灰被りの蜘蛛 作:BNDに脳を焼かれたやつ
『聞こえるかスパイダーマン。急ぎ知らせたい情報があるのだが、今は大丈夫か』
「どうも警部。今はミッドタウンを巡回してるところです。それで、ボクに何か用事?」
私が街のみんなに挨拶しながらスイングしていると、インカムを通して警部からの通信が入った。何かあったみたい。
『サンドマンこと、フリント・マルコの娘が誘拐された。下手人は定かではないが……ブラック・スパイダーマンの可能性がある』
「なんだって!?」
思わず耳を疑った。それってつまり、エディが犯罪に手を染めたってことだ。
「な、え? どうしてそんなことに!?」
『君に分からないなら、我々にも分からない。ブラック・スパイダーマンはどうしてフリント・マルコの娘を誘拐した?』
「……警部、まだ確定したわけじゃないでしょ。断定的に言うのはやめてください。彼がそんなこと、するなんて思えません」
『そうだな、すまない。言葉が過ぎた。だが、心当たりがあれば教えてほしい。もし仮に彼がフリント・マルコの娘を誘拐するとしたら、その理由はなんなのかを』
スイングをやめて、ビルの屋上に着地する。今はとにかく、地に足をつけていたかった。
「彼は、サンドマンとの戦いに辟易していました。何度捕まえても脱走されるし、その上世間からはスパイダーマンがサンドマンを完全に倒す、つまり、殺さないせいだって批判されるし」
『前者については、申し訳なく思っている。超常的な力を持った存在を刑務所に閉じ込めておくのに、制度が追いついていないんだ。すまない。だが後者はなんだ。君たちは警察に協力してくれているだけだ。そんな批判をされるいわれはないだろうに。誰だ、そんな的外れな意見を言ってるやつらは』
「ネット上の不特定多数と、デイリー・ビューグル以外の新聞社ですね」
『………………』
ちなみに、デイリー・ビューグルはスパイダーマンとサンドマンも消えろ派である。
大衆の大多数が、サンドマンの死を望んでいた。何度も脱獄し、人々の
生活を脅かす彼の完全消滅を。
「まさか……!」
心に浮かんだ嫌な予感に、私は思わず声を漏らした。
『何か気づいたのか?』
「……もしかしたら、彼は」
こんなこと考えたくはない。だけど、不思議と納得してしまう自分がいるのが嫌だった。
「サンドマンを殺すつもりなのかもしれません」
「やっぱり来たか、ペトラ」
私とエディが出会った場所、そして私が初めてサンドマンと戦った場所。廃ビルの解体現場に彼はいた。
「エディ、どうして……?」
その胸に、一人の少女を抱えて。
「その子を離して!」
「しーっ、眠ってるんだ。起こしちゃ悪いだろう」
人差し指を唇に当て、彼は静かにするように訴えた。少女に目立った外傷は見られない。
「その子を人質にして、サンドマンをおびき寄せるつもり?」
「そうだ。ここにはあいつを倒すのに十分な材料がある。爆破解体用のダイナマイトに、重機を動かすための燃料とかな」
いつの間にかエディの手には爆弾が握られていた。
サンドマンは砂でできている。その弱点は、水か熱だ。水をかければ、彼は泥になって身動きが取れなくなる。逆に摂氏1000度以上の熱を加えれば、彼の体はガラスとなってしまうのだ。
そして、ガラスとなった彼が粉々に砕け散れば。
「サンドマンを殺す気なの?」
もう、体を再構築できないかも。
「そうだ」
そして彼は、私が聞きたくなかった言葉を口にした。
「今のあなたは正気じゃない。ヴェノムに意識を支配されてるのかも」
「勘違いしてるな、ペトラ。俺は正気だ。俺は俺の意思でサンドマンを殺す。これは君のため……いや、俺自身のためなんだよ」
「どういうこと?」
「犯罪がなくなるまで、君はスパイダーマンであり続けると言っただろ」
つい昨日まで友人だった、仲間だった。それなのにエディは、まるでこれから戦う敵を前にするかのように私と対峙する。
「それはつまり、君は永遠にその責任に囚われたままってことだ。違うか?」
「違うよ、いつかきっと、犯罪がなくなる日が」
「来ると思ってるのか? 本気で? だとしたら、相当おめでたいな。言ってやるよ、来るわけないだろう。ただ犯罪者を捕まえるだけのスパイダーマンのやり方で、ニューヨークから犯罪が消えることはない。現に見てみろ。サンドマンは捕まっては何度も脱走している。これが君の目指す、犯罪のないニューヨークの姿か?」
「……っ」
図星だった。犯罪のない世界、それは理想形だけど、私はそれを実現できるとは思ってない。
「君は、自分がスパイダーマンをやめられる日が来るなんて微塵も思ってないんだ。だから、俺は俺のやり方でやる。サンドマンはここで殺す。そうすればもう二度と、あいつが犯罪を犯すこともなくなるだろうからな」
「……っ、お願いやめて。そんなやり方は良くないよ。君まで犯罪者になってしまう」
「俺に殺人をやめてほしいか? そうか、だったらやめてやる。ただし交換条件だ」
「……条件って、なに」
「君はスパイダーマンをやめろ」
その言葉の意味を飲み込むのにずいぶんと時間がかかった気がする。
「なんで、そんなこと言うの」
「君が好きだからだ」
マスクを被っていなければ、私の動揺はすぐに彼に伝わっていたことだろう。それほどまでに、彼のその率直な言葉は私の心を揺さぶった。
「スパイダーマンとしても、ペトラ・パーカーとしてもな。だから、君が傷つくのはもう見たくない。君がスパイダーマンをやめてくれるなら、俺はサンドマンを殺さない」
「……けど、私がやめたら」
「街のことは俺が守る。今後は、俺がこの世界でただ一人のスパイダーマンになる。だからお願いだペトラ。どうかそのマスクを脱いで、ただの少女として生きてくれ」
私の前に、エディの手が差し出された。その手を取れば、私は普通の少女として生きることになるのだろう。学校に行ったり、お洒落をしたり、友達を作ったり、恋をしたり、結婚して子供を持ったり。パン屋巡りだっていつでもできる。悪党と戦って傷つくこともない。人々の心ない言葉に晒されることもない。マスクを被って、自分の正体を隠す必要もない。
だけど。
きっと平凡に生きていたとしても、私の灰色の視界には手を伸ばせたはずの人たちが映るのだろう。
そして事件のニュースを見るたびに、事故の記事を見るたびに思い、後悔するのだ。私がスパイダーマンでいれば助けられたはずの命のこと、助けられたはずの人々のこと。
そして、私がスパイダーマンでいれば孤独に戦わずに済んだはずの、私のことを思ってくれた優しい人のことを。
「ごめん」
そんな人生、私には。
「無理だ」
到底、受け入れられないよ。
「ねぇ、エディ。私がやめなくても良いじゃんか、それに君が一人で背負うこともない。一緒に二人で頑張ろうよ。一人ではできないことも、二人ならできるでしょ……?」
私はエディの手を取らず、代わりに自分の手を差し出した。もう一つ、別の選択肢を。世界に二人のスパイダーマンがいても、別に良いじゃないかと。
「悪いが、君が誰かを助けずにはいられないように、俺も君が傷付くさまを隣で見ているなんてことはできない。無理なんだよペトラ」
だけど、彼は私と同じで頑固だったみたい。
「そっか。じゃあ、仕方ないね」
「ああ、仕方ないんだ。俺たちには互いに譲れないものがある。だから結局、力で押し通すしかないんだ」
「……あなたとは戦いたくないよ、エディ」
「俺もだ、ペトラ。だから、最後にもう一度だけ言わせてくれ」
エディの顔に、黒いスーツが纏わりついた。
「どうか俺に、君を守らせてくれませんか」
「………………」
瞳を閉じて、息を止める。それから私は、なるべく声が震えないようにと努めて言葉を吐いた。
「ごめんなさい」
返事の代わりに、蜘蛛糸が飛ぶ。そして互いの糸は、絡むことなく空を切ったのだった。
「うっ、あぁ……」
私は壁に叩きつけられ、地面に倒れ込んだ。
「……これで終わりだ。ダメだ、彼女は殺さない。殺されかけた、だって? でもお前は生き残っただろ。等価交換だよ。やるのは、彼女を戦闘不能にするまでだ」
そんな私を見下ろして、エディが独り言を呟く。私には聞こえない、ヴェノムの声を聞いているのだろうか。
「俺の勝ちだペトラ。だからマスクは貰っていく」
私の顔からマスクが剥ぎ取られた。
「せめて、あの女の子は傷つけないで……っ」
「分かってる。サンドマンの娘は、やつと戦う前に警察に預けるつもりだ」
乾いた風が本来は栗色の、今はもう灰色になってしまった私の髪を撫でる。サンドマンが娘の危機に気づき、すぐ近くまで来ているのだろう。
「来たか。それじゃあ、ここはもうすぐ火の海になる。さっさと逃げてくれよ、ペトラ」
そう言い残し、少女を抱えたエディは去って行った。
「負け、ちゃったか……」
体を拘束していた黒い糸が解かれる。
私は敗北した。シンビオートの力を持つ彼に、私は敵わなかった。
いいや、正確には違うな。単純な強さなら私の方が上だ。けれど私には、彼を血塗れになるまで殴って止めるという覚悟がなかったのだ。
「あはは。マスク、持って行かれちゃったな」
座り込んだまま、私は乾いた声で笑った。
「あれ、高いんだよな。作り直すのも面倒だし。材料も手に入りにくいし」
伸縮性の素材に蜘蛛の巣模様の刺繍、インカム、遮光グラス、それからボイスチェンジャー用のマイク。私がスパイダーマンをする上でマスクは欠かせないものなのに、それを持っていかれてしまった。
「あーあ、もう本当に」
ぽつりと、頬を伝って涙が溢れる。
「やめちゃおっかな。スパイダーマン」
おじさん、おばさん。私は友人を一人、間違った方向へと導いてしまいました。彼が抱えていたものを共に分かち合ってあげられませんでした。
もしかしたら、彼の側で普通の女の子として生きる道もあったのかもしれないけど、私は私のわがままでその道を拒んでしまいました。
私を守りたいと、エディは言ってくれた。正直、嬉しいよ。スパイダーマンとしても、ペトラ・パーカーとしても私を心配してくれるのは。だけど、違うんだ。私はじっとしていられないんだよ。スパイダーマンをやってると嫌なこともあるし、辛いこともあるけれど、何よりも何もしないでいることが、私には一番耐え難いんだ。
「だから、遠ざけるんじゃなくて、一緒に頑張ろうって言って欲しかったな」
廃ビルの外で、閃光が瞬いた。エディがサンドマンを罠にはめて、ダイナマイトを爆発させたのだろう。砂の巨人がガラスとなって砕け、引火した地上の火の中へと沈んでいく。
連鎖する爆発音。そして、遂には廃ビル全体が傾き始めた。もう間もなくここは倒壊する。
私は涙を拭いて、立ち上がった。光で前が見えないけれど、それでもやるべきことはただ一つ。
「だけど、ごめんねエディ。マスクがなくても、私は
「ううっ、クソ。よくもやってくれたな、スパイダーマンめ……」
真っ白な視界の中で、彼のうめき声だけを頼りに私は足を進めた。
「見つけた。どうも、フリント。私の元同僚にこっぴどくやられちゃったみたいだね」
「なんだ、お前、スパイダーマンか? 灰色の方の……まさか女だったとはな。それに、若いな」
「まぁ、そういう反応になるよね。それじゃあ失礼してっと」
ガラス化によって体のほとんどを失った彼を背中におぶった。
「おい、何をしてる」
「何って、あなたを助けてるんだよ」
「正気か。俺は、お前たちと何度も戦った。殺そうとだってしたんだぞ。そんな相手を助けるだって?」
「助けてやるさ。あなただって、死ねない理由があるでしょ?」
「娘は、生きているのか?」
「生きてるよ。だから協力して。今の私にはほとんど前が見えないんだ。道案内してよ」
「……分かった。ありがとう」
「感謝の言葉は、この状況から助かってからにしてよね」
成人男性にしては酷く軽くなってしまった彼を背負って、私は一歩歩き出す。火の手が回るのが早い。急がないと、手遅れになりそうだ。
「ごほっ、ごほっ、そうだ言い忘れてたことがあったんだけどさ」
「おい、あまり喋るんじゃない。煙を吸っちまうだろうが」
残念だけど、私の口はステイシー警部でも塞げないんだよね。
「まぁ聞いてよ。お金のことで話があるって、前に言ったでしょ?」
「それが、なんだ」
「ごほっ、はぁ。娘さんの、病気の治療費。私の基金から、出ることになったよ。もう手術の日程も決まってる」
「……!? 本当か? どうして言ってくれなかったんだ!」
「最初に聞く耳を持たなかったの、あなたでしょ。それに審査通ったの、割と最近だから。審査通らなくてやっぱりだめでしたーで、逆上されたら嫌だから、黙ってた」
「……すまない」
「あなたがお金を盗むのは、娘さんのためだったんでしょ? だったらもう、安心だから、こんな危ないことはやめて、娘さんを安心させて、あげてよね。病気のことよりも、親を亡くす方が、娘さんは悲しむだろうから」
視界が眩み、私は膝をついた。
「おい、大丈夫かスパイダーマン!」
煙を吸いすぎて、目が回ったようだ。上手く立ち上がれない。
「ごほっ、ごめん。ちょっと休んじゃった」
「……っ、良いんだ。もう、良いんだ。俺のことは放っておいて、あんただけでも逃げてくれ」
「だめ、だよ。せっかく娘さんの病気が治るかもしれないんだから、あなたは帰らなくっちゃ」
震える足で立ち上がり、再び一歩前に歩き出す。
「なんで、そこまでしてくれるんだ。俺は悪人だぞ、犯罪者なんだぞ。あんたの仕事は、善良な市民を守ることだろうが」
「だから、今やってるでしょ。元善良な市民で、これから善良な市民になる人を全力で、ごほっ、守ってるんだ」
私は足を止めた。疲れたんじゃない。道が分からないわけじゃない。
つまりは、まぁ、そこはもう瓦礫で行き止まりだったということである。
「ふん、ぬぅ……! ほら、隙間から早く外に!」
私は燃える瓦礫を持ち上げ、下にほんの僅かな隙間を作った。丁度、彼が這いつくばって通れるくらいの僅かな隙間を。
手が痛い。燃えてるんだから当たり前か。
「俺だけ逃げたって、あんたはどうするんだ!」
「背中にあなたを背負ってなきゃ、なんとでも、なる。早く行って……!」
有無を言わさず、私はフリントを送り出し。
「ミッション、達成っと」
大の字になって、その場に倒れ込んだ。エディとの戦いで、私は身も心もボロボロだった。スパイダーマンの能力はその日の調子と連動している。こうもメンタルが不調だと、いつもの半分も力が出せない。
「こほっ、こほっ。ああ、でも、良かった。少なくともこれで、親を亡くした少女を生まずに済んだからね」
フリントの娘は難病を患っていて、彼が犯罪に手を染めたのもそれがきっかけだ。何度もお金を盗んで、そうして警察に捕まっては脱走してを繰り返す日々。そしてある日、警察から逃れている最中に軍の研究施設に迷い込み、砂の力を授かったということを警察から聞いている。
「もう、良いかな。少し、眠い……」
目を閉じて、私は静かに呼吸を止めた。そうやって、もう死を受け入れようとした直前。
黒い姿の彼が壁をぶち破り、私を抱えて廃ビルの残骸から連れ出してくれたのである。
「サンドマンが残骸から這い出てくるのを見て、俺はとどめを刺しに行ったんだ。そしたらあいつが、君のことを教えてくれた。自分を救うために残ったって。自分のことは殺してくれても良いから、君を助けてやってほしいって」
「……そっかぁ。それで、彼のこと、殺しちゃったの?」
「見逃した。あいつを殺すよりも、君の命の方が大切だ」
「それは、嬉しいなぁ」
「本当に、本当にごめんっ。俺は、君を傷つけてしまった。こんな! こんなことをしたかったわけじゃなかったのに!」
「うん、良いよ。誰だって、ミスや間違いはあるから」
それは私もそうだし、それ以外の人間だってそうだ。ステイシー警部だって、トニー・スタークだってミスはする。間違いも犯す。だってそれが、人間ってもんだ。そういうものだと、今回のことで私も気づいたんだ。
額に涙が落ちてくる。エディの胸に抱かれた私は、彼を慰めるようにその頬に触れた。
彼の涙と、焼けて縮れたシンビオートが、酷い火傷を負った私の手に触れた。彼らは熱を苦手とするはずなのに、それでも火の中から私を救ってくれたのだ。
「ごめんね、エディ。それから、ヴェノムにも。私、あなたに理性があるなんて思わなくてさ。話もせずに、燃やそうとしちゃった。ちゃんと話せていれば、分かり合えてたかもしれないのに」
「……もう、怒ってないってさ」
「ありがとう」
私にはヴェノムの声は聞こえないけれど、ほのかに揺れる彼の触手を見れば、私のことを許してくれたような気がした。
「ねぇ、エディ。君は、これからどうするの?」
「……俺は、街を離れようと思う」
「ダメだよ。せっかく手に入れた社員の地位はどうするのさ。それに、大家さんに恩返しするんでしょ?」
「けど、無理だ。俺は
「エディ……」
「俺たちは、きっとまた周りを傷つける。そういう
「それは違う! 今回は、間が悪かっただけなんだ。毒は正しく使えば薬にもなるように、あなたたちだってヒーローに……」
エディが静かに首を振る。もう、決意は固いのか。私が何を言っても無駄みたいだ。
「そっか。分かった。ねぇエディ」
「なんだ?」
「好きって言ってくれて、嬉しかった。遠くへ行っても、友達だよね?」
「……ああ、友達だ」
「分かった。なら、またいつか会おうね」
それからエディはビルの屋上から飛び降り、私の前から姿を消した。
「さようなら、エディ」
後日、私はエディの暮らしていたアパートに訪れていた。彼が街を出る前に、少し話ができないかと思ったから。
「あいつならもう出て行ったよ。残念だったな」
「そう、ですか」
玄関口に立つ大家のディコヴィッチさんが、手元でオレンジをむしりながらそう言った。
「彼、出る前に何か言ってましたか?」
「いんや、何も。俺に今月の家賃と、これまで世話になった分の金とやらを渡してきたくらいだな。どこに行くのかも、どうして出ていくのかも言わず、黙って出ていきやがったよ」
「……彼は、よそへ行っても大丈夫ですかね?」
「なんだ、彼氏が心配か? まぁ、安心しろ。あいつは良いやつだ。良いやつってのはみんなから好かれる。好かれるやつは、みんなから助けられる。だからどこに行っても、あいつは大丈夫だ」
オレンジを口に一粒放り込み、「だろ?」とディコヴィッチさんが私の目を伺った。
不思議と笑みが零れながらも、私は頷く。
「ふふ、ですね」
「おう。……ところであんた、部屋を探してたりしないか。丁度うちのアパートに一部屋空きが出たとこだぞ?」
「ごめんなさい、私はまだ一人で暮らせるような年齢じゃないので。けど、そのときになったらお世話になりますね。それじゃあ、私は帰ります。お邪魔しました」
私は深々と頭を下げて、エディの住んでいたアパートを後にしたのだった。
「あのとき話した、ネバネバの宇宙人。もしかしたら、友達になれたかもしれないって言ったら二人は信じた?」
あれからしばらくして、私はベンおじさんとメイおばさんの墓前にいた。
一連の事件は幕を閉じた。サンドマンはもう脱獄しなくなったし、彼の娘の手術も成功した。
エディは消えて、街の人達はブラック・スパイダーマンが消えたのを悲しんだ。だけど、私は知ってる。彼が変わらず、親愛なる隣人を続けていることを。よその州で黒い怪物が強盗をボコボコにしたって、掲示板に載ってたんだ。あれ、絶対にエディとヴェノムだよ。なんか、スパイダーマン姿のときよりずっと筋骨隆々になってたけど。筋トレしたのかな?
「マザーには、また心配かけちゃった」
それから、私の体についても話そう。フリントを助けるために燃える瓦礫を持ち上げた私の両腕は、案の定酷い火傷を負った。私の体には高い再生能力があるため、大事には至らなかったものの、残念ながら蜘蛛の力は見た目までは保証してくれなかった。
両腕に残った火傷の跡は人目に晒すのが憚られるので、今は袖の長い手袋で隠してある。
「痛くはないんだ。手もちゃんと動くし、壁に張り付く能力とかも失われてない。ほんとに、見た目がちょっと悪いだけ」
火傷のせいで、私はマザーを怒らせ、それから泣かせてしまった。いつまでたっても私は親不孝者らしい。詳しく説明できない、我が身が恨めしいよ。
「ネイルとか興味あったんだけど、できなくなっちゃったな。ああそれに、指輪も似合わなくなっちゃったか。……けどね、やっぱり後悔はしてないよ。ほんとだよ。フリントは死なずに済んだし、彼の娘は親を失わずに済んだ。エディも、人殺しにはならずに済んだ。私と違ってね」
墓石の周りの落ち葉をあらかた掃除したあと、私は相変わらず灰色の花束を供えて、眠る二人にキスを送った。物言わぬ冷たい墓石も、炎の熱さに比べればそんなに悪くない。
「また来るね、二人とも」
サヨナラを告げて墓地を去る。そんな私の前を、サイレンを鳴らしたパトカーが通り過ぎて行った。やっぱり、この墓地は呪われてるんじゃないだろうか。
はぁ、仕方ない。いつものあれ、いってみようか。
スーツに着替え、マスクを被る。蜘蛛糸を飛ばしてビルの谷間を駆け抜ける。
私の名前はペトラ・パーカー。瞳は色を失い、腕は焼け爛れ、友達は遠くへ行ってしまったけれど。
「こんな私でも好きって言ってくれる人がいるんだし、張り切って頑張りますか!」
世界でたった一人の、