十二月のホグワーツは、歩き方が変わった。生徒たちは曲がり角の手前で足を緩め、鏡を見上げてから曲がる。廊下は二人以上で歩く。日没後の移動は点呼つき。
ハリーは少し苦い気持ちで観察していた。九月にヒノ先生が教えたことは最初こそ皆面白がっていたが、そのうちおざなりになっていた。ハリーも含めて十月には半分が忘れていた。それをコリンが石になった十一月から、全員が思い出した。
恐怖は商売にもなった。フレッドとジョージが呪い除けの首飾りと称して、不気味な木の枝を編んだ代物をどこからか仕入れ、売りに出していた。看板には小さな文字で「効果には個人差があります」と但し書きがされている。売れ行きはどの寮にも好調で、グリフィンドール生も開店直後や閉店間際を狙ってこっそり買いに行っていた。
フレッドとジョージのホクホク顔は数日で頂点に達し、急に萎れた。ヒノ先生が露天商許可申請書の提出を求めたからである。双子は真剣に書式を検討した末、「許可が出る気がしない」と自主廃業した。恐怖の市場は行政指導に敗けた。
そしてハリーへの視線は、恐怖が深まるにつれ日に日に硬くなっていった。
そんな十二月の第二週、掲示板にとある紙が貼り出された。
『課外護身教練のお知らせ(希望者・全学年) 場所・大広間 ※今回は杖を使います』
談話室がざわめいた。
「杖を使いますって書いてある」
「使うんだ!?」
「あの先生が、わざわざ但し書きで断るってことは――」
「本気のやつだ」
申込の羊皮紙はその夜のうちにちょっとした山になった。ハーマイオニーは掲示の写しをノートに貼りながら、感心とも警戒ともつかない声で言った。
「……パニックを訓練に変換するつもりだわ。誰かを吊るし上げたりする前に、体を動かす方に流す気よ」
土曜の大広間は様変わりしていた。長テーブルが消え、壁際に金色の演壇が伸び、天井の魔法の空は重たい雪雲を映している。集まった生徒は数百人。全学年、全寮。ハリーはロンとハーマイオニーと共に、演壇の正面近くに場所を取った。
ヒノ先生が入ってきた。いつもの格好で、演壇の上でいつもの調子で始めた。
「はい、集まったね。最初に言っとく。今日やるのは決闘じゃない。襲われた時に死なない練習です。決闘ってのはスポーツでね、君らが実際に遭う事態とは別物。ただ、別物だと分かるためには、まず本物の決闘を見るのが早い。というわけで、今日は手本役に、その道の達人に来てもらいました」
扉が開き、黒いマントが大広間を横切ってきた。スネイプだった。
「なんで」
ロンが呻いた。
「なんでよりによって」
「僕らが吹っ飛ぶのを見に来たんだ」
ハリーは言った。半分本気だった。
「セブルス・スネイプ教授。若い頃、決闘の心得を修めた方です」
スネイプは無言で演壇に上がり、蝙蝠が枝に止まるような足取りで先生の反対側に立った。
「第一部。正式決闘の型。よく見とくように」
二人は演壇の中央で向き合い、杖を顔の前に立てて礼をした。それから背を向け合い、規定の歩数を歩いて距離を取り、振り返り、構えた。
三、二、一。
「エクスペリアームス!」
先手はスネイプだった。緋色の閃光が演壇を走る。ヒノ先生の、最初に杖を使う授業で習った呪文だ。速い。ハリーは去年、スネイプの呪文を近くで見たことが一度もなかったと気づいた。授業で見る嫌味な教師ではなく、これは使い手だ。
「プロテゴ」
ヒノ先生の盾が閃光を受け、光が飛沫のように散った。飛沫が消える前に、返しの呪文が飛ぶ。スネイプよりもさらに一段早口で、それでも発音は完璧だった。スネイプの盾。返す。盾。返す。
そこからの数十秒を、ハリーは息をするのも忘れて見た。
きれいだった。
それ以外の言葉が見つからない。二人の呪文は一直線に飛び、盾は必要な分だけ開き、無駄な光が一つもない。教科書の挿絵が、そのまま動き出したみたいだ。
緋色が走って盾が開き、開いた盾の縁がまだ光っているうちに返しが飛んで、飛んだ先にはもう次の盾が用意されていて、その繰り返しには数えられるほどはっきりした拍子があり、ハリーはそれをワルツか、あるいはロンのチェスの、名手同士の序盤の駒組みのようだと思った。互いの手を知っていて、知っていることを知っていて、それでも一手ずつ、正確に指していく。
スネイプの動きは流れる墨だった。マントの裾ごと滑るように位置を変え、詠唱は低く、速く、呪文の色は他の誰のよりも濃い。対するヒノ先生は動いていないように見えた。足の位置は最初に軽く左足を下げているだけで、ほとんど変わらない。杖の振り幅がハリーの見てきた誰よりも小さい。なのに、盾は常に間に合っている。
十数合の後、二人は申し合わせたように同時に杖を下げた。引き分けである。大広間が、遅れて爆発するように沸いた。
「今のが決闘です」
先生は拍手を手で制して言った。
「見た通り、ルールがある。礼があって、距離があって、順番がある。互いに正面から撃ち合う紳士の競技。美しいもんです。機会があれば皆もやるといい。……で、だ」
先生は杖をくるりと回して、帯に差した。
「第二部。諸君が実際に襲われる時。そこにはルールも、距離も、順番もない。あるのは、諸君をどうにかしてやろうという悪意だけだ」
大広間の温度が少し下がった。
「スネイプ教授。もう一度お願いできますか。今度は合図なしで。好きな時に、好きな呪文をどうぞ」
スネイプの目が細くなった。値踏みの視線が先生の全身を一往復し、それから、闇の底のような声で言った。
「……よかろう」
二人はまた向き合った。今度は礼はなかった。距離は演壇の幅いっぱい、第一部と同じだけ離れている。スネイプの杖が上がる。大広間の全員が固唾を呑んだ。ハリーも呑んだ。あの距離だ。呪文が届くまで、瞬き一つ分はある。
スネイプの唇が、動いた。
「エクス――」
終わっていた。
ハリーの目はスニッチを追う目だ。時速百キロで飛ぶ金色の点を、雨の中でも追える目だ。その目が、かろうじて、断片だけを捉えた。スネイプの唇が動くその前に、先生の重心はもう落ちていた。予備動作がなかった。「エ」の音で最初の一歩が終わっていて、「クス」で演壇の半分が消えていて、三音目が出るより先に、先生の左手がスネイプの杖手首の上にあった。
かつん、と乾いた音がした。スネイプの杖が演壇の床に転がった音だった。
大広間は物音一つしなかった。数百人の生徒が口を開けたまま、演壇の上の二人を見ていた。先生はスネイプの手首を離し、下がりながら床の杖を拾って両手で持ち直し、柄の側からスネイプに返した。
シェーマスの四連敗は手加減の産物だった。それを今、全校が一斉に音を立てて理解した。
沈黙を破ったのはスネイプだった。杖を受け取り袖を一度払い、それからいつもの氷の声で、しかし教室で一番出来の悪い薬を評する時とは違う正確な声で言った。
「……ご覧の通りだ、諸君」
蝙蝠のような目が生徒たちを見渡した。
「第一部が成立したのは、我々が互いに距離と順番を守ったからに過ぎん。ゆえに」
スネイプは心底不本意そうに、しかし省略はせずに言い切った。
「この男の授業を受けている諸君は、まず逃げることを教わったはずだ」
大広間がざわめきかけた。スネイプの目がそのざわめきを一往復で薙いだ。
「――勘違いをしている者が多いようだから、一点だけ訂正しておこう。第一部は術比べではない。十数合で吾輩は十以上の呪文を用いたが、この男が使った呪文は四つだけだ。四つとも五年生までの教科書に載っている。凡庸の域を出ん」
唇をめくるようにしながら喋るスネイプに、ハリーは見覚えがあった。記憶を辿れば一瞬でその大本に辿り着いた。アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか。
「にもかかわらず諸君は今、この凡庸な手が吾輩の手首に届くのを見た。二つが同時に成り立つ理由を考えぬ者は、今日ここに来た意味がない」
ヒノ先生は何も言わずに例のお辞儀をした。スネイプは鼻を鳴らして、それでも顎の先だけで返礼した。
ハリーは拍手をしそこねた。手を叩くべき場面のはずなのに、そうしてしまうと何かを聞き逃す気がした。
この夜以降、怪談には新章が立った。曰く、ヒノ先生はスネイプ先生に勝った。曰く、違うあれは演武だ。勝ったのはスネイプ先生だ。曰く、演武であれをやったのがヤバいんだろ。最後のが一番正しい、とハリーは思った。
後半は生徒同士の組演習だった。武装解除の相互練習である。当然うまくいくはずがなかった。あちこちで杖が明後日へ飛び、ネビルの相方のシェーマスの杖が本人の眉を再び掠め、どこかのペアは武装解除のはずが髪の色を変え合っていた。先生は演壇から降りて回り、短い訂正を配って歩いた。
その混乱の中で、スネイプの声がした。
「ポッター。マルフォイ。演壇へ。手本を見せてもらおうか」
嫌な予感しかしなかった。
演壇の上で、マルフォイは口の端で笑っていた。数合の応酬。ハリーの武装解除が掠め、マルフォイの足踊りの呪文をかわす。その最中、マルフォイがスネイプの傍に引き寄せられ、何かを耳打ちされるのが見えた。
マルフォイの杖が床を向いた。
「サーペンソーティア!」
杖先が破裂したような音がして、黒い、長いものが演壇に落ちた。
蛇だ。太さはハリーの腕ほど、長さは大人の背丈ほどの黒い大蛇が、演壇の板の上で鎌首をもたげ、最前列に向かって威嚇の息を吐いた。悲鳴。最前列が雪崩を打って下がる。
「動くな」
先生の声が大広間全体を釘で打ったように固定した。
「全員、その場で止まる。走らない。蛇は走るものを追う」
先生は演壇に上がり、蛇へ向かって真っ直ぐに歩いた。杖は抜いていない。ハリーは演壇の上で硬直したまま、それを間近で見ていた。蛇が鎌首を先生へ向ける。威嚇の息。先生は止まらない。あと五歩。四歩。三歩。
蛇が、伏せた。
鎌首がすとんと落ちた。持ち上がっていた上体が床に降り、顎が板についてとぐろがほどけ、平たく長く伸びた。作られたばかりの魔法の蛇が、誰にも教わっていないはずの形で完全に静止した。
ハリーにはその形に見覚えがある。お辞儀だ。先生がいつもする、腰から上を折るあのお辞儀と同じ角度に見える。
大広間は二度目の完全な静寂に落ちた。演武の後のそれは、驚きが声になるまでの短い助走だった。今度は数百人が息を吸って吐き方を忘れたような、行き場のない静寂だ。
ハリーは演壇の上で、一番近くからそれを見ていた。
ヒノ先生はすぐ近くで止まったままだった。伏せた蛇に手を伸ばしかけて、途中で止めた。指先が蛇の頭の上で宙に浮いている。手が止まった理由がハリーには分からない。何かを確かめている手つきだ。左手が無意識のように羽織の右の袖口を押さえている。
やがて先生は片膝をついた。蛇と目の高さを合わせるように。
伏せた蛇は動かない。マルフォイの杖から生まれてまだ十秒の生き物が、額を板につけたままそこに在った。
ハリーは演壇の上にいたので、広間がよく見えた。グリフィンドールの側はただ凍っていた。ハッフルパフの最前列は、後ろへ下がることも忘れて固まっていた。スリザリンの一角だけが数人で顔を見合わせていた。「面白いものを見た」という顔だ。あの顔は知っている。何かを持ち帰って、誰かに話すつもりだ。
客席の教師たちは、フリットウィック先生が「おや」と小さく声を漏らして爪先立ちになり、スプラウト先生が口元を押さえていた。壇上のスネイプだけが蛇を見ていなかった。床に伏せた大蛇ではなく、その前に片膝をついている男の横顔をまばたきもせずに見ていた。
囁きが湧いた。
「今の、見た?」
「伏せたよな。あれ、伏せたよな」
「魔法で出した蛇だぞ。誰の言うことも聞かないはずだろ」
「じゃあ、なんで」
一つ一つは小さかった。小さいものが広間のあちこちで同時に生まれた。噂が生まれる瞬間をハリーは生まれて初めて真上から見た。
先生の顔は動かなかった。ハリーの位置からは何の表情も読めなかった。先生は伏せた蛇の傍で、回収するようにもう一度手を伸ばし――
「エバネ――」
横からスネイプの消滅呪文の詠唱が入った。
その瞬間だった。伏せていた蛇が弾けた。
押さえつけられていたバネが切れたように平伏の形が解け、黒い体が床を打って跳ね、鎌首が跳ね上がる。牙を剥いた頭が、最寄りで動いた人影へ床を滑って奔った。
ジャスティン・フィンチ=フレッチリーだった。
悲鳴。ジャスティンは腰を抜かして動けない。蛇が鎌首を引き絞る。誰の呪文も間に合わない。考えるより先に、ハリーの口が勝手に開いていた。
「やめろ! 彼に構うな!」
蛇が止まった。ぴたりと止まって鎌首を下ろし、大人しくハリーの方を向いた。飼い慣らされた庭のホースみたいに、従順に。
ハリーはほっとした。ほっとしてジャスティンに笑いかけようとして、ジャスティンの顔を見て笑いが凍った。
ジャスティンは蛇を見ていなかった。ハリーを見ていた。恐怖と怒りの顔で。
「何の……何のつもりだ! 僕に、けしかけて!」
「え? 違う、僕は止め――」
周りの生徒たちが、ざわ、と下がった。下がりながら全員がハリーを見ていた。蛇を見る目で。
自分の耳には英語に聞こえていた。だが大広間の数百人の耳に届いていたのはシューシューという蛇の音だけだったのだと、ハリーはその視線の壁で理解した。
「エバネスコ」
スネイプの呪文が今度は最後まで唱えられ、蛇が黒い煙になって消えた。
演壇の上に二人が残った。マルフォイは杖を握ったまま、棒立ちになっていた。
顔から色が抜けていた。ハリーを罵る言葉もいつもの薄笑いも出てこない。それはそうだろう、とハリーは妙に冷静な頭の隅で思った。こいつが見たのは、自分の杖から出た蛇が日本から来た教師に傅き、次にポッターの言うことを聞いたという光景だ。自分の魔法が、自分以外の二人に続けて従った。
マルフォイの目がハリーを捉えた。そして彼は、一歩下がった。
後退だ。ドラコ・マルフォイがハリー・ポッターから距離を取ったのは、入学以来初めてだ。なぜだかそれがこの日一番背筋を冷やした。
ヒノ先生が演壇の中央に立った。
「はい」
いつもの脱力した声だった。張り詰めた大広間に水のように染みた。
「確認します。蛇は誰も傷つけていない。負傷者ゼロ。以上。本日の教練はここまで。解散。廊下は二人以上で帰ること」
事実だけを置いた。詮索の芽を事実で潰しにかかった。それで足りないこともたぶん知っている。ただ、解散の人波に押されながら振り返った時、ヒノ先生は一度だけハリーを見た。
「怪我はないか」の目だった。それだけ確認して、先生は手帳を開いた。
人波の中に、一瞬ジニーの顔が見えた。紙みたいに白い顔で、口を両手で押さえてハリーの立っていた演壇のあたりを見ている。ロンの妹まで怖がらせた。赤毛は人波に消えていた。
「パーセルタングよ」
談話室の他の連中はハリーからたっぷり距離を空けていた。物理的にである。暖炉に一番近い、一番いい椅子の周りがぽっかりと空いている。上級生が壁際に固まり、一年生は階段の下から覗いて、目が合うと引っ込む。誰も出ていかない。かといって近づきもしない。
その円の内側に、ロンとハーマイオニーがいつも通りに座っていた。たぶんこの夜においては相当な意思だ。二人は何も言わなかった。「僕らは信じてる」も「気にするな」も言わなかった。ただ、椅子を動かさない。
もう一人いた。
ネビルが暖炉脇の自分の席で、いつも通りに薬草学の宿題を広げていた。位置的には、円のぎりぎり内側である。彼は一度も顔を上げなかったし、ハリーに話しかけもしなかった。ただ、席を移さない。たぶん彼にできる最大のことだ。トレバーだけが羊皮紙の上を我関せずと横切っていった。
「蛇と話せる能力。すごく珍しいの。そして――」
「サラザール・スリザリンが、蛇語使いだった」
ロンが続きを引き取った。顔色が悪かった。
「スリザリン寮の紋章が蛇なのは、そのせいなんだ。蛇語はスリザリンの継承者の証なんだよ、ハリー」
「僕は喋れるなんて知らなかったんだ! 前に一回、動物園で大蛇と話したことがあるだけで――」
「動物園で、大蛇と喋ったって? マーリンの髭!」
ロンが乾いた声で繰り返した。
「普通のことだと思ってたんだ!」
「普通じゃないの」
ハーマイオニーの声は、優しくて容赦がなかった。
「蛇語使いで有名な魔法使いは歴史上ほとんど、いい方じゃないわ」
ハリーの胸の奥で、一年前の記憶が蓋を開けた。組分け帽子の声。スリザリンに入れば偉大になれる、それは全部この頭の中に入っておる。
「……ハーマイオニー」
ハリーは声を落とした。
「一つ訊いていい? 蛇語じゃない方の話だ」
ハーマイオニーはノートを閉じた。閉じる前に書きかけの頁が見えた。今日の日付の下に、細かい字がびっしり並んでいた。
「ヒノ先生のことでしょう」
「……うん」
「同じことを考えてた」
彼女は声を潜めた。
「蛇語と蛇に懐かれるのは別の話よ。理屈の上ではね。先生は一言も喋ってない。なのに蛇が伏せた。全然、別の現象だわ」
「じゃあ――」
「でも」
ハーマイオニーはそこで一度、言葉を選んだ。それでも言った。
「噂はその区別をしないの」
ロンが深く頷いた。実感がある側の頷き方だった。
「マグルの婆さんが庭で変な草を育ててただけで、三軒先まで話が届く頃には魔女にされてるんだ。マグルなのに、おかしいよ」
その夜ハリーはベッドのカーテンの中で、眠れないまま天井を見ていた。考えていたのは自分のことだけではなかった。
あの蛇は僕が喋る前から変だった。先生の前で伏せた。お辞儀の角度で。数百人が見ていた。「なんで蛇が」の囁きを、僕は聞いた。明日から噂は両方立つだろう。蛇語のポッター。蛇にひれ伏されるヒノ。
僕と先生は明日から同じ疑いの側にいる。
有名人でいることの視線の重さなら、ハリーは十一年ぶん知っている。だから分かった。あの重さの側に、初めて大人が立った。最悪の形で。
先生は今ごろどんな顔で今日の報告書を書いてるんだろう。
答えの出ないままハリーは目を閉じた。
数日後の図書館で、ハリーはそれを立ち聞きした。
書架の陰、ハッフルパフの二年生の車座。アーニー・マクミランの声は潜めているつもりで全然潜まっていなかった。
「だから、考えてもみろって。蛇語のポッターと、蛇にひれ伏されるヒノだぞ。九月の夜、車で来たポッターを最初に見つけたのは誰だ? ヒノだ。ブラッジャーの後、病室に通ってたのは? ヒノだ。罰則で夜中に二人きりで歩き回ってたのは? つるんでるんだよ、あの二人は。継承者と、その、なんだ、外国から来た用心棒――」
「それはないと思うな」
別の声が割って入った。隣のテーブルから、青銅と青のマフラーの男子が、本から顔も上げずに言った。レイブンクローのテリー・ブートだ。
「アーニー、君の説には穴がある。壁の文字を思い出せよ。『継承者の敵よ、心せよ』。わざわざ名乗るやつだぜ? 五十年待って、開けて、一番いい壁に宣言文を書くやつだ。プライドの塊だよ。そういうやつが誰かとつるむか? 手柄を半分こにするか? しないね。やるなら一人だ。だから、いるとしてもどっちか片方――」
「どっちかなら、いるって言うのか!」
アーニーの声が跳ね上がった。
「僕は寮の皆の命の話をしてるんだ! ジャスティンは僕に言ってたんだぞ、自分がマグル出身だってポッターに喋っちゃった、って! そしたらあの決闘クラブだ! 蛇をけしかけ――」
ハリーは書架の陰から出ていた。出るつもりで出たのではなく、体が勝手に出ていた。
「けしかけてない」
車座が一斉に凍った。アーニーの顔から血の気が引き、それでも彼は顎を上げた。議論で熱くなった勢いのまま、退けなくなった顔だった。
「……ぼ、僕らは、自衛について話し合う権利がある」
「蛇は止めたんだ。ジャスティンを守るために言ったんだ」
「そ、そうやって聞こえたのは、君だけだろ」
返す言葉がなかった。事実だからだ。ハリーは踵を返して図書館を出た。背中に車座の沈黙が張りついてきた。
ジャスティンに直接話そう。誤解のままにしておけない。ハッフルパフの談話室は地下の厨房の近くだと聞いたことがある。ハリーは階段を降り、人気のない廊下を曲がり――
足が止まった。
廊下の中程の空中に、ほとんど首無しニックが浮かんでいた。浮かんでいるけどいつもと違う。真珠色の体が黒く煤けたようになり、首は例の半インチのところでずれ、顔は恐怖の形のまま煙のように動かない。
そしてその下の床に、ジャスティン・フィンチ=フレッチリーが倒れていた。目を見開いて、板のように硬直して。
距離を取る。遮蔽に入る。大人を呼ぶ。
三つとも体が勝手に動きかけた。九月から数え切れないほど繰り返した動きだ。膝が曲がり、重心が下がり、足の裏が廊下の後ろ側を探し――
止まった。
ここで走ったら、逃げたことになる。
第一発見者が現場から走り去る。その画が噂の上にどう乗るか。ハリーにははっきりと見えた。正しい手順を知っているのに、絶対に使えない。使ったら疑われる。教わった三つの動作が役に立たない状況がこの世にはあるらしい。
頭上でけたたましい高笑いが弾けた。ピーブズだった。逆さまに浮かんで、ハリーと二人を見比べ息を吸い込み、城中に響く声で絶叫した。
「襲撃だ! 襲撃だぁぁ! また襲撃だぞぉ! 生きてる者も幽霊も助からんぞぉ! 逃げろぉぉ!」
扉という扉が開き、廊下は瞬く間に人で溢れた。悲鳴、押し合い、誰かがジャスティンを踏みそうになり、ニックの煤けた姿に二度目の悲鳴が上がる。その混乱のど真ん中に、ハリーは一人で立っていた。前科二犯の、第一発見者として。
「ポッター!」
人垣を割って、マクゴナガル先生が来た。唇は消えていた。
「……校長室へ。一緒に来なさい。今すぐ」
連れられて歩くハリーの視界の端で、人垣がもう一度割れた。ヒノ先生だった。最後に来て、誰よりも先に現場との境界線で止まり、片膝をついて宙のニックを見上げ、床のジャスティンを見て手帳を抜く。いつもの手順が、いつもの速さで始まる。
すれ違うその一瞬だった。先生の声が周りには聞こえない低さでハリーの耳にだけ届いた。
「誰に何を訊かれても、見たままだけ話せ。盛るな、削るな。それで守れる」
先生はもう現場に向き直っていて、ハリーはマクゴナガル先生に連れられて、廊下を曲がった。
石のガーゴイルの前でマクゴナガル先生は立ち止まり、一つ咳払いをして、生真面目な発音で言った。
「……モナカ」
ガーゴイルが脇へ滑った。何の呪文だろう、とハリーはぼんやり思った。螺旋の階段が勝手に回りながら、二人を上へ運んでいった。