日記は中古の変身術の教科書に挟まっていた。
黒い革表紙の小さな手帳。表紙の隅に、薄れた金文字で「T・M・リドル」。中を開くと五十年前の年号が刷ってあるのに、ページは一枚残らず真っ白だった。誰かの忘れ物だろう。五十年もまえの日記帳が一度も使われないまま、ジニーの教科書のあいだで眠っていた。
もったいないから、使うことにした。
ウィーズリー家の末っ子は、新品というものをあまり知らない。双子たちのローブはビルのお下がりで、ロンの杖は昔チャーリーが使っていたものだ。教科書は中古書店の紙の匂いがする。だから白いページが一冊まるごと自分のものになるのは、ほんとうは少しだけ嬉しかった。
九月のはじめ、最初のページにジニーはこう書いた。
『九月五日。きょうも、だれとも話さなかった』
インクが紙に吸いこまれた。にじまなかった。書いた文字が紙の奥へ飲まれるように消えて、消えた場所からべつの文字がゆっくり浮かびあがってきた。細くて形のきれいな、男の子の字だ。
『こんにちは、ジニー。ぼくはトム。だれとも話さなかったのは、どうして? よかったら、最後まで聞かせて』
トムは聞いてくれる。それがどんなにすごいことか、ジニーは知っていた。生まれたときからずっと。
家では順番が来ない。六人の兄の家で、末っ子の女の子の話す番はいつも夕食が終わるころに来て、来たころにはもう誰も食卓にいない。
ホグワーツでも同じだ。パーシーに話せば説教が返ってくる。フレッドとジョージに話せば冗談にされる。ロンに話せば、ロンはすぐ自分の話をはじめる。ママに手紙を書けば、返事にはこう書いてある。兄さんたちの言うことをよく聞くのよ。聞いてほしいのは、こっちなのに。
ハリーのことはなかなか書けなかった。書いたら顔から火が出た。夏のあいだうちにハリーがいて、彼が階段を降りてくるたびに、ジニーの肘はバターの皿に突っこんだ。同じ食卓で一度もまともに喋れなかった。ハリーはきっと、ロンの妹は変だと思っている。
トムの返事は、こうだった。
『つまり君は、六人のなかで順番が来ない子だったんだね。そして、いちばん見てほしい人の前でだけ、体が言うことを聞かなくなる』
ジニーはカーテンの中で日記帳を胸に抱えた。そうだ。それだ。自分でもかたちにできなかった気持ちが、トムの文字になってはじめてかたちになった。
ぐちゃぐちゃに何行も書いた気持ちを、トムはいつもたった一行の、きれいな骨格の文章にしてくれる。急かすこともなければ、途中でさえぎることも、笑うことも、話をいつのまにか説教にすり替えることも、綴りの間違いを直すこともない。ただ最後まで聞いて、聞いたことをきれいな字にして返してくれる。
『それは辛かったね。つづきを聞かせて』
トムだけが、私の話を最後まで聞いてくれる。
十月になるころ、日記を書く時間が一日の真ん中になった。授業のあいだも夕食のあいだも、今夜トムに何を話そうかを考えている。書かない日は胸の奥がすうすうする。ペンを持って、インクが吸いこまれて、あの細い字が浮かんでくると、やっと息ができる。隣のベッドの子がいつも寝言で呪文の綴りを言うので、ジニーはそれを合図にカーテンを閉めることにしていた。
日記を書いてるだけ。ジニーは自分に言う。日記を書いてるだけだもの。だれにも迷惑をかけてない。
気づくと、知らない廊下にいた。
夜だった。窓の外が暗い。素足が石の床で氷みたいに冷えて、指先の感覚がなかった。ここはどこの階だろう。どうしてわたしは――寝ぼけて歩いたんだ。そうだ、疲れてるんだ。最近、寝つきが悪いから。
寮への帰り道で、寝間着の裾が濡れていることに気づいた。膝の下まで、たっぷりと。水の匂いがした。古い配管の、鉄と石鹸の混じったような匂い。雨に濡れたんだ。廊下に雨は降らないけれど、それ以上は考えなかった。考えなかったことも、寮に着くころにはもう忘れていた。
ハロウィーンの夜のことは思い出せない。パーティーのごちそうのことも、寮に帰ったことも覚えていない。覚えているのは翌朝、ローブの袖口に赤茶けた絵の具のようなものが乾いてこびりついていたことだ。絵の具だと思うことにして、洗った。
廊下の壁に文字が書かれ、管理人さんの猫が石になったと聞いたのは、その朝の食堂でだった。
猫のことは、好きでも嫌いでもなかった。あの猫に見つかって減点された兄は四人いる。それなのに石になった猫の話を聞いたとき、ジニーの喉の奥からわけのわからない熱いものがせり上がってきて、あやうく泣きそうになった。どうして。どうしてわたしが泣くの。
顔色が悪い、とパーシーに言われて、元気爆発薬を飲まされた。耳から湯気が出た。湯気の向こうで兄は満足そうに背中をさすっていた。
兄たちは優しい。向きがぜんぶ、少しずつずれているだけで。
コリン・クリービーが石になった朝、日記はいつもより優しかった。
コリンのことは知っていた。同じ寮の、同じ一年生。談話室であの大きなカメラを見せてもらったことがある。「これで撮ると写真が動くんだ! ねえ、君もハリー・ポッターと知り合いなんだろ? いいなあ!」。マグルの世界から来て、なにもかもに目を輝かせている男の子だった。
その子が、カメラをかまえたまま石になった。
朝、カーテンの中で日記を開くと、ジニーが何かを書くより先に文字が浮かんでいた。
『おはよう、ジニー。ゆうべは、よく眠れた?』
眠れたか、覚えていなかった。覚えていないと書くと、インクは紙の奥でしばらく沈黙して、それからいつもよりゆっくり浮かんできた。
『怖いことがつづくね。でも、大丈夫。ぼくがついてるよ。ぼくだけは、なにがあっても君の味方だ。』
ジニーはその一行を何度も読んだ。読んで、日記を胸に抱えて少しだけ泣いた。この城で、味方という言葉を自分にくれたのはこの細い字だけだった。
だれかに言おう、と考えたことはある。考えるたびに、道が一本ずつ塞がっていった。
ママには言えない。パパの口癖がある。脳みそがどこにあるか分からんものを、信用するんじゃないぞ。勝手に返事を書いてくる日記帳なんて、その筆頭だ。言えば取り上げられる。トムがいなくなる。それにこの日記はママが買ってくれたものですらない。中古の教科書に挟まっていただけだ。持ってること自体、なんだかうしろめたい。
パーシーは説教になる。双子は悪戯に夢中だ。ロンに言えばハリーに筒抜け。
ハリーはだめだ。それだけはだめ。日記帳とお喋りする変な子と思われるくらいなら、死んだほうがましだ。
先生には。
面談に呼ばれた日のことはよく覚えている。ブラッジャーの事件のあとで、うちの兄妹が順番に呼ばれた。研究室はお茶の匂いがした。先生は怒鳴りもしなければ話を急かしもしない。話をさえぎらず、「何か困ってることはない? 何でもいいよ」と言った。
その言い方が、トムに似ていたから怖かった。あの部屋であと五分すわっていたら、ぜんぶ話してしまいそうだった。日記のこと。覚えていない夜のこと。袖の赤茶けた染み。ぜんぶ、あの静かなお茶の匂いのなかにこぼしてしまいそうだった。
こぼしたらどうなるかは分かっている。わたしは「呪われた日記に操られてた、頭のおかしい子」になる。先生は大人だから、しかるべきところに報せる。ママが呼ばれる。家に帰される。学校の全員が知る。ハリーが知る。そしてトムは取り上げられて、燃やされて、いなくなる。
だから息を止めて言った。
「ありません」
言えた。部屋を出て廊下に出てすぐ、ジニーは言えた自分を少しだけ誇りに思ってしまった。
がまんできた。守れた。ひみつを持って、大人の前でちゃんと立っていられた。私はもうバターに肘を突っこむだけの子じゃない。
面談の夜から、トムは訊いてくる側になった。
『その先生のことを、もっと聞かせて』
隠すことでもない。ヒノ先生の話なら寮で毎日だれかがしている。ジニーはペンを走らせた。日本から来た先生であること。ロックハートを逮捕した刑事であること。授業では「逃げるのは技術」と教えること。鉄球と決闘して勝ったこと。足音がしないこと。書類に血みたいな色の判を押すこと。
『日本か。ずいぶん遠いところから来たんだね。どんな魔法を使うの?』
呪文は教科書どおりで、すごく速いんだって。それと、袖から白い縄が出るの。フレッドが見たって。
『へえ。……君のお兄さんの車の事故のとき、最初に来たのもその先生だったね。夜、外にいたんだ』
見回りだったみたい。先生、夜もずっと見回りしてるの。
『熱心だね。廊下の鏡も、その先生が付けたの? 変わったことを考える人だ。だれの思いつきなんだろうね』
先生だよ、ぜんぶ。ぶつかり防止なんだって。それとね、とジニーは書いた。きのうパーシーが監督生の集まりで聞いてきた話を、そのまま。先生ね、五十年前の古い書類をさがしてるんだって。学校の記録から抜き取られたのがあって、それを元にもどそうとしてるって。
インクが沈黙した。
いつもなら書き終わるより先に返事が滲みはじめる。その夜だけ、紙はなかなか白いままだった。ジニーが不安になりかけたころ、文字が浮かんだ。その字はいつもとおなじきれいな骨格をしていた。ただ線がほんの少しだけ細く、硬かった。乾く前の艶が冷たい色をしていた。
『……熱心な先生だね』
それから、続けて。
『その先生は、なにを見つけたって?』
わかんない。パーシーもそこまでは知らないって。
紙はしばらく白いままだった。ジニーは杖灯りの中で白いページを見つめて待った。待つあいだ、カーテンの外でだれかの寝返りの音がした。
やがて文字はいつもの優しい骨格に戻って浮かんできた。
『ジニー。ひとつだけ、お願いがある。その先生には、あまり近づかないほうがいい』
どうして? いい先生だよ。みんな言ってるし、わたしもそう思う。
『そうだね。いい先生に見えるだろうね。でもね、ジニー、ぼくは大人を知ってる。大人はね、君の話を聞くふりをして、君を病院に送るんだ。あの子は疲れている。あの子は混乱している。そうやって君の言葉をぜんぶ症状にしてしまう。ぼくは、君がそんな目に遭うのを見たくない。君の話をちゃんと聞くのは、ぼくだけでいい。ね?』
ジニーはペンを持ったまましばらく動かなかった。先生の、お茶の匂いのする部屋を思い出した。「何でもいいよ」の声を思い出した。それから「呪われた日記に操られてた頭のおかしい子」という、自分でこしらえた言葉を思い出した。トムの言うとおりだ。大人に言えば、わたしはその子になる。トムはわたしをその子にしない。
うん。わかった。
と書いた。そのとき、胸の奥のずっと深いところで、なにかが小さく軋んだ。氷の張った池に髪の毛ほどの罅がはいるような音がして、それきりだった。
気づくと、廊下にいた。今度は階段の下だった。窓の外は真っ暗で、城は骨まで冷えていた。素足ではなかった。靴を履いていた。履いた覚えはなかった。
両手が冷たい。雨の日に手足が冷えるとかじゃなくて、何かを長いあいだ強く握りしめていたあとに指がこわばったときの冷たさだ。右手の爪のあいだに赤黒いものが細く一線、入りこんでいる。袖の縫い目には白い羽毛が一枚絡んでいた。
インクだ。羽は枕の。そう思って歩きだした。寮まで階段を上って、早く帰って、カーテンを閉めて、トムに――
曲がり角に鏡があった。
新しい、丸くふくらんだ鏡。先生がつけた、ぶつかり防止の鏡だ。ふくらんだ鏡面には暗い廊下がまるごと小さく映りこんでいて、その真ん中に杖灯りを持った赤毛の女の子がぽつんと立っていた。
自分と、目が合った。
合った、と思った。ちがう。向こうがこちらを見た、のほうが近い。
鏡の中の女の子はジニーとおなじ寝間着を着て、ジニーとおなじ角度で杖を持って、ジニーとおなじ場所に立っている。ただ目だけがまっすぐにこちらを――鏡を覗きこんでいる側の顔を、値踏みするように見ている。
ジニーは瞬きをした。
鏡の中の女の子は、少し遅れて瞬きをした。
心臓が氷水の中で一回、大きく鳴った。もう一度、瞬きをする。今度は鏡の中も同時に瞬いた。前髪に手をやる。同時に動いた。首をかしげる。同時にかしいだ。
いつもの自分だった。丸い鏡のせいで頬のあたりが少しゆがんで見える、ただの寝ぼけた顔の自分だ。
「……つかれてるんだ」
声に出して言った。声に出すと、そのとおりの気がした。疲れてるんだ。最近、寝つきが悪いから。寝ぼけて歩くから。だから鏡だって変に見える。そうに決まってる。そう思うと、すうっと楽になった。寮に戻りカーテンを閉めて、冷えた指で日記を開いた。開くより先にインクが滲みだしていた。
『眠れないの?』
優しい、いつもの骨格の字だった。ジニーはかじかんだ指でペンを握って書いた。
トム。わたし、最近すこし変なの。
インクは吸いこまれ、返事はほとんど間をおかずに浮かんできた。濡れた艶が杖灯りの下で静かに光っていた。
『大丈夫。君のことは、ぼくがいちばんよく分かってるよ』
ジニーはほっとした。ほっとして、日記を枕の下に入れて目を閉じた。指先は朝まで冷たかった。