったか? 面白い、ならば私にゴミのように投げ捨てられている貴様は何だ、虫けらか?」
首を握られ、ジョージ・ステイシーの体が持ち上がる。その鋭い爪が彼の首に食い込み赤い血が滴り落ちるが、彼はむしろ望むところだと不敵に笑ってみせた。
「そうだ。貴様は、真の強者などではない。単なる臆病者だ!」
リザードが自分に構えば構うほどに、彼女が来るまでの時間を稼ぐことができるのだから。
「私が、臆病だと……?」
「カーティス・コナーズ。お前は二年前、チタウリとの戦いに巻き込まれ片腕を失ったそうだな。それで怖気づいたんだろう。自分の体の一部が奪われたことに! だから執拗に強さを追い求めている!」
「……黙れ!」
ジョージ・ステイシーの首を握る手がより強く握り締められた。気道が締まり、血流が滞る。意識が遠のくが、それでも彼は言葉を続けた。
「……っ、黙る、ものか。お前は他人の弱さを否定しているだけだ! それのどこが強者だ。馬鹿馬鹿しい。良いか、教えてやる。本当の、強さとはな……!」
音が聞こえた。今度は幻聴ではない、確かな音だ。一年前からこの街に響き始めた奇妙な音。誰かが助けを求めたとき、どこからともなく飛んできてはその手を掴む、不思議な糸の音。
「弱者が弱者のままでいられるように、守れる者のことを言うのだ!」
告白すれば、ジョージ・ステイシーは弱かったのだ。一人の少女を、少女のままでいさせてやることができなかった。
ならば、守ることはできずともせめて、彼女の背負う大いなる責任の一端を、ほんの僅かでも背負ってみせよう。
それが、ジョージ・ステイシーの小さな力に伴った、小さな責任というものなのだから。
消えゆく意識の中で力を振り絞り、彼は手に握りしめたものを投げた。それは、彼の娘が作ってくれた解毒剤の入った注射器である。
ジョージ・ステイシーでは、リザードの分厚い皮膚を貫いてその注射器を刺すことはできない。けれど彼女ならば、きっと──!
「受け取れ、スパイダーマン!」
それはリザードの頭上を大きく乗り越え弧を描く。何かを投げられたことにリザードが気づくが、もう遅い。
──thwip.
その音が、投げられたバトンを拾い上げたのだから。
「さあて、お注射の時間だよ。コナーズ博士! 怖かったら目をつぶってても良いからね!」
そしてここに、ニューヨークを襲った二人の博士が引き起こした事件が、終幕を迎えたのである。
「オクタビアスは、どうなった」
私の横で糸に逆さ吊りにされた、仏頂面のコナーズ博士がそう質問した。
「彼は無事ですよ。今は、丁度パトカーで運ばれてる最中かも」
「そうか。核融合炉も?」
「はい。暴走したため、ボクが水底に沈めました」
「……そうか」
私の答えを聞いて、コナーズ博士は何かを悟ったように呟いた。もしかしたら彼にも、オクタビアス博士の研究が失敗するだろうことは分かっていたのかも。
「ねぇ、コナーズ博士。あなたはどうして、周りの人をトカゲに変えようとしたんですか?」
「言っただろう。私は、人類全体をより強くするために──」
「それ、嘘ですよね。いや嘘というよりも、それが全てではない気がします」
「……そうだな、なぜ分かった?」
観念したように、コナーズ博士がため息をつく。
「だって、強さって色々です。力の強さもそうだけど、心の強さや、経済力の強さ、人脈の強さ、権力の強さ、そして頭脳の強さ」
「それで?」
「あなたは科学者で、だからこそ頭脳の強さを軽んじるなんてことはしないはずだ。けど、あなたがトカゲに変化させた人間たちはみんな理性がなかった。矛盾してるって思ったんです」
「その通りだ名探偵。そしてまさしく、そこが問題だったのだ」
博士はそう言って、言葉を続けた。
「私の開発した薬は、人間により強い肉体と優れた能力を授けた。だが、その代償として理性を失ってしまうのだ。正しい心もな。だから、私の薬は製品として上から認可が降りなかった。役員会による監査でも、危険と判断された。私もオクタビアスと同じく、研究を打ち切られる寸前だったのだよ」
力ない笑みと共に、ぶら下がった博士が揺れた。
「私の体は、見ての通り片腕がない。失くした腕をもとに戻すためには、あの薬を使うしかなかった。だから考えたのさ、ニューヨーク中が私の薬を摂取したとなれば、もはや私の薬は公然のものとして存在を認めざるを得なくなるのではないか、とね。……結果は、こんなにも早く解毒剤を作られて終わってしまったわけだが」
「薬を調合したのはあなたのラボのインターン生です。良い助手を持ちましたね」
「グウェン・ステイシーか。そうだな、彼女は実に優秀だった。私にはもったいないくらいに」
「彼女、悔やんでいたみたいですよ。あなたを止めることができなかったって」
「……本当に、私にはもったいない。私なぞ、彼女の実の父親を殺すところだったというのに」
しでかしたことを後悔しているのだろうか。コナーズ博士はそれからしばらく沈黙した。私も空気を読んで、その間は話しかけることはしなかった。
「パーカーが今の我々を見れば、きっと嘲笑するだろうな」
その一言を、耳にするまでは。
「パーカーって誰ですか……?」
「……会社の同僚だった男だ。今はもういない。彼もかつては私とオクタビアスの同志で、知識とテクノロジーこそが世界をより良くすると信じて疑わなかった」
「そのパーカーさんは、どんな人だったんですか」
「善良な人間だった。己の正義を貫くために命をかけるくらいにはな」
「命をかける? 彼は、何かに命をかけたんですか?」
「そうだ。知ってると思うが、少し前までスターク社は軍事企業だったろう」
コナーズ博士の言うとおり、スターク・インダストリーズ社はかつては軍事企業だった。トニー・スタークがアイアンマンと名乗りを上げる少し前に足を洗ったが、それまでは世界中に武器を売りつける死の商人だったのである。
「パーカーは、医療目的の研究をしていた。だがある日、彼の研究が軍事利用されることが役員会で決定されたのだ。それを言い出したのはスタークだったよ。あの頃のやつは、武器で平和が作れると信じて疑わなかったからな。そして、案の定パーカーは反対した」
体がまるで平衡感覚を失ったような気分になりながら、私は固唾を飲んで続く言葉に耳を澄ました。
「それから、役員会の決定から数日としないうちに、彼のラボが火災で全焼した。彼の研究成果も、彼自身も燃えてなくなった。失火だ、事故だと言われているが、私には分かる。やったのはパーカーだ。彼は自らの研究が軍事に利用されないように、火を放つことで自らの責任を果たしたのだ」
「………………」
「私は今でも、スタークが彼を殺したようなものだと思ってるよ」
「そう、ですか」
心の内は、言葉にならなかった。もう、何も考えたくなかった。
「……そういえば、パーカーは蜘蛛類が専門だったな。遺伝子操作された蜘蛛の研究をしていたと」
コナーズ博士はそこで言葉を切り、何か恐ろしい事実に感づいたかのようにジッと私の目を見つめて言った。
「まさか、君は、パーカーの……?」
私は否定も肯定もせず、ただその目を見つめ返した。
「コナーズ博士。思考実験は好きですか?」
「あ、ああ。それが嫌いな学者はこの世にいるまいよ」
「なら、考えてください。全てを燃やしたリチャード・パーカーが、もし仮にたった一人にその全てを託したのだとしたら、それは、どうして?」
博士の答えは沈黙だった。まぁ、別に答えが欲しかったわけじゃない。私は単に、誰かにそう聞かずにはいられなかっただけだった。
「変なこと聞いてすいません。それじゃあ、ボクはこれで」
コナーズ博士に背を向け、私は帰路につく。もうとっくに深夜だ。勝手に施設を抜け出したから、施設のマザーはもうカンカンになって玄関で私を待っていることだろう。
だから、この憂鬱な気持ちは、マザーに怒られるのが嫌だから感じてるものに違いない。
「待ってくれスパイダーマン」
「なんですか?」
「質問の答えは、私には導き出せない。だが、その答えが何であれ、もし彼が今の君を見たとすれば、君のことをきっと誇りに思うことだろう。それだけは間違いない」
「……ありがとうございます」
鳴り響くパトカーの音の中に、私の声はかき消えた。警察の増援が来たみたいだ。事件が終われば、私は用済み。立つ蜘蛛、後を濁さず。
私はコナーズ博士を一人残し、その場を立ち去ったのだった。
『先日、スターク・インダストリーズ社の社員が皆様をお騒がせした件について、元社長、現特別技術顧問である私、トニー・スタークが最高経営責任者ペッパー・ポッツに代わり謝罪申し上げます。我が社は事態を真摯に受け止め、第三者委員会を設立し、被害を受けた市民の皆様へ誠心誠意対応──』
テレビの向こう側、会見の場で、トニー・スタークが手に持っていたカンペを胸に仕舞った。
『いや、やめだ。君たちも知っての通り私は用意された原稿を読むのが下手でね。申し訳ないがアドリブでいかせてもらおう。被害を受けたインフラの復旧費用、一連の事件での被害者の治療費、その他すべての損失は、スターク・インダストリーズが全額補償する。1ドル残らずだ。誠意とは行動だと人は言うが、私は少し違うと思う。より正しくは、誠意とは行動と金だってことだ。私はこの二つで、私の果たすべき責任を果たす』
それから彼は、カメラに向かって訴えるかのように告げた。
『この場を借りて、二度と我が社の技術を狂人の玩具にはさせないと誓おう。以上! では、僕はペッパーに叱られる前に消えるとしよう』
フラッシュライトが去り行くトニー・スタークの背中に焚かれる。そんな中、一人の記者の質問で彼の足が止まった。
『スパイダーマンがスターク社の関係者であるという噂がありますが、それは事実でしょうか?』
彼は振り返ると、どこか言葉を選ぶようにその質問に答える。
『残念ながら、違う。本当だ。信じて貰えないかもしれないが嘘じゃない』
『では、スパイダーマンはスターク社とは無関係にも関わらず、警察と協力し事態収束に貢献したと?』
『その通りだ。いやはや、僕も聞いたときは耳を疑ったんだが。信じがたいことに、彼は我々を助け、守ってくれた。1ドルの見返りも、求めずにね』
『この場にスパイダーマンがいるとしたら、あなたは彼に何と伝えますか?』
『……親愛なる隣人として、街を守ってくれていることに感謝したい。それから彼が一体いくつなのかは知らないが、もし将来がまだ決まっていないなら、ぜひうちに来てみてほしいね。歓迎しよう』
そう言うと、トニー・スタークは扉の向こうに消えていった。
『まったく、あなたがちゃんと原稿読むって言ったから会見を任せたのに、これなら私が出るべきだったわ!』
『あぁ、悪いね。けど会見に出たのは原稿を読むためじゃなくて君の心労を肩代わりするためだ。だからほら、リラックスしてくれ』
扉の向こうから漏れた、二人の男女が会話する声をマイクが拾う。それから画面は切り替わり、ニュースは次の話題へと移った。
私はリモコンを手に取り、
それから共用のリビングルームを抜けて、施設長のいる部屋を訪れる。
「あのー、マザー? 今お時間よろしいですか?」
「ミス・パーカー。何が御用ですか」
「叔父と叔母の墓参りに行きたいので、外出許可をください」
「できません。どうせ、他の用事なのでしょう?」
私の暮らす施設の長、子どもたちからはマザーと呼ばれている老齢女性が、うろんな目つきで私を睨んだ。
「そんな、ちゃんと墓参りですって」
「墓参りなら昨日も行ったでしょう。一昨日も、その前の日も。毎日墓参りに行く子どもなど、見たことがありません。ましてやお前は何度も前科があるのですから。門限破り、無断外出、無断外泊、そのすべて、私は記録していますからね」
「あ、あはは。それはもう、反省してます。けど今日は本当に、墓前に報告したいことがあるんです。この前の病院の件で。ダメ、ですかね?」
マザーは深くため息をつくと、老眼鏡を外して私の顔をじっと見つめた。
「……暗くなる前には戻るように」
「ありがとうございます!」
そうして私は、無事に施設から抜け出した。マザーは悪い人じゃないんだけど、規律に厳しい人だから私のことは嫌いみたい。まぁ、勝手に施設を抜け出す不良児なんて嫌われて当然か。
電車に乗って行けばそんなに時間は掛からないけれど、電車賃がもったいないので軽くジョギングしながら墓地へ向かう。なんなら本気で走れば電車よりも早く着きそうだが、そうすると目立ち過ぎるので諦めるしかなかった。
「おじさん、おばさん。先週のことで報告に来たんだ。本当に色々あったんだよ。スパイダーマンとして初めてスーパーヴィランと戦ったり、警察の人たちと協力したり、お父さんのことを知ったり、憧れを見失ったり」
二人の墓石の前に花を添える。色とりどりであったはずの、
「それから私ね、色が分からなくなっちゃった。網膜の錐体細胞っていう、色を判別するための器官が完全にダメになっちゃったみたいでさ。別に、治療費が足りないとかじゃないんだ。本当にもう治せないって、お医者さんに言われた」
川底に沈んだあのとき、私の目はあまりにも近くで太陽を見続けてしまった。その後遺症で、私の視界に映る全ては灰色になってしまったらしい。
けど、これでも比較的ラッキーな方だと思う。だって、下手すりゃ視力そのものを失っちゃってた訳だし。
「……正直、結構キツイよ。もともとあったものが、なくなるっていうのはさ。それに色がない世界ってすごく、寂しい感じがする。でも、後悔はしてない。あのとき私が川に核融合炉を沈めなかったら、今ごろニューヨークどころか地球そのものが消えてたかもしれないんだし」
視界から色が失われたことで、何かが劇的に変わったわけではない。むしろ、劇的に変わったことと言えば。
「パーカー」
「あ、ステイシー警部」
私の正体を看破した、警部との関係くらいだろうか。
「……目は、大丈夫なのか」
「うん、大丈夫。ところで、私のお願いは通りそう?」
悪党退治の競争は私が勝った。私はそのお願いで、正体を隠していて欲しいとは言わなかった。いつか私が道を踏み外したとき、警部には私を逮捕して欲しいから。
「難しいな。やはりスパイダーマンの状態で刑務所の面会に行くというのは、どうしても色々と規則に引っかかる」
「そっか」
「だがまぁ、そこも応用だ。君がもっとスパイダーマンとしての信用を勝ち取ることができれば、そのうち彼らに会いに行くこともできるだろうさ」
「だと良いね」
私が捕まえた博士たち二人は、大人しく刑務所に服役している。刑務作業なども真面目にこなしているそうだ。
私が警部に伝えたお願いは、スパイダーマンとして彼らへの面会に行くことである。ちょくちょく様子を見に行ってあげないと、脱獄なんてされたら大変だしね。
「ああ、そうだ。デイビス巡査が目を覚ましたそうだ。お前に礼を言っていたぞ。わざわざスパイダーマンに見舞いに来てもらったと聞いて白目を剥いていたな、彼は」
「ほんと? 嬉しいニュースだね。これから毎日、元気になるまで窓の外から様子見てあげよっかな?」
「やめてやれ」
トカゲになっていた人たちは、グウェンの作った解毒剤でみんなもとに戻ることができた。
そんなグウェンだけど、警部からの無茶振りで社内規範的にヤバいことをしたせいで一時スターク社のインターンをクビになるところだった。だが、今ではなんとか首一枚で繋がっているらしい。何でも、デイリー・ビューグルのJ.J.J.がグウェンを街のヒーローだと囃し立てたおかげで、メディア対策に雇われ続けることになったそうだ。普段はスパイダーマンを貶すだけの彼も、たまには役に立つらしい。
ちなみに警部も処分を受けた。リザードを止める為に致し方なかったとは言え、身内を使って勝手なことをしたからね。今は謹慎中で、家族との時間を過ごしている。むしろ、休暇になって良いんじゃなかろうか。警察の上層部も、そういう意味で謹慎処分にしたのかもしれない。
「じゃ、私はもう帰るね」
「夕飯、うちで食べて行っても良いんだぞ」
「良いよ。私ばっかり外で食べてたらまたマザーに怒られるから」
なんだかんだで、警部は私がスパイダーマンだと確信した後でも私のことが心配らしい。何かと面倒を見ようとしてくれる。
私に返せるものは、何もないのに。
「また別の機会にね、バイバイ警部……って、またか」
そして、私たちが墓地で別れようとしたその時。鳴り響くサイレンの音が、通りの向こう側から響き渡った。
「はぁ、墓参りする時って必ず事件に巡り合うんだよね。これって何かの呪いだったりするのかな」
「……行くのか、パーカー」
「うん。行くよ。あ、そうだ。私のバックパック預かっててくれないかな」
「良いぞ。だが私はお前を待ったりしない。そのまま自宅にまっすぐ帰るから、返して欲しければ夕飯の時に取りに来い」
「……ふふっ、分かったよ警部。夕飯の時にね」
私はちゃちゃっと物陰に隠れて着替える。スーツを着て、上着を着て、変声チョーカーをつける。それからマイクの調子を確認して、荷物を警部に預けて蜘蛛糸を飛ばした。
視界に映るのは、灰色に変わってしまった世界。けれど、そこには私が守りたいと思った風景がそのまま残っている。
「近づくんじゃねぇ! 近づけばこいつを撃つぞ!」
「た、助けてくれ……誰か……!」
ふと、怒声が響いた方へと視線を向ければ、覆面の男が銃を片手に人質を取っていた。うん、あれは別に守りたい景色じゃないな。
「事件発生。犯人は銃を持っており、民間人を人質に取っている。場所は──」
「手を挙げろ! 銃を下ろし、人質を解放するんだ!」
警察を前に、覆面の男が殺気を放つ。一触即発だ。このままでは誰かが引き金を引き、誰かの命が散るだろう。
だったらきっと、ここは私の出番だよね。
「やぁどうも! 近づくな、なんて君って相当シャイなんだね。大丈夫、ボクは君に近づかないよ。だって近づかなくても手が届くし」
「誰だテメェは!?」
蜘蛛糸が飛ぶ。次の瞬間、私は強盗の右手から銃を奪い、その左腕から人質を奪った。
それからたとえ色を失ったとしても、決して変わらないことがもう一つ。それは。
「ボク? ボクはただの、親愛なる隣人だよ!」
私がこの世界でたった一人の、スパイダーマンってことだ。