幽霊は、半分だけ石になった。
ほとんど首無しニックの検分結果を、日野は手帳にそう整理した。生者のジャスティン・フィンチ=フレッチリーは全身が完全に硬直。すでに死んでいるニックは真珠色の体が黒く煤け、宙に固定されている。その場を動かない幽霊など珍しくもないが、状態が固定された幽霊は珍しい。
どちらにしても死者は殺せない。だから殺す力が半端に通って、半端に固まった。つまりホシが持っているのは生死を貫通する類の力で、貫通の度合いは相手の「生きている度合い」に応じる。視線の減衰仮説は最悪の形で傍証を得た。
もう一つ確定したことがある。フィンチ=フレッチリーはニック越しに廊下の先を見た。ニックの半透明の体は偶然にも遮蔽として機能した。だからフィンチ=フレッチリーは死なずに石化で済んだ。検分の帰結として、そう読める。
半インチの皮で首が繋がっている幽霊が、五百年目に体を張って一人の生者を救ったのだ。本人は知らない。目覚めたら教えてやろうと日野は思った。首無し狩りの入団資格より、よほど誇っていい話である。
それにしても、と手帳を閉じながら思う。被疑者の側から見た捜査を二十年ぶりに思い出している。
現場に最初に着けば「都合よく居合わせた」と言われ、記録を取れば「工作の準備」と言われ、生徒を守れば「懐柔」と言われる。やることなすこと全部が疑いの燃料になる。なるほど、取調室の向こう側の椅子はこういう座り心地か。二十年座らせる側だった男にはいい研修だった。
研修で済めばの話だが。
吠えメールは三日目の朝食から来た。真っ赤な封筒が職員テーブルの日野の皿の前に舞い降り、開封と同時に大広間の天井を震わせた。
「東洋の蛇男を子供に近づけるなァァァ!!」
続けて二通目。
「蛇と和する者が教壇に立つなんて、うちの家系では考えられません! なんて罰当たりな!!」
続けて三通目は要領を得ない絶叫だったが、趣旨は同じだった。日野は普段なら口を通らないブラック・プディングを盛大に丸かじりし、紅茶で流し込んだ。
語彙まで同じなのだ。ケダモノ混じりの家を近づけるな。容妖の罰当たりな連中め。蛇筋の家が縁談のたびに言われてきた文句と、単語の並びまでほとんど同じだ。海を渡って一万キロ、地球の反対側で言語を替えて、それでも人が人を遠ざける時の文法は変わらない。いっそ感心する。している場合ではないのだが。
「失礼」
隣席のフリットウィックが小さな手を伸ばし、四通目の封筒に杖を当てた。封筒は開く前に萎んで灰になった。
「消音の応用でしてな。昔に決闘の審判をやっとった頃、観客の野次封じに使った技で」
「……助かります」
「なに。朝の紅茶は静かに飲むものです」
テーブルの反対側ではマクゴナガルが五通目を睨みつけ、封筒が自主的に大人しくなっていた。職員テーブルの連帯というものを、日野は着任四ヶ月目にして初めて温度として感じた。
生徒側の善意は別の問題を起こした。双子が『ヒノ先生応援団』なる腕章を量産し始めたのである。いつかの魔除けの首飾りを売っていたスペースに、また看板を立てていたのを見つけて発覚した。日野は製造中止を命じた。
「なんでですか先生! 俺たち先生の無実を――」
「気持ちだけ受け取っとく。いいか、疑われてる人間の応援団ってのはな、疑ってる側から見ると組織に見えるんだ。火に薪をくべるな。応援したいなら、普段通りにしてろ。何も変わらないのが一番いいんだ」
双子は不服そうに、しかし腕章を回収した。手編みのお手製で出来が良かったのがまた腹立たしかった。
召喚状と電文は、同じ日に届いた。
一通目、学校理事会。羊皮紙に流麗な書体で「臨時査問への出頭を求む」。署名筆頭はルシウス・マルフォイ。あの坊やの、と得心する。記名式の意見書は出さずに、査問を招集する側に回ったわけだ。家格のある家は個人の苦情を制度の顔で言う。万国共通である。
二通目、東京。官房名義の公文書、件名は「貴職の身辺に関する照会について(全十二項)」。
読んだ。官僚文書の作法で言えば、これは照会の顔をした進退伺いの催促である。肩を叩きに来ている。第三項「現地報道における貴職への言及の有無及び内容」。第七項「貴職の職務継続が日英関係に及ぼす影響についての貴職の所見」。
そして第五項。「貴職の家系に関する現地での風評の有無」。
日野は第五項をしばらく見ていた。家系に関する風評。書いた人間は、訊いていいことと悪いことの区別がつかないわけではない。知っていて、訊いている。
日野の家の筋を本省は当然把握している。把握した上で、英国でそれが露見していないかをこういう書式で訊いてくる。露見していれば切る口実になるからだ。
電文の末尾、事務連絡の発信者欄に小さく名前があった。官房気付・加藤均。
「……向こうの戦場は預けるしかないか」
英国の査問はこちらの管轄だが、霞が関の紙の戦争は手の届く場所にない。届かない戦場のことを考えても仕方がない。だから考えないことにした。三割ほど失敗して、羽根ペンがぼきりと折れた。
回答書は一晩で書いた。方針は最初から決めてある。全十二項、記録の引用のみで答える。感情を書かない。弁明を書かない。決意も抱負も書かない。台帳の通番、日誌の日付、巡回記録の時刻、面談記録の要旨。紙が訊いてきたことに、紙で答える。
疑いは記録で晴らすものだ。記録で晴れない疑いがあるとすれば、それは疑いの問題ではなく、記録の不足の問題である。二十年、そうやって書類を作ってきた。
ペンが止まったのは、一箇所だけだった。
第九項「貴職と当該生徒(H・ポッター)の関係について」。
関係。
保護対象。事件の被害者。担任学級の生徒。夜間作業の助手。どの語も正確で、どの語も少しずつ足りない気がする。役所の語彙は大抵のものを言い表せるようにできているが、時々、こういう穴がある。十分ほど迷って、結局一番短いのを選んだ。
「担任学級の生徒である」
それだけ書いて次の項へ進んだ。書けない何かが、抽斗の便箋の隣にまた一つ増えた。
夜半、戸を叩く音がした。スネイプだった。用件を言わず部屋にも入らず、廊下に立ったまま、小さな薬瓶を一つ突き出してきた。
「……これは?」
「吠えメールは耳の奥の細い骨に響く。放置すると偏頭痛になる。朝の職員テーブルで、貴殿が三度こめかみを押さえるのを見た」
見ている男である。日野は瓶を受け取った。琥珀色の液体が、灯りにとろりと揺れた。
「頂きます。……お代は」
「要らん。吾輩の調合の出来を疑う者が減れば、それでいい」
スネイプは踵を返し、二歩目で止まった。振り返らずに付け足した。
「明日の査問――吾輩も陪席する。校長の指名でな」
それだけ言って、黒いマントは廊下の闇に溶けた。
日野は薬瓶を灯りに透かした。敵の陪席なら楽なんだがな、と思った。あの男がどちら側の椅子に座るのか、四ヶ月観察してまだ読み切れていない。読み切れない男が明日、査問の席にいる。薬でかなり楽になった。それがまた読みを難しくした。
査問は職員室で開かれた。
長机の向こうに理事が六名。中央にルシウス・マルフォイ。銀の蛇の頭の杖を手袋の上に横たえ、慇懃という言葉に毒を練り込んだ微笑を浮かべている。息子と同じ色の髪、同じ形の顎、そして息子がまだ持っていない、本物の刃物の目。窓際に校長、その隣に副校長。壁際の椅子に陪席のスネイプ。
扉の外の廊下には傍聴と称して生徒がたかっているらしい。押し合う気配と、監督生の制止の声がする。
「では始めさせていただこう」
マルフォイの声は、絹の手触りをしていた。
「ミスター・ヒノ。……ああ、失礼。教授とお呼びすべきかな。何しろ握手一つで成立する教授職だそうだから」
「お好きな方で。呼称で職務内容は変わりませんので」
「結構。では単刀直入に。極東の刑事が、なぜ我が国の児童の教育に携わっておられるのかな。それも、よりによってこの非常時に」
「発令権者にお訊きください。辞令の写しなら今お出しできます」
「辞令、ね」
マルフォイは手袋の指を組んだ。
「書類の話がお好きなようだ。では書類にしにくい話をしよう。聞けば先日の教練で、蛇があなたに跪いたとか」
来た。日野は半瞬だけ間を取り、事実確認から入った。
「まず訂正を。蛇は跪いていません。伏せたんです」
「……ほう?」
「跪くのは膝のある生き物です。蛇に膝はない。証言を集めるなら、用語は正確に願います。不正確な用語で集めた証言は、法廷で崩れますので」
理事の一人が、咳払いで笑いを隠した。マルフォイの微笑は崩れなかった。ただ、練り込まれた毒の配合が、少し変わった。
「……では正確に伺おう。伏せた蛇、蛇語を話す生徒、そして石化していく子供たち。理事会は、保護者を代表して、あなたの九月以降の全行動の説明を求める権利がある」
「どうぞ」
日野は持参した綴りを机に置いた。三冊。自分の業務日誌と巡回記録の写し。危険箇所台帳の写し。そして、もう一冊。
「事件は三件。ハロウィンの猫。十一月のクリービー。先日のフィンチ=フレッチリーおよびニコラス卿。全件、当職の所在を記録で示します」
一件目。ハロウィン当夜。当職は祝宴の間、絶命日パーティへの供物と白菊と線香を提供しに厨房を訪ねた後、外周警備に従事。二十時前後の所在は競技場外周から温室裏。裏付けは当職の巡回記録と、屋敷しもべ妖精の証言。それとフーチ教授の目視である。窓から見えたそうだ。こんな日に外を歩く物好きがいる、と。
二件目。クリービー石化の夜。当職は二十一時にポッターを医務室に見舞い(マダム・ポンフリーの面会記録に記載)、二十一時半から北棟を巡回。裏付けは巡回記録と、それから。
「こちらの綴りです」
日野は三冊目を開いた。几帳面な、少し癖のある手書きの帳面の写し。
「管理人フィルチ氏の巡回記録。同氏は五十年来、独自に夜間巡回の記録を付けておられる。当職の記録とは別個に作成されたものです。二十一時五十分、北棟三階にて当職と行き会った旨の記載がある。時刻、場所とも、当職の記録と一致します」
日野一人の記録なら自作の疑いが挟める。五十年誰に命じられたのでもなく記録を付け続けてきた男の帳面が、独立に同じ時刻を刻んでいる。二本の記録の一致は一本の記録の百倍固い。
「三件目。フィンチ=フレッチリー襲撃の推定時刻、当職は職員会議に出席中でした。裏付けは――」
日野はマルフォイの手元へ視線を落とした。
「――理事殿のお手元の、その議事録です。理事会に提出済みの。三頁目に当職の発言が載っています。廊下の鏡の増設予算の件で」
マルフォイの手袋の指が、議事録の上で一度だけ止まった。
自分で招集の根拠に使った書類がそのまま被疑者のアリバイである。役所の紙というのは、こういう時のためにある。
「以上、三件。全件、所在の記録あり。以上です」
職員室は静かだった。理事の何人かが手元の写しと日野の顔を見比べている。ダンブルドアは窓際で、半月眼鏡の奥から何も言わずに見ている。
マルフォイは微笑を保ったまま矛先を変えた。
「……ご立派な紙だ。では紙にないものの話をしよう。――ポッターは?」
来た。本丸だ。日野は肩を落とした。耳と肩の距離は相手が必ず見ている場所だ。
「蛇語の少年。全事件の現場に都合よく現れる少年。あなたの紙はあの少年の潔白まで証明してくれるのかな? それとも、庇うのかな。九月から懇意にしておられる由だが」
日野は綴りの頁を繰った。当該の頁を開いて、机の上で理事側へ回した。
「ポッターの行動記録も当職が取っています」
「何?」
「ハロウィン当夜、同人は絶命日パーティーに出席。証人、幽霊約五百名。主催者を含む複数名から裏付け聴取済み。クリービーの夜、同人は医務室に入院中。マダム・ポンフリーの管理下で、消灯後の病棟からの外出記録なし。フィンチ=フレッチリーの件は第一発見者ですが、直前まで図書館におり、複数の生徒が現認しています。全件、記録あり」
「なぜあなたが、一生徒の行動記録を」
「脅迫文言が壁に掲示されて以降、本校の全生徒は当職の保護対象です」
日野は綴りを閉じた。
「保護対象の所在確認は警護の基本です。ポッターだけではありません。必要なら、貴殿のご子息の行動記録もお出しできますが」
マルフォイの目が、初めて微笑の裏から直接こちらを見た。
「……随分と、紙がお好きだ」
「ええ」
日野は頷いた。
「疑いは記録で晴らすものです。感情や、家柄や、声の大きさでは晴れない。晴らしたい疑いがおありなら、理事殿。記録をお持ちください。声ではなく」
長い、長い沈黙があった。
マルフォイは銀の杖の頭を、手袋の上でゆっくりと半回転させた。それから負けを認めない人間の最後の手癖が出た。声量を落とし、絹の下から地金を一寸だけ見せたのである。
「……記録、記録と。度し難いな。どこの国にもいるものだ――帳面にしがみつくしか能のない、血筋の卑しい小役人が」
音がした。日野の中でだけだ。古い箪笥の金具が外れるような、小さな音。
仏間の隅の祖父の位牌も、母の実家から縁を切られた日に玄関先で数えていた敷石の目地も、金のローブのその先に用意されていなかった席も、良美の月謝袋を笠子が二度数え直したときの紙の音も、元をたどれば全部が同じ一つの台詞から出ている。一度も言い返さずに束ねてきたその台詞が、一瞬だけ、束のまま燃えた。
日野は立ち上がらなかった。声も荒げなかった。ただ、次の一言だけ、敬語が消えた。
「今のは、記録に残すぞ」
素の声だった。取調室の最後の局面でしか使わない声だ。
一秒。
「……失礼」
日野は敬語に戻り、手元の綴りに実際に一行書いた。
「発言、記録しました。続けてください」
室内の温度は戻らなかった。理事の何人かが視線を机に落としている。マルフォイの手袋の指は杖の頭の上で止まったままだ。マクゴナガルの眼鏡が光り、壁際でスネイプがほんの僅かに顎を引いた。今の一秒の意味を正確に測った者が、この部屋に少なくとも二人はいるということだ。
そのスネイプが口を開いた。
「一点、専門家として補足しておこう」
壁際の椅子から立ちもせず、氷の声だけが部屋を渡った。
「件の教練の蛇は吾輩が消滅させた。つまり最初から最後まで吾輩の目の前にいた。そして断言するが、この男は蛇に何一つ命じていない。杖も抜かずにただ歩み寄っただけだ。蛇が勝手に伏せた」
「勝手に、ですと」
マルフォイの声に、絹が戻りきらない。
「蛇が、勝手に」
「そうとも。蛇に好かれる体質とでも言うほかない」
スネイプの唇の端が、ゆっくりと皮肉の角度に持ち上がった。
「時にルシウス。蛇に好かれることを罪に問うおつもりなら――まず貴家の客間の紋章から裁かれるがよろしかろう。あれは確か、由緒正しいスリザリンの蛇では?」
理事の一人が、今度は咳払いで隠し損ねた。
マルフォイはしばらく無言でスネイプを見ていた。それから、査問の書類を音を立てずに揃えた。絹が完全に戻っていた。戻さざるを得ない場面を逃すようでは、査問は開けない。
「……理事会は本日の聴取を終了する。継続審議とさせていただこう」
「継続、結構です」
日野は言った。
「次回までに記録を増やしておきます」
散会。理事たちが退出し、廊下の生徒たちが監督生に散らされる気配がして、職員室に西日が差した。ダンブルドアが窓際から初めて口を開いた。
「ミチヒロ。紅茶でもどうかね」
「遠慮しておきます。宿題の採点があるので」
「そうか」
老人は、半月眼鏡の奥で目を細めた。
「……お見事じゃった」
廊下でスネイプとすれ違った。互いに足を止めなかった。言うべきことは何もなく、言わないことが、たぶん今日の全部だった。ただすれ違いざま、日野は懐の薬瓶の重さを少しだけ意識した。
東京からの封書は四日後に来た。
厚みのある封筒だ。中身は三点。
一点目、当職の回答書の写しの、さらに写し。ただの写しではない。省内を回覧された跡がある。欄外に決裁印の列。日野は印影の並びを上から順に読んだ。役人は印鑑の並び順で、紙がどの部屋をどの順に旅したかを読める。官房総務の係長、課長補佐、そして課長の印の手前で一度、日付が三日飛んでいる。三日、誰かの机の上で止まったのだ。止めたのは保守本流の課長級。そして、その上の審議官の印で流れが覆っている。課長が止めた紙を審議官が通した。通させた者が、いる。
二点目、官房名義の素っ気ない一枚。「照会(全十二項)については、貴職回答をもって完結した」。完結。役所語で、この件はもう誰も触らないという意味である。
三点目が私信だった。癖のない、綺麗すぎて印刷めいた手書き。
『日野様
回答書、拝読しました。全十二項、引用のみ。見事な書式でした。あれで潰れる照会でしたので、潰れました。
隠さずに申し上げますが、召還論がありました。潰したのは私です。誤解のないよう申し添えますが、貴職が有能だから守ったのではありません。貴職の座っている席が、代わりの利かない席だからです。アルバス・ダンブルドアの城の内側に公的な身分で常駐する観測点を持つ国は、現在世界に一つしかありません。私はその席を作るのに三年かけました。ですので日野さん、どうか辞めないでください。辞められると、私の稟議が三年ぶんは紙屑になります。
追伸一。第九項のご回答を拝見しました。「担任学級の生徒である」。貴職にしては、珍しく情報量の少ないご回答でしたね。
追伸二。第五項(ご家系の件)は設問から削るよう具申しましたが、通りませんでした。力及ばず。ああいう設問を平気な顔で書ける者こそ、一度風評を照会されてみればよいのです。私の家など三代遡れば系図が二種類出てきますが、二種類ともたいへん立派なものですよ。
追伸三。着任前に申し上げた証明写真の件、費目ができました。経理と七ヶ月やりました。四百二十円、次回の在勤手当に乗ります。
加藤』
日野は私信を三度読んだ。
一度目は、値付けを読んだ。有能だから守ったのではない、席だから守った。率直で、打算を隠さない分だけ妙に信用できる。善意で守ると言う人間より、利害で守ると明言する人間の方が、次も守る確率の計算が立つ。役人の信用とはそういうものだ。
二度目は、追伸二を読んだ。系図が二種類。二種類とも立派。成り上がりの自嘲の形をした何かだ。ああいう設問を平気で書ける者への、練り込まれた一行。この男も家柄の毒の味を知っている側らしい。どちら側から知ったのかは書いていない。書いていないことは、読まない。覚えてはおく。
三度目は、追伸三を読んだ。四百二十円である。この男は自分と面識を作るより前に、四百二十円の費目を作るために動いていた。有能だから守ったのではないと書いて寄越した男が、同じ紙の隅でそれを書いている。二種類の顔のどちらが素なのかを、日野は判定しなかった。判定に要する材料がまだ足りない。
返信は書かなかった。代わりに月例報告の次号の封筒に宛名を書いた。官房気付・加藤均企画官殿。それが返信の代わりだと向こうは読むだろう。行間を読む側の役人なのだから。
査問の夜も夜回りには出た。
疑われた翌日も仕事の手順は変えない。変えないことが日野の側の回答である。ランタンに火を入れ、東棟から回る。火曜だからだ。
三階の角を曲がったところで、廊下の先に小さな人影が立っていた。廊下の角のカーブミラーの下で。消灯十分前ぎりぎりの時刻に。
「ポッター。門限、近いぞ」
「はい。あの、すぐ戻ります。査問、どうなったんですか」
「終わった。記録の勝ち」
「……よかった」
少年は本当にほっとした顔をした。それから、その顔のまま口を開きかけた。
「先生。あの、僕――」
日野は待った。ランタンを少し下げて、影が少年の顔にかからないようにして、待った。廊下の遠くで甲冑が一体、寝返りのような音を立てた。
言葉は出てこない。少年は口を閉じ目を伏せた。伏せた目が、言えなかったものの重さの分だけ下がった。
日野はいつもの調子で言った。
「言えるようになったらでいい。寮まで送る。歩きな」
並んで廊下を歩いた。会話はなかった。なくていい沈黙だ。曲がり角のカーブミラーが、大人と子供の像を丸く歪めて映しては、後ろへ流していった。
同じ容疑者だと生徒たちは言っているらしい。蛇語の少年と、蛇に伏せられる教師。廊下の噂は双子経由の品質保証つきで、今日も元気に流通している。
……悪くない、と日野は思った。
強がりが三割。残りの七割は計算である。疑われている人間の周りには疑っている人間が集まる。囁きも、視線も。一箇所に寄ったものは読みやすい。疑われている側には、疑われている側にしか張れない網がある。二十年、張る側だった網の裏側はかなり目が細かい。今それを内側から学んでいる最中だ。
授業料としては高い。払った分は、必ず取り返す。
太った婦人の肖像画の前で、少年は一度だけ振り返り、小さく頭を下げた。教えた覚えのない日本式の浅いお辞儀だった。
日野は片手を上げて応え、肖像画が閉じるのを見届けてから夜回りの続きに戻った。