大晦日の午後、日野は机に向かった。
役人の年末とは書類の年末である。月例報告は年内に書き上げ、年内に発送する。誰に命じられた締切でもないが、年をまたいだ報告書はどうにも据わりが悪い。据わりの悪い紙を書くくらいなら大晦日に硯を出す方がましだ。
茶を淹れ、朱肉の蓋を開け、第一号様式の複写紙を広げる。
窓の外は雪だった。城は静かで、廊下の甲冑たちも今日は歌わない。書き物にはいい日だ。
『定期報告(第一号様式) 十二月分
発:在ホグワーツ・日野
宛:官房気付・加藤企画官
一、勤務状況について。
概ね良好である。』
概ねと書いた。中身を思い返す。真っ赤な封筒が何通も朝食の皿の前で絶叫した。理事会に呼ばれ査問を受けた。生徒間で流通する当職関連の怪談は、双子の品質保証つきで通算十七本を数え、最新作の題は「先生と試験の五百年戦争」である。何の話だ。
以上を全部煮詰めて灰汁を取ると、「概ね良好」になる。役所文書は圧縮技術の芸術であって、この一語の裏の半年分を読める者だけが読めばよい。読める者に宛てて書いている。
『二、生徒との指導関係について。
良好に推移している。』
推移である。九月、生徒の一人は当職との模擬戦で四連敗した(前髪込み)。十月、双子の生徒は当職に敬礼をするようになった。十一月、敬礼は二礼一拍手に発展した。どこで神社の作法を仕入れてきたのか。十二月、有志が当職の応援団を結成しかけたので製造中止を命じた。腕章は手編みだった。
推移はしている。どこへ向かって推移しているのかは、書かない。
『三、教職員との連携について。
円滑である。』
ペンがそこで一度止まった。
変身術や呪文学、薬草学、飛行術の教授とは、低学年向け教案づくりのアドバイスをもらうし、そのまま茶飲み話もする。
選択科目の教授たちともたまに話すが、彼らは自身の研究で忙しそうだ。今のところあまり交流はない。
森番には、例の捜索に毎回付き合ってもらっている。小屋・校舎間の緊急時連絡方法の目処はまだ立っていない。夜間の巡回コースには入れている。
管理人とは城の環境整備で引き続き協力体制にある。先日、消えないインクが服にかかって難儀していたので、日本から笠子がよく落ちると言っていた洗剤を取り寄せて渡した。
魔法薬学の教授とは着任初日に管轄権で衝突し、ハロウィンの現場でもう一度衝突した。以後の関係を数え上げると、職員室で向けられる皮肉が十数回、薬瓶が一個、査問の席での援護射撃が一発である。差し引きの計算方法が分からないが――それでも円滑と書いた。書き直さない程度には、円滑なのだった。
『四、校長との意思疎通について。
引き続き、課題がある。』
これは役所文書で書ける最大限の悲鳴である。あの爺さんは全部知っている顔で全部言わない。五十年前のことも、前任者のことも、俺の月例報告のことも。知っていて囲わず、検閲せず、羊羹だのモナカだのを合言葉に採用して寄越す。たまに校長室に上がると、食っている和菓子を見せびらかしてくる。課題以外にどう書けというのか。
『五、構内の治安状況について。』
ここからは、筆致を変える。
『十月末以降、生徒二名・猫一匹の石化事案、幽霊一体の被害事案が発生し、いずれも未解決である。凶器は視線とする作業仮説を維持している。五十年前の類似事案(死者一名、記録抜取)との継続性を強く疑う。被疑者、不詳。』
幽霊一体と書いたところで、黒ずんだ状態で浮かんだままのニックを思い出した。手帳のどこかに、彼が回復したらやるべきことが書いてある。それを意識しながら書き進めた。
『対策として、廊下鏡二十一箇所の設置、夜間行動制限、課外教練を実施済み。十月末以降、追加の人的被害は鏡設置区画では発生していない。
なお、当職は本件の解決まで帰任を希望しない。』
最後の一行を書いてから、日野はしばらく末尾の文字を眺めた。
帰任を希望しない。
任期は「別途」の、辞令に楯突いて抵抗しきれず、喜んで来たわけでもない男が、自分から残ると紙に書いた。
理由は分かっている。引き継ぎ資料が書けないからだ。未解決事件の引き継ぎ書ほど書くのが難しい紙はこの世にない。前任者に証跡の一枚もなかったこの職場で、俺まで白紙で去るわけにはいかない。理由はそれで全部だ。眺め終えて、そのままにした。
『六、特記事項。
別紙のとおり(九枚)。』
別紙を綴じた。判を捺し、封をする。海燕便では遠すぎるので国際ふくろう便の速達扱いである。ふくろう便の料金について経理に問い合わせた結果、例によって費目がなかった。自腹だ。年の瀬に、英国の梟に歳暮を払っている。
入れ替わりに届いていた封書が机の隅にあった。十一月分への、加藤からの返信である。事務連絡の体裁で始まり、そのまま中身は文通の域に達しつつあった。役人同士の文通では、時候の挨拶の代わりに決裁状況を書き、恋文の代わりに行間を書く。
『日野様
十一月分、拝受しました。
一点目、事務連絡です。九月分および十月分の報告書に様式の誤りがありました。第一号様式は日付を元号で、記載は右詰めでお願いします。西暦での提出分は当方で書き直しております。十一月分も含め三通、私が書き直しました。次号よりよろしくお願いします。
もう一点、お伝えします。貴職の報告は、上に、良く読まれています。』
日野は一点目を読み、元旦から元号で書くことにして、忘れないうちに手帳の隅に書いた。四行で済んだ。もう左詰めで書いてしまった十二月分のことは無視した。
それから二点目を読んで、湯呑みを置いた。良く読まれている。この文字列は褒め言葉の形をした警報である。読まれている、なら分かる。良く読まれている、は違う。誰かが何かの目的で精読しているという意味だ。誰が。どの部屋の、どの派閥の、何の燃料として。
『三点目。貴職の視線仮説について、当方でも旧い文献を当たらせています。国内の伝承には、見合った者を害する類の記録が思いのほか多い。面白がっている者が、私の他にもいます。』
面白がっている者が他にもいる。組織の言葉である。個人の好奇心なら「私も面白い」と書く。他にもいると書くのは、机が複数並んでいるという意味だ。俺の月例報告が、東京のどこかの部屋で複数の机の上に写しで載っている。
『四点目。五十年前の記録復元の件、進捗を楽しみにしています。
ときに、抜かれた紙を戻す仕事というのは、本邦にも似たものがあります。私はああいう仕事こそ役所の本業だと思っている少数派です。少数派ですので、この一文はどうか読み流してください。
加藤』
日野は、四点目を二度読んだ。
本邦にも似た仕事がある。抜かれた紙。役所勤めが長いと、この手の一文の重さは量らなくても手が覚えている。日本の書庫のどこかにも、抜かれたまま戻っていない紙があるということだ。それが何の紙かは書いていない。その上、読み流せと書いてある。読み流せと書いて寄越す一文を読み流す役人はいない。それを知っていて書いている。
日野は封書を仕舞い、手帳の加藤の頁に短く足した。
本業の件とだけ書いた。書いた以上のことは要らない。東京の紙の上で、俺の報告が何かの火にくべられ始めている。くべられるのは構わない。報告とはそういうものだ。何の火なのかは来年帰ってから確かめる。
帰ってから。
自分で書いた「帰任を希望しない」と少しだけ矛盾する気がしたが、役人は矛盾した書類を二枚同時に持てる生き物である。
大晦日の夕食は、残留組だけの一つにまとめた長机だった。
ダンブルドアの挨拶は珍しく短く(「良い年を。以上じゃ」)、マクゴナガルは早々に赤ワインで頬を染め、双子は食後、日野の席まで羊皮紙を持ってきた。
「先生。申請があります」
年越し花火の実施申請書だった。目的、実施場所(湖畔・建物から離隔九十米)、火器の管理者、観客の整理計画、風速による中止基準、消火用の水汲み当番表。
日野は三度読んだ。完璧だった。腹立たしいことに。九月のインク瓶の頃から数えて、こいつらの書式は着実に上達している。上達させたのはたぶん俺だ。
「……条件付きで許可してやるよ」
双子の目が、クラッカーより先に破裂した。
「「通った!?」」
「様式が正しかったからな。様式が正しければ、通ることもある。ただし打ち上げ担当は俺の指定位置から。観客は雪の上、風下に立たせない。中止基準は書面通り厳守。一発でも規格外を混ぜたら、来年度の申請は全部却下」
「「了解であります!」」
二礼一拍手をして、双子は駆けていった。様式が正しければ通ることもある。あの二人が今の一文を今後の人生でどう運用するのか、考えると少し空恐ろしかったが、まあ悪い学習ではない。
花火は日付の変わる十五分前に上がった。雪の湖畔で十数発。火の色が雪原に映り、残留組の少ない歓声が澄んだ空気によく通った。城の窓のいくつかに灯りと人影が並んだ。規格外は一発もなかった。双子は約束を守る側の悪童である。守らせ方さえ間違えなければ。
宿舎に戻ると、机の脇に開けた小包があった。数日前に届いた歳暮である。差出人、日野笠子。
中身は餅(真空の呪符で包んである。婆さん直伝の保存の符だ)、田作り、出汁昆布の補充、使い込んだ湯呑みの予備、そして――厚紙に挟まれた一枚の紙。
娘の、私塾の成績表の写しだった。添えられた便箋には笠子の丸い字で一行。
『同封しておきます。本人は送るなと言いましたが』
日野はまず湯を沸かした。餅を焼き、味噌を溶き、昆布と田作りで出汁の真似事をして、雑煮を作る。
真空符の膨れた餅が網の上で焦げる匂いと、味噌の匂いと、石の壁が一年じゅう放っている冷たい匂いとが英国の城の一室で妙な具合に混ざり合って、その混ざったものの向こうで、城のどこかの鐘が短く鳴って新年が来た。
英国の鐘は数を打たない。
打たないと分かっていて、それでも勝手に百八つ数え始めるのが三十八年もののこの耳である。
雑煮を啜りながら、成績表の写しを灯りの下に広げた。数字の列。科目、席次、講評欄。
父親というのは娘のことは分からなくても、成績表の読み方だけは知っている。防衛術系の実技、上位で安定。これは元からだ。呪文理論、二段階上昇。夏からの伸びだ、何か掴んだな。古典、横這い。苦手のまま放置してる、こいつは俺に似た。総合席次は金圏の境界の一つ外。ローブは深緑のまま。ただし講評欄に「次回進級判定にて変色候補」の一行。
あと、一歩。
数字の向こうに机に向かう娘の一年を復元する。夏の伸びは夏期講習を変えたか、火がついたか。古典の放置は、切り捨てる科目を自分で決めたということだ。戦略的だ。母親に似た。
「本人は送るなと言いましたが」。娘と母の台所での攻防を想像して、日野は一人で少し笑った。負けたのは娘だ。あの母親に勝てる者は日野家にはいない。ひょっとしたら日本のどこにも。
それから便箋を出した。まず笠子宛である。こちらは書ける。礼から始めて、筆はよく走った。
『前略
小包、確かに受け取った。餅の符は今年もよく効いている。田作りは正月三日分と思うが、大晦日までに半分食ってしまった。英国で米といえば甘く煮てあるから、餅は美味かった。ありがとう。
こちらは変わりない。特に心配されるようなことは無かった。
近況を少し。
統一試験対策でノイローゼになっている生徒の逃亡騒ぎがあった。書き置きがかなり悲観的だったから、手の空いた教師たちで森の中や校内を探し回った。結局、ホグズミード村で呑気に菓子を食ってたが。心底安心した。
教え子の双子が花火の実施申請を出してきた。書式が完璧だったので許可した。例の、九月にインク瓶を頭上に仕掛けてきた連中。人間、四ヶ月でここまで書式が上達する。末恐ろしい。
四連敗の生徒の話は前に書いたと思うが、左曲がりの癖のある杖にかなり開眼してきた。授業の度に借りては上達している。狙いの右を撃つという発想は教えたが、もう少し時間がかかると思っていた。人の可能性は大きい。教えられた。
宿題が初めてできたらしい生徒は、やはりなかなか筋が良い。思考のクセは自覚しているようだ。クセを自分の基準で判斷できるようになれば、きっと伸びてくる。
まだ生徒に迷いフクロウの探索と保護を頼まれる。かなり勘所は掴んできたと思う。年寄りフクロウに手紙を送らせるのはやめろと何度も言っているが、家庭の事情を言われると仕方ない。英国で財布の紐が緩む基準はまだよく分からない。
優等生が規則を破って猫の毛を生やした。規則破りの質が高すぎて、叱り方に迷っている。叱る前に治る見込みなので、迷ったまま年を越すことにする。
それと一人、顔色の悪い一年生がいる。良美と同い年だ。』
そこまで書いて、ペンが止まった。
最後の一行を消そうかどうか、迷った。物証ゼロ、申告なし、優先度・中の、調書に書けば失笑される所感一つの話である。妻に書くことか。心配させるだけではないか。
消さずに続きを書いた。
『何もないといいが。何かある前に気づくのが仕事なので、気づくつもりでいる。
体に気をつけて。良美に無理をさせるなよ。お前も。
草々』
読み返して、日野は自分の書いたものに少し驚いた。愚痴を書いたつもりだ。半年分の疲れた勤め人の愚痴を。読み返すとまったく違うものだった。ノイローゼからの逃亡騒ぎ、双子の書式、四連敗の開眼、思考のクセ、フクロウ探し、猫の毛。愚痴の顔をした生徒への所感が並んでいる。自慢げですらある。
書き直さなかった。書き直したところで笠子は読み抜く。愚痴の皮を剥いて中身の色を見て、何も言わずに仕舞う。日野はそういう相手と暮らしてきた。言い訳の要らない相手に言い訳を書くのは紙の無駄で、うちはそういうところの倹約で成り立っている家である。
便箋をもう一枚出した。
『良美へ』
三文字書いた。三文字の先が、今夜も出てこない。
成績表は読めた。数字から一年を復元できた。伸びた科目に感心して、捨てた科目に俺を、捨て方に妻を見た。そして講評欄の一行に、たぶん本人より先に胸を張っている。それだけ読めて――三文字の先が書けない。母親宛には二枚すらすら書けた筆が、娘宛の四文字目を知らない。
数字は読めるのに娘が読めない。
取調べなら、とつい癖で考えかけてやめた。娘は被疑者ではない。落とす技術の七つの型は、この三文字の先には一つも使えない。
しまいかけて手が止まった。今夜だけ、と思った。今夜は年に一度の夜だ。手紙が書けないなら、手紙未満のものならどうだ。役所には公文書未満の文書という便利な階級がある。付箋であったり、メモであったり、時には回覧の隅の一言として走り書きされている。あれは手紙ではない。手紙ではないから、書ける。
日野は「良美へ」の下に、一行だけ書き足した。
『あけましておめでとう。父より』
こんなものは手紙ではない。少なくとも白紙でないだけに過ぎない。
便箋を封筒に入れ、封をせずに机の端に置いた。出すのか、出さないのか。封をしていない封筒、すなわち起案中の紙の扱いは、起案者の裁量である。当分保留とする。
机の端に封筒が二通並んだ。厚いのと薄いの。封のあるのとないの。
窓の外は年の明けた雪だった。花火の焦げ跡が湖畔に黒く点々と残り、その上にもう新しい雪が積もり始めている。
日野は業務日誌を開き、十二月の総括欄に一行書いた。
特記事項多数。ただし、悪い年ではなかった。
書いてから、これは日誌ではなく私見だと気づいた。日誌に私見は書かない。二十年の決まりである。
消さずに判を捺した。朱の印影が、私見の隣でいつも通りに乾いていった。