十一月の第二土曜、ハリーは朝食のポリッジを三口しか食べられなかった。
対スリザリン戦の初戦、相手は父親の財布から生えた最新型ニンバス2001の七機編隊、こちらは根性と旧型機。ウッドの朝の訓示は同じ内容を別の言い回しで繰り返すこと四十分に及び、要約すると「死ぬ気で獲れ」だった。要約しなくても大体そう言っていた。言い回しを変える努力も最初の十分で尽きていた。
ロンやハーマイオニーと競技場へ向かう途中、ピッチの縁に見慣れた黒い羽織を見つけた。ヒノ先生だ。観客席の柵に巻尺を当てて何かを測っている。
「先生? 試合、見に来てくれるんですか」
「見るよ。仕事半分でね」
先生は巻尺を巻き取りながら柵を軽く揺する。柵はぐらりと揺れて、先生は露骨に顔をしかめながら手帳にメモを取った。
「クィディッチ、見るの初めてですか」
「いや。日本でも盛んだよ。箒一本で人生が変わる国だから」
「え?」
「スポーツ特待生……は分かんないか。それよりポッター、一つ訊きたいんだけど。観客席の転落防止って、この腰までの柵で全部かい?」
「た、たぶん?」
「救護所の場所は」
「保健室が、城にありますけど」
「城かあ」
ヒノ先生はしばらく空を見た。再び口を開いたときに出てきた言葉は、うめき声に近い。
「担架の動線は。待機医務員は。救護箒は。ないよなあ。ないのかあ。全部ないのかあ」
「日本の試合と、何か違うんですか」
「何もかもだね。うちの国じゃ、公式戦は医務員四名待機、救護箒二機、観客席の柵は胸の高さで基礎ごと固定、選手の頭には――いや、いい」
先生は何やら祈るように唱えてから、巻尺を懐に戻した。
「君は選手だ。試合前に余計なことを考えるな。行っといで」
歩き出したハリーの背中に、一言だけ追ってきた。
「ポッター。落ちるなら芝の上にしろよ」
変な激励だった。それなのにウッドの四十分よりどっしりと腹が据わった。ハリーは箒を握り直した。
試合は小雨の中で始まった。
「さあ両チーム入場だ! グリフィンドールは昨年の雪辱に燃えている! 対するスリザリンは、なんと全員がニンバス2001! 金で買った翼の乗り心地はどうだい、諸君!」
「ジョーダン!」
「おっと失礼! 公平な実況を心がけます、先生!」
リー・ジョーダンの実況が雨に濡れて響く。雨の日の試合は初めてだ。ハリーは高度を上げ、雨粒越しに金色の閃きを探し始めて、すぐに去年までとの差に気づいた。
ダドリーに引きずられて参加させられた雨の日のサッカーなら、ぎりぎり互いの声は聞こえたし、ボールもそれなりの大きさと見えやすい色をしていた。クィディッチではそもそも全員が空の上だ。高さもバラバラで、風切り音に加えて雨が自分の体を打つ音がそれなりに大きい。濡れる眼鏡ではスニッチまで視界が届きにくい上に、声まで届きにくい。これは厄介なことになりそうだ。
異変は開始五分で来た。ブラッジャーがまっすぐハリーに向かってきたのだ。かわす。それ自体は普通のことだ。普通でないのはその次だった。ブラッジャーは大きく旋回して戻ってきた。もう一度かわす。戻ってくる。急上昇する。ついてくる。急降下する。ついてくる。
「なんだこいつ!」
フレッドが飛んできて、バットで思い切り打ち返した。ブラッジャーは砲弾のように飛び去り、弧を描いて戻ってきた。ハリーだけに。そこからは三人四脚の悪夢だった。フレッドとジョージが交互に張り付き、打っては戻られ、打っては戻られる。護衛が二人がかりではチームのブラッジャー対応が空になる。グリフィンドールの得点が止まり、スリザリンが差を広げていく。
雨脚が強くなり、ウッドがタイムアウトを取った。ジョージが息を切らした。
「誰かが細工してる! ありゃ普通のブラッジャーじゃない」
「一度こうなったら止まらないぜ。箱に封印するまで暴れ続ける」
「僕一人でやる」
ハリーは言った。
「二人が張り付いてたら試合にならない。僕はかわし続けるから、二人はチームに戻って」
「馬鹿言え、腕がもげるぞ」
「もげてない腕でスニッチを獲るよ」
口論の最中、ハリーは視界の隅で観客席の異変に気づいた。ヒノ先生が立ち上がっていた。審判席のマダム・フーチのところまで降りてきて、何かを強く言っている。雨で聞こえない。マダム・フーチが人差し指でバツの印を作って、首を振った。先生がまた何か言う。マダム・フーチはもう一度首を振る。今度はどこか申し訳なさそうに。
先生は一歩引いて、手帳を出し、何かを書きつけた。あの動作は知っている。フォード・アングリアで登校した時や罰則の時に見た。
マダム・フーチの笛が鳴った。試合再開。つまり止まらないのだ、この試合は。魔法をかけられたボールが選手一人を殺しにかかっていても。
ハリーは雨の空に舞い戻った。生き延びたければ、一刻も早くスニッチを獲る以外になかった。マルフォイよりも先にだ。
そこからの数分間は、後から思い出しても断片しかない。錐揉み、急制動、雨、鉄球の風切り音、観客の悲鳴、リー・ジョーダンの絶叫。曲芸飛行でかわし続けるハリーをマルフォイが腹を抱えて笑いながら見物していた。
「どうしたポッター! ダンスの練習か!」
笑っているマルフォイの左耳の横に、金色の羽根が雨を弾いて瞬いていた。ハリーは考えるより先に急降下に入った。マルフォイの間抜けな悲鳴が視界の端を流れ、スニッチが逃げる、右手を伸ばす――肘に鉄塊が直撃した。
腕の中で何かが折れる音を、ハリーは耳ではなく骨で聞いた。まず体の表面に波打つような衝撃が来た。次に箒から体が持っていかれそうになった。世界は白くなり、雨の音が遠のいて痛みで視界が狭まる。もう言うことを聞かない右手の代わりに、左手が勝手に前に出ていた。指が冷たい金属の羽根を包んだ。
そこから先は泥だった。芝の上に落ちろという声がどこか遠くで再生され、体は言うことを聞かず、ハリーは泥の中に肩から突っ込んだ。再び体に受けた衝撃で、頭全体が瞬いている。雨と歓声のどちらも遠い。そして泥を踏む足音は聞こえないのに、気配だけが真っ先に来た。
「自分の名前、言えるかい?」
「……ハリー、ポッター」
「今日は何の日」
「……スリザリンを、倒した日」
「上等だ」
声に笑いが少し混じっている。
「指、動くか。左からね。……よし。右は動かさなくていい、見りゃ分かる。右肘が折れてる。他に痛いところ。頭は打ったか?」
「わ、分かんない……」
「分からない時はやっちまった扱いだ。動くなよ。マダム・フーチ! 担架!」
頭上では、まだフレッドとジョージが暴れる鉄球と空中レスリングの最中だった。先生は泥の中に片膝をついたまま、空へ向かって声を張った。
「そこの二人! 押さえたら地面へ! 他に誰も素手で触るな!」
双子がブラッジャーごと泥に落ちてくる。先生の袖から白く細いものが鞭のように伸びて、暴れる鉄球にぐるぐると巻きついた。さらにどこに隠していたのか、とんでもない大きさの袋をブラッジャーに投げつけ、中に収めてしまった。それでもブラッジャーは袋の中で跳ね続け、袋は生き物のように地面をびたんびたんと転がり、忽ちのうちに泥まみれになった。
「暴れる証拠品は初めてじゃないが……袋ごと跳ねるのは初めてだな」
先生がぼそりと言うのが、薄れていく意識の端に聞こえた。
医務室での治療は一瞬で終わった。ハリーが気がつくと、マダム・ポンフリーが杖を一振りし、何かをぐいと飲まされた。右肘の中で骨がこきりと鳴って、痛みが潮のように引いた。以上である。
「治った……?」
「ええ、骨を接ぎました」
マダム・ポンフリーは包帯を巻きながら事務的に言った。
「折れた骨を接ぐのは医療用魔法の初歩ですよ、ポッター。すぐ終わる仕事です。もし医療の道に進みたいなら覚えておくことです。もっとも、即座に治せる骨折をこじらせて運ばれてくる患者も相手することになりますが。素人が骨に手を出すとろくなことになりませんからね」
誰の話だろう、とハリーは思った。マダム・ポンフリーはてきぱきとシーツを直した。
「今夜は入院です」
「ええっ、治ったのに!?」
「墜落して頭を打った疑いのある患者は、一晩の観察。決まりです」
「そうそう。うちの現場でも同じ決まりでね」
いつの間にか、ヒノ先生が入り口に立っていた。マダム・ポンフリーが珍しく好意的な目つきで頷いた。この二人は規則の話で気が合うらしい。
夕方、チームが雪崩れ込んできた。勝利の菓子と、蜂蜜酒(はアンジェリーナがマダム・ポンフリーに没収された)と、泥だらけの抱擁。フレッドとジョージは「あの縄と袋、俺たちも欲しい」としつこく言った。ウッドとアリシアがお見舞いカードをくれたが、ウッドの方の中身は全部クィディッチの話だった。マダム・ポンフリーが全員を箒で掃くように追い出して、病棟に消灯が来た。
消灯の少し前、ヒノ先生がもう一度だけ来た。
「具合は」
「平気です。もう」
「んじゃ、報告ね」
先生は、ベッドの脇の椅子に浅く座った。
「ブラッジャーは押収した。今は俺の部屋で、箱の中で暴れてる。いやあまいったね、どんな悪ガキよりも元気だ。明日から調べる。分かったことがあれば、言える範囲で君にも教える。被害者だからな、君は」
被害者。物語の主役でも、「まともな家族」のまともでない居候でも、疑惑の継承者でもなく、被害者。手続きの中のちゃんとした席だった。
「それとな、ポッター。あれが君だけを追い回すのを、全校が見てた。証人が千人いる。……つまり今回は、君が何も言わなくても事件になる」
先生は立ち上がりながら、こともなげに付け足した。
「楽になったろ」
ハリーは返事ができなかった。十月の夜の廊下が胸の中で音を立てた。言えなかった声。先生はあれを忘れていなかった。
「先生」
「ん?」
「……いえ。おやすみなさい」
「そ。何か思い出したら、でいい。おやすみ」
足音のない背中が扉の向こうに消えた。
目が覚めたのは深夜だった。額に濡れたスポンジの感触。誰かが自分の額を拭いている。
「マダム・ポンフリー……?」
暗闇の中で、テニスボール大の目玉が二つ、ぎょろりと光った。
「ドビー!?」
「しっ! ハリー・ポッター、お静かに!」
屋敷しもべ妖精はスポンジを持ったまま、ベッドの上で身を縮めた。
「ドビーは、ハリー・ポッターの御様子を拝見しに……ああ、ハリー・ポッターは学校にお戻りになってしまわれた! ドビーはあんなに申し上げましたのに! あんなに!」
「警告って――」
言われて夏の日の警告を思い出した。ハリー・ポッターはホグワーツに来てはいけない。ホグワーツに来ては、いけない?
「柵! 九月一日の! あれ、君だったのか!」
「……ドビーが、なさいました」
妖精はうなだれた。
「柵を封じて差し上げました。ハリー・ポッターが汽車に乗れないように。そのせいでドビーは、あとで自分の手にアイロンをおかけになりましたが……」
「アイロン!?」
「それでもハリー・ポッターは、空飛ぶ車でいらっしゃってしまわれた! ですからドビーは、今度こそはと存じまして――」
まさかと思ったが、もうほとんど分かっていた。
「ブラッジャーも、君か」
「それもドビーが細工なさいました」
ドビーの声は誇りと悲嘆が等分に混ざっていた。
「ハリー・ポッターを、大怪我でお家にお帰しするためでございます! お命を奪うためではございません、決して、決して! 重い、重いお怪我で、お家に!」
「重い怪我で家に帰すのが親切だって!?」
ハリーは声を殺して怒鳴るという器用な芸当をした。
「ロンと僕は退学になりかけたし、今日は腕が折れたんだぞ! なんでそこまでして僕を帰したがるんだ!」
「ここは危険なのです」
ドビーの声が落ちた。ぎょろりとした目が、病棟の暗闇を見回した。
「ハリー・ポッター。歴史は繰り返されようとしております。秘密の部屋が五十年の時を経て、ふたたび――」
「秘密の部屋? 秘密の部屋って言った? ってことはあるんだ、部屋は!」
ドビーは自分の口を両手で塞いだ。それから水差しの隣のランプを掴み、自分の頭をがんがんと殴り始めた。ハリーは慌ててランプを取り上げた。
「前にも開いたんだね!? 五十年前に! 誰が開けたの!」
「申せません! ドビーは申せません!」
妖精は耳をねじり上げながら身悶えした。
「ドビーの一族は、ご主人さまに仕える身でございます! ご主人さまの御秘密は……ああ、ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」
「君の主人が関係してるんだね? 誰なの!」
「申せません!」
「じゃあ、じゃあせめて――」
ハリーは必死に頭を回した。
「先生に相談しよう。ヒノ先生に。ブリテンの人じゃないし、刑事だ。あの人なら、君の立場を悪くしないで――」
ドビーの動きがぴたりと止まった。
「……お辞儀の、先生」
妖精の声から突然、悲鳴の色が抜けた。テニスボールの目が暗闇の中でまん丸のまま、何か遠いものを見た。
「あの人は……ご主人さまたちとは、違う匂いがする。もっと、ずっと、古い……ドビーたちが、まだ――」
ドビーはそこで自分の口を今度は両手で物理的に縫い止めるように押さえ、首をぶんぶんと振った。
「申せません。それも申せません。それはご主人さまの御秘密ですらございませんのに。ドビーの、ドビーたちの……」
その時、廊下で足音がした。どんどん近づいてくる。
「ドビーは行かなくては!」
妖精はハリーのシーツを一度だけ、ぎゅっと握った。
「ハリー・ポッター、どうか、どうかお家へ――」
指を鳴らす音とともにドビーは消えた。ハリーは咄嗟に枕へ倒れ込み、目を閉じた。病棟の扉が開く。
「そっと。そっとじゃ」
ダンブルドアの声だった。後ろ向きに扉を通り、何か長いものの片端を抱えている。反対側をマクゴナガル先生が抱えていた。二人はそれをハリーの隣の隣のベッドに横たえた。薄目の視界にそれが見えた。
コリン・クリービーだ。石像のように固まって、両手を前に突き出している。その手の形は、カメラを構えた形のままになっていた。カメラ本体は胸の上に載っている。
「石化です」
マクゴナガル先生の声は絞ったように細かった。
「階段のところで、アーガスが――いえ、私が見つけました。葡萄を一房持って。……ポッターの見舞いに、来ようとしたのだと思います」
沈黙があった。
「カメラを」
ダンブルドアの声が言った。
「もしや、写っておるかもしれん」
留め金の外れる音。次の瞬間、嫌な音とともに酸の匂いのする蒸気が薄目の視界にまで漂ってきた。
「熔けておる」
マクゴナガル先生が呻いた。
「フィルムが、中で、全部……アルバス、これはいったい、何を意味するのです」
「意味することは一つじゃ、ミネルバ」
ダンブルドアの声は静かで、そして今まで聞いたどの声よりも老いて聞こえた。
「秘密の部屋は、ふたたび開かれた」
マクゴナガル先生が何かを言いかけて飲み込んで、それから絞り出した。
「でも、アルバス……誰が、いったい」
「誰が、ではないのじゃ」
老人の声は、ほとんど独り言だった。
「問題は――どうやって、じゃよ」
二人の足音が遠ざかり、扉が閉まった。ハリーは暗闇の中で目を開けた。
心臓がシーツの下でうるさい。眠れない。ドビーの主人筋が秘密の部屋に関係していて、五十年前にも同じことが起きていて、柵を封じたのもブラッジャーに細工したのもそのドビーで、そのドビーは僕を守るために僕を殺しかけていて、そして今夜コリンがカメラを構えた形のまま石化して、フィルムだけがレンズの奥で熔けている——積み上げた端からどこか一つが抜けて、全部が崩れた。何度積み直しても、崩れる場所が毎回違った。
これを、誰に言う?
ロンとハーマイオニーには言える。言う。それは決まっている。
ヒノ先生には?言うべきだ、と頭の半分が言った。これは馬鹿らしい報告ですらない。柵の照会は回答遅延七十何日目で、先生はあれを「一番気に入らない」と言っていた。答えをハリーは今、握っている。柵はドビーだ。ブラッジャーもドビーだ。言えば、先生のノートに二つの事実が埋まる。今先生がやっている捜査に役立つ。きっとヒノ先生なら真相に届くだろう。有名人を逮捕した人なんだから。
でも、と頭の残り半分が言った。ドビーの話をすれば先生は必ず訊く。「なぜ屋敷しもべが君に警告を?」。去年の話になる。「ドビーは他に何と言っていた?」。歴史は繰り返される。秘密の部屋。そして、こう続くだろう。「君は他に、何か抱えてないか?」。
壁の声を隠したままドビーの話だけを都合よく切り出す方法を、ハリーは夜明けまで探した。見つからなかった。十月の夜についた小さな嘘が、今夜、新しい嘘を連れてこようとしている。
先生の声が耳の奥で再生された。訂正はいつでも受け付ける。
いつでもって、いつまでだろう。
翌朝、退院の手続き(マダム・ポンフリーの問診に全問正解する、という手続きだった)を終えてハリーはベッドを降りた。病棟を出る前に一度だけコリンのベッドの方を見た。白いシーツの上で、小さな一年生はカメラを構えた形のまま眠っていた。マグルの牛乳配達の息子で、動く写真に世界中で一番はしゃいでいた男の子は、両目を見開いたまま何も写していない。
その枕元の小卓に、小さな透明の袋が置いてあった。証拠品袋だ。中身は黒く熔けたカメラの残骸。袋の口は綺麗に折られ、封緘紙が貼られ、その上に血のように赤い印が捺してあった。印の脇には縦書きの細かい文字の荷札。
ヒノ先生はもう来たのだ。もう見て記録して、持ち帰る手配を済ませている。僕が眠っている間に。先を越されたと思って安心した自分を、少しだけ変に思った。
最後に一つだけ考えが残った。ハリーは病棟の扉を押しながら、熔けたフィルムの酸の匂いを思い出していた。
カメラはいったい、何を撮ったんだろう。